異国での借りぐらし
「借りぐらしのアリエッティ」というスタジオジブリ制作のアニメ映画を見た人は多いだろう。原作は「床下の小人たち」で、14歳の少女アリエッティとその家族が、人間に見つからないように、必要な物をこっそり借りてきて、古い屋敷の床下に住むという話だった。異国に住むということは、小人の少女アリエッティとその家族の姿に似ているかもしれない。 北京という街で、こっそり暮らす日本人たち。土地も住んでいる建物も、契約期間だけでの住居で、日本の親会社から転任命令がでれば、契約が切れれば出ていき、引っ越すしかない。しかし、生活するということは、日用品が増えていく。しかも、その日用品をすべて日本に持ち帰れるわけではない。金を払って品物を購入こそしているが、あくまで借りぐらしの生活なのだ。 私は、以前フィリピンに住んでいたことがある。1983年頃のことだった。前任者のあとを継ぎ、フィリピン事務所の駐在員ということで、マニラ市内に住んでいた。私が勤めていた貿易会社は、以前、日本の企業と手を組み、合併企業を立ち上げたらしいが、失敗し、秘書が一人、そして運転手、私を含めてたったの三人だけの事務所だけが残っていた。仕事は主に、機械部品の輸入にかかわる取引先との商談、信用状の有効期限の延長、新規取引先の開拓、マニラにくる製造業の幹部の接待など。 当然のことながら、ワーキングビザを取ることができるような状況ではなかった。しかたなく、観光ビザで入国し、旅行代理店を通じてビザの延長を重ねた。ビザの延長には但し書きが付いていた。ビザは延長ができるが、働いている場合は、延長は無効となると。 住んでいるところは、6階だてのアパートでマニラ中心街に近かった。ガードマンも常駐していた。ハウスキーピングが朝やってきて、事務所兼住まいの清掃を始める。その日も日曜日の朝のことだった。突然、ドアをノックする音がしたと思うと、三人の男が入国管理官だと名乗り、掃除中で開いていたドアから、部屋の中に入り込んできた。 近くのテレックスの紙や事務所の書類をすべて押収し、パスポートを見せるように要求。パスポートを見せると、取り上げられ、そのまま入国管理事務所へ連行された。 取り調べ室で、あなたは、不法入国者である。なぜなら、ここにあなたが働いていたという証拠がある。押収したテレックスの紙を見せながら、あなたのビザは延長されたが、働いていたということで、ビザは無効となり、このままではあなたの名前はブラックリストに載り、日本へ強制送還されるだろうと説明された。 ここまでくると、妙に腹がすわってくる。「そうか、わかった。こちらの方はかまわない。強制送還するなら、強制送還してもいい。もう日本に帰ろうと思っていたところなので。ブラックリストの件も載ってもかまわない。」 担当者はどうも意表をつかれたようだ。これだけ脅かせば、おそれいると思ったに違いない。期待に裏切られたような表情が顔にでた。これ以上話しても、進展がないと思ったのか、アパートへ帰ってもよいということになった。もちろん、パスポートも押収書類も帰ってこず、とりあげられたままである。 その間、従業員から、同じようなケースで刑務所に収監された日本人を知っていると噂されたが、こちらは、どうにでもなれという気分だった。本社のほうから、アパートのオーナーの方に話があったようで、オーナーは弁護士をたてると言いだした。数日後、弁護士から10数万円で解決するとの話があり、全額を支払ったところ弁護士から押収したパスポートと書類を手渡され、「このまま、ここに住んでいても大丈夫、入国管理官の人たちは二度とあなたに近づきませんよ」果たして、管理官と弁護士の間でどんな話し合いがあったかは、うかがい知れなかった。 取引先の華僑からは、「なぜ、ドアを開けたのか。彼らは捜査令状なんてもっているはずはない。ドアを開ける前に誰なのか確認するべきだ。入国管理官だといったら、令状をもっているかどうか聞かなくちゃ。」と警告された。たまたま、ハウスクリーニングの最中だったので、防ぎきれなかったのは、こちらの落ち度でもあるが、今思えば、アパートのガードマンかハウスクリーニングが一部、共謀していたのではと疑えば、疑えなくもない。 その事件から数カ月も経って、突然、起こったのがベニグノ・アキノ氏の暗殺事件だった。当時のマルコス政権にとって最大の政敵であったベニグノ・アキノ氏は三年あまりのアメリカでの亡命生活のあと、マニラ国際空港に到着し、飛行機から降ろされタラップの下で射殺された。 当時、日本人会にも入っていなかった私は、情報網をもっていなかった。そのためか、日本人の間で、さまざまな憶測や噂がとびかっていた。「日本人は全員、国外退去を求められている。」、「日本政府は飛行機をチャーターし、マニラに送り込んで在住の日本人を日本に非難させるらしい」、「市中の両替所は、兵士がはりついてペソからドルに両替をさせないようにしているようだ」。 果たして、どの情報が真実なのか、まったくわからない混とんとした状態だった。本社のほうも私が危険だと察し、経済的な混乱で、貿易が滞るのを見越して、12月には事務所を一時閉鎖し、帰国するように命令がでた。 個人的には、さほど身の危険は感じてなかったし、いずれは鎮静化するにちがいないと楽観視していた私に、帰国命令は降ってわいた災難だった。手持ちのペソを取引先にお願いして、米ドルに換えてもらい、雇っていた運転手と秘書には、退職金と数カ月分の給料を支払い。従業員の前借り分は、自分の金から出していたが、取り返すのはあきらめた。 いずれ落ち着いたら、またフィリピンに戻ってこられるにちがいないと思い、銀行の預金も少し残し、個人の荷物と会社の車も一部取引先に預かってもらった。働いていた従業員には、再度入国できたら、すぐ連絡をとり、働いてもらうと約束した。 しかし、それから後、フィリピンに戻る機会はおとずれず、事務所を閉鎖されたままで、国内販売店へ左遷された。今でも、フィリピン事務所をたたんだのが良かったかどうかは定かではない。確かに、赤字経営だったので、その見方をすれば、本社の判断は間違っていなかっただろう。 実は、こういった外国に滞在して、ビザに関わる危険性は、小規模の貿易関係の事業所ではよくあることだ。たとえば、中国でも、原則として生産活動を行わない駐在事務所は不可となっている。ようするに、生産に伴わない営業はするなということだろう。国によっては、特に仕事を求めて入国する外国人が多いので、外国人に対して、厳しい処置をする国もある。峰山正宏著の「地獄のドバイ」という本では、ドバイの肥料会社が突然閉鎖し、従業員である著者がしかたなく帰国を決断する。裁判所、警察、移民局と手続きを終えて、さあ帰国しようとしたのに、拘置所に4日間拘留され、結局、滞在法違反で送還される。彼はパスポート、労働ビザを持ち、居留許可証も持っていた。しかし、国によっては外国人による一般的な労働を嫌う傾向にある。そのため会社の閉鎖が、スポンサーシップが無効とみなされ、労働ビザも効力をなさないとみなされたのだろう。外国人一般労働者を嫌う理由は、自国の労働者の職を奪う結果となるからだろう。 今、北京にいる間に、妻はひたすら台所道具やら生活用品を買い込んでいる。帰国の時に、邪魔になるし、ゴミになりかねないから止せという私の言葉に耳をかさない。必要品は必要なのといって反論する。皿がなければ、コーヒー皿でも代用すればよいというのが私の持論だが、妻には聞いてもらえないらしい。 アリエッティは12歳の少年・翔に、その姿を見られてしまう。やがて、アリエッティの母親が家政婦につかまり、瓶にいれられるシーンでは、マニラでの取り調べ室と重なり、奇妙な符合を味わった。それらのさまざまな危機を乗り越え、アリエッティ親子は、またどこか新天地へ引っ越していく話だった。 我が家も、この国の政治情勢の変化、経済情勢の変化に振り回され、この国を出ていかなければならない時が数年後か、明日にでも来るかもしれない。それが異国に住むものの借りぐらしの宿命ともいえるかもしれない。
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