巌流島を訪れて
あれは、もう何十年前のことだったろうか。関門海峡を走っている船の上から、「あれが巌流島だよ」と言われて、巌流島の実在を初めて知ることになった。ただ、船の上からでは、単なる砂州の広がりと後ろに広がる松林しか見えなかった。それでも、想像をめぐらせると、その砂浜のうえに立つ小次郎と、波打ち際に立つ武蔵の姿が想像できたものだ。
その頃は、巌流島への連絡ボートもなかったし、砂浜と松林が観光地化で様変わりするとは思ってもいなかった。現在では、関門汽船がサービスを提供して、誰でもが巌流島へ渡れるようになった。さて、窓口で、一日フリー切符を買い、何時出発かを聞くと、門司レトロ地区から直接巌流島までのボートがあるのだが、あいにく出発したばかりで、下関から迂回する便ならあるという。ボートに乗り込み、下関の唐戸桟橋まで、10分ほど、乗り続け、唐戸から、さらに10分ほどで巌流島についた。
驚いたことに、昔砂浜だったところは、フローティングピアと呼ばれる浮桟橋ができ、中型客船用だろうか突堤が伸びている。さらに砂浜だったところは被覆石で覆われ昔の面影すらない。
島の広さは、明治から大正にかけて埋め立てられたので、現在では103,000平方メートルもの広さがあるが、決闘当時は、その六分の一である、17,000平方メートルしかなかったそうだ。東京ドームの三分の一、あるいは大きな美術館ほどの広さでしかなかったようだ。
宮本武蔵は実在の人物ではあるが、佐々木小次郎の方は、諸説があり、特定されていないため、その実在すら疑われていたこともある。島に上陸すると、鳥居のような鉄製のゲート、「ようこそ巌流島へ」と記してある看板に出会う。案内標識には、島の大きさと坂本龍馬と妻のおりょうが巌流島にわたり、花火をあげたという話が書かれてある。年表を見ると、吉田松陰、坂本龍馬、斎藤茂吉など島に渡った人たちの名が記されている。
島はさほど大きくないため、ほぼ30分で島全体を歩き回れる。まずは、巌流島文学碑。
村上元三作の「佐々木小次郎」の中の一説が、刻まれている。
「白い雲のわいている空に、小次郎の面影が見える。この後も絶えず兎禰の眼に浮かんで消えることのないであろう小次郎の生きている面影があった」
ただ、イラストは、変色してあまりはっきりしない。その碑のそばに、「武蔵・小次郎決闘の地 慶長十七年四月十三日(1612年)」という木造の塔が建っている。当時の島の広さは6分の一しかなかったため、ここが決闘の地であるとは言えないはずだが、目印としては役に立っているかもしれない。それならすべて遊歩道にせずに、当時の砂浜の面影も、一部で良いので残してほしかった。
屏風岩のような長方形の岩に、「この島は二人降り立ち闘ひしむかしの男恋ほしかるかな」 という現代歌人協会会員の森重香代子の歌が刻まれている。
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0分も歩き続けると、小高い丘の上に、武蔵と小次郎の像が建っている。岩国市の彫刻家・村重勝久氏が作ったものだという。彫刻は、二人の気迫がみごとに刻み付けられている、みごとな作品だ。
像の下には、人工海浜がひろがり、そこには、武蔵が乗ってきたであろうと同じような構造の木造伝馬船が、朽ちていた。心憎い演出だ。
桟橋まで帰る途中で、佐々木巌流の碑がある。巌流島歴史絵巻によると、明治43年(1910)10月31日に島に建立されたと言われている。現在では、その頃と位置は異なっているにせよ、自然石なので、歴史の風味を感じさせる。
武蔵が櫂を削って木刀として、小次郎と闘ったについては、諸説あるとは思うが、私自身の推論を述べてみよう。闘う以前に、武蔵が約束の刻限に遅れ、鞘を海に捨てた小次郎に向かい、「小次郎敗れたり!」と叫ぶ場面があるが、そういった心理作戦は、あえてはぶき、長い刀と櫂の利点という側面からみてみたい。
まず、私たち素人というものは、剣の刃影の恐ろしさというものを案外知らない。仮に、凶人が長いカミソリを振り回して迫ってきたとしたら、私たちは通常の短いカミソリで防戦するとして、果たして無傷で防げるのだろうか。長い剣先が目の前に向かってくる脅威というのは、それに近いものだろう。
それだったら、剣道で行っているようにこちらも剣で立ち向かい、竹刀と竹刀をあわせるように、向かってくる刃にこちらの刃を合わせて、戦えば良いではないかと思うかもしれない。それは道理があるように思えるが、実用的ではない。居合道を経験した人なら、剣をあわせることの危険性を知っているとおもうが、剣の刃を合わせることには、かなりのリスクが伴う。
まず、鉄の刃と鉄の刃がぶつかり合うのである。どちらかの刃が折れたり、曲がったりする可能性は否定できない。刀が折れ、曲がった方は、武器が使えなくなると、防ぐこともかなわず、死を待つだけとなる。そういったリスクはできるだけ少なくしたい。 一度でも力まかせに刃合わせすれば、ほぼ間違いなく両方の剣は、刃こぼれする。刃合わせするたびに、刃こぼれするとなると、最後はノコギリ刃のようになりかねない。刀で人を斬るのではなく、ノコギリ刃で相手を切り刻むか、刀を槍として使うかという二者択一となる。
刀を槍のようにして、使うのも一理あるが、問題は、一撃で心臓を突けなかったらどうなるだろう。着いた瞬間に、筋肉は硬直し、突いた刀を抜くことが難しくなる。その間に、突かれた相手が、返し刀で、相撃ちをねらってきた場合、刃先から逃れることは、難しくなる。
ノコギリ刃にしても、槍のように使っても、修羅場となることは間違いない。やがては、どちらかの刀が折れるか、曲がって使い物にならなくなる可能性もある。仮に、両者とも試合後、生きていたとしても、両者ともあちこち傷だらけとなっていたことだろう。最後は、重い手傷を負った方が失血死で死ぬことになる。
次に、武道すべてとは言わないが、多くの武道では、「高い、長い」ことに利がある。たとえば、実力が五分に近い状態で、戦った場合、「長い」ほうが絶対的に有利に立つことが多い。ボクシングで、背が高く、腕のリーチが長い方が、有利となる。空手、柔道、相撲でも、やはり同じことが言えて、相手の身長が高く、リーチが長いとなると、それだけで格段に有利になる。腕のリーチが長いと、短い方はどうしても相手の懐に入って戦わなければ、相手にとどかない。しかし、相手の懐に入ろうとした瞬間、上から長いリーチの腕が伸びてきて、それがカウンターになって勝負が決まることが多い。
短いリーチの方は、相手の態勢をくずすための秘策をつくさないかぎり、正攻法では、勝ち目がない。相撲で使われる、猫だましのような奇手もあるが、奇襲攻撃みたいなもので、相手が研究し、予測していれば、効果はまったくなくなる。まして、小次郎は長身だったとされる。リーチが長くて長身であれば、懐に入り込むのは至難の業となる。
武蔵が、まず考え抜いたことは、長い刀がどういう弧を描いて、襲って来るかだろう。決闘が始まってから、剣を抜いたあとの行動である。上段に構えるか、下段から斜め横なぎにねらってくるか、はたまた、水平に横に払うか。
胴横からの攻撃は、あまり考えなくてもよいだろう。たとえ、横に払ったとしても、胴を斬ることは難しい。胴は斬って抜かなければ、ざっくりとは斬れない。長い刀で胴をぬくことは簡単ではない。とすれば、ねらってくるのは、肩から上となる。
長い刀を考慮すると、一度半身となり、一度上段に構えてから、状況に合わせ、自由に左右の袈裟斬り、はたまた胴切りへと転ずることも可能性がたかそうだ。というのは、下段や、初めから胴切りを目指すには、長刀は重く、スピードが遅くなる。
そう考えると、武蔵の考えたのは、日露戦争で秋山が考えたような、自分は無傷で、絶対に相手に勝てる戦略を立てなければならなかった。いわゆる、武蔵はほとんど手傷を負わず、小次郎にのみ致命傷を与えるものでなければならなかった。相手と同じ長刀を使って、リーチの差をなくするという手もあるが、長刀使いには、小次郎の方が有利だろう。そのために考え考え抜いた結論が、櫂を木刀とする究極の手段だった。
もし、武蔵が、その木刀で究極の一撃をはずしてしまえば、リーチの差で、小次郎に間違いなく体を真っ二つにされるだろう。そのためには、絶妙のタイミングで間合いに飛び込まなければならい。
武蔵が、頭脳をフルに回転してあみだした戦略が、櫂を使うことだった。剣と剣では、両者とも上段に構えるための剣を上にあげるスピードが同じになる。剣はかなりの重さがある。上段に速くあげるためには、相当の筋力が必要だ。
小次郎の場合は、武蔵の刀より長い分、いったん上段に構えてしまえば、振り下ろす速度は、格段に速く、リーチの差で武蔵の剣先が小次郎に届く前に、武蔵が切られてしまう。仮に、右からくる一の太刀を防いだとしても、すぐさま、左の返しが襲ってくるだろう。勝負は、小次郎が上段に構える前の段階だと、武蔵は考えた。
長い刀を上段に構えるためには、刀をつかんだ右手を支点として、左手で押しながら右に体を開かなければならない。普通の刀であれば、筋力さえあれば、右片手のみで支えて、両側から円を描くように上に持ってゆき、頭上で、両方の手で刀の柄を握ることも可能だが、長い刀では、不安定すぎる。
長い刀の場合、その重さゆえに、両手で柄をつかんだまま上段に構えなければならない。そのとき、左腕のかいながどうしても眼の前を横切る。その一瞬にすべてをかけたと考えるべきだろう。武蔵は、小次郎の視界が右手でさえぎられた瞬間、跳躍して間合いをつめ、上段に構えた櫂を振り下ろした。鉄の重い刀が右一旋回する速度より、鉄より軽い木製の櫂の方が、上段にたどりつくのに、スピードで勝り、小次郎は眉間をうちくだかれ、即死する。
試合で負けた小次郎だったが、その名を忍び、「船島(ふなしま)」と元来呼ばれていた島が、巌流島と呼ばれるようになった。さらに、対岸の下関側には、三菱造船所があるが、その南側には、小次郎の弟子たちが決闘の行方を見守っていたとして、弟子待町という名前があったと言われている。現在でも、彦島弟子侍東町という名が残っている。
巌流島を高いところから俯瞰したい方は、海峡メッセ下関・海峡ゆめタワーに上ると、全景が見えるそうだ。年表によると、昭和30年には、巌流島の住民がピーク時約30軒となったという。しかし、昭和48年には、島に残っていた最後の老人が島を去り、無人島となっている。漁業で生計を建てるにしても、おそらくは、水の確保をどうするかが最大の問題だったろう。当然のことながら、島には井戸がないため、雨水を天水として貯水するしか方法がなかったはずだ。住民が住んでいた18年にはどんな経緯、歴史があったのだろうか。
現在では、島で様々なイベントが開催されているようだ。海の新鮮な食材を提供している唐戸市場の近くでは、寸劇やマスコットキャラクターのイベントもあるという。韓国語や中国語が飛び交う、市場でうまい寿司やふく汁を食べたあとに、巌流島を除いてみてはいかがだろうか。
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