「まいまい東京」で訪れた赤坂の「日枝神社」(山王日枝神社。山王さま)だが、
以前からずーっと気になってるとこがあったのである。
で、調べてみたのでここにメモ。
明暦の大火後、松平忠房邸(深溝松平家。神社がここにきたころは、福知山藩藩主)があったこの地に遷座した。
今は赤坂駅からちょっと東へあるいて外堀通りを渡り、2000年に完成した巨大鳥居をくぐってエスカレーターに乗ればすぐだ。
これは「まいまい東京」の当日に配布したお散歩の友となる配布資料の一部。
こういうのがお好きな方、ぜひ、ご参加を。
で、右にあるのが
寛文10年(1670年)の地図。遷座した11年後だ。
その、
日枝神社、中央に回廊に囲まれた社殿があり、
その北側に山王稲荷などの摂社がある。
山王稲荷はもともとここに屋敷を持っていた松平家の屋敷神だったようだ。
気になるのはそのさらにその北側、
フェンスがあって立ち入れない空間に謎の土塁っぽい塁とトンネルと祠があるのだ。
「これ謎です」ですませるのも悔しいので
FBで尋ねてみた。
これが土塁っぽい盛りとトンネル。
これがトンネルの右手にある祠。
山王日枝神社は昔「星が岡」と呼ばれていて、
中世に「星が岡城」があり、その名残の土塁だという伝承があるようだが、
調べても、星が岡城があったという古い資料が出てこない。
個人的には昔誰かが地形的にそうなんじゃないかといいだしただけで、
何の根拠もないんじゃないかなと思ってる。
まあ、砦をつくるにはよい場所だし、渋谷から江戸城を攻めるときに
一ツ木原(赤坂の一ツ木通りに名前が残る。四ッ谷から赤坂あたりの地名だったもよう)の合戦もあったわけで、
渋谷城から赤坂御所あたりを抜けて麹町へ至る古道を思うと
可能性はないことはないだろうけど。
ちょっとひっかかるので、城には触れないことにしてる。
それ以上に興味深かったのが古墳だった説。
東京を見てまわってたくさんの古墳を発見した鳥居龍蔵博士がこのあたりを巡検して古墳だといったそうで。
確かに、明治から戦前の地図を見ると、ちょうどこの位置に「2つの塚」が描かれてるのだ。
それが削られて一部だけが土塁のように残ったというのが正しいかも。
追記
鳥居龍造博士の記述を国立国会図書館デジタルコレクションで発見。
トンネルが穿ち、とあるので同じものをさしてるはずである。
「上代の東京と其周囲」
2019/05/25
2018/12/31
尾張戸神社と志段味古墳群の大晦日
年末年始は恒例の帰省で名古屋へ。厳密にいうと実家は尾張旭市なんだけど、その辺はまあいいや。
昼ごろついて、ちょいと行きたいところがあったので車を出してもらう。
最近注目の(かどうかはしらんけど)、
志段味古墳群。
志段味って名古屋市の外れの外れで、なんもないとこってイメージだったのだけど、
あにはからんや、70基の古墳があり、
そこが最近「歴史の里」として整備され、
「しだみこ」ちゃんというキャラまで作られてるというのだ。
しかも、隣の東谷山には
尾張戸神社という延喜式式内社(平安時代の延喜式って文献に各地の官が認めた神社がずらっと書かれていて、延喜式神名帳と呼ばれてるのだけど、そこに掲載されているのが式内社、つまり平安時代にはすでに著名だった神社と思っていい)も鎮座してる。
なおかつ、うちの実家は尾張旭市なので、車だと近いのである。
これは行かねばってことである。
位置関係はこんな感じ。
名古屋南東のはずれである。
最初に訪れたのが尾張戸(おわりべ)神社。
戸を「へ」と読むのは、八戸なんかと同じだ。
もともと「東谷大明神」といっていたのを、徳川義直(尾張藩初代藩主)のとき
延喜式の「尾張戸神社」にあてたそうな。
祭神の天火明命は尾張氏の祖神といわれてる。
この尾張戸神社があるのが、東谷山の山頂で、そこに4世紀前半の円墳(古墳としてはかなり速い時期)があり、円墳の墳頂に本殿が作られているのだ。
ちなみに、うちの母親によると「昔は本殿まで入れて、石室の中も観ることができた」そうな。いつのはなしだかわからないけど、見たことがあるらしい。
つまり、
山頂の上にさらに持った円墳のその上に社殿が作られたというのである。
古墳好きにも神社好きにも古代好きにもたまらん場所なのだ。
ついでにいえば、境界好きにもお勧めで、
この山頂、名古屋市守山区と瀬戸市の境界になってて、
守山区からも瀬戸市からも参道が延びている。
で、拝殿の扁額は「陶製」。
瀬戸市の陶工が奉納したのですな。瀬戸らしい。
古墳時代からここは聖なる場所だったのだろうなあ。いつ神様が祀られたのかはわからないけれどもかなりの古社なのは確か。
北に庄内川、東に東谷山、南に丘陵地があり
古墳時代から大きな集落があったんだろう。
そして一番高い東谷山の山頂に山の神様を戴いたと考えれば納得できる。
山を降りて白鳥塚古墳へ向かう。
いよいよ志段味へ入るわけだが、
いやあ、びつくり。
まるで、宅地開発をはじめたばかりの高度成長期の街みたいで
道路は真新しく、ロードサイドに店が点在する他は、ちょこちょこと民家があるだけでだだっぴろく、この時代に開発途中の街を見させられるのかと。
その中に、昨日今日つくったばかりっぽい古墳を示す囲いが。
なんと平成26年に国の史跡として古墳7基が指定され、
今年、歴史の里として整備されたそうで、ほんとに作ったばかりの史跡公園なのだ。
白鳥塚古墳は4世紀前半の前方後円墳。
畿内の前方後円墳との共通点も多く、朝廷との関係が深かった人物の墓だろうという話。
愛知県で一番古い前方後円墳だそうな。しかも115mとけっこうデカい。
もちろん墳頂に上る。この写真の左手に「前方部」が残っている。
次の写真は反対側から、右が前方部、左が後円部。
つい最近までこの規模の前方後円墳がそのまま放置されるような場所だったのだ。
昔は雑木林の中にこんもりしてただけだったそうな。
こちらは平地、というか、台地の縁のちょっと高いとこ、下の地図によると、庄内川が作った中位段丘の上にある。
次に訪れたのは勝手塚。白鳥塚から西へちょっといったとこ。
ここも前方後円墳、というより帆立貝型。
墳頂に祠が置かれ、戦国時代に神社として祀られたせいできれいな形で残ったもよう。
こちらは古墳時代後半の5世紀末から6世紀初頭に作られたそうな。
回ったのはこの3墳だけだけど、
名古屋市の外れの外れで、名古屋市守山区に住んでいた頃はほんとに何もない林と畑ばかりのとこってイメージだったので古代にはでっかい集落があった、ってのが新鮮で面白かったのである。
そして、歴史の里グッズを置いているというORI COFFEEでなぞのしだみこスイーツを食べたのであった。
単なる名古屋の外れのさらに外れって場所が
いきなり古墳群推しになって妙なかんじではあるけど、
その妙な感じも含めて楽しむのがよさげ。
昼ごろついて、ちょいと行きたいところがあったので車を出してもらう。
最近注目の(かどうかはしらんけど)、
志段味古墳群。
志段味って名古屋市の外れの外れで、なんもないとこってイメージだったのだけど、
あにはからんや、70基の古墳があり、
そこが最近「歴史の里」として整備され、
「しだみこ」ちゃんというキャラまで作られてるというのだ。
しかも、隣の東谷山には
尾張戸神社という延喜式式内社(平安時代の延喜式って文献に各地の官が認めた神社がずらっと書かれていて、延喜式神名帳と呼ばれてるのだけど、そこに掲載されているのが式内社、つまり平安時代にはすでに著名だった神社と思っていい)も鎮座してる。
なおかつ、うちの実家は尾張旭市なので、車だと近いのである。
これは行かねばってことである。
位置関係はこんな感じ。
名古屋南東のはずれである。
・尾張戸神社と尾張戸神社古墳
最初に訪れたのが尾張戸(おわりべ)神社。
戸を「へ」と読むのは、八戸なんかと同じだ。
もともと「東谷大明神」といっていたのを、徳川義直(尾張藩初代藩主)のとき
延喜式の「尾張戸神社」にあてたそうな。
祭神の天火明命は尾張氏の祖神といわれてる。
この尾張戸神社があるのが、東谷山の山頂で、そこに4世紀前半の円墳(古墳としてはかなり速い時期)があり、円墳の墳頂に本殿が作られているのだ。
ちなみに、うちの母親によると「昔は本殿まで入れて、石室の中も観ることができた」そうな。いつのはなしだかわからないけど、見たことがあるらしい。
つまり、
山頂の上にさらに持った円墳のその上に社殿が作られたというのである。
墳頂にちらりとみえるのが本殿を守る塀。この中に本殿がある。 |
古墳好きにも神社好きにも古代好きにもたまらん場所なのだ。
ついでにいえば、境界好きにもお勧めで、
この山頂、名古屋市守山区と瀬戸市の境界になってて、
守山区からも瀬戸市からも参道が延びている。
で、拝殿の扁額は「陶製」。
瀬戸市の陶工が奉納したのですな。瀬戸らしい。
古墳時代からここは聖なる場所だったのだろうなあ。いつ神様が祀られたのかはわからないけれどもかなりの古社なのは確か。
北に庄内川、東に東谷山、南に丘陵地があり
古墳時代から大きな集落があったんだろう。
そして一番高い東谷山の山頂に山の神様を戴いたと考えれば納得できる。
・白鳥塚古墳
山を降りて白鳥塚古墳へ向かう。
いよいよ志段味へ入るわけだが、
いやあ、びつくり。
まるで、宅地開発をはじめたばかりの高度成長期の街みたいで
道路は真新しく、ロードサイドに店が点在する他は、ちょこちょこと民家があるだけでだだっぴろく、この時代に開発途中の街を見させられるのかと。
その中に、昨日今日つくったばかりっぽい古墳を示す囲いが。
なんと平成26年に国の史跡として古墳7基が指定され、
今年、歴史の里として整備されたそうで、ほんとに作ったばかりの史跡公園なのだ。
白鳥塚古墳は4世紀前半の前方後円墳。
畿内の前方後円墳との共通点も多く、朝廷との関係が深かった人物の墓だろうという話。
愛知県で一番古い前方後円墳だそうな。しかも115mとけっこうデカい。
もちろん墳頂に上る。この写真の左手に「前方部」が残っている。
次の写真は反対側から、右が前方部、左が後円部。
つい最近までこの規模の前方後円墳がそのまま放置されるような場所だったのだ。
昔は雑木林の中にこんもりしてただけだったそうな。
こちらは平地、というか、台地の縁のちょっと高いとこ、下の地図によると、庄内川が作った中位段丘の上にある。
・勝手塚古墳
次に訪れたのは勝手塚。白鳥塚から西へちょっといったとこ。
ここも前方後円墳、というより帆立貝型。
墳頂に祠が置かれ、戦国時代に神社として祀られたせいできれいな形で残ったもよう。
こちらは古墳時代後半の5世紀末から6世紀初頭に作られたそうな。
回ったのはこの3墳だけだけど、
名古屋市の外れの外れで、名古屋市守山区に住んでいた頃はほんとに何もない林と畑ばかりのとこってイメージだったので古代にはでっかい集落があった、ってのが新鮮で面白かったのである。
そして、歴史の里グッズを置いているというORI COFFEEでなぞのしだみこスイーツを食べたのであった。
単なる名古屋の外れのさらに外れって場所が
いきなり古墳群推しになって妙なかんじではあるけど、
その妙な感じも含めて楽しむのがよさげ。
2018/09/28
新潮講座「東京古道散歩」の下見で立石から柴又へ
なんか晴れ間が眩しいぞ。
ここんとこずっと曇ったり雨降ったりだったので
たまに晴れると緊張する。
なんて言ってないで
今朝届いたレビュー用のX-T3を持って
10月6日の東京古道散歩の下見。
行き先は京成線の立石。東京低地の葛飾区。
立石は平安時代の古代東海道が通っていたとこ。
その前の古代官道は柴又のあたりで江戸川(当時は太日河)を渡ってたんじゃないかといわれてる。
立石駅から古代東海道(今は奥戸街道?)に出て東へ向かうと中川に当たる。
道標から川沿いに少し歩くと「帝釈天王」と大きく描かれた石標がある。
これ、柴又帝釈天へ向かうための道標。
実は立石と柴又を結ぶ古代の道だ。
可能な限りその道に沿って柴又へ向かおうというのが今回の趣旨。
調べてみると、古代は知らんけど(中川の流路も変わってるし)
江戸時代の道ならかなり辿れる。
まず立石さまに立ち寄り
その後道なりに北上。
途中、神社に立ち寄ったりしつつ、
旧淡野洲村、旧中原村、旧青戸村、
中川を愛でて、
橋を渡り、
こんなとこに寄り道し、
今は高砂村だけど、元は曲金村だった古道を明治初期の地図をチェックしながら歩く。
意外に当時の道筋が残っていて面白い。
ゴールは柴又。柴又八幡神社裏に作られた「島俣塚」は必見。
奈良の正倉院に西暦721年に作られた「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」が残っている。
大嶋郷に「嶋俣里」「仲村里」「甲和里」の3つの里(まあ今でいう「村」というか「字」? みたいな奈良時代に一時期使われた集落の小さな単位)があったことがわかっている。
嶋俣は今の「柴又」でほぼ確定。甲和は今の「小岩」じゃないかと言われている。
となると、仲村は柴又と小岩に挟まれた場所で(だから仲村)
立石や奥戸あたりだろう、と推測。って考えると、立石と柴又をつなぐ道は奈良時代まで遡れる(かもしれない)のだ。いやあ面白い。
しかも、平安時代の更級日記を書いた、藤原孝標の娘は下総國から京都へ戻る時
「松戸」の渡しで江戸川(太日川)を→隅田の渡しで隅田川を渡って
浅草から京へ向かったと思われるわけで、
となると、この柴又と立石を結ぶ道を歩いたかもしれない。
まあ歩いたってことにしよう。
と、そこまで妄想で遡れるめちゃ古くからの道筋を歩いて
柴又へたどり着くと、目の前には「めちゃ昭和」な光景が繰り広げられるのである。
寅さんだから。
柴又帝釈天ってフーテンの寅さんがらみですげー観光地なんだけど、
駅前広場にはいきなり立ち食い店と不動産屋と謎のコーヒースタンドで
その真ん中に最近できたっぽい寅さんとさくらの像があり
奥の帝釈天門前町は典型的な昭和の観光ストリートっぷり。
そして京成金町線の柴又駅、単線なのだ。
いやもう観光地気分満載で楽しい。
以前訪れた時は自転車だったので、
駅前は見てなかったのだ。
というわけで、10月6日は古代から昭和まで楽しめますですよ。
この後矢切の渡しにでも、と思ったら、あれは16時までらしく断念。
金町線で金町へ出て、
常磐線に乗る。こいつが千代田線直通でさらに小田急へ乗り入れるので
乗り換えなしで帰宅できるのだ。
柴又ってうち(世田谷区)からめちゃ遠いイメージだけど
確かに遠いのだけど、千代田線-常磐線経由にすれば楽していけるのだな。
車内で爆睡。
興味ある方はこちらへ。
ここんとこずっと曇ったり雨降ったりだったので
たまに晴れると緊張する。
なんて言ってないで
今朝届いたレビュー用のX-T3を持って
10月6日の東京古道散歩の下見。
行き先は京成線の立石。東京低地の葛飾区。
立石は平安時代の古代東海道が通っていたとこ。
その前の古代官道は柴又のあたりで江戸川(当時は太日河)を渡ってたんじゃないかといわれてる。
立石駅から古代東海道(今は奥戸街道?)に出て東へ向かうと中川に当たる。
道標から川沿いに少し歩くと「帝釈天王」と大きく描かれた石標がある。
これ、柴又帝釈天へ向かうための道標。
実は立石と柴又を結ぶ古代の道だ。
可能な限りその道に沿って柴又へ向かおうというのが今回の趣旨。
調べてみると、古代は知らんけど(中川の流路も変わってるし)
江戸時代の道ならかなり辿れる。
まず立石さまに立ち寄り
その後道なりに北上。
途中、神社に立ち寄ったりしつつ、
旧淡野洲村、旧中原村、旧青戸村、
中川を愛でて、
橋を渡り、
こんなとこに寄り道し、
今は高砂村だけど、元は曲金村だった古道を明治初期の地図をチェックしながら歩く。
意外に当時の道筋が残っていて面白い。
ゴールは柴又。柴又八幡神社裏に作られた「島俣塚」は必見。
奈良の正倉院に西暦721年に作られた「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」が残っている。
大嶋郷に「嶋俣里」「仲村里」「甲和里」の3つの里(まあ今でいう「村」というか「字」? みたいな奈良時代に一時期使われた集落の小さな単位)があったことがわかっている。
嶋俣は今の「柴又」でほぼ確定。甲和は今の「小岩」じゃないかと言われている。
となると、仲村は柴又と小岩に挟まれた場所で(だから仲村)
立石や奥戸あたりだろう、と推測。って考えると、立石と柴又をつなぐ道は奈良時代まで遡れる(かもしれない)のだ。いやあ面白い。
しかも、平安時代の更級日記を書いた、藤原孝標の娘は下総國から京都へ戻る時
「松戸」の渡しで江戸川(太日川)を→隅田の渡しで隅田川を渡って
浅草から京へ向かったと思われるわけで、
となると、この柴又と立石を結ぶ道を歩いたかもしれない。
まあ歩いたってことにしよう。
と、そこまで妄想で遡れるめちゃ古くからの道筋を歩いて
柴又へたどり着くと、目の前には「めちゃ昭和」な光景が繰り広げられるのである。
寅さんだから。
柴又帝釈天ってフーテンの寅さんがらみですげー観光地なんだけど、
駅前広場にはいきなり立ち食い店と不動産屋と謎のコーヒースタンドで
その真ん中に最近できたっぽい寅さんとさくらの像があり
奥の帝釈天門前町は典型的な昭和の観光ストリートっぷり。
そして京成金町線の柴又駅、単線なのだ。
いやもう観光地気分満載で楽しい。
以前訪れた時は自転車だったので、
駅前は見てなかったのだ。
というわけで、10月6日は古代から昭和まで楽しめますですよ。
この後矢切の渡しにでも、と思ったら、あれは16時までらしく断念。
金町線で金町へ出て、
常磐線に乗る。こいつが千代田線直通でさらに小田急へ乗り入れるので
乗り換えなしで帰宅できるのだ。
柴又ってうち(世田谷区)からめちゃ遠いイメージだけど
確かに遠いのだけど、千代田線-常磐線経由にすれば楽していけるのだな。
車内で爆睡。
興味ある方はこちらへ。
2015/10/11
川崎(平間・夢見ヶ崎)FWと「帰ってきた怪獣酒場」な日
10時30分 尻手駅集合。
南武線っていつ乗ってもそこそこ混んでて利用者が多くてその割に駅が地味というイメージなのだけど、その代表が尻手駅なのかと思うわけである。
分倍河原登戸武蔵溝口武蔵小杉と私鉄との乗換駅が数駅ごとにあって利用者が多いし古い路線なのだけどその割に電車として地味なのだよなあ。
ともあれ、そんな尻手駅スタート。
総勢20人くらい。天候わるし。
平間道などの古道や暗渠を中心に歩くツアー。
幾つかの古社古刹を回る。この辺り多摩川による自然堤防が作り出した微高地なのか鎌倉時代創建の寺社が集まってて中世に板碑などもあったりするのである。
川崎市のこの辺りは初めての訪問なのでもうついていくだけ。
十字路を斜めに突っ切る恐ろしい踏切があったり、
石でできた灰皿があったり、
鹿島田駅とほぼ並行してる横須賀線の駅がなぜ新川崎なんだよ、とか、
色々謎が深い場所。
鹿島田駅と新川崎駅の間で昼食。
なぜか、歩道と車道の両方に自転車通行レーンがあったりするのも面白い。
新川崎駅あたりは巨大な貨物ターミナルでその跡地がどんどん再開発されてるものの
再開発っぷりは武蔵小杉に負けててちょいと地味なのがなんとも言えない。
午後の目玉は元加瀬山。今は夢見が崎として知られている場所。
ここ、無料の動物園で時に賑わうのだが、遺跡と古墳の宝庫なのである。
とにかく古墳が大量にある。
多くは削平されて跡形も残ってないのだが、かろうじて生き残った墳墓を案内してもらいつつ歩く。
墳頂からの眺め |
ぐうたらレッサーパンダ |
たまらんのが白山古墳。4世紀、古墳時代初期の前方後円墳で貴重な遺物も出てて、もう古墳好きにはたまらん場所……のはずなのだが、
これである。
こんな風に書かれると、ここに「白山古墳」があったと思うじゃない。誰しも思うじゃない。
違うのだ。
この加瀬山(夢見ヶ崎)にはないのである。
白山古墳は、この加瀬山からちょっと離れた場所にあるのだ。
こことは関係ないのだ。
しかもその古墳、とっくに削平されて残ってないのだ。
明治時代に、土を削って使ったのだという。ナンテコッタ。
後でその跡地と思しき場所へは行ったのだが、
もうなんというか、現地にある白山古墳の説明板も「この近くにありました」扱いで、実際の場所は明記されておらず、どうもすでに家が建ってるようで、その裏にかろうじて塚らしきものが見えたのでそこではないかという話。
いやはや。
で、その夢見ヶ崎も当初の2/3くらいの大きさに削られてるようで、
今はもう平地にポツンと取り残された里山の風情。
北から見た夢見が崎。右側は昭和の初めに鉄道官舎を作るために削られたので崖になってる。 |
いやはや川崎といえば工場と各種産業の都市というイメージなのだが、
その開発のために色々と削られていたのだなあ。
ともあれこの一帯、古墳時代は結構栄えていたようで、
場所的にも平間を通じて多摩川対岸の荏原郡ともつながっていたように思えるわけで、
でも橘樹郡衙はここではなくもうちょっと北の影向寺のあたりにあったわけで、
なぜこっちではなくあっちだったのか気になるところである。
川崎市市民ミュージアムであれこれ尋ねてみるか。
個人的に、川崎にまで手を伸ばしてる余裕がないので後回しだけれども。
14kmほど歩いたあと、
夜は「帰ってきた怪獣酒場」。
いや元々こっちが今日のメインだったのだ。
何しろ、1ヶ月前に23人で予約したという大規模の怪獣宴会である。
これが、予想以上に凝っててめちゃ面白い。
おっさんホイホイというかおっさんキラーというか。
はいったらいきなり「ジャミラの真実の口」である。
初代ウルトラマンとウルトラセブン、帰ってきたウルトラマンを中心に
マニアックな人気怪獣をうまくあしらっててたまらん。
「よくわかってる人間がデザインしてるなあ」と感心することしきり。
メニューも器もそう。
何しろ、ウルトラセブンの脳みそを食べられるのである(笑)。
これがたまらん。怪獣酒場なので、怪獣が主役、ウルトラマンやウルトラセブンは敵なのだ。
店内に流れてるダイジェスト映像も、怪獣/宇宙人側がウルトラ側をやっつけてるシーンばかりなのだ。
もう気分はハンニバル・レクター←ウルトラマン関係ないけど。
わはははは。
デザートはジャミラのティラミス。
ジャミラスプーンで崩して食べてくださいという。
ジャミラが国旗が並んだ国際会議場を壊すという、ジャミラ側の演出がたまらんわけである。ココアパウダーは泥だらけになったジャミラを表しているもよう。
凝り方がツボにはまってるのだ。
いやあ、こんなに楽しめるとはおもわんかったわ。
まあおっさんたちが集まって喜んでるのは我々だけで、
メインの客層はもっと若かったんだけどね。
今回の街歩き仲間を中心とした宴会、
年齢層も、初代ウルトラマンリアルタイム世代から、
ウルトラセブンリアルタイム世代(わたしがそのくらい)、
リアルタイムで最初に見たのがウルトラマンレオという世代、
さらにもうちょっと若い30代までいて
人によって何がツボにくるのかわからないわけだが、
ウルトラマン未見という30代女子が帰りに「みんながジャミラジャミラいうから気になって」とDVDを借りて帰ったというエピソード付。
もちろん「怪獣酒場」は「怪獣墓場」をもじってるのだと思われまシーボーズ。
で、そのあと二次会にはいかず、
川崎駅前でシータ夜景作例を撮って帰宅したのでありました。
2015/09/26
横穴墓発掘現場現地説明会と東京スリバチ学会FW
さて新型iPhoneが来たら、
速報的カメラレビューのために作例を撮りに行かねばならないのである。
だがしかし、
今日は「殿山古墳横穴墓現地見学会」の日なのだ。
この日しか発掘された横穴墓を見られる日はないのだ。
よし、ってんで朝から自転車で出発。
もともと殿山古墳群として知られてた場所で、
今回、15基の横穴墓が新しく発見されたのである。
それはどこか。
簡単にいえば「東名高速と外環道のジャンクション建設現場」。
殿山古墳群は東名高速道路の建設や宅地開発で
1〜2個を残して消えちゃったけど、
そこに多くの古墳や横穴墓があったことはわかってたのだ。
で、今回、ジャンクション建設でさらに台地をけずったら
でてきたというわけ。
場所はここ。東名高速にある「イカの耳」(通称)は、
東名高速建設時(1960年代)にすでに、のちに外環道を通す計画があり、
外環道ができたとき接続するためにあらかじめ作っておいた出っ張りなのである。
それほど昔からの計画で、
まあ、当初は外環道も高架で作る予定だったのが、地下に変わったくらいであり、
ジャンクションでは当然地上に出てきてぐるぐるとでかい道路を作らねばならないわけで、
その工事をしてるわけである。
殿山古墳群は東名高速で削ったあたり。ここに円墳がいくつかあった。
さらに崖沿いにも横穴墓が発見されていたが、
今回、新たに未発掘だった横穴墓が見つかったのだ。
ジャンクション工事現場にはいって横穴墓を見るというまたとない機会なのである。
で、見てきました。
外から見るとこんな感じ。崖にずらっと穴が空いてるのがわかるかと思う。
右に見えてるのが東名高速。
詳細はこれから調べるということだけど、7世紀末くらいだろうな。
鉄剣も発掘されており、稲荷塚古墳のように文字が見つかったら面白いが、
稲荷塚古墳とは時代が違うのでどうか。
そして現地見学。発掘したばかりの剥き出しの横穴墓である。
粘土質で土は軟らかく、
墓の中には水抜きの溝が掘ってある。
地層に詳しい人と一緒にまわりたかったわー。
そこで学芸員さんが、発掘当時の写真(石で塞がれていたとか、人骨が発見されたとか)と一緒に解説。
みんな、どこで知るのか(わたしはFBで教えてもらった)、
多くの人が見学会に参加。
満足したのと、少し晴れ間が見えそうだったので、
そのまま自転車で、次太夫堀公園→馬事公苑と回って
カシオのZR3000とiPhone 6s Plusの作例撮り。
その際、やたら大勢の人とすれ違う。
何かと思ったら、「私鉄リレーウォーク」というイベントをやってるらしい。
月に1回、スタート地点で地図を受取り、それを見ながらウォーキングして
ゴールに辿り着くと記念品だかスタンプだかをもらえるらしい。
歩いてる人に尋ねたら、飛田給から二子玉川まで歩いてるらしい。
ああ、東京古道散歩もそういう「ウォーキングイベント」的な扱いにしても
面白いかもなあ。
どこか企画しません? 古くから残る道を辿るウォーキング。
それはともかくとして、
馬事公苑で作例を撮った頃から空も曇ってきて、
しばらく晴れ間はでないと判断し、
東京スリバチ学会のフィールドワークに合流することに。
杉並区を歩いてるので近いのだ。
経堂駅あたりで、FBに和田堀公園あたりに13時半過ぎにつきそうという情報を得る。
お、間に合うかも、ってんでぐわーっと走り、
無事、成宗白山神社でみなさんと合流。
久々に23区内のフィールドワークだったこともあり、
60人ほど集まってたようです。すごいな。
わたしひとり、自転車を押しながら歩くという感じになったけど、
ここから尾崎熊野神社、須賀神社、田端神社などをめぐり、
新堀用水跡を辿って
南阿佐ヶ谷駅で解散。
わたしはやることが一杯あるので打ち上げにはでないでひた走って帰宅。
にしてもうまく合流できてよかった。
まあ、勝手知ったるエリアだったからな。
速報的カメラレビューのために作例を撮りに行かねばならないのである。
だがしかし、
今日は「殿山古墳横穴墓現地見学会」の日なのだ。
この日しか発掘された横穴墓を見られる日はないのだ。
よし、ってんで朝から自転車で出発。
もともと殿山古墳群として知られてた場所で、
今回、15基の横穴墓が新しく発見されたのである。
それはどこか。
簡単にいえば「東名高速と外環道のジャンクション建設現場」。
殿山古墳群は東名高速道路の建設や宅地開発で
1〜2個を残して消えちゃったけど、
そこに多くの古墳や横穴墓があったことはわかってたのだ。
で、今回、ジャンクション建設でさらに台地をけずったら
でてきたというわけ。
場所はここ。東名高速にある「イカの耳」(通称)は、
東名高速建設時(1960年代)にすでに、のちに外環道を通す計画があり、
外環道ができたとき接続するためにあらかじめ作っておいた出っ張りなのである。
それほど昔からの計画で、
まあ、当初は外環道も高架で作る予定だったのが、地下に変わったくらいであり、
ジャンクションでは当然地上に出てきてぐるぐるとでかい道路を作らねばならないわけで、
その工事をしてるわけである。
殿山古墳群は東名高速で削ったあたり。ここに円墳がいくつかあった。
さらに崖沿いにも横穴墓が発見されていたが、
今回、新たに未発掘だった横穴墓が見つかったのだ。
ジャンクション工事現場にはいって横穴墓を見るというまたとない機会なのである。
で、見てきました。
外から見るとこんな感じ。崖にずらっと穴が空いてるのがわかるかと思う。
右に見えてるのが東名高速。
詳細はこれから調べるということだけど、7世紀末くらいだろうな。
鉄剣も発掘されており、稲荷塚古墳のように文字が見つかったら面白いが、
稲荷塚古墳とは時代が違うのでどうか。
そして現地見学。発掘したばかりの剥き出しの横穴墓である。
粘土質で土は軟らかく、
墓の中には水抜きの溝が掘ってある。
地層に詳しい人と一緒にまわりたかったわー。
そこで学芸員さんが、発掘当時の写真(石で塞がれていたとか、人骨が発見されたとか)と一緒に解説。
みんな、どこで知るのか(わたしはFBで教えてもらった)、
多くの人が見学会に参加。
満足したのと、少し晴れ間が見えそうだったので、
そのまま自転車で、次太夫堀公園→馬事公苑と回って
カシオのZR3000とiPhone 6s Plusの作例撮り。
その際、やたら大勢の人とすれ違う。
何かと思ったら、「私鉄リレーウォーク」というイベントをやってるらしい。
月に1回、スタート地点で地図を受取り、それを見ながらウォーキングして
ゴールに辿り着くと記念品だかスタンプだかをもらえるらしい。
歩いてる人に尋ねたら、飛田給から二子玉川まで歩いてるらしい。
ああ、東京古道散歩もそういう「ウォーキングイベント」的な扱いにしても
面白いかもなあ。
どこか企画しません? 古くから残る道を辿るウォーキング。
それはともかくとして、
馬事公苑で作例を撮った頃から空も曇ってきて、
しばらく晴れ間はでないと判断し、
東京スリバチ学会のフィールドワークに合流することに。
杉並区を歩いてるので近いのだ。
経堂駅あたりで、FBに和田堀公園あたりに13時半過ぎにつきそうという情報を得る。
お、間に合うかも、ってんでぐわーっと走り、
無事、成宗白山神社でみなさんと合流。
成宗白山神社でみんなが集まったの図。 |
久々に23区内のフィールドワークだったこともあり、
60人ほど集まってたようです。すごいな。
わたしひとり、自転車を押しながら歩くという感じになったけど、
ここから尾崎熊野神社、須賀神社、田端神社などをめぐり、
新堀用水跡を辿って
南阿佐ヶ谷駅で解散。
わたしはやることが一杯あるので打ち上げにはでないでひた走って帰宅。
にしてもうまく合流できてよかった。
まあ、勝手知ったるエリアだったからな。
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