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2016年7月20日 (水)

関門トンネルを歩く

「関門トンネルを徒歩で渡ろう」というと、びっくりなさる方も多い。実は、無料で、九州から本州へ地下トンネルを歩いて渡ることができるのだ。残念ながら、自転車は無料とは、ならない。

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JRの門司港駅から、レトロ海峡プラザを抜けて、ノーフォーク広場を左に見て40分ほど歩くと、最初に見えてくるのは、関門橋の下にある和布刈神社。石灯籠がでむかえ、傍に海への階段とともに、ふるめかしいコンクリート製の鳥居が建っている。

関門トンネル人道入口と書いてある建物に入ると、海面下51メートルへとエレベーターで降りてゆく。距離は780m、徒歩15分で下関に到着する。

縦坑は全部で6つもある。関門海峡をはさんで両側に、自動車道路用の縦坑(換気Kimg0657_r


口)が二つ、水をくみ出す縦坑が二つ、さらに人道入口が二つ。

33年開通。一日4800トンもの海水が染み出てきて、排水ポンプで染み出た海水をくみ出しているという。トンネルは二重構造となっており、上段が自動車道、その下に人道がある。しかしながら、自動車の走る騒音はほとんど聞こえてこない。





Kimg0658_r_2薄青色のペンキで塗られた隧道をあるいていくと、途中で、床に白線が引いてあり、福岡県、山口県と書いてある。トンネル中に県境があることになる。

下関側でエレベーターに乗って地上にでると、そこが、みもすそ川公園となっており、関門航路にむけて、5〜6機の大砲が並んでいる。「みもすそ」の由来は後述する。

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18635月から6月にかけて、長州藩が関門海峡を通る外国船を五回にわたって砲撃した。長州砲(八十斤加農砲)と呼ばれるらしい。砲撃の白煙を模した水蒸気のようなものが、砲身から時折、出る。あの頃の砲は、爆裂弾ではなかったろう。投石器に火薬が追加したくらいと考えてよいかもしれない。おそらく、弾道計算のなかった時代では、落下地点は、およそでしか予測できず、非常に命中精度が悪かったのではなかろうか。それでも、当たれば船を沈められたかもしれず、やがて連合軍が報復にやってきて、完膚なきまでに砲台は壊されることになる。

さて、火の山展望台へと向かうが、あいにくとロープウェイは台風で故障したとのことで、運休となっていた。しかたなく、タクシーで火の山パークウエイから展望台へとたどりつく。

展望台からは、関門海峡が一望できる。15分ほど展望を堪能し、待たせてあったタクシーに乗り込み、下山する。

海峡沿いを歩いていく。この海峡は国際航路となっているため、大型船舶が頻繁に行き交う。さらに海流の問題もある。一日に四回も流れをかえて、さらに潮流の速度は約10ノットにもなる。両岸の幅は700メートルあまりしかない、しかも連絡船が頻繁に航路を縦に横切り、しかも釣り船も多く点在する。海峡の形はS字カーブとなっているため、カーブ先の船の動きが見えにくい。春と秋には、午前中5〜6時間ほど霧がかかることもあり、視界が悪くなることもある。もちろん、霧がかかれば通行はストップとなり、車の渋滞ならぬ船舶の渋滞となる。海上保安庁やポートラジオが様々な対策をとるが、海峡を通る船にとって操船はとてつもなく難しい。大型船の場合は、操船案内をするパイロットの出番である。パイロットは海峡の潮の流れや、交通状況を知り尽くし、的確な運航指示を乗船している船に与える。海峡の交通信号にあたる交通管制は、関門マーティスと呼ばれる海上保安庁が、信号やレーダー、VHFを使いながら行っているが、おそらく過密スケジュール時には、羽田空港なみの管制が要求されることもあるのではなかろうか。その過激さが予想できる。

 

乗って来た船は6000トン級の船だが、港に係留していても、潮流のせいだろう、ゆっくり揺れる。普通、港に停泊していて、暴風雨のとき以外は、静穏なところであれば船が揺れることはほとんどない。

 

下関がわでは、あまり釣り人は見ることがなかった。一方門司側では、船のまわりを散策していると、岸壁近辺には釣り人が多い。魚影が濃いからだろう。今は2月で寒い季節だからだろうか、小型発電機をまわしながら、灯を海面に照らしながら、イカ釣りしている人が目立った。

 

関門橋の下には、「安徳帝御入水之処」という石碑が建つ。二位尼の辞世が残されKimg0685_r


ている。

「今ぞ知り、みもすそ川の御なかれ 波の下にもみやこありしは(確認要)」。1185年、壇ノ浦合戦で敗れた平家は追い詰められ、二位の尼は、八歳の安徳天皇を抱いて入水したという。現代の親子心中が昔からあったのかと言うなかれ、敗れた平家側の運命が、どんなに苛酷なものか予測できたゆえの入水であったろう。その入水箇所が、海峡でもっとも幅の狭い関門橋付近だったことになる。みもすそ川公園の由来も、この辞世から来ているのだろう。

赤い鳥居と、子供の頃の浦島太郎の昔話の挿絵にでてくるような、白い門の上に赤い建物が見えてくる。安徳天皇を祭る神社として建てられた赤間神宮である。安徳天皇を祀ってある場所は菊の御門で閉められていて、入れないが、小泉八雲(ラフカディオハーン)の話にでてくる、耳なし抱一(確認)が琵琶をかなでている銅像がそばにあり、テープで平家盛衰をうたっている。確かに銅像に耳はついていない。平家を弔う塚もある。

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その隣が日清講和記念館。李鴻章、伊藤博文、陸奥宗光たちが座った椅子や調度品が残されている。

ここまでくると、唐戸市場も近い。唐戸市場では、ふぐの大きな置物が出迎えてくれる。中にはいると、ノドグロと呼ばれる魚の寿司、新鮮なたこ、ウニ、フグなどの寿司がところ狭しと並べられていて、客は用意されたプラスチック容器に好きな食材を乗せて、会計をすませ、立ち食いする。その新鮮な味のおいしいことといったら。瀬戸内海で採れた魚は、おいしいと聞いていたが、これほどとは思わなかった。やはり、来るなら冬なのだろう。新鮮さと、魚の身の引き締まりぐあいが、まったく異なる。夏場に瀬戸内に来て、魚がおいしいと思ったことはほとんどなかった。

 

なぜ、おいしいのかと、近辺を散策してみると、種明かしは、港のそばにある生けKimg0700_r


簀にあった。そこから必要な魚を水揚げして、調理するようだ。食材にもよるが、新鮮な寿司が一貫
100円から300円ほど。その他にも、サザエやアワビ、どんぶり、フグ雑炊、フグ汁などが売られている。外国からの観光客も多いのだろう、韓国語や中国語の客の話声が飛び交う。

帰りは、唐戸桟橋から、五分かかって、ボートに乗り、一路門司港にもどった。

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