随筆

2016年8月21日 (日)

なぜ、戦争が起きたのか?

1.まえがき

 

「なぜ、戦争が起きたのか?」この問いは、長年にわたって、心の片隅で、くすぶっていた。学校で、日本史というものを学びながらも、大東亜戦争とも、太平洋戦争とも呼ばれた、戦いが、なぜ必要だったのか、私たちは、そのことを、ほとんど顧みないまま、今日にいたっているのではないだろうか?

 

 

 

始めの、ボタンのかけちがいから、戦争へと発展したのではないかと、私も始めは考えていた。満州事変、盧溝橋や、南仏印進駐こそがボタンのかけちがいで、それさえなければ、その後の日本の転落はなかったのではないかとも考えた。歴史に「もしも」という仮定はないにしても、最初のボタンのかけちがいを防ぐことができたら、その後のかけちがいはありえなかっただろうし、日中、日米へと戦争が発展することはなかったと思っていた。様々な本を読んで、その確証を得ようとしたが、ボタンのかけちがいを見つけ出すことはできなかった。

 

 

 

ある人は、山縣有朋が日本陸軍の基礎、軍閥を組織し、統帥権を残したためだと言い、盧溝橋での日中戦争からすべては始まったと言い、ある人は、満州での関東軍の独走が問題だったと言い、さらにドイツと共に三国同盟の締結を進めていた松岡外相が、野村駐米大使とハル国務長官とで戦争回避のために作り上げた日米諒解案を認めようとしなかったことが問題だと言い、南仏印進駐がアメリカを怒らせ、ABCD(米、英、中国、オランダ)包囲網を完成させたと述べる人も多い。国際連盟から脱退が引き金だった。いや松岡外相による三国同盟こそが悪の本源だという人もいる。あるいは、すべて天皇に責任を押し付けて、天皇責任論とする見方もある。さらに言えば、東条を独裁者と見なし、東条と大本営が、全責任を負うべきだという見方も根強い。スケープゴートを作り出し、責任転嫁するのは、単純で、誰もが理解しやすい。その反面、誰でもが陥りやすいパラドックスで、本質が見えてこない。

 

 

 

こうして、考えてみると、それぞれの原因は、戦争を起こすための要素ではあったが、本質にはほど遠い。この大戦について、書かれた本は、数えきれないほどある。それなのに、どの本を読んでも、戦争の本質が見えてこない。

 

 

 

それでは、あの戦争の本質はなんだったのだろうか?

 

 

 

その話を始める前にまず、読んでいる方に歴史上の別の視点から対米戦争をとらえてほしい。

 

 

 

たとえば、アメリカが常に言う、パールハーバーの襲撃は日本側からの卑怯なだまし討ちであり、アメリカは中国の主権を守るための正義の戦争であったというステレオタイプな歴史観を改めなければならない。ただ、対日戦争中に16万ものアメリカ兵士が亡くなったのである。その戦死した人に大義名分を与えるため、上記の理由は必要だと認めることはやぶさかではない。しかし、歴史の事実とは全く異なる。

 

 

 

実は、歴史上で、正しい戦争なぞというものは、なかったし、これからもありえない。戦争を始めるにはアメリカ側の理由があり、日本には日本の理由があったはずだ。その理由が、どんな理由だったのか明らかにしながら、自分が一国のリーダーだったら、どういう判断をすべきだったか考えてもらいたい。

 

 

 

2. 東条が戦争への道を選んだ理由

 

真珠湾攻撃を決断するまでの経緯を述べてみよう。その頃、日本が直面していた危機的状況は次のとおり。アメリカは日本に対して経済制裁を行っている。アメリカからの石油全面輸出禁止、資産凍結令が出され、さらにABCD(米、英、中国、オランダ)包囲網を完成させた。石油備蓄は一年分あるが、このままでは、日本の工業・産業は壊滅的となる。他の国から石油を手に入れられる可能性はない。アメリカと和平を結ぼうにも、アメリカはトップ会談に積極的ではない。さらに、ハル国務長官は「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒とも言える、下記のような無理難題を日本に押し付けた。

 

1)すべての国の領土と主権尊重

 

2)他国への内政不干渉を原則とすること

 

3)通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること

 

4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持

 

 

 

当時の東条の考えは、どうだったのだろう。

 

a) 戦争を避けることは天皇の意思でもあったので、近衛内閣も、東条自身も、何としても対米戦争は避けようとした。しかし、ハル・ノートの内容は、日本にとって絶対受け入れがたい内容であり、実質的には無理難題どころか、戦争するぞと脅迫ともいえる内容だった。

 

b) 戦争を始めたとしても、石油備蓄はもって一年から一年半。軍艦や飛行機を持っていても石油がなければ、鉄くずにしかならない。戦争するならするという決断を早急にしなければならない。交渉を長引かせるという手段もあるが、長引かせるほど、国内の経済は打撃を受け、失業者が巷にあふれることになる。しかも、持っている兵器は油なしに時間とともに使用不可能になる可能性が高い。大砲や軍艦で攻めて来る敵に対して、竹やりで戦うわけにはいかない。戦争するなら早急の決断が望まれた。

 

c) アメリカの要求に対して、当然、服従することはできない。服従すれば、軍のなかには皇道派や不満分子が多くおり、間違いなくクーデターが起きるだろう。関東軍に撤退命令をだしたところで、反発し、拒絶することだろう。日本が分裂することになる。

 

 

 

こう考えると、東条にとって、対米戦争を始めるしか選択肢がなくなる。

 

 

 

始め、なぜ、南仏印進駐がアメリカを怒らせたのかが、私自身、初めはよく理解できなかった。おそらく東条は、初めは南下する気はなかったろう。しかし、対米戦争を始めるにあたって、なんとしても石油や鉱物資源の確保をしなければならない。石炭や食料は満州でも確保できたが、戦争に必要な米、天然ゴム、錫はベトナムにあり、インドネシアまで南下すれば石油も確保できる。

 

 

 

アメリカはどう考えただろう。開戦前は、日本はアメリカから石油を90パーセント以上も輸入していたのである。ABCD包囲網があるので、日本は油を手に入れることができない。そうすれば、戦争を短期で終結できるはずだった。ところが、日本が南下して油を手に入れてしまえば、戦争が長期化する可能性がある。そこで、シナリオを変え、日本が戦争を早急に仕掛けるための「追い詰め」政策に転じた。

 

 

 

中国との戦争が泥沼化する一方で、日本がアメリカと戦争を始めるとは、なんという無節操かと後世の人は考えるが、その頃の日本は、ネズミが、既得権である満州を守りながら、猫によって壁ぎわまで追い詰められたような状態だった。もちろん、猫がルーズベルトであり、ネズミが日本となる。東条に残された道は、「窮鼠猫を噛む」手段しかなかったのだ。ただし、情報戦で敗れていなかったとしたらだが。

 

 

 

司馬遼太郎が「余談」として「太平洋戦争の開戦」についてこう述べている。

 

「著者は太平洋戦争の開戦にいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締め上げ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうと言った言葉は、歴史に対するふかい英知と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本でなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交攻略はたとえ同じでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたべてきた黄色人種たちの小面憎らしさというものは、白人国家の側からみなければわからないもんであるにちがいない。」

 

 

 

日本の歴史上で、奇襲戦の例となるのは、織田信長が4千人で、2万とも4万とも言われる今川義元に奇襲攻撃をかけ成功した例だろう(桶狭間の戦い)。また、源義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲し成功している。当然のことながら、どちらも、事前に敵に情報は伝わることはなかった。大本営の参謀本部は当然のことながら、奇襲作戦に一縷の望みをかけた。

 

 

 

ところが、こともあろうに駐米野村大使と外務省の間の通信は、ほとんど傍受され解読されていたようだ。したがって、ルーズベルトにとって、日本が真珠湾を攻撃せざるをえなくなるまで追い詰めるのは、たやすかったであろう。真珠湾以前に、実は日本は情報戦で敗れていたことになる。しかも、真珠湾攻撃に関しても、ルーズベルトは、事前に情報を入手していた。

 

 

 

おそらく、東条の頭にあったのは、真珠湾攻撃が成功すれば、アメリカの政策を変化させ、和平案まで持ち込めるかもしれない。もし、それがだめでも、南方から油を輸入することができれば、戦局を挽回できる可能性があると考えていたのだろう。東条も、アメリカについて、まったく知識がなかったわけではなかった。アメリカ民主主義では、戦争開始の決議は、大統領の決断のみならず、議会の承認を得なければならず、時間もかかるはずだと信じていたふしがある。ところが、ルーズベルトは、議会の権限を奪って、真珠湾攻撃に対して即座に対応している。それほど、あらかじめ周到に準備されていた。

 

 

 

一方、「敵をあざむくには、まず味方から」という諺どおり、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を事前に予知できたにもかかわらず、真珠湾の二人の司令官である、キンメル提督とショート将軍の二人は、真珠湾攻撃に関して全く知らせなかった。いわゆる、対日戦争のためのスケープゴートにしたのである。

 

 

 

なぜなら、「対日戦争」、「対独戦争」への参入のため真珠湾が爆撃されることが、どうしても必要だったからである。すべてがルーズベルトの思惑どおりに事は進んだ、アメリカ国民が一丸となって「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、対日戦争へ火を点け、さらに対独参戦へとつながっていった。

 

 

 

米国民に対しても、ハル・ノートという最後通牒を突き付けた事実を隠し、平和交渉が続いていたのに、真珠湾が攻撃されたと演説したのである(事実は日本に最後通牒をつきつけていた)。

 

 

 

3.仮定その一、真珠湾攻撃を行わなかったとしたら 

 

さて、本質論に入るまえに、まず、一つの仮定を設定してみよう。たとえば、あなたが東条の立場にたち、真珠湾攻撃にゴーサインを出さなかったとしたらどうだろう。追いつめられた東条はルーズベルトの思惑どおり、真珠湾攻撃を実施せざるをえなかったわけだが、もし、真珠湾攻撃を行わないという選択肢を取ったとしたら、どうだろう。

 

 

 

ドイツはアメリカ駆逐艦によるドイツ潜水艦へ攻撃の挑発にのらなかった。乗れば、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦してくるからだ。ところが、日本の場合、ルーズベルトの筋書き通りに真珠湾攻撃を行ってしまったのである。

 

 

 

日本嫌いで知られるスティムソン陸軍長官の発言にこうある。

 

「日本に最初に発砲するのを許すことにリスクがあるとはいえ、アメリカ国民の全面的な支持を得るには、誰の目にもどちらが侵略者なのか疑いの余地を残さずはっきりさせるために、それをするのが間違いなく日本であるようにするのが望ましいことにわれわれは気が付いた。」

 

 

 

ただ、日本の場合、真珠湾攻撃を行わなかったことが直ちに平和に結びついたかというと、その点は、疑問がある。当時のルーズベルト大統領の本心は、とにかく日本を戦争に引きずりこむことだった。引きずりこまなければ、対独戦争へと進むことができないからだ。したがって、真珠湾が攻撃されない場合、おそらく、第二段階、第三段階の日本包囲網を敷いて、さらに日本を追い詰めた可能性が高い。

 

 

 

仮に、アメリカの要求したことを実行するとなると、日本は、まず日中戦争を停戦に導き、満州からの撤兵を始めなければならない。中国との戦闘で数十万の戦死戦傷者をだし数百億円の国費を費やしたことが、まったくの無駄になってしまう。さらに満州国に対して、日本は約百億(現在の数百兆円)ちかく投資を行ってきた。多大な投資を行い、インフラに膨大な資産をつぎ込んできた。駐留している軍隊がいなくなれば、満州に住んでいた2百万人の邦人はどうなるのだろうか。その見返りもなしに満州を去るとすれば、混乱が起こることは必須。さらに満州にいた関東軍が大本営からの撤退の指示を受け入れたかと言うと、おそらく拒絶したであろう。満州国という利権を手放すわけがないので、大本営と離れて独立独歩の道を歩んだかもしれない。

 

 

 

満州国だけではない。国内でも暴動や内戦、革命が起きかねない。日清戦争と日露戦争で十一万人とも言われる戦死者をだし、日露戦争でからくも勝利するが、賠償金がとれなかったことで、民衆による「日比谷焼きうち事件」があった。米の要求に従順にしたがう弱腰姿勢に、民衆の不満が爆発し、同じような暴動が起きないわけがない。さらに、二・に六事件のような、クーデターが起きることは確かだ。

 

 

 

さて、日本国内で内乱が起きて、分裂状態にあるとしたら、おそらく冷徹なルーズベルトは、B案である、三国同盟からの脱退、C案では、例えば朝鮮半島からの撤収などの無理難題を日本に押し付けて来た可能性が高い。ようするに、豊臣軍が、一時休戦中に家康に大阪城のお堀を埋めさせられたように、この頃になって、戦おうにも、油を枯渇した悲惨な状況下まで追いつめられてしまったかもしれない。

 

 

 

事実、開戦前の外交交渉では、アメリカは松岡外相が結んだ三国同盟から日本が撤退することを要求してくる。アメリカの要求に耐えられなくなれば、やがて反乱軍がたちあがり、真珠湾と同じ構図に進んだ可能性がある。あるいは、クーデターを後押しして、軍備を与え、アフガニスタンのような内戦国家になった可能性もある。最悪の場合は、シリアのように分裂した戦いになった可能性も否定できない。こう考えると、アメリカの要求を受け入れたとしても、平和ではありえなかったろう。

 

 

 

4.仮定その二、天皇が東条を首相に指名しなかったら

 

東条は、頭の切れる軍事官僚ではあったが、少なくとも首相の器ではなかった。近衛の後継首相には、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)の名があがっていた。統帥権を考えると、皇族が、軍と政府をまとめるのに都合が良かったことになる。しかし、この国家の危機、難局を切り抜けるに、皇族がいったいどれだけの役割を果たすことができただろう。軍部の傀儡となる可能性が高い。

 

 

 

結局、木戸幸一が推したのは東条だった。少なくとも、国を分裂させず、軍部をまとめられる人物は、東条以外は考えられなかったからだろう。それは、天皇自身もそう思っていたふしがある。東条は、天皇崇拝者であり、天皇の意向を忠実に実行できる人物だと思われていたからである。

 

 

 

そんなことは、なかったはずだ。海軍にも世界情勢に通じたふさわしい軍人官僚がいたはずではないかと思われるかもしれない。その可能性は否定しない。むしろ、世界的視野から対米戦争に反対し、満州からの全面撤退を考えていたのは海軍だったと言ってもよい。鋼鉄は、アメリカの生産量は日本の十倍であり、造船能力も四倍という差があることを周知していた。「半歳か一年なら大いに暴れて見せるが、その後は保証ができない」と山本五十六も言っている。初戦で勝つ可能性はある。短期決戦で臨めば、戦局が変化する可能性が高い。しかし、長期戦になった場合は、弾薬、軍艦、油とも不足することは目に見えていると考えていた。だが、御存じのとおり、海軍は、本質的に海の人間である。軍部内での権力構造を構築することや人事の布石は、陸軍の方が一日の長があったと考えるべきだろう。結局、陸軍の主流派に強引に押し切られていくことになる。

 

 

 

こうして考えてみると、天皇の手元にあった首相に任命できるカード、つまりオプションは非常に限られていたとみることができる。開戦後は、東条を首相に任命したことに、後悔した面もあったかもしれないが、当時の状況を考えると、ギリギリの選択であったのかもしれない。日本国民の性格として、人物に能力があるかどうかよりも、状況にあった皆をまとめられそうな人物を選ぶ傾向性があるのは、「ムラ社会」の遺物かもしれない。

 

 

 

こう考えてみると、上記のような状況で、あなたならどういった戦争判断をくだせただろうか?世界的な風潮では、東条とヒトラーを同じような独裁者と重ね合わせている傾向性がある。独裁者とはあまりにも、おこがましい。私には、むしろ、融通の利かない軍人官僚のイメージしかわいてこない。しかも、国際性は、まったくと言っていいほどない。おそらく、地図上や演習上という限られた中では、戦略を立てられる実務家であろうが、周囲状況に合わせて臨機応変な策をたてられる人物ではなかったようだ。だからこそ、ルーズベルトが敷いたとおりのレールの上を走ってしまった、愚かな軍人官僚にしか見えてこない。

 

 

 

5.ルーズベルトの性格

 

それでは、ルーズベルトの性格はどうだったのだろう。ハミルトン・フィッシュの書いた「ルーズベルトの開戦責任」から抜粋してみよう。

 

1)彼は歴史に全く興味を示さなかった。歴史書をほとんど読んでいない。

 

2)彼には知力が欠けていた。深い思考ができなかった。それが必要な場面では、口先だけの、気がきいていると思わせる演説で切り抜けた。彼には、地方都市のボス連中を政治力で懐柔する能力があった。もともと彼はその能力で出世してきた政治家であった。

 

3)彼は行政能力に欠けていた。また彼の立場を利用する親族の(非倫理的)行動にも寛容であった、いやむしろ無神経であったというほうが正確だろう。彼の信じる国益のためであれば、事実の隠ぺいは致し方がないと決め、そのことが正しいか正しくないかなどと悩むことはなかった。

 

4)彼は議会の権限を奪った。予算編成、開戦権限は議会にあった。それを簒奪したのである。ルーズベルト第三期政権は議会から多くの権限を奪っていた。開戦の決定には国民投票が必要であるとの法案をだしたが、必死で抑え込んで否決に持っていた。

 

そのことで、ルーズベルトは、自分でなんでもできると勘違いしてしまった。議会を超越し、司法をコントロールし、国民の上に存在する人物になったと思い込んだ。権力を自らに集中させた。

 

5)「ルーズベルトは、戦争は嫌いだと何度も繰り返した。しかし本音は戦争をしたくて仕方がなかった。(前例のない)三期目の大統領職を確実なものにしたかったから嫌いだと述べたに過ぎない。大統領を三期も務めることは、ルーズベルトにとっては最高の栄誉であり、それをなんとしてでも実現したいとする野心があった。結局、三選を成功させたことで彼の虚栄心は満たされた」

 

 

 

こうして、ルーズベルトに関しての文章を読む限り、とても正義感にあふれた大統領とは思えず、ひたすら、国民をだまして、戦争へと引きずり込み、若者を戦場に送り込もうと画策している稀代の陰謀家の様相を呈している。

 

 

 

6.終戦への道

 

最近、NHKドラマで、薬師丸ひろ子&香川照之が主演した「百合子さんの絵本~陸軍武官・小野寺夫婦の戦争」があった。

 

 

 

昭和16年 大戦中にスウェーデンに駐在し、「諜報の天才」と称された陸軍武官の夫・小野寺信と、情報収集を行う。極秘にヤルタ会談の密約の内容を入手し、ソ連が日本に対しドイツ敗戦の3カ月後に参戦するという情報を参謀本部へ送り続ける。ところが、日本はソ連と中立条約を結んでおり、敗戦色の濃くなるなかでソ連を介して米英と和平工作を図ろうという動きがあった。日本政府はすでに数か月前からソビエト政府を通じて降伏の動きを見せていたが、スターリンはそのことを利己的な動機から隠していたのである。

 

 

 

確かに、暗号を受け取った事態で、大本営が和平工作を始めていれば、戦争による犠牲を少なくできたかもしれない。しかし、仲介の労をとってくれる国はどこにあったのだろう。ヤルタ会談は、ソ連のスターリン、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルら連合国首脳による会談でひそかに交わされたものだ。ヤルタ会談で密約を結んでいる以上、イギリスが仲介するとは、思えない。

 

 

 

その後、ルーズベルトは病死。引き継いだトルーマン大統領については、NHKスペシャル

 

「決断なき原爆投下―米大統領 71年目の真実」の中で述べられていることだが、軍の推進者はグローブス准将の主導で、大統領の決断のないまま投下を行った。

 

 

 

グローブス准将が原爆を投下した理由は、「原爆を落とさずに終戦になれば、秘密裡にプルトニウム製造に多額の予算を使い込んだ政府が憲法違反で有罪になったはず、プルトニウム爆弾を落として戦争終結に貢献したと証明する必要があった」と言う。急いで原爆を投下しないと、マンハッタン計画に22億ドルを投じた責任を追及される恐れがあったからだと言われている。

 

 

 

大統領は何もしらずに、原爆投下の決断のないまま、原爆投下を指示していたことになる。ヤルタ会談の密約通り、原爆投下後、ソビエトは満州、大連、旅順にまで侵攻し、(日本の領土である)千島列島や南樺太まで領有した。

 

 

 

さらに、戦後に設立が構想されていた国際連合ではソビエトは三つの票を持つこと、ドイツの戦争捕虜を戦争終了後も使役することも了解されていた。それを拡大解釈し、満州に攻め込んだソ連兵は多数の日本人捕虜を捕まえ、シベリア収容所に送り込み、使役することになった。

 

 

 

ヤルタ会談で、ルーズベルトが死亡しなければ、世界は四大強国によってそれぞれの勢力下に分割されることが決まっていたそうだ。

 

「中国は極東地域を、アメリカが太平洋地域を取り、イギリスとロシアがヨーロッパとアフリカを分割する。英国が世界に植民地を確保していることに鑑みると、ロシアがヨーロッパのほとんどを勢力下におくことになろう」

 

こうしてみると、ルーズベルトに、そこまで譲歩させた、スターリンの方が一枚上手の策謀家であるようだ。

 

 

 

7.戦争が起こる要因

 

こうして、アメリカ側のルーズベルト大統領、日本側の東条英機というそれぞれの国のリーダーをみてみると、お互いに相手国を理解しようとしない、愚かなリーダーに率いられたことは間違いない。東条英機は、国際情勢をまったく理解しない井の中の蛙的な指導者であったし、ルーズベルトも、スチムソン陸軍長官という日本嫌いの側近に引きずられ、冷酷で狡猾に日本を戦争に引きずり込むための布石を敷いていった。

 

 

 

最近、ジョン・G・ストウシンガー著の「なぜ国々は戦争をするのか」という本を読み終えた。第二次世界大戦は残念ながら、具体例としてとりあげられていなかったが、第一次大戦、ベトナム戦争などの実例をあげながら、全編を通じて、一貫した結論を述べていた。

 

 

 

それは、一人の指導者の個性、すなわち相手国をどう思っているかが、問題となる。「相手国を誤った評価をしていれば、戦争勃発になるし、相手国をよく理解していれば、平和が維持できることになる。要するに、あらゆる戦争の直前には少なくとも一つの国家がもう一方の国家に誤った評価を下していることに起因する。その意味では、あらゆる戦争の開始は事故である。戦争そのものが徐々にそして痛ましいことに交戦者相互の真の力を明らかにしていく」と述べている。

 

 

 

下記に、その本の結論を抜粋、要約してみよう。

 

1)指導者はみな、短期の輝かしい戦いの後で勝利を得られると確信している。勝利を疑う者は国家の敵であるから受け入れられない。繰り返し現れるこの楽観主義は、人間の皮肉な愚かさの事例として、歴史家に軽く見過ごされてはならない。それは、独特の強力な感情的瞬間を作り出し、それゆえにそれ自体が戦争の一因となる。

 

2)敵に対する歪んだ認識も紛争の誘発を促進する。

 

3)戦争がさしせまっている時に指導者が、敵対国は自分を攻撃すると確信している場合、戦争になる公算はかなり高い。もし敵対国双方の指導者たちがお互いの意図に関してこうした考えを持っているとすれば、戦争はほぼ確実に起きる。

 

4)指導者が敵対者の力を誤解することは、おそらく戦争のもっとも本質的な原因である。しかしながら、現実の力の配分が問題なのではなく、指導者がどのように力が配分されていると考えているかが重大だということを忘れてはならない。国々が考える力の配分に関する同意が得られないときに戦争は始まるのである。

 

 

 

実は、戦争が始まる前に、アメリカ合衆国では、低賃金でも文句を言わず良く働く日本は低所得の白人の職を奪うようになった。それが社会問題化し、1924年に排日移民法などが制定されたのである。そういった対日感情も、日本に対する無理解、嫌悪感の一因となっていったようだ。日本の文化を伝えないと、異国で、こういった軋轢を生む原因となることが多い

 

 

 

8.組織的要因と国の衰微

 

戦争が起きるのは、国の指導者の相手国への無理解があるだけではなく、組織的な疲弊も考えられるだろう。たとえば、指導者の相手国への無理解が縦軸だとすると、国の衰微は横軸のように働いていく。

 

 

 

最近新刊された本に、金田信一郎著の「失敗の研究(巨大組織が崩れるとき)」がある。

 

巨大組織が膨張期、巨体維持期へ移行するなかで、6つの病、肥満化、迷宮化、官僚化、ムラ化、独善化、恐竜化に陥るとされている。日本の大企業である、理研、マクドナルド、代ゼミ、ベネッセ、東洋ゴム、ロッテなどを例にしながら、それぞれの大企業の失敗の要因を分析している。

 

 

 

その頃の軍部をその公式にあてはめるならば、シベリア派兵で満州という権益を手にした軍部の力は、「富国強兵」のもと、やがて肥満化していく。その肥満化はやがて、軍人官僚という、「軍人にあらずんば、国を守れず」という特権階級をうみだす。有能な政治家や外交官が出現しても、活躍できる場は制限され、軍国主義化への防波堤とはならなかった。やがて、軍人という集団のみの「ムラ化」が始まり、独善となり関東軍のように暴走していく。

 

そういう組織では、考える個人は嫌われる。服従のみの組織が出来上がり、やがて、既得権益体質が出来上がるとともに、変化を嫌う「迷宮化」になり、どんな変化にも対応できない「恐竜化」に変容する。

 

 

 

東条が首相に任命された頃は、間違いなく「恐竜化」の時代を迎えていたようだ。それに、しても、何故アメリカが最後通牒とも言える「ハル・ノート」を提示してきたのか、極東軍事裁判に被告として出席するまで、東条は理解できていたのだろうか?その原因が、ルーズベルトの陰謀にあったことなどの背景を最後まで理解が及ぶことばなかったのだろう。しかし、自分自身で、状況にあわせた、最良の判断をしてきたという奇妙な自信はあったかもしれない。

 

 

 

こう考えると、指導者の交戦国に対する無理解、そして軍事組織が、肥満化し、恐竜化としていったという二重の要素が、日本を戦争へと突き進ませる要因となったことがわかる。

 

 

 

9.現代でも起きている日本人的な性癖

 

中国の有名な文学者、魯迅から内山氏への手紙を、一部、引用してみよう。

 

 

 

「日本人の短所は僕は言わない。僕は日本人の長所をかんがえたよ、日本人の長所は何事によらず一つの事に対して文字通りの生命がけでやるアノ真面目サであると思うネー。」

 

 

 

魯迅は、日本に留学したこともあるので、日本人の気質については、知悉していた。魯迅が言わなかった短所はなんだったのだろうか?それは、大局的な視点がなかった点をついているのだろう。中国人には、生来の天人合一思想があるが、この思想は、儒教の根幹とも言うべきものだろう。為政者の命令に従っても、個人的には天の啓示に従うべきだ。この思想が、中国人にある。 それが、有名な「国に政策あれば、民に対策あり」という考え方につながっていく。

 

 

 

ところが、どうも日本にも儒教が中国から伝わったのだが、その根本思想がないまま伝わり、朱子学などという、為政者にとって都合の良い改良された儒教に変化してしまったようだ。

 

 

 

結局、魯迅の言った「生命がけでやるアノ真面目さ」とは、大局観のないまま、命じられたままに、突き進む日本人の性癖、欠点をよく言い表しているのだろう。無思想、無宗教の側面が、成功すれば、良い方向へと進むことができるが、失敗すれば、方向転換をもできない難局にと導かれてしまう。戦時中で言えば、アッツ島玉砕、硫黄島玉砕となり、特攻を生み出し、回天へとつながっていった。

 

 

 

さらに、信じられないことには、終戦まで、満州に開拓民を送り込んでいる。戦線拡大による食料の増産のため、さらに満州に送り出すことが必要だったとしても、戦局は、敗戦へと転げるように変化していたのに、政策を変更することができなかった。

 

 

 

身近な例をとると、同じようなことは近年でもあった。諫早湾干拓事業などは、その一例だろう。原子力事業や高速増殖炉もその一端。日本の官僚が作った政策は、一度走り出したものは、後戻りや変更を許さない。なぜか、それまで投資してきたことの責任が問われることになるからだ。その点では、マンハッタン計画のため巨額な投資をして、原爆を使用しないのでは、責任が追及されかねないと原爆投下を指示したアメリカとなんら変わることはない。

 

 

 

9.結論

 

第二次世界大戦では、では日本はどうするべきだったのだろうか。

 

圧倒的な兵器、兵力、後方支援ができるアメリカに対して、小国、日本の生き延びる方策はあったのだろうか?

 

 

 

和田竜著の「のぼうの城」では、石田三成率いる秀吉軍約二万に対して、「忍城」は五百で対抗している。城代の成田長親は、「のぼう様」と呼ばれ、領民の人心を把握し、武士という特権階級を保たず、庶民に溶け込み、領民から慕われていた。「忍城」は、難攻不落、大軍でもって攻めても落ちず、水攻めまで行い、やっと和議を結び、開城までこぎつける。秀吉軍は、和議の条件として、一日以内に武士、百姓、町人が城を退去すること、百姓は、村へ戻り、逃散(逃げ出す)せぬこと。武士は所領を去ることともに、城の一切の兵糧、財貨、武器を置いて去ることを命令する。それに対して、長親は城の財の持ち出しを禁ずるなら、武士、領民とも飢えるしかない、再び、城内で戦って死にたいという。その言葉に折れて、所領の財は持ち出しできると撤回する。さらに、長親は敗軍の将なのに、要求条件をだす。百姓が田植えをするために、戦で堤防をつくるために、まき散らした土俵をかたづけよ、さらに降伏して投降した領民の百姓を斬った者の、首をはねよと。

 

 

 

日本列島は細長い島国であるため、忍城のように難攻不落とはいかないが、読んでみると、この長親のたくみな外交術に、圧倒される。しかも、戦略としての外交ではない、領民という視点からの外交であるがゆえに、三成も受け入れざるを得なかった。極東裁判では、東条も反論を述べたが、市民の視点からの反論にはほど遠かったように思う。恐竜化した社会では、情報があふれても、すでにその情報を取捨選択する機能は失われている。何が正しく、何が正しい情報でないか判断するのが難しいのである。だから、大本営は、市民の視点よりは、ひたすら軍事戦略のみ重要視してきた。

 

 

 

最近、発刊された本に森岡毅著に「USJを劇的に変えた、たった一つの考え方」という本があるという。どういう内容の本なのか、まだ読んでいないので恐縮だが、どうしてUSJがあそこまで、成功したのか原因を書き記しているらしい。その本の紹介記事があったので、ここにとりあげてみる。

 

 

 

「消費者という価値観と仕組みにUSJを変えたこと。もっとわかりやすく言えば、『消費者の方を向いて消費者のために働け』だ、商品やサービス供給側の目線は徐々に消費者の感動水準と離れていく傾向にあるという、結果、玄人好みのばくちのようなビジネスになる、ここから脱することが、再生の一歩だった。『会社のお金の使い道や従業員たちのあらゆる努力を、消費者にとって意味のある価値に繋がるようにシフトさせること』」

 

 

 

この紹介記事は、そのまま国民に置き換えることができるのではなかろうか。この言葉をそのまま借りるなら、次のようになるだろう。

 

 

 

『国民の方を向いて国民のために働け』だ、政府や官僚の目線は徐々に国民の目線と離れていく傾向にあるという、結果、玄人好みのばくちのような政策になる、ここから脱することが、再生の一歩だった。『政府のお金の使い道や官僚のあらゆる努力を、国民にとって意味のある価値に繋がるようにシフトさせること』

 

 

 

どうやったら、よりよい社会をつくれるのかというヒントは、ここにあるのではないだろうか。やはり情報公開、情報共有化を進め、間違ったら、国民目線で方向転換できる社会、組織を作っていけるかどうかにかかっている。

 

 

 

それでは、私たちは日常でどんな活動をすべきだろう。単に平和、平和という題目を唱えていることで、平和はやってくるのだろうか。私たち、国民には、国民で平和のためにできることがあるような気がする。私たちが常日頃心がけることとして、下記にあげてみた。

 

 

 

1)国際協力や文化交流を決して無駄だと考えてはいけない。積極的に関心を持ち推し進める必要がある。こういった文化交流がなければ、他民族に対しての理解は生まれない。無理解は、あなた自身がルーズベルトや東条と同じ人間になっていくことになる。孤立した地域は「ムラ」化し、国際社会からとりのこされ、地方を興隆することも不可能になる。しかも、労働人口の減少は、間違いなくそこまできている。日本社会が古くからある伝統や文化を保存しながら、他国の人とも協調する必要とする社会は、すぐそこまできているのだ

 

2)選挙に関心をもち、政治参加をこころがける。国が、政党が、巨大組織が陥る6つの病(肥満化、迷宮化、官僚化、ムラ化、独善化、恐竜化)の段階のどの段階にいるのか、また、6つの病に陥らせないためには、選挙で誰に投票していくべきか考えて投票するべきだ。政治への無関心は、政権の肥満化、迷宮化、官僚化、ムラ化、独善化、恐竜化を促進することになることを、肝に銘じなければならない。

 

3)相撲でモンゴル人の力士が多くなってきているが、偏狭な島国根性や愛国主義は持たずに、強い力士には惜しみない称賛を送れるような、社会になってほしい。アメリカにはアメリカンドリームがあって、夢のある社会となった。日本でも、ジャパンドリームが外国人に描けるような社会を作り上げることが、「ムラ化」を阻止することになる。日本が理想社会になることで、中国および近隣諸国との関係改善へつなげることもできる。

 

4)アメリカ発祥の民主主義は、日本の社会に根づきつつあるが、完璧なものと考えることは大変危険だ。なぜなら、民主主義という旗印のもとに、戦争が起き、現代の戦争が続いている。アメリカの民主主義は、人民のための政治といいながら、常に隣人に銃口をむけた戦いであったと言ってよい。それは、キリスト教の布教とともに、植民地主義がはびこったようなものだ。日本は、武器のない社会だったので、比較的民主主義が根づきやすかったといってよい。そのかわり、討議の少ない、根回しと、多数決だけで決まる民主主義がはびこってしまった。少数意見も反映されるような、新しい形の民主主義がそろそろでてきても良いのではなかろうか。

 

5)文化や情報発信を心がけること。まず、必要なのは日本からの文化の発信。国際交流事業をしていて思うことだが、外国人との文化紹介で典型的にでてくるのは、お茶と、折り紙だった。日本の文化は、もっと多様性にあふれているのではないか。祭り囃子、各地方に伝わる踊り、里山など、まだたくさんのものがある。そういった日本の文化を、どうやったら外国人に伝わるのか、考えてほしい。たとえば、茶の湯は、作法によって、茶を飲むのだが、外国人からでる質問として、なぜ、このような複雑な作法を経て飲まなければならないのか、とダイレクトな疑問をつきつけられる。前もって、答えを用意しておかないと、うまく説明できないものだ。すでにそういう動きは様々な分野である。英語の歌舞伎・狂言、英語による落語、日本の歌を英語の歌詞に変えてみるなど。個人的にはそういった海外公演や異国での文化活動に、政府からなんらかの積極的な資金援助があってもよいのではないかと思っている。

 

 

 

「戦争は人間の心の発明したものである。その人間の心は平和を発明することもできる。」とは、ノーマン・カズンズ博士の言葉である。平和のために私たち一人一人が、何ができるのか、熟慮する必要がある。昨今、保守的な国の指導者が現れてきているように思う。愛国であることは、避難されるべきものではないのだが、だから他国を嫌い、他国の文化を、歴史を見下すような指導者が現れるのは、戦争への第一歩であるととらえるべきだ。

 

 

 

国民にとってよりよい社会をめざすには、既得権益や特権階級をなくす努力を継続し、常に国民の視点で、既得権益や官僚に振り回されることなく、政策が国民にとって本当に良いものなのかどうか判断し、状況の変化とともに、政策が化石化することなく、政策を思い切って、ダイナミックに方向転換できる国をめざしたいものだ。

 

 

 

結論となるが、他国の人や文化を理解し、自分や自分の文化を伝えようとする活動は、結局のところ、自分と他人を分けへだたりなく、つきあうということになるだろう。逆説的にいうなら、同国人とのつきあいができない人が、他国の人とつきあうことがうまくなるとは、なかなか思えない。他国の人との交流も、結局は自分と他人、人間と人間との交流にゆきつくのかもしれない。

 

 

 

参考文献:

 

日本の戦争 田原総一郎著

 

ルーズベルトの開戦責任 ハミルトン・フィッシュ著

 

ルーズベルトの責任 チャールズ・A・ビーアド著

 

 

2016年7月20日 (水)

関門トンネルを歩く

「関門トンネルを徒歩で渡ろう」というと、びっくりなさる方も多い。実は、無料で、九州から本州へ地下トンネルを歩いて渡ることができるのだ。残念ながら、自転車は無料とは、ならない。

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JRの門司港駅から、レトロ海峡プラザを抜けて、ノーフォーク広場を左に見て40分ほど歩くと、最初に見えてくるのは、関門橋の下にある和布刈神社。石灯籠がでむかえ、傍に海への階段とともに、ふるめかしいコンクリート製の鳥居が建っている。

関門トンネル人道入口と書いてある建物に入ると、海面下51メートルへとエレベーターで降りてゆく。距離は780m、徒歩15分で下関に到着する。

縦坑は全部で6つもある。関門海峡をはさんで両側に、自動車道路用の縦坑(換気Kimg0657_r


口)が二つ、水をくみ出す縦坑が二つ、さらに人道入口が二つ。

33年開通。一日4800トンもの海水が染み出てきて、排水ポンプで染み出た海水をくみ出しているという。トンネルは二重構造となっており、上段が自動車道、その下に人道がある。しかしながら、自動車の走る騒音はほとんど聞こえてこない。





Kimg0658_r_2薄青色のペンキで塗られた隧道をあるいていくと、途中で、床に白線が引いてあり、福岡県、山口県と書いてある。トンネル中に県境があることになる。

下関側でエレベーターに乗って地上にでると、そこが、みもすそ川公園となっており、関門航路にむけて、5〜6機の大砲が並んでいる。「みもすそ」の由来は後述する。

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18635月から6月にかけて、長州藩が関門海峡を通る外国船を五回にわたって砲撃した。長州砲(八十斤加農砲)と呼ばれるらしい。砲撃の白煙を模した水蒸気のようなものが、砲身から時折、出る。あの頃の砲は、爆裂弾ではなかったろう。投石器に火薬が追加したくらいと考えてよいかもしれない。おそらく、弾道計算のなかった時代では、落下地点は、およそでしか予測できず、非常に命中精度が悪かったのではなかろうか。それでも、当たれば船を沈められたかもしれず、やがて連合軍が報復にやってきて、完膚なきまでに砲台は壊されることになる。

さて、火の山展望台へと向かうが、あいにくとロープウェイは台風で故障したとのことで、運休となっていた。しかたなく、タクシーで火の山パークウエイから展望台へとたどりつく。

展望台からは、関門海峡が一望できる。15分ほど展望を堪能し、待たせてあったタクシーに乗り込み、下山する。

海峡沿いを歩いていく。この海峡は国際航路となっているため、大型船舶が頻繁に行き交う。さらに海流の問題もある。一日に四回も流れをかえて、さらに潮流の速度は約10ノットにもなる。両岸の幅は700メートルあまりしかない、しかも連絡船が頻繁に航路を縦に横切り、しかも釣り船も多く点在する。海峡の形はS字カーブとなっているため、カーブ先の船の動きが見えにくい。春と秋には、午前中5〜6時間ほど霧がかかることもあり、視界が悪くなることもある。もちろん、霧がかかれば通行はストップとなり、車の渋滞ならぬ船舶の渋滞となる。海上保安庁やポートラジオが様々な対策をとるが、海峡を通る船にとって操船はとてつもなく難しい。大型船の場合は、操船案内をするパイロットの出番である。パイロットは海峡の潮の流れや、交通状況を知り尽くし、的確な運航指示を乗船している船に与える。海峡の交通信号にあたる交通管制は、関門マーティスと呼ばれる海上保安庁が、信号やレーダー、VHFを使いながら行っているが、おそらく過密スケジュール時には、羽田空港なみの管制が要求されることもあるのではなかろうか。その過激さが予想できる。

 

乗って来た船は6000トン級の船だが、港に係留していても、潮流のせいだろう、ゆっくり揺れる。普通、港に停泊していて、暴風雨のとき以外は、静穏なところであれば船が揺れることはほとんどない。

 

下関がわでは、あまり釣り人は見ることがなかった。一方門司側では、船のまわりを散策していると、岸壁近辺には釣り人が多い。魚影が濃いからだろう。今は2月で寒い季節だからだろうか、小型発電機をまわしながら、灯を海面に照らしながら、イカ釣りしている人が目立った。

 

関門橋の下には、「安徳帝御入水之処」という石碑が建つ。二位尼の辞世が残されKimg0685_r


ている。

「今ぞ知り、みもすそ川の御なかれ 波の下にもみやこありしは(確認要)」。1185年、壇ノ浦合戦で敗れた平家は追い詰められ、二位の尼は、八歳の安徳天皇を抱いて入水したという。現代の親子心中が昔からあったのかと言うなかれ、敗れた平家側の運命が、どんなに苛酷なものか予測できたゆえの入水であったろう。その入水箇所が、海峡でもっとも幅の狭い関門橋付近だったことになる。みもすそ川公園の由来も、この辞世から来ているのだろう。

赤い鳥居と、子供の頃の浦島太郎の昔話の挿絵にでてくるような、白い門の上に赤い建物が見えてくる。安徳天皇を祭る神社として建てられた赤間神宮である。安徳天皇を祀ってある場所は菊の御門で閉められていて、入れないが、小泉八雲(ラフカディオハーン)の話にでてくる、耳なし抱一(確認)が琵琶をかなでている銅像がそばにあり、テープで平家盛衰をうたっている。確かに銅像に耳はついていない。平家を弔う塚もある。

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その隣が日清講和記念館。李鴻章、伊藤博文、陸奥宗光たちが座った椅子や調度品が残されている。

ここまでくると、唐戸市場も近い。唐戸市場では、ふぐの大きな置物が出迎えてくれる。中にはいると、ノドグロと呼ばれる魚の寿司、新鮮なたこ、ウニ、フグなどの寿司がところ狭しと並べられていて、客は用意されたプラスチック容器に好きな食材を乗せて、会計をすませ、立ち食いする。その新鮮な味のおいしいことといったら。瀬戸内海で採れた魚は、おいしいと聞いていたが、これほどとは思わなかった。やはり、来るなら冬なのだろう。新鮮さと、魚の身の引き締まりぐあいが、まったく異なる。夏場に瀬戸内に来て、魚がおいしいと思ったことはほとんどなかった。

 

なぜ、おいしいのかと、近辺を散策してみると、種明かしは、港のそばにある生けKimg0700_r


簀にあった。そこから必要な魚を水揚げして、調理するようだ。食材にもよるが、新鮮な寿司が一貫
100円から300円ほど。その他にも、サザエやアワビ、どんぶり、フグ雑炊、フグ汁などが売られている。外国からの観光客も多いのだろう、韓国語や中国語の客の話声が飛び交う。

帰りは、唐戸桟橋から、五分かかって、ボートに乗り、一路門司港にもどった。

巌流島を訪れて

あれは、もう何十年前のことだったろうか。関門海峡を走っている船の上から、「あれが巌流島だよ」と言われて、巌流島の実在を初めて知ることになった。ただ、船の上からでは、単なる砂州の広がりと後ろに広がる松林しか見えなかった。それでも、想像をめぐらせると、その砂浜のうえに立つ小次郎と、波打ち際に立つ武蔵の姿が想像できたものだ。

 

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その頃は、巌流島への連絡ボートもなかったし、砂浜と松林が観光地化で様変わりするとは思ってもいなかった。現在では、関門汽船がサービスを提供して、誰でもが巌流島へ渡れるようになった。さて、窓口で、一日フリー切符を買い、何時出発かを聞くと、門司レトロ地区から直接巌流島までのボートがあるのだが、あいにく出発したばかりで、下関から迂回する便ならあるという。ボートに乗り込み、下関の唐戸桟橋まで、
10分ほど、乗り続け、唐戸から、さらに10分ほどで巌流島についた。

 

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驚いたことに、昔砂浜だったところは、フローティングピアと呼ばれる浮桟橋ができ、中型客船用だろうか突堤が伸びている。さらに砂浜だったところは被覆石で覆われ昔の面影すらない。

 

島の広さは、明治から大正にかけて埋め立てられたので、現在では103,000平方メートルもの広さがあるが、決闘当時は、その六分の一である、17,000平方メートルしかなかったそうだ。東京ドームの三分の一、あるいは大きな美術館ほどの広さでしかなかったようだ。

 

宮本武蔵は実在の人物ではあるが、佐々木小次郎の方は、諸説があり、特定されていないため、その実在すら疑われていたこともある。島に上陸すると、鳥居のような鉄製のゲート、「ようこそ巌流島へ」と記してある看板に出会う。案内標識には、島の大きさと坂本龍馬と妻のおりょうが巌流島にわたり、花火をあげたという話が書かれてある。年表を見ると、吉田松陰、坂本龍馬、斎藤茂吉など島に渡った人たちの名が記されている。

 

島はさほど大きくないため、ほぼ30分で島全体を歩き回れる。まずは、巌流島文学碑。

村上元三作の「佐々木小次郎」の中の一説が、刻まれている。

「白い雲のわいている空に、小次郎の面影が見える。この後も絶えず兎禰の眼に浮かんで消えることのないであろう小次郎の生きている面影があった」

ただ、イラストは、変色してあまりはっきりしない。その碑のそばに、「武蔵・小次郎決闘の地 慶長十七年四月十三日(1612年)」という木造の塔が建っている。当時の島の広さは6分の一しかなかったため、ここが決闘の地であるとは言えないはずだが、目印としては役に立っているかもしれない。それならすべて遊歩道にせずに、当時の砂浜の面影も、一部で良いので残してほしかった。

 

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屏風岩のような長方形の岩に、「この島は二人降り立ち闘ひしむかしの男恋ほしかるかな」 という現代歌人協会会員の森重香代子の歌が刻まれている。

 

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分も歩き続けると、小高い丘の上に、武蔵と小次郎の像が建っている。岩国市の彫刻家・村重勝久氏が作ったものだという。彫刻は、二人の気迫がみごとに刻み付けられている、みごとな作品だ。

 

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像の下には、人工海浜がひろがり、そこには、武蔵が乗ってきたであろうと同じような構造の木造伝馬船が、朽ちていた。心憎い演出だ。

 

桟橋まで帰る途中で、佐々木巌流の碑がある。巌流島歴史絵巻によると、明治43(1910)1031日に島に建立されたと言われている。現在では、その頃と位置は異なっているにせよ、自然石なので、歴史の風味を感じさせる。

 

武蔵が櫂を削って木刀として、小次郎と闘ったについては、諸説あるとは思うが、私自身の推論を述べてみよう。闘う以前に、武蔵が約束の刻限に遅れ、鞘を海に捨てた小次郎に向かい、「小次郎敗れたり!」と叫ぶ場面があるが、そういった心理作戦は、あえてはぶき、長い刀と櫂の利点という側面からみてみたい。

 

まず、私たち素人というものは、剣の刃影の恐ろしさというものを案外知らない。仮に、凶人が長いカミソリを振り回して迫ってきたとしたら、私たちは通常の短いカミソリで防戦するとして、果たして無傷で防げるのだろうか。長い剣先が目の前に向かってくる脅威というのは、それに近いものだろう。

 

それだったら、剣道で行っているようにこちらも剣で立ち向かい、竹刀と竹刀をあわせるように、向かってくる刃にこちらの刃を合わせて、戦えば良いではないかと思うかもしれない。それは道理があるように思えるが、実用的ではない。居合道を経験した人なら、剣をあわせることの危険性を知っているとおもうが、剣の刃を合わせることには、かなりのリスクが伴う。

 

まず、鉄の刃と鉄の刃がぶつかり合うのである。どちらかの刃が折れたり、曲がったりする可能性は否定できない。刀が折れ、曲がった方は、武器が使えなくなると、防ぐこともかなわず、死を待つだけとなる。そういったリスクはできるだけ少なくしたい。 一度でも力まかせに刃合わせすれば、ほぼ間違いなく両方の剣は、刃こぼれする。刃合わせするたびに、刃こぼれするとなると、最後はノコギリ刃のようになりかねない。刀で人を斬るのではなく、ノコギリ刃で相手を切り刻むか、刀を槍として使うかという二者択一となる。

 

刀を槍のようにして、使うのも一理あるが、問題は、一撃で心臓を突けなかったらどうなるだろう。着いた瞬間に、筋肉は硬直し、突いた刀を抜くことが難しくなる。その間に、突かれた相手が、返し刀で、相撃ちをねらってきた場合、刃先から逃れることは、難しくなる。

 

ノコギリ刃にしても、槍のように使っても、修羅場となることは間違いない。やがては、どちらかの刀が折れるか、曲がって使い物にならなくなる可能性もある。仮に、両者とも試合後、生きていたとしても、両者ともあちこち傷だらけとなっていたことだろう。最後は、重い手傷を負った方が失血死で死ぬことになる。

 

次に、武道すべてとは言わないが、多くの武道では、「高い、長い」ことに利がある。たとえば、実力が五分に近い状態で、戦った場合、「長い」ほうが絶対的に有利に立つことが多い。ボクシングで、背が高く、腕のリーチが長い方が、有利となる。空手、柔道、相撲でも、やはり同じことが言えて、相手の身長が高く、リーチが長いとなると、それだけで格段に有利になる。腕のリーチが長いと、短い方はどうしても相手の懐に入って戦わなければ、相手にとどかない。しかし、相手の懐に入ろうとした瞬間、上から長いリーチの腕が伸びてきて、それがカウンターになって勝負が決まることが多い。

 

短いリーチの方は、相手の態勢をくずすための秘策をつくさないかぎり、正攻法では、勝ち目がない。相撲で使われる、猫だましのような奇手もあるが、奇襲攻撃みたいなもので、相手が研究し、予測していれば、効果はまったくなくなる。まして、小次郎は長身だったとされる。リーチが長くて長身であれば、懐に入り込むのは至難の業となる。

 

武蔵が、まず考え抜いたことは、長い刀がどういう弧を描いて、襲って来るかだろう。決闘が始まってから、剣を抜いたあとの行動である。上段に構えるか、下段から斜め横なぎにねらってくるか、はたまた、水平に横に払うか。

胴横からの攻撃は、あまり考えなくてもよいだろう。たとえ、横に払ったとしても、胴を斬ることは難しい。胴は斬って抜かなければ、ざっくりとは斬れない。長い刀で胴をぬくことは簡単ではない。とすれば、ねらってくるのは、肩から上となる。

 

長い刀を考慮すると、一度半身となり、一度上段に構えてから、状況に合わせ、自由に左右の袈裟斬り、はたまた胴切りへと転ずることも可能性がたかそうだ。というのは、下段や、初めから胴切りを目指すには、長刀は重く、スピードが遅くなる。

 

そう考えると、武蔵の考えたのは、日露戦争で秋山が考えたような、自分は無傷で、絶対に相手に勝てる戦略を立てなければならなかった。いわゆる、武蔵はほとんど手傷を負わず、小次郎にのみ致命傷を与えるものでなければならなかった。相手と同じ長刀を使って、リーチの差をなくするという手もあるが、長刀使いには、小次郎の方が有利だろう。そのために考え考え抜いた結論が、櫂を木刀とする究極の手段だった。

 

もし、武蔵が、その木刀で究極の一撃をはずしてしまえば、リーチの差で、小次郎に間違いなく体を真っ二つにされるだろう。そのためには、絶妙のタイミングで間合いに飛び込まなければならい。

 

武蔵が、頭脳をフルに回転してあみだした戦略が、櫂を使うことだった。剣と剣では、両者とも上段に構えるための剣を上にあげるスピードが同じになる。剣はかなりの重さがある。上段に速くあげるためには、相当の筋力が必要だ。

 

小次郎の場合は、武蔵の刀より長い分、いったん上段に構えてしまえば、振り下ろす速度は、格段に速く、リーチの差で武蔵の剣先が小次郎に届く前に、武蔵が切られてしまう。仮に、右からくる一の太刀を防いだとしても、すぐさま、左の返しが襲ってくるだろう。勝負は、小次郎が上段に構える前の段階だと、武蔵は考えた。

 

長い刀を上段に構えるためには、刀をつかんだ右手を支点として、左手で押しながら右に体を開かなければならない。普通の刀であれば、筋力さえあれば、右片手のみで支えて、両側から円を描くように上に持ってゆき、頭上で、両方の手で刀の柄を握ることも可能だが、長い刀では、不安定すぎる。

 

長い刀の場合、その重さゆえに、両手で柄をつかんだまま上段に構えなければならない。そのとき、左腕のかいながどうしても眼の前を横切る。その一瞬にすべてをかけたと考えるべきだろう。武蔵は、小次郎の視界が右手でさえぎられた瞬間、跳躍して間合いをつめ、上段に構えた櫂を振り下ろした。鉄の重い刀が右一旋回する速度より、鉄より軽い木製の櫂の方が、上段にたどりつくのに、スピードで勝り、小次郎は眉間をうちくだかれ、即死する。

 

試合で負けた小次郎だったが、その名を忍び、「船島(ふなしま)」と元来呼ばれていた島が、巌流島と呼ばれるようになった。さらに、対岸の下関側には、三菱造船所があるが、その南側には、小次郎の弟子たちが決闘の行方を見守っていたとして、弟子待町という名前があったと言われている。現在でも、彦島弟子侍東町という名が残っている。

 

巌流島を高いところから俯瞰したい方は、海峡メッセ下関・海峡ゆめタワーに上ると、全景が見えるそうだ。年表によると、昭和30年には、巌流島の住民がピーク時約30軒となったという。しかし、昭和48年には、島に残っていた最後の老人が島を去り、無人島となっている。漁業で生計を建てるにしても、おそらくは、水の確保をどうするかが最大の問題だったろう。当然のことながら、島には井戸がないため、雨水を天水として貯水するしか方法がなかったはずだ。住民が住んでいた18年にはどんな経緯、歴史があったのだろうか。

 

現在では、島で様々なイベントが開催されているようだ。海の新鮮な食材を提供している唐戸市場の近くでは、寸劇やマスコットキャラクターのイベントもあるという。韓国語や中国語が飛び交う、市場でうまい寿司やふく汁を食べたあとに、巌流島を除いてみてはいかがだろうか。

詩:村の子供は、今どこに

村の子供さ、どこさ行った

村の悪ガキどこ行った。

池で鮒釣り

田んぼに石投げ

巣から、雀の子をかっさらい

蛇を追いかけまわしては、石を投げ

畑のトマトやキュウリをもぎとり

食っていたガキどもは、どこさいるだ


河を泳ぎ回り、魚をとり

秋には、山を走り回り

栗、山ぶどう、アケビをとりあるく

盆には、灯篭ながしで村を練り歩いた

あの鼻たらしの子供はどこさいった


あのころは、多くの子供たちが村にいたもんだ

大きな校舎には1000人もの子供が走り回っていた

木造づくりの建物には

子供たちの思い出がつまっていた


その学校が町の合併や統合の名のもとに消えていく

廃校になって荒れ果てた

木造校舎には、思い出よりも

悲しみが多くなった


ハメルンの笛吹という話を思い出す

笛吹は村からネズミを追い払い

約束を破った村に怒った笛吹は、

その村から子供を取り上げた


この村の子供は

どんな笛吹に連れていかれたのか

都会というハメルンの音色に踊らされて

都会へ行ってしまったのか

夢破れたら、帰ってこい

ここには、おめえたちの故郷がある。

どんな傷ついても、

おめえたちが帰られる場所はここしかねえはずだ


米作りという大事な伝統を子供たちに

伝えるはずだったのに

米作りに、親も自信を失い

子供が出ていくのを

止められね

老齢で、耕作放棄地が増えて

里山も荒れていく


都会という幻想に踊らされているなら、

田舎に幻想をつくって

ハメルンの音色を奏でればよい

子供たちが帰ってくるかもしれない


「村おこし」という言葉のもとに

いろんな企画をたちあげても

いまだ 村はそのままだ

子供もいまだに帰ってこない


村は、じいさまとばあさまばかり

あの悪たれガキが、今海外に住んでいるのだと

どこそこの子供は、銀行で働いているらしい

あそこの息子は、夢やぶれて帰ってきたと

噂話だけが、村の話題になった

村から、いつの頃か

子供のはじけるような笑いが

消えて、どれくらい過ぎたろうか


鮭やアユですら、自分の生まれ故郷に戻ってくる

どうして子供たちは、もどってこない

あの悪たれがきども、もどってこい

おめえたちの育った村が 消えてしまう前に

2014年4月22日 (火)

強制連行、徴用問題の歴史認識

最近、インターネットニュースを覗くたび、韓国がもちだす慰安婦問題や、中国で強制連行、さらに運搬船の差し押さえ問題が良く取り上げられている。最初は、相手国をバッシングすることで、外交的に有利な立場をとるための、単なる外交的な問題だとおもっていたが、様々な国の利害が絡み、いまや複雑な様相を呈してきている。

そもそも戦争中に人権という考えは、あったのだろうか。歴史を学ぶたびに、目をつむりたくなるような残虐な事実に遭遇することがよくある。たとえば、モンゴル帝国は、ロシアに侵攻し、村や町を攻撃するたびに、技術を持っている男は奴隷として生かし、それ以外の男はすべて殺した。女はすべて奪い、犯し、村は破壊しつくされたと言われる。

私は、妻の実家に行くと、ときどき義父と酒を酌み交わす。話している最中にロシアのことにはなしが及ぶと、義父は怒りに駆られたように、「ロスケはひどい奴らだ」と叫ぶ。それが、本当に怒るようなことでもない、ほんの些細な事件でも、「ロスケは許せん」と叫ぶ。義父は、満州吉林省からの引揚者であった。ハルビンのような中国北部からの引揚者に較べると、吉林省からの引揚げは、被害が少なかったとは聞いている。それでも、ある部落では、周辺住民からの襲撃を受けて、数千人が自決している。戦後の引揚に話がおよぶと、逃避行の際、母親が、赤ん坊が泣かないように口を押さえ、我が子を殺さなければならなかったと言う。義父の姉は、「留用」され、本土へ引き揚げることはできず、それ以来、生死の噂も聞かなかったという。慰安婦になった可能性が高いと口重く言った。そういった戦争の記憶は、酒を飲んだおりに、断片的に話すが、いまでも戦争の話になると口を開くことが少ない。ロシア兵による蛮行は、義父の同じ引揚者からの聞きかじりなのか、実際に子供の頃に目撃したことなのかは、いまだにわからないが、義父のロシアに対する怒りは、戦後の記憶と結びつくのだろう。それは、あたかも、モンゴルに脅かされたロシアの村に残る歴史的な記憶と同質なものなのかもしれない。

それは、韓国の旅客船セウォル号のことに話が及んだときもそうだった。乗客の避難誘導や救命措置を迅速に取らずに、船長や航海士が救出されたことに関して、すぐさま関東軍とまったく同じだという言葉がでてきた。確かに引揚者の本を読むと、ロシアが侵攻してきたとき、まっさきに逃げ出していたのは、関東軍とその指導者の家族であったと言われる。ロシアの軍隊は、まず日本人達がすむ村の通信設備を破壊し、村を孤立させ、お互いに情報がとれない状態にして、囲いに取りこんだ羊を、狼が一頭一頭殺していくように、掠奪、惨殺、拉致、強姦のかぎりをつくしていった。戦争中ならまだしも、戦後にこういった残虐、非道が行われたことに怒りを感ずる。現在では、敗戦後にアメリカが占領政策を主導したため、ロシアや中国がその分け前にあずかれないことに、腹を立てた指導者が、そういった非道やシベリア抑留と命令したと言われる。

戦争に勝った国民に人権があるなら、敗戦国にも人権はあるべきだった。しかし、敗戦国に、人権はなかったと言ってよい。日本が戦争で負けてからというもの、満州からの引揚者たちは、中国人たちから掠奪、惨殺、拉致、強姦にあい、さらにロシア兵からは、徹底的な掠奪、惨殺、拉致、強姦にあっている。あろうことか、日本人のなかには、自分の命を守るために、引揚者の女性を奴隷のように売って逃げた人もいたと聞く。ロシア兵によって、抵抗する引揚者や、女性はその場で殺された。女性たちは髪をきり、顔に煤をぬっても胸をまさぐられ、拉致され連れて行かれたという。女性の中には、汚物を体に塗り付けて、あまりの臭さに、ロシア兵が近寄れず、やっと助かった人も多かったと聞く。港までたどりつき、引揚船に乗ろうとすると、持っていた貴重品はすべて中国に取り上げられている。

さらに、ロシアに連行された開拓団や兵士は、収容所に監禁され鉄道建設に強制的に従事させられた。韓国慰安婦が性奴隷と呼ばれているなら、シベリア抑留者は、女性は性奴隷であり、男性は労働奴隷であった。それは、戦後の暗部とも言えることで、戦後を学ぶものとしては、資料を読んでいて、あまり楽しい作業ではない。シベリア抑留の中では、食物や生活必需品は、ほとんどが中間で搾取され、少ない食料品と寒さで、枕木一本に対して日本人一人が死んだと言われるほど、多くの抑留者が亡くなった。五十万人もの抑留者に対して、お金が一銭でも払われたという話は聞かない。

中国でも、戦後、研究者や技術者、看護婦などは、引揚が許されず、「留用」と呼ばれ、引揚船に乗ることができずに働かされ続けた。持っていた知識や技能が中国側に伝わり、用がなくなるまで、中国に留め置かれた人も多い。アメリカの日本での占領政策が進み、アメリカだけが甘い汁を吸うなら、ロシアや中国が、日本から奪えるものは、なんでも奪ってしまおうという決断ではなかっただろうか。

そういった事実に対して、様々な証言集や資料が存在する。こういった行為は、国際法に違反した行為だった。しかし、いまだに英文に翻訳されて積極的に世界に発信したという話は聞かない。何故だろう。本当は、戦後に起こった事実や蛮行を、世界に訴えるべきではなかったろうか。引揚者の話は、映像化され、映画やテレビドラマを通じて、世界に発信してきた。しかし、そういったメディアは、相手国に配慮して、暗部の一部しか伝えていないし、引揚者が味わった苦しみの数千分の一も表現していないことがわかる。

「はだしのゲン」という漫画に過激な描写があって、学校や図書館から撤去すべきだという要請があるという。まるで、戦後の事実を隠ぺいし、記憶の彼方に押し去りたいという意思を感じさせる。もし、満州からの引揚者の体験が、漫画になったら、あまりにもリアルすぎて、間違いなく撤去すべきだという要請がでるだろう。

これは、日本人の悪い癖かもしれない。真実はいつか明らかになるとか、いつか本当の事を、わかってもらえるだろうという考えが、根底にあるような気がする。事実、日本は、こういった戦後に起こった悲劇を外交カードとしては、あえて使ってこなかった。世界に訴えることもしてこなかった。いったい、中国人やロシア人の何人が、こういった戦後の蛮行を知っているのだろうか。戦争中の残虐性は誰もが声をあげたが、戦後に起こった蛮行には、日本人も含めて、ひたすら目をつむってきたのが現実ではなかろうか。韓国の旅客船沈没で、船長たちがいち早く避難命令を出していれば、数多くの乗客の命が助かったはずだった。同じように情報を早く入手した関東軍が、住民に避難命令を早く出していたら、数多くの命が助かっただろう。大本営や逃げ出した関東軍、さらに戦争を煽動したメディアこそ責任をとるべきだったのに、いつのまにか国民総懺悔に変わり、何も知らずに満州に渡った一般庶民が、逃げる際に、その最後のツケを払わなければならなかったは、なんともやりきれない思いだ。

韓国や中国が、戦争中の個人賠償に声をあげるなら、日本も戦後の引揚者に対して行われた非道に対して個人賠償に声をあげるべきではなかろうか。それで、やっと同じ国際社会で同じプラットホームに立てることになるのかもしれない。沈黙は金という言葉があるが、国際社会では、沈黙は金とはならない。反論しないのは、やましいことがあるからだということになりかねない。実は、こういった問題に一刀両断の解決法はないだろう。なぜなら、戦争のことを話しだすと、お互いに過去の歴史の悲惨な出来事を述べあう、水かけ論になってしまうし、思い出したくない記憶を呼び起こし、さらに被害者を苦しめかねないことになるからだ。

それでも、私には、満蒙開拓団の資料を読むたびに、彼らの無念さが伝わってくる。国の移住計画のもと、理想郷だと教えられ、異国の地で生計を立てていた人たちが、満州に着いてみると、土地はもともと中国人所有していたのを買い叩いたものだった。約束が違うと帰国したい思いを押しつぶし、やっと開墾に成功すると、土地を奪われた人たちが、ゲリラとなって襲ってきた。それをやっと防いだと思ったら、男は、軍隊へ召集される。終戦となり戦争が終わったと思ったら、残った婦女は、終戦で中国と、ソ連兵の汚辱と掠奪にあう。守ってくれるはずの関東軍は、一足早く逃げ去ったあとだった。彼らは、何度も国に裏切られてきたことになる。

引揚者は、戦争は終結したにもかかわらず、人権はまったくなかったといってよい。彼らこそ、ロシア、中国、日本政府の謝罪が、本当に必要だった人達ではなかったのではなかろうか。

日本の歴史授業は、近代史がすっぽり抜け落ちていることが多い。それは、教える先生方にも、歴史が身近すぎて、荷が重く感じたからだろう。せめて、外交にたずさわる人達だけは、こういった戦後の歴史を知っといてほしいものだ。確かに、日本軍による南京虐殺や731部隊のような非道は許してはならないものだった。しかし、戦後の引揚げで日本の兵士や、一般庶民がロシア兵や中国民によって犠牲となったことは、同じように、決して許してはならないものだったし、明らかに国際法に違反するものだった。

戦勝国の人だけが人権があり、敗戦国だから、人権はまったくないという考え方には、決して同意できない。戦後の補償を、取り上げるなら、苦難の道を歩んできた引揚者に対する相手国による賠償も考慮に入れた、対等の外交政策を行ってほしいことを切に願う。(20144月)

2013年7月25日 (木)

麻雀でみる満州の勢力図

共産党がなぜ中国を統一できたのだろうか。なぜ国民党が勝利できなかったのかについて考えてみたい。どうも鍵はソ連の謀略にあったようだ。日中戦争が始まったころは、ソ連は、むしろ国民党を金銭的に支援していた。いや、抗日を唱えるなら、どこでも応援しただろう。そうすることによって、中国に陣地をかまえる日本軍を国境で威嚇し、後方からは抗日戦線がゲリラ活動をして、関東軍を両面からおびやかすのが目的だった。

麻雀で満州の力関係を表してみよう。もともと、麻雀は北京の紫禁城後宮が発生源であったといわれている。陳舜臣によって書かれた、「北京の旅」には、三元牌の紅中、緑発、白板について、一部の記述を見つけたので引用してみよう。三元牌には、それぞれ二重の意味があるようだ。紅中の「紅」は、もともと宮女の口紅、紅中の「中」は、考中は科挙試験のことを指した。試験に関する意味があったのかもしれない。緑発の「緑」は、緑なす黒髪、緑発の「発」の意味は、官になると、賄賂が懐に入って発財(財をなすことができる)ことを表す。白板の「白」は、白粉を塗った宮女の顔、喪のしるし。白板の「白板」は、無位無官のシンボルでスタートを示すという。以上は、雑知識。

さて、毛沢東は麻雀がすきだったようだから、満州を賭けた争奪戦を麻雀にたとえてみよう。今麻雀卓には四人の人が座っている。スターリン(ソ連)、毛沢東(中国共産党)、東条英機(日本)、蒋介石(中国国民党)。

ソ連が現時点では、一番点棒の数が多い。その次が日本、国民党、共産党の順で、共産党はコンミルテンが金銭面で支援していたといっても、ほとんどハコテンに近い。ソ連は一時期、国民党を支援していたので、毛沢東は、ここでなんとしてもソ連に国民党とは決別して、中国共産党を支援してもらいたい。支援を勝ち取るためには、ソ連を自分の陣営に誘い込むのが一番得策だ。毛沢東はおべっかを使い、あたかもスターリンの下僕であるかのように振る舞い、スターリンからテーブルの下で、不必要な牌を交換してもらった。麻雀のイカサマの初歩の初歩だが、国民党も日本軍も最初は気がつかなかった。その後、日本も国民党も、ソ連がなんらかのイカサマをやっていることに気がついたが、確証はつかめなかった。初戦は、日本がなんとか勝ち抜くが、中盤戦にさしかかると、テーブルの下で牌交換するソ連と中国が優勢になり、勝ち進み、日本に敗戦の色が濃くなる。

休憩時間に、スターリンは蒋介石をも誘う。毛沢東と一緒に三人で、イカサマをしくんで、日本の一人負けにしようと誘う。いわゆる抗日戦線である。初め、蒋介石は毛沢東と組むことを嫌がったが、張作霖の息子、張学良にうながされ、やむをえなく共同戦線をはることに不承不承合意する。

麻雀は四人でやるものだが、そのうち三人が共謀したら、どんな猛者でも勝てっこない。日本は役満を振り込まないように注意し、何度か国民党に振り込ませたが、せいぜい上がってもリーチのみで終わった。結局、持っていた点棒はあっというまに減り続け、とうとうハコテン。全て失ってしまった。勝負がついた後で、「そんなのインチキだ」とわめいても、もともと敵陣で麻雀をやろうと、日本自ら異国に乗り込んだのである。それくらいの謀略は、想定してかかるべきだったろう。

一方、毛沢東は日本に勝った後、次の敵を国民党にねらいをしぼった。ソ連は、初めは国民党を支援していたが、その後、共産党を全面的に支援することに方針を転換した。支援を受けても、共産党は弱く、何度か国民党に満貫を振り込み、負けそうになった。毛沢東は、さらにあくどい手を思いついた。国民党の秘書をひそかに買収して、蒋介石が聴牌したときに、待っている牌が何なのかをが、蒋介石の後ろからジェスチャーで毛沢東に知らせるようにした。ソ連の強力の強烈な後押しと、秘書の裏切りで、毛沢東はとうとう蒋介石をハコテン近くになるまで、追い込んだ。全てを失い、ハコテンどころか借金までしょいこんだ日本はとうとう敗戦国となり、大陸の領土を失ったが、ハコテンにならなかった国民党は、負けて台湾へ逃げ込んだ。一方、麻雀卓に残ったのは中国とソ連だけ。ソ連には、誰のおかげで勝負に勝てたと思っているんだという自負があるし、一方、中国はそろそろソ連とのコンビを解消し、独立し自分の道を歩きたいと、反目しあっている。反面、まだまだお互いがまだ利用価値があるのでは、と思うと双方のコンビをそう簡単には解消できそうもない。

以上が、麻雀を例にとった満州の一時期の歴史である。孫文が南京臨時政府を作り、その後、袁世凱が皇帝をめざした。袁世凱死後は、群雄割拠の軍閥の時代となり、張作霖も入って四カ国麻雀の席につくはずだった。しかし、列車爆発により張作霖は暗殺される。日本軍部が暗殺したにせよ、ソ連が暗殺したにせよ、五人で戦うはずだった麻雀が、一人減り、四つ巴の戦いとなった。その中で、最後は共産党が一人勝ちし、新国家を樹立したことになる。

最近まで、私自身、中国近代史におけるソ連の影響を過小評価していたが、間違いだったかもしれない。実は、共産党が国民党に対して勝利をおさめることができたのは、中国人民の圧倒的支持があったからだと堅く信じていた。ところが、「誰も知らなかった毛沢東」という本を読んでみると、いままで信じていたものが、みごとに覆された。人民の支持は、むしろ後からついてきたと見るべきだろう。共産党軍が国民党軍に勝てるほど、軍事力を持てるようになったのは、主に次の理由ではないかと考えられる。

1)長征で多数の兵士を失い、武器、食料も枯渇し、共産党はほとんど負け戦の状態だったが、破壊された鉄道網をソ連が復旧し、朝鮮、ソ連、外モンゴルから共産党軍に後方支援がとどくようになって、兵力、軍事力をよみがえさせることができた。

2)ソ連が日本側から取り上げたおびただしい武器を共産党兵士に渡し、日本人捕虜を使って軍事訓練し、さらにソ連の地でも、軍事訓練を行って、国民党軍に充分対抗できるまで兵力や軍事力を育て上げた。

3)毛沢東自身と蒋介石が軍事衝突だけで四つに組んだら、蒋介石に歩があっただろう。戦略や戦術の点では、蒋介石が勝っていた。ところが、謀略に関しては、毛沢東が一枚上手だった。この戦さを制するのは、謀略戦、情報戦であると見抜いた毛沢東は、さまざまな情報収集を行い、情報コントロールを行い、蒋介石との戦争を勝ち抜いていった。

長征を終えた時点で、国民党は、430万の兵をかかえ、毛沢東の127万。数でこそ国民党のほうが圧倒的に上まっていた。この時点では、国民党は負けるはずは、なかった。それなのになぜ、国民党有利か、それとも互角での戦いができなかったのだろうか。毛沢東の強さは、上記に述べたように、その兵数の差を謀略戦とゲリラ戦術を駆使して逆転劇を演じ、さらにソ連の全面的なバックアップを得たことだろう。

謀略の恐ろしさを身にしみて知っていた毛沢東は、まずは、自軍の中に国民党のスパイが党内に入り込む可能性を排除させた。まず共産党の兵士を徹底的に自己批判の形で洗脳教育を施し、洗脳できなかった兵士や将校は、即座に処刑し、各兵士に共産思想を徹底させ、そこには、普通のスパイも二重スパイも入り込む余地は、まったくなかったと言って良いほど、思想教育を施した。

それに反して、蒋介石は、共産兵を徹底的に排斥し弾圧したが、側近や兵士にそこまで徹底した思想調査をすることはなかった。結局、国民党軍内には共産党のスパイが隠れ潜み排除できることはなかった。やがて、蒋介石が全面的に信頼した将軍でさえ、実は共産党の「冬眠スパイ」だったことが後日判明する。裏切った将軍のもとで、国民党の数多くの兵士たちは孤立するようになり、待ち伏せにあっては、虐殺されるようになり、兵の数も極端に減って行く。しかも、共産軍には、ソ連から支援があり、旧日本軍の武器がソ連から支給されるなど、勝てる要素はたくさんにあった。ここまで謀略が進むと、兵の数はそれほど問題ではない。むしろ近代兵器を数多く持ち、後方支援が充実しているかどうかのほうが重要だったと見るべきだろう。

中国国民はどうだったのだろう。これは個人的な意見だが、変化をもとめたのだと思われる。日本でも、長期にわたった自民党政権のなかで、官僚と政治家の癒着、政治資金の問題など、問題が山積してくると、うんざりして、変化を求める声が強くなる。そう考えると、民主党に一票を投じたくなるものだ。失敗するか成功するかわからんが、とにかく、ここは民主党に政権をとらせてみようという考えが生じても不思議ではない。これと同じような大衆心理が、中国でも起こったと考えられる。敗戦の色が濃くなるにつれて、共産党支持の声が強くなった。

蒋介石率いる国民党が政権をとったとしても、袁世凱とどれほどの違いがあるだろうか。それよりは、国民の平等をうたう共産党を支持してみよう。共産党を選んでも、もうこれ以上、不幸になることはないだろう。そういう錯誤に陥った人々は、不幸なことに、共産党政権になって、もっと悲惨な状況が続くなどということは想像もできなかった。そういう虚偽の理想にだまされた兵士が、中国各地から共産党に夢を求めてやってきた。彼らは直ちに隔離され、洗脳教育、軍事訓練を施され、脱走は許されず、あとは前線に送り出された。共産党の指導に少しでも反抗的な者は粛清された。一旦、国民党と戦いが始まると、敵の情報は、国民党内に眠る冬眠スパイから共産党にリークされる。その情報に基づいて、攻めてくる国民党兵士を待ち伏せて、孤立させ、全滅させればよかった。

国民党側は、冬眠スパイによって、誤った作戦行動をとることが多くなり、多数の犠牲者をだした。さらに超インフレ、食料危機、売り惜しみと買いあさりで、国庫のたくわえはどんどん費やされていった。こうして、経済の悪化にともない、民衆の心も国民党から離れていった。共産党軍が有利に戦っていくなかで、長春では、国民党軍の鄭洞国将軍が籠城し、その外を共産党軍が包囲し、兵糧攻めを行った。50万人が長春に住んでいたが、罪もない多くの市民を巻き込み、餓死させ、人口が17万人に減ったといわれる。単純に計算しても33万人が戦争に巻き込まれ、亡くなったことになる。一体、攻めた側の林彪はなぜ、これほど多数の市民を餓死さる必要があったのだろう。一般市民と国民党兵士との区別がつきにくいというのが理由だったのだろうか。後方支援もままならなくなり、多くの国民党兵士と無実の市民が飢えと零下の寒さに苦しみ、餓死し、最後は籠っていた数少ない国民党兵士も降参した。日本の南京虐殺にも劣らない、市民を巻き添えにした大量虐殺だった。

そう言うと、毛沢東の反論も聞こえてきそうだ。革命では、犠牲者はつきものだ。織田信長を見てみろ、叡山の焼き討ち、越前と伊勢長島の一向一揆の大量虐殺。近代に入ってからは、西南戦争では、途中の村や町で徴兵した若者を無理やり兵役として使い、無駄死にさせたし、戊辰戦争となると、江戸市内で大規模な戦闘が行われるはずだったが、江戸城明け渡しで、なんとか小規模な戦闘に抑えることができた。しかし、彰義隊を殲滅し、会津は、無理難題をふっかけて戦闘に追い込み、あたかも京都で弾圧された攘夷者の意趣返しとも思えるような一部の市民を巻き込んだ戦闘が、会津で行われたではないか。

こう反論されたら、確かに返す言葉もない。日本でも謀略家と呼ばれた戦国のリーダーたちがいたことは確かだ。たとえば、毛利元就などが筆頭にあげられるだろう。お家騒動をたくらむ腹違いの弟を殺害させ、陶晴賢との戦では、敵方の江良房栄が内通者で裏切るというデマを流し、偽の密書まで作り、陶自身に江良を討殺させる。「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候」という言葉のとおり、謀略の多い英雄であったが、毛沢東のような天下取りの生臭さは、いささかも感じない。

スターリンが何故、そこまで中国共産党を支援したのか。それは、もちろんコンミルテンの働きで、中国を共産国家にさせる目的があったろう。そのほかにも本で述べていたように、東北は、タングスティン、スズ、アンチモンなどの資源が豊富で、それらの資源を14年間にわたり、ソ連が独占的に購入できるという利点があった。戦後、中国は共産化に進み、すべてはスターリンの思惑どおりに進んだ形になった。

しかし、スターリン死後、後任となったフルシチョフと毛沢東の関係は、スターリンとの関係とまったく異なったものになった。フルシチョフにとっては、中国が建国するのにソ連がどれだけの資金、軍事援助をしたか、忘れてほしくなかっただろう。ところが、その恩義を毛沢東は完全に裏切り、独自の道を歩もうとしていた。一方、毛沢東の方では、ソ連からの軍事援助は、絶対に必要なものであり、大躍進運動をしてまで、食料を輸出し、その先進技術に代金を支払い、軍拡への道へと進んだ。毛沢東としては、ソ連と互角の関係を求めた。そこに、さらにイデオロギーの対立が絡んで、独自路線を走ろうとする中国とソ連は、険悪な関係になり、その後、近年にいたるまで、二国間の関係をほとんど修復することがなかったのは、歴史の皮肉といってよい。

こう歴史を再度見てくると、日本は日中戦争の泥沼で敗れたというより、それ以前のソ連の謀略戦で既に完敗していたことになる。それでは、ソ連の謀略や中国後方での陽動作戦を当時の関東軍は察知できなかったのだろうか。ある程度の情報は得ていたかもしれないが、日本自身が満州国の利権にあまりにも深く関与すぎていて、関東軍にとって退くという選択は、当時は考えられなかった。こうして、すべては、ソ連の書いた筋書き通りに、日本は敗戦へと追い込まれていった。

前段で、麻雀を使って勢力図を述べてみた。張作霖爆破事件は、浅田次郎の「マンチュリアン・レポート」で詳細に、爆破にいたるまでの経過と、主人公の陸軍志津中佐が天皇と思われる人物に、事件に関して調査レポートを提出する形で、小説が描かれている。蛇足になるかもしれないが、もし、張作霖爆破事件がソ連の謀略だったらどうだろう。さきほどの、勢力図を考えると、日本が張作霖とタッグを組むことは、かなり日本にとって有力な立場になりえたはず。逆に、日本と組むかも知れない張作霖を殺すことは、日本の戦力を削ぎ、弱める意味では、ソ連にとって絶好の機会だったのではなかろうか。事実、「ソ連特務機関犯行説」や、スターリンの命令にもとづいてロシアのスパイが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も根強く残っている。あるいは、ソ連が謀略をしかけ、張作霖がロシアと手を結ぶ危険性があるという情報を意図的に流し、河本大佐がその謀略にまんまとのってしまい、爆破に手をかしてしまったという筋書きだと、まさに新たな小説の筋書きになりうる。いずれにしても、日本は、ソ連の謀略戦争にすでに敗れていたと考えるべきだろう。

それにしても、敗戦後、どれほどの多くの人が、満州という地が砂上の楼閣であったことに気がつき、日本が、無条件降伏する以前に、アメリカの要求を呑み、戦争を終結し、満州から撤退するべきだったのにと思ったことだろう。

これは個人的な意見だが、一旦、日中戦争という泥沼に足を踏み入れてしまってからは、そこから抜け出すことは、資料を読んで行くと、ほとんど無理なことだっただろうと推測できる。なぜなら、日露戦争という多大な犠牲を経て、やっと手にした満州の租借権であった。それをむざむざ棄ててしまうことは、当時の国内世論も中国進出企業、既にそこに住んでいる移民でさえも許せることでは、なかったことだろう。

それは、ちょうど麻雀のような賭け事にはまりこんでしまったギャンブル依存症の人間によく似ている。いったん賭け事にのめりこんでしまうと、周囲のことは、ほとんど良く見えない。思うのは、どうやったら、負けて失った分をとりもどせるのかと考える。と言って、運よく負けた分と取り戻せたとして、賭け事を止めただろうか。いいや、図に乗ってさらに傲慢になり、さらに投資した以上の金を求め、賭け続けただろう。こう思うと、日本の宿命は、賭け事にのめり込んだ瞬間に、絶望へと進むべきベクトルが内在していたように思う。

それと同じように、日露戦争で亡くなった兵士を無駄死にさせてはならない。ソ連の南下政策をなんとしても止めねばならない。満州に住む居留民はなんとしても保護しなければならない。満州の発展に投資してきた企業の権益はなんとしても守らねばならない。こういった状況を考えると、関東軍の一時撤退など、東條英機にとって、ほとんど不可能なことに思える。

せめて、賭け事という依存症から抜け出すには、こんなことではいけないと判断する醒めた理性や大局観を持つ人物の出現が望まれたが、軍事政権の言論・出版の弾圧で、そういった人物の出現さえも封じてしまったため、軍事政権に群がったイエスマンだけの集団になってしまったのが、最終的に敗戦という悲劇を生んだことになったようだ。そう考えると、既得権益を持つ軍人や多大な投資を行った産業界とのつながりの中で、満州国自体が破滅への道を選択するしか方法がなかったことになる。

いま思えば、眼先の権利や利害に汲々とするよりは、大局観ももって情勢を見るべきだったのでは、と過去の歴史に好きな意見を述べてしまいがちだが、賭け事依存症のように満州という既得権益に酔ってしまった人達、軍部の人達は、あの頃、そういった正論を、聞く耳を果たしてもっていただろうか疑問だ。

2013年4月27日 (土)

変わらないものと変わりつづけるもの(2)

「屋根の上のヴィオリン弾き」のテビィエの冒頭のセリフに、人は皆、屋根の上でヴィオリンを弾いているようなものだという。どうやって屋根から落ちないようにバランスをとるか、伝統(トラディション)を守っているからだという。何年にもわたって、この伝統を守ってきたから、村を、長年にわたって守ることができたのだとテビィエは言う。

 

民主化の流れは、ここ中国にも押し寄せてきている。中国に外国の文化が押し寄せてくるのは、江戸末期の黒船来航にも似ている。そういった、民主化の火が燃え広がったら、この広い国はどうなってしまうのだ、混乱がひろまり、秩序のない世界になってしまうだろう。そう国民に危機感を訴え、やっきになってその波を押し返そうとしているのが、中国現政府だろう。

 

最近のニュースとなった広東省の週刊誌「南方週末」の記事が改ざんされた事件は、メディアの中にも、そういった民主化への動きがでてきたと徴候と考えるべきではないか。以前であれば、党の指導に従って100%記事の書き変えに従っただろう。なぜなら、共産党員が党宣伝部に意向に従って出版社内部で、出版物を常に監視し、コントロールしているため、その検閲を無視して発刊しようとすれば、当然、出版社の存続さえ危ういことになる。

 

日本に黒船がやってきたとき、まず立ち上がったのは下層階級の武士たちだった。封建制という仕組みのなかで、中層にも、上層にも上がることのできない下層階級の青年武士たちが、改革のエネルギーを蓄えていく。日本が世界の技術発展から取り残されていくという、危機感もあったろうし、純粋な愛国主義から出発した面もあった。とにかく、外国からの影響下では、それに対応できる政府に変えなければならないという必然性から、長州、薩摩と組織改革が始まった。外国の脅威を、肌で感じた藩が、まずは古い体質を変えて、才能ある人材輩出の機会を与えるように組織を変えていったのである。組織改革に成功した各藩が連合して討幕へと動いていく。そして、終に尊王攘夷の名の下、古く化石化した封建制を破り、新しい政府を作りあげたのが、薩長土肥の藩寄せ集めの明治政府だった。

 

それに反して、保守的な藩は、明治政府ができるまで、幕府・武士社会を守ろうと、新撰組を使いながら、ひたすら勤王の志士を弾圧していく。まさに、日本自体が屋根の上で、揺れながらヴィオリンを弾いているようなものだったといってよい。保守派にとっては、バランスを取るためには、懐古主義にもどらざるをなかった。それが、彼らにとっての、トラディションだったのだろう。そのトラディションを必死に守ろうとした。しかしながら、戊辰戦争の終結とともに時代は大きく転換していった。

 

「屋根の上のヴィオリン弾き」の劇中では、伝統さえ守っていれば、平和に暮らしていけたはずの村にも、やがて時代の波が押し寄せる。小さな村「アナテフカ」が帝政ロシア領となり、ユダヤ人排斥が始まる。ついには、テビィエ達村人全員は住み慣れた村から追放され、それぞれの国へと散っていくことになる。時代の流れは、なんと冷酷なことだろう。いままでトラディションだと信じてきたものが、実は、時代の流れの上の砂上の楼閣であったことに気がつかされる。劇中では、人にとって、屋根の上で弾くヴィオリン弾きにとって、時代の流れに左右されずに、普遍的にバランスを取るものが何なのかは、明示されていない。

 

中国も、いまや屋根の上のヴィオリン弾きの一人であろう。経済成長に喜びながらも、その足元はおぼつかない。GNPで日本を追い越し世界第二位になったとはいえ、そのトラディションはなんなのだろう。中国が世界の中心であるという中華思想だろうか。共産主義を伝統とするには、無理があるのは中国政府も感じているようだ。毛沢東賛美を、トラディションとするには、色あせた貼り子の虎になりかねない。それでは、やがて時代の流れについてゆけずに、アナテフカ村の二の舞になりかねない。

 

官僚や共産党員の特権が横行して、社会システムが硬直化したときは、やるべきことは、情報の公開であり、報道の自由を認めることだろう。週刊誌「南方週末」が示した反発は、報道の自由が守られなければ、官僚の汚職を抑制することなぞできないだろうし、経済格差は広がっても、せばまることはないことを教えてくれようとしている。明治維新が下級武士から始まったように、中国でもマスコミや若者から改革の火の手が始まるかどうかはまだわからない。もし、報道の自由を以前にもまして許さないとした場合、さらなる圧政を敷くしか方法は残っていない。

 

中国でも、ゴルバチョフのような改革派の政治家が現れようとしたことがある。まずは、朱鎔基は、一時期中国のゴルバチョフと呼ばれるほど改革しようとしたが、大胆な改革まで進むことはなかった。その朱鎔基の派閥から温家宝が出て来て、さらに胡錦濤へと改革の旗が手渡された。しかしながら、胡錦濤がトップに着いたときは、江沢民がその権威を確立していて、ほとんど自分が思った改革をできないまま、習近平にバトンタッチする形となった。

 

現在の習近平も、太子党と呼ばれる幹部の息子として、福建省長から中央に抜擢された当時は、改革志向の人間として目されていた。しかしながら、現時点では改革の旗手となるのは困難だろう。党員の腐敗には、グラスノスチのような思い切った改革が必要なことは、間違いがない。しかし、それを行った旧ソ連は民族主義が起こり、連邦自体が崩壊していった。中国としては、なんとしてでも旧ソ連の二の舞は避けたいだろう。

 

こう考えると、中国としても急速な情報公開政策はとれないことになる。しかし、思い切った政策転換をはからなければ、官僚腐敗は拡大し、経済格差はひろがり、やがては庶民の不平、不満はくすぶり限界点まで達することになる。逆にソ連で8月クーデターがあり、守旧派がクーデターを起こし、ゴルバチョフを別荘に軟禁状態にした事件があったが、あのクーデターが成功していたら、どうなっただろうか。ソ連は反対派を常に弾圧するような恐怖政治に逆戻りしていたかもしれない。ここ中国でも、急激な民主化の動きがでれば、当然のことながら、共産党を守ろうとする保守派がゴリ押しして、旧社会にもどろうとすることは必至だ。

 

こう考えると、習近平が舵をとる中国政府は、とてつもない困難に直面していることになる。まさに保守と改革のせめぎあいの最中にあると言ってもよいだろう。保守が勝てば、民主化をひたすら弾圧する流れができるだろうし、改革が進めば、情報公開、民主化への歯止めがかからなくなる恐れがある。

 

社会主義の中で、資本経済を取り入れ、なんとか中庸に近いぎりぎりの選択を行ってきた中国社会が、今度も、綱渡りが成功するかどうかは、未知数だ。社会主義というくびきのある民主化は、他の国では聞いた事がないし、とても不可能に思える。

 

日本はどうだろう。テビィエのセリフにあった「トラディション」なるものは、持っているだろうか。あまり、そういったことに執着しない民族だったのだろうか。時代によって、くるくる変わってきたように思う。

 

日本の歴史を見て行くと、外国からの影響や変化にとてつもなく敏感な時期と、まったく意に介さない鈍感な時期があるようだ。幕末や明治維新は、敏感な時期であったし、鎖国の時代や太平洋戦争時代は鈍感な時期であったといってもよい。

 

ここで、司馬遼太郎の言葉を引用してみよう。

「日本人というのは、本来が無思想なのです。あるいは本来が無思想なればこそ、ここまでこられた、とも言えるのではないでしょうか。さらにはもう一方で、日本人がテクノロジーに関する秀才だからではないでしょうか。無思想で技術がある。(中略)とにかく日本人というのは、ある思想が定着しにくい民族です。」

 

これだけ、「国際」という言葉が国内で根づいてきたにもかかわらず、不思議と現代では、国際社会の動きに敏感な時代ではなさそうだ。むしろ、保守的な動きのほうが目立つ社

会と言ってよい。人も社会も変化に対応しない国というものは、やがて、衰退への道を歩まざるをえない。そういう意味では、変化と変化させてはならないものとの間で、いかにして身体のバランスを保とうとするかという視点では、屋根の上のヴィオリン弾きとなんらかわるところはない。

 

そういった面では、中国も日本も、変わるべきものを認識しながら、変わらざるものは、何なのか見極めないと、単に時代の潮流に流されてしまう危険性があるのではないか。それは、私たち一人一人が、自分の中で変わらないものが何なのかを見つける作業が必要だということにつながって行くだろう。

2013年1月21日 (月)

明智光秀と林彪の類似性

津本陽著の「『本能寺の変』はなぜ起こったのか」という本を興味深く読み終えた。

本の主眼は、本能寺の変の背後にある可能性をひとつずつ消去して行き、光秀の謀反の原因に黒幕がいたのかどうかということを読者に提示することにあるようだ。

したがって、信長暗殺にいたるまでの経緯、背景、その理由など、さまざまな視点から、謀反の可能性が探られていく。特に、その頃の軍事・政治情勢、秀吉との競争意識など、様々な切り口から本能寺の変に到るまでの経緯が解き明かされ、黒幕の可能性を一つ一つ消していく作業はとても興味ぶかい。ここまで、伏線をはられると、読者もつい、新しい歴史的事実を提示されるのでは、期待にわくわくしながら、著者が描く結論まで、読み進んでしまう。ところが、著者は最後の最後でみごとに読者の期待を裏切る。ドラマチックな結末を期待した人ほど、あまりにも平凡な結論に、がっかりするかもしれない。まあ、歴史的事実というものは、実は案外、ドラマチックなことより平凡な事のほうが多いのかもしれないが。

 

ここで簡単に本の結論を述べてしまうことは、これから本を読もうと思っている読者には興をそぐようで申し訳ないが、引用させてもらおう。著者の結論は比較的、シンプル。いわゆる、光秀のノイローゼ論を主張する。個人的に言えば、このノイローゼという結論から、そのノイローゼの原因や光秀の深層心理まで、二転、三転と論点を展開できたはずなのだが、そこまでは踏み込んではいない。著者が、なぜ尻切れトンボで結論を終わってしまい、後のことは読者の想像にまかせたのか、理解に苦しむ。おそらく、これは歴史書として書いたので、小説とは異なるのだという意思表示だったかもしれない。光秀の心理を知りたければ、「下天は夢か」を読めということなのだろうか。

 

僭越かもしれないが、大作家の書いた著作を下敷きにして、ここに光秀に関する自分の観点を述べてみよう。光秀の堪忍袋の緒がきれたきっかけは、徳川家康のための招宴の準備で、信長と準備について話あっていたとき、光秀が信長に言葉を返し、怒った信長が、光秀を足蹴にしたことによるとされている。著者は、この事から下記に結論の一部を述べている。

 

― 「光秀は信長と気質があわず、長年の軋轢が原因で心を病み、怒りが爆発して信長を襲ったというものである。サラリーマンが意地悪な上司に苦しめられ、悩んだあげくついに冷静な判断能力を無くして、あるいは心神耗弱となったり鬱を発したりして、上司を刺し殺すのと同じパターンだというわけである」

 

著者が述べた上記の結論には、わたしも大筋で同意見である。そうすると、信長に足蹴にされたことは、おそらくは、きっかけにしかすぎなかっただろう。光秀の内面では、それ以前から、煮えたぎった爆発寸前の火薬のような心情があり、上記の事件がその導火線に火をつけて、本能寺という事件を引き起こしてしまったようだ。

 

光秀の心情の動きを、毛沢東と林彪の関係から探ってみよう。どうもこの二人は類似性があるようなのだ。毛沢東の後継者とまで言われた林彪が、クーデターに失敗し、事故死するまでの経緯は、下記のとおりである。

 

林彪は、毛主席が新中国を設立した当時、すでに、ナンバー2の地位を占めていた。中国共産党第九回大会で規約が改正され、「毛沢東の後継者」として黙されるようになると、当然、自分は国家主席になれるものと確信していたふしがある。ところが、毛沢東は最高指導者の地位が脅かされことは望まず、「二人の主席」となることを嫌い、毛沢東は林彪の失脚を画策するようになる。そのため国家主席をめざす林彪は、毛沢東に粛清される前に、一か八かのクーデターを企てる。ところがこのクーデターがあまりに杜撰だったため、失敗。毛沢東の暗殺計画が発覚したことを知った林彪は、広州に必死で逃げる。この逃避行を林彪の長女が密告し、追跡劇が始まる。彼は、捕まったら、織田信長が朝倉、浅井等の骸骨に漆を塗り、金粉を塗ったような運命が自分に差し迫っていることを知っていたがゆえに、クーデターが失敗した時点で、脱兎のごとく逃げた。林彪と家族を乗せたジェット機は河北省から南を目指すが、断念し、モンゴル領地へと向かう。しかし、燃料不足のため、不時着を試みるが失敗し、激突し炎上し、家族や乗員全員死亡した。あるいは、撃ち落とされた可能性も否定できない。

 

毛沢東を織田信長とたとえると、信長は天下統一の前に、光秀の謀反で殺され、毛沢東は、天下統一後に林彪によってクーデターが起こされ、しかも結果として、光秀は成功し、林彪は失敗したことになる。光秀はクーデターが失敗すると、間違いなく朝倉のように髑髏杯となるか、家族や一族が皆殺しになることは当然予測していた。だから、このクーデターは絶対に失敗してはならないものだった。だから、本能寺というクーデターの機会は、なんとしても逃すことのできない絶好の機会だったことになる。

 

凶気という点では、織田信長も毛沢東も類似点がある。いざ、自分にはむかう敵に対する、その冷酷さと、非情さは、彼らが頂点に登りつめるまで、彼らが行ってきた数々の事実が物語る。

 

毛沢東は新中国を建設後、国民党の残党を反革命分子として約70万人を処刑した。その後、大躍進政策を行い約4千万人の農民が犠牲になった。さらに毛自身の復権を目指した文化大革命が起き、紅衛兵によって迫害され処刑された人の数ははっきりしないが、相当数にのぼるだろう。その後も、革命まで一緒に戦った幹部でさえも。非常に粛清していく。

 

信長の狂気性もそれに劣らない。「『本能寺の変』はなぜ起こったのか」という本から引用してみよう。まずは、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頭蓋骨が漆で固められ、金泥で彩色された逸話に始まり、やがて比叡山の焼討ちにより、僧侶、僧兵を殺りくする。伊勢長島の一向一揆では、城に籠っていた門徒二万人に火をかけ、焼き殺した。越前一向一揆では、三千五百人の首を斬ったと書かれてある。本願寺攻めでは、荒木村重の謀反により、その郎党である女性百二十二人の磔刑と、若党と下女、五百十二人の焼き殺し。伊賀攻撃へと続く。

 

毛沢東、織田信長にしても、天下を手中にしても、その猜疑心は留まることを知らない。その足下で働く部下や側近にとっては、信長の冷酷とも思える命令に常に従わなければならないことは、日常茶飯事であった。かといって、命令に従わないと、信長から叱責され、殺されるか、領地没収の可能性があった。既得権の上にあぐらをかき、信長が意とした以上の働きをしないと、佐久間信盛や林通勝のような譜代の武将であっても、簡単に切り捨てられることは自明の理だった。

 

常にその人が有用な人材であることを、アピールしなければ、有用と見なされず、やがては粛清の憂き目に会うのである。かといって、有用であることをアピールしすぎると、自分の権力基盤を脅かすととられ、一時期閑職に追いやられるか、粛清にあうことになる。その点、秀吉のほうが光秀より、楽天的で目立たないための処世術を兼ね備えていたとみるべきだろう。

 

毛沢東の下で働いていた人達も、やはりその点では同じだった。鄧小平、周恩来も必要になると重職につかせるが、目立ちすぎると、毛沢東の猜疑心の餌となった。もちろん、彼らだけではなく、共産党に忠誠を誓い、献身的な活動を続けてきた党幹部ですら粛清から逃れることは至難で、さらに「四人組」によって、迫害を受け続けた。その点、後継者とみなされた林彪はさすがに目立ち過ぎた。猜疑心の強かった毛沢東は、やがて林彪を疎んじ、遠ざけるようになると、林彪は自分が毛沢東によって今後どういった扱いを受けていくのか、100%描くことができただろう。そこには微塵の希望はありえない。やがては、源頼朝に疎んじられ、追われた義経のように追われることは間違いない。そう考えると、彼にはクーデターという手段しか思い浮かばなかったのだ。ところが、光秀とは違って、毛沢東暗殺のタイミングは絶好の機会ではなかった。だから、クーデターは失敗に終わってしまった。

 

仮に織田信長が光秀の謀反によって、本能寺で殺されなかったとしたらどうだろう。そう考えることは、光秀の心情を知る上で欠かせない想定だ。まず、信長として考えたことは、光秀を後継者とするかどうかだろう。秀吉は、少なくとも後継者の器としては、思われていなかったと思われる。トップに立つには将軍としての器量、威厳が必要だ。頭脳の明晰さ、公卿とのつきあい方などにも知悉し、行政官として手腕もあった。さらに社交性に優れた光秀は、信長の後継者として最適な人物だっただろう。

 

しかし、林彪のように「織田信長の後継者」とすることは、信長にとって正しい選択とは思えなかったろう。毛沢東が「二人の主席」を嫌がったように、信長も「二人の覇者」とすることは、彼の性格からして絶対に許せなかっただろう。とすれば、信長も光秀を後継者と目しながらも、いずれは信長一族を粛清していくかもしれぬと、疑心難儀になったかもしれない。

 

さらに言うなら、光秀が治世能力に長けていたとしても、信長および、織田一族を守って参謀役に徹しきれる人物であったかどうかについては、疑問が残る。参謀役に徹し切れると思われた秀吉でさえ、信長の子供を権力の座にすえることはしなかった。まして、光秀がそうなる可能性は少ないと見ただろう。

 

さて最高権力を握ってから、どうするかは二つの方法が考えられるだろう。適当なネーミングがないので、簡単に家康方式と秀吉方式とでもしようか。

 

いわゆる、家康方式というのは、同郷人や近親者でまわりを固めて、信用がおける人達は譜代大名として、政権の重職に置き、信用がおけない者は外様大名として江戸より遠くに配置し、公共事業を負担させ、参勤交代を行うことでその経済力を削いでいく。安定基盤を築くことができ、長期政権が期待できる。

 

秀吉方式というのは、もともと異なる集団が、天下統一という名のもとで、臨時的に野合する方式。不安定な政権なので、短期間は政権を保てるが、もともと異なる集団が野合しただけなので、政策が失敗した時点や、指導者を失った時点で、内部分裂へと動くため、長期の政権は望めない。事実、秀吉が朝鮮出兵で失敗し、秀吉の死後に、東軍と西軍に分かれて関ヶ原の戦いとなった。現代でも、民主党が与党になって、政策がうまく機能しないようになると、すぐ内部分裂が始まり、短命政権となった。どうも、安定政権を築けない政府の先に待っているものは、どんなに理想が高尚でも、一枚岩とはなりえず、ただ分裂と内部闘争にあけくれるようだ。

 

毛沢東はどうしただろうか。当然、家康方式を採用した。同郷人や親族を重職におき、その都度、外部の有能な人材を臨時的に使った。やがて四人組が力を持つようになる。それ自体は避難されるべきことではないだろう。ところが、大躍進政策の失敗によって、毛沢東への信頼が失われるようになると、紅衛兵を使って文化大革命を起こし、さらに四人組を操り再度復権をねらうこととなる。

 

こう考えてくると、どうも光秀の本能寺への選択は、かなりの必然性をもっていたと考えるべきではなかっただろうか。いわゆる、進むも地獄、守るも地獄。政権にそのまま残ったとしても、地獄だったし、クーデターを起こしても地獄だっただろう。あの状況では、あれ以外に選択がなかったととらえるべきだろう。その点では、クーデターに失敗した林彪でさえも、身に危機が差し迫っていたので、選択の余地がなかったとも考えられる。

 

ここまで考えると、光秀は確かにノイローゼという診断はくだるかもしれないが、それだけにとどまらず、傍若無人な振る舞いをする有能な指導者のもとで働かなければならない管理職の悲しみ、非哀を感じずにはいられない。

 

さて、あなたがワンマン経営している会社に入社し、順調に出世街道を登りつめ、最後の階段で、代表取締役という職を手に入れられるかもしれないとしたら、ワンマン社長のもとで、あいつは血縁関係がないからという理由で、失脚という憂き目にあうか、クーデターを起こして社長とその親族を会社から追い出すか、どちらかの選択を選ばなければならないとしたら、どっちを選ぶだろうか?

 

2012年11月29日 (木)

空海に関する一考察

空海に関する本や小説を読むにつけ、どうも彼の人格が好きになれそうもない。

何故だろう。各地域に空海伝説とおぼしきものがたくさんあり、伝説のなかには、とても信じられないような逸話も多い。それほど人々の心に伝説として残した人物が、なぜかどうにも好きになれないのだ。あれほどの伝説が現在でも残っているということは、なんらかの偉大な側面があったはずなのだが・・・・・。しかし、彼自身の生涯をたどっていくと、どうも謙虚さとは無縁の人物に思えてくる。名誉欲や嫉妬心も強く、秘密主義で、さらに人を惑わすような図々しさもあるように思えてくる。そういったことを、自分の中で咀嚼するにつれ、空海をだんだんに好きになれなくなったようだ。

 

これは私自身の個人的な見解だけかと思ったら、司馬遼太郎も1973年、「空海の風景」の連載が「中央公論」ではじまった頃に、担当者に言った言葉として、次のようなコメントが残されている。「空海と生身でつきあうのは大変ですね。僕はゴメンだな。最澄のほうがつきあいやすいし、いい感じがする。しかし最澄では小説にならないね」。

空海という人がどういう人だったかは、私たち後世の人が類推するしか方法はないし、その類推が正しいかどうかも証明のしようがないが、ここでは、少し個人的な見解を述べてみよう。

 

空海の生涯に関しては、司馬遼太郎が「空海の風景」で現存する書写をもとにして、小説を書いているので、彼の生涯全般に関しては、それほど疑問を感じない。ただ、一か所、これは違うのではないかと気になる点があった。それは、空海が福州に到着して、長安に向かう途中、福州の地方長官がなぜか、空海を一時、長安に行かせない場面がある。長官の意志で、空海が長安に向かう一行の名簿から一旦、はずされるのである。

 

遣唐使船は全部で四隻、九州を出航するのだが、空海の乗った第一船は、三十四日間も漂流し、やっと浙江省に漂着する。しかし、漂着した場所では、国使として、受け入れられず、福州に行くように、命ぜられる。福州は福建省にある。やっと福州についたが、今度は、日本国の国使であることが信用されない。確かに漂流して、乞食のようにやつれはてた姿で、しかも国書を持参しているわけでもないので、国使と叫んでも聞き届けてもらえなかっただろう。この時、空海は大使に代わって、観察使である長官に弁明書を代筆する。その漢文の詩は驚嘆をもって迎えられ、それによって、教養人であることが認められ、やっと国使として認められるようになる。

 

長官に国使として認められてからは、一行は福州から長安に行くことが許されることになった。ところが、その大使に随行して長安に向かう一行の中に空海の名が載っていないのだ。誰がその一行に入るかは、長官の判断によるものだったという。なぜ、空海の名を一行に加えなかったのだろう。考えられる理由として、次の理由を考えてみた。

1)文章がうまかったので、長官としては側に置いておき、文筆家として利用したかった。

2)私費留学生なので、僧とは認めがたいので、長安に行かせなかった。

3)一種の嫌がらせだった。空海は文章能力に優れている。ということは、長安に行かせれば、日本からの国使であったにもかかわらず、舟を封印し、舟に戻らせず湿った砂の上で休ませるなど過酷な所業を長官として命じたことが、露見してしまうかもしれない。こういった長官の不手際を文書で報告されることを恐れたのではないか。だから、空海の文章のうまさを警戒して、一行に加えなかった。

 

それに対して、空海は再度書面で一行に加えてくれるように申請しなければならなかった。

「私は仏教の体系を学びに来たのである。長安に行かなければ、国家からその大任を果たせない。長官は徳のある人と聞いている云々」という内容が続き、やっと長安行きが認められる。その文面には現れていないが、「長官であるあなたの失態を報告するために長安に行くのではなく、あくまで仏教の研鑽に行くのだ」という意思が感じられる。

 

しかし、司馬遼太郎は「空海の風景」の中で、その理由を1番目の長官が文章家として、そばに置いておきたかったので、と空海が弟子に書き残したとおりにとらえている。はたして、そうだろうか、どうしても疑問が残った。

 

ひとつには、空海は漢文力に優れ詩や漢文に優れていたとしても、少なくとも空海の中国語の話す能力は、長官の秘書や文筆家となれるほど、十分であったとは思えない。たとえば、自分が社長で、秘書が欲しい場合に、文章力がうまいからといって、言葉の不自由な秘書を雇うだろうか?意思の疎通に問題があると思えば、雇う事を躊躇するのが当然だろう。空海はサンスクリット語には、少なくとも優れていたようが、中国語を自由に話すほど語学力が優れていたとは思えない。そう考えると、むしろ、3番目の、長安での告げ口を恐れた小役人根性の方が本当の事実の可能性が高い。

 

また、行政官だったら、小さな国の国使の望むままには、100%許したくない気持ちがみえてくる。日本の国使を留め置いたというのは事実としても、空海の達筆な文章で中央政府に自分の行政上の不手際をそのまま報告されないように、自分の権威を見せつけて畏怖させるのも人の心を操る常套手段だ。だから、一種の嫌がらせをするとともに、中央政府に問われた場合、上陸を許さなかった理由はこうだと説明するために、空海に再度、依頼の文章を書かせたとも考えられる。彼は、空海が再度長安に行きたいという文面の書状を送りつけてくることを見越していた。その手紙を受け取ることで、行政面で、自分の不手際ではないと言いわけするための証拠として残したとも考えられないだろうか。

 

そう考える理由は、中国に長く住んでいるからだろう。中国という国は寛容と非寛容が同時に存在するように思える。いわゆる、寛容な部分は細かいことにこだわらない大陸的なおおらかさであるし、非寛容な部分は外国人なのに中国に住ませてやっているのにという傲慢さにも通じる部分かもしれない。アメリカという国は、比較的法律や行政でやってよいことと、やってはいけないことの区別があるのだが、中国に法律はあっても、法律を運用する行政官にその判断や権限が、ある程度ゆだねられ、さらに地方によって行政のあり方が異なることも多々あるように思える。法律の運用の境界がはっきりしないことが多いのだ。灰色とも思える部分の判断は、行政官の思惑によると思われることがある。それは、古代でもやはりそうであっただろう。

 

なぜ、そういうことを考えるかと言うと、日本からの遣唐使の派遣は中止三回も含めた、18回もあるが、度々、嫌がらせにあっている。皇帝に日本僧の旅行許可を要請しても許可が降りない、後で許可されたものの、州府に菩薩や四天王像を模写したいと依頼しても、許可がもらえなかった。さらに帰国のために水夫が市場で買い物をしていたら、役人に逮捕されたなど、ささいなことで嫌がらせを受けている。この頃、唐の文化は全盛を極め、現代で言えば、アメリカが留学生を各国から受け入れるように、自国の文化を学ぼうとする外国留学生に対して寛容であった中国が、行政面では寛容な部分と非寛容な部分が一部見え隠れする。その寛容、非寛容の背景にあるのは、唐の国が世界の中心であるといった過信だったかもしれない。現代でいうなら、中華思想ともいうべき、世の中がすべて中華を中心にまわっているような錯覚であったと言ってよい。そこからくる、官の傲慢がなせる非寛容であったかもしれない。

 

その他の理由として、賄賂や贈り物などの習慣の違いも一因と考えられないこともないが、そうばかりとも言えない。なぜなら、当時留学費用は、唐側の負担がほとんどだった。さらに帰国する遣唐使の一行に、多量の絹を帰国費用にあてさせるために支給さえしている。こう考えると、寛大さと行政面での嫌がらせと両方を遣唐使一行は経験していることになる。空海がおなじように、その両方を経験したとしても不思議ではない。

 

さらに言えば、長官は空海と会って、なんとなく不穏なものを感じたのではなかろうか。ただ者ではない、一種の表現しようもない圧迫感を感じたのかもしれない。それは空海自身の人間としての大きさだったかもしれないし、逆に空海の持っていた独特の押しの強さだったかもしれない。そういった何かあらがえないものを感じて、一旦は国使の長安行きを認めたが、空階までも同行させるのは、どうしても100%許せない感情もあったのかもしれない。

 

おそらく、空海はこの行政官のいじめの本質がわかっていたのだろう。だから、嘆願書を書いて、長安に行くのはあくまで仏教の研鑽にいくので、あなたの過失を伝えるためではないことを婉曲に伝えたので、やっと許可されたと見ても不思議はない。しかしながら、弟子には、長官が文筆家として使いたかったからではないかと話をしている。そうだとしたら、見栄をはったのだろうか。どうも、こんなところに空海を好きになれない理由があるのかもしれない。

 

もちろん、司馬遼太郎がとらえた、長官の秘書としての扱いを全面否定するつもりはない。

なぜなら、下記のような唐代の有名な詩人の逸話が残っているからだ。

 

唐代に賈島という詩人がいた。彼は月夜の景色を描写した詩をなんとか作りたいと思案していた。そして、ついに「鳥宿池辺樹,僧敲月下門」という詩ができあがった。水辺に大きい木が一本立っており、その木の上で小鳥が静かに眠る。月光は樹木と門を照らし、一人の和尚が寺の門前に歩き着き、寺院の表門を軽くたたくという情景が眼に浮かぶような詩だ。しかし、彼は、この詩では、門はたたくべきではなく、門は押すと直すべきではないだろうかと迷った。ロバに乗ったまま、どうしようかと思案しながら進んで行くと、通りかかった高位の官僚である韓愈の輿にぶつかってしまった。韓愈の部下は、なんて無礼な奴だと彼をロバの上から引きずりおろし、韓愈の前につれていく。賈島は、「詩に出てくる一字を考えていたため、あなたの輿とぶつかってしまいました」と、正直に答えた。詩人でもあった韓愈は、その話に非常に興味をもち、「どんな詩ですか?読んで聞かせてください」と賈島に請いた。賈島は自分の詩を読み、韓愈に聞かせる。彼はさらに韓愈に、「僧が月下で門扉を“敲く”のが良いのか、僧が月下で門扉を“押す”というべきか意見を尋ねた。韓愈自身、その答えはすぐには出てこない。韓愈が思案のうえ、答えて言うには、「”敲く”は”押す”より良い。ただ、誰も人がいなく、月夜に音さえしない状態で、扉を何度か敲く音がするのは、聴いている人を不安にさせるかもしれない。」とどちらともいえないという答えだった。この事件以降、賈島と韓愈もとても良い友達になったという。

 

中国語で「叩く」は「敲く」で、「押す」は「推」という漢字を使うため、この逸話より、日本語でも使われる推敲という言葉の語源になったと言われている。司馬遼太郎がこの逸話を知っていたかどうかはよくわからない。福州の長官が小国からの僧である空海の優れた文章、文才に惚れたとすれば、彼の才能に惚れた可能性も捨てがたい。しかし、この長官が有名な文筆家として名を残していないし、それだけの理由で、空海の長安行きを一旦阻止しようとするであろうか。しかも、この事件以後、空海とこの長官が親交を結んだという事実もないことを考えると、その線の可能性は少ないのではないか。

 

それにしても、空海は確かに頭脳が大変明晰な人であったろう。それは、文章の上手さ、書のうまさなどから知ることができる。常に生死や無常観を考え、天才的な詩人(漢詩は優れていた)でもあり、仏法用語の本質を即座に理解できる明晰さを持ち合わせていた。さらに、他人の心を読むことには優れているようだから社会的には、有名になって当然だったろう。そういった才能はどうやって入手したのだろう。おそらく、山歩きや修行のなかで身につけた一種の超能力と思われる。そういった才能は六神通のなかの一つ、他心通(たしんつう)という他人の心を知る能力があるが、それに長けていたようである。彼のこの能力は、密教を継承するときでさえ、遺憾なく発揮されたと考えて間違いない。

 

もちろん、彼の才能は他心通だけではない。求聞持聡明法という記憶を司り、目的意識と結びつけ、記憶を活用する力にも優れていたようだ。これらから、当然、物事の本質を見抜く力と自己顕示欲が発揮できたと思われる。

 

ところが、最澄が学究肌の学者であり、仏法を体系化し、論理的に分析しようとしたのに比べて、空海は理論や空論には、ほとんどこだわっていないように思える。むしろ、実践派の宗教者のイメージが強い。なぜそう考えるかというと、普通自説を展開するときは、文証となる仏典を参照して、この文書にこう記載してあるから、私はこう考える的な理論構成をするべきだが、それが見当たらないし、残された詩を除けば、自分の意見をひたすらストレートに伝えている。

 

最澄と空海という二大巨人を比較した場合、最澄は国費留学生で、やがて、現在でいうなら、大学の教授、さらに学長という比較的、レールの上に乗った人生を歩む。それに反して、空海は、私費留学生(おそらくは、司馬遼太郎が言うように、金持ちのスポンサーがバックアップした)で、野心も強く、コンプレックスみたいなものが見え隠れする。やがて、留学を終えて、密教を鎮護宗教として、朝廷に取り入れさせ、階段をのぼりつめるように社会的に大成功することになる。さらに長安で見た土木技術を、実際に日本で応用させている。しかし、純粋に法を求める最澄に対して、そのコンプレックスの裏返しのような態度を見せている。たとえば、密教の中枢経典である「理趣釈経」を借りようとする最澄に対して、冷たくつき放す場面は特に有名だ。

 

「あなたは『理趣釈経』をかりたいといっているが、理趣とはなんのことかご存知か。理趣に三つあり、耳で聞く理趣、これはあなたの言葉、目で聞く理趣、これはあなたの体、心で思う理趣、これはあなたの心、あなた自身のなかに理趣があるのにどうしてよそに求めるのか。あなたは真理を紙の上にのみ見る人のようです。紙の上より真理はあなた自身のなかにあるのです。あなたは行を修めたのか、行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすることは本末転倒もはなはだしい。」

 

この文章を読む限り、なんという乱暴な手紙だろうという感じがする。確かに、空海の言わんとしていることもわからんではない。真理というものを様々な文献をひもとき、追及しようとした最澄にくらべて、空海の言っていることはひたすらそういった帰納的なアプローチを否定している。密教の本質は演繹法でしかわからないと一言で、否定しているのである。

 

それにしても、このような内容の手紙は、普通は書かないだろう。まるで、「理趣釈経」を研究対象にされては困ると言っているようだ。しかし、もし密教が仏教の一分なら、他の文献を引用しながら、どうとらえていくべきか詳細に説明するべきなのだ。しかし、この手紙はむしろ感情論となっているように思える。なぜなら、仏教の本質は一切の衆生が釈尊と同じように成仏することが目的であったはずである。おそらく、最澄は、その大義を極めるために、密教も含めた仏教総体を分類、定義づけしようとしたはずである。それを邪険にもはねつけたと思われてもしかたがない。

 

ひょっとしたら、空海は既に知っていたのかもしれない。密教を中国に伝えた善無畏三蔵が、天台の経から一念三千の理を盗み、大日経の肝心としたことを。これによって、法華経と大日経を同列に扱ったという理同事勝が誤っていたことを。理のみを追求していくと当然のことながら、天台の教えが体系的にも論理的にも優れていることは、自明の理だ。それでは、自分が中国から持ち帰った密教の正当性がたもてない。そこで、理よりも印と真言を唱えることで、神秘性を保たせることに主眼を置いて、言葉を悪く言えば、へ理屈で最澄を煙に巻いたと見るべきだろう

 

最澄としては、同じ仏法の道を求め、仏教の奥義をきわめるため、本を借りようとしたのに、裏切られた思いであっただろう。現代で言うなら、向学心に燃えた学生のまま、大人に成長した最澄と、社会人として、ずる賢さや、社会での駆け引きを十分に知り尽くした老獪な空海との手紙を通した対話であったのかもしれない。

 

結局、演繹的なとらえかたしかしなかった空海の法は、大乗経の眼目である、凡人が成仏にいたるべき道程を示さないまま、真言を唱え、護摩木を焚く儀式のみの宗教としてのみ、現代まで伝わったことになる。

2012年9月27日 (木)

墓石無用論

年を経るとともに、ある言葉の意味がふっと理解できるようになる時があるようだ。

松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文も、よく教科書に載っていて暗記させられたものだが、意味を本当に理解するまでは、この歳になるまでわからなかった。

 

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」はもともと李白の詩である「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なり」を意識して造られたという。当然のことながら、芭蕉は約2400キロも旅をしたわけだから、生来の旅人であることは間違いない。しかし、この「月日は百代の過客にして~」にはどんな深い意味があるのだろうか。現代語訳すれば、「月日は永遠の旅人」という風に訳するのだろうが、それでは、わかりにくい。

 

そこで、自分の年なりに、もっとくだいて、意訳して自分なりに展開してみた。

「月日はあまりにも早く過ぎてゆき、生きていることそれ自体が旅にも思える。人生の途上で出会った人達も、出会いがあり、やがて別れていく。一緒に暮らした女性も、いつか別れがやってきた。友人だと思っていた人からも訃報が届くようになった。一緒に仕事をした仲間も、やがて遠縁になり、まるで通りすがりの人達のように過ぎ去って行く。一番長い期間一緒に過ごした家族でさえ、やがて子どもたちと別れて暮らさなければならない。

年を取るとともに、知人の数も少なくなり、一日、人と話す機会も減って行く。どんな幸福そうに見える家族であっても、時の流れには逆らえないものだ。残るのは楽しかった過去の思い出だけのようだ。身の回りの片づけをして、死への旅立ちの準備を始める。次の旅には、いったいどんな人生が待ち受けているのだろう。」

 

このような展開のしかたでは、あまりに意訳しすぎて、情緒がなくなってしまうだろうか。しかし、芭蕉が伝えようとした旅の無常感、仏教的な愛別離苦は表しているのではないだろうか。芭蕉の旅のお供には弟子がいたので、本当の意味ではそれほど孤独ではなかったかもしれない。それにしても、旅から旅を続けている間に、芭蕉と出会った人々はどんな交流があったのだろうか。会えば、別れが始まると考えると、人と人をつなぎとめるものは何なのだろう。キリストは愛と説き、仏教では慈愛、慈悲、縁という言葉で表している。私たちが、生きている上で、人と人を結びつけている確かな絆があると思うのは、単なる幻想なのかもしれない。

 

友達だと信じていたのに、金銭トラブルで友が離れていく。この人こそはと思って結婚したのに、やがて一緒に暮らしていても他人となりうる。愛情だけでは、いつか二人の間にすきま風が吹いて長期間お互いをつなぎとめることなど、できそうもない。セックスだけでは、男と女をむすぶ絆にしては細すぎる。会社や組織のためと、誠心誠意働いても、やがて仕事の事情や定年で、職場を離れてゆかざるを得ない。酒や遊びで知り合った仲間は、体力や気力の衰えとともに、仲間意識が薄れていく。

 

こういった世の無常を考えると、最後に残るのは親族と家族だという中国人的な老荘思想に帰結するのだろうか。中国の歴史をひも解くと、中国人同士がお互いに、最初は信義や徳がある人だと信じても、権力を持つと変わり、裏切られ、謀られるようなことが数多くでてくる。結局、人を信じるなら、家族や親族だけが中国人にとって、最後の砦となりうるし、裏切る確率は小さいとみなすようだ。

 

そろそろ、自分の人生の行く末を考える年頃になってきた。芭蕉が庵を引き払い、新しい旅立ちに備えようとしたように、そろそろ自分の行く末を見極めなければならないかもしれない。

 

妻が、死んだ後の墓はどうするのかという。

妻の実家は、多磨霊園に墓地を建てたので、義理の父母は、死後、そこに入りたいという。

妻の質問に「私は・・・・」と言葉を濁した。妻と同じ墓に入りたいかと聞かれると、どうでもよいように思う。東北の生地に祖先の墓があるようだが、そこに入りたいかというと、さほど執着はない。はっきり言って、死後の身体が医学に貢献できるなら、それでも、かまわないし、あとは無縁仏で処理されてもかまわないと答えたら、妻が嫌がるだろうか。どちらにしても、葬式や墓地について生前から希望を述べることはできるが、死後、その希望が残された家族によって、本当にかなえられるかどうかはわからないものだ。

 

日本人の多くが墓に執着する傾向性があるように思う。おそらく家組織の延長線上にあるためだろう。結婚が「~家」を継ぐものだとするなら、死ぬ時も「~家」の墓に縛られることになる。何十年も前に終わった戦争なのに、いまだ遺骨収集の旅があるという。まるで、遺骨に魂が宿っているかのようだ。いったい、どこにそんな教えがあるのだろうか?文化の異なる国の人からみると、骨にこだわりを持つのは、異質な文化におもえるらしい。

 

そもそも日本人は、海洋民族であり、農耕民族なのだから、墓よりは海や山に散骨するのが普通なのだが、現代では山への散骨は住民の反対運動もあり、昨今ではままならないと言う。そもそも古墳時代から前方後円墳などと称する墓が現れてわけだから、日本の墓地の起源は紀元前にさかのぼる。古いところでは、神武天皇のころから、墓の歴史が始まるのだろうか。天皇が墓を作るなら、当然、権力者の人達も墓をつくったことだろう。いまだに、神社として保存されているところは、歴史に名を残した人の墓が残っていることが多い。

 

そういった例外を除いて、古い時代を生きた人々の墓のほとんどは、現在では残っていない。庶民は死んだら、共同埋葬所や墓所に埋葬されてきた。埋葬された上に墓石が置かれるのは江戸時代からだという。そもそも、どんな立派な墓を作っても、代を重ねるにつれて、やがて無縁仏となり、やがて忘れ去られる運命なのである。その子孫も一からニ世代前くらいまでは、記憶に残るが、それより古くなるとやがて記憶も薄れ、忘れ去られていく。それでも、せっせと墓をたて、「~家」を守っていくのが慣習となっている。

 

アラビア語とその文化を学び始めたとき、驚いたのはアラビア文化には墓という明確な意識はないと聞いたことがある。亡くなったら、もちろん遺体を焼いたりなどはしない。そのまま砂漠にある共同埋葬所に埋める。せいぜい埋めた場所を示す、木切れ程度しか残さないという。イスラムの教えでは、墓石というのは、祈る対象となりかねない即物的なものなので、拝んではいけないし、当然、墓石は建ててはいけない。

 

司馬遼太郎は、墓についてどう言っているのか調べてみた。彼は墓を亡くなった方の一種の記念碑ととらえているようだ。

「私は墓に関心はないが、ごく平たく考えて、死者の事歴を語るひとがそこにいる場合、墓石は死者の人生の凝縮されたものと言えなくはない。もし、そう言えるとすれば、墓を文学として感ずる場合もありうるのかと思える。」

 

次の引用は多少墓を否定的にとらえていると見るべきだろう。三重大学医学部創立50周年記念講演では次のように言っている。

「(前略)やむなく患った片腕を切断したとします。そのおかげで命が助かって、麻酔から覚めた私がですよ、腕を返してくださいと言うでしょうか。その腕は不要になったのですから、私のものではありません。(中略)西洋の場合、道端に亡くなっている人がいたとして、その人の霊魂は天国に行った、あるいは地獄に行った。死体は単なる物質にすぎません。(中略)霊魂があって天国に行く。残された死体はイットです。欧米において臓器移植が進んだのは、この死生観が大きく影響しています。(中略)釈迦には墓はない。空にかえられたわけですから、墓は必要ない。(中略)その十大弟子にも一人として、お墓はありません。ところが、中国人にも、朝鮮人にも、日本人にもお墓はあります。」

 

それでは、死んだ人の魂はどこに行くのか、死んだ魂の安らぐ場所が必要ではないだろうかと思うのは生者の死者に対する傲慢な見方だろう。この点に関しても、司馬遼太郎は同じ講演で否定的な見解を示している。

「仏教にも霊魂はあるじゃないかと、みなさんは思うかもしれません。ないんです。仏教は霊魂を否定する、認めない宗教です。」

 

これには、私も同意見だ。霊魂などは、生者の幻想でしかありえない。そもそも生命というものは、生命を発揮できる細胞体の中でしか、その生命を輝かせることはできない。動物は動物の身体と脳で、昆虫は昆虫の身体と脳の機能で生命を輝かせることができるが、霊魂が存在するとしたら、即物的な身体がないのにどうして存在するのかという疑問がわいてくる。こういうと、そんなことはない、大日如来のように地上に降りて肉体化しなくても、法体として存在しえるのではないかと疑問を呈する人も出てくるかもしれない。

 

その可能性は理論的には否定しないが、法体は万物の根源と訳されることはあっても、個々の霊魂と一緒にするのは暴論だし、仮に法体が存在するとしても、肉体なしでどうやって世の中に影響を与えうるのかという疑問がわいてくる。なぜなら、釈迦でさえ、地上に応身の仏として出現したからこそ、仏教が広まったのである。しかし、肉体化していない法体だけの釈迦が、現世に仏教を広めたという話は聞かない。

 

こう考えると、どうしても死んだ後の肉体は即物的な物と見ざるを得ない。ここまで考えると、死後に誰々家の墓に入ることが重要だと考えるのは、やはり幻想にすぎないように思う。

 

昨今では樹林墓地に多数の応募があるという。そうあるべきだろう。死後も墓の維持管理のために、何年も寺や地所に子孫が払わなければならないほうが大きな負担だ。長年にわたって伝統として持ち続けてきた日本での「家」制度が墓地の分野でも崩壊しつつあるのだろうか。しかし、こちらのほうが、死を自然に帰すという点では、納得ができるあり方かもしれない。

 

こうして死後の事を考えること自体が、既に老人の考え方なのだろうか。人は死というゴールに向かっていて、死という運命だけは、絶対に取り消すことはできない。それなら、死んだらどうするかと考えるよりは、最後の死の瞬間まで、夢と希望をもって、ひたすら生き抜くことこそが最も必要なことかもしれない。サムエル・ウルマンの詩にあるように、臆病な若者であるよりは、青春まっただなかの、夢を持ち続ける老人でありたいものだ。

 

最後に、そのサムエル・ウルマンの詩の一部を引用しよう。

「青春とは 真の 青春とは、若き 肉体のなかに あるのではなく 若き 精神のなかにこそ ある <中略> 問題にすべきは つよい意思 ゆたかな想像力 もえあがる情熱 そういうものがあるか ないか <中略> 勇気と冒険心のなかにこそ 青春は ある 臆病な二十歳がいる 既にして 老人 勇気ある六十歳がいる 青春のまっただなか 歳を重ねただけで 人は老いない  夢を失ったとき はじめて老いる」

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