男の論理、女の言い分
女房とは年の差が十五歳ある。結婚したころ、知り合いの国土交通省の役人から「あんた、それは犯罪だよ。」と言われた。別に非難めいてきこえなかったから、からかい半分のつもりでいったのだろう。しかし、犯罪人扱いはひどい。 確かに、十五歳ちがうと世代はまったく異なるようだ。普通に考えても、彼女がこの世に生まれた時には、私はすでに十五歳になっている勘定だ。歌謡曲を例にとると、私は舟木、三田、西郷の御三家やグループサウンズが全盛の頃に青春期を過ごした気がするが、彼女が知っているのはピンクレディーくらいだろう。それだけ、年齢差があると、夫婦間の会話なんてなりたたないはずだと思うのだが、不思議となりたっているのは、彼女が年齢の割には懐古主義に近いものがあるからかもしれない。よせやい、懐古主義のために俺と所帯を持ったのかと、文句の一つも言いたくなるが、それはそれで同棲機関も含めると14年以上も一緒に暮らしてきたことになるから、単なる懐古主義でつき合っているわけではないだろう。 よくもまあ、夫婦関係がこんなに長い間、持ったものだと言うしかない。子はかすがいというが、やはり子供の散在も大きかったかもしれない。二人だけだと、もうお互いに話すことがなくなっていたかもしれない。なぜなら、こう言えばああ言うだろうという、あ・うんの呼吸が身に着いてしまい、お互いのリアクションが読めてしまうからだ。 お互いの性格は、まったく似通ったところはない。私は不機嫌になることはあっても、怒ることなどめったにない。(たまにあるか?)東北人気質の忍耐力がある。妻はいたって神経質だ。仕事で嫌なことがあると、うつうつしたものを持って家に帰ることがある。感情の起伏も激しい、怒ってとげとげしくなり、家庭内を暗欝にさせたかと思うと、突然に機嫌が直って、娘や私に、あら、あんたたちどうしてそう不機嫌なのと聞いてくる。自分が不機嫌にさせた帳本人だと言う自覚はまったくない。 一番の違いは論理性の違いかもしれない。娘に宿題を教えていると、確かに国立大出の彼女の方が算数や数学に関しては優れている。数学の嫌いだった私は、特に応用問題、幾何学や図形が不得意だった。 ところが、教え方は私の方がうまい。娘が何につまずいているのかが、不思議とよくわかる。彼女の教え方は、まったく異なる。最初に、「なんでこんな問題がわからないの」と詰問調から始まるために、とげとげしく、まるで怒っているようなのだ。これでは、娘が質問しようとする気力も失せる気持ちもわかる。 そういう彼女だが苦手なものもある。現実への応用が苦手なことだ。お前、頭は良いんだから、もっとその頭の良さを社会や日常に応用できないのと聞くのだが、その応用という意味がわからないようなのだ。男の論理としては、物事の本質を見極めようとすれば、簡単だ。「なぜ」「なぜ」を繰り返していけばよい。その繰り返しで、本質か本質に近いところまでたどりつくことができ、応用できるはずだ。 例に取ってみよう。 「だめじゃないの、お医者さんからもたら薬はちゃんと飲まなければ」 「飲んだよ。一日飲んで良くなったから、飲まなくなっただけだ」と私。 「良くなっても、数日は飲み続けるべきなのよ」 「なぜ」。 「だって、お医者さんが処方したものだから」 「だったら、お医者さんが一週間分処方したら、良くなっても一週間飲み続けるのかい。お医者さんが患者の体を治すわけではないよ。自分の体の中には治癒力があるのだから、薬はその手助けをするだけだよ。医者の言うことを、なんでも鵜呑みにするのはおかしいだろう」 「だって、数日は飲み続けないと・・・・・」 万事がこんな感じだ。 「今日、按摩に行ったら、気功とお経を習ったの」 「それって何の役に立つの」 「気功は身体の気の流れを良くするから、糖尿病も良くなるかもしれない」 「お経は?」 「心が沈むとき、唱えると心を活性化することができるかもしれないって」 「その人、中国人の按摩屋さんなんでしょ。君はどうして医者のいうことではなくて、按摩屋さんの言うことを信じるの?気功で糖尿病が治ったという事例があるの?何年やったら治るの?それよりも、テレビでやっていた医学情報の方を信じないの。歯槽膿漏によって悪玉菌が体内に悪影響を及ぼして、糖尿病薬の効果を減じているって聞いたよ。気功って、所詮、血流の流れを促進できるけど、悪玉菌をやっつけることはできないと思うよ。なぜなら、太極拳の名人と呼ばれていた人でさえ、傷が化膿して亡くなったという事例があるのだから。歯医者さんに行って、歯槽膿漏の治療をして悪玉菌を抑えるのが先でしょう」 「そうね。歯医者にはいくわよ。でも、お経もやってみるわ」 「お経は、釈迦が説いたことを記述したものがお経と言うのだが、君の言ったのは、お経ではないと思うよ。それは、日本では御詠歌かとかいうものじゃあないのか。いわゆる、お葬式や阿弥陀講で歌われたものの一種だろう。たぶん、歴史的には中国で太平の乱か白蓮教徒のときにも使われたと思う。で、どうしてこのお経が世界の三大宗教より優れていると思うんだね。宗教が正しいかどうかは、理、事、証から判断するんだが、その宗教にガイドブックにあたる経典はあるのか、その宗教によって改善したという事例はどれほどあるのか、その宗教が正しいという理論構築はあるのか」 これに対して妻は、一言。 「わかってないのね」 思わず、私は心の中で反論した。わかっていないのはそっちだろう。 家の奥さんは週末になるとせっせと正統派マッサージ店にいっているが、効き目はよくわからない。元気がでないといっては、教わった気功法をためしてみたり、阿弥陀経の念仏にも似た、大悲咒というCDを聞き、「千手千眼无碍大悲心院罗尼」という経を暗唱してみたりする。そばで聞いていると、ほぼ御詠歌に聞こえてきて、少し滅入ってきたものだが、飽きたのか最近はきかない。なにしろ、なんでも長続きしないのだ。 妻と十四年近くも一緒に暮らしてきたことになる。今でも、妻が何を考えているのかわからない。十余年も一緒にいて、私の思想を影響を受けた形跡はまったくない。人生の根本について、これまで何度も彼女と話をしてきた。枝葉末節よりなにより、大切なのは行き方であり、根本だと話してきたつもりだった。知識、理屈や論理ではまったく私のほうが深く、上だと思っていたし、彼女もそれなりに私が話したことを納得したと思っていたのだが、最近、自信がもてない。 まるで、十四年一緒に住んできた夫より、知り合って一年にも満たない三十代のマッサージ師の話す人生観や気功治療に影響を受けているようで、がっかりし気が滅入るときがある。マッサージ師の言ったとおり、気功の練習をしろと言えば、練習をし。念仏を唱えろと言えば念仏を唱える。内気功の講座があると言われれば、参加してみようかなという。 そんなときに、頼むから「何故?」「何故?」を繰り返して、論理的に考えてから結論をだせと反論するのだが、聞く耳をもとうとはしない。男と女の間の溝は広く、永遠に交差することはない。女性と男性がどこかでわかりあえる箇所はないのだろうか。それとも一生、平行線なのだろうか。
« 革命家と実務家 | トップページ | アヒンサー(不殺生)の教えから学ぶもの »
「随筆」カテゴリの記事
- なぜ、戦争が起きたのか?(2016.08.21)
- 関門トンネルを歩く(2016.07.20)
- 巌流島を訪れて(2016.07.20)
- 詩:村の子供は、今どこに(2016.07.20)
- 強制連行、徴用問題の歴史認識(2014.04.22)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント