★真夜中のひとりごと★

二児の母「たっちー」のひとりごとです。

一番大切なのは、、

2005å¹´04月29æ—¥ | â˜…人生いろいろ
見慣れた茶色の服、涙こらえ「母です」中3息子が確認 (読売新聞) - goo ニュース

あの日、私は東京に電車で出かけていた。
この電車事故ニュースを知ったのは電気店のテレビコーナーでテレビに映し出された映像だった。
目を疑った。「これは一体…??」

ずっと前から漠然と思っていたのだが、この電車事故で「明日の命の保証など誰にもない。」ということをさらに改めて感じた。日々の何気ない一瞬一瞬、今ここを大切に生きること、生きられることががどれだけ大切で、どれだけ尊いことかを思い知らされた感じだ。

JR西日本は、時間に遅れることやオーバーランをした運転士のことをリンチのごとく問いただしていたそうだ。そんな1分くらい遅れるぐらいのことや40mのオーバーランなど、こんな事故と比べたらはっきり言ってたいした問題ではないと思う。1分1秒、例え1時間遅れようとも、駅を通り過ぎてしまおうとも、安全に人を運ぶことができればそれでいいではないか。

一番大切なのは、人の命なのだから。

その大切なことを忘れてしまった会社の儲け主義体制が、あの、まだ成長途中の運転士の心を焦らせ、事故を引き起こしてしまったんだと思う。時間の遅れやオーバーランは謝ってすむことだが、今回のこの事故はいくら謝っても償っても刑務所に入っても罰金を払っても遺族の方々に許されないことだと思う。
時間の遅れやオーバーランはないに超したことはないが、そんな小さなことを問いただすよりも、一番大切な人の命を守ることを最優先にする運転や会社のサービスを鉄道会社はしてほしいと思う。

時間など多少遅れてもいい。
少しくらいオーバランしてもいい。
そんなことくらいあとで笑ってすまされる。

でも、人の命は二度と戻らない…。

犠牲になってしまった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

わたしのなまえと夫婦別姓

2005å¹´04月27æ—¥ | â˜…夫婦別姓
私のなまえは、5文字。
私は自分のこのなまえが大好き。
それは自分にとって特別だと思えることが多いせいかもしれない。


生まれてから32年間、同姓同名に一度も会ったことがない。
音の響き的には珍しくもないが、漢字が少し変わっている。

以前、ニュースで、踏切内で立ち往生した車の中で電車と事故にあった5歳の女の子のフルネームの読みと、名前の字が私と同じだったことがあったが、今までそれくらいしか同じなまえは見たことがない。あの子は助かっただろうか…。どうか助かっていますように。

あまりにいないので、まったくの同姓同名に一度会ってみたいなぁなどとよく思うくらいだ。

ところで、なまえとはご存知、氏名というように、氏(うじ)と名(な)から出来ている。氏のことを他に、姓(せい、かばね)、苗字、名字(みょうじ)ともいうが、それぞれ実はちゃんと意味がある。この中で苗字という字の「苗」とは「血筋」という意味を表すらしい。私はこの苗字という言葉が意味合い的に一番好きなので、ここでは苗字という字を使うことにした。


私の苗字は、関東地方にはほとんどいない。
そもそも会ったことがないのだから、たくさんいるわけがないけど。
そのためか、初めて行くお店や病院、初めて会った人などにはちゃんと読んでもらえないこともたびたび。苗字の漢字のそれぞれを単語で分けると、簡単に読める字なんだけれど、組み合わせると特別な読み方をするのかと思ってしまうみたい。しかし、読みはとても単純。どこかの市の名前と同じなので、漢字をその市の名前と書き間違えられる。でも、珍しい苗字なので漢字を見せて名乗れば、インパクトがあるのでだいたい一度で覚えてもらえる。


そういえば、この苗字の発祥の地のらしき近隣の場所では面白いことがおきた。
一度、その近隣に遊びに行ったとき警察が検問をしていて、その警察官に私の免許証を見せたら、
「たっちーさん(もちろん苗字でいわれたが^^)、会社の帰り?
 気を付けて帰ってね。」
などと言われて友達と一緒に笑ったものだ。
実は、300kmくらい離れた土地に暮らしているのにね(笑)
そう言われたのはその地域では、それなりに普通にいる苗字だったからだった。そのとき、まったく暮らしたこともないそんな遠い場所に不思議な愛郷心を持った。
その土地には今は無縁仏となってしまった私の父方の曾祖父の立派なお墓がある。そして、もう一つ、父方の曾祖母と祖父母のお墓もある。

名前も、この字を使う人はほどんとおらず、よく書き間違えられたり、ワープロの日本語変換に登録されていないおかげで、変換間違いはしょっちゅうある。訂正するのもいい加減に面倒になってきているが、やっぱりなんだか気持ち悪いので、訂正させてもらっている。足りない偏をよく付け加えたりしてる。

そんなわけで、私のフルネームは、そんな珍しい苗字と名が組み合わされてできている。しかし、特別と思えるのはそれだけではない。

フルネームが並んだときの漢字の見栄えがこれまたなんともいいのだ。
我ながら見ていて感心してしまうくらい。
まるで芸能人か、著名人になったらすごく様(さま)になりそうな字をしていると思う(笑)
友人や親にもそう言うと、同感してもらえたりする。
そして、苗字に合わせて付けている名前であるため、画数もきちんと考えられていて、とてもよい画数に仕上がっている。これは私が女であるにも関わらず、両親も親戚も一生名乗っていくなまえとして、私に付けてくれた運命のなまえように勝手に思えてしまう(笑)

そんなフルネームの漢字自体はとっても簡単で、小学校1,2年生ですべて習ってしまう字だ。自分が簡単な字だったので、難しかったり、複雑だったりする漢字のなまえを持つ子がよくうらやましかったりしたものだった。

そんなこんなのエピソードがもりだくさんなので、自分にとっては、余計にこのなまえが特別に思えてくる。この世で今のところは、自分しかいない、自分に与えられたこのなまえに誇りや運命共同体とも感じる。だから、私は例え結婚しても、この、愛着があり、自分の一部であるなまえをあらゆるところでこれまでと同じように使い、死ぬまで名乗って生きて行きたい。


以前、夫婦別姓に反対する方がコメントをくださり、夫の苗字に変わる良さを言われたことがある。
ある友人には、名前ごときで好きな人と別れてしまうのは悲しくないか?その人より名前の方が大切なのか?名前が変わっても慣れてしまえばなんてことはないよ、と言われたことがある。

しかし、そうは言われても、私は自分のなまえに愛着と誇りを持つからこそ、改姓する価値がまったく感じられない。別姓に反対する方や友人が女性としてそう思っていても、すべての女性が同じように思うとは限らないと思う。「人は人、自分は自分」で千差万別なのだから。
だからといって、私は夫婦同姓にしたい方々の夫や妻の苗字に変えることがおかしいとも、いけないとも別に思わない。すべての人が夫婦別姓になる必要などないと思う。本人が同姓か、別姓にしたいのであれば、それを選択することが一番いいと思う。

私がもし我慢して改姓したら、きっと精神的に病んでしまいそうな気がする。私にとって苗字を捨てる、変えると言うことは、私の身体の一部をもぎ取るのと同じことだ。改姓した苗字を呼ばれるたびに、まるでグサグサとナイフでつき刺され血をダラダラ流し続けるような苦痛が襲うと思う。

「私はこんななまえじゃない!」...と。

それに、女性が苗字を変えて嫁ぐことで、男性の苗字ばかり残っていってしまうことにも、とても不満と不公平を感じる。同じ一人っ子でも、男性が結婚する場合は当然のように嫁である女性に苗字を変えさせるのに対し、女性の場合は、婿である男性に変えてもらうとき、男性本人も嫌がるが、だいだい男性の親や親戚などに猛反対されて、破談になる可能性が高い。それは社会や周囲が婿であることをバカにしたり、低く見る風潮がまだ少なからずあるからだろう。そして、どこか男尊女卑がまだ根強く残っているのだ。ということは、女性の一人っ子は、「結婚するな。」「女性の苗字は途絶えてしまえ。」と言われているみたいで、すごく不公平で腹立たしい。以前、私はそういう親にあったことがある。言葉は悪いが、正直言ってそういう慣習は「ムカつく!」の一言。私だって、苗字を自分の子どもに残したいのに、ひどい話だ。女であることをもっとも恨む瞬間である。

だから、私はどちらかの苗字を犠牲にするのではなく、両方の苗字を残したいと思っている。
そして、昔のような「○○家」という決まりきったしきたりでの付き合いではなく、両方の両親を、それぞれを産んで育ててくれた大切な人として、末永く付き合い、夫とその両親、私と両親とみんなで助け合って共に幸せに生きていきたい。

私は自分と同じ苦痛を相手にも負わせたくない。
だから、私はお互い苗字を変えたくない場合に、夫婦別姓を「選択」したいのだ。

ベアテ・シロタ・ゴードンさん講演会

2005å¹´04月25æ—¥ | â˜…人生いろいろ
日本国憲法の草案作成に携わり、両性の平等を憲法に入れることに尽力したアメリカ人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンさんの講演会で東京・霞ヶ関の弁護士会館に来ています。

4/30(土)から映画「ベアテの贈りもの」が岩波ホールで公開されるそうです。

後でこの講演の感想を書こうと思います。

著書「1945年のクリスマス(The Only Woman In The Room)」を1800円で購入しました。



感想はこちら。

今日の運動

2005å¹´04月16æ—¥ | â˜…人生いろいろ
プールに2週間ぶりに行きました。

今日こなしたメニューは、

水中ウォーキング 5分
50m×4=200m
100m×3=300m

でした。
昨晩の時点での体重と体脂肪率、

54kg 26%

理想と目標は、52~53.5kg、22%くらいかな。

背中についている余分なぷよぷよを落としたいな。

私が学校から学んだこと

2005å¹´04月06æ—¥ | â˜…人生いろいろ
顔文字や今どきの日本語も…中学教科書検定 (読売新聞) - goo ニュース

昨日、この記事を書いていたのだが、なんともグットタイミングなニュースがあった。

詰め込み教育の失敗、ゆとり教育の失敗、と学校教育が今揺らいでいるなぁと感じている。
さらに、復古調の思想が何やら高まってきて、国旗や国家斉唱を強制したり、ゆとりといいつつ、人間にとって大切な事が何かも教えられないし、先生が不祥事を起こし、せっかくいい先生がいても潰されるという、まったくもって訳のわからない状態だ。「ゆとり」の意味をはき違えている気がする。教科書から削除しなくてもいいことまで削除するなんておかしい。教科書がどうのというより、実際の授業でどう教えていくかが問題ではないのか?そもそも、どういう教育をしていこうとしているのかのハッキリした目標がない気がする。

私にはまだ子どもはいないが、もし、こんな状態で自分の子を今の学校に行かせなければならないというのであれば、何か考えてしまう。

私が育った世代は第2次べービーブーム世代。右を見ても、左を見ても自分くらいの年齢の子どもばかりだった。学校では、勉強が出来さえすればいい子、学歴がすべて、という教育で、社会もそういう思想があった。さらに考え方も格好も好きなものも同じでないとおかしい、いけないみたいな思想もあった。男は男らしく、女は女らしくをやたら強制された。私は、大人も子どももみんなそろってそう考えているそんな思想に小中学生の当時とても嫌気が差していた。

そんな私が学校から学んだこと。

人間への憎悪。蔑まれること。差別。仲間はずれ。
同じでなければいけない。勉強ができさえすればいい。
男は偉い。女はひっこんでろ。

だから、私は学校が大嫌いだった。
今もあまり好きじゃない。先生から習うのはいまだにどうも苦手だ。


確かに勉強は出来た方がいい。
しかし、私は「何のために勉強するのか?」を先生に教えて欲しかった。
学ぶ楽しみを教えて欲しかった。

昔、こんな先生がいた。
高校の時、数学でわからない問題があって、先生に聞きに行った。
私はヒントだけ欲しかったのに、先生は最後まで答えを出してしまった。
私は、推理小説の犯人を、小説を途中まで読んでいる最中に言われてしまったようなショックを受け、すっかりやる気をなくした。
数学は、答えが出た瞬間が面白いのに、先生はその楽しみを私から奪い取った。
それと同時に「なんてことだ。これが数学の先生なのか?数学の面白さを伝えられないだなんて信じられない。」と疑った瞬間で、もう二度と先生には質問しないと決めた瞬間でもあった。

学校とは子どもが初めての社会生活を営み、学ぶ場所。
私は、どうやって大勢の人と協調しながらも、自分を出してしていけばいいのかの社会的ルールや、みんなで議論して物事を決めていくやり方を実際にやってみて、教えて欲しかった。
リーダーとは何か、協力しあうとは何か、仲間とは、人生とは、生きていくとは何かを教えて欲しかった。

今、こんなことをきちんと教えてくれる、教えられる学校ってあるんだろうか。
そんなことを教えられる親もどれだけいるのだろうか。

私にお金と力があるのなら、素晴らしい人間を育てていく学校を作りたいと思った。

学ぶことの楽しさを教えてあげたい。
社会で協調しながらも、自分らしく生きていく術を教えてあげたい。
マナーを教えてあげたい。
自分自身や自分の周りの人たちを幸せにしていくための術を教えたあげたい。
みんなのリーダーという誇り、仲間で助け合うことの喜びを教えてあげたい。

そう思った。

しかし、夫婦別姓のことが教科書に載っていたのに、削除されてしまったらしい。
残念だなぁ…。

3月24日:戸籍続柄裁判控訴審 判決

2005å¹´04月04æ—¥ | â˜…夫婦別姓
非嫡出子区別記載、プライバシー侵害せず 東京高裁判決 (朝日新聞) - goo ニュース

先にも書きましたように、東京高等裁判所に判決を見に行きました。

「主文を読み上げます。本件控訴を棄却する。」

判決を言い渡した太田幸夫裁判長は、棄却の理由もまったく読まず、なんとも短い悪意に満ちた、まるで吐き捨てるかのように言い放った判決でした。判決を言った後、足早に去っていきました。その歩き方はまるで、
「こんな面倒なことで、国や俺をわずらわせるんじゃない!」
とでも言いたげな、門前払い状態でした。

そんな腹の立つ判決の後、報告会で判決文の詳しい解説を聞きました。
この報告会で、身の程知らずな私は原告のお二人のすぐ横に座っていました(笑)
なんとも光栄なことで、嬉しかったです。

法律をご存知の方が判決文を解説してくれたのですが、その方が判決文を読まれた印象では、その判決文はなんだかひどい文章で、作文をもう少し勉強したらと言う感じだと言っていました。さらに文の中には「非嫡出子」と「嫡出でない子」という書かれ方が両方あったそうです。法律家ともあろう者が、統一した書き方すら出来ないだなんてね。

棄却判決の理由は、大まかに2つありました。

 理由1.何をしてほしいかが明確でない。
 理由2.嫡出子と嫡出でない子の民法で規定している相続分配の差別化は合憲である
     との最高裁判決により、この戸籍上の表記も必要なことである。
     よって、プライバシー侵害に値するとは到底言えない。

理由1については、「戸籍の表記をすべて統一してほしい。」と訴えているので、明確でないと言われるのはなにやら理由になっていないような気がします。

理由2については、最高裁の判決が差別化は合憲だからという理由を持ち出してきましたが、最高裁の賛否は、たった一人の差だったとか。さらにプライバシー侵害は、戸籍の扱いがまだ結構ずさんで、下手をすれば誰でも見られるような状態ならば、プライバシー侵害とは「到底言えない」と強くいうのもなんだかおかしな話です。さらにこの4月から個人情報保護法という法律が施行される直前だったのに関わらず、それ以前のものは無視というのもおかしい。
そして、相続の区別をするために表記を分けている、と言うが、去年の11月1日の戸籍法の改正で、嫡出でない子も、嫡出子と同じ、長男長女表記になってしまったから、これも理由にするにはおかしい。しかし、それは法務省側が独自に行ったことで、今回の裁判を受けてではないから関係ないと言う。
さらに、国際条約違反と原告が主張するが、それは戸籍の表記や相続差別の事など、細かく指摘していないから違うとか、もうなんだか理由と言うより、いいわけやこじつけ状態がならぶ判決文でした。

理由2の相続差別を表している民法の条文を下に表します。

【民法第900条】
同順位の相続人が数人あるときは、その相続分は、左の規定に従う。
1.子及び配偶者が相続人であるときは、子の相続分及び配偶者の相続分は、各2分の1とする。
2.配偶者及び直系尊属が相続人であるときは、配偶者の相続分は、3分の2とし、直系尊属の相続分は、3分の1とする。
3.配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは、配偶者の相続分は、4分の3とし、兄弟姉妹の相続分は、4分の1とする。
4.子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。但し、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の2分の1とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の2分の1とする。

実は、婚外子相続差別があるのは、日本とフィリピンだけらしいと、別姓を考える会の別姓通信に書いてありました。本当にそうなのか調べるための手段と資料を私には持ち合わせていないので、「だけ」と断言できないのですか、他の先進国が差別相続させていないのなら、それに合わせてもいいのではないかと思います。

私が、ごうさんのにっちゃぱんじ:差別と区別と戸籍と婚外子との記事で、コメントしたように、夫の隠し子や腹違いの子に嫌な感情を抱くのは、もしかしたら女性の結婚改姓思想と一緒で、長年テレビや周囲の大人たちからそう教えられてきて、法律の概念が自分の中に無意識化してしまっているのかもしれないなぁと感じました。

現に、自分に腹違いの兄弟がいたらと考えたとき、そういうテレビドラマを思い浮かべてしまった。テレビドラマとは人の考えを洗脳するんだなぁと恐ろしくも感じました。

しかし、こうした社会問題を色々ずっと考えていたら、最近正常に思考ができなくなってきました(笑)ちょっと考えすぎたみたいです。しばらく夫婦別姓や婚外子問題のことを考えるのは休もうかなと思います。自分の中で考えがある程度まとまって、書きたくなったら、また書こうと思います。

ですが、原告のお二人には、なんとか頑張って欲しいと思います。
他の訴えたくても訴えられない人たちのために。こどもたちのために。
お二人のされていることは本当に偉業だと思います。
この国が、よりよく変わっていってくれること、
そして、世界に平和が広がり、続いていくことを私は祈っています。

この記事を読んでくださっている皆さんもこれをきっかけとして、少しでも自分のこととして、考えて欲しいと思います。みんなが幸せになるにはどうしたらいいのか、じっくり考えて欲しいです。