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2010年8月24日 (火)

服従の心理

 

大学生の頃、スタンレーミルグラム著の「服従の心理」という本を読んだことがある。心理実験を通して、誰でもがドイツのアイヒマンになり、虐殺の書類に認可を与えていく可能性を示唆したものであった。今でも、その本の内容をさほど忘れていないということは、かなりインパクトのある書物だったと思う。

 

 

 

詳細の内容までは、覚えていないが、被験者は、隣室にいる人に質問をし、答えを間違えると、別室からの指示により、隣室のその人に電気ショックをあたえさせる。いわゆる、被験者に電気ショックを与えるように指示するのは、権威であり、被験者は一般庶民、電気ショックを与えられる人は虐殺される側の人という構図だ。電気ショックは段階があり、段階ごと電気の量が増え、最大は命にもかかわることになる。実は、電気ショックを受ける人は、演じているだけで、実際は電気が流れていないのだが、それでも、労働者階級の人は電気ショックを最大レベルまで与え、被験者が権威に服従したという。

 

 

 

いわゆるアイヒマンがユダヤ人虐殺を、机上で単なる職務を果たしていたという平凡な行為を実証したことになるのである。したがい、ユダヤ人虐殺の関係者の被告からは「私たちは単に義務を果たしていただけだ」という答弁がでてくることになる。

 

 

 

この実験の恐ろしさは、距離が増すと罪悪感は減り、さらに服従度が増すという点である。権威者からナイフを持って目の前の人を殺しなさいといえば、躊躇する人も、爆撃機に乗り、空の上から、爆弾を落としなさいと命令されれば、躊躇なく落とすだろう。なぜなら、ナイフで人を刺せば、返り血を浴び、人を刺したという実感はあるが、空の上からの爆弾では、地上で花火のような爆裂音や閃光のみで、爆弾で焼け死んでいく人たちの苦悩は、実感できにくいからである。現在でも、道路そばに爆弾をしかけ、無線で爆発させ殺すことができ、さらに無人機によって、コントロールする人間があたかもコンピューターゲームのように人を殺すことができる。殺す者と殺される者との距離は、広がりつつあり、それによって、良心の呵責も少なくなりがちだ。

 

 

 

何を言いたいのかというと、いつの時代でも、私たちは戦争の愚を繰り返す恐れがあるのだということを言いたい。上記の実験で、権威から電気ショックを与えなさいという命令に対し、「電気ショックを受けている人にこれ以上苦痛を与えることができないので、実験を止めたい」と言いきれる人が何人いるだろうか?また、そう言わせる精神的なバックボーンはなんなのだろうか?実験では、牧師は権威に従うより、神に従うことで拒絶している。法律家や医師のような心に関連する職業の人は、工学や物理学のような技術的職業より拒絶する可能性が高かったという結果がでている。「そんなことは、社会的に許されないだろう」と考えるのは、誤り。なぜなら、「社会的契約原則は不服従としては行動の決定因としては弱い」と結論づけているからだ。

 

あなたがその実験に参加していたとしたら、やはり、被験者に最大の電気ショックを与えて殺さなかったといえるだろうか。イエズス会の修道士たちがやったように、教会の権威に服従して、拷問台のネジを締め上げなかったといえるだろうか? 戦争を止めさせ、同胞の死を最小にするという大義のために新型爆弾を落とせと言われて、良心にしたがい、広島や長崎に爆弾を落とすことを拒絶できただろうか?自由主義を守るため、ベトナムでベトコンを殺せと言われ拒絶できただろうか?

 

 

 

自分は拒絶できると答えた人は、次に考えて欲しいことは、そう言える理由を考えてほしい。なぜそう言えるのか?そこまで言える理由は、何なのか? 自分の心の中に信じきれる規範なり、宗教を持っている人なら、拒絶できる可能性が高い。

 

 

 

いま、私たちは資本主義社会の中にいる。こういった社会では、往々にして会社が権威となる危険がある。汚染米を流通させた。産地を偽装した。あなたがその会社で働いていて、そういった事件に関与した場合、やはり「私たちは単に会社で仕事をし、義務を果たしていただけだ」と答えますか?自分はそう答える人かもしれないと考えているあなた、時代が違えば、いつでもアイヒマンになれますよ。

 

 

 

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