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2020/01/03

武蔵御嶽神社初詣-後編-九道の辻から駒沢給水塔へ

初詣が終わったのがお昼過ぎ。

このあといつもどこかへ立ち寄ってから戻るのである。

今回はわたしが「九道の辻」へ行きたいとリクエストしてそちらへ。




その足で、
立川の阿豆佐味天神社(狭山丘陵麓にある、延喜式式内社阿豆佐味天神社を勧請したもの)へ。
実はここ、猫返し神社といわれてて
飼い猫が行方不明になったとき、こちらでお詣りすると猫が戻ってくるんだそうな。



どうやら、このあたりで養蚕が行われていた頃、
摂社として鼠を退治してくれる猫を祀った蚕影神社を祀っていたのである。

次の訪問地は桜新町。
駒沢給水塔のライトが点灯するということで
それを観に行くことに。

ライトアップじゃなくて、給水塔に飾られた電球に灯がともるだけなので暗いのだけど、
ギラギラしたライトアップやイルミネーションと違い、ほわっと光ってるとこがよいわ。

で、X-T2 + 16-80mm F4で撮ったのだが、これのスローシャッター時の手ブレ補正、むちゃくちゃだわ。オリンパスの方がすごいけど、あっちはボディ内補正+レンズ内補正のコラボで実現した技。こっちはレンズ内補正のみだもの。
何しろ、0.9秒の手持ちでこれである。ブレてない。
ほわっという感じを出したかったのでかなりアンダー目でRAWで撮り、Lightroomで現像。

X-T2 + 16-80mm 。
このレンズ、
24-120mm相当と超利便性が高いレンジで、F4通しで、撮影最短距離も短くて、スローシャッター時の手ブレ補正がめちゃ強力という1本持ってけば安心なレンズなのだ。
クオリティ的にはそれほど高いわけじゃないので
別途、気に入った単焦点レンズを持っていって上手に使い分けるとよい。

さらにこれはiPhoneのナイトモード案件でもある。


いやあ楽しいですな。

武蔵御嶽神社へ初詣-前編-武蔵御嶽神社は大麻止乃豆乃天神社だった?

毎年恒例になった武蔵御嶽神社初詣。

数年前に、近所に住む街歩き友達のTさんとWさんがはじめたのだけど
そこにのっかり、
帰省スケジュールとかぶったり腰痛が出たりしなければ(一度腰痛でドタキャンしたことある)、
毎回参加してるのである。

今回も早朝から5人で車で御嶽神社へ。

青梅から先、多摩川の右岸左岸両方に道路があるのだが
片方は昨秋台風の影響で閉鎖されており、
未だに爪痕が残っているのだなあと思いつつケーブルカーの駅へ。

今回のカメラはX-T2 + 16-80mmF4とTHETA Z1とiPhone 11 Pro。
こういうとき、iPhone 11 Proの超広角はよい!

超広角+HDR案件のケーブルカー内。初詣客いっぱい。


この大展望休憩所でそばを食うのが定番



本殿の奥に奥宮(奥に見えている山)の遙拝所がある。ここは欠かせない。

毎回何らかの発見があるのだが、
今回盛り上がったのは「大麻止乃豆乃天神社」。

延喜式神名帳に書かれた式内社に「大麻止乃豆乃天神社」があるのだが、
今は稲城市にある「大麻止乃豆乃天神社」がそれだとされている。
でも、江戸時代、御嶽神社が「大麻止乃豆乃天神社」を名乗っていたのだ。
これは天保3年のもの。他にもうひとつ、大麻止乃豆乃天神社と書かれた石柱が残っていた。


多摩郡の式内社には論社がいっぱいあり
いくつもの神社が確定してないのである。
その分布が面白いので(だいたい調布・稲城エリアvs青梅・奥多摩エリアとなってる)
地図にしたことがある。
興味ある方はこちらを。


2019/02/12

葺城稲荷が地形ごと消えていて驚いた日

久しぶりに日経BP社へ取材されに行く。

そののち、神谷町から虎ノ門のあたりをぶらぶら歩く。
虎ノ門ヒルズを皮切りに、ヒルズな会社(森ビルだけど)を中心に
大再開発大会が行われててちょっと気になってたのだ。

まずは神谷町の「我善坊谷」としてその筋に知られる
西久保八幡のある山と仙石山(江戸時代仙石邸があった)にはさまれた
ちょっとした谷がある。

ここ、森ビル系の再開発の波が押し寄せ、谷地全体が買い取られ、
更地化が進んでいるのだ。

以前は建物にまぎれてわからなかった西久保八幡の山も
今は北側から丸見え。
地形がよくわかりますな。
この写真、奥に見えているこんもりした山の上に「西久保八幡神社」があり、
貝塚も発見されてる。
太田道灌がここに遷座したそうな。

で、上の写真をよく見ると、山の下に土色の物体が並んでる。
拡大すると「甕」のようにみえる。
(肉眼では全然わからなかった←視力に難があるもんで)
FBに写真を上げたら、
不発弾に見えるとか(をい)
中世の古銭がはいってた埋銭の壺じゃないかとか
いろんな節が出てきたけど
江戸時代に死体を埋葬していた甕棺説
が信憑性高いかなあ。
機会があったら尋ねてみたい←誰に?←港区郷土資料館?

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追記。東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスで発見。
大養寺跡で、棺甕、焼骨壺が出土してるらしい。これの一環?
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ちなみに場所はここ。西久保八幡の北側崖下。



さて我善坊谷を出て北上して虎ノ門へ。
そこらじゅう削平してビルを建ててて昔何があったさっぱりわからん始末だが
一箇所だけ「あれ?」ってとこがあった。
国道1号の1本裏の道沿い、
崖の上に小さな稲荷があったのだが、
それが崖ごとなくなってるのだ(上記地図参照)。
なんてこった。

それが葺城稲荷(ふきしろいなり)。
今は風景はこう。

で、福山通運のワゴンが止まってるそのむこうの電柱に注目。
2009年にはこの電柱のところがこうだったのだ。
よーくみると、プラザホームズの看板の上にあるパネルに「1396」って書いてあるプレートがあるので同じ電柱のはず。
2009年撮影

ここ、台地の端を削って道路が作られていてその上に葺城稲荷があったのだ。
階段を上るとこんなだった。
2009年撮影

2009年撮影

ああ、地形ごと全部削っちゃったのね。
このあたり元禄時代に代地替えを命じられて越してきた「家づくりの屋根の職人」が集まった街で「葺手町」と名づけられた場所。屋根を葺く人だから葺手なのですな。
で、この稲荷、そのときに町の人によって台地上にあるのを「発見された」神社なのだという。
もっと前からあって、祠だけが残っていたのだろう。
いやあわくわくする話ではないか。
当初はもうちょっと山の方にあり、その山は中世の城館があったという伝承が残っていて「城山」と呼ばれていた。
葺手町と城山で「葺城稲荷」となったんだろう。

なんか地形的にも周りとのギャップ的にもすごく風情のある一角だっただけに
丸ごと削られたのが悲しい。
ちなみに、今は西久保八幡神社に仮遷座されていて、ビルが完成したらまた戻ってくるそうだが、それならいっそ「地形ごと」残しといてくれればいいのにねえ
残念。

まあ稲荷があるから削られずに残っていたような場所だったわけだが
21世紀になると神社があっても構わず削ってしまうのですな。






2019/01/02

武蔵御嶽神社へ初詣したのち延喜式内社を2つ訪れる正月

4〜5年前、「オオカミの護符」という本が仲間内で流行ったのである。

オオカミの護符は「大口真神」のお札のこと。
これ。


御岳山の武蔵御嶽神社が発行している護符で、オオカミをかたどっている。
その話が面白く、今でも御岳山には御師がおり、宿坊もあるというので
4年前、近所の街歩き仲間で御嶽神社(みたけじんじゃ。これをおんたけと読むと、木曽の御嶽山になる)へ初詣に行こうという話になったのである。

そのとき、わたしは「腰痛」でダウン。
2年目は参加。
3年目は帰省していて参加できず。
そして4年目。
みなにとっては4回目だがわたしには2回目の御嶽神社初詣。
御嶽神社を訪れるのは3回目。

朝7時に車で迎えにきてくれて、
6人で同乗して御岳山へ。


ケーブルカーで上へ登り、そのあとは歩くのである。
山からは東京スカイツリーが……ってスカイツリーってどんだけでっかいんだかもう。

えっちらおっちらとわたしはOsmo Pocketの作例なぞをとりつつのぼり、



宿坊や旅館や売店街を抜けて無事神社へ。
この山頂に街があり、それが今でも維持され続けてるってのはすごいよ。


そして無事参拝。


社殿の裏にある、奥宮遙拝所も忘れずに。


参拝と買い物を済ませたら飲食店街でそばを食って一息。

山を降りたら帰りはどこへ立ち寄ろうかという話になり、
いくつか案は出たが、わたしと多摩武蔵野スリバチ学会会長の真貝さんが希望した
狭山丘陵南麓の「阿豆佐味天神社」を目指すことになる。

阿豆佐味天神社は「あずさみてんじんしゃ」と読む。「阿豆佐味」は、まあ当て字というか、読みに漢字を当てたものだろう。

延喜式内社のひとつ。年末から3日連続で延喜式内社である。

天神社であるが、菅原道真系ではない。もっと古い「天神」で、少彦名命が主祭神であり、これは五条天神と同じだ。

武蔵国の縁起式内社には、阿豆佐味天神社の他に大麻止乃豆乃(おおまとのつの)天神社、穴沢天神社、布田天神社と、菅公が天神の代名詞となる前の古い天神社が多いのである。




延喜式内社にしてはちと寂れているが、青梅からの大きな扇状地を前に、往古の多摩川が削り残した狭山丘陵を背にした古社に相応しい場所である。

せっかくだから、延喜式内社をさらに参拝しようとなり、
狭山丘陵の北側にある「中氷川神社」を目指す。

実はこのあたりに「中氷川神社」は2つある。どちらも所沢市。
ひとつは狭山丘陵の北にある、三ヶ島の「中氷川神社」。
いきなり「延喜式内社」とでかくかいてある。


もうひとつは狭山丘陵の東側、
山口の中氷川神社。距離は4〜5km。
こちらは南北を丘陵に挟まれた低地で、
近くに山口城があったり近くを鎌倉街道が通っていたりする。


神社としての賑わいはこちらの方が上。
地形的にもこっちの方が古社っぽいけど、
どちらが縁起式内社の中氷川神社だったのかはわかってない。

どっちでしょうねえ。

で、なぜ中氷川神社なのかというと、
大宮の氷川神社と、奥多摩の奥氷川神社のちょうど真ん中にあるから、というのが有力。
合わせて「武蔵三氷川」といわれてる。

奥氷川神社も、なぜ奥多摩に氷川神社があるのかが気になるところで、
大宮氷川神社は足立郡に属していて足立郡は氷川神社だらけで、
そこ以外だと荒川水系に多いんだけど、
奥氷川神社は多摩川水系なんだよねえ。

もしかしたら、それぞれ別の氷川神社だったのかもしれない。
(なんかの本に、武蔵国あたりでは、水が沸き出すところを「ひかわ」と呼んだという話もあったし)
氷川神社は出雲系といわれていて、主祭神は素戔嗚尊で、中氷川も奥氷川もそうなんだが
古い文献だと主祭神は「氷川明神」とだけなってるようで、
(日本歴史地名大系による)
もともとは土着の水の神様だったんじゃないかなという気もする。

まあそういうこと考えるとキリがないのだけど、
個人的にはこれで「武蔵三氷川」全部を訪れることができてちょっと満足。

最後に山口城祉に立ち寄って東京へ戻る。



というわけで、
年末年始で、武蔵国の延喜式内社を4つ回ったのだった。


2019/01/01

延喜式内社で初詣の元日

あけましておめでとうございます。

2019年です。

例年のごとく一年の計などを立てたりはしないけど。

初詣は例年のごとく渋川神社へ徒歩で。
大晦日に訪れた尾張戸神社も
元日に訪れた渋川神社も
延喜式内社、ってことで、今年は古社をめぐる1年になりそう←いや毎年そうだろといわれるといかんともしがたいのだが、

ここが面白いのは
このあたりの田圃が676年に天武天皇の大嘗祭が行われた際に悠紀斉田として指定された場所というのだ。
天武天皇悠紀斉田跡という碑が立っている
日本書紀には尾張国山田郡とだけ書いてあるが、ここが旧山田郡であったこと、
このあたりで条里制の遺構が発見されていること、
近くに「悠紀斉田での収穫をお祝いして神様に供えた、お酒や食べ物などをみんなでいただく直会という儀式の跡に建てられました」(現地解説板より)という直会神社もあり、
地形的にも古くから稲作が行われていてもおかしくなく、
なかなかの信憑性である。

近所にある庄中観音堂には円空仏5体が残されており、
何度か観音堂にはいって間近で見せてもらったが

2017年に市に寄贈されて市の施設にうつっており、
もう観音堂にはないそうである。
残念。
まあその方が多くの人の目に触れるからいいのかもしれないし、
そこを管理している方の高齢化が進んで維持管理が難しくなってきたのかもしれない。
市の施設の方が盗難や散逸の危険も減るだろうけど、
本当は、元々の場所にいて欲しいのだよなあ。
市が金を出して郷土博物館分館をそのあたりにつくるくらいできるといいのだが。

午後は妹夫婦の車で名古屋城脇に新しくできたという謎の観光施設「金シャチ横丁 義直ゾーン」へ。


いやあ、訪れるたびに名古屋城周辺の観光地化が進んでて面白いわ。
史跡は史跡としてしっかり維持管理しつつ、
その周辺を観光地化することで観光客をもてなす、という路線は賛成。
まあ名古屋城を木造で建て直すというのはいろいろ思うところあるけれども。

元日なので開いている店は少なかったけど、そこできしめんを食う。

もちろん「宗春ゾーン」もあるのだがそちらにはいけず。
きっとそっちは派手なんだろうな。宗春だからな。

夕刻の新幹線で東京へ戻る。

本年もよろしくお願いします。


2018/12/25

赤坂氷川神社とファンシー絵みやげのクリスマス

1月5日の東京古道散歩の下見。
前回、半蔵門から赤坂駅まで下見したので
今日は赤坂駅から赤坂氷川神社を経由して六本木一丁目駅まで。

いやあ、実は「古地図と地形図で楽しむ東京の神社」って本を書いたとき、
ひとつ見落としをしてまして。

赤坂氷川神社は「一ツ木町」にあった氷川神社を
徳川吉宗が
備後国三次藩浅野家の屋敷跡に遷座した
って経緯は書いたのだが、
実は赤坂氷川神社の崖下に「本氷川神社」って神社もあったのだ。

そっちは明治になって赤坂氷川神社に合祀されてるのである。
その「本氷川神社」を見落としていたというわけ。

たぶん「本氷川神社」って名前はもともと今の赤坂氷川神社があるあたり(今井といった)の鎮守で、後から一ツ木町の氷川神社がやってきたので
「うちの方が古くからここにあるんだぞ」てな意味合いで「本氷川神社(もとひかわじんじゃ)」と呼ぶようになったんじゃなかろうか。
本氷川神社前から氷川神社へ登る本氷川坂。このカーブは江戸時代のまま!
寛文から元禄の江戸絵図では単に「ヒカワ明神」とある。

で、本氷川神社跡から赤坂氷川神社に向かうと
氷川神社の場所の地形がすごくよくわかって面白いのだ。

ちなみに赤坂氷川神社の社殿のあたりは古墳でもあり、
刀や勾玉も出土してるそうな。

氷川神社は台地の縁にあり少し下りると稲荷と穴がある。
平安時代末期の今井城祉という伝承もある。
(東京都遺跡地図情報サービスによると、「今井城山遺跡」としてTBSのあたりがシメされているくらい諸説あるのだが)。

赤坂氷川神社は古墳があろうが城郭があろうが神社があろうが
不思議がない地形にあるのが面白い、といっていい。

詳しくは1月5日の東京古道散歩のときに。
一応、仕事絡みなので本番前にここで全部出しちゃうのもアレなので。

夜は新宿へ。
日本語の音韻変遷の大家であるS先生と、
編集者のI氏と
「ファンシー絵みやげ」研究家のメロ氏と
4人でファミレスで延々と4時間語り合って
もういい年してなにやってんだかと思いつつ
面白い時間を過ごしたのでありました。

詳しくはこちらを。
わたしはちょうど「ファンシー絵みやげ」が誕生した時代に学生で
リアルタイムにその時代を知っているので
出てくる話をみな理解できて面白い。

それをバブル期を知らない若い人が研究しているというのが大事な点で
こういうことの記録って
同時代じゃないからこそつっこめる視点が必要なのだ。

ファンシーショップとかファンシー文具とか、そういうのが一斉に出ていつの間にか消えたわけだが、そもそも「ファンシー」の元の意味から離れてるよね、ってのが気になって尋ねてみたら、その経緯をちゃんと推論してくれて、めちゃ感心。

2018/08/01

10数年ぶりに旧友と

8月になったが暑い。いや8月の方が普通は暑いのだ。
都内某所で某な某。

ヒマだったので早めに家を出て古地図見ながらブラブラ散歩して
チェックしたかった神社やら道筋やらを楽しんでから行こうかと思ったが、
あまりに暑くて途中で断念する。

かろうじて、ずっと前から気になってた田町の御穂鹿島神社。
江戸時代の神社だが、当時と同じ場所に立っていて(御穂神社が合祀された)、
この鳥居の前は海だったのである。

寛永の頃、鹿嶋神宮から芝浜の地に流れ着いた神殿を祀ったという伝承。
文政町方書上によるとこのあたりは「芝村」で家康入部の時は7人の百姓が漁を行っていたそうな。
芝の海だから芝浦。

江戸時代に東海道ができるまでは本当に小さな漁村だったんじゃないかと思う。


明治14年の地図を見ると、このあたり鉄道が海の上に敷かれていて、
鹿島社と鉄道(今の東海道本線・山手線・京浜東北線などなどですな)の前に海が少し残ってる。

今はこのあたりぜんぶ埋め立てられてて海の匂いすらしない。
空にはモノレール。

夜、
突然学生時代の友達からメッセージが入る。
渋谷で飲んでるというので急遽合流することに。
ひとりは14年ぶり、もうひとりは20年ぶりくらいで
いやあ、喋り方とか仕草とかかわらんわ。
わたしも変わってないと言われたけど。

で、連れて行かれた店がアナログレコードで70年代を中心としたロックを聴かせてくれるロックバーで。
10数年ぶりに旧友と飲む、なんて書くとわざとらしいけど
たまにはそういうこともあるわけである。




2018/01/23

雪の中恵比寿ガーデンプレイスへ

昨年、モデルをしてくれてた女子大生さんが卒業するというので
おっさんふたりでお祝いのランチを恵比寿で、
ってことで雪の中を恵比寿へ。

雪かきをしてあるエリアと放置してしまったエリアのギャップがすごいですな。
駅前に近づくにつれ、商店が増え、雪かきもきちんとなされていて歩きやすくなるが、
駅前はおまわりさんががんばっておりました。

駅へ歩く時間を多めに見積り電車が遅れる可能性も加味して
家を出たら、予想以上に順調で、待ち合わせより30分早くついたので
恵比寿駅から山越えのルートをとって雪の坂道を歩くことに。

いつも山手線から見えていた稲荷がずっと気になっていたのである。
わざわざ雪の日にいかずとも案件ではあるがいい感じに時間が空いたのでしょうがない。

恵比寿駅の西口を出て坂を上る。

まだ雪は残っていて坂道は慎重に歩かねばならない。みな雪が溶けている道路の中央あたりを選んでバラけて歩いている。

この坂を上ると目的地から逸れていくので、左へ折れ階段を上る。

恵比寿-目黒間はけっこう高低差があり、
恵比寿駅は高架なのに目黒駅では切り通した谷になる。
斜面を隙間なく開発しているので時には階段も必要なのだ。

目的の神社は今はマンションの脇にあった福徳稲荷神社。

ここ古墳があったらしい。墳丘を聖地として神社を勧請したか。
ググったらこちらに詳しかった。
境内には謎の石碑。おそらく一文字目は「澁」だろう。
「澁谷次郎の趾」だ。

澁谷次郎が誰なのかわからないが、
ここはそもそも「下渋谷」であり、中世に渋谷一帯を領していた渋谷氏のゆかりかもしれないと思うと掘り下げたくなる。

さてもう一山超えて、ここを自転車で駆け抜ける勇気に感服しつつ

ガーデンプレイスへ。

美味しいものをいっぱいいただきました。
帰宅して作例を整理。