革命の二面性
童門冬二の「吉田松陰」という本の中に、「長州藩は、中国共産党である」という故大宅壮一氏の「炎は流れる」からの引用を見つけた。尊王攘夷の思想を一貫して貫き、途中で一度も変節や転向をしたことがないからだという。私はまだ「炎は流れる」を読んでいないのだが、その独創的な歴史観には驚くばかりだ。そうすると、戊辰戦争も、中国共産党が行った長征にあたるのように思えてくる。
以前のブログで、中国の歴史は日本の歴史と類似点が多いことを述べさしていただいた。そういう観点からいうと、近代においては、日本の歴史が中国の歴史を先んじていたことは確かだし、日本の過去の歴史のうえに、中国の歴史を置いてオーバーラップさせ、類似点を指摘、比較してみるのも一つの実験であり、一興かもしれない。
たとえば、幕末の導火線となったのは、いわゆる、黒船来航だった。いわゆる、二百年以上も温室で育ってきた植物が、黒船という嵐のため、温室の一部がほころび、壊され、いきなり外界にさらされたのと同じである。もちろん、こういったほころびを修復しようと幕府はがんばるわけだが、有効な対策が打てないまま、植物は外界にさらされ続ける。
さらされた植物は、こりゃあ、暮らしにくい(貿易による物価高と封建主義復活論で)、もう一度温室に返してくれという運動をおこしたのが攘夷運動だった。その攘夷運動を続ける中で、植物自身も、温室(幕府)そのものが古く、老朽化し、修復だけでは、また台風(対外事件)が来た場合、持ちこたえることができないし、温室そのものが崩壊する危険性があることを知る。それなら、古い温室を壊してしまい、新しい耐久性のある温室に建て替えたほうがよいのではないか、ということになり、薩摩、長州から倒幕の火の手があがり、戊辰戦争へと発展、革命が成功し、薩摩、長州による明治政府という新しい政府(温室)ができたわけである。
中国ではどうだったろうか、中国人民も二百六十年以上も清朝という温室で育てられてきた。しかし、アヘン戦争以後、産業革命後、近代化した欧州諸国に利権をとられ、中国は外界の嵐にさらされ続け、中国国民の中から、攘夷運動に似た、性質はどちらかというと天草の乱に近いかもしれないが、太平天国の乱が起こり、そしてその後の義和団の乱につながり、外国列強を倒せという攘夷運動が活発になっていく。
ただ、フランスと中国、日本の革命の歴史に関しては、民衆レベルでは厳然とした格差がある。その格差とは国民の成熟度にあたるかもしれない。いわゆるキリスト教国家は、神の前の平等概念が民衆の心に根付いているため、比較的、民衆運動を起こしやすい。ところが、日本や中国のように二百年以上も、徳川幕府、清朝に支配されてくると、格差社会に慣れてしまい、平等思想が根底にないため、民衆運動にはつながらない。いわゆる孫文は、人民は議会政治を行うまで成熟していないから、民衆運動は無理だという愚民観を常にもっていた。
民衆運動が無理だということになると、他にどうやった革命を起こす方法があるだろうか。全体革命は無理でも、地方で散発的に起せば、革命が飛び火するかもしれない。一時的に強力な軍人集団に頼るか、屈辱的ではあるが他の国に支援を頼むしかなかった。ということで、孫文が最初にやったのは、地方からの革命の狼煙をあげようとし、広州蜂起、武昌蜂起などを企んだが、たびたび失敗し、最後は最大の軍閥である袁世凱と手を結んで辛亥革命を成功させた。その間も、日本から頼みの支援を求めたが得られず、最後はロシアから支援をうけ国共合作となったのは周知の事実である。
これは興味深いことだが、中国では、大久保利通や坂本竜馬が持っていたような理想と行動を起そうとした志士が三人ほどいる。まず大久保利通は廃藩置県、版籍奉還などを行い武士階級の一掃をはかる。いわゆる民主化への基礎をつくったのである。中国での一人は宋教仁。辛亥革命によって清朝を倒したあと、孫文は南京臨時政府を樹立するが、そのリーダーシップは国民党の宋教仁によって握られていた。内閣制を主張して議会政治を建立しようとする宋教仁と、強い求心力を持つ軍事独裁権力が必要だと主張する孫文とは最後まで対立した。その宋教仁も、袁世凱の刺客によって暗殺される。二人目は陳炯明、彼もやはり、宋教仁のような民主化を進めようとしていた。ただ、孫文が中央から改革しようとしたのに対し、彼は、地方から選挙による、議会政治を進めようとし、最終的に孫文と敵対し、孫文を広東から追放する。その孫文は、坂本竜馬に似て、対立する二つのグループをまとめあげる。広東から終われた孫文は、なんとしてでも中央集権国家を早急に作り上げる必要があった。国民党と共産党は水と油にも近い内部反発があった。しかし、国を守るためにはそんなことを言っている暇はない。孫文はコミルテンと共に国民党と共産党を結びつける国共合作を謀り、対日戦争のための、伏線をはることに成功したのである。その点では、坂本竜馬が天敵に近い関係にあった、薩摩と長州をなんとか結びつけ、薩長連合を作ったのに似た行動に似ている。その頃、坂本竜馬も、倒幕のための反政府グループづくりを急いでいる事情があった。
しかしながら、歴史の視点から革命を見ていくと、いったいこの革命エネルギーは、革命が終わった後で、エネルギーのはけ口はどこへ向かうのかが問題となる。もともと革命を起すということは、対立概念を民衆の心に根付かせ、鮮明にさせ、それを悪と決め付け、その悪の根源となる敵を退治すれば、すべてが解決するような幻想を抱かせることが、何よりも重要だ。その革命の熱病にかからせることが、その革命を成功させることができるかどうかの成否にかかると言ってよい。それは、フランス革命でも、民衆と王政、貴族との対立で、王政、貴族を悪として、革命が扇動され、王と貴族さえ倒せば貧富が解消されるように、民衆は錯覚させられ、武器を持ってたちあがり王政を倒すのである。やがて、フランス革命後、内部対立し、ジャコバン派が恐怖政治を行い、反対派を粛清していったことは有名だ。
日本では、戊辰戦争によって幕府は倒れる。しかし、西郷隆盛は、革命エネルギーは導火線の中でくすぶり続けていることを熟知していた。この革命エネルギーをどこかへ持っていって拡散しなければ、やがては新しい国の内部に敵を見つけることを知っていたのである。あの当時、木戸や大久保たちは、そのことに気がついていたが、新しい国づくりに没頭し、そのために熟慮する時間はなかった。西郷隆盛だけが熟慮し、ロシアの南下政策を防ぐためにロシアという新しい敵を外にもとめ、征韓論を述べたのである。こういったように革命エネルギーというものは、いったん火がつけば、導火線の中をくすぶるように、いつ発火し、他の爆発物に火をつけるかわからず、始末にこまるものなのである。
革命の大きな流れを見ると、次のような過程を経ていることがわかる
<新しい思想の普及→階級闘争・戦争→政権交代→内部対立→粛清>
上記のフランス革命でいうと、ルソーの啓蒙思想、貴族・王政と民衆との階級闘争、王政の崩壊から共和制の設立、そして、ジャコバンによるは恐怖政治となる。
日本でも、この流れは変わらなかった。まず、吉田松陰が孟子の教えを説き、革命思想の源流となり、さらに水戸学が攘夷思想へ影響を与え、武士と下級武士、奇兵隊にみられる庶民と武士との階級闘争となり、戊辰戦争で徳川幕府は崩壊、新しい明治政府の組織内では長州と薩摩の内部対立となった。分離していった薩摩藩一派は、西南戦争で負け、粛清された。
それでは中国ではどうなるだろう。孫文の三民主義が思想の源流、封建主義と民衆の階級闘争が起こり、辛亥革命でとうとう清朝は崩壊する。南京臨時政府が樹立するも、内部対立が激化し、粛清後国民党政府樹立となる。ここまでは、他国と同じだが、中国の場合は、二重性を抱えて、さらに複雑化した。それは、もうひとつの革命の構図が、時間差はあっても平行に進んでいたからである。マルクス・レーニン主義が思想、国共合作のなかでの階級闘争と国民党との戦争、戦争によって国民党は負け、中華人民共和国の設立する、それから毛沢東独裁による粛清が始まり、文化大革命までつながっていく。
私たちは、「革命」という言葉にバラ色のイメージを抱くことが多い。いわゆる、革命に酔い、酔いしれるのである。まるで、革命が成功し、終わったあとで、理想の社会が実現できるかのような錯角を持つものだ。虐げられた者が、唯一表舞台にたてるチャンスであるかのように錯覚する。歴史的に見ると、暴力革命の果てにあるものは暴力でしかない事実に唖然とさせられることが多い。さきほどの構図でいえば、暴力で勝ち得た革命のエネルギーは、やがて内部暴力へと向かう可能性が高いと言える。
外に敵を求めているものが、外に敵がいなくなった瞬間から、外に敵が存在しないなら、内側に敵を見つけ、作りだそうとするのに似ている。それは、まるで、家族のためと、拳を振り上げ、死に物狂いで戦った結果、勝ってしまうと戦う相手がいなくなり、やり場のなくなった拳が、ふつふつとした怒りとともに、今度は家庭内暴力になることに似ているかもしれない。
庶民にとっては、革命後は、以前より苦しくなることが常だ。共産党は土地法大綱を発して、一切の地主の土地を没収し、小作人に分け与え農民の支持を得た。しかし、大躍進政策のもと、今度は、国家が小作人から土地をとりあげ、人民公社の所有物としてしまった。家畜や農機具までとりあげ、四千万人もの農民が飢餓やその他の理由で死んだ。日本でも、徳川時代、農民は税金を米で納税していたが、明治政府になったとたん、現金で税金を納めなければならず、現金を持たない農家にとって大変な苦難を強いて、貧農出身の兵士の反乱によって格差を無くした理想国家が築けるかもしれないと、5・15事件につながっていく。封建主義のなかで虐げられた民衆が、革命によってさらに虐げられた現実である。
なんのための革命だったのかと問い直すと、革命自体が無意味に思えて、思わず老荘思想に傾きたくなる。しかし、老荘思想では現実を変える思想にはなりにくい。やはり、無暴力の革命を目指さない限り、暴力の連鎖はとまらないように思えてくる。そのためには、やはり民衆革命しかなく、総体革命以外にはありえない。そこに、マハトマ・ガンディー「非暴力、不服従」の思想の偉大さがみえてくる。
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