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2017/09/10

新潟は「砂の女」で「砂の惑星」だった

朝、気持ちよく目覚める。
でもめちゃ暑い。
夏のリベンジって感じ。
おかげでネコに出会えない!
がーん。

ホテルをチェックアウトして沼垂へ。ヌッタリ。ひねもすぬたりぬたりかな。
普通、読めません。
昨日野内さんにいただいたガイドマップを見ながら歩く。
式内社といっている白山神社(真偽不明)とか

この白山神社、延喜式神名帳の沼垂郡の項に書かれていた「美久理神社」に比定されているのだ。江戸時代までは河口近くにあり、沼垂の街ごとこちらへ動いたという。

さらに沼垂テラス商店街に猫がいて「沼ネコ」と呼ばれてるというので行ってみたが、
残念ながら会えず。


取り壊されそうになった昭和の長屋を商店街として再生した場所で、背景の工場と会わせてなかなかよい風情である。

ここで、街歩き仲間のYさん、そして初対面のWさんと合流。
何しろみんな東京スリバチ学会つながりなので、いきなり会話がマニアックで面白い。
とりあえず大山台公園の展望台でシータしつつあれこれ。


新潟市大山台公園展望台からシータ #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA

車であれこれ案内してもらいながら、新潟市の成り立ちについて教えてもらう。
ブラタモリ新潟編をもう一度見なきゃと思いつつ。

新潟市は低地である。しかも砂地。砂の惑星。
信濃川や阿賀野川が運んできた砂がたまって陸地となり、
日本海からの強い風で、いくつもの砂丘による微高地ができた。
それを「砂丘列」という。

昨日今日の走行ルート付地形図をどうぞ。

白い線が砂丘列。砂丘は古ければ古いほど地盤がしっかりしてて、
人々はそこに住み、砂丘列の間にある低地で農耕を行っていたのだそうな。
だからめちゃ低地なのに、ときどき起伏がある。面白い。
逆に言えば住めるところはそこしかないので、古くから争いが多かったそうな。
1911年の地図をみるとすごくよくわかる。
東西の道路に沿って家があるのは、そこが全部砂丘列だったからなのだ。
で、もともとの市街地は日和山がある、信濃川の北側。
少し高いところで地盤が安定しており、信濃川河口を港として
交易で栄えたんだろう。北前船とか。




そんな低地なので江戸時代は長岡藩と新発田藩と会津藩の飛地がまざった土地で、
今でこそ県庁所在地で県名の由来の地だが、城も何もない。

しかも、市街地と海の間に大きな砂丘があるので、海へ行くにはひとやま超えなきゃ行けないというわけである。面白いですな。
昨日訪れた日和山も「砂でできた山」なのだ。

ひょうたん池近くで地形とその利用がよくわかるところを通ってくれたので車窓から1枚。こういうときZR4000の超広角は役立つ。

田圃の両側の森がみえるが、これが砂丘列。
砂丘列と砂丘列の間の低地がこうして田畑になってたのだ。
ちなみにここは海に近い新しい砂丘列で、最初は「隠し田圃」だったらしい。。。



今でもほっとくと水没するので水が流れ込むばかりで出ていかない潟はポンプで常時水を信濃川や阿賀野川へ逃がしていたり、
信濃川河口はほっとくと砂がたまって浅くなるので
24時間浚渫しているとか、
文明の力で維持されてるのである。なんと。

で、大山台公園で眺望を楽しんだあとは、空港脇の海辺へ。
飛行機近い!


フェリーを佐渡汽船のジェットホイルが余裕で追い抜く!


日本海ですなあ。

そのあと、今一番地形的に面白いというひょうたん池へ。

なぜここに連れてこられたか。
今でも阿賀野川が運ぶ砂でどんどん砂丘が成長している場所なのだ。
もうですね、市街地近くとは思えないこの風景。
新潟が砂丘の町だったというのが実感できる。
砂の荒野を越えていけ! 的。



安部公房原作、勅使河原宏監督の「砂の女」の世界ですよ。
穴を掘って岸田今日子が住んでるですよ。

テトラポッドもすぐ埋まります。デューンです。

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今回はInsta360 OneとTHETA Vの作例撮りを兼ねてたので
この手のばかり撮ってました。

面白い動画を撮るならInsta360 One、きれいな全天球パノラマを撮るならTHETA Vですな。どっちも欲しい。

さてさらに北東へ。
ガス石油関連の工場や港がある、というか海岸線工業自体のエリアだ。

インフォメーションの掲示板には、英語・中国語・ロシア語・韓国語が。
とにかくこのあたり「ロシア語」が多いのである。
ちょっとしたガイドも「日本語とロシア語」だったりして、
新潟の第二外国語はロシア語かい!、と思うほど。

でも考えてみたら、このあたりは日本海をはさんでウラジオストクと向かい合わせであり、ロシアが近いのだ。

なるほどなあ。


いやあ面白かった。
でも、ネコと出会ってない。
やばい、今週の猫連載のネタがない!
ネコがいるとこへ連れて行ってください、Wさん←猫好きらしい。

だがしかし、夕刻になるとちゃんと現れてくれるのだった。
帰りの新幹線ギリギリまでネコ撮ってましたとさ。


にしてもだな、
日本って広くない島国だけど、
土地のでき方や使い方ってほんとに地域によって違ってて面白いわ。

新潟市が砂の上に作られていたとはびっくり。
しかも現地に行くと、ほんとに砂。

今回は盛りだくさん過ぎたので、次回はのんびり
日和山五合目の上で昼寝したり、砂の上で昼寝したりしよう。

ご案内くださったIさん、Yさん、Wさん、ありがとうございました。

新潟の〆はルマンドアイスと海老千両チラシ(お勧めされた駅弁)でした。


2015/09/18

危ない地名はほんとに危ないのか?

先日の鬼怒川氾濫で、
また地形と災害の関係や
地名の話が出てきてるわけで
そういうことに人々が関心を持つのはうれしいわけだが、
中には乱暴な言説も見受けられるわけで、
特に地名ネタ。

たとえばこれ
災害の記憶をいまに伝える 日本全国「あぶない地名」 この漢字が入っていたら要注意!(一覧表付き) | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

いってることは概ね間違ってないのだけど、
自由が丘の話はちょっとひっかかる。全体としては古い地名には気をつけよう、なのに自由ヶ丘だけは昭和の地名だ。古くもなんともない。

都内屈指の高級住宅街、東京都目黒区自由が丘。「住みたい街」ランキングでは常に上位にランクされるこの地に、戦後から暮らす80代の男性が自由が丘の過去について、驚くべき証言をした。 
「この辺りには、かつて大岡山から大蛇が襲ってきたという言い伝えが残っています。おそらく水害をなぞらえているのでしょう。今では考えられませんが、かつてこの地では、子供が溺れる水難事故が多かったようです」 
男性によれば、'14年秋のゲリラ豪雨の際、家の目の前のマンホールから水があふれ、蓋が浮くほどだったという。
さらにこれ。2014年7月の記事なんだけど。
ゲリラ豪雨で水没懸念の東京エリア 渋谷、三茶、田園調布も│NEWSポストセブン

基本的には間違ってないのだけど具体例にヒドいのがまじってる。
 ひとつは自由が丘。
自由が丘には過去に農業用水を確保するための六郷用水がありました。ここも水が溢れやすい場所です
えっとですね。六郷用水は自由ヶ丘を流れてません。自由ヶ丘を流れてるのは九品仏川です。

さてどちらも「自由ヶ丘は危ない」的な話なんだが、
自由ヶ丘の由来と地形を見てみると一発でわかる。



自由が丘のという地名は、昭和初期、「自由ヶ丘学園」が作られたことによる。
で、語源となった自由ヶ丘学園は、上の地形図を見るとわかるとおり、
ちゃんと「丘の上」にあるのだ。水害が起きる場所じゃない。
ただ「自由が丘」という地名がこのあたり一帯につけられ、
自由が丘駅が「九品仏川」の谷筋に作られた(このあたり、線路が高架なのですぐわかる)ことで、自由が丘は低地というイメージになってるけど、
本来の自由が丘はちゃんと「丘の上」なのだ。
自由が丘が危ないのではなく「自由が丘駅周辺は低地だからあぶない」
としなければならない。
「本来の自由が丘」は高台なので水が溢れたりは(普通は)しないのだ。

Newsポストセブンのコラムはもうひとつすごいデタラメが入ってて笑える。
 地名から過去の土地利用のされ方を知り、危険を推し量ることもできる。高級住宅街として知られる田園調布は地名に「田園」とあることから類推できるように、「かつては田んぼで農業用水がそこに引き込まれていた。つまり、川が氾濫すれば水に浸かるということ」(同前)なのだ。
えっと、どっからつっこんでいいのかわからないレベルだが、デタラメはこの2つ。

・「田園調布」は古い地名じゃなくて、あとから付けられた瑞祥地名に近い。

・「田園調布」の「田園」は田んぼじゃなくて「田園都市構想」(エベネザー・ハワードが提唱した考え)から来てる。調布(調布村だった)の田園都市だから「田園調布」なのである。


見ての通り、本来の田園調布は思い切り高台である。
田んぼだったことなんて(多分)有史以来、ない。
今は「田園調布」という住居表示の範囲が広がっているので、

かつて川沿いだった低地も「田園調布」だったりするが、
本来の田園調布は高台である。

だったら世田谷区の「成城」は昔、お城があって城址でも残ってるんかい、といいたくなるではないか。んなわけない。成城学園ができて、それが地名になったのである。

このコラム、もうひとつ凄いこと書いてる。
国道246号線沿いの池尻、三軒茶屋周辺は周囲より一段と低くなっている。烏山川や蛇崩川など小さな川がいくつかあり、豪雨になるとその近くでよく水が溢れるのです。
確かに池尻は地名的にも地形的にも目黒川沿いの低地であり、烏山川と北沢川が合流する地点なので、昔から洪水は多かった、というのはいえる。だいたい合流地点はやばい。ちょっと前までは善福寺川と神田川の合流地点でよく水も溢れてたし(今は地下に貯水タンクができたので、そうなる前にそこに水を一時的に逃してる)。

でも三茶まで来ると、烏山川と蛇崩川に挟まれたちょっとした台地なのである。
なぜ周囲より一段と低いなんていえるのかがわからん。
取材した記者がダメな人だったのかもしれない。

池尻は低いけど、三茶はまったく低くない
それはともかく、
大事なのは「今の地名」は昭和30年代に施行された「住居表示に関する法律」によって
住居表示が整理されたため、古くてて狭い地域を示す地名が消え、大きな枠になった結果であること。だから「田園調布」のように人気のある地名はすごく広い範囲に及ぶ。

よって、
地名からその土地の性格を知るには「今の地名をみてもダメ」ということ。
特に昭和になってつけられた瑞祥地名はアテにならない。
見るなら「明治・大正以前の古い地名」でなきゃいけないのだ。
いやそれどころか、古い地図を見ると一発でわかる。
これがかんたんでよい。

埼玉大学の「今昔マップ」である。
今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

知りたい土地の古い地図を見て、水田だったらそこは低地である。
等高線もしっかり書いてあるので谷地もわかるし、
等高線の幅をみれば急斜面かどうかもわかる。
現地に行くと、バス停や公園名などに旧地名が残ってたりする。
それを見つけるのも面白い。

古い危ない地名はけっこう衝撃的なのでネタにしやすいのだが、
(蛇崩とか渋谷とか市ヶ谷とか)
それを今の住居表示エリアに割り当てず、
その地名が本来意味した場所を知らなきゃ意味が無いのだ。

たとえばうちの近所に「希望ヶ丘団地」って高度成長期的団地がある。
「丘」とついてるけど、棟と棟の間に「暗渠」があるのだ。
烏山川暗渠。えっと、丘の上に自然河川の暗渠があるわけないやんか(笑)。
ちなみに、団地裏に公園がある。この公園「葭根公園」という。
昔のこのあたりの地名だ。「葭根」……つまり、アシの根……
思い切り低地地名やないかー。
まあそういうもんです。

なんだかなあというわけでつい書いてみた。
危ない地名は危ないんだけど、危ない地名の表す範囲が昔とは違ってたりするので
ちゃんと調べましょうねという話。

気候が極端になり、災害が起きやすくなってる昨今、
住んでいる(あるいは住もうとしてる)土地に知っておくべし、
という話は間違ってない。

あ、今回の図は全部、
うちのMac上で動いてるParallels Desktop 11上で動いてるWindows10上で動いてるカシミール3Dを使いました。地図と地形データは国土地理院のものです。




2015/09/14

鬼怒川と小貝川。奈良時代と現代。

9月10日に鬼怒川の堤防が決壊したり越水したニュースに釘付けになって以来、
あのあたりが気になって仕方なく、
ジャパンナレッジなどにあたってヒマを作ってはあれこれ調べてたのである。
せっかく調べたのでここに公開。

鬼怒川はもともと「毛野川」と書かれてた(続日本紀など)。
鬼怒川の源流から上流は栃木県(昔の下野国)であり、
源流は栃木県と群馬県の境近く。

群馬県はかつての上野国、栃木県はかつての下野国。
両者はもともと「毛野国」というひとつの国だったが、
「上毛野」と「下毛野」に分かれ、
国名は好字二字で表せというお達しにより
「上野」と「下野」になったわけで、
だからいまでも「下野国」と書いて「しもつけのくに」と読むのである。
文字は消えても「け」は残ったのだ。
で、毛野国のど真ん中を流れてるので毛野川。
もしかしたら毛野国の最初の中心部は毛野川流域だったのかもしれない。
そこまでは調べてないけど。

やがて鬼怒川は南下し、茨城県に入る。
今は茨城県だけど、往古はこの川が
「下総国」と「常陸国」の国境となっていた。

下総国は今の千葉県北部だけど、実は古河あたりまでぐぐっと細長く伸びてた
でかい国だったのだ。
今、そのエリアは千葉県でなく茨城県になっている。

で、奈良時代の話に遡る。
768年。道鏡の時代である。

続日本紀によると、
神護景雲2年(768年)の8月、
こんな奏上がなされた。
講談社学術文庫の現代語訳を元に
めちゃ意訳したものがこちら。

下総国「7年前から毛野川(今の鬼怒川)を掘って洪水を防いでくれといってるのに実現してない。これでは毎年洪水だ」 
常陸国「水路予定地が神社の敷地にかぶってるからムリ」 
太政官「ぶつぶついわずすぐ両国で協力して掘れ 。国境は旧流路のまま維持しろ」 

つまり奈良時代からこのあたりは肥沃であるけれども頻繁に洪水が起きており、
往古から水に悩まされ、治水してきたところなのだ。
(20150915追記:先立つ758年、毛野川の大洪水があり多くの田が被害を受けてる)

大きく蛇行してた旧河道はその名残があり、
奈良時代にどう河道を変えられたかが今でも地図を見るとわかる。
奈良時代の流路が今でもわかるってすごい。
(20150915追記:下記の地図、奈良時代の治水工事の場所が違うかも。
  参考:http://www.kasen.or.jp/c_study/pdf_study02b/study02b_25.pdf
 ちょっと調べ直し中)
当時は大工事だったろうな。



その頃の鬼怒川は、下妻市南部を東に向かい、小貝川(昔は子飼川)に合流。
下妻市以南は今の小貝川が鬼怒川本流だったのだ。

この河道付替えの影響で鬼怒川は徐々に南下するようになり、
その後、何度も治水工事が行われ、
鬼怒川と小貝川に分かれた今の河道となったそうな。

ちなみに、このちょっと下流辺りに平将門の本拠地があった。

今回の豪雨で越水と決壊が起きたのはもうちょっと下流。。
もともと鬼怒川と小貝川に挟まれた低地で、基本的に田圃で、
決壊したらひとたまりもなかったのだ。

iPadのFieldAccess 2で地理院地図と明治の迅速図を重ねてみた。
上のマークが越水箇所。ソーラーパネル設置のため削ったからといわれてるとこで、
明治の迅速図を見ると、確かにここが川が運んだ土砂による自然堤防だったことがわかる。
下のマークが決壊場所。
ちなみに小貝川の「!」マークは昭和61年(1986年)、台風による小貝川堤防決壊の場所。実は約30年前とほぼ同じエリアだ。


今回の被害については
いちはやく国土地理院地図が浸水範囲データを掲載されている。



詳細は下を。
別ウインドウで観たい人はこちらを→国土地理院地図
該当箇所の航空写真を見ることもできる。



驚いたのは、極めて広範囲であること。
無事復旧しますようお祈りします。


個人的には農作物への被害と
東武宇都宮線が気になるところですが←宇都宮で開催される秋のジャパンカップ見学にいく人の足が……←わたしは今回は行かないけど