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2019/03/02

東京古道散歩で崖の上り下りを楽しむ日

cp+もたけなわではありますが、
東京古道散歩で江戸川橋駅集合。

昔から「なぜここが江戸川橋? 江戸川って千葉と東京の境界を流れてる川じゃないん?」
って疑問だったのだが、
江戸時代、神田川の「川から上水をひくための堰より下流」を江戸川と呼んでいたようで。
じゃあ、千葉と東京の(江戸時代は下総と武蔵の)境界を流れてる川はなんなのか、というと、やはり江戸川だったようである(下記は文化2年の葛西筋御場絵図より)

なんともまぎらわしい。

で、江戸川橋からまっすぐ北へ伸びる道は護国寺への道で護国寺が開創されたとき谷地に作られた江戸時代の道。
江戸川橋を渡り、護国寺へ行かずに、すぐ左折して西に向かうのが「清戸道」。
目白通りの旧道。でもってもともとの「目白坂」。

目白坂を上り、右手に江戸時代に移転してきたお寺や、
かつて「関口八幡宮 上の宮」と呼ばれてた「正八幡神社」(なぜ関口八幡神社にしなかったんだろう)、神社の前あたりで道が不自然に右にカーブし、
カーブするとこがちょっと膨らんでる。これがミソ。

ここにかつて新長谷寺があり、そこに戦後まで目白不動がいたのだ。

「スーパー地形」アプリより
とまあそんな話をしつつ坂を上り、
左手の幸神社(これ、庚申様があったというから、庚申社→幸神社、と変化したんじゃないかなあという気はしないでもない)、このあたりに駒塚もあったという。
まあ目白坂は古い道筋なのだ。

椿山荘前を通り、胸突坂を下り、水神社(昔は水神社兼関口八幡宮 下の宮だった)や芭蕉庵。この坂は元禄の頃に作られたそうである。

崖下の道を西へ。これも江戸時代前期の地図に見える古い道。
このまま現目白不動へ淡々と歩くのは面白くないので、
途中、日無坂を上り、振り返って絶景を楽しむ。
この坂は文京区と豊島区の境界線。昔からある坂だ。
だがこれは急で狭すぎるってことで今は斜めに下る新しい「富士見坂」がメインとなっている。だから日無坂は幅も斜度も昔のまま残ってて古い家もあり
でも坂上からの眺望は東京らしいビル群が霞んでて対比がたまらんのである。。

次の坂を下る。こちらは寛文期の地図に見られる古坂で、
稲荷坂というらしい。坂の上の民家に小さな屋敷稲荷っぽい稲荷が残っているがそれのことか。
当時の地図にあるクランク状の道がそのまま残っているのがミソ。

金乗院で倶利伽羅庚申や目白不動を愛で
(門前に、はせ寺の石柱が建ってた。廃寺になった際、旧地から持ってきたのだろう)
宿坂を上り、コンビニで休憩。

意外にあたたかな日で水分補給必要なのだ。

鬼子母神参道を北上し、手塚治虫が一時期いたという並木ハウスを愛でたのち
鬼子母神。
そこから少し戻って鎌倉街道跡と鎌倉橋跡。

法明寺をぐるっと回って威光稲荷。
あとは鎌倉街道を北上(区役所前の道)して東池袋で解散。

有志で鳥良。





2019/02/12

葺城稲荷が地形ごと消えていて驚いた日

久しぶりに日経BP社へ取材されに行く。

そののち、神谷町から虎ノ門のあたりをぶらぶら歩く。
虎ノ門ヒルズを皮切りに、ヒルズな会社(森ビルだけど)を中心に
大再開発大会が行われててちょっと気になってたのだ。

まずは神谷町の「我善坊谷」としてその筋に知られる
西久保八幡のある山と仙石山(江戸時代仙石邸があった)にはさまれた
ちょっとした谷がある。

ここ、森ビル系の再開発の波が押し寄せ、谷地全体が買い取られ、
更地化が進んでいるのだ。

以前は建物にまぎれてわからなかった西久保八幡の山も
今は北側から丸見え。
地形がよくわかりますな。
この写真、奥に見えているこんもりした山の上に「西久保八幡神社」があり、
貝塚も発見されてる。
太田道灌がここに遷座したそうな。

で、上の写真をよく見ると、山の下に土色の物体が並んでる。
拡大すると「甕」のようにみえる。
(肉眼では全然わからなかった←視力に難があるもんで)
FBに写真を上げたら、
不発弾に見えるとか(をい)
中世の古銭がはいってた埋銭の壺じゃないかとか
いろんな節が出てきたけど
江戸時代に死体を埋葬していた甕棺説
が信憑性高いかなあ。
機会があったら尋ねてみたい←誰に?←港区郷土資料館?

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追記。東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスで発見。
大養寺跡で、棺甕、焼骨壺が出土してるらしい。これの一環?
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ちなみに場所はここ。西久保八幡の北側崖下。



さて我善坊谷を出て北上して虎ノ門へ。
そこらじゅう削平してビルを建ててて昔何があったさっぱりわからん始末だが
一箇所だけ「あれ?」ってとこがあった。
国道1号の1本裏の道沿い、
崖の上に小さな稲荷があったのだが、
それが崖ごとなくなってるのだ(上記地図参照)。
なんてこった。

それが葺城稲荷(ふきしろいなり)。
今は風景はこう。

で、福山通運のワゴンが止まってるそのむこうの電柱に注目。
2009年にはこの電柱のところがこうだったのだ。
よーくみると、プラザホームズの看板の上にあるパネルに「1396」って書いてあるプレートがあるので同じ電柱のはず。
2009年撮影

ここ、台地の端を削って道路が作られていてその上に葺城稲荷があったのだ。
階段を上るとこんなだった。
2009年撮影

2009年撮影

ああ、地形ごと全部削っちゃったのね。
このあたり元禄時代に代地替えを命じられて越してきた「家づくりの屋根の職人」が集まった街で「葺手町」と名づけられた場所。屋根を葺く人だから葺手なのですな。
で、この稲荷、そのときに町の人によって台地上にあるのを「発見された」神社なのだという。
もっと前からあって、祠だけが残っていたのだろう。
いやあわくわくする話ではないか。
当初はもうちょっと山の方にあり、その山は中世の城館があったという伝承が残っていて「城山」と呼ばれていた。
葺手町と城山で「葺城稲荷」となったんだろう。

なんか地形的にも周りとのギャップ的にもすごく風情のある一角だっただけに
丸ごと削られたのが悲しい。
ちなみに、今は西久保八幡神社に仮遷座されていて、ビルが完成したらまた戻ってくるそうだが、それならいっそ「地形ごと」残しといてくれればいいのにねえ
残念。

まあ稲荷があるから削られずに残っていたような場所だったわけだが
21世紀になると神社があっても構わず削ってしまうのですな。






2019/02/02

東京古道散歩の日

東京古道散歩本番。

上北沢駅スタートなので
そこまで自転車で行く。
上北沢は世田谷区で、そこに世田谷区の駐輪場はないし、京王線の有料の駐輪場も上北沢駅には用意されてない。そこでググると、上北沢には駐輪場がないよっていわれてるけど、実は、ちょっと歩くけど(徒歩4分くらい?)、首都高の下に「杉並区の無料駐輪場」があるのだ。鎌倉街道入口交差点のとこ。
遠いけど、無料なのがいい。


13時半に上北沢駅改札口集合。
上北沢駅北口から北上し、甲州街道へ出て、右折して東へ。
甲州街道高井戸一里塚跡の解説板。
このあたり高井戸宿があったところ。

その少し東に鎌倉街道入口の交差点あり。

ここが今回の本当のスタート地点だ。
ここから北へ向かう道が「鎌倉街道」とされている。
鎌倉街道というくらいなので「南」へも通じてなければならないわけだが、
そこはいい道が残ってない。いくつかルートの候補はあるけど、
最短距離で行くなら、「船橋」経由(船橋の語源は鎌倉街道の船橋が烏山川にかかっていたからといわれてる)、芳賀善次郎氏の説だと、いったん西に向かって祖師谷道。
まあどっちかがありそうだな。

北へ向かうと、やがて「鎌倉橋」という橋に出る。派手な鎌倉街道の石碑あり。


この話の元ネタは、文政年間に書かれた「武蔵名勝図会」。
鎌倉橋にある解説板にそう書いてあった。
原本にあたってみたいと思っていたら、
国立国会図書館デジタルコレクションにあるのを何年か前にみつけた。
大正時代の写本だが、全然読めない。
なんとか、友人知人の協力を得て解読したのがこちら。
「鎌倉橋:上下高井戸宿の境にあり。古への鎌倉道にて、南より来たり、橘樹郡へ出て宿河原辺にて玉川を渡り、世田ケ谷領へ掛り、此所へ来り。是より北へは大宮八幡の大門通りを過て、中野村追分へ出る。それより中山道板橋へ行くなり。今は農夫樵夫の往来道となり野径の如し」
いくつか地名が出てくる。
A:上下高井戸宿の境……この鎌倉道の東が下高井戸宿、西が上高井戸宿だった、ということだろう。

B:宿河原あたりにて……今の宿河原。ここで多摩川を渡ったそうで、江戸時代でいう登戸の渡しか。中世と江戸時代以降では多摩川の流路が違うのでなんともいえないがまああの辺だ。あの辺を渡って高井戸へ向かうには世田谷領を斜めにつっきるのが最短距離であり、そう考えると、喜多見を抜け、大蔵あたりから祖師谷か船橋を通過して高井戸へ至るというのが一番シンプルだ。

C:大宮八幡の大門通り……鎌倉橋を渡ると大宮八幡の大門通りへ向かうとある。今の「鎌倉通り」は鎌倉橋を渡ってまっすぐ北上するが、それだと大宮八幡へは人見街道経由になって遠回り。明治期の地図を見ると、崖下の微高地をほぼ最短距離で大宮八幡へ向かう道が描かれている。それだ。

というわけで、それで大宮八幡宮へ。南門からはいる。


大宮八幡宮に参拝して遺跡を観たりしたら東へ抜ける大門通りへ。

D:中野村追分……中野追分である。今でもそれっぽい場所は残っている。青梅街道の「鍋屋横丁」の交差点あたりといってもいい。
まず大宮八幡宮参道(江戸時代は大門通りと呼ばれていた)の終点あたりから北へ向かって善福寺川を渡り、堀ノ内熊野神社脇の坂を上る。


あとは「中野村追分」まで、十貫坂をのぼり、ほぼ最短距離でつながってる古い道がある。その青梅街道との交差点が「鍋屋横丁」。中野追分はその少し西だが、ほぼ同じと思っていい。

という感じで、歩いたログがこちら(地図は明治時代後半のもの)。
なかなかいい感じでつながってる。
まあ、芳賀善次郎氏が「鎌倉街道探索の旅」で示した鎌倉街道のルートを、武蔵名勝図会の記述を元に再確認したって感じではあるんだけど。


ちなみに、このルートは信号も少ないし交通量も多くないので自転車で走るのがお勧め。
上北沢や八幡山や桜上水の人が中野へ行きたいときとか。

まあ、なかなか地形的にもルート的にも好きなコースである。

で、サイゼリヤでちょっと打ち上げして(新中野駅前にちょうどあったので)帰宅。









2017/10/09

Down the JaKuzure!

「『Down the JaKuzure! 〜蛇崩川を行け〜』ファイナル」の日。
ご近所に住んでる街歩き仲間、W氏とT氏とわたしの3人が主催の街歩き。
なんと参加者約40人。

いやはや、三茶から中目黒まで蛇崩川とその支流跡を歩くだけという
地味なアレなのだけど、毎回びっくりさせられますな。

コースはこんな感じ。
背景の地図は明治後期のもの。

前回の終了地点から蛇崩川緑道沿いにスタート(明治期の流路と、最終的な高度成長期の流路がけっこうずれてて面白い)。

ちょっと歩いて川跡を離れ、陸軍駒沢練兵場時代の唯一現存する建物をちょいと見学。

今は在日韓国民団 東京世田谷韓国会館として使われている。
戦前の木造建築なのでかなりヨレているのだが、どうするのだろう。

いったん蛇崩川流路に戻り、その支流へ。
源流部の「鶴ヶ久保公園」がいい感じの谷頭で、往時はこのあたりから水が沸いていたのだなと思わせてくれるのである。
しかも、戦前の「東京市」時代のパネルが現存。これはレア。

また蛇崩川跡へ戻り、舌状台地の端に作られた駒繋神社へ。
江戸時代は「子の明神」といわれてた。江戸名所図会にも出てくる有名な神社。
源頼朝が「馬を繋いだ松」があり、だから明治になって駒繋神社と名前がつけられた。
まあ、源義家・源頼朝伝説が残る、鎌倉街道近くの神社なのである。
暗渠の上の赤い神橋がいい。
駒繋ぎの松は……「三代目の切り株」だけが残ってた。

ふたたび流路に戻り、次のスポットは「芦毛塚」。
源頼朝伝説のひとつで、ここで、頼朝の葦毛の馬が暴れて沢に落ちたため、
このあたりの地名が「馬引き沢」(馬を引いて渡る沢)となり、沢に落ちて死んだ馬を埋めて塚にしたのが芦毛塚という伝承。
真偽はもちろんアレだが、江戸時代には「芦毛塚」として知られていた。

そして蛇崩交差点経由で、次は祐天寺駅の方へ延びる支流。
ここ、緑道として整備されているのだが、その入口のアーチがなかなか面白いデザイン。

支流の谷頭へ行き、鎌倉古道といわれる路を通って戻る。
途中、五本木の庚申塔群がある。

祐天寺駅をすぎてしばらくすると、坂の上から高層ビルが見える。
多分、国道246沿いにあるセルリアンタワー東急。
それが遠くから電線ごしにみるとなんか帝国っぽい。

なんか帝国っぽいでしょ。悪の組織がありそうな。

蛇崩川に戻り、烏森稲荷へ。ここ、諏訪山の崖下にあり、今でも水が沸いてる。地形的には蛇崩川流域で一番やばそうなエリアじゃないかと思う。

そして中目黒駅前を経由して、蛇崩川と目黒川の合流地点へ。

そこで解散。これだけの人数がぞろぞろと歩いてたのである。何度か「これ、何の集まり?」と聞かれたそうです。さもありなん。


いやあ、面白かったけどよく歩いて疲れたわー。
さりげなく遺構が残ってたり、地形と史跡の関係を味わったり。
みなそれぞれ楽しんでいたようで何より。

怒濤の三連休終了。







2017/10/01

文京区探索委員会スペシャルで小石川・伝通院散歩の日

朝10時に茗荷谷駅へ。

ボランティアを含むスタッフをいれて総勢29人くらい?
新潮講座で見知った方も来てくれてうれしい。
Peatixで古地図散歩で調べたら出てきたので来てみたって人もいてうれしい。
参加してくださったみなさまありがとうございました。
てなわけで
けっこうな人数で街歩きスタート。

新潮講座の半分くらいの速度で歩く感じ。
でも個人的には、ウォーキングに参加したわけじゃないから
ひたすら歩くよりは、
ちょくちょく止まっては写真撮ったり
ディテールを楽しんだりしたいので
この方がよいかと思ったりもしております。

隠れテーマは
「史跡は点で捉えるな、線で追え」です。
史跡散歩系って、
どうしても「そのエリアの史跡にピンを立てて、最短距離で回ろう」としがちで
そうすると、点でしか歴史を感じ取れない。
でも歴史って点でみても「ふーん」で終わっちゃう。
古地図を使って古道を歩くと、史跡の位置関係を線で捉えられるからいいのだ。

今回も、
古い坂を下って、川越しに簸川神社の山を見上げた江戸時代の人たち、
簸川神社へ行くと、善仁寺門前の人たちが立てた……なんだっけ? まあなんだかがあり
このあと小石川沿いに播磨坂下へ向かい、ランチを食べ、
播磨坂によって宗慶寺が移転した話をし、
極楽水の跡地から善仁寺。
実はこのあたりは伝通院の旧社地でした、のあとで
松平播磨守屋敷跡のエリアを道で示し、
播磨守は登城するときこの道を歩きましたと三百坂を進み、
現伝通院へ、
というひとつひとつの史跡がつながってることが感じられるルートを作ったのである。
それをわかって楽しんでもらえれば幸い。

この会は地元の老人たちも参加するのでいつもドキドキする。
だって、昔話は古くから住んでる人にぜったい叶わないもの。
今回も、大塚女子アパートは実は春日通り拡幅の際、建物を持ち上げてそのまま
動かしてセットバックした話とか、
わたしがまったく気づいてなかった、三百坂下通り沿いに手塚治虫の曾祖父が住んでたとか
(確かに、江戸切絵図を見ると、「手塚」と書いてある!)


今は東京学芸大付属小学校だか中学校だかの校庭です。

こちらが教えて貰いつつの散歩なのでありました。
当方としても、地元の古老(といったら怒られるかw)の方から
直接話を聞けてすげー楽しい。
歩くペースを落とした分、そういう話を引き出すこともできたし。

伝通院には予定より早めに着いたが、
その分、
極楽水の場所に伝通院の前身を開いた、了誉上人のお墓や(極楽水のところで上人の話はしてある)、浪士組を作った清河八郎の墓や(その前に処静院跡地で浪士組と新選組の話はしてある)、千姫や於大の方の墓所を回ることができた。

終了後、
有志でそのまま
沢蔵司稲荷(ここは地形的にも大らかさ的にも超お勧め)を楽しみ、
伝通院門前から安藤坂を下りて牛天神、
さらに下って諏訪神社、隆慶橋を渡って
飯田橋駅で解散。


で、だな。
歩いた距離はいつもの街歩きと変わらない(それより短いくらい)なんだが
今週はずっと家に篭もって仕事してたせいか
めちゃ疲れたのである。どはー。
牛天神から素直に後楽園駅へいって解散にすればよかったw


2017/08/20

迎賓館赤坂離宮を堪能した日-本館ライトアップ編-

本館を堪能したら18時半。
前庭へと移動する。
18時45分からライトアップなのでそれ狙いである。
夜景作例も必要だったことだし。


そのために、手持ちスローシャッターができるカメラとレンズを持ってきたのだ。

ライトアップ前とあとをどうぞ。

ライトアップ前。

ライトアップ後。

ライトアップ前のマジックアワーな迎賓館もよいですな。
で、あれこれ写真を撮って回る。




WBはその都度調整しながら撮っております。
ちょっとライティングの赤みを残したいときもあれば、
WBをライティングに会わせて迎賓館を白く出したいときもある。
というわけで。

そしてそろそろ帰るかと迎賓館から離れていくと、


近くで、空爆でもはじまったかのような轟音が響く。
神宮外苑の花火大会がはじまったらしい。

この花火大会って好きじゃないのよね。
場所柄高く大きなのを打ち上げられない上に
音ばかりでかくひびくから、
空爆を想像しちゃう。

森の隙間からちょっとだけ花火を覗く。
噴水と花火。
いやあ、こういうとき、E-M1 Mark IIと12-100mm F4のカップリングは最高だわ。
手持ちでもISO感度を上げないでこれだけ撮れるもの。

ライトアップは19、20日だけだけど、
本館の一般公開は29日までなので、行くべし。
個人的なお勧めは、本館主庭の噴水と地形です。

で、帰宅。



迎賓館赤坂離宮を堪能した日-地形と本館編-

作例撮りついでに、赤坂にある迎賓館赤坂離宮へ行ってきたのである。
土日はライトアップする←夜景作例を撮れる!
一般公開日で本館の中に入れる上に、藤田嗣治の絵も観られる!
というわけで行かねば案件だったのだ。

実は本館内の一般公開へ行くのははじめて。
四ッ谷駅で降り、正面から入ろうとすると、


本館を観覧する人はこっちじゃなくて、西門へ回ってくれといわれる。
ぐるっと鮫河橋方面へ少し歩くと、西門。
警備員に見つめられながら撮影。
少しだけ空いてる簡素な門から中へ入る。

人が少ない。もっと大勢おしよせてるかと思ってたのだが、ちょっと拍子抜け。
このまま案内に従って奥にある受付へいけばいいのだが、
その前に見逃してはいけないポイントがひとつ。
それは首都高。
迎賓館敷地内を首都高が走ってるのだ。

正確にいえば、敷地の地下を首都高が走ってて、
その一部が吹き抜けになってて上からみえるのだ。
このときカメラはバッグに入れっぱなしだったのでiPhone+ワイコンで撮影。


これは面白い。
地図でみるとよくわかる。
今日歩いたログごとどうぞ。「スーパー地形」アプリ。

首都高が前庭の真下を抜けているのがよくわかる。

ちなみに赤坂離宮跡は戦後、国に移管されて様々な用途に使われ、迎賓館の前は「東京オリンピック組織委員会」が置かれたそうで、ここを首都高が通ったのは1964年なので、オリンピック直前である。

その後、1974年から迎賓館として使われるようになった。

首都高を堪能した後は受付。
行列用のロープが虚しいくらいに誰もいなくてびっくり。
ここの一般公開日って来場者がすごく多くて混雑してるってイメージがあったのだけど
そんなことはないのか。
あるいはけっこう一般公開してるので、昔ほど珍しくなくなったのか。

来場前に細かく持ち物検査が行われ、
そののち、チケットを買って入場。
今回は藤田嗣治の絵が展示されている分、普段の一般公開よりお高めらしい。

わくわくである。
で、入場。
見学できるのは本館内と主庭で、本館内は撮影禁止だけど、主庭はOkというのでカメラを取りだし、
真っ先に主庭へ。
赤坂御用地の地形を見たかったのだ。
上記地図で分かるとおり、主庭の南側はぐっと下がった谷地になってるのである。

本館のある土地から1段下がって噴水があり、さらにぐぐっと下がってるのがわかるかと思う。
徐々に南下する。
噴水を撮りながら、NDフィルタもってくればよかったなと思ってもあとの祭り。
E-M1 Mark II + 12-100mm F4という史上最強手ブレ補正コンビなのである程度のスローシャッターは手持ちでイケちゃうのだ。


さらに噴水の裏側へ。いよいよ高低差である。


この下には降りられないが、隙間から池の水がみえる。
警備員さん曰く、この向こうは迎賓館ではなくて赤坂御用地で皇室の土地なので、階段を降りてもその奥に柵があって入れない。
ここから御用地が覗けないよう、高い木が植えられた。
御用地の森にはタヌキやハクビシンやノラネコがいる。
そうである。

前掲した地図でわかるように、赤坂御用地は昔の複雑な地形がそのまま残っていて、
その中に古道跡があるという話もあり、
古道好きとしては一度散策してみたいのだが、無理だろうなあ。

で、地形と噴水のガーゴイルを楽しんだら、

本館へ。

本館内は撮影禁止。
とりあえず、明治時代後期に西欧に負けない西欧的な建築を、ってことで作っただけあって、けっこう絢爛で宮殿風。

どこもかしこも、欧州宮殿的で当時の日本のコンプレックスや、西欧風にしないと欧米から一人前の国と思ってもらえなかった事情もあるのだろうなと思いつつ
建築や意匠を楽しむ。

どの部屋にも少しずつ和のテイストが紛れ込んでいて、
豪華絢爛なシャンデリアがぶら下がってる花鳥の間に、
日本の花や鳥を描いた七宝焼きが飾られてたり、
ナポレオンの帝政時代にフランスで流行したアンピール様式を取り入れたために
なぜかエジプト風の意匠がはいってて、
でもドアの上に鎧兜の武者がまじってたりするのが
面白い。

堪能してたら、偶然、大昔の会社員時代の同僚にばったり会う。
互いにびっくりする。

本館を堪能したら、
前庭へ。

---以下後編---