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2012年8月20日 (月)

出でよ、東北健児

 

ずーずー弁が汚いと言われたのは、幕末期から明治にかけて、東北人というのは悲惨なところに追いやられたせいだ、ある本に書いてあった。いわゆる社会層でいうと底辺の人たちが使った言葉だからだという。

 

 

 

東京に来た頃、このずーずー弁しか言えない自分が恥ずかしく、劣等感にさいなまされた。

 

何年も東京に住んでいるうちに、いつのまにか東北弁が消えてしまった。いまでは、故郷に帰っても、聴きとりはできるが、東北弁を話すことができず、故郷に住む同級生とふるさと言葉で話せないもどかしさを感ずる。しかし、最近になって、東北の方言が古い文化を含んだ言葉ではなかろうかと思うようになった。

 

 

 

「もっこきた、もっこきた」

 

この言葉は、子供の頃、母親から教わった。何か怖いものがやってくるという意味で使っていた方言らしい。大人になって、この方言の意味を考えてみると、「蒙古来た、蒙古来た」の意味にとれる。約730年前の鎌倉時代の蒙古来襲が、京都近辺に噂として伝わり、さらに東北までたどりついたという確証はないが、方言に古き時代の名残があったのかもしれない。

 

 

 

「オランケが来るぞ」

 

韓国では、怖いものがやってくるという場合は、オランケというらしい。

 

オランケとは女真族のことだったようだ。女真族が攻めてきて、朝鮮族の人をさらっていき、自国の領土で耕作させたと司馬遼太郎の対談に書かれてあった。言葉の語源が、その土地の歴史をあらわしている。女真族は騎馬民族で、農耕の技術がなかったため、朝鮮族の人をさらい、自分の領土に連れてきて、耕作させたと言われている。

 

 

 

そういった方言の中には、思いがけない古い文化が積み重なって残っていることがある。何世代にも渡って、語り伝えられたことが、方言として残ったのだろう。どうも文化というのは、池の真ん中に小石を投げ込んだようなもので、中央の波紋はすぐ消えていくが、余韻となる波紋は岸辺に近くなるにつれて、ゆっくりしたウェーブとなって、幾重にも岸辺に押し寄せ、波の残渣となって残っていくようだ。中央の文化というものは、一時期は栄えても、時代とともに変わり、消えてゆくが、一方、地方では、神楽、踊り、歌舞伎となって伝統となり、残っているようなものだろう。帰郷したおりに、同窓の人に会っても、こちらは相手を、あまり覚えていないものだが、向こうは、何十年も経っているに、こちらのことをいまだにおぼえていることがある。まるで、都会の時間の流れと、故郷の時間の流れが異なっているようだ。田舎では、時間がゆったりながれて何十年も前のことが進行形で、現在とつながっているようにも思える。

 

 

 

司馬遼太郎は仙台市で「東北の巨人たち」という題で、1987年に文化講演会を行っている。詳細は省略するが、司馬遼太郎があげた、東北の巨人を列挙してみよう。

 

1.狩野幸吉(秋田、大館)、明治の思想家、哲学者、そして教育者。日本人は本当に独創性があるのかを調べ、江戸時代の独創的な人物を探し出した。

 

2.本田利明(新潟、村上)江戸時代の数学者で、経済思想家。重商主義を説き、農民の負担を減らして、国を富ませる方策を展開した。

 

3.安藤昌益(青森、八戸)世界最初の共産(社会)主義者で、自ら農具を取って働いている階級しか認めなかった。

 

4.内藤湖南(秋田、毛馬内)東洋学の教授。漢学を、歴史を通した人文科学まで高めた。

 

5.高橋是清(宮城、仙台)日本の財政家であり、大蔵大臣。2・26事件で暗殺される。

 

6.陸羯南(青森、津軽)正岡子規を支えた「日本」という新聞社の社長。

 

7.原敬(岩手、盛岡)平民宰相と呼ばれた、総理大臣。大正十年に暗殺される。

 

8.米内光政(岩手、盛岡)三国同盟、日米開戦に反対した海軍大臣、総理大臣

 

9.井上成美(宮城、仙台)三国同盟、日米開戦に反対した海軍大将

 

10.太宰治(青森、五所川原)小説家

 

 

 

上記10人のなかには、学校で学んだ有名な人もいるが、初めて聞く人名もかなりある。最後の太宰治は、他にも東北から文化人がたくさん出ているので、司馬遼太郎の個人的な好みだろう。それにしても、何故、東北からは歴史に登場する有名な革命家である、吉田松陰、西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作のような人物が出現しなかったのだろうか。

 

 

 

司馬遼太郎の言葉を借りると、歴史には体制製造家、と処理家が現れるそうだ。

 

体制製造家として、西郷隆盛(幕府を倒して、新国家をつくりたいと考えた人)江藤新平(法治国家をつくるために国はどうあるべきか考えた人)、大久保利通(倒幕から維新にかけて、国をどうつくるかのお膳立てをした人)、などがあげられるが、その他にも織田信長、豊臣秀吉などが挙げられる。体制製造家は短命であることが多く、暗殺されること可能性も高い。

 

 

 

処理家は、誰かが作りあげたものを、秩序だて、処理して行くわけだから、徳川家康、伊藤博文、山県有朋などがあげられるだろう。処理家には敵が少ない、処理するだけでビジョンがないから、敵対関係が生じないので長命の場合が多いそうだ。

 

 

 

もう一度、上記の東北の巨人と呼ばれる人を、見てみると、東北からは体制製造家は見当たらない。原敬、高橋是清のような処理家は一部、出現しているが、体制製造家とは言えないだろう。

 

 

 

それは、経済力に関係するようだ。まず、戦争にはとてつもない費用がかかる。中央政府に戦争を挑んで、支払えるほどの経済力を東北諸藩は持っていなかった。反面、長州、薩摩は貿易を行い、産業の近代化をおこなうことで、経済力を蓄えてきた。さらに長崎に出島や貿易を通じて、西洋の新しい情報を入手でき、新しい文化に触れる機会が多かった。世界の動きに反応できる過敏性があったとみるべきだろう。こうした情報収集のうえに、さらに近代武器を購入することができ、倒幕へと突き進むことができた。

 

 

 

教育面では、長州は、攘夷派の若き人材が育ち、才能ある人材が藩内に出現できる進歩的な素地があったし、しかも松下村塾という革命塾が重要な役割を果たした。薩摩は、もともとボーイスカウトの原型とも言える郷中と呼ばれる若手人材育成システムがあり、幼いころから、このシステムを通じて、良い指導者を育てることができた。こう考えると、長州、薩摩では、情報、教育、経済とも体制製造家を輩出できる基盤があったとみるべきだろう。

 

 

 

一方、東北諸藩では、越後、長岡藩が河井継之助という英雄が出現し、貿易で藩の経済を活性化させ、近代兵器の購入まで達成したことを除けば、注目すべき人物は見当たらない。その河井継之助も官軍の敵として、戦争中に重傷を負い亡くなる。

 

 

 

なぜ、東北は時代の推移から取り残されたのだろう。経済的な面はしかたないとしても、やはり、教育、情報という二要素が欠けていたと考えるべきではなかろうか。教育面では、新しい思想家が育ちにくかった。若者に対外的な視点を持たせ、封建的な考えを打ち破るような教育者がでてこなかった。さらに、時代に追いつくためには、情報の入手に努力し、その情報に過敏に反応することが必要だったのだが、中央と距離も離れていたため、対外的な情報収集能力には欠け、情報の過敏性に対しても鈍かった。

 

 

 

これらの理由の背景にあるのは、農村にある横並び社会であったかもしれない。司馬遼太郎という人は、東北の良さを理解していた人でもあったが、同時に、欠点も知悉していた。それは、東北の欠点というより、稲作文化が内在的も持つ封建制だったかもしれない。

 

 

 

「いくら危機感をそそるような情報が入っても、庄屋は握りつぶす、村内の秩序のために。それを握りつぶしても稲は伸びるんだから。また、庄屋が非常に優秀なやつだとかえって困る。村内が暗くなって。ヒットラーとか、ムッソリーニとか、ワシントンとかいうようなやつが出てきたらしんどくてしょうがない。日本の政治風土は決して英雄を出さない。日本人は他の民族と同様、人間は好きだけど、しかし個人の能力に大きな期待を持たない」

 

 

 

つまり、稲作というのは共同作業で成り立っている。だから、どんなに個人の能力が優れていても、それよりは、チームワーク力を重視するわけだから、英雄や際立った指導者が育ちにくいし、育てる土壌が少ないと考えるべきだ。

 

 

 

「ぬるま湯」という表現はできれば使いたくないのだが、東北は「ぬるま湯」の世界に似ているだろう。社会が広大な井戸のような共同体をつくりあげているため、その井戸に住む人々は、ひたすら井戸の中に安住するだけで良い。外界からは、農業と共同社会に関する情報を除けば、世界の情報はさしずめ必要ない社会なのだ。だから対外的な情報に鈍感にならざるをえない。さきほど引用した司馬遼太郎の言葉を使えば、村内の秩序こそ重要で、外界からの情報は誰かが握りつぶしても良く、それでも稲は育つ。

 

 

 

もちろん、昔の薩摩や長州も横の関係性で成り立っている。ただ、環境の変化、世界情勢の変化をより肌で感ずることができ、それに対応するため、個の自己の目覚めがもとめられたのだろう。薩摩も長州も貿易を通じて、海外という息吹を肌で感じ、その危機感から、国をどうするべきか考えなければならない必然性が生じてきて、人材が輩出できたと言える。

 

 

 

昔の軍隊では、攻撃には九州の部隊を使うのがいちばん強くて、籠城戦をやった場合には、東北の部隊を使うと一番強いというのが常識だったそうだ。そこにあったのは東北人の粘り強さであったろう。一つの仕事に打ち込む粘り強さであった。

 

 

 

私の祖母は、私が職を得てからは、よく口にした言葉は、「仕事をまじめにやりな。やっていさえすれば、なんとかひらけてくるものだから」というのが口癖だった。今思えば、東北人の生真面目さで仕事を続けていれば、道はそれなりに開けるという意味だったろう。

 

だから、なんとか技能をもって、一つの仕事を続けていれば、その道で開けるときがくると信じていたようだ。

 

 

 

ところが、私は、職を数度変わっている。学校を卒業して仕事を得たが、自分の求めていた仕事ではないような気がして、与えられた仕事に満足できず、しばしば転職をくりかえすこととなった。結局、祖母の期待には添えなかったことになる。歴史の流れから見ると、私の祖母は保守派であり、私自身は新しいもの、自分探しの好きな進歩派だったかもしれない。東北という風土は、こういった職を転々とする自分探しの人間にとっては、生きにくい場所であったかもしれない。それでも、私は三男であるため、比較的自由に自分の道を歩むことができた。長男であったらこうは行かなかっただろう。

 

 

 

再び、司馬遼太郎の講演を引用してみよう。まず、東北にあこがれを持った人物として、松尾芭蕉、吉田松陰をあげている。吉田松陰の「東北遊日記」という著書に、奥州は英雄が出る所だと記しているという。

 

 

 

「東北を一つの僻地として見る見方が伝統的にあります。世間にも、東北人自身にもあります。これが先入観だと思うのです。これを見直す時代がきましたね。東北をもっと掘り下げるべきです。東北をその独自性から見直す。世界史的な大きな目をもち、東北の人文の伝統を見直すべきなのです。

 

それをまず、東北人自身がやらなければなりませんよ。私は今日、東北の偉大な人々の名前を挙げました。彼らに負けない、大きな思想家が出てくれないかと思っているからです。ここにお集まりの方々から、新しい東北論を書いてくださる方が出るのを、私は楽しみにしております。」

 

 

 

司馬遼太郎が言っているように、東北の文化や伝統の見直しこそ本当に必要なことだと思われる。素晴らしい文化をもっていると思う。しかし、その素晴らしさというのは国際性がなければ、説明できるものでもないし、他国の文化をわかろうとする努力がなければ、対外性なぞというものは育たない。

 

 

 

昨今の経済の低迷化による、東北が抱える逼迫した、逼塞したものは、実は、環境の変化に対応していないことに由来するのではないだろうか。井戸の外に関心を払おうとせず、過去の歴史の積み重ねの上にしか、文化を成り立たせていないことに起因していないか。自分の文化のこんなところがすごいんだという、文化を発信でき、説明し、他の人をも納得させるものが育っていないように思える。

 

 

 

「ぬるま湯」の中では、世界の流れを肌で感じることなどできそうもない。個として自立できずに、他の文化に呼びかけはできない。自立した個とは何か。状況の変化に、俺が変えてやる。誰でもない、俺がやるんだという主体性なしには、自立した個とは言わないだろう。「ぬるま湯」につかりながら、横の連帯性に依存して、誰かがやるだろうという待ちの姿勢には、個としての自立はないはずだ。

 

 

 

こう考えると、東北で求められているのは、教育こそが、最優先に取り組むべき課題だろう。世界の視点を持った教育者こそが、東北でもとめられる人材であり、松下村塾のような学校を作り、社会を改革できる人材を輩出することが急務のように思える。北海道という北の地でさえ、札幌農学校という有名な人材輩出学校が現れた。そこの開拓時代の校長であったクラーク博士の、「少年よ、大志を抱け」という言葉は、誰でもが知っている。そのクラーク博士から直接な教えを受けなかったものの、内村鑑三や新渡戸稲造に多大な影響を与えたと言われている。北の地でさえ、可能なのに、どうして東北の地でできないのだろう。

 

 

 

幕末に始まった文明開化には、二つの流れがあった、語学と医学の二つの潮流だった。西洋医学が導入されることで、漢方と呼ばれていた旧態依然とした医学が変わった。また、語学は、西洋の文化、技術を取り入れるために、蘭学に始まり、英語学へと変わっていった。これによって、島国感から世界視野へと広がり、多くの著名な処理家を輩出して言った。

 

 

 

現代では、語学を学び、世界のニュースを知る、そういったことは、東北にいても、できることだが、「ぬるま湯」に浸っていては、世界情勢を知ることさえもおぼつかないだろう。

 

 

 

このことを司馬遼太郎は一番、懸念していたろう。これは東北だけではなくて、日本全体に言えたことだが。

 

 

 

「明治の決めた語学群というものを今の日本がまだ踏襲し続けているということもおもしろいといえばおもしろいですが、同時に、明治の日本人の対外的過敏さというものから、今の日本人はやや鈍感になっているともいえます。いいかわるいかはべつです。」

 

 

 

東北にいて、井戸の底をながめていたのでは、閉塞感のみが蔓延してしまう。井戸から広い青空を眺め、青空の向こうに何があるのか、鋭敏になり、情報を集め、井戸の中により良い変化をもたらすことが必要なのだ。

 

 

 

吉田松陰が言った、「奥州は英雄が出るところだ」とは、サッカー選手にたとえることができるだろう。有能なサッカー選手は、東北にもいるし、プロのサッカー選手になれるポテンシャルも高いと言える。しかしながら、サッカーは個人戦でも、個人の技能を争うわけではない。ゲームに参加しながらも、時々刻々と変化するゲームの流れを俯瞰的、三次元的に動的に見て、考えることができる才能が必要だ。そういった大局観というものは、常日頃から、外界に接し、外界の動きに過敏に反応しなければ養う事ができない。

 

 

 

私は大学時代、語学を学ぶために、自分の日常を変えたことがある。好きな小説やテレビドラマはすべて見ないようにした。その代わり、英語音声の洋画を見て、ラジオは英語の放送のみを聴き、英語の雑誌や新聞のみとする。独り言まで、英語で通した。そうした結果、数ヵ月後には、夢の中で英語を話そうとしている自分に、はっと気がついたとき、英語を話す力は格段と進歩していた。

 

 

 

こう考えると、語学を学ぶために外国に行くことも必要だが、井戸の中にいても、自分の日常を変えることはできる。世界情勢を知るための擬似的な環境をつくりだせるようだ。なにより必要なことは、「ぬるま湯」から一歩外に踏み出し、日常を変えて対外的な過敏さを作り出す自主性を持つことができれば、東北にもいつか、偉大な教育者が現れ、偉大な思想家が現れ、革命家が現れるのではないだろうか。

 

 

 

昨今、農業を取り巻く環境も厳しさを増している。TPP(環太平洋パートナーシップ)のような問題も出てきて、井の中の蛙では許されない状況になってきている。単に農業を守るという論点だけでは、工業立国として地位を築いてきた日本の将来さえ危うい。今の日本に何が必要で、将来構想を描けるような人材の輩出こそが東北に必要なことに思える。

 

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