民衆革命が起きえない日本と中国
チュニジアで民衆革命が起きた。この革命は「ツィッター革命」とも呼ばれ、インターネットが重要な役割を果たしたと言う。ツィッターやフェィスブックを通じて、一人の若者の焼身自殺がまたたくまに民衆の間に知れ渡り、抗議デモまで広がった。何度も以前に話してきたように、今後の政局の展開にインターネットの果たす役割は、良きにつけ悪しきにつけ重要な役割を果たすことは間違いないとは何度も言ってきたことだ。 チュニジアは、大統領が憲法を改正して、終身大統領制を復活させようとしたことが原因とも言われる。失業で苦しむ民衆の間に不満がつのり、さらに警察に抗議した若者の焼身自殺が導火線となったのだ。もし、インターネットが普及しておらず、民主主義というイデオロギーが伝わってなければ、それを弾圧し、抑え込むことも可能だったのだろう。現代の民主化の流れと逆行したことが、民衆の怒りに火をつけ、革命につながったとも言える。イスラム諸国では、神の前の平等感というものが民衆の根底にある。イスラム教の神、アラーの前には、大統領であろうが首相であろうが一人の人間でしかないという概念がある。そういった見方では、東洋よりは民衆の怒りが爆発しやすい。 イスラム教に知悉しているわけではないが、イスラム国家と呼ばれる国の指導者は、指導者として有能であることはもちろんだが、宗教的に敬虔であることのバランス感覚も求められる。宗教的な枠から外れないかぎり、民衆の大反発を招くことは少ない。いわゆる国の指導者といっても、長い歴史で見れば、その時代、時代で変わっていく国民の代理人でしかないという考え方だ。いわゆる、その指導者の行動や言論が宗教的教義に基づいているかどうかで、指導者として適格かどうかの判断をくだしてきたともいえる。そういった例として1979年に起きたイラン革命があった。いわゆる親米家であった皇帝(シャー)に対して、国民が民衆革命を起こして、指導者を不適格と烙印を押し追放した事件である。反面、裏をかえせば、宗教的ドグマに基づくかぎり、どんな悪逆非道をやっても問われない強権・長期政権に結びつく可能性も否定できない。革命後のホメイニ政権は、改革派の人々を殺し、イスラムの復古主義を図った。こういったイスラムの歴史の光と影の部分を見ていくと、イスラム社会に適した本当のイスラム民主主義の出現が待ち望まれよう。そういった意味では、インターネットによって迅速な情報の拡散がなされたことが、イスラム社会の壁を打ち破るための外部圧力となったともいえないだろうか? 西欧、中近東諸国はキリスト教やイスラム教の教えに基づいているため、神の前の平等の理念が東洋より宗教的概念として国民に根付いている。たとえば、社会制度を卵の殻で表現するなら、アメリカや西欧諸国の殻は比較的薄い。したがって国民に耐えがたい不満があれば、すぐに抗議行動に結びつき殻を打ち破ろうとする。イスラム社会は、アメリカや西欧諸国ほど殻は薄くはない。残念ながら殻は比較的厚い。現状をみればわかるようにエジプト、リビア、イエメンなど強権政治による長期支配が続いている。しかし、外部の圧力がなくとも、いったん民衆のデモに火がつけば、内部圧力だけでも殻を打ち破ることができる可能性を秘めている。 それに比べて、東洋の国の卵の殻は、他諸国の殻に比べて頑固なほど硬く割れにくく、不可能に近い。なぜなら、長年にわたり階級制度やその国独特の制度により、革命が起きにくく、国の内部からだけでは打ち破りにくい制度や諦念が国の中にできあがってしまっているし、指導者が統治しやすいようにアジア的思想国家の殻を長年にわたり作り上げてきたからだ。民衆革命が起きたフィリピンは、アジアの国の中でもカトリックの信者が多いため、神の前の平等の理念が根付いている例外的な国と見るべきだろう。 その硬い殻を割る力は、国の内部にたまった圧力と、外部から破ろうとする力の一点が一か所に働かないと、この封建的な殻は打ち破れそうにない。こういった視点で歴史を眺めると、中国と日本の国としての殻は内部からの圧力だけでは、歯がたたないほど硬い。 その理由は様々考えられるが、ひとつは儒教や仏教の影響も無視できない。儒教の根本にある理想の政治は賢人政治であった。権力のトップにいる指導者は賢人であるべきだという考え方である。賢人が指導者であるかぎり、庶民は安心して政治から離れた日々の暮らしに専念するという諦観を持ちやすい。仏教的な側面は、階級制度の下に生まれたという現状を打破できない無力感を生んだ。現世が厭世的であっても、西方浄土に行けば幸福が満たされるかもしれないという夢想感が現実を変えようとする力を失わせた。庶民が平等意識のもと、現実を変えようと革命を起こしたという歴史は、日本でも中国でも、聞いたことがない。もちろん、農民の反乱や一揆にちかい暴動は何度か繰り返されてきた。しかし、どの時代にも民衆革命には程遠かったと考えるべきだろう。 中国では、国を統治する政権は歴史の中で常に変わってきた。その政権のトップに立つ人は賢人思想に基づいた、日本で言う天皇と将軍がほぼ一体化した存在が国を支配し、自らを天が選んだ一時的な指導者として敬わせ、皇帝が君臨し、普遍的な価値を持つものであるかのように己を神格化し国民を教育してきた。それに対し国民は、表向きはその時代の流れに従いながらも、心の中では時代が違えば、指導者が変わり、そこに普遍性など全くないことを良く知っていた。したがって、中国はなんらかの二重性を心に持つ国民になったといってよい。王朝はやがては、次の王朝に変わり、皇帝もそれに応じ変わっていく、そこになんら普遍性などはない。そこに、庶民の哲学として老荘の哲学が受け入れられた素地があった。現時点では、富を求め地位も求めているが、いつかはそういったものは消えてしまうかもしれない。そのとき大切なもので守るべきは自分とその家族、親族、友人だけなのである。 日本はこの点で異なる。日本は権威というものになんらかの普遍性を持たせようとして、天皇と将軍を完全に分けた。権力者は常に変わるという前提で、天皇だけは血脈をつなげて普遍性をもたせ神格化させ、権力に権威付けを与える役割をさせた。 織田信長や徳川家康は、そういった天皇制度を嫌っていたようだが、諸国の大名を従わせるための手段として、有効利用することに決めざるをえなかった。徳川家康は民衆を「由らしむべし知らしむべからず」という言葉を残した。為政者の徳で導くことはできるが、為政者から民衆に施政を話す必要はない。いわゆる、民衆はひたすら黙って俺についてこい式のやり方である。ここから、民主主義社会に生きている人の中には、徳川家康は民衆を愚かと考えていたのではないかと解釈する人もいる。ある側面から言えば真実であるが、もっと多面的にみれば、中国の歴史も日本の歴史も、民衆革命に期待できない以上、指導者が賢人政治を貫き、民衆に戦争のない平和な社会を提供することしか為政者の大業はないと徳川家康は考えていたふしがある。 戦争のない世界は、素晴らしい世界ではあったが、そこには民衆の甘えも存在する。要は「よらば大樹、長いものに巻かれろ」的な権威依存主義・厭世主義がはびこり、自ら改革しようという自主的な運動が芽生えてこないし、仮に出てきても権威を失わせるものだといって政府から弾圧される。また、有能な人材がでてきても、士農工商という階級制度の壁によって阻まれる。要は武士社会という官僚機構の枠の中でしか動けなくなるのである。 260年12代にわたる清の皇帝に統治されてきた中国の民衆が、自発的に王朝を倒すとは、とても考えにくい。その点で、孫文も民衆は愚かと考えていたふしがある。孫文は日本の明治維新も良く学び中国で清王朝を倒すのに応用できないか悩んだ。日本の場合、天皇は普遍的価値を持ち、天皇を手に入れた側が官軍になれるという構造があるので、明治維新における戊辰戦争は比較的理解しやすい。しかし、中国の場合、そういった権威はない。ということは中国の民衆による自発的な革命は不可能ということになる。それでは、知識人である大夫とよばれる清朝の官僚はどうだろう。彼らは、日本で言えば幕府側の人間であり、自分の革命理念を理解してくれそうもない。しかし、一方で革命を起こすための知識人は必要であり、カリスマ性を持った強い軍事指導者が必要なことも知悉していた。そのため、日本では下級武士であり、長州・薩摩藩から明治維新が始まったように、清朝虐げられ不満を持つ反乱分子を利用し、中国で革命を進めるしかなかった。 そこで、まずは国外の力を頼った。さきほどの卵の殻で言えば、外からの圧力「外圧」と、国内からの革命勢力が力を合わせて、清朝の一番弱い部分を叩けば、封建制で覆われた硬い殻を破壊し、革命を成就することができるのではないかと考えた。そのため、満州に対して二心あるとわかっていた日本政府といえども、利用するしかないと思い日本に何度も訪問し桂太郎などと会談におよんでいる。しかし、軍部の力が強くなってきていて日本が常に清朝側につこうとする両刃の刃であることに気が付き、ロシアに近づいて画策するようになる。しかし、最後は中国の下級武士集団に近い、袁世凱と結びつき、理想国家を作ろうとしたが、みごとに裏切られるのである。しかし、孫文の思想は、死後も中国に影響を与え続けた。 幕末に活躍した吉田松陰はどうだったのだろう。彼は何度か暗殺計画をたてて、松下村塾の塾生に要人を暗殺するよう、うながしている。水野土佐守、井伊直弼、井伊の手足である老中の間部詮勝などが暗殺の標的となった。なぜ、こういったテロ活動が彼にとって必要だったのか、現代人には不可解かもしれない。松陰にとって、大事なことはまず幕府の転覆しかなかった。かといって、倒幕する組織はこの時点ではできていない。残るのは、テロ活動しか現時点でできることはない。そこで、権力の中枢の人間を暗殺すれば、残る幕府側の人間は無能な官僚だけでしかない。暗殺に成功すれば、倒幕への足がかりをつくることができ、封建制度を崩すことができるかもしれないと考えた。その封建制度を無くするためには、神の下に平等ならぬ、天皇のもとに平等という枠組みが必要だった。さもなければ、士農工商のパラダイムから逃れられず、将軍や大名の首だけが変わることになりかねない、だから尊皇論を唱えた。 仮に松陰が現在に生きていたなら、非暴力革命も可能性をさぐったかもしれない。ところが残念なことに幕末という動乱である。民衆の意識はそこまで成熟していないし、民衆革命に期待できない。とすると、暴力革命やテロ活動に頼る以外に方法はない。しかも外国からの脅威もあり、時代は緊急を要していたのである。したがって、革命の手段としてはテロ活動以外にないと思いつめていたのであろう。 ここには、革命はどうあるべきかの永遠の課題を提示している。非暴力革命は理想である。フィリピンやインドで起きた民衆革命にあったように、軍隊、兵器、暴力やテロなどの手段を用いない民衆革命こそ理想である。しかし、民衆の意識がそこまで成熟しておらず、封建制度や独裁政治が、あくまで現状を維持し強固に反乱分子を弾圧しようとしているとき、それでも非暴力革命によって政府転覆は可能なのだろうか。いわゆる目には目、歯には歯で軍備を整え、戦いを挑むべきではないか。しかし、その軍備がまだ整えられる段階でないなら、テロ活動も必要だというのが松陰の考え方だった。 フィリピンの独立の父と呼ばれるホセ・リサールという英雄がいる。スペイン植民地からの解放を呼びかけ、思想家であり革命家となるが、スペイン官憲によって捕まり、銃殺刑となる。しかしながら、その思想と生き方は、後の独立運動に多大な影響を与えていく。おなじように、シモン・ボリーバルというラテンアメリカの英雄がいる。彼も革命家で、思想家であった。死して南米大陸の独立運動に多大な影響を与えた。 吉田松陰はついに決心する。このままでは、自分が生きている間に革命が成就しないかもしれない。ならば、自分自身が革命家として死ねば、その後に続く革命の志士たちに思想的な影響を与え、決起を促すかもしれない。江戸に召喚され評定所に呼び出された時、松陰は老中の間部詮勝暗殺計画について自分から話し、幕府が自分を殺すように仕向ける。自分を死においやることによってのみ、革命の導火線に火を点けることができたというべきかもしれない。 日本も中国も、長年の歴史の中で、権力者によって民衆は考えない羊に教育されてきたといってよいだろう。賢人政治が理想で、民衆は考えるべきではなく、ひたすらお上に従えば良いという風潮ができあがってしまった。西洋の民主主義は、民衆の力で王政を倒すことから始まったと言ってよい。ところが、中国や日本に民衆が賢くなって王政を倒す力ができてしまっては為政者にとって都合が悪い。したがって、下剋上のない階級社会を創り、軍事力で長年、抑えこまざるをえなかったのである。 現代の中国はどうだろう。状況は孫文の時代と大きく異なって、著しく経済成長し、GNP第二位の国とも言われているが、国民性は孫文の時代と同じように、まだ革命など起こせそうにない。また、共産党もそうさせまいとコントロールを強めている。しかし、チュニジアでもあったように民主化の流れは、止めようもない。外部の圧力が増大するなかで、中国内部の圧力はどういうような形で変化し、内部圧力が増えていくのだろう。 旧ソ連の時代にミハイル・ゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行し民主化を進めた旗手となった。同じ修正社会主義国として、中国で民主化への改革の旗手となるゴルバチョフは現れるのだろうか?仮にそういった人物が現れたとしても、ゴルバチョフでさえ8月クーデターによって守旧派に軟禁された。中国でも、必ず改革に対する反動や復古主義は避けられないだろう。 もし、中国で改革の火の手があがるとすれば、まずは経済政策の失敗から起こる可能性がある。日本でも高度成長という時代に政権が交代することなど考えられなかったように、中国でも経済政策がうまく機能しているときは、改革の波は表面にあらわれないだろう。 日本でジャパンアズナンバーワンという本がベストセラーになったのは1980年代頃の日本経済のピーク時であったように思う。その後、現在まで30年で、このように経済が低迷するとは誰も想像できなかった。 もし、中国の経済が低迷するとすれば、少なくとも30年はかからないだろう。歴史の転換期は10年から20年くらいとみるべきだろうか。 中国の作家、魯迅はこう言っている。 ― 私の考えによると、中国がもし革命しないなら、阿Qは革命しないだろう。革命するなら、やるだろう。わたしの阿Qの運命はこのようでしかないし、人格もおそらく前後くい違っていないだろう。民国元年はすでに過ぎ去って、あとを追うべくもないが、今後もしまた革命があるとするなら、私は阿Qのような革命党が出現するだろうと信じている。「『阿Q正伝』の成因から」 魯迅は1936年に亡くなった。現代の共産党支配による新生中国の姿は見ていない。中国の社会を支えているもろもろの阿Qは、魯迅が望んだ、封建主義の悪霊から解放されたのだろうか?魯迅なら、こう答えるだろう、一人ひとり個人の内面化からの革命がなければ、本当の革命はありえない。民衆による革命がなしえないかぎりは、本当の革命を成し遂げたことにはならないのだと。
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「情報化が促す意識・社会の激変」・「絶対神がもたらす平等思想と革命」・「民衆革命が起きえない日本と中国」、何れも興味深く読ませて頂きました。
「テロの意義」については映画「アルジェの戦い」でテロリスト(革命の志士)が小さな女の子のいるカフェに爆弾を仕掛けるシーンを淡々と撮影している場面を思い起こしました。
昨日チュニジアのテロで5名の邦人が犠牲になったと報道されています、松蔭の暗殺計画についてNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」ではどう表現されるのでしょうか?
テロ・人質事件については教条主義的な絶対反対・人命人命尊重に止まらない議論が必要だと思います。
投稿: masa | 2015年3月19日 (木) 15時05分