モーツァルト編曲の「メサイア」
今日、日が暮れたらキリスト降誕祭となる。
このブログでも過去に何度かとりあげているけれど、クリスマスが近づくとほぼ毎年聴いている。もっとも真剣に聴き入るというよりBGM的に流していることのほうが多いような気がする。
で、今年はちょっと趣向を変えてモーツァルト編曲の「メサイア」を流している。
50年ぐらい前にLPを買っている。
今、普通に「メサイア」演奏会があれば、ヘンデルの原曲で演奏されると思うから、モーツァルト編曲版の演奏機会はあまりないと思うが、録音の演奏者は錚々たる面々といってよい。
いつもお世話になるMozart con graziaのこの曲の解説によれば、この録音が最初だという。相当の気合でこのメンバーを集めたのではないだろうか。
上に、今は演奏機会はあまりないと書いたけれど、モーツァルトが編曲した当時はそうではなかったらしい。
LPに入っている海老沢敏氏の解説によると、
なお、解説中楽譜の出版は1803年とモーツァルト死後になっているが、1789年にモーツァルト指揮で初演されている。
この編曲「メサイア」を初めて聴いたのはLPを買ったときだから、もう50年近く前のことで、多分、そのときに海老沢敏氏の解説も読んでいるはずだが、この記事を書くためにあらためて解説を読んで、長い間思い違いをしていたことに気づいた。
それは、「メサイア」演奏にあたって、そのときにそろえられた楽師に合わせて編曲したのだろう、だからこの曲のなかでも特に有名な"The trumpet shall sound"において、きっとトランペット奏者がいなかったんだろう、だからトランペット・ソロを省くという妄動を行ったのだろう、という思いこみ。
ところがオーケストラ編成を見ると、
となっていて、編曲版でもトランペットは2本入っているし、なによりオルガンが省かれてはいるが(会場にオルガンが無いならこれはしかたがないだろう)、フルート、クラリネット、ホルン、トロンボーンが加えられていて、むしろオーケストラはより大規模になっている。
海老沢氏は、オーケストラが大規模化しているのは、原曲の編成があまりにつつましやかで、モーツァルトの時代の嗜好に合わないからと指摘されている。再び海老沢氏の解説を引くと、
私も、まずフルートで驚き、クラリネットとホルンが響きに豊かな厚みを加えている、そう感じる。
だが、モーツァルトが意に反した改作をしただろうとも指摘されている。
実はこれについて、違うことも考えていた。「白鳥の湖」に黒鳥のグラン・フェッテ32回転という高度な技があるが、世紀のプリマ、マイヤ・プリセツカヤはこれを踊らないことがあった。それは彼女の黒鳥解釈に基づくもので、この場面では不要であるという。
「メサイア」は世俗楽曲とはいえ、厳粛なテーマを扱っているわけだから、朗々としたトランペット・ソロがあのように長時間、それも同じモティーフが何度も繰り返されるのは、楽曲の趣旨から逸脱した印象になりかねない、そういう意図もあったのではないか、またこの曲を短縮したのもそういう理由からではないか。つまり「メサイア」全体の鑑賞においては不要である、そういう判断もあったのではないだろうか。
さて、演奏について少し書いておこう。
この録音は、この楽曲で最初のものと書いたけれど、あらためて調べると、今は数種類、別の録音があるようだ。私は、LPを含めると同じ録音を3つも持っているので、他の録音にも興味があるところだけれど、実際、このマッケラス指揮の演奏を聴いていると、他の録音を聴く必要があるか? という気になってくる。
いずれのソリストも素晴らしいのだけれど、とりわけマティスのソロを聴いていると、胸・首をしめつけられ、体が震えてくる。
この季節、「メサイア」を聴く人は多いと思うけれど、拡大されて深み・厚みをました音響で聴けるモーツァルト版、おすすめです。
わざわざ日が暮れたらと書いたのは、イブは前夜ではなくイブニングの意だから。
このブログでも過去に何度かとりあげているけれど、クリスマスが近づくとほぼ毎年聴いている。もっとも真剣に聴き入るというよりBGM的に流していることのほうが多いような気がする。
で、今年はちょっと趣向を変えてモーツァルト編曲の「メサイア」を流している。
50年ぐらい前にLPを買っている。
その後購入したCDのモーツァルト全集(2セット)にも収録されているが、その2セットともLPと同じ録音のようだ。
ヘンデル/モーツァルト編「メサイア」 (HWV.56/K.572) | |
Sop. | エディット・マティス |
Alt. | ビルギット・フィニレ |
Ten. | ペーター・シュライヤー |
Bs. | テオ・アダム |
オーストリア放送合唱団 | |
オーストリア放送交響楽団 | |
指揮:チャールズ・マッケラス |
今、普通に「メサイア」演奏会があれば、ヘンデルの原曲で演奏されると思うから、モーツァルト編曲版の演奏機会はあまりないと思うが、録音の演奏者は錚々たる面々といってよい。
いつもお世話になるMozart con graziaのこの曲の解説によれば、この録音が最初だという。相当の気合でこのメンバーを集めたのではないだろうか。
上に、今は演奏機会はあまりないと書いたけれど、モーツァルトが編曲した当時はそうではなかったらしい。
LPに入っている海老沢敏氏の解説によると、
このモーツァルトによる編曲と演奏によって,それまでドイツでは,主として北方でしか知られていなかったヘンデルの代表作≪メサイア≫がはじめて南ドイツ圏に紹介されたのであった。1802年,ライプツィヒの著名な出版社プライトコップフ・ウント・ヘルテルは,このモーツァルト版,すなわちドイツ版の≪メサイア≫の出版を予告し,翌1803年に公刊したが,この楽譜につけられた長文の序文は,<モーツァルトによって,現代用に編曲されたヘンデルのメサイア>というタイトルにはじまり,偉大なヘンデルの偉大な作品である≪メサイア≫も現代音楽の快適な魅力,たとえば管楽器の自由な使用に欠けるところがあり,また一般に楽器の使い方がきわめて限られているので,演奏しにくく、また効果が挙げられないという欠点をもっていると指摘し,芸術の奨励者であるヴァン・スヴィーテン男爵に慫慂された偉大なモーツァルトが、尊敬するヘンデルのこの作品を編曲する試みをおこなったと述べている。このブライトコップフ版によって,ヘンデルの≪メサイア≫は,さらにひろく,ヨーロッパ各地に紹介され,19世紀を通して,このかたちで,すなわちモーツァルトの手になる編曲,改訂版のかたちで,この大曲が一般の人びとに受け容れられることが多かったのである。
とある。なお、解説中楽譜の出版は1803年とモーツァルト死後になっているが、1789年にモーツァルト指揮で初演されている。
この編曲「メサイア」を初めて聴いたのはLPを買ったときだから、もう50年近く前のことで、多分、そのときに海老沢敏氏の解説も読んでいるはずだが、この記事を書くためにあらためて解説を読んで、長い間思い違いをしていたことに気づいた。
それは、「メサイア」演奏にあたって、そのときにそろえられた楽師に合わせて編曲したのだろう、だからこの曲のなかでも特に有名な"The trumpet shall sound"において、きっとトランペット奏者がいなかったんだろう、だからトランペット・ソロを省くという妄動を行ったのだろう、という思いこみ。
ところがオーケストラ編成を見ると、
ヘンデル原曲: | オーボエ2,ファゴット2,トランペット2,ティンパニ, ヴァイオリン2部,ヴィオラ,チェロ,コントラバス,チェンバロ,オルガン |
モーツァルト編曲: | フルート2,オーボエ2,クラリネット2,ファゴット2,ホルン2,トランペット2, トロンボーン3,ティンパニ, ヴァイオリン2部,ヴィオラ,チェロ,コントラバス,通奏低音(チェンバロ,チェロ) |
"The trumpet shall sound"でトランペット・ソロをカットしたのは、そのほうが良いと考えたのだろうか、それともトランペットが下手くそで、とても原曲のあの超高難度のソロは無理だったからだろうか。
なおトランペット・ソロのカットだけでなく、この曲全体が短縮されているようだ。
海老沢氏は、オーケストラが大規模化しているのは、原曲の編成があまりにつつましやかで、モーツァルトの時代の嗜好に合わないからと指摘されている。再び海老沢氏の解説を引くと、
第一に注目されるのは,モーツァルトは,作曲家の立場で,ヘンデルの作品に徹底した改作の筆を加えたものではなかったことである。そうではなくて,このオラトリオをじっさいに演奏するためには,どのように手を加えたらよいかという,演奏解釈者の立場から,彼はこの作品にアプローチを試みたものなのである。
すでに紹介したプライトコップフ・ウント・ヘルテルの序文からもうかがえるように,18世紀末から19世紀初頭の人びとの耳には,ヘンデルの楽器編成は,あまりにもつつましやかなものであった。北ドイツでヘンデル復興に意を注いだヒラーも,ヘンデルのオリジナルな楽器編成を<ごつごつした>ものと評していたほか,≪モーツァルト伝≫の作者で,モーツァルトの妻コンスタンツェが再婚した相手のフォン・ニッセンも<たいへん時代おくれ>と判断している。モーツァルトも,18世紀後半の音楽愛好家の耳にふさわしいように,楽器編成を変更したものであった。
とし、そして、この楽器編成の変更は、フルートとクラリネット、そしてホルンの導入が独特の響をもたらしたとする。すでに紹介したプライトコップフ・ウント・ヘルテルの序文からもうかがえるように,18世紀末から19世紀初頭の人びとの耳には,ヘンデルの楽器編成は,あまりにもつつましやかなものであった。北ドイツでヘンデル復興に意を注いだヒラーも,ヘンデルのオリジナルな楽器編成を<ごつごつした>ものと評していたほか,≪モーツァルト伝≫の作者で,モーツァルトの妻コンスタンツェが再婚した相手のフォン・ニッセンも<たいへん時代おくれ>と判断している。モーツァルトも,18世紀後半の音楽愛好家の耳にふさわしいように,楽器編成を変更したものであった。
私も、まずフルートで驚き、クラリネットとホルンが響きに豊かな厚みを加えている、そう感じる。
だが、モーツァルトが意に反した改作をしただろうとも指摘されている。
他方、従来の慣習とそれをふまえたヘンデルのオリジナルな編成から,むしろ意に反して消極的なかたちで遠ざかっている面もみられる。モーツァルトは第3部第35曲のアリア<喇叭が鳴りひびいて>(第46曲,なお原曲の番号はアルノルト・シェーリング校訂の<ペテルス版>による。以下同じ)で,原曲の技巧的なトランペットの吹奏をあえてカットしているが,これは18世紀後半には,かつてはさかえていた吹奏楽師たち,いわゆる<シュタットプファイファー>たちの活動が衰え,こうしたヴァーチュオーソを使うことができなくなったためである。古典派の時代に入ると,金管楽器は,もっぱらオーケストラの構成メンバーになりさがり,全体の音響を和声的に,またリズムの面で補強する役割を果すだけとなるが、こうした社会的な情況も,この<メサイア編曲>に端的なかたちでうかがえるのは興味深い。モーツァルトはこのアリアで,トランペットのパートを二度も書き直し,けっきょくはホルンを活用してきえいるのである。
そうなんだ、やっぱりヴィルトゥオーゾのトランペッターがいなくなっていたんだ。実はこれについて、違うことも考えていた。「白鳥の湖」に黒鳥のグラン・フェッテ32回転という高度な技があるが、世紀のプリマ、マイヤ・プリセツカヤはこれを踊らないことがあった。それは彼女の黒鳥解釈に基づくもので、この場面では不要であるという。
「メサイア」は世俗楽曲とはいえ、厳粛なテーマを扱っているわけだから、朗々としたトランペット・ソロがあのように長時間、それも同じモティーフが何度も繰り返されるのは、楽曲の趣旨から逸脱した印象になりかねない、そういう意図もあったのではないか、またこの曲を短縮したのもそういう理由からではないか。つまり「メサイア」全体の鑑賞においては不要である、そういう判断もあったのではないだろうか。
もちろんこのトランペットは名人芸で、それを楽しみにする人が多いことは間違いない(私もそうだ)。しかし、これにこだわるのはちっとも「メサイア」的ではない。これが聴きたければ、これだけ単独で聴いたらどう、という気もする。
さて、演奏について少し書いておこう。
この録音は、この楽曲で最初のものと書いたけれど、あらためて調べると、今は数種類、別の録音があるようだ。私は、LPを含めると同じ録音を3つも持っているので、他の録音にも興味があるところだけれど、実際、このマッケラス指揮の演奏を聴いていると、他の録音を聴く必要があるか? という気になってくる。
いずれのソリストも素晴らしいのだけれど、とりわけマティスのソロを聴いていると、胸・首をしめつけられ、体が震えてくる。
「メサイア」を聴いたあと、マティスがミサ曲を歌っていないか、家にあるCD、LPを見たけれど1枚もない。調べるとCDは出ているようだ。「戴冠ミサ」のAgnus Deiとか、きっと素晴らしいだろうなぁ。
ということは、スザンナの印象が強いマティスだけれど、伯爵夫人をやっても超一流だろうな。
この季節、「メサイア」を聴く人は多いと思うけれど、拡大されて深み・厚みをました音響で聴けるモーツァルト版、おすすめです。