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2011年11月 7日 (月)

歴史の繰り返しだった西南戦争

 

日本の歴史を振り返ると、支配階級は貴族→武士→軍→民主国家へと変遷してきた。平安時代は貴族が支配し、源氏の頃より武士が出現し、武力による統制が続く。武士イコール軍事政権(ミリタリー政府)とすると、日本は鎌倉時代から軍事政権がはじまり、昭和に入り、終戦になって民主化されるまで、延々と続いてきたと見るべきだろう。

 

 

 

そういった軍事政権への流れを止めようとした人がいた。再度、文人である天皇が政権をとることを夢見た後醍醐天皇は、その武士政権から貴族政権への奪回をはかり、敵対する武士同志を戦わせ、漁夫の利を求めようとしたが、クーデターは二度も失敗し、軍事政権への歴史の流れに逆らうことはできなかった。その後は、戦国時代となり、徳川の武士社会が長年続いた。明治になり、近代化された軍が急成長し、敗戦になるまで、軍部が解体されることはなかったことになる。

 

 

 

こう考えると、日本は武力のみで支配するミリタリー国家であることがなんと長年続いたことだろうか。中国は儒教の国と儒教以外の国を有徳国家と徳のない国家に分類してきたが、その概念をあてはめると、日本は徳のない国家に分類されても仕方がないほど、武力で長年支配してきた国家だったかもしれない。こういった歴史を踏まえると、現代ですら、近隣や他国のミリタリー国家を他人事として非難することなど、とてもできそうもない。

 

 

 

徳川幕府にいたるまで、天皇家は何度か政権回復を図るが、なにしろ天皇独自の軍隊があるわけではなく、武力対武力では再び、クーデターを起こせるほどの力はなかった。結局、情報操作と戦略や画策で敵対する勢力の共倒れをねらうか、常に勝者や強者側につき、官位を与えることでしか生き延びることができなかった。ところが、明治維新以後、薩長の内紛を統一するものが必要となり、天皇がいきなり時代のスポットライトを浴びたことになる。しかも、薩長の軍隊のより集めとはいえ、天皇直属の軍隊を持つにいたった。そこに、さらに神国である宗教的色彩を加えることで、天皇を神がかりの存在に祭り上げた。実務は政治家から軍部へと移行して、軍部がリーダーシップをとり巨大なミリタリー帝国に移行していったというのが近代までの推移だろう。

 

 

 

こうして歴史を振り返ってみると、まさに歴史は繰り返すようだ。鎌倉時代から七百年経って明治期の天皇制の復権は、まさに貴族政治が武士政権へ復讐を果たしたようにも思えないこともないが、結果は、単なる傀儡で、ミリタリー政府が復活しただけだった。

 

 

 

さて、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」という、西郷隆盛の生涯を描いた小説を読んだ方も多いだろう。この歴史小説を読んで大東亜戦争での縮図が、既に西南戦争にあったことを気がつかれたかたも多いのではなかろうか。あるいは、司馬遼太郎自身が、意識してこの事実を小説のなかでクローズアップしたのかもしれない。戦争中の愚かな所業を、実は、西郷軍がすでに西南戦争で行っていて、薩軍が敗戦にいたるまでの行程を、大東亜戦争で軍部はその歴史を忠実になぞっただけに過ぎなかったのである。

 

 

 

この本の中の言葉を下記に引用させてもらおう。

 

 

 

(─ 薩軍には「勢い」ということ以外に、戦略らしい思想はなかった。(中略)

 

「戦争とは勢いであり、戦略などは要らない」という教訓が勝利者の西郷や桐野以下に浸みこんでしまい、さらに桐野以下にすれば、時勢が西郷を生んだにもかかわらず、西郷個人が逆につねに時勢であるという錯覚をもつにいたった。ひとたび西郷が動けば「時勢」が西郷によって雲のごとく風のごとく作りだされてゆくという倒錯―あるいは宗教的感情―というべきもので、かれらがこの想念にとらわれていた証拠は、たとえば桐野自身の「われわれは天によって、あるいは時によって動くのではなく、人(西郷)によって動く」という意味の言葉によってもわかるだけでなく、実際にも桐野がまったく戦略らしい戦略を持たず、持とうともしなかったことでも十分察しがつく。」―翔ぶが如くからー)

 

 

 

長い引用となったが、大東亜戦争では、この「西郷」の太文字がそのまま「東条」に変えると、戦争の性質がほとんど同じであることがよくわかる。太田尚樹著の「東条英機」には、似たような表現がでてくる。

 

(戦場での東条英機の指揮ぶりは、「急襲に追撃の一点張り」だったといわれるように、戦場の指揮官としても、極めて積極的な役割を演じている。ときには幸運によって何回か全滅の危機を救ったこともあったから、後日東条は、「幸運も旺盛な攻撃精神から生まれてくるものだ」と言っている。―「東条英機」からー)

 

 

 

実は西郷自身も戦争を欲していなかったし、昭和天皇もまさに回避しようと努力していた。しかし、結局西郷は薩軍に祭上げられ、東条も軍部からの突き上げから逃げ切ることはできなかった。その他にも類似点は数多くある。軍部が赤紙をもって新兵を集めたように、薩軍は士族を無理やり集合させ、そのまま家族のもとに返させず、随行させて士族隊を作り強制的に官軍と戦わせた。また、軍資金に窮迫していた薩軍は、「西郷札」という不換紙幣を発行しはじめる。これなど、アジアや満州で軍需品調達のために行った軍部とほぼ同一の手段だった。薩軍は銃弾が欠乏しはじめる。先込銃の銃弾として不適当な銅や鉄をつぶして前線におくるが、数量もわずかで、前線では結局白刃による斬り込みを主とせざるをえなかった。これなども、終戦近く、ありとあらゆる金属を溶かして銃弾や砲弾とし、最後は肉弾戦しか方法がなかったのに似ている。他にも、捕虜となる辱めを受けずといった戦時訓など、類似点は数多くあったが、詳しくは司馬遼太郎の本を読んで確かめてほしい。

 

 

 

西南戦争とは、経済政策も軍事戦略も一切もたない士族の一団が、藩の人々を巻き込んで、戦争に駆り立てたように思える。大東亜戦争では、西郷が天皇に、桐野以下のリーダーが東条率いる軍部に変わっただけである。そうして見ると、大東亜戦争では、西南戦争の官軍はアメリカにあたり、西南戦争でそうであったように、銃と実弾の物量作戦で、すでに官軍であるアメリカは勝っていたし、大久保政権が西南戦争のとき緻密な戦略をたてたとおり、アメリカ軍も緻密な戦略を建てていた。

 

 

 

軍部に、西南戦争の軍事戦略をシュミレーションし、敗戦を描いた人はいなかったのだろうか。もっとも、日露戦争以降は、近代兵器の開発スピードがすさまじく速く、戦略が追いつけなかったのかもしれないし、また歴史を軽んずる人が多かったのかもしれない。

 

 

 

不思議なことだが、日露戦争までは日本の軍隊はまったく逆の立場にいる。西南戦争での官軍のように常に緻密な戦略をたて、常に勝率をあげるための戦をしている。ところが、国際連盟を脱退し、奢った日本になってからは、精神論が一人歩きし薩軍と同じ思想に180度転換している。だから、司馬遼太郎が下記に言うように、日露戦争と太平洋戦争とでは、戦争の趣がかなり異なるように思える。下記に、司馬遼太郎の本を引用してみよう。

 

 

 

(大東亜戦争は世界史最大の怪事件であろう。常識で考えても敗北とわかっているこの戦さを、なぜ陸軍軍閥はおこしたか。それは、未開、盲信、土臭のつよいこの宗教的攘夷思想が、維新の指導的志士にはねのけられたため、昭和になって無知な軍人の頭脳のなかで息をふきかえし、それがおどろくべきことに「革命思想」の皮をかぶって軍部をうごかし、ついに数百万の国民を死に追いやった。昭和の政治史は、幕末史よりもはるかに愚劣で、蒙昧であったといえる。)            「竜馬がゆく」ー司馬遼太郎からー

 

 

 

上記にあるように、攘夷思想が革命思想の皮をかぶって戦争へと駆り立てたと考えると、やはり、ここでも歴史は繰り返したことになる。太平洋戦争という無謀な賭けに走った分岐点はどこだったのだろうか。日露戦争までは、戦争を分析し、勝率を60%くらいまであげて、初めて戦争で戦ったという記述をみつけた。まるで、徳川家康が秀吉亡き後、大阪冬、夏の陣で戦ったような堅実な戦さだ。ところが、旅順砲台攻略は一日で終わるとタカをくくっていたが、155日も要し、しかも六万人という兵隊が犠牲になった。その犠牲に対する代償を求める声が大きくなるにつれて、歯車が少しずつ狂って言ったようだ。

 

 

 

勝ったはずの日露戦争で賠償金がとれないことに腹をたてた民衆が、日比谷焼き討ち事件までに発展し、ナショナリズムの高まりとともに、戦争へと駆り立てていく。あの奈落へのベクトルの分岐点は、国際連盟脱退だったのか、日清戦争だったのだろうか?いや、軍備が増強され、とめどない軍拡競争のなかでは、いづれにしても軍部が傲慢になり、官僚化していくことを止めようがなかったかもしれない。太平洋戦争に突入してからは、驕った軍部は、一転して、ほとんど無謀にも近い戦いを兵士に強いている。

 

 

 

もし、当時の軍部が精細に西南戦争を研究しつくしていたとしたら、薩軍を日本に置き換えて戦略を練ることなど考えられて当然のことだったはず。しかし、西南戦争は後日への教訓とならず、西郷が最後は城山に帰って戦死したように、日本も無条件降伏まで追いつめられて敗戦となった。

 

 

 

「子曰、以不教民戰、是謂棄之」これは孔子の教えだ。意味は、民衆に戦う目的も教えず、国民を戦争に駆り立てているのは、国民を使い捨てにしているようなものだ。まさに、敗戦にいたるまで、最後の一兵まで抵抗させようとしたのは、国民を使い捨てにしたも同然だった。多くの日本兵がなんのための戦いなのか、知らずにただ天皇のためという虚偽の大義のために死んでいったのは、無念でならない。

 

 

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とはプロシアの鉄血宰相とよばれたビスマルクの言葉だったが、戦争に突き進んだ日本は、愚者のみがいて、歴史に学ぼうとする賢者はいなかったことになる。

 

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コメント

昨晩は酒菜にて、突然の参加をお許しください。

興味深く、ブログを拝見させて頂いています。

小生は、これからも、郷土の情報発信に、心構えるつもりです。

はじめまして(^O^)少々歴史に興味のある関西のオヤジです 西南戦ネタでお聞きしたい事が… 薩軍決起時の編成で 参謀が淵辺高照氏←この方はWikiにもありますが 副官の 仁礼景通氏については 私全く判らないのです ドラマでも殆ど触れられてないような(*_*) 海軍の高官に薩摩出の同姓の方がおられますが 血縁なのでしょうか?もしご存じならおねがいします いきなりの質問失礼いたします

こんばんわ 仁礼氏の件で再びメールくださってありがとうございます いただいたメール別途保存しようとして 誤って削除してしまいまして(┳◇┳)お手数でなければ再送していただけたら幸いです すいません(>_<)

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