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2012年11月29日 (木)

空海に関する一考察

空海に関する本や小説を読むにつけ、どうも彼の人格が好きになれそうもない。

何故だろう。各地域に空海伝説とおぼしきものがたくさんあり、伝説のなかには、とても信じられないような逸話も多い。それほど人々の心に伝説として残した人物が、なぜかどうにも好きになれないのだ。あれほどの伝説が現在でも残っているということは、なんらかの偉大な側面があったはずなのだが・・・・・。しかし、彼自身の生涯をたどっていくと、どうも謙虚さとは無縁の人物に思えてくる。名誉欲や嫉妬心も強く、秘密主義で、さらに人を惑わすような図々しさもあるように思えてくる。そういったことを、自分の中で咀嚼するにつれ、空海をだんだんに好きになれなくなったようだ。

 

これは私自身の個人的な見解だけかと思ったら、司馬遼太郎も1973年、「空海の風景」の連載が「中央公論」ではじまった頃に、担当者に言った言葉として、次のようなコメントが残されている。「空海と生身でつきあうのは大変ですね。僕はゴメンだな。最澄のほうがつきあいやすいし、いい感じがする。しかし最澄では小説にならないね」。

空海という人がどういう人だったかは、私たち後世の人が類推するしか方法はないし、その類推が正しいかどうかも証明のしようがないが、ここでは、少し個人的な見解を述べてみよう。

 

空海の生涯に関しては、司馬遼太郎が「空海の風景」で現存する書写をもとにして、小説を書いているので、彼の生涯全般に関しては、それほど疑問を感じない。ただ、一か所、これは違うのではないかと気になる点があった。それは、空海が福州に到着して、長安に向かう途中、福州の地方長官がなぜか、空海を一時、長安に行かせない場面がある。長官の意志で、空海が長安に向かう一行の名簿から一旦、はずされるのである。

 

遣唐使船は全部で四隻、九州を出航するのだが、空海の乗った第一船は、三十四日間も漂流し、やっと浙江省に漂着する。しかし、漂着した場所では、国使として、受け入れられず、福州に行くように、命ぜられる。福州は福建省にある。やっと福州についたが、今度は、日本国の国使であることが信用されない。確かに漂流して、乞食のようにやつれはてた姿で、しかも国書を持参しているわけでもないので、国使と叫んでも聞き届けてもらえなかっただろう。この時、空海は大使に代わって、観察使である長官に弁明書を代筆する。その漢文の詩は驚嘆をもって迎えられ、それによって、教養人であることが認められ、やっと国使として認められるようになる。

 

長官に国使として認められてからは、一行は福州から長安に行くことが許されることになった。ところが、その大使に随行して長安に向かう一行の中に空海の名が載っていないのだ。誰がその一行に入るかは、長官の判断によるものだったという。なぜ、空海の名を一行に加えなかったのだろう。考えられる理由として、次の理由を考えてみた。

1)文章がうまかったので、長官としては側に置いておき、文筆家として利用したかった。

2)私費留学生なので、僧とは認めがたいので、長安に行かせなかった。

3)一種の嫌がらせだった。空海は文章能力に優れている。ということは、長安に行かせれば、日本からの国使であったにもかかわらず、舟を封印し、舟に戻らせず湿った砂の上で休ませるなど過酷な所業を長官として命じたことが、露見してしまうかもしれない。こういった長官の不手際を文書で報告されることを恐れたのではないか。だから、空海の文章のうまさを警戒して、一行に加えなかった。

 

それに対して、空海は再度書面で一行に加えてくれるように申請しなければならなかった。

「私は仏教の体系を学びに来たのである。長安に行かなければ、国家からその大任を果たせない。長官は徳のある人と聞いている云々」という内容が続き、やっと長安行きが認められる。その文面には現れていないが、「長官であるあなたの失態を報告するために長安に行くのではなく、あくまで仏教の研鑽に行くのだ」という意思が感じられる。

 

しかし、司馬遼太郎は「空海の風景」の中で、その理由を1番目の長官が文章家として、そばに置いておきたかったので、と空海が弟子に書き残したとおりにとらえている。はたして、そうだろうか、どうしても疑問が残った。

 

ひとつには、空海は漢文力に優れ詩や漢文に優れていたとしても、少なくとも空海の中国語の話す能力は、長官の秘書や文筆家となれるほど、十分であったとは思えない。たとえば、自分が社長で、秘書が欲しい場合に、文章力がうまいからといって、言葉の不自由な秘書を雇うだろうか?意思の疎通に問題があると思えば、雇う事を躊躇するのが当然だろう。空海はサンスクリット語には、少なくとも優れていたようが、中国語を自由に話すほど語学力が優れていたとは思えない。そう考えると、むしろ、3番目の、長安での告げ口を恐れた小役人根性の方が本当の事実の可能性が高い。

 

また、行政官だったら、小さな国の国使の望むままには、100%許したくない気持ちがみえてくる。日本の国使を留め置いたというのは事実としても、空海の達筆な文章で中央政府に自分の行政上の不手際をそのまま報告されないように、自分の権威を見せつけて畏怖させるのも人の心を操る常套手段だ。だから、一種の嫌がらせをするとともに、中央政府に問われた場合、上陸を許さなかった理由はこうだと説明するために、空海に再度、依頼の文章を書かせたとも考えられる。彼は、空海が再度長安に行きたいという文面の書状を送りつけてくることを見越していた。その手紙を受け取ることで、行政面で、自分の不手際ではないと言いわけするための証拠として残したとも考えられないだろうか。

 

そう考える理由は、中国に長く住んでいるからだろう。中国という国は寛容と非寛容が同時に存在するように思える。いわゆる、寛容な部分は細かいことにこだわらない大陸的なおおらかさであるし、非寛容な部分は外国人なのに中国に住ませてやっているのにという傲慢さにも通じる部分かもしれない。アメリカという国は、比較的法律や行政でやってよいことと、やってはいけないことの区別があるのだが、中国に法律はあっても、法律を運用する行政官にその判断や権限が、ある程度ゆだねられ、さらに地方によって行政のあり方が異なることも多々あるように思える。法律の運用の境界がはっきりしないことが多いのだ。灰色とも思える部分の判断は、行政官の思惑によると思われることがある。それは、古代でもやはりそうであっただろう。

 

なぜ、そういうことを考えるかと言うと、日本からの遣唐使の派遣は中止三回も含めた、18回もあるが、度々、嫌がらせにあっている。皇帝に日本僧の旅行許可を要請しても許可が降りない、後で許可されたものの、州府に菩薩や四天王像を模写したいと依頼しても、許可がもらえなかった。さらに帰国のために水夫が市場で買い物をしていたら、役人に逮捕されたなど、ささいなことで嫌がらせを受けている。この頃、唐の文化は全盛を極め、現代で言えば、アメリカが留学生を各国から受け入れるように、自国の文化を学ぼうとする外国留学生に対して寛容であった中国が、行政面では寛容な部分と非寛容な部分が一部見え隠れする。その寛容、非寛容の背景にあるのは、唐の国が世界の中心であるといった過信だったかもしれない。現代でいうなら、中華思想ともいうべき、世の中がすべて中華を中心にまわっているような錯覚であったと言ってよい。そこからくる、官の傲慢がなせる非寛容であったかもしれない。

 

その他の理由として、賄賂や贈り物などの習慣の違いも一因と考えられないこともないが、そうばかりとも言えない。なぜなら、当時留学費用は、唐側の負担がほとんどだった。さらに帰国する遣唐使の一行に、多量の絹を帰国費用にあてさせるために支給さえしている。こう考えると、寛大さと行政面での嫌がらせと両方を遣唐使一行は経験していることになる。空海がおなじように、その両方を経験したとしても不思議ではない。

 

さらに言えば、長官は空海と会って、なんとなく不穏なものを感じたのではなかろうか。ただ者ではない、一種の表現しようもない圧迫感を感じたのかもしれない。それは空海自身の人間としての大きさだったかもしれないし、逆に空海の持っていた独特の押しの強さだったかもしれない。そういった何かあらがえないものを感じて、一旦は国使の長安行きを認めたが、空階までも同行させるのは、どうしても100%許せない感情もあったのかもしれない。

 

おそらく、空海はこの行政官のいじめの本質がわかっていたのだろう。だから、嘆願書を書いて、長安に行くのはあくまで仏教の研鑽にいくので、あなたの過失を伝えるためではないことを婉曲に伝えたので、やっと許可されたと見ても不思議はない。しかしながら、弟子には、長官が文筆家として使いたかったからではないかと話をしている。そうだとしたら、見栄をはったのだろうか。どうも、こんなところに空海を好きになれない理由があるのかもしれない。

 

もちろん、司馬遼太郎がとらえた、長官の秘書としての扱いを全面否定するつもりはない。

なぜなら、下記のような唐代の有名な詩人の逸話が残っているからだ。

 

唐代に賈島という詩人がいた。彼は月夜の景色を描写した詩をなんとか作りたいと思案していた。そして、ついに「鳥宿池辺樹,僧敲月下門」という詩ができあがった。水辺に大きい木が一本立っており、その木の上で小鳥が静かに眠る。月光は樹木と門を照らし、一人の和尚が寺の門前に歩き着き、寺院の表門を軽くたたくという情景が眼に浮かぶような詩だ。しかし、彼は、この詩では、門はたたくべきではなく、門は押すと直すべきではないだろうかと迷った。ロバに乗ったまま、どうしようかと思案しながら進んで行くと、通りかかった高位の官僚である韓愈の輿にぶつかってしまった。韓愈の部下は、なんて無礼な奴だと彼をロバの上から引きずりおろし、韓愈の前につれていく。賈島は、「詩に出てくる一字を考えていたため、あなたの輿とぶつかってしまいました」と、正直に答えた。詩人でもあった韓愈は、その話に非常に興味をもち、「どんな詩ですか?読んで聞かせてください」と賈島に請いた。賈島は自分の詩を読み、韓愈に聞かせる。彼はさらに韓愈に、「僧が月下で門扉を“敲く”のが良いのか、僧が月下で門扉を“押す”というべきか意見を尋ねた。韓愈自身、その答えはすぐには出てこない。韓愈が思案のうえ、答えて言うには、「”敲く”は”押す”より良い。ただ、誰も人がいなく、月夜に音さえしない状態で、扉を何度か敲く音がするのは、聴いている人を不安にさせるかもしれない。」とどちらともいえないという答えだった。この事件以降、賈島と韓愈もとても良い友達になったという。

 

中国語で「叩く」は「敲く」で、「押す」は「推」という漢字を使うため、この逸話より、日本語でも使われる推敲という言葉の語源になったと言われている。司馬遼太郎がこの逸話を知っていたかどうかはよくわからない。福州の長官が小国からの僧である空海の優れた文章、文才に惚れたとすれば、彼の才能に惚れた可能性も捨てがたい。しかし、この長官が有名な文筆家として名を残していないし、それだけの理由で、空海の長安行きを一旦阻止しようとするであろうか。しかも、この事件以後、空海とこの長官が親交を結んだという事実もないことを考えると、その線の可能性は少ないのではないか。

 

それにしても、空海は確かに頭脳が大変明晰な人であったろう。それは、文章の上手さ、書のうまさなどから知ることができる。常に生死や無常観を考え、天才的な詩人(漢詩は優れていた)でもあり、仏法用語の本質を即座に理解できる明晰さを持ち合わせていた。さらに、他人の心を読むことには優れているようだから社会的には、有名になって当然だったろう。そういった才能はどうやって入手したのだろう。おそらく、山歩きや修行のなかで身につけた一種の超能力と思われる。そういった才能は六神通のなかの一つ、他心通(たしんつう)という他人の心を知る能力があるが、それに長けていたようである。彼のこの能力は、密教を継承するときでさえ、遺憾なく発揮されたと考えて間違いない。

 

もちろん、彼の才能は他心通だけではない。求聞持聡明法という記憶を司り、目的意識と結びつけ、記憶を活用する力にも優れていたようだ。これらから、当然、物事の本質を見抜く力と自己顕示欲が発揮できたと思われる。

 

ところが、最澄が学究肌の学者であり、仏法を体系化し、論理的に分析しようとしたのに比べて、空海は理論や空論には、ほとんどこだわっていないように思える。むしろ、実践派の宗教者のイメージが強い。なぜそう考えるかというと、普通自説を展開するときは、文証となる仏典を参照して、この文書にこう記載してあるから、私はこう考える的な理論構成をするべきだが、それが見当たらないし、残された詩を除けば、自分の意見をひたすらストレートに伝えている。

 

最澄と空海という二大巨人を比較した場合、最澄は国費留学生で、やがて、現在でいうなら、大学の教授、さらに学長という比較的、レールの上に乗った人生を歩む。それに反して、空海は、私費留学生(おそらくは、司馬遼太郎が言うように、金持ちのスポンサーがバックアップした)で、野心も強く、コンプレックスみたいなものが見え隠れする。やがて、留学を終えて、密教を鎮護宗教として、朝廷に取り入れさせ、階段をのぼりつめるように社会的に大成功することになる。さらに長安で見た土木技術を、実際に日本で応用させている。しかし、純粋に法を求める最澄に対して、そのコンプレックスの裏返しのような態度を見せている。たとえば、密教の中枢経典である「理趣釈経」を借りようとする最澄に対して、冷たくつき放す場面は特に有名だ。

 

「あなたは『理趣釈経』をかりたいといっているが、理趣とはなんのことかご存知か。理趣に三つあり、耳で聞く理趣、これはあなたの言葉、目で聞く理趣、これはあなたの体、心で思う理趣、これはあなたの心、あなた自身のなかに理趣があるのにどうしてよそに求めるのか。あなたは真理を紙の上にのみ見る人のようです。紙の上より真理はあなた自身のなかにあるのです。あなたは行を修めたのか、行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすることは本末転倒もはなはだしい。」

 

この文章を読む限り、なんという乱暴な手紙だろうという感じがする。確かに、空海の言わんとしていることもわからんではない。真理というものを様々な文献をひもとき、追及しようとした最澄にくらべて、空海の言っていることはひたすらそういった帰納的なアプローチを否定している。密教の本質は演繹法でしかわからないと一言で、否定しているのである。

 

それにしても、このような内容の手紙は、普通は書かないだろう。まるで、「理趣釈経」を研究対象にされては困ると言っているようだ。しかし、もし密教が仏教の一分なら、他の文献を引用しながら、どうとらえていくべきか詳細に説明するべきなのだ。しかし、この手紙はむしろ感情論となっているように思える。なぜなら、仏教の本質は一切の衆生が釈尊と同じように成仏することが目的であったはずである。おそらく、最澄は、その大義を極めるために、密教も含めた仏教総体を分類、定義づけしようとしたはずである。それを邪険にもはねつけたと思われてもしかたがない。

 

ひょっとしたら、空海は既に知っていたのかもしれない。密教を中国に伝えた善無畏三蔵が、天台の経から一念三千の理を盗み、大日経の肝心としたことを。これによって、法華経と大日経を同列に扱ったという理同事勝が誤っていたことを。理のみを追求していくと当然のことながら、天台の教えが体系的にも論理的にも優れていることは、自明の理だ。それでは、自分が中国から持ち帰った密教の正当性がたもてない。そこで、理よりも印と真言を唱えることで、神秘性を保たせることに主眼を置いて、言葉を悪く言えば、へ理屈で最澄を煙に巻いたと見るべきだろう

 

最澄としては、同じ仏法の道を求め、仏教の奥義をきわめるため、本を借りようとしたのに、裏切られた思いであっただろう。現代で言うなら、向学心に燃えた学生のまま、大人に成長した最澄と、社会人として、ずる賢さや、社会での駆け引きを十分に知り尽くした老獪な空海との手紙を通した対話であったのかもしれない。

 

結局、演繹的なとらえかたしかしなかった空海の法は、大乗経の眼目である、凡人が成仏にいたるべき道程を示さないまま、真言を唱え、護摩木を焚く儀式のみの宗教としてのみ、現代まで伝わったことになる。

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