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2011/05/23

被災地へ行ってきた-その3-完結編

5月19日。
20日に発売されたビッグコミックオリジナルを読んでたら
吉田戦車が帰省ついでに被災地を見に行くにあたって
「でもやっぱりうしろめたいな、ボランティでもない人間が……」
「自分の目で被害を見ることに、意味はあると思いますよ」
なんて会話あり。
ああ、わたしもそんなうしろめたさがあり
現地で会った人と同じようなやりとりしたのを思い出した。
彼はひっくり帰った軽自動車がモニュメントと化している海辺で
カップラーメンを食べながら「たくさん見ていってください」といってくれた。


被災地全体を撮影した写真や映像に写るのは敷き詰められた瓦礫の絨毯であり、
壊滅した街の残骸にすぎないんだけど
近寄ってひとつひとつの家を見ると、
瓦礫の海は個々の家々の名残であり、
そこには確かに生活があったのだと実感できるわけで。
津波でやられたと思われるスーパー
旧家は作りがしっかりしてるけど1階はこんなことに
1階が潰れた家。窓のカーテンが風で揺れていた。
解体可と赤で大きく
誰が置いたのか、夫婦な人形
曲がりなりにも原型をとどめている家には、解体するか現状保存するかの意思表示がなされている
その紙を見て解体するかどうかを決めているのだ。

家(もしくはその残骸)にさらに近づくと、
ひとりひとりの生活の名残が見えてくる。
瓦礫を片付けたボランティアの手によるものだろう、
家人が大事にしていたと思われる品がところどころ、
多くの家は家人が片付けに戻っているようだが、
そうじゃない家もまたあるわけで、
カメラ、ビデオテープ、アルバム、そんなものが、
家人がきたらすぐわかるよう置かれているのだ。
PENTAX MEと腕時計
ビデオテープ 
懐かしい、80年代のラジカセ
木片、ペットボトル、缶、ストーブ、ピアノ、オモチャ、絵本、パソコン、自転車、食器、棚、あらゆるものが瓦礫の一部とかしているが、どうしても目に付いてしまうのが時計。壊れた時計は震災を象徴してしまうのである。

街や港を歩き回り、腕時計を見ると14時すぎ。
iPhoneを取り出し、Evernoteに貼り付けておいた、久ノ浜駅の時刻表を見ると、1時間に1本レベルの発車時刻まで30分を切っていた。まだ日は高いけれども、昼飯を食ってないので腹も減ったし、前日ほとんど寝てないので疲れてきた。
歪んだカーブミラー
クルマだったもの
本殿だけが残った秋義神社
5日前に復旧したばかりの久ノ浜駅に到着し、いわきまでの切符を買い、三両編成の常磐線に乗る。

いわき駅ビルで適当な昼飯を食う。
次のスーパーひたちまで1時間以上間が空いてたので、各駅停車で勝田まで行き、フレッシュひたちに乗り換えて東京へと戻る。
いわきでこれなのだから、仙台や石巻や気仙沼はもっとひどかったろう、
いわきと宮城に挟まれた原発30km圏内(久ノ浜からひと駅北へ行くと30km圏内なのだ)はいわずもがなである。

リンク:
被災地へ行ってきた-その2-
被災地へ行ってきた-その1-


クリックすると地図付アルバムへ飛びます

2011/05/21

被災地へ行ってきた-その2-

5月19日。
久ノ浜駅からしばし歩くと海に出る。あっという間に海である。
久ノ浜から北を見ると、右手に大きく飛び出た岬がある。これが殿上崎。
背中に壊滅した街を感じてなければ、極めて明媚な光景だ。
背中はこんなである。南を見る。
堤防の左が海、右が街。
堤防も一部損壊。
堤防の海側はどうか。河口の北側から撮ってみた。
大きな津波が来たのだからひとたまりもなかったろう。
殿上崎の向こうに港がある。
港に向かう。
港にたどり着く。
漁港である。
沈んだままの船もあるが、復興ははじまっているようだ。
遠くに白い煙突が何本か見える。かすかに見える。
かすかなのはガスってるからで、空気が澄んでいればもっとくっきりと見えるだろう。
たぶん東京電力火力発電所の煙突である。



上記の写真はジオタグ付でPicasa Web アルバムにアップしてあるので、
興味のある方は地図からどうぞ。↓の地図をクリックするとアルバムへ飛びます

2011/05/20

被災地へ行ってきた-その1

5月19日。
朝8時の「スーパーひたち」で上野からいわきへ
茨城県に入って半分ほどすすむと、
地震によるものと思われる損害がちらほらとみえはじめる。
いわき駅で常磐線各駅停車に乗り換えて久ノ浜駅。
駅前でiPhoneアプリの「原発ナビ」。福島第1原発から31kmちょっとの地点である。
駅には修復の跡が散見されるも駅前の通りは比較的平和にみえる。
だが信号の向こう、海の方をよく見ると明らかに様子が違う。
晴天下に似合わない惨状がただよう。
海に向かって歩く。駅前から道路を2本越えると一変する。
瓦礫の山である。現在、重機を使って瓦礫を片付けている最中で道路脇に無造作に積み上げられている。
解体希望の家は解体し、現存希望の家はそのまま残すという作業の途中だ。
海までたどり着き、振り返ってスイングパノラマする。
こんなである。
作業している方やボランティアや地元の方の邪魔にならないよう、
津波に破壊された街を見て歩く。
上のパノラマとほぼ同じ位置で撮影したのが下の写真

国道6号から1本東に入った、街のメインストリートっぽかった通り
幼稚園は1Fだけが骨組みに。後ろに見えるのは海
見ての通りなので特に付け加えることはなし。その夥しさは見てもらえればわかるかと思う。
天災は街を一瞬で破壊するが、復興するには
破壊の跡を片付け、瓦礫を処分し、更地にしてやっと「ゼロ」になる。
そこからが出発だ。
福島県南部でこれである。
海岸線沿いに、福島県・宮城県とこの風景が200km以上続いていると思うと気が遠くなる。
ニュース映像は個々の地点しか映さないが、そんな光景が海岸線沿いにつながっているのだ。

上記の写真はジオタグ付でPicasa Web アルバムにアップしてあるので、
興味のある方は地図からどうぞ。↓の地図をクリックするとアルバムへ飛びます



2011/05/19

JR常磐線で行けるところまで行ってきた

JR常磐線の「常」は「常陸」(ひたち)。常陸国は今の茨城県あたり。
JR常磐線の「磐」は「磐城」(いわき)。磐城国は今の浜通りを中心に明治元年に陸奥国から別れてできたそうで、まあ、あっという間に廃藩置県されたから、短命だったけど、「いわき市」となって名が残ってる。
というわけで、常磐線は、茨城から福島県浜通りを結ぶ路線なのだ。
国鉄時代の路線名は古い地名を包含していて面白い。「両毛線」も「総武線」も。
ちなみに両毛は上野国(元は上毛野国)と下野国(元は下毛野国)の、両方の毛野国を結ぶから。
総武線はいうまでもなく、下総と武蔵を結ぶからですな。

話が逸れた。
常磐線は上野から北千住→柏と抜け、茨城にはいって水戸、福島にはいっていわき、さらに北上して仙台へと伸びる。
東北本線や新幹線は中通り、対して常磐線は浜通りを抜けるのが大きな違いだ。
つまり海側。今回の大震災でもっとも被害の大きかった地域であり、
福島第1原発・第2原発の傍らを通っていたのである。
よって復旧も遅れ、5月14日にやっと「いわき」駅から3つ先の「久ノ浜」まで行けるようになった。
それより北は、原発の30km圏に入るので、復旧の目処はたってない。
「久ノ浜駅」が、福島第1原発から32km弱とギリギリの線である。

そこへ日帰りで行ってきた。
思い立ったのは14日、常磐線が「久ノ浜」まで復旧というニュース。
でも16,17日と発表会があり、18日は歯医者の予約が入ってたので今日になったのである。

なぜ思い立ったか。
話は簡単。様々なTweetを目にしたり被災地へいった友人の話を聞くにつれ
これは写真や映像ではダメ、自分の眼で見て肌で感じねば話にならぬと信じ込んだから。

震災から2ヶ月ちょっと。いわき市の状況はなかなかメディアに出てこないので
現況はわからなかったが、そういうときは行ってみるべし。
その顛末は次のエントリーで。


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