麻雀でみる満州の勢力図
共産党がなぜ中国を統一できたのだろうか。なぜ国民党が勝利できなかったのかについて考えてみたい。どうも鍵はソ連の謀略にあったようだ。日中戦争が始まったころは、ソ連は、むしろ国民党を金銭的に支援していた。いや、抗日を唱えるなら、どこでも応援しただろう。そうすることによって、中国に陣地をかまえる日本軍を国境で威嚇し、後方からは抗日戦線がゲリラ活動をして、関東軍を両面からおびやかすのが目的だった。
麻雀で満州の力関係を表してみよう。もともと、麻雀は北京の紫禁城後宮が発生源であったといわれている。陳舜臣によって書かれた、「北京の旅」には、三元牌の紅中、緑発、白板について、一部の記述を見つけたので引用してみよう。三元牌には、それぞれ二重の意味があるようだ。紅中の「紅」は、もともと宮女の口紅、紅中の「中」は、考中は科挙試験のことを指した。試験に関する意味があったのかもしれない。緑発の「緑」は、緑なす黒髪、緑発の「発」の意味は、官になると、賄賂が懐に入って発財(財をなすことができる)ことを表す。白板の「白」は、白粉を塗った宮女の顔、喪のしるし。白板の「白板」は、無位無官のシンボルでスタートを示すという。以上は、雑知識。
さて、毛沢東は麻雀がすきだったようだから、満州を賭けた争奪戦を麻雀にたとえてみよう。今麻雀卓には四人の人が座っている。スターリン(ソ連)、毛沢東(中国共産党)、東条英機(日本)、蒋介石(中国国民党)。
ソ連が現時点では、一番点棒の数が多い。その次が日本、国民党、共産党の順で、共産党はコンミルテンが金銭面で支援していたといっても、ほとんどハコテンに近い。ソ連は一時期、国民党を支援していたので、毛沢東は、ここでなんとしてもソ連に国民党とは決別して、中国共産党を支援してもらいたい。支援を勝ち取るためには、ソ連を自分の陣営に誘い込むのが一番得策だ。毛沢東はおべっかを使い、あたかもスターリンの下僕であるかのように振る舞い、スターリンからテーブルの下で、不必要な牌を交換してもらった。麻雀のイカサマの初歩の初歩だが、国民党も日本軍も最初は気がつかなかった。その後、日本も国民党も、ソ連がなんらかのイカサマをやっていることに気がついたが、確証はつかめなかった。初戦は、日本がなんとか勝ち抜くが、中盤戦にさしかかると、テーブルの下で牌交換するソ連と中国が優勢になり、勝ち進み、日本に敗戦の色が濃くなる。
休憩時間に、スターリンは蒋介石をも誘う。毛沢東と一緒に三人で、イカサマをしくんで、日本の一人負けにしようと誘う。いわゆる抗日戦線である。初め、蒋介石は毛沢東と組むことを嫌がったが、張作霖の息子、張学良にうながされ、やむをえなく共同戦線をはることに不承不承合意する。
麻雀は四人でやるものだが、そのうち三人が共謀したら、どんな猛者でも勝てっこない。日本は役満を振り込まないように注意し、何度か国民党に振り込ませたが、せいぜい上がってもリーチのみで終わった。結局、持っていた点棒はあっというまに減り続け、とうとうハコテン。全て失ってしまった。勝負がついた後で、「そんなのインチキだ」とわめいても、もともと敵陣で麻雀をやろうと、日本自ら異国に乗り込んだのである。それくらいの謀略は、想定してかかるべきだったろう。
一方、毛沢東は日本に勝った後、次の敵を国民党にねらいをしぼった。ソ連は、初めは国民党を支援していたが、その後、共産党を全面的に支援することに方針を転換した。支援を受けても、共産党は弱く、何度か国民党に満貫を振り込み、負けそうになった。毛沢東は、さらにあくどい手を思いついた。国民党の秘書をひそかに買収して、蒋介石が聴牌したときに、待っている牌が何なのかをが、蒋介石の後ろからジェスチャーで毛沢東に知らせるようにした。ソ連の強力の強烈な後押しと、秘書の裏切りで、毛沢東はとうとう蒋介石をハコテン近くになるまで、追い込んだ。全てを失い、ハコテンどころか借金までしょいこんだ日本はとうとう敗戦国となり、大陸の領土を失ったが、ハコテンにならなかった国民党は、負けて台湾へ逃げ込んだ。一方、麻雀卓に残ったのは中国とソ連だけ。ソ連には、誰のおかげで勝負に勝てたと思っているんだという自負があるし、一方、中国はそろそろソ連とのコンビを解消し、独立し自分の道を歩きたいと、反目しあっている。反面、まだまだお互いがまだ利用価値があるのでは、と思うと双方のコンビをそう簡単には解消できそうもない。
以上が、麻雀を例にとった満州の一時期の歴史である。孫文が南京臨時政府を作り、その後、袁世凱が皇帝をめざした。袁世凱死後は、群雄割拠の軍閥の時代となり、張作霖も入って四カ国麻雀の席につくはずだった。しかし、列車爆発により張作霖は暗殺される。日本軍部が暗殺したにせよ、ソ連が暗殺したにせよ、五人で戦うはずだった麻雀が、一人減り、四つ巴の戦いとなった。その中で、最後は共産党が一人勝ちし、新国家を樹立したことになる。
最近まで、私自身、中国近代史におけるソ連の影響を過小評価していたが、間違いだったかもしれない。実は、共産党が国民党に対して勝利をおさめることができたのは、中国人民の圧倒的支持があったからだと堅く信じていた。ところが、「誰も知らなかった毛沢東」という本を読んでみると、いままで信じていたものが、みごとに覆された。人民の支持は、むしろ後からついてきたと見るべきだろう。共産党軍が国民党軍に勝てるほど、軍事力を持てるようになったのは、主に次の理由ではないかと考えられる。
1)長征で多数の兵士を失い、武器、食料も枯渇し、共産党はほとんど負け戦の状態だったが、破壊された鉄道網をソ連が復旧し、朝鮮、ソ連、外モンゴルから共産党軍に後方支援がとどくようになって、兵力、軍事力をよみがえさせることができた。
2)ソ連が日本側から取り上げたおびただしい武器を共産党兵士に渡し、日本人捕虜を使って軍事訓練し、さらにソ連の地でも、軍事訓練を行って、国民党軍に充分対抗できるまで兵力や軍事力を育て上げた。
3)毛沢東自身と蒋介石が軍事衝突だけで四つに組んだら、蒋介石に歩があっただろう。戦略や戦術の点では、蒋介石が勝っていた。ところが、謀略に関しては、毛沢東が一枚上手だった。この戦さを制するのは、謀略戦、情報戦であると見抜いた毛沢東は、さまざまな情報収集を行い、情報コントロールを行い、蒋介石との戦争を勝ち抜いていった。
長征を終えた時点で、国民党は、430万の兵をかかえ、毛沢東の127万。数でこそ国民党のほうが圧倒的に上まっていた。この時点では、国民党は負けるはずは、なかった。それなのになぜ、国民党有利か、それとも互角での戦いができなかったのだろうか。毛沢東の強さは、上記に述べたように、その兵数の差を謀略戦とゲリラ戦術を駆使して逆転劇を演じ、さらにソ連の全面的なバックアップを得たことだろう。
謀略の恐ろしさを身にしみて知っていた毛沢東は、まずは、自軍の中に国民党のスパイが党内に入り込む可能性を排除させた。まず共産党の兵士を徹底的に自己批判の形で洗脳教育を施し、洗脳できなかった兵士や将校は、即座に処刑し、各兵士に共産思想を徹底させ、そこには、普通のスパイも二重スパイも入り込む余地は、まったくなかったと言って良いほど、思想教育を施した。
それに反して、蒋介石は、共産兵を徹底的に排斥し弾圧したが、側近や兵士にそこまで徹底した思想調査をすることはなかった。結局、国民党軍内には共産党のスパイが隠れ潜み排除できることはなかった。やがて、蒋介石が全面的に信頼した将軍でさえ、実は共産党の「冬眠スパイ」だったことが後日判明する。裏切った将軍のもとで、国民党の数多くの兵士たちは孤立するようになり、待ち伏せにあっては、虐殺されるようになり、兵の数も極端に減って行く。しかも、共産軍には、ソ連から支援があり、旧日本軍の武器がソ連から支給されるなど、勝てる要素はたくさんにあった。ここまで謀略が進むと、兵の数はそれほど問題ではない。むしろ近代兵器を数多く持ち、後方支援が充実しているかどうかのほうが重要だったと見るべきだろう。
中国国民はどうだったのだろう。これは個人的な意見だが、変化をもとめたのだと思われる。日本でも、長期にわたった自民党政権のなかで、官僚と政治家の癒着、政治資金の問題など、問題が山積してくると、うんざりして、変化を求める声が強くなる。そう考えると、民主党に一票を投じたくなるものだ。失敗するか成功するかわからんが、とにかく、ここは民主党に政権をとらせてみようという考えが生じても不思議ではない。これと同じような大衆心理が、中国でも起こったと考えられる。敗戦の色が濃くなるにつれて、共産党支持の声が強くなった。
蒋介石率いる国民党が政権をとったとしても、袁世凱とどれほどの違いがあるだろうか。それよりは、国民の平等をうたう共産党を支持してみよう。共産党を選んでも、もうこれ以上、不幸になることはないだろう。そういう錯誤に陥った人々は、不幸なことに、共産党政権になって、もっと悲惨な状況が続くなどということは想像もできなかった。そういう虚偽の理想にだまされた兵士が、中国各地から共産党に夢を求めてやってきた。彼らは直ちに隔離され、洗脳教育、軍事訓練を施され、脱走は許されず、あとは前線に送り出された。共産党の指導に少しでも反抗的な者は粛清された。一旦、国民党と戦いが始まると、敵の情報は、国民党内に眠る冬眠スパイから共産党にリークされる。その情報に基づいて、攻めてくる国民党兵士を待ち伏せて、孤立させ、全滅させればよかった。
国民党側は、冬眠スパイによって、誤った作戦行動をとることが多くなり、多数の犠牲者をだした。さらに超インフレ、食料危機、売り惜しみと買いあさりで、国庫のたくわえはどんどん費やされていった。こうして、経済の悪化にともない、民衆の心も国民党から離れていった。共産党軍が有利に戦っていくなかで、長春では、国民党軍の鄭洞国将軍が籠城し、その外を共産党軍が包囲し、兵糧攻めを行った。50万人が長春に住んでいたが、罪もない多くの市民を巻き込み、餓死させ、人口が17万人に減ったといわれる。単純に計算しても33万人が戦争に巻き込まれ、亡くなったことになる。一体、攻めた側の林彪はなぜ、これほど多数の市民を餓死さる必要があったのだろう。一般市民と国民党兵士との区別がつきにくいというのが理由だったのだろうか。後方支援もままならなくなり、多くの国民党兵士と無実の市民が飢えと零下の寒さに苦しみ、餓死し、最後は籠っていた数少ない国民党兵士も降参した。日本の南京虐殺にも劣らない、市民を巻き添えにした大量虐殺だった。
そう言うと、毛沢東の反論も聞こえてきそうだ。革命では、犠牲者はつきものだ。織田信長を見てみろ、叡山の焼き討ち、越前と伊勢長島の一向一揆の大量虐殺。近代に入ってからは、西南戦争では、途中の村や町で徴兵した若者を無理やり兵役として使い、無駄死にさせたし、戊辰戦争となると、江戸市内で大規模な戦闘が行われるはずだったが、江戸城明け渡しで、なんとか小規模な戦闘に抑えることができた。しかし、彰義隊を殲滅し、会津は、無理難題をふっかけて戦闘に追い込み、あたかも京都で弾圧された攘夷者の意趣返しとも思えるような一部の市民を巻き込んだ戦闘が、会津で行われたではないか。
こう反論されたら、確かに返す言葉もない。日本でも謀略家と呼ばれた戦国のリーダーたちがいたことは確かだ。たとえば、毛利元就などが筆頭にあげられるだろう。お家騒動をたくらむ腹違いの弟を殺害させ、陶晴賢との戦では、敵方の江良房栄が内通者で裏切るというデマを流し、偽の密書まで作り、陶自身に江良を討殺させる。「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候」という言葉のとおり、謀略の多い英雄であったが、毛沢東のような天下取りの生臭さは、いささかも感じない。
スターリンが何故、そこまで中国共産党を支援したのか。それは、もちろんコンミルテンの働きで、中国を共産国家にさせる目的があったろう。そのほかにも本で述べていたように、東北は、タングスティン、スズ、アンチモンなどの資源が豊富で、それらの資源を14年間にわたり、ソ連が独占的に購入できるという利点があった。戦後、中国は共産化に進み、すべてはスターリンの思惑どおりに進んだ形になった。
しかし、スターリン死後、後任となったフルシチョフと毛沢東の関係は、スターリンとの関係とまったく異なったものになった。フルシチョフにとっては、中国が建国するのにソ連がどれだけの資金、軍事援助をしたか、忘れてほしくなかっただろう。ところが、その恩義を毛沢東は完全に裏切り、独自の道を歩もうとしていた。一方、毛沢東の方では、ソ連からの軍事援助は、絶対に必要なものであり、大躍進運動をしてまで、食料を輸出し、その先進技術に代金を支払い、軍拡への道へと進んだ。毛沢東としては、ソ連と互角の関係を求めた。そこに、さらにイデオロギーの対立が絡んで、独自路線を走ろうとする中国とソ連は、険悪な関係になり、その後、近年にいたるまで、二国間の関係をほとんど修復することがなかったのは、歴史の皮肉といってよい。
こう歴史を再度見てくると、日本は日中戦争の泥沼で敗れたというより、それ以前のソ連の謀略戦で既に完敗していたことになる。それでは、ソ連の謀略や中国後方での陽動作戦を当時の関東軍は察知できなかったのだろうか。ある程度の情報は得ていたかもしれないが、日本自身が満州国の利権にあまりにも深く関与すぎていて、関東軍にとって退くという選択は、当時は考えられなかった。こうして、すべては、ソ連の書いた筋書き通りに、日本は敗戦へと追い込まれていった。
前段で、麻雀を使って勢力図を述べてみた。張作霖爆破事件は、浅田次郎の「マンチュリアン・レポート」で詳細に、爆破にいたるまでの経過と、主人公の陸軍志津中佐が天皇と思われる人物に、事件に関して調査レポートを提出する形で、小説が描かれている。蛇足になるかもしれないが、もし、張作霖爆破事件がソ連の謀略だったらどうだろう。さきほどの、勢力図を考えると、日本が張作霖とタッグを組むことは、かなり日本にとって有力な立場になりえたはず。逆に、日本と組むかも知れない張作霖を殺すことは、日本の戦力を削ぎ、弱める意味では、ソ連にとって絶好の機会だったのではなかろうか。事実、「ソ連特務機関犯行説」や、スターリンの命令にもとづいてロシアのスパイが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も根強く残っている。あるいは、ソ連が謀略をしかけ、張作霖がロシアと手を結ぶ危険性があるという情報を意図的に流し、河本大佐がその謀略にまんまとのってしまい、爆破に手をかしてしまったという筋書きだと、まさに新たな小説の筋書きになりうる。いずれにしても、日本は、ソ連の謀略戦争にすでに敗れていたと考えるべきだろう。
それにしても、敗戦後、どれほどの多くの人が、満州という地が砂上の楼閣であったことに気がつき、日本が、無条件降伏する以前に、アメリカの要求を呑み、戦争を終結し、満州から撤退するべきだったのにと思ったことだろう。
これは個人的な意見だが、一旦、日中戦争という泥沼に足を踏み入れてしまってからは、そこから抜け出すことは、資料を読んで行くと、ほとんど無理なことだっただろうと推測できる。なぜなら、日露戦争という多大な犠牲を経て、やっと手にした満州の租借権であった。それをむざむざ棄ててしまうことは、当時の国内世論も中国進出企業、既にそこに住んでいる移民でさえも許せることでは、なかったことだろう。
それは、ちょうど麻雀のような賭け事にはまりこんでしまったギャンブル依存症の人間によく似ている。いったん賭け事にのめりこんでしまうと、周囲のことは、ほとんど良く見えない。思うのは、どうやったら、負けて失った分をとりもどせるのかと考える。と言って、運よく負けた分と取り戻せたとして、賭け事を止めただろうか。いいや、図に乗ってさらに傲慢になり、さらに投資した以上の金を求め、賭け続けただろう。こう思うと、日本の宿命は、賭け事にのめり込んだ瞬間に、絶望へと進むべきベクトルが内在していたように思う。
それと同じように、日露戦争で亡くなった兵士を無駄死にさせてはならない。ソ連の南下政策をなんとしても止めねばならない。満州に住む居留民はなんとしても保護しなければならない。満州の発展に投資してきた企業の権益はなんとしても守らねばならない。こういった状況を考えると、関東軍の一時撤退など、東條英機にとって、ほとんど不可能なことに思える。
せめて、賭け事という依存症から抜け出すには、こんなことではいけないと判断する醒めた理性や大局観を持つ人物の出現が望まれたが、軍事政権の言論・出版の弾圧で、そういった人物の出現さえも封じてしまったため、軍事政権に群がったイエスマンだけの集団になってしまったのが、最終的に敗戦という悲劇を生んだことになったようだ。そう考えると、既得権益を持つ軍人や多大な投資を行った産業界とのつながりの中で、満州国自体が破滅への道を選択するしか方法がなかったことになる。
いま思えば、眼先の権利や利害に汲々とするよりは、大局観ももって情勢を見るべきだったのでは、と過去の歴史に好きな意見を述べてしまいがちだが、賭け事依存症のように満州という既得権益に酔ってしまった人達、軍部の人達は、あの頃、そういった正論を、聞く耳を果たしてもっていただろうか疑問だ。
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