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2011年3月19日 (土)

儒教の師弟観

 

以前、伊達順之助をとりあげた際に、陽明学をとりあげた。その際に林田明大さんの書かれた「陽明学」を引用文献としてとりあげさせていただいた。その本の著者当人からコメントをいただいた。汗顔のいたりである。自分の生涯で本の著者からコメントをいただくことは初めてで、最後ではなかろうか。「幕末の志士と陽明学」を執筆中であるとのこと、出版を心待ちにしていたい。いただいたコメントに返信しようとしたが、残念ながら返信ができなかったため、このブログを通じて心から感謝申し上げたい。

 

 

 

儒教や陽明学を学んでいるうちに壁みたいなものにぶちあたることがある。それは応用というか日常にどうその教えを生かしていけばよいのか、途方にくれるところである。いや、儒教の実践といってもたいしたことはない。論語をわかってもわからなくとも、とにかく声にだして読んでいけばよいのだという人もいるかもしれない。確かに、得るところはあるかもしれないが、万人がそれで内得していけるものだろうか。

 

 

 

認知論だけでいえば、論理を隅々までつくした長い歴史をもつ西洋哲学を学んだ方が手っ取り早いし、理論上は納得もできる。儒教の流派の中で、朱子学のように実践よりは理論を重んじた派もあるが、東洋的な論理や体系に限界があり、結局不可知論で終わってしまっている。儒教は素晴らしい教えではあるが、宗教性が薄い分だけ、万人が実践できるかというと疑問をなげかけざるをえない。

 

 

 

哲学というものを理論哲学や実践哲学という範疇でくくると、理論哲学は限りなく象牙の塔に近くなり、実践哲学は限りなく宗教に近づくのは周知のことである。さらに、宗教の分野でも、天台仏教は限りなく理論哲学に近くなり、民衆から離れてゆき、唯、一部の経文を唱えればよいとした大乗仏教は実践が容易で、民衆に受け入れられ広まっていった。どうもこれらを考えると、こと儒教や宗教に関して中間的なものや、中庸はありえないようだ。

 

 

 

儒教にでてくる君子という言葉がよく出てくる。この君子という言葉の解釈はいろいろある。「身分の高い人」「学識、人格の優れた人」と解釈できるが、本来的には「道を求めている人」の意味ではなかろうか。個人主義が発達した西欧諸国では、どうも人間と人間との触発に関してのストーリーというものはあまり表面には出てこない。いわゆるメンター(mentor)と触発された人の関係である。東洋では、師弟関係といって必ず触発する人と触発される人が師弟関係であらわされるのだが、師弟を表す英語で、ぴったり符合した英訳は目にした事がない。

 

 

 

道を求めている人が古今東西の書物を読みふけるうちに、探し求めていたのはこれだと思い感動し、その感動を弟子に伝える。弟子は師匠から伝えられたその感動を自分の中で熟成させて行動にあらわす。そこに現れるのはどうも人間と人間の触れ合いなくして実は儒教は成り立たないのではないだろうか。もちろん、それ以外には四書五経を音読していけば、おのずとその意が伝わり自得する人もいるかもしれないが、先に述べたように万人が悟るわけではないので、それは除く。

 

 

 

もっと単純に言い変えてみよう。人生とは何かということを常に求めている先生や教師が、儒教や宗教や哲学に感銘、感動し、そのことを生徒に伝えれば、その感動は生徒に伝わり、生徒が学校を卒業しても教わった感動が残り、その生徒の人生に影響力を与えていく。反面、知識偏重で人生なんてこんなものさ、と割り切った教師が、知識、宗教、哲学、儒教を話しても生徒の心まで届かず、知識の説明だけで終わり、教わった側には何も残らない。

 

 

 

儒教や陽明学を師弟論と結びつけたいわけではないが、実践面ではそうならざるをえないのではないか。立派な人格者に会うと、自分もこうなりたいと思った瞬間から、その人格者と自分の間に師弟関係は成り立つ。師匠といた時間とは比例しない。なぜなら、高杉晋作や久坂玄瑞を産出した松下村塾でさえ、存在したのは短期間だった。

 

 

 

師弟関係でいえば、感動の連鎖、磁気を帯びた人間に触れると、触れたほうも磁気を帯びていったように伝わっていくように、師の感動が弟子に伝わり、原動力となっていったのが生きた儒教だったのだろう。吉田松陰が若いとき、師をもとめて東北まで旅をしたのは、そのためでなかったろうか。世間で評価が高いと言われた人が、会ってみて以外とつまらない知識だけの人だったという話が吉田松陰の話に書かれてあった。

 

 

 

最初に述べた幕末と陽明学に関しても、幕末に横井小楠、梅田雲浜などの数多くの儒学者がでてくる。そこには儒学の知識だけではなく、儒学をどう歴史に反映させていくのかという学者魂もあったとおもうが、それより道を求める人としての真摯な生き方があり、死生観があり、その生き方が道に迷う多くの幕末の浪士を引き付けたのではなかろうか。決して知識の安売りだけではなかったろう。

 

 

 

人生という「道を求める」師と、その理想を行動で表そうとした弟子との生き生きとした人間関係にこそ、儒教の真髄があり、幕末の革命の原動力となっていったのではと言いたい。つまり、儒教の実践とはいっても、師弟観を踏まえた人間が人間に及ぼす影響を無視しては、ありえないだろうというのが私の見方だ。現代では、知識のみを教える学識の師はいるが、人生を教える師、君子が見つかりにくいのは残念なことだ。

 

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