〝「ココロ」の経済学〟

依田高典〝「ココロ」の経済学: 行動経済学から読み解く人間のふしぎ〟について。

51yMoCHSzFL.jpg 行動経済学の本については、最近では大竹文雄「行動経済学の処方箋」をとりあげている。その記事では、方法論は応用力が高いと思うけれど、直接の経済行動を普遍的に理解するようなものではないだろうとか、これは経済学というより心理学というほうが合っているのではと書いている。

本書は、観測される行動を叙述するのに加え、それが伝統的な経済学の「当然の前提」と矛盾する点というかたちで、経済学という分野での意義を説明しているように思う。

わかりやすい例をいくつか引いておこう。
一つは、有名な「トロッコ問題」。暴走するトロッコの先に5人の作業員がいて、このままでは5人とも死ぬが、転轍機を切り替えれば5人は助かるが、その代わりに1人が死ぬ。ホモエコノミカスなら瞬時に5人を助ける決定をするだろうが、多くの人は、つまり死ぬ人を自分の手で選ぶ行動に逡巡するというもの。

これは答えがある問題ではないと思う。人間には完全にドライな意思決定は困難という例を示すものだろう。


また、病気で苦しむ1000人がいて、ある薬で700人が助かり、300人が命を落とす。この薬を使うかどうかを判断させるとき、「700人が助かります。ただし300人は亡くなります」と説明するか、「300人は亡くなりますが、700人は助かります」と説明するかによって、薬の使用に対する賛否が異なるという例。
こちらは同じ状況で判断が異なるのはおかしいわけで、人間はだまされやすいということなのだろう。

まえがき
 
第1章 経済学の中のココロ
1 合理的なホモエコノミカス
2 ブラックボックス化されたココロ
3 感情に揺れるココロ
4 動経済学の誕生
 
第2章 躍る行動経済学
1 主役はサイモンからカーネマンへ
2 リスクの下の行動経済学
3 時間の上の行動経済学
4 踊り場の行動経済学
 
第3章 モラルサイエンスの系譜
1 偉大なスコットランド啓蒙主義
2 モラルサイエンスの曲がり角
3 経済学の制度化
4 経済倫理学の復権
 
第4章 利他性の経済学
1 情けは人のためならずか
2 内的動機に訴えかける
3 利他性の根源に迫る
 
第5章 不確実性と想定外の経済学
1 真の不確実性を探る
2 主観的確率の罠
3 想定外のリスクを織り込む
4 アニマルスピリッツの復活?
 ―行動ファイナンスの誕生
 
第6章 進化と神経の経済学
1 進化論という異端の見方
2 進化論からココロを考える
3 ニューロエコノミクスの挑戦
 
第7章 行動変容とナッジの経済学
1 ココロは変わらない?
2 ナッジでココロを変える
3 ココロの経済学の向こうに
 
あとがき
これらの例は、他の行動経済学関係の本でもよくあげられているものなので、またこれかと思ってしまったが、次の例はもう少し巧妙である。

2つのリスクの二者択一問題
 問題1 AまたはBのどちらを選びますか?
  選択肢A 確率90%の4万円 or
  選択肢B 100%確実な3万円

 問題2 CまたはDのどちらを選びますか?
  選択肢C 確率20%の4万円 or
  選択肢D 確率25%の3万円

 多くの人が、問題1では選択肢Bを選び、 問題2では選択肢を選びます。ところが、この回答は経済学者を困らせてしまいます。 数式で表すと分かりやすいので、問題1でAよりもBを選ぶ期待効用を書いてみましょう。

  80%×効用(4万円) < 100%×効用(3万円)

 左右の両辺に正の定数を掛けても不等号は逆転しませんから、左右の両辺に25%を掛ければ、次式を得ます。

  20%×効用(4万円) < 25%×効用(3万円)

 あれ? 問題2では、Cを選ぶわけですから、CをDよりも選ぶ選好を期待効用の式で書いてみましょう。

  20%×効用(4万円) > 25%×効用(3万円)

 不等号の向きが逆転して、上の2つの式が矛盾しています。つまり、期待効用の合理性と、生身の人間の選好が両立していません。

経済学の本では、効用曲線とか生産関数とか、いろんな曲線類が出てくるようだが、最初に提示されるそれらは単調性や上や下への凸性とかがもっともらしく説明される。そしてそうした性質をもっていないと、その後の論理展開がすすまない。
上の例では、確率×効用で定義する期待効用では変なことになるわけだ。こういうときは、期待効用を修正して、確実性が低いときの割引率のようなものを考えて辻褄をあわせることになるのだと思うが、際限のない技巧をこらすようなことになるのかもしれない。ちょうど、天動説を精緻にするためにさまざまな技巧を凝らしたように。

そもそも「ホモエコノミカス」(経済人)というのは理論に都合よく作られた虚像でしかないという指摘自体は行動経済学を待つまでもなく、随分昔からあると思う。ただし経済理論を構築する上での「やむをえない」前提としていたきらいもあるが。

たとえば、前にも書いたおぼえがあるが、ウェーバーは、同じ仕事の報酬時間単価を上げた場合、ますます働く人と、逆に同じ報酬が得られるところで満足し労働時間を減らす人がいることを指摘している。

であれば、行動経済学にも、「比較行動経済学」というのがあっても良いように思うがどうだろう。

資本主義経済を生み出した人たちは、パンクチュアリティを大事にし、計画性があり、勤勉であることに価値(神の召命)を感じる人たちである。彼らによってできあがった資本主義経済システムは、その後システム自体が増殖し、人間の行動を経済人化し、がんじがらめにしてしまう。
そしてそれに基づく行動が合理的であるとされる。
行動経済学は、その倒錯した合理性を衝くものなのかもしれない。

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