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2011年7月 5日 (火)

満州国とは日本にとってなんだったのだろう?

 

私は良く引っ越しをした。千葉から東京へ、東京から千葉、横浜、横須賀へと移り住んだ。たまに近所に住んでいる高齢の人たちと知り合いになる機会もあった。私が満州のことを調べているというと、近所に住む高齢の方は、皆一様に戦中の話しをしてくれた。

 

 

 

千葉でつり竿を作っている方は、ゼロ戦乗りだったという。実際の戦闘には、ほとんど加わらなかったが、翼の先に陸地を確認しながら、ガダルカナルを操縦した経験などを話してくれた。妻の親戚にあたる方は、満州で兵士としてトラックの運転手をしていたと話しをしていた。妻の父は、子供の頃、開拓農民として吉林省にいたが、終戦とともに引き揚げてきて、建築士として設計事務所を持っていたが、最近引退した。

 

 

 

話してくれる内容は、子供の頃や、若い時の懐かしい話が多かったが、一旦、満州から引き揚げの話になると、急に口が重くなるのは共通していた。心の中の暗部のようなものが、思い出となってよみがえってくるようだった。ぽつぽつと話すのは、引き揚げの途中で、敵にみつからないように逃げるのだが、赤ちゃんが泣きだして、苦境にたたされた母親が泣きながら赤ちゃんの口をふさいだ話、途中で力つき、倒れて死んでいった人達のことなど、忘れたくとも忘れられない思い出も多かったのだろう。当時のことをじっくり、もっと詳しく聞きたかったと今では後悔しているが、話してくれた近所の方達も老齢期となり、我が家に訃報が届くようになった。

 

 

 

満州国とは、日本人にとって、どんな国だったのだろう。

 

仮に日本が満州という国を支配下に置くことができなかったら、日米開戦はなかったかもしれない。狭い列島で、資源も少ない国に住む日本人が、資源・エネルギーの輸出国であるアメリカと戦争して勝てる可能性はゼロだったろう。そのことは、大本営も知悉していたはずだ。

 

 

 

ところが、満州の資源を手にしたことで、日本は東南アジアへ戦線を拡大することができるようになった。東南アジアの国々からエネルギーを入手できるようになれば、日米開戦をしかけたとしても、長期戦に持ちこたえることができるかもしれないと考えた。そこで、1941年の真珠湾攻撃を敢行することができたのだろう。

 

 

 

満州の人口は、1910年から40年にかけて千八百万から三千八百万へと増加、1931年には、二十四万の日本人が満州にいたと言われる。その数字が1939年には八十三万七千人にはね上がっており、"満州国“の新しい首都である長春の人口は四分の一を日本人が占めていた。さらに、日本政府は、1936年から二十年間で五百万人を満州に定住させることを目指す満州移住計画を公式発表していた。

 

 

 

満州は、1931年以後、エネルギー供給基地となった。ボーキサイトは供給不足であり、アルミナが開発された。1932年以後、日本は満州に莫大な投資を行った。鉄、鉄鋼、化学肥料、火薬、化学、機械、電気、ボイラー、自動車、飛行機製作までも手を広げた。しかし、肝心な兵器の燃料となるオイルが手に入らない。そこで、ヨーロッパでドイツ侵攻が始まると、留守となった植民地である東南アジアへと戦線を拡大していくことになり、それが、アメリカを怒らせた原因ともなった。

 

 

 

満州という歴史を調べていくと一度は聞いた事のある有名な人達が現れる。清朝王族第十四王女として生まれ、日本で養女として松本で育った川島芳子(男装の麗人のモデル)、中国名で李香蘭の名前を持った歌手であり女優の山口淑子、無政府主義者の大杉栄家族を殺したと言われ、満州の権力者でもあり、満映の父でもある甘粕大尉(大杉栄事件には、甘粕は責任者であるが実行者とするにはいまだ、疑問が残る。)、壇一雄の「暁と拳銃」のモデルとなった山東自治聯軍のリーダー伊達順之助、大陸浪人であり、戦後は政財界の黒幕となる笹川良一、思想家であった大川周明、東条英機をささえた官僚の一人で、後の首相となる岸伸介、麻薬王と呼ばれた里見甫、関東軍参謀であり張作霖爆破事件に関わったと言われる河本大佐、「五族協和」のもと満州国という独立国家をつくりあげようとした石原莞爾、そして、その石原を憎んでいた東条英機も関東軍参謀長で満州にいたことがある。こういった戦後史を飾った人たちも、そうでなかった人も、満州を新天地と思い、そこで活躍した人達だった。それほどの魅力のある大陸だったのだろう。

 

 

 

以前、港湾関係を担当していたとき、港の管理者から、埋立地は新天地であるとの話しを聞いたことがある。普通の港だと、改革しようにも既存の権利が入り組んでいて、何か新事業を起こすことは難しい。複雑に入り組んだ関係者を納得させ、さらに既存の施設を壊し、新しい施設に移行するまでの補償まで考えると膨大な調整のための時間と予算が必要となる。ところが、埋立地は一度作ってしまうと、既存の権利など関係なく、最初から白紙の状態で、まったく新しい形で港湾機能を展開することも可能になる。

 

 

 

ところが、新天地と思って人工島の造成に入っても、実際にプロジェクトを進めるには様々な障害がでてくる。新しい埋立地の場所が、県の境界にあれば、どの県に所属するかで権利争いになることがある。また、工事にあたっては漁業で生計を立てている漁業組合との調整も必要だ。さらに、下水道、電力、ゴミなどのインフラを敷設する必要があるし、最大の難点である埋めたちの地盤沈下や高波、環境対策が必要となる。そのため、多大な投資が必要となり、バブルの頃の土地の値上がりを見込めるならまだしも、経済が低迷する状態では、投資しても、投資した分の回収は長期間かかる。そのために、国の応分の直接投資を頼る以外にはないとのことだった。

 

 

 

なぜ、港湾の話をしたかというと、これと同じことが移住問題を扱うときに、かならずといっていいほど類似した問題がでてくるからだ。しかし、その前に、まず満州の歴史を簡単にふりかえらなければなるまい。

 

 

 

話は日露戦争まで、さかのぼる。日露戦争の勝利によって、日本はロシアの南下政策をくいとめた。しかしながら、ロシアからの脅威はなくなったわけではない、したがって日露戦争終了後も関東軍一万人程度が駐留していた。この当時、日本国民の感情は、「中国人が安全で暮らせているのは、日本の兵士が数多くの命を失ってロシアを駆逐したからではないか。それなのに感謝すらしていないではないか」といった鬱積した感情があったことは間違いがない。清国を守ってやったという世論がある半面、当然その見返りをもとめる気持ちもあった。その対象が満州の地だった。清の時代は移住禁止の地であり、義和団の乱以降は、ロシアに侵略され、中国も領土を主張していなかった。新天地であり、空白の地であり、領土とか所有権のはっきりしないグレーゾーンだと思えたのである。

 

 

 

日露戦争後に権利を取得した満州鉄道とともに、近辺地域の開発の必要性にせまられていた。いわゆる、アメリカでいう西部開拓史の世界に思えたのである。清教徒たちがメイフラワー号に乗り、アメリカ大陸で暮らし始めたように、日本人にとっても日本国にとっても、移住すれば自由に開拓できる新天地に思えた。ところが、日本人が移住する以前に、すでに漢民族、朝鮮民族、蒙古人、ロシア人までが移住し住んでいた。さらに、地元の人々である満州族がいた。

 

 

 

1940年当時の満州における総人口は3,500万人。人口比率は漢民族が89%、満州族が5%、蒙古族が2%、日本人1.7%、朝鮮人2.9%、ロシア人0.2%ほど。日本人が満蒙開拓団として移住を始めたのが1910年に7万人、1930年に22万人と続き、全部合わせても60万人に満たない。その頃はまったくの少数民族でしかなかった。結局、終戦まで155万人の日本人が住んでいたことになるが、それでも朝鮮人よりも少なかった。

 

 

 

さて、清教徒が移住する前のアメリカ大陸はどうだったのだろう。アメリカにはアメリカインディアンという先住民族、1000万から2000万の人が住んでいた。一部の定住インディアンを除くと、ほとんどの部族が場所から場所へ移動するインディアンであった。彼らにとっては、白人は飛来してくるイナゴのように思っただろう。なにしろ、1840年から1920年の間に3700万という移民が他の大陸からアメリカに渡って来たのである。知らぬ間に白人の掟が土地を支配し、登録され、彼らが今まで利用してきた土地はとりあげられ、縄張りを主張すると、新しく住み始めた住民がライフルを持ってきて発砲し、殺りくし始めた。結局、20年にもわたる、インディアン戦争を経て、ほとんどの部族は壊滅さられ、残ったインディアンも同化されてしまった。

 

 

 

満州大陸はどうだったのだろう。満州東部は朝鮮民族による稲作や漢民族による耕作がさかんで、20世紀初めは約一千万人の人が住んでいた。悩みの種は、馬賊や匪賊が30万~3百万人がうろつきまわり、略奪、放火、強姦、誘拐を行っていたことである。それに輪をかけて、各軍閥への税金を支払わなければならない。

 

 

 

そこに日本の農民が移住してきた。植民地主義をとっていた満州国にとって、当然ながら日本人であることで保護と特典を付与しなければならなかった。さもなければ、政府が目標とした20年間で500万人の移住計画など達成できるわけがない。アメリカが白人の掟を駆使してインディアンを追い出したように、地元農民の開墾地を安価で買いたたき、関東軍の力を借りて強制的に追い出し、日本からの開拓移民を入植させた。当然のことながら、追い出された農民は、匪賊となり、抗日運動に加わり、日本に対する反発が日増しに強まっていく。

 

 

 

この馬賊や匪賊というのは、もともとは、村の自警団であった。その自警団が他の村を襲うようになり、縄張り争いを繰り返す無頼の集団となったのである。くわしくは、浅田次郎の書いた「中原の虹」に馬賊の歴史の一部が書かれている。一部の日本人移民団は、この馬賊や匪賊の格好の標的となった。そのため、開拓団は自分らで武装し、身を守る必要があった。アメリカの開拓団がインディアンの襲撃から自力で町を守ったようなケースと類似している。黒沢昭の映画に「7人の侍」という作品があった、後にハリウッドで「荒野の七人」にリメイクされるが、まさにあの村のような状況に近かったかもしれない。そこで、治安を守るために、関東軍が匪賊討伐に赴き、近代兵器をもって、伊達順之助のような部隊が鎮圧にあたり討伐していったのである。アメリカでいう騎兵隊の登場である。

 

 

 

ここまで、述べてくるといかにアメリカの西部開拓史と満州史は似ていることがおわかりであろう。とにかく、小競り合いや、民族同士の争い、さらに軍閥同士の戦さなどたくさんあったが、それでもこの時点では、石原莞爾の唱えた五族協和の理想が終えてはいなかった。

 

 

 

しかし、満州国設立とともに、民族協和の精神は失われてゆき、ひたすら日本の権益だけを守ろうとすることになる。関東軍はやがて満州国に内政干渉し、手かせ、足かせをして自由を奪い、独立国としての生彩を失い、日本の傀儡となっていく。産業、治水、道路などのインフラに膨大な資産をつぎ込んだ日本としては、なんとしてもその見返りが必要だった。

 

 

 

歴史を振り返ってみると、満州に関しては二者択一しかなかったろう。アメリカがイギリスの支配から脱却しようと独立したように、満州を独立色の濃いものにするか、日本の属国で、植民地のまま推移するか。石原莞爾は一貫して五族協和の独立性の強い国にしようとしたが、関東軍は結局、植民地化をすすめることで決定。リットン調査団の報告書が提出され、国際連盟から脱退せざるを得なかった。逆に、独立させていたらどうだったろう。国際連盟から脱退する必要がなかったかもしれない。そうすると戦争の被害も最小限でくいとめられたかもしれない。反面、独立すると、漢民族が90%占めていたため、少数民族で支配することは困難で、やがては多数民族の漢民族に取り込まれて、その権益や優位性を失い、歴史に現れては消えた他の国の日本村のように吸収され、騒動に巻き込まれ、消えていったかもしれない。ちょうど、タイや韓国にあった日本村が時代の推移と共に消えていったように。

 

 

 

新天地という見方は、侵略者側の一方的な見方だ。港の場合、市にしてみれば、埋立地は利権のからみの少なく、新しくどんなプロジェクトもすすめられる新天地に思える。ところが、そこに住んでいる漁業者にとっては、埋立地ができると、漁獲高に減るかもしれない。波の方向が変わり、海底の地形も変わり、魚の産卵地まで変化してしまうかもしれないという不安がある。物事は見る者の見方によって異なる。

 

 

 

中国側から見た満州は、もともと中国の領土であるという意識が強い。国境という考え方からすれば、満州は中国の本土ではない。しかし、歴史的には冊封(皇帝と君臣関係を結んだ)された土地であり、清帝国の故郷でもあった。しかし、ここを中国の領土として主張したのでは、対ソ連外交上、バッファーゾーンがなくなってしまう。戦略上の中立地帯にしておけば、中国自体が戦わなくても、他民族が戦ってソ連の攻撃を弱めてくれるのに都合がよい。ようするにしたたかに漁夫の利をもとめた。そういった点では、満州を売り歩いた孫文は、長期視点に立っていたとも言える。その思惑通り、終戦後に日本が満州に投資したインフラや産業を新生中国は無償で手に入れることができた。

 

 

 

満州国崩壊にいたるまで、日本は百億から百十七億円の対満投資を行ってきた。前回話した港湾建設の話しにもどるが、いわゆる多大な投資を行い、大きなコンテナターミナルを築き、毎年償還していくはずだった。それなのに、突然、大きな津波がやってきて人工島ごと破壊しつくしたようなものである。敗戦後の満州はまさに津波にでも襲われたような状況にあった。津波は自然災害であるが、満州の場合は人災だった点で異なる。

 

 

 

結局、日本は満州の権益を離そうとしないまま、権益にしがみつき心中し、設立後十三年の短き寿命で、新しく建国した国は地図上から消え去ってしまった。アメリカという新大陸は、独立戦争、から南北戦争という内戦を乗り越え、新国家建設をやりとげた。満州が生き残るためにはどうあるべきだったのだろう。仮に満州が独立国家となって五族協和、王道楽土を築いていたとしても、毛沢東が行った大躍進政策や文化大革命で中国本土から多くの難民が流れ込んできた場合に、人民解放軍の攻撃に耐えられただろうか?また、終戦後おしよせたソ連の百七十五万人の兵力に対抗できただろうか?それとも、両大国のバッファーゾーンとして存在意義を見つけることができただろうか?具体例で言うなら、レバノンのように様々な国からの干渉で揺れ動いたかもしれない。シミュレーションは無数にあり、ありとあらゆる可能性を検討してもはっきり断言できない。

 

 

 

司馬遼太郎は中国の東北地方を遊牧文化と呼び、南の方を農耕文化と呼んだ。「貝と羊の中国人」という本を書かれた加藤徹という方は、北を羊の文化と呼び、南を貝の文化と呼んだ。「貝の文化」は殷人気質で、漢字に貝という字が多く使われるという。反面、周人気質の遊牧民は、漢字に羊の字がよく使われる。日本人は、農耕文化で貝の文化の気質にあたるだろう。満州という国では、農耕文化で貝の文化である日本人が羊の文化である満州国の人々の統治にあたったわけである。

 

 

 

ただ、ご存じのように関東武士は日本の西の人々にとっては、食文化という面ではなく、軍隊が騎馬民族という点で、羊文化に近かった。そう考えると、3分の一の騎馬民族の流れをくむ農耕民族が100%羊、牧畜文化を持つ民族を満州で一時的に支配したことになる。

 

 

 

農耕民族に比べて牧畜民族の戦争のやり方そのものが異なるように思える。草原を移動し、戦争する場合に一番大切なのは食料や武器の調達、後方支援のやり方だろう。それを戦略的にできたがゆえにモンゴル帝国はヨーロッパ近くまで遠征できたことになる。それに比べて農耕民族である日本の戦いは、冬季でないかぎりは、どこで戦っても稲が実り、食料の心配は短期決戦で臨めば、現地で調達しても十分足りる。近代の戦争でも、日本軍のほとんどは後方支援の力がおよばず、孤立し、最後は強制的に現地調達を行い現地の人々の反感をかっていたようだ。国の統治の仕方は、一般的に羊の文化のほうがうまいと言われている。清は267年間も続いた。なぜなら、牧畜文化はトップダウン方式である。少なくとも新しい国を作るときには、縦組織の社会を必要とする。それに比べて、農耕民族は集団で強調して相互扶助の社会に適しているため、決断や行動が遅くなる傾向性がある。満州国の統治のまずさは、日本人がどちらかというと貝の文化であり、農耕民族だったゆえの、長期戦略眼をもたない「いびつさ」だったかもしれない。

 

 

 

満州国には、明暗が数限りなくあった。ハルビンにあった悪名なだかい関東軍防疫給水本部、731部隊のあった土地でもあり、当時は最高の技術水準と言われた満鉄中央試験所があった土地でもあった。戦後も残って残留科学者となって、中国の技術者を育て上げた著名な方も多くいた。満州という言葉自体が、不名誉な言葉として、中国では使われなくなってきているが、私たちは単なる歴史の断面として、満州をとらえるのではなく、歴史に学び、満州イコール悪という偏向した評価ではなく、何が悪で、何が正だったかという正当な評価をくだす必要がありそうだ。

 

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コメント

Σ(゚д゚;)

とても興味深く読ませて頂きました。

満州国を歴史的・国際的に俯瞰されており、その概容やあったであろう将来のシナリオを理解する事ができました。

アメリカの成立・独立と比較されとても説得力がありました。

映画「戦争と人間」の中で酔った老人が「日本は満州に出て行かなければ為らないのだ。」と叫んでいたのを覚えています。

日本の大陸進出は軍部に騙されたのではなく国民の合意があったと思います。

帝国主義の時代、大恐慌から脱却する為のフロンティア満州だったのでしょう。

私の父も満州炭鉱という会社に就職し理事長が「河本大作」であったと聞きました。

私も既に父の亡くなった年齢を過ぎましたが、久し振りに在りし日の父を思い出しました。

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