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2012年9月27日 (木)

墓石無用論

年を経るとともに、ある言葉の意味がふっと理解できるようになる時があるようだ。

松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文も、よく教科書に載っていて暗記させられたものだが、意味を本当に理解するまでは、この歳になるまでわからなかった。

 

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」はもともと李白の詩である「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なり」を意識して造られたという。当然のことながら、芭蕉は約2400キロも旅をしたわけだから、生来の旅人であることは間違いない。しかし、この「月日は百代の過客にして~」にはどんな深い意味があるのだろうか。現代語訳すれば、「月日は永遠の旅人」という風に訳するのだろうが、それでは、わかりにくい。

 

そこで、自分の年なりに、もっとくだいて、意訳して自分なりに展開してみた。

「月日はあまりにも早く過ぎてゆき、生きていることそれ自体が旅にも思える。人生の途上で出会った人達も、出会いがあり、やがて別れていく。一緒に暮らした女性も、いつか別れがやってきた。友人だと思っていた人からも訃報が届くようになった。一緒に仕事をした仲間も、やがて遠縁になり、まるで通りすがりの人達のように過ぎ去って行く。一番長い期間一緒に過ごした家族でさえ、やがて子どもたちと別れて暮らさなければならない。

年を取るとともに、知人の数も少なくなり、一日、人と話す機会も減って行く。どんな幸福そうに見える家族であっても、時の流れには逆らえないものだ。残るのは楽しかった過去の思い出だけのようだ。身の回りの片づけをして、死への旅立ちの準備を始める。次の旅には、いったいどんな人生が待ち受けているのだろう。」

 

このような展開のしかたでは、あまりに意訳しすぎて、情緒がなくなってしまうだろうか。しかし、芭蕉が伝えようとした旅の無常感、仏教的な愛別離苦は表しているのではないだろうか。芭蕉の旅のお供には弟子がいたので、本当の意味ではそれほど孤独ではなかったかもしれない。それにしても、旅から旅を続けている間に、芭蕉と出会った人々はどんな交流があったのだろうか。会えば、別れが始まると考えると、人と人をつなぎとめるものは何なのだろう。キリストは愛と説き、仏教では慈愛、慈悲、縁という言葉で表している。私たちが、生きている上で、人と人を結びつけている確かな絆があると思うのは、単なる幻想なのかもしれない。

 

友達だと信じていたのに、金銭トラブルで友が離れていく。この人こそはと思って結婚したのに、やがて一緒に暮らしていても他人となりうる。愛情だけでは、いつか二人の間にすきま風が吹いて長期間お互いをつなぎとめることなど、できそうもない。セックスだけでは、男と女をむすぶ絆にしては細すぎる。会社や組織のためと、誠心誠意働いても、やがて仕事の事情や定年で、職場を離れてゆかざるを得ない。酒や遊びで知り合った仲間は、体力や気力の衰えとともに、仲間意識が薄れていく。

 

こういった世の無常を考えると、最後に残るのは親族と家族だという中国人的な老荘思想に帰結するのだろうか。中国の歴史をひも解くと、中国人同士がお互いに、最初は信義や徳がある人だと信じても、権力を持つと変わり、裏切られ、謀られるようなことが数多くでてくる。結局、人を信じるなら、家族や親族だけが中国人にとって、最後の砦となりうるし、裏切る確率は小さいとみなすようだ。

 

そろそろ、自分の人生の行く末を考える年頃になってきた。芭蕉が庵を引き払い、新しい旅立ちに備えようとしたように、そろそろ自分の行く末を見極めなければならないかもしれない。

 

妻が、死んだ後の墓はどうするのかという。

妻の実家は、多磨霊園に墓地を建てたので、義理の父母は、死後、そこに入りたいという。

妻の質問に「私は・・・・」と言葉を濁した。妻と同じ墓に入りたいかと聞かれると、どうでもよいように思う。東北の生地に祖先の墓があるようだが、そこに入りたいかというと、さほど執着はない。はっきり言って、死後の身体が医学に貢献できるなら、それでも、かまわないし、あとは無縁仏で処理されてもかまわないと答えたら、妻が嫌がるだろうか。どちらにしても、葬式や墓地について生前から希望を述べることはできるが、死後、その希望が残された家族によって、本当にかなえられるかどうかはわからないものだ。

 

日本人の多くが墓に執着する傾向性があるように思う。おそらく家組織の延長線上にあるためだろう。結婚が「~家」を継ぐものだとするなら、死ぬ時も「~家」の墓に縛られることになる。何十年も前に終わった戦争なのに、いまだ遺骨収集の旅があるという。まるで、遺骨に魂が宿っているかのようだ。いったい、どこにそんな教えがあるのだろうか?文化の異なる国の人からみると、骨にこだわりを持つのは、異質な文化におもえるらしい。

 

そもそも日本人は、海洋民族であり、農耕民族なのだから、墓よりは海や山に散骨するのが普通なのだが、現代では山への散骨は住民の反対運動もあり、昨今ではままならないと言う。そもそも古墳時代から前方後円墳などと称する墓が現れてわけだから、日本の墓地の起源は紀元前にさかのぼる。古いところでは、神武天皇のころから、墓の歴史が始まるのだろうか。天皇が墓を作るなら、当然、権力者の人達も墓をつくったことだろう。いまだに、神社として保存されているところは、歴史に名を残した人の墓が残っていることが多い。

 

そういった例外を除いて、古い時代を生きた人々の墓のほとんどは、現在では残っていない。庶民は死んだら、共同埋葬所や墓所に埋葬されてきた。埋葬された上に墓石が置かれるのは江戸時代からだという。そもそも、どんな立派な墓を作っても、代を重ねるにつれて、やがて無縁仏となり、やがて忘れ去られる運命なのである。その子孫も一からニ世代前くらいまでは、記憶に残るが、それより古くなるとやがて記憶も薄れ、忘れ去られていく。それでも、せっせと墓をたて、「~家」を守っていくのが慣習となっている。

 

アラビア語とその文化を学び始めたとき、驚いたのはアラビア文化には墓という明確な意識はないと聞いたことがある。亡くなったら、もちろん遺体を焼いたりなどはしない。そのまま砂漠にある共同埋葬所に埋める。せいぜい埋めた場所を示す、木切れ程度しか残さないという。イスラムの教えでは、墓石というのは、祈る対象となりかねない即物的なものなので、拝んではいけないし、当然、墓石は建ててはいけない。

 

司馬遼太郎は、墓についてどう言っているのか調べてみた。彼は墓を亡くなった方の一種の記念碑ととらえているようだ。

「私は墓に関心はないが、ごく平たく考えて、死者の事歴を語るひとがそこにいる場合、墓石は死者の人生の凝縮されたものと言えなくはない。もし、そう言えるとすれば、墓を文学として感ずる場合もありうるのかと思える。」

 

次の引用は多少墓を否定的にとらえていると見るべきだろう。三重大学医学部創立50周年記念講演では次のように言っている。

「(前略)やむなく患った片腕を切断したとします。そのおかげで命が助かって、麻酔から覚めた私がですよ、腕を返してくださいと言うでしょうか。その腕は不要になったのですから、私のものではありません。(中略)西洋の場合、道端に亡くなっている人がいたとして、その人の霊魂は天国に行った、あるいは地獄に行った。死体は単なる物質にすぎません。(中略)霊魂があって天国に行く。残された死体はイットです。欧米において臓器移植が進んだのは、この死生観が大きく影響しています。(中略)釈迦には墓はない。空にかえられたわけですから、墓は必要ない。(中略)その十大弟子にも一人として、お墓はありません。ところが、中国人にも、朝鮮人にも、日本人にもお墓はあります。」

 

それでは、死んだ人の魂はどこに行くのか、死んだ魂の安らぐ場所が必要ではないだろうかと思うのは生者の死者に対する傲慢な見方だろう。この点に関しても、司馬遼太郎は同じ講演で否定的な見解を示している。

「仏教にも霊魂はあるじゃないかと、みなさんは思うかもしれません。ないんです。仏教は霊魂を否定する、認めない宗教です。」

 

これには、私も同意見だ。霊魂などは、生者の幻想でしかありえない。そもそも生命というものは、生命を発揮できる細胞体の中でしか、その生命を輝かせることはできない。動物は動物の身体と脳で、昆虫は昆虫の身体と脳の機能で生命を輝かせることができるが、霊魂が存在するとしたら、即物的な身体がないのにどうして存在するのかという疑問がわいてくる。こういうと、そんなことはない、大日如来のように地上に降りて肉体化しなくても、法体として存在しえるのではないかと疑問を呈する人も出てくるかもしれない。

 

その可能性は理論的には否定しないが、法体は万物の根源と訳されることはあっても、個々の霊魂と一緒にするのは暴論だし、仮に法体が存在するとしても、肉体なしでどうやって世の中に影響を与えうるのかという疑問がわいてくる。なぜなら、釈迦でさえ、地上に応身の仏として出現したからこそ、仏教が広まったのである。しかし、肉体化していない法体だけの釈迦が、現世に仏教を広めたという話は聞かない。

 

こう考えると、どうしても死んだ後の肉体は即物的な物と見ざるを得ない。ここまで考えると、死後に誰々家の墓に入ることが重要だと考えるのは、やはり幻想にすぎないように思う。

 

昨今では樹林墓地に多数の応募があるという。そうあるべきだろう。死後も墓の維持管理のために、何年も寺や地所に子孫が払わなければならないほうが大きな負担だ。長年にわたって伝統として持ち続けてきた日本での「家」制度が墓地の分野でも崩壊しつつあるのだろうか。しかし、こちらのほうが、死を自然に帰すという点では、納得ができるあり方かもしれない。

 

こうして死後の事を考えること自体が、既に老人の考え方なのだろうか。人は死というゴールに向かっていて、死という運命だけは、絶対に取り消すことはできない。それなら、死んだらどうするかと考えるよりは、最後の死の瞬間まで、夢と希望をもって、ひたすら生き抜くことこそが最も必要なことかもしれない。サムエル・ウルマンの詩にあるように、臆病な若者であるよりは、青春まっただなかの、夢を持ち続ける老人でありたいものだ。

 

最後に、そのサムエル・ウルマンの詩の一部を引用しよう。

「青春とは 真の 青春とは、若き 肉体のなかに あるのではなく 若き 精神のなかにこそ ある <中略> 問題にすべきは つよい意思 ゆたかな想像力 もえあがる情熱 そういうものがあるか ないか <中略> 勇気と冒険心のなかにこそ 青春は ある 臆病な二十歳がいる 既にして 老人 勇気ある六十歳がいる 青春のまっただなか 歳を重ねただけで 人は老いない  夢を失ったとき はじめて老いる」

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