「目的への抵抗」(その2)
2回目はタイトルにそった考察だと思う、第二部を中心に。
その前に、本書は東京大学で著者が行った講座・講和が下敷きになっているそうだ。
一つは、東京大学教養学部主催「東大TV―高校生と大学生のための金曜特別講座」において私が二〇二〇年一〇月二日に行った講義(「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」。オンライン開催)。もう一つは、私が二〇二二年八月一日に自主的に開催した「学期末特別講話」と題する特別授業(「不要不急と民主主義」。対面開催)。どちらもコロナ危機を主題としている。そして両者を隔てる二年間は、ちょうど、コロナ危機が最も強く社会を揺さぶった時期に当たる。これら二つを収めた本書は、したがって、私がコロナ危機の訪れとともに考え始めたこと、そしてそれを突き詰めていった挙げ句に考え至ったことの記録になっている。
はじめに―目的に抗する〈自由〉 | |
第一部 哲学の役割―コロナ危機と民主主義 | |
コロナ危機と大学、高校/自己紹介/近くにある日常の課題と遠くにある関心事/自分で問いを立てる/ある哲学者の警鐘/アガンベンの問題提起/「例外状態」と「伝染病の発明」/アガンベンという哲学者の保守性/第二の論考/三つの論点(1)―生存のみに価値を置く社会/三つの論点(2)―死者の権利/保守主義/考えることの危険と哲学すること/社会の虻として―哲学者の役割/三つの論点(3)―移動の自由の制限/支配の条件/ルソーの自然状態論/支配の複雑性/移動の自由と刑罰/日本国憲法における移動の自由/政治家と哲学者―メルケルとアガンベン/アンティゴネ、そして見舞うという慈悲/殉教者と教会の役割/行政権力とは何か/行政権が立法権を超える時/二〇世紀最悪の「例外状態」/ヴァイマル期/改めて三権分立について | |
【質疑応答】 | |
1.移動の制限はある程度仕方がないのでは?/2.日本ではどのような制限を行政権に加えるべきか?/3.なぜ人々は自由に価値を置くことをやめたのか?/4.出発の自由と到着の自由があるのでは?/5.高校生が将来のためにやっておくべきこととは?/6.日本で健全な政治を行うために必要なこととは?/7.警告が届かないのはマスメディアのせい?/8.生存以外の価値を人々は求めているのか?/9.死者の権利とは?/10.テロリズムの脅威は?/11.マスクを着けたくない人々についてどう思いますか?/12.哲学者はどこまでその役割を求められるのか?/13.どうすれば話し相手を増やしていくことができるか?/14.主張を訴えたとして、社会は変わるものなのか?/15.「死者の権利」を生者が語るのは傲慢なことではないか?/15,現代は死生観が昔よりポジティヴになったのか?/17.今日高校生とのやり取りで感じたことは? | |
第二部 不要不急と民主主義 ―目的、手段、遊び | |
前口上/日本では炎上しなかったアガンベンの発言/「不要不急」/必要と目的/贅沢とは何か/消費と浪費/消費と資本主義/浪費家ではなくて消費者にさせられる/イギリスの食はなぜまずくなったのか?/目的からはみ出る経験/目的にすべてを還元しようとする社会/目的の概念/目的と手段/チェスのためにチェスをする/すべてが目的のための手段になる/ベンヤミンの暴力論/「目的なき手段」「純粋な手段」/カップ一揆とルール蜂起/ベンヤミンの思考のスタイル/キム少年―再びアーレントについて/無目的の魅力/官僚制と官僚支配/自由な行為とは何か/動機づけや目的を超越すること遊びについて/パフォーマンス芸術/政治と行政管理/遊びとしての政治とプラトン/社会運動が楽しくてはダメなのか/まとめ | |
【質疑応答】 | |
1.コロナ危機と自由の関係について/2.責任について | |
おわりに |
そして今日とりあげる第二部のベースとなっているのは「不要不急と民主主義」となっていて、第一部よりは抽象度が高くなっているようだ。
そして本書タイトル「目的への抵抗」について考察されている。
本書の書評記事を考えた時、タイトルに合わせれば第二部だけで良いかなと思った。しかし問題提起の重要性、具体性から考えれば、第一部も紹介しなければと考え直した。
「目的のために手段を選ばず」という良く知られたマキャベリの言葉がある。「国家のためならば非道徳的な行為や手段であっても許される」というような意味で、手段を選んでいては国家間競争に負けてしまうという意味だ。
よく耳にする用例ではどちらかといえば否定的な使われ方で、どんな非道なことをしても勝てば良いわけではないという意味のことが多い。
ここで思い出したのが、30年以上も前、職場の同僚が「手段のために目的を選ばず」とうまいことを言っていた。同僚は言葉のおもしろさで言ったのかもしれないが、そのときはICTを利用した効率化を進めるという仕事があって、組織の目的はともかかく、その手段を普及・展開することが成果になるものだから、この同僚の言う言葉は嵌る。つまり手段を使って効果をあげられそうな目的を探すというわけだ。
そして本書である。
目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう(アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、三五九~三六〇ページ)。
思うに、目的とは連鎖するものである。ある目的の達成には、それに至る小さな目的があり、その小さな目的にはさらにまたより小さな目的がある。そうしてみると目的とは絶対的なものではないのかもしれず、その途中にあるものはその目的にとっての手段の言い換えかもしれない。
著者はさらにアーレントの言葉を引用する。
アーレントによれば、 「必ずしもすべての手段が許されるわけではない」などという限定条件にはほとんど意味がありません(同書、三六〇ページ)。 そんな限定条件を付けたところで、目的を立てたならば人間はその目的による手段の正当化に至るほかない。なぜならアーレントによれば、手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならないからです。
目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである (同書、三六〇ページ)。
この考察を新型コロナと関連付けて、著者はさらに興味深い指摘をする。
もちろん、何度でも繰り返しておかねばなりませんが、コロナ危機においては、感染の拡大を避けるために我々の様々な行動が一定期間制限されなければならなかったことは間違いないでしょう。不要不急と判断されたことを諦めねばならなかった場面があったことは間違いないでしょう。けれどもそこで実現された状態は、コロナ危機においてはじめて現代社会に現れたものだったのでしょうか。不要不急と名指された活動や行為を排除するのを厭わない傾向などとは無縁だった数年前の現代社会に、この傾向が、コロナ危機によって無理やり埋め込まれたのでしょうか。コロナ危機だから、不要不急と名指されたものが断念されているのでしょうか。
もしかしたらコロナ危機において実現されつつある状態とは、もともと現代社会に内在していて、しかも支配的になりつつあった傾向が実現した状態ではないでしょうか。不要不急と名指された活動は、コロナ危機だから制限されただけでなく、そもそもそれを制限しようとする傾向が現代社会のなかにあったのではないでしょうか。 そしてその傾向は、必要を超えたり、目的からはみ出たりすることを戒める消費社会あるいは資本の論理によってもたらされたのではないでしょうか。人が必要を超えたり、目的からはみ出たりして何らかの贅沢を手に入れようとすれば、すぐさまそれを止めようとする、そのような戦略のもとでこの論理は作動し、何としてでも人々を消費の中に留め置こうとしているのではないでしょうか。
政府が「不要不急の仕事はやめて家にいましょう」と呼びかけた時、自分がやっている仕事で不要不急でないものなんかないことに気づいたという話がある。気が付けばやっているのはどれもブルシットジョブだったというわけだ。そして現代社会ではそうしたブルシットジョブがあることでようやく秩序を保っているかもしれない。
「目的合理性」という言葉がある。目的達成の手段が適切であるという意味で使われる。しかしこうして見てくると、それが成立しているのは幸福な例外状態なのかもしれない。
それにしても「哲学」っていうのは、アタリマエを疑うことは得意だけれど、具体的な意思決定・行動を指し示してくれる場面はあまりないのじゃないか、深く考えることは大事だが、深く考えるとわからなくなることがあまりにも多い。
第一部のタイトルは「哲学の役割」である。その中にソクラテスの話が紹介されている。
そのプラトンの著作に『ソクラテスの弁明」 があります。この本は裁判でのソクラテスの演説を書き留めたものです。もちろん録音していたわけではありませんから、どれだけ正確であるかは分かりませんし、プラトンの著作は後期になるにつれソクラテス本人の思想というよりはプラトン自身の思想を書き留めたものに変わっていくと考えられているのですが、この本はソクラテス自身の演説をかなり忠実に書き写したものであろうと思います。
その中でソクラテスが自分自身の哲学者としての役割のようなものを語っています。次の一節です。
わたしは、何のことはない、少し滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに付着させられているものなのだ。それはちょうど、ここに一匹の馬があるとして、これは素姓のよい、大きな馬なのだが、大きいために、かえって普通よりにぶいところがあって、目をさましているのには、なにか虻のようなものが必要だという、そういう場合に当たるのです。つまり神は、わたしをちょうどその虻のようなものとして、このポリスに付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めないものなのです(プラトーン「ソークラテースの弁明」『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』 田中美知太郎+池田美恵訳、新潮文庫、二〇〇五年、五一ページ。訳語や表記に若干手を加えた)。
第一部で紹介されたアガンペンは間違いなく虻の役割を果たしたと思う。
そして虻は嫌われる。