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2010年10月 8日 (金)

伊達順之助(4)

 

伊達順之助に関する記述も、いよいよ最後に近くなってきた。

 

その前に、儒教について少し述べておきたい。孔子が生存していた頃、儒者の役目は、一国の主に対して、君子としてあるべき姿を示唆するアドバイザーであった。その提言は、人生論から、外交論まで多種多様であった。しかし、孔子が死んで、100年経っても、小国同士がお互いに殺し合い、覇権を争っていて、争いは止むことがなかった。孔子の教えも、主君に都合の良い教えは尊ぶが、都合の悪い教えは排除する傾向性が強くなった。下克上を防ぐため朱子学的な道徳論が、平和を守るという大儀のもとに、利用されるようになってきはじめたのもこの頃である。

 

 

 

孔子より167年後に孟子が生まれている。孟子は孔子の孫の子思の門人であった。儒教を学びはじめたころ、おそらく孟子は危機感をもったであろう。孔子の教えが、時代とともに発展、進化していかなければならないにもかかわらず、教条的になり、160年前の教えが形骸化していくことに危惧をいだくようになる。もっと時代にあわせた展開をしなければならないことに気がついたにちがいない。いわゆる、儒教刷新、時代にあった儒教の復活が必要だったのである。

 

 

 

孟子は武王が紂王を征伐したことは、臣下が君子を殺したことになるのではとの問いに、「一夫の紂を誅するを聞くも、未だ君を弑するを聞かざるなり」(平民である紂王を殺したと聞いているが、いまだ君主を殺したとは聞いていない)と答えている。すべての人は天の下において平等であるはずだ。君主は天の意志を継いで、民生の安定を考えなければならないのに、その君主が暴君となっては、その人は君主でありえるはずはない。その人は普通の人であるので、殺しても君主を殺したことにはならない。

 

 

 

いわゆるこういった革命思想は、日本では、吉田松陰に受け継がれていく。松陰が好んだと言われる「自ら反りみて縮からざれば、褐寛博と雖も、われ惴れざらんや。自ら反りみて縮くんば、千万人と雖も、われ往かん。」つまり、あくまで自分が正しいという自信があれば、たとえ相手が千万人であっても、自分は臆することなく、断然進んでいく。そこには、天以外に恐れる心なしという大確信が感じられる。

 

 

 

陽明学では、特に日常の生活の中で良知を磨き、「知」と「行」を一致させていく。いわゆる知行合一が一致させていかなければならない。したがい、吉田松陰が黒船に乗ろうとしたことも、「知」と「行」を一致させようとした陽明学の一端であったかもしれない。こういった考え方が陽明学とともに、維新のイデオロギーとなって回転していくのである。

 

 

 

伊達順之助は、陽明学を通じて革命思想を継承していたのだろう。伊達順之助が考えていたことは、残された資料から天皇による立憲政治であることは確かだが、そこには、孟子のような革命思想があった。

 

 

 

戦後、民主主義が日本に入ってきて60年にもなろうとしている。選挙で国会議員を選び、多数党が与党となり、その党の中から首相が選ばれるという正治体制が構築された。平和な時代だけをとれば、儒教の理想郷である堯・舜の時代の再来ともいえる。平民から突然、代議士になり、首相になることも夢ではなくなった。それでは、帝堯・帝舜のような賢人帝王が現れたかというと、昨今の首相は、短期間で首だけがすげ替わっていくだけで、賢人の面影すら見えない。平民が首相になることは、民主主義の根幹ではあるが、平民が君子であるためには、将軍学を身につけていなければならない。将軍学を言い換えると、リーダーシップとも言えるが、そのリーダーシップの背景には、儒教で不動心という宗教にも似た確立した哲学がなければならないのだ。

 

孟子曰く、「人の恒の言あり、皆曰ふ、天下国家と。天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り。」つまり、天下国家と叫ぶ人は多いが、天下国家といっても、国の最小単位は家であり、つきつめるとそのひと自身なのだ。その人自身が変わらなく、どうして天下国家を変えることができるだろうか?

 

 

 

ブログ、伊達順之助(2)で既に述べたことだが、山東自冶聯軍という伊達が作った混合軍の解散については、さまざまな形で疑問が残る。単に中国人に武器を渡して戦うことの是非だけが関東軍で疑問視され、解散となったわけではなさそうだ。もちろん、伊達自身への嫉妬もあったかもしれない。

 

 

 

しかしながら、東条首相をはじめとする軍部のやり方は満州国の尊厳を傷つけるだけで、いよいよ理想とかけ離れていく。伊達一人で、変えようとしても歴史を変えられないという無力感に近い感情を持っていたことだろう。伊達自身が独自に五族協和を理想郷とした国を満州国内部に創ろうとしていて、関東軍がそれに気がつき解散になったというのが真実に思える。そういう理由だとすると、解散の際に、関東軍が自冶聯軍を取り囲み、厳重な武装解除を行ったことも納得できるのだ。

 

 

 

伊達の記述に「真の人間進化は個人と社会を論ぜず、理想精神発揮の如何にあり。天理に率ふ人類統治の体現如何にあり。」とある。天と人とが、理を媒介にひとつになろうという天人合一思想に近かったのだろう。孟子曰く、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。」伊達の望んでいた理想郷の興隆は、天の時が地の利に及ばないために失敗に終わったのだろうか。

 

 

 

伊達順之助についていろいろ述べさせてもらったが、いまだ不明な個所も多い。一番のわからない点は、伊達自身は戦争をどうとらえていたのか。日記を読むたび、そこには中国に長年にわたり支配してきた、賢人思想の流れをくむ、天皇が日本の精神的支柱でなければならないような語り方が多い。しかし、この当時満州はすでに五族協和から植民地的要素が強くなっていたはずだ。そこには、武士が上で、庶民は下の考え方を押しつけ、日本人と中国人との間には絶対的な差別観があったはずだ。そう考えると、石原莞爾がめざした気宇広大な満州国の独立性が絵に描いた餅となり、日本人の既得権益にしがみついただけの威張った醜い姿であったはずだ。

 

 

 

天皇を頂点とした儒教的賢人思想という理想と、満州国が独自性を失い植民地化していく現実の間で、伊達の心のなかでは、矛盾や相克はなかったのだろうか。この点に関しては、伊達順之助の息子である伊達宗義が著書「灼熱 実録 伊達順之助」に何か書いてあるのではないかと思い読破してみたが、見つからなかった。伊達自身の内面の問題だったので、あえて日記にかかなかったのか、あるいは、書いていたが、戦後の混乱期のなかで一部喪失してしまったのだろうか。読者としては、是非真相を知りたいところである。

 

 

 

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