馬は英語でHORSE?
馬を英語で何と言うかと問われれば、誰もがHOSEと言うだろう。では、外国人にFISHを日本語でなんというかと問われれば、日本語を学んだことのある人なら、「魚」と答えるにちがいない。 何を言いたいのかというと、文化を学んでいくと、一つの代表する単語の背後には、生活と密接に結びついたボキャブラリが無限に思えるほど広がっていることがある。馬は総称の「HOSE」以外にも、stallion:牡馬、種馬 / foal:一歳馬/ yearling:二歳馬/ colt:三歳までの雄馬/ filly:三歳までの雌馬/ juvenile: 三歳馬/ horse:四歳以上の雄馬 /mare :四歳以上の雌馬 /sophomore: 四歳馬 / gelding :去勢した雄馬 /sorrel :淡い栗毛色の馬 /appaloosa :白・黒まだら模様の馬 / cold ;foal :子馬 /bronco: 米西部に放牧されている半野生の小馬 /cob: 脚が短く頑丈な馬 /pony:
小型の馬 /steed:駿馬 /shrew:じゃじゃ馬
/mustang:スペイン種の半野生馬、など数限りない種類の言葉がある。さすが、牧畜文化である。 アラブ人に聞いたら、ラクダ(アラビア語でJamal)を表す言葉は、500とも1000の単語で表されるそうだ。アラブ人がこのすべての単語を知っているかどうかは疑問だが、遊牧民族であるベドゥインにとっては、日常生活に密着した言葉で必要性があったのだろう。ハワール(六か月まで)、マフルード(1年まで)、ヘッジ(2年まで)、レジ(3年まで)、ジェデア(4年まで)、シニ(5年まで)、ルバー(6年まで)、シディース(7年まで)、シャーグ(8年まで)。ジャマルというラクダを表す総称はラクダのオスで8年以上を指す言葉となっている。(本多勝一の「アラビア遊牧民」から) 数年前、北海道の魚市場を訪ねていて、八角というめずらしい魚を指差して、外国の人からなんという魚かと聞かれたことがあった。頭の倉庫を探しても、それに相当しそうな英語はでてこない。冷や汗をかきながら、あてずっぽうで「rockfish(メバル)」と答えた。あとで辞書を引くと、スズキ系カサゴ目トクビレ科Podothecus
sachi (Jordan and Snyder)という言葉を見つけた。しかし、この言葉を知っていたとしても、相手に伝わっただろうか?カサゴのことを marbled rockfish ともいうので、カサゴの仲間なので rockfish でも良かったのではと自分に言い訳している。 聞いた外国人がそこまで興味をもって聞いたかどうかは疑問だ。ただ、通訳している者にとっては、「英語で答えられない」というのは恥ずかしく、私のように間違っていてもごまかすのも技術だと考えている人が多いにちがいない。 日本で、生活に密着しているものは魚だろう。特に「ぶり」または「はまち」は出世魚と呼ばれ、数多くの名前をもつ。代表的な呼び名はワカシ、イナダ、ワラサ、ブリ。さらに地域によって呼び名が異なり、ツバス、メジロ、ツベ、イナダ、アオ、フクラギなど10種類以上もの呼び名がある。さらに地域を細分化していけば、もっと呼び名の数は増えていくにちがいない。日本は寒流と暖流が交差する地点にあるため、魚の数も多く、国によって「fish」一言で足りても、魚に関するこだわりは消えない。 魚を専門に研究している人は別にして、魚を文化としていない人にとって、これはカレイで、平目で、ヤリイカに真タコなどと言って説明されても、flatfish と cuttlefish の違いぐらいにしか気を留めないだろう。「この魚は出世魚で、ハマチと呼ばれ、米は、ササニシキで、ヒノキの枡酒で召し上がれ。」と説明され、これをそのまま英語に翻訳して何の意味があるのだろう。This fish is called “Hamachi”, a kind of yellow tail which is called by different names at different
growth stages in Japan.
The type of rice is “Sasanishiki.” Have a drink with a square
wooden cup made of “Hinoki”,
Japanese cypress. とても、日本文化を専門的に研究している人でなければ、この言葉を理解してくれるとは思えない。理解されたとしても、fishとriceとwooden cupだけで充分じゃないかと思われるのがオチだ。 逆に、日本人が外国に行ったときに、牛肉(beef)をくれと頼んでも、その瞬間から、それはフィレか、ロースか、リブか、焼き方はどうすると聞いてくるのに閉口して、ついには、「どうでもいいから、牛肉をくれ」と叫びたくなるのに似ているかもしれない。 私達は、外国に行ったとき、ついつい「馬」は馬でしかないし、「ラクダ」はラクダでしかないと単純に考えがちだ。実は、その国の生活に密着した言葉には、その背後に派生した数多く言葉が存在し、広がりとその国民のこだわりがあることに思いをかけめぐらさないとその国の文化を理解したことにはならないのではなかろうか。 自分の文化概念という色眼鏡で外国を見ると、外国文化は理解できないし、外国人が自分の文化の色眼鏡で日本文化を見ると、とても奇妙に思えることだろう。お互いに文化を学ぼうとする歩み寄りなしに、お互いの文化を理解することなどできないし、その努力を続けることこそ重要なのだ。
« あやまらない国民性 | トップページ | 農耕文化と狩猟文化 »
「随筆」カテゴリの記事
- なぜ、戦争が起きたのか?(2016.08.21)
- 関門トンネルを歩く(2016.07.20)
- 巌流島を訪れて(2016.07.20)
- 詩:村の子供は、今どこに(2016.07.20)
- 強制連行、徴用問題の歴史認識(2014.04.22)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント