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2010年6月 6日 (日)

カメラと英語の冠詞

 

一時期、カメラに凝ったことがある。ニコンの一眼レフを持ちながら、花や木を撮り歩いた。目的は、花や木の名前を覚えるためだったが、花というのは、なかなか難しく、マクロレンズを使わないと、撮れないような小さな花もあったし、順光で標準レンズでは、花の美しさは写真上では現れないことも多々あった。 また、群生していて、一部の花だけでは、広大な花畑を撮れず、しかも、ただ広角レンズを使っただけでは、群生している模様はわかっても、個々の花がはっきり写らない。それは、集合写真を撮っていながら、個々の生徒の顔がぼやけて、ピントがあっていなければ困るのに似ている。

 

 

 

独学で取り続けていたので、うまく撮れることもあれば、まったくのピンボケになった写真も多かった。どうも、肉眼ではなく、カメラの眼になって、被写体を見なければ、良い写真は撮れないことを学んだ。

 

 

 

外国人が話す日本語を聞いていると、ときどき「てにをは」がおかしいと思うことがある。どこがといわれると、すぐには思いつかないが、何か変だなと感じる程度なのだ。言いたいことは、伝わっているので、まったく問題はないのだが。

 

 

 

それは、英語を学ぶ日本人もやはり、同じで、冠詞の使い方がなかなか身につかないものだ。学校で英語を学び始めたころのことを覚えているだろうか? This is a pen. から I am a boy. などなど。学ぶにつれて、種類全体を表す表現として、名詞を複数形にする(Whales) a + 単数形(A whale) The + 単数形(The whale) を習い、普通は種類全体を表すときは複数形を用い、a + 単数形、 The + 単数形で鯨全体を表すと形式ばった表現になると習った。

 

 

 

ところが、「a +名詞」や「the+名詞」というものは、文章のなかで様々な使い方をされ、杓子定規で理解できるものではないことが、学ぶにつれてわかってくる。これは、どうも文章の中身と関連して、決まってくることがわかってくるのだ。

 

 

 

それは、ちょうどカメラの望遠レンズに似ている。まずは、あなたは木の写真を撮ろうとカメラを構える。森の中なので、木は一本だけではない。いっぱい立っている木のうちの、これはという木を見つけ、アングルを決め、構図を決め、ピントをしぼる。しかし、カメラのレンズには一本の木しか写っていない。これが「a + tree」なのだ。カメラの外には、まだたくさんの木が立っているが、カメラがとらえているのは、その数あるなかの特別な一本の木、それが「a」、「a tree」の意味なのだ。

 

 

 

それでは、カメラを標準レンズに交換したとする。レンズを向けると、一本の木だけではなく、3本から4本もの木がレンズの向こうに立っている。たくさん木が写っているので、なんらその木でなければならない必然性もない、漠然とした木が複数の「trees」にあたる。

 

森の中で、屋久島杉のように太く、100年以上は経たと思われるヒノキにであった。その木を撮ろうと決める。まわりには、似た古木は一本も立っていない。レンズをかまえると、レンズには、その木しか写っていない。これが「the」、「the tree」なのだ。唯一で、世界にはその木しかないと思える状態だ。

 

 

 

次に、あなたは動物写真家になった。顧客からの依頼でライオンの写真をとろうと思う。普通は名詞の複数形で表すという。ライオンを何10頭と集団で動いている写真を撮るにはどうすればよいのだろう。アフリカのジャングルに行き、アカシアの木の頂上に立って、ライオン(=Lions)が群れるのを待つべきだろうか?

 

 

 

いや、いや、動物園に行き、ライオンの檻から一頭のライオンを撮るだけで、ライオンの全体を表したことになるのだ。人は一頭で、ライオンそのものをイメージする。もし、吼えている写真が撮れれば、ライオンが生き生きした姿を撮れたことになる。何匹もライオンが写真に写っていては、人目も引かないし、ポスターとして使いにくい。

 

 

 

考えてみよう。たとえば、ライオンの絵を描こうとする。君はライオンを一匹だけ描くだろうか?普通は一匹だろう。何匹もライオンを描くとなると煩わしい。一匹でライオンを代表させたほうが良い。これが、「a lion」、「the lion」で種類全体を表すことになる。

 

写真では、よく「まわりがうるさい」という表現にであったことがある。望遠レンズで、被写界深度を浅くして、周りをボカし、被写体のみにピントをあわせて、立体感をだす。ようするに、まわりをボカし、被写体を浮かび上がらせると、その姿は、種類全体を表すことになる。いわゆる、「a lion」、「the lion」となり、目立つ被写体である。

 

しかし、ピントが周辺まであってしまうと、被写体がまわりに溶け込んでしまい、被写体が目立たない。これが、lions という複数の世界だ。

 

 

 

こう考えると、ライオンがたくさんいる構図を考えると、複数のlionsで良いし、一匹一匹の個性は埋没してしまうにしても、その種類を表すことにかけては、充分間に合うことになる。しかし、a lion や the lion だと、それを選んだ理由を説明しなければならない。他のライオンではなく、被写体を選んだ理由。そのライオンだけが特別な理由。

 

さもなければ、ライオンが眼の前にいて、あなたも私も知っているそのライオンになってしまう。

 

 

 

そうすると、a lion having a short tail か、the lion I have met first time in the park という文章が続くことになる。さきほどの I have a pen. という文章から、発想を変えると、ペンは何本か持っているのだが、そのなかの一本にカメラの焦点をあてた、一本 a pen ということになる。逆に、the pen は the pen I bought in Kyoto というように、自分が買った唯一の特別なペンということになり、似たようなペンは周りの視界から消える。I am a boy. はさらに面白く、私という人間が、たくさんいる少年の中に溶け込んで、集合写真の一部になっていることを想像できるだろうか。

 

英語で挫折する理由のほとんどは、こういった状況によって変化する言葉についていけないことがほとんどではなかろうか? 英語はロジックを大切にする言語ではあるが、歴史的にさまざまな言語を取り入れたために、1+1=2とならないところがたくさんあり、そういった発想を学ぶことなしには、いつまでも理解から遠くなる気がする。しかし、英語を学び始める頃から、そのような発想を教えてくるような教育システムが、ほとんどないことは不幸なことだ。

 

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