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2011年6月10日 (金)

浦島太郎伝説異聞

 

童話は、さまざまな空想を提供してくれるので、比較的好きである。我が家の娘も順調に遺伝子を受け継いだのか、空想好きである。もっとも、小学生の低学年のころは「空想」と言わずに「よく授業中、妄想している」と言っていた。間違いを指摘してから「妄想」とは言わなくなったが、あれは、単なる本人の言い間違いだったと信じたい。

 

 

 

童話の中でも、浦島太郎の話は現実味がありすぎて、単なる童話とも思えない内容だ。なぜなら、浦島太郎の話から、亀の話と玉手箱を取り除くと、単なる漂流物語になるからである。浦島太郎の話の源は中国にある古い話にもある。

 

 

 

聊斎志異の中に浦島太郎に近い話を見つけた。「88.竜宮の恋―晩霞」が題名となっている。

 

「主人公は、竜船の船尾で軽業を行う少年だったが、水中に落ちて死んでしまう。本人は死んだことを知らずに、水中世界に入りこみ、竜王の前で、竜宮の女性と軽業を踊り、美女と恋に落ちる。美女は妊娠し、竜王の叱責を恐れて川に身を投げ、数日後に、主人公も身を投げると、現実世界に戻ることができた。母親は不思議に思い、墓をあばいてみると、骨が残っていたので、主人公である息子が死んだことを覚る。現実世界の王は、美女を主人公から取りあげようとする。しかし、二人とも幽鬼であると伝えると、王はあきらめた。」

 

 

 

もう一つ似たような伝説を紹介しよう。中国のチベットに住む少数民族ロッパ族に伝わる昔話である。こちらの方が、聊斎志異より日本にある浦島太郎伝説に近い。

 

「ある日、ローバ族の男が白湖と黒湖という二つの湖の畔で薪割りをしていた時のこと。白湖から白い牛、黒湖から黒い牛が急に現れ、2頭が争い始めた。黒い牛は白い牛を圧倒し、殺す勢いであった。これを憐れに思った男が黒い牛に矢を放つと、黒い牛は倒れ、湖は赤く染まっていった。その後、白湖から一人の娘が現れ、男に礼をするため、湖底にある城に招いた。男は言われた通り城に行き、主に会った。実は、主は先の白い牛で、娘の父親であった。男はしばらく手厚い歓待を受けたが、地上に帰ることを伝えると、主は、手土産に欲しい物を与えると言った。そこで、主に仕えていた老婆が、男に白い犬をもらうように勧め、男は言われた通り白い犬をもらって地上に戻った。すると突然、犬が白い皮を脱ぎ捨て、先ほどの主の娘に変身した。娘は男の生活を助け、やがて二人は結婚し、幸せにくらした。」

 

 

 

日本で古い文献は日本書紀だというが多少内容が異なる。しかし、一般的に流布している話は下記の内容だろう。

 

 

 

<漁師の浦島太郎がいじめられた亀を助ける。>

 

<亀が恩返しにやってきて、浦島太郎を竜宮城に連れていく>

 

<竜宮城でおもしろおかしく数年の月日を過ごす。>

 

<浦島は乙姫様に故郷にかえりたいと言う>

 

乙姫様は浦島に玉手箱を渡し、開けないように注意する。

 

<故郷に帰って見ると、村の様子はすっかり変わっていた。>

 

<知り合いも家族もとっくに亡くなっていたことに気がつく>

 

<絶望して玉手箱を開けると、煙がでてきて、白髪のお爺さんになってしまった。>

 

 

 

これが実際に会った話だと次のようなドキュメンタリーになるだろうか?

 

 

 

<浦島太郎が船で沖に出て、魚を釣っていると、板に捕まった漂流者を発見する。

 

家に連れ帰って介抱すると、漂流した青年は回復し、命を救ってくれたことを感謝する。

 

漂流した青年は、村の長の許しを得て、浦島のところに住み暮らす。木や材木をもらい、船を彫って丸木舟と帆を作り、食料を積みこむと、浦島に別れをつげ、自分の国に帰ってゆく。

 

 

 

数年後、浜の近くに大きな船が停船する。降りてきたのは漂流した青年で、命を救ってくれたお礼に、恩返しをしたいので、自分の国に来てほしいと懇願する。父親や母親、兄弟を残していくのは気がかりだったが、後日、自分の国が気にいったら、家族を迎えにきても良いと説得され、大きな船に乗って、漂流した青年の国に向けて出航する。

 

 

 

数日後、浦島は、乗った船で全く知らない国にたどりつく。船から降りると、その国の女王の息子の命を救ってくれた恩人だということで、宴会が催され、豪勢な食事と酒が用意された。国の賓客という扱いは続いた。好きな女性を妻としてめとってよく、働かなくても、食事がいつも用意され、淋しくなるとすぐに宴会が催され、音楽や舞踊、演劇が舞台で上演された。こうして数年たった。

 

 

 

日々の暮らしは楽しかったが、やがて浦島は重度のホームシックに陥った。言葉もうまく通じなく、文化もまったく違う環境では、当然の結果だった。浦島は自分の故郷へ帰ることを決意する。命を救ってあげた若者に相談すると、波や風の状態が良くないので、この季節は船がだせないと、引き止められる。

 

 

 

やがて、船が出せる季節となると、別れの時は来た。女王とその息子が泣き泣き別れを惜しむ。丸木船に積めるだけの貴重なお土産を積んで、小船は出港する。出航して一日目に、嵐の前触れとなる黒雲が突然、水平線から現れ、またたくまに小船は嵐の中で此の葉のように揺られ、難破する。船と土産をすべて失って、やっと小さな島に泳ぎついた。それでも、浦島は故郷をめざす気持ちに変わりはなかった。島民の助けを借りて、その島で働き、住み、何年かに一度に訪れる島から島への連絡船に同乗し、故郷に向かった。島から島へと渡り歩き、浦島がついに故郷の浜辺に着いたときは、すでに三十年以上も経っていた。出発したときは二十代の若者も、白髪となり、ボロボロの身なりとなって浜辺に着いた。浦島の家族や親類縁者を訪ね歩いても、すでに身寄りの人たちは死に絶え、浦島自身の伝説だけが残っていた。>

 

 

 

もしこういった話が実際にあったとすると、浦島が行った竜宮城は、島々を伝わって行ける島でなければならない。数十年島から島へ渡りながら、故郷に帰ることのできるところにあるとしたら、竜宮城はどこにあったのだろうか?日本近辺で島が点在しているとしたら、小笠原諸島や沖縄のある琉球列島がある。ところが、沖縄にも浦島太郎に似た伝説が伝わっている。ただ、沖縄の場合は、玉手箱ではなく紙包みとなっている。そう考えると、やはり、実際にあったことよりは、チベットの話が中国に伝わり、中国の話が沖縄、日本へと伝わって来たとみるべきだろうか。

 

 

 

仮に実際にあったとしても、沖縄よりもっと遠い台湾やフィリピン、インドネシアも考えられるかもしれない。いずれにしても、北の海ではなかろう。北方の海では、季節によっては、漂流して生き残れる確率は低すぎる。

 

 

 

遣唐使のことを調べていくと、唐の時代に日本から出航した遣唐使船は危険な旅であることが多かった。日本は新羅との国交が険悪になっていたため、九州から揚子江口に向かう南路が一般的だった。ただ、今の船と違って、風が航行を左右する。しかも、暴風雨に襲われたときは、どこに漂着するかわからない。風が南へ吹くと、運がよければ奄美列島か、琉球にたどりつけるが、さらに漂流するとフィリピンやマレーシアの可能性も高い。その場合は、原住民による、歓待どころではなく、襲われ殺されたようだった。大型の船でさえ、こうだったのだから、漁民が漕いでいた小船は押して知るべし。

 

 

 

浦島が竜宮城で過ごした時間は、ほんの数カ月だったとされている。心理学的に言えば、楽しい時間は、あっというまに過ぎ去り、苦しい時間は短時間でも永久に続くかと思えるほど長い。浦島が竜宮城で過ごした日々も、楽しかったのであっというまに過ぎてしまったのだろう。阿弥陀経に見られる西方浄土の原型とも思えないことはない。遠い山の向こうに、幸せの住むという世界を思い描くのは、シンドバットの冒険や、実在のヒーローである中国の大航海時代を築いた鄭和や黄金の国を夢見たコロンブスなど、古今東西どこでも普遍だ。

 

 

 

こういった話を口承で伝えていくと、時代とともに、話に尾ひれがつくのは当然のことだ。ある有名な落語家の方が、落語の本質について聞かれて、「単なるお爺さんが孫に話す昔話ですよ」と言ったのは、落語の本質をついた絶妙の答えだった。話し手によって落語が時代に合うように形を変え、内容をおもしろおかしく変えて行ったように、昔話も口承文学も、話し手がおもしろおかしく脚色してきたのだろう。それをかんがえると、内容がさまざまに変遷してきたことは全く不思議な事ではない。そう考えると、最後の玉手箱は作り話としては出色だ。そのアイデアに敬服したい。他の童話にも、現実に起きた話から発展したものもあるかもしれない。しかし、脚色が多すぎて、原型をとどめていない話し少なくないのではないか。

 

 

 

歴史も、正視眼で歴史を見るのは難しい。口承された伝説や文学でなくとも、事実を歪曲して伝え、あくまで征服者側の正当性の視点でしか書かれていないことが多い。

 

 

 

他のブログを見ていたら、NHKスペシャルで「玉砕 隠された真実」という番組があったという。残念ながら、この番組を見る機会はなかった。内容は、死を美化するために軍部が、守備隊が救援を求めず、アッツ島全員玉砕という美談をつくりあげた。ところが、実際の守備隊は自ら玉砕を選んだのではなく、本国に救援を求め続けていたという。為政者というものは、よく歴史を歪曲し、報道は権力者よりに偏向するものだ。

 

 

 

英語にはなりにくいが、「反省」という言葉を私たちはよく使う。歪曲した歴史観で反省しても、それは反省とはなりにくい。正しい歴史観をもち、同じ過ちを避けようとしてこそ、歴史が生きてくるように思う。歪曲した歴史観で反省しても、同じ過ちを犯すだけだろう。それでは歴史から何も学んでいないことになる。

 

 

 

外国に住んでいても、日本に関してのニュースや記事は、テレビやインターネットで入手可能だ。以前、他の国にも駐在していたが、今ほど情報がたやすく入手できる時代はない。だからといって、反面、自分が日本に帰った時、浦島にならないという保証はどこにもない。いままで働いてきた組織も、事業仕訳の波である事業から撤退したと聞いている。自分の帰るべき場所がなくなりつつあり、友人たちとも疎遠になってきている。日本に帰ったら、日本はまったく違う国になっていやしないだろうか?

 

 

 

人にもよるのかもしれないが、浦島太郎とちがって私自身は外国に住んでいても不思議とホームシックにかかっていない。妻や子供と共にいて、自国の暮らしが維持でき、その国の言語や文化を知ろうとする意欲がまだあるせいだろうか。もちろん、異邦人としての違和感は何年もその国に住んでも消えることはないだろう。

 

 

 

私には帰国しても「玉手箱」や「紙包み」も必要がない。年相応に白髪が増え、十分浦島になれる年代にさしかかっている気がする。問題なのは、まだまだ心だけは若く、向学心に燃えているため、老いているという意識が少なすぎるのが、女房には気にいらないようだ。

 

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