北京レポート(78)故宮
北京で有名な観光地といえば、第一にあげられるのは故宮だろう。明清時代の政治の中心であり、建てられてから580年以上過ぎたことになる。ラスト・エンペラーの溥儀が去ってからも、建物はその時のまま、残された。
この紫禁城には、一説には明代には、主従、正副合わせて九千九百九十九の部屋があるとされていたが、1973年には、八千七百四しかないと言われている。ほとんどの部屋が皇帝に仕える千人もの宦官(最盛期は十万人とも言われる)や女官ために使われた。最後の皇帝と呼ばれた、溥儀のころには宦官の数は約二百まで減っていた。面積72ヘクタール(東京ドーム15個分)で、城壁は10数メートルの高さがあり、城壁の周りを幅50メートルの堀が囲み、城壁の角に角楼がそれぞれ立っている
景山から故宮を見渡すと、黄金色の屋根、赤い壁が眼前に広がる。屋根の色と赤い壁は、陰陽五行説に基づいて建てられたそうだ。建物や敷石のほとんどはレンガ造りで、レンガは水路によって運ばれた。レンガは一億個以上も使われた。レンガ一枚24キロの重さがある。北京市内に瑠璃廟という場所があるが、屋根の瓦は、そこで焼かれたようだ、地名だけが残っている。現在では瓦は焼いていないが、筆や文房具の有名な場所として、有名。その屋根には、9は皇帝を表す数字なので、屋根には9匹の獣が置かれているのが見える。
故宮を外敵から守るために、故宮は内城と外城の二つの大きな地区に分けられている。内城は、故宮と北海、中海、南海を囲んだ地区、もう一つは東直門、朝陽門、安定門、徳勝門、西直門、阜成門の外枠。主に満州人が住んでいた。
外城は、山安門、右安門、永定面、左安面が前門の下に位置する。ここには満州族以外の漢族が住んでいた。江戸城も外敵から守るため、外堀が何重にも敷かれていて、その名残が大手町のお堀端や、石垣、城門などに残っている。さらに、江戸の旗本、城詰めの武士が住む場所、各藩の大名屋敷、一般庶民が住む場所など比較的区分けされていた。そう考えると、日本には宦官という特殊な役職がない点を除けば、城を取り巻く環境は日中とも、あまり変わらないのかもしれない。
一般的な観光では、前門の午門から入る。午門をでると、小川に金水橋がかかってあり、天子が通れる中央の橋とランクの分類された臣下が通る橋がそれぞれ決まっていたそうだ。
太和殿:午門を通り抜けると、太和殿が目の前に広がる。太和殿は、故宮の建物の中で、一番大きい建物となり、皇帝の即位、結婚、誕生日、将軍の出陣、元旦、冬至などの数々の式典に利用された。昔は、太和殿の前の広場に、2万人にもの参加者が並んだと言われている。官位によって、着るべき服装の色(赤、青)や帽子が異なっていた。建物の外には、青銅製の亀、鶴の置物がある。太和殿の中に入ると、皇帝の玉座があり、皇帝の冠が保管されていた。玉座のまわりには龍を刻んだ6本の柱が立っていて、さらに天井に龍の彫刻がある。この天井を支えるために合計、72本の柱がある。太和殿の柱にもともとは、クスの木が使われたが、現在では、松の木に置き換わっているそうだ。
もし、紫禁城を見学するにあたって、事前に「ラスト・エンペラー」のDVDを見ることができたら、感慨はひとしおだろう。皇帝の即位式に参加するために、大臣達は午門の前で朝午後三時に開門を待つ。太鼓が鳴り、門の扉が開くと、金水橋を渡り、太和殿に整列する。皇帝が現れると、額を三度地につけ、それを三回繰り返す。映画では、太和殿を背景に、ずらり並んだ群臣の拝賀を受ける幼い溥儀の姿を見ることができた。三歳の幼児であった溥儀は、自伝でこう述べている。
「太和殿へ連れていかれ、高い大きな座席にすわらせられたわたしは、あまりの寒さに、もう我慢ができなくなった。ひざまずいてうしろからわたしを支えていた父が、もじもじするなと言ったが、私は逆らって、『いやだ、いやだ、帰りたいよう』と泣きだした。父は困惑しきって、汗をたらたら流していた。人々が私の前で順に叩頭するあいだにも、わたしの泣き声はますます大きくなった。父はわたしをなだめようとして言った。『泣くんじゃない。すぐ終わるから』わたしをなだめるためのこの言葉は、廷臣たちを嘆かせた。彼らはそれを不吉な予言と取ったのだ」
物語の始まりの伏線としては、おもしろい挿入話であった。
重大な失敗を犯し、責任を問われた宦官や大臣は、棒でぶたれ、皇帝が許さなければ、そのまま死ぬまで打たれたとも言われる。ある宦官は大臣25名に棒打ちを命じた。命令する者のつま先が開いていると、「着実に」という意味で、棒打ちは手加減して打つ。しかし、叩かれ度合いによっては、不具になるまで打ちすえられることもあった。つま先が閉じていると、「細心に」という意味であるため、死ぬまで打ちすえるという意味になったと言う。太和殿の前の石畳には、そういった大臣や宦官の血が沁みこんでいるのかも知れない。
中和殿:太和殿の後ろにあるのが、中和殿。皇帝が農具を閲覧し、非公式な会議もひらけた。時代によっては、皇帝が政務を始める時に、休憩し、くつろげる場所でもあった。
保和殿:保和殿は、除夜に蒙古やチベットの王族を招いて宴を開く宴会場であり、科挙の最終試験を行う場所でもあり、さらに皇帝が大臣を集めて、公式行事を行う場所となった。
注目すべきは、龍を刻んだ巨大な一枚岩のレリーフ。これに似たレリーフは市内のあちこちで見かけるが、最大のものはここだけだろう。重さ250トンの巨大な石をどうやって運んだのだろうか。この巨石は冬場に運搬された。そのために、500mごとに井戸を掘り、井戸から水を汲んでは、道に水をまき、道を凍らせ、1000頭のロバを使い、2万人もの人が労働し、石切り場から28日かけて、北京に運んだと言われている。このレリーフの石段は皇帝だけが歩くことができた。二枚あって、一枚岩の長さは16.57m、幅は3.07mある。
乾清宮:乾清門を通るとそこからは、皇帝個人の生活の場で、内廷と呼ばれていた。内廷でまず、目に着くのは乾清宮、雍正帝以前の皇帝が寝起きしていた。二階建てで、27のベッドと書斎があったと言う。それでは、公務はまったく行わなかったかというと、皇帝によって異なった。というのは、皇帝によっては、生活の場がそのまま大臣と会う政務所となり、さらに上奏文の処理もここで行われた。乾清宮の玉座の背後には、「正大光明」の額がかかっていて、清代には後継者の名を書いた封印した紙札を額の後ろに隠しておいたという。もう一通の勅書は、皇帝が常に身に付けていた。皇帝が亡くなると、二通照らし合わせて、次の皇帝の名を公表したと言う。
交泰殿:皇帝の印章である、玉璽を保管した建物、玉璽だけでも25個あったと言われている。水時計や様々な時計が展示されていた。
坤寧宮:明代には皇后の寝所となっていて、オンドルが備えられた建物だった。皇帝が妻と過ごす赤の部屋がある。清代になってからは、寝所として使われず、満州族の祭祀の場所として使われた。
雨花閣:乾隆帝がチベット仏教を信仰したときのチベット式建物。融和政策のために作ったと言われている。
養心殿:清五代雍正帝は、乾清宮に住まずに、ここ養心殿に住んでいた。皇帝からの命令は、司令監から、文本房、そして内閣を通じて、各地域に流されたのだが、雍正帝は独裁政治を行うために、軍機処を養心殿の前に配置した。軍機大臣を直接呼び出し、上奏、承認を与え、内閣を通さずに関係部署へと伝わり、独裁政治を行うことができた。この乾清宮は、その後も八人の皇帝の、仕事場であり住居となった。故宮の建物の中で、ガラス窓を初めて使った部屋がある。ガラスは、中国になかったので、海外から輸入したものだった。
乾隆花園:乾隆帝が気に入っていた花園、曲水の宴、杯が石の上の溝にはった水の上を流れ、杯が止まった場所の人は歌を読まなければならない。読めなければ、罰として酒を飲むというゲームが行われた。当時の娯楽としては、その他にも、演劇、絵画を描く、ゲーム、花見、詩を吟じるなどがある。
養性殿:西太后は、実権はもっていたが、皇帝ではなかったので、ほとんど40年間、故宮にいる間だけは、養性殿で過ごした。
その他の建物:西側の宮殿(西東六宮)には、側室が住んでいたし、貞順門内には光緒帝が誰よりも愛した珍妃が西太后の命令で投げ込まれ、殺された井戸がある。詳しくは、私のブログ「西太后と光緒帝の謎」を参照のこと。
景山:裏手の神武門から景山公園に抜けられる。景山にのぼって頂上に建っている万春亭にたどりつくと、故宮とその周辺を俯瞰できるので人気がある。景山は人工的に作った92メートルの山だ。もともとは、1420年、明の永楽帝の時代に、元の大都にあった宮殿を壊し、故宮とその堀を造成するに当たって、残土の処理に困り、後ろに積み上げたのが、山になったといわれている。鄭和が六度目の航海に出航した頃の事である。その景山に登ると、中国語で槐樹(カイジュ)、日本ではエンジュと呼ばれる樹木がある。明代の最後の皇帝、崇禎帝が首を吊った樹木だという。約三百年以上前の話なので、おそらくその木ではなく、後に植えられた木だろう。明の終わりに、李自成軍という反乱軍に攻め込まれたが、皇帝に全く人望がなかったため、宮殿内部には抵抗しようとする明の軍隊も宦官もほとんどいなかったという。この李自成軍は、百姓の寄せ集め軍隊だったので、すぐ滅ぼされ、清の時代に移行していく。この景山ルートから、皇帝の私的な建物から入り、公的な場である太和殿を抜け、前門を抜けるという逆のルートもとることができる。
秘宝:故宮内にある収蔵品、秘宝の数は、100万点とも150万点とも言われている。故宮の文化財で、主な品は、書画と玉器工芸(30,000点)。特に、玉は、白玉、青玉、漢玉、緑玉があり、皇室専用として崑崙山脈から運ばれた。大きい玉石は三年かけて北京まで運搬されたと言われる。
しかしながら、歴史の中で、かなりの数の収蔵品が亡くなった。宦官が勝手に持ち出して、売ってしまったり、溥儀は、宦官に恩賞で与えたり、自分でも資金難になると、盗み、売ったとされている。溥儀が満州から逃げ出すときは、書画120及び宝石をもって逃げようとしたがソ連につかまり、書画関係は、現在、遼寧省博物館に保存されている。さらに、蒋介石が目ぼしい貴重な品は、台湾に持ち去ったため、故宮内の秘宝の数が少なくなったと言われている。1989年 日本軍が故宮に入ったときは、すでに国宝は西部に持ち運ばれ避難していたため、ほとんどの秘宝は無事だった。ただ、銅製の甕 66個、大砲 4門、灯篭 91器 を盗み、天津で軍需用に精錬されたという。それ以外の徴用された品は、
終戦後、ほとんど回収された。故宮内にある防火用の甕には、日本兵士が刀で傷つけた跡が、あると言われている。地金が見えているのでわかるのだそうだ。しかし、別の本では、義和団事件のときに連合軍が削り取ろうとしたためと記されている。どちらが本当なのだろう。
故宮ゆかりの品々は、現在でも、台北、南京、遼寧省、天津、上海博物館および外国の博物館に、保管されている。
明三代の皇帝である、永楽帝は、皇后が死んで墓が必要になったため、墓を新しく造らせた。現在は、明の十三陵という名前の観光地になっている。1421年に、雷が落ちて、宮殿が炎に包まれた。6度目のモンゴル遠征への途中で、馬から落ちて、永楽帝の命がつきた。
明以前は、宰相が力を持っていて、皇帝と反目することもよくあったが、明以降は、決策、議政、行政は皇帝の下にあり、議政は内閣、行政は六部(戸、礼、兵、刑、工)を司り、その下には三司があり、(分割地方、司法、軍事、行政)を行い、三司の下には按察使司、都指揮使司、布政使司が働く構造となっていた。さらに、明、清の時代になると、外朝から内廷へと政治の舞台は移った。
ところが、明朝14代の皇帝である万暦帝の時代になると、皇帝は、20年以上も、大臣と接見することはなかったと言われる。当然、宦官が皇帝の代わりに実務を行ったため、宦官が権力を持つようになり、内廷と外朝(内閣)との権力争いが激しくなった。
明の最後の皇帝である、崇禎帝は政治に熱心で、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていた賢人だったが、猜疑心が強く、臣下を信用しなかった。重臣を次々に殺し、特に満州族からの防衛の責任者であった袁崇煥を無実のまま殺したために、民衆の不満が高まった。ちょうどその頃、李自成が農民とともに叛乱を起こし、故宮に入り、略奪・強姦・殺人を行った。さらに放火までしたが、幸いなことに故宮のダメージは少なかった。
その後、李自成軍は、清と明遺臣の連合軍と激突し、大敗し、北京を逃げ出した。その後は、ドルゴンから最後の皇帝である溥儀まで、約260年間という清王朝の長い支配が続いた。
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