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2011年3月19日 (土)

日本から文化の発信を

 

前回何度か申し上げたが、再度英語を題材にして数の概念を取り上げてみたい。どうも我々東洋人にとって、英語の中でしばしばでてくる、この数の概念ほど複雑怪奇で理解しがたいものはない。西洋的な発想でいえば、数の概念とはすべからく説明されるもの常識だが、東洋人の発想の中には、この数の概念が含まれないことが多いのが理由だろうか。

 

 

 

よく中学校英語で習う英文で、I will go to a hospital. という簡単な文がある。この場合、病院は特定されていない。この文を聞いた人は、欧米人ならすぐに、この人が常に通っている病院ではなく、この街にある数ある病院の中のどれか一つの病院に行くのだろうと漠然と考える。それでは、I will go to the hospital.という文がでてきた場合、どう考えるだろう。定冠詞theは唯一で特別なものを表すためのものなので、きっと話し手は、theをつけた理由を説明してくれるだろうと説明を待つかもしれない。あるいは、いつも通っている病院を指しているのか、または、この人が通っていて、私も知っている病院だろうかという以心伝心的な想像する。 

 

 

 

中国語を勉強していると、中国人の数に関する概念は、不思議なほど日本人と同じだ。これが、欧米から来ている人には納得できない。たとえば、授業中に次のような文章が出てきた。

 

 

 

昨天我去学校跟老师开会了。(昨日私は先生と会合があって学校へいきました。)

 

 

 

この文が出てきたとき、日本人である私は、まったく疑問ももたず文の意味を受け入れてしまった。ところが授業中にアメリカ人とドイツ人から質問がでてきた。曰く、この文はおかしい。私が学校へ行ったのはわかる。しかし、この場合、会うべき先生は一人なのか、それとも二人以上の先生なのか?そもそも、この場合複数の先生と会合があるというような表現はないのか?授業中の中国人の先生はどうこの質問に答えるべきか、しばし言葉に窮し、結局、教師は明確な答えを示さずに、授業が進めた。

 

 

 

東洋的な発想で言えば、先生とミーティングを持つことが主眼で、一人であろうが、二人であろうが、それはあまり重要視していない。複数の先生と会うと言ってしまったら、むしろ、何故複数の先生となのかを説明する必要がでてきて、不自然だと思うのだが。いわゆる東洋的な志向で言えば、先生と会うということを主眼とすると、「先生に会う」ということでピントが合い、その他のことは枝葉末節としてぼかし、あいまいにしてしまう。全てに論理を求める西欧文化で育った人にとっては、その曖昧さが我慢ならない。

 

 

 

写真でいうと、望遠レンズを使い被写界深度を浅くすると、被写体にピントが合い、何を取りたいのかがはっきり示すことができる。したがって、他の部分はぼかして当然というのが東洋的発想。ところが、西欧的な発想では、広角レンズで被写界深度を深くして、被写体を集合写真のように撮り、背景も詳細もはっきり写さなければ、全体像が見えてこないし、写したい主題もはっきりしなのではと疑問を感ずるようだ。こう考えると、それは単に見方が違うだけと言えないこともない。

 

 

 

言語の分野だけかと思うと、こういった考え方は、映像文化でも同じようだ。わたしは、もともと映画を見るのが大好きだ。二流、三流問わず、映画を見るようにしている。

 

見るのは、もっぱらアメリカ映画だ。邦画が嫌いな訳ではない。むしろ、優れた邦画も見るようにしている。ただ、観賞に値する邦画の数がなんと少ないことか。

 

 

 

自分でも何故これほどまでにアメリカ映画が好きなのかというと、それは外国映画の方が、リアリズムがあるということにつきる。日本の映画は、「老い」や「病気」などの限られた主題をテーマにすれば、良い映画があるのだが、特にアクションや、恋愛、コメディ、ホームドラマのような娯楽作品が、どうもリアリズムに欠けている気がする。それはテレビドラマでも同じだ。たしかに演劇というものは、デフォルメは必要なことは確かだ。しかしながら、デフォルメの部分だけが突出しすぎ、細かい部分の描写がおろそかになり、説明描写が単調で説得力に欠け、興ざめしてしまう。というより、日本国内向けでは、それでいいのだろうが、国を超えた場合理解してもらえるかどうかおぼつかない。

 

 

 

文学は文字であるため、詳細に語る必要はない。外国文学であろうが日本文学であろうが、文字で表し想像で補うために、それほどの差異はない。確か司馬遼太郎が五〇パーセント書ききれば、最高の作品だと言ったことがある。それでは、あとの五〇パーセントはなんなのか。あとの五〇パーセントは読む方のイマジネーションで作られるそうだ。

 

 

 

ところが、映像文化は想像力を必要としない。制作した側の映像がそのまま観る側に伝わるのだ。そうすると、どうしても映像のテンポや詳細にわたるディテールが要求される。そうすると、何故そうなのかということを曖昧にする東洋文化は、他の外国の方に理解されにくいことが多い。これは、映像文化である以上、しかたがないことかもしれない。

 

 

 

このシーンでこういう設定の場合には、こうあるべきだという論理が、何故そうなのかという問いかけのもとで構成されていく。そういった論理の積み重ねが日本映画の場合、甘い場合が多く、説得性に欠けてしまうようだ。もちろん、そういったリアリズムを追求する監督もいるし、国際性をもった監督もいる。ただ、数が少ない。

 

 

 

我が家には娘と私が大好きな音楽CDが一枚ある。Greg Irwinという人が歌う「Blue Eyes」というCDである。その中には「砂浜」「月の砂漠」など日本の抒情歌が英語で歌われている。以前、テレビのインタビューでこのGreg Irwinという人が日本の歌を英語に翻訳するときの苦労を語っていた。歌詞をそのまま英語翻訳しただけでは、歌の意味が伝わらず、ながれるような旋律も伝わらないため、意味やイメージを適格に伝える言葉を探すのに苦労したという。それにしても、英語の歌と日本の旋律が融合した傑作と言っていい。

 

 

 

この作業をどうして日本人がやれなかったのだろう。日本の素晴らしい文化を伝える担い手が育っていなかったのだろうか。あるいは、私たちの心のどこかに自分たちの文化に対して二流とみなすような劣等感みたいなものが存在していたのだろうか。いずれにしても、自分の文化を私たち日本人が発信できず、外国の方に気づかせてもらったという事実は消えない。

 

 

 

映像文化もやはりそうだった。いまや、ハリウッドやアメリカ映画は題材が多様化してきて、リメイクが流行している。いわゆる日本で制作した映画を、ハリウッドバージョンに変えて世界に発信する。「七人の侍」「シャルウィダンス」「南極物語」「鉄腕アトム」など数限りない。反面、映画の発想やアイデアは日本発なのに、なぜアメリカの映画会社でリメイクされないと、世界に発信されないのだろうかと疑問がわく。

 

 

 

アメリカ映画産業に自分の文化を通訳してもらわなくても、日本から世界に直接発信できるような国際性のある映画、音楽は作れないのだろうか?双方の視点をもった映像監督がいつか世に現れた時、日本映画の本当の復興があり、日本の独自の音楽文化の復興があるのではないか。

 

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