満州大陸の阿片窟
麻薬(ここでは阿片)という言葉には、死と悦楽が表裏のように存在している。 正に人間として、決して食してはいけない禁断の実ともいえよう。 中国の歴史では、清朝衰退時期に始まった侵略戦争からアヘンが表舞台に現れる。イギリス東インド貿易会社がインドで栽培し精製したアヘンを中国に持ち込み、その貿易取引から膨大な利益をあげ、中国を衰退させていく。国民にアヘンがいかに悪影響を及ぼすかに気がついた清王朝が、そのアヘン輸入を力ずくで止めようとしたことから始まったのが、イギリスと清朝のアヘン戦争であった。そして、アヘン戦争から約90年後、日本の傀儡国家ともいうべき、満州国が成立する。 太平洋戦争の頃には、そのアヘンは中国でも、すでに栽培されていたようだ。その満州国のハルビンにそのアヘン窟はあった。 ・ 恩師である佐藤慎一郎先生の書かれた「大観園の解剖」は、その当時の経済、スラング、アヘンが中毒患者に及ぼす影響などをあますことなく記してある。恩師がなぜこのような調査をしたのか、興味があって、調べてみたが、どうも満鉄調査部が恩師に依頼したか、満州国総務庁が絡んだ可能性が強い。満鉄は新しい企業であったが、国策に沿った会社であった。アメリカのCIA情報部のように、中国に関しての情報を集め、提言・報告できるほどの頭脳集団だった。調査資金も豊富で、様々な研究や調査が行われたと言う。それほどの頭脳集団が集めた情報が、大本営で活用されたかというと、残念ながら、最大限活用された形跡はない。この「大観園の解剖」もどのような目的で調査されたのかはっきりしないが、当時は機密扱いとなっている。 阿片は、それでは、どこから来たのだろう。その頃、阿片が中国で流通するには三つのルートがあったと言う。一つは、華北のケシ栽培農家から満州国政府が買い上げ流通するルート。二つ目は、インドから輸入して、上海、香港ルートで流れた、三つ目は、日本軍が買い上げ、これを占領地で売ったルートらしい。満州国内では、もちろん華北のケシ栽培農家からのルートが多く流通していた。ケシ栽培農家から物々交換で仲買人が阿片を購入、関東軍が守り、満鉄で運び、岸信介が専売物品に指定、甘粕が販売ルートに乗せる。さらに里見甫が上海で売りさばくといった構図だったようだ。市場の需要によっては、国外のルートも活用したようだ。 なぜ、それほど阿片を流通させる必要があったのかと言われれば、やはり軍資金の調達であったろう。軍を保持することは、膨大な金がかかる。当然、その調達先として、阿片は軍にとって「金の卵」的な物資だったと言ってよい。いわゆる、阿片は関東軍、満州国の専売だった。国際条約では、阿片の売買は禁じられていて、取引はできないことになっていた。だから、表では麻薬を禁止とし、裏では麻薬の取引で莫大な収入をあげていたことになる。意外と知られていない満州国の暗部であった。 「大観園の解剖」に書かれてある資料は、散文で書かれてあるのではなく、本当の統計資料のように価格やら純度、またその「大観園」の区画になんという名前の誰がどういう生計をたてて住んでいたかまで書かれてあるがゆえに、現実的にせまってくるのだ。死んだ男の衣服までが、闇市で売られアヘンを買う代い金になっていく経緯は、背筋が寒く鬼気迫るものがあった。満州のハルビンにある傳家甸の大観園というところは、まさに「どん底」にうごめく人々の魔窟であり地獄でもあり、麻薬が効いている人にとっては桃源郷でもあったのだろう。あまりに詳細に書かれてあるため、1942年(昭和17年)頃のことなのに、その風景がまざまざと想像できるほどだ。 麻薬に関して書かれた書物は数多くあるので、その方面の知識を得ようと思えば、いくらでも知ることはできる。当時、人々がアヘンを始める動機はさまざまだった。肉体的苦痛を逃れるため、精神的苦痛かれ逃れるため、疲労回復のため、不眠症を治すため、悪戯から、つきあいで、売人や売春婦から勧められて、食事をしなくとも空腹を感じないので痩せられる、性的快感を得たいためと数限りない。70年以上も経つのに、現代の人たちが大麻や覚せい剤を始める動機と、あまり変わらないのではないか。動機はなんであれ、いったん入り込むと、阿片の世界からは抜け出せない泥沼が待っている。(ちなみに、刑事物の映画やドラマで、上物かどうか確かめるためアヘンの白い粉を舐めるシーンがあるが、あの動作でも、間違いなく常用患者になるので注意。) 1940年当時、アヘンの摂取方法は、飲む、喫煙、注射、嗅ぐ、膣や肛門の粘膜からの吸収などがあったようだが、一般的でもっとも効率的な方法は喫煙だったろう。阿片土を少しずつちぎってはねり、長いキセルの丸い口にすりこむ。アルコールランプの炎に近づけて、一口吸い込むと円い取りつけ口の所から紫色の煙がぱっと舞い上がる。しかし、麻薬を吸った最初から、素晴らしい桃源郷が待っているだろうと思っている人がいるとしたら、それは大間違いだ。むしろ、眩惑、嘔吐などを引き起こし、人によっては快感などまったくない。ところが、数度くりかえすと、ちょうど繭のような安心感につつまれる。眠っているようで、眠っていず、体がフワッと浮くような陶酔感であり、夢の中にいるような世界。自分自身の天下で、何でもできないものはないように思える。ヘロインを吸って2時間後には、射精寸前のとろけるような絶頂感に似たような快感が下腹部に持続する。セックスで長い時間持続する、最長で17時間という記録もある。以上が吸引して3ヶ月くらいまでの症状である。セックスのみならず、さかんにマスターベーションをしても快感が持続する。 個人的な体験だが、私がフィリピンに駐在していたころ、バーで酒を飲んでいたところ、近くにいた日本人らしい男が突然、股間に手をやりながら床に寝転びマスターベーションし始めびっくりしたことがある。まわりにいるフィリピン人たちは、好奇の目で見て苦笑いしていた。どうも、こういったケースは何度か以前にあったのうだろう。同じ、日本人として恥ずかしいと重いながら何故、このようなことをするのかわからなかった。しかし、今思えば、阿片か覚せい剤の影響ではなかったろうか、と今考えている。 6ヶ月を過ぎたころになると、症状に少しずつ変化が現れ始める。セックスの回数より、一回のセックスの持続が長くなる。現代だったら、バイアグラを服用しても同じような効果が望めるかもしれない。ただし、セックス終了後、長時間の熟睡が必要となり、さかんに喉が渇きはじめる。ただ、あまりにも精力の多くを消耗するために、セックスの最中に、腹上死の可能性が強くなる。 さて、アヘン使用から1年から2年後たった頃になると、一度のセックスの時間が、2時間から4時間と長時間なる。この頃から、アヘンを、継続使用していないと、次のような禁断表情が現れる。時間の経過で現れる禁断症状を記してみた。 <12時間後の禁断症状> 症状としては、まず不安感が増す。あくびを連発する。副作用として、性器は勃起作用をともない、3~4日で全精力を使いはたす。虚脱感のあとには、嘔吐・下痢を催し、全身的疼痛を覚える。やがて、震え、発汗が起こり、水っぽい分泌物となって目から涙、鼻汁がとまらず、まるで体中の穴から水分という水分が抜け出ているような感覚に陥る。中毒患者は、骨と肉の間に風が入ったような気がするとか、骨を鳥の羽根でこそぼられるような感じがして我慢できないという表現を用いる。やがて、不眠症がやってくる。寝返りを何度となく繰り返し、眠りたいのにまったく眠れない状態が続く。 <24時間後の禁断症状> その禁断症状がもっとひどくなる。瞳孔を大きく開き、毛は逆立ち、肌は冷たくなって、鳥肌が立つ。お腹の表面は、意識せずとも波うち。腹の中で胃や腸が収縮し、蛇でもいるように暴れ始める。腹痛で急に痛みが増し、しばしば血を含んだ嘔吐する。しょっちゅう便意をもよおし、水っぽい大便を何度も、大量に出す。 <36時間後の禁断症状> 寒くて耐えられなくなり、ありったけの毛布で身体をくるむ。身体に痙攣がはしり、無意識に足で蹴る。眠れず、こむらがえりもおき、絶えず寝返りをうち歩きまわり、心も身体も休まらない。身体中から水っぽい分泌物が流れつづけ、毛布、身体とも嘔吐物と糞尿にまみれる。食事も水も取らない状態が続き痩せていく。 この地獄のような禁断症状を、たった一度のアヘンの一服で、抜け出すことができるのだ。この禁断症状から脱するため、また、禁断症状にいたらないために、まず責任観念がなくなり、嘘をつくことが悪いと思えなくなる。かっぱらい、殺人を平気で犯して、一服の阿片を入手しようとする。また、三途の川に住む奪衣婆のように死んだ亡者から、衣服を剥ぎ、衣服と引き換えに、その日のアヘンを求める中毒患者の日常が本の中で描き出されているのである。 松本一男氏が書いた「張学良」という本には、阿片について、こういう記述がある。 「阿片は人間の嗜好物の中で王者である。経済的には高価であるばかりでなく、精神的にも最もぜいたくなものである。阿片吸引の後、かれらは完全な陶酔境に入って、熟睡する。熟睡の前には、弛緩しきった肉体は、すでに一種の麻痺状態にあるので、セックスの時にも、だらだらといつまでも持続する。阿片吸引者が、性的な面でも人一倍醍醐味を味わうと言われるのはこのためである。吸った後の完全な陶酔にくらべると、吸引の間は、精神的にはとぎすまされている時間である。ふだんは痴呆じみた者でも、この時には精神は集中され、理解力や想像力はとても豊かになる。阿片を吸いながら、政治家は難しい権謀術数を思い立ち、商人は、新しい金儲けを考える。」 さて、具体的な人物を例にとってみよう。張学良の父であった、張作霖も阿片を吸っていたようだが、列車爆破で暗殺された。息子の張学良も吸っていたのは間違いない。本によっては、張学良が自ら阿片を止めたことになっているが、それはありえなかろう。実際は、満州事変が始まった頃に、北京にあるロックフェラー財団病院で阿片中毒の治療を受けて、阿片とは縁を切ったようだ。それに比べて、ラスト・エンペラーであった溥儀の妻となった婉容は、麻薬のため悲劇的な末路をたどることになった。結婚当時は、満州で最も名高い裕福な娘と溥儀の結婚と言われたが、溥儀が両性愛者であり、日本軍部の傀儡となっていき、ますます、阿片にのめりこむようになる。さらに溥儀の運転手と不倫をし、子供を産むが、死産になると、ますます現実逃避するようになった。 ラスト・エンペラーには、婉容の禁断症状について下記のような記述がある。 「もはや阿片は手に入らなかった。婉容があまりひどく泣きわめくので、ほかの留置者たちは『そのやかましい女を殺せ』と叫び続けた、と浩は書いている。警察官、党幹部、一般住民が『まるで動物園にでも出かけるようなつもりで』やって来て、婉容の狂態を見物した。<中略>数日後、浩はコンクリートの独房の格子窓から、婉容の姿をちらっと覗き見ることができた。彼女は意識を失い、糞尿と嘔吐物にまみれて床に伸びていた。彼女に何か食べる物を持ってやってくれ、と浩は看守に頼んだ。『何だって?あの臭い部屋へ入れっていうのか?とんでもねえ』と看守は言った。」 引用箇所で、浩(ひろ)と書いてあるのは、溥儀の弟である溥傑の妻となった、嵯峨侯爵の娘のことである。 1946年六月、栄養不良と阿片の禁断症状の結果、婉容は四十歳で亡くなった。 それでは長期間、常用するとどうなるのだろうか?まず、決断力がにぶる。記憶力は低下し、もの忘れがひどくなる。食欲はなくなり、身体は弱り、声は涸れる。便秘がひどくなり、女性は月経がなくなり、不感症となる。男性は皮肉にも、性的不能になる。歯ぐきが腐っていき、肺炎、肝臓の病気が合併症となる。日常生活が営むことができなくなり、内にこもる心身症のようになる。明るい光が苦手となるが、聴力と視力は鋭敏になる。目覚めている間も幻覚になやまされ、寝ていても悪夢に悩まされる。ハルピンでは、年間二千人以上の麻薬中毒患者の遺体が、裸で路上に放置されたと言われる。着ていたものは、他の阿片患者の阿片代として、泥棒市場へ売られた。 佐藤先生は、自分が調査した満州国のアヘン窟を上記のような表現で講義中によく語ってくれたものだ。誰も知らなかった、満州国の闇の部分であった。学生に対する愛情が誰よりも深い先生だったので、学生にそうなってはいけないという意味で話してくれたのだろう。アヘンは身近では無いにしても、無気力、イデオロギーという麻薬は、現代でも日常にはびこっていることに警鐘を鳴らしたかったにちがいない。 この「大観園」のあった場所は傅家甸(フジャデイエン)と呼ばれていて、森村誠一の新版「悪魔の飽食」にも一部でてくる。関東軍の防疫給水部、悪名名高い第731部隊の機密保持のために、その実態を探ろうとする者を抹殺する場所の舞台だったという。また、山口淑子の自伝にも一部だけ、怖い場所という形で紹介されていたようだ。 また、アグネス・メドレー著の「中国の歌ごえ」という本にも、傅家甸がどんなところだったか一部説明がある。ただ、場所の漢字が伝家佃となっているが、発音が同じフジャデイエンなので同じ場所だろうと思われるので引用してみよう。 ―ハルビンの古い中国人街伝家佃で、山東省や湖北省から長城を越えて移住してきた乞食に百姓女たちが、街をあるいていく私のあとをゾロゾロついてきた。彼女たちは、きたない綿入れ上衣のお腹あたりのところに赤ん坊をくるみ、私のまえの凍てついた舗道に跪いて、さけぶのだった。-「お恵み下せえまし!おくさんがお金持になりますように!」 私がかまわず歩いて行くと、彼女たちは叫びながら、どこまでもついてきた。そのうちに、一団の子供たちが私の前に走り出て来て跪き、自分の頭を氷にうちつけてもの乞いをする。(中略)二列になった兵士のあいだには、毛むくじゃらな蒙古種の子馬にひかれた車がゴロゴロと音をたてていて、そのうえには二人の囚人が両手をうしろにしばられて座っていた。(中略)それぞれの背後にはせまい板がおいてあって、そのうえには囚人の名前と、彼らが処刑される罪名とが書いてあった。物見だかい男たちや男の子どもたちが、走りながらその後をつけていた。伝家佃のそとがわには、ぽかんと見とれている群衆のまえで大っぴらに囚人の首をはねるひろい空地があった。はねた首は、しばしば籠のなかにいれて、みんなの見せしめにつるしてあった。(中略)私の案内人の学生は、世なれた人間のような様子をして、そのひろい見聞の一端を洩らした。-「吉林へいきますとね。匪賊が首をはねられると、匪賊にころされたひとの親類縁者が寄ってきて匪賊の心臓をえぐりだし、それを食べるんですよ」 佐藤先生の書かれた「大観園」と、こういった資料を読んでゆくと、その当時のハルビンが想像できるようだ。今、中国のハルビンのアヘン窟があった場所に、昔の面影はなくなったと聞いている。しかし、アヘンが主流でなくなったにしても、日本では、若者に大麻汚染が広がっていると聞く。どんな時代でも、人間の心の闇の部分は、60年前と変わらず、あり続け、麻薬、薬物汚染は変わらず存在し続けるのだろうか。
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コメント
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佐藤先生の関連稿、あまりにも懐かしく、貴殿の紅心が読者の的を射抜きます。
小生の拙いブログ「まほろばの泉」でご紹介させていただきます。
今年の墓参に報告させていただきます
投稿: 寳田時雄 | 2019年5月 7日 (火) 14時57分