偉大な教育者を見極めるための点と線の論理
教育者として偉大かどうかというのは、生徒の心にどれだけの「点」を残したかで評価するものだろう。点と言うのは志や、師の想いのタネと言えるかもしれない。次元で言えば、一次元の世界だろうか。もちろん、点だけでは、世の中は変わらないし、時代を動かす力とはならない。それが、世の中を変え、時代を動かす力となるのは、平面や立体の次元で点と点を結び、縦横に無尽に広がっていったときであろう。言いかえると、志という種子は一次元のものである。ところが、この種が蒔かれると、種はいろんな土地に行き二次元的に根を張り、三次元に幹が縦に伸び、最後に身を結ぶ。一次元が三次元に変化したことになる。王陽明の唱えた陽明学でいえば、知を教育者が教え、学生が教わった知をもとに、行つまり行動に変えていく。それでこそ、師弟あわせた知行一致の行動となりえるのだ。 たとえば吉田松陰の人を例にとってみよう。吉田松陰の人となり、思想なりを、平面でとらえようとすると、大変な誤解をうみかねない。吉田松陰は尊皇敬幕者<天皇を尊敬し幕府を敬う>で、勤皇武士<倒幕論者>で、国粋主義者で、かたき討ちを礼賛し、弟子に間部詮勝や水野土佐守を暗殺するように示唆したテロリストでもある。以上は松陰の手紙や行動を、一面でみると、まさに事実であるかもしれない。しかし、一面ではあるが、全体像ではない。別の一面を覗くと、平等主義者で、国際人で、平和主義者でもあったと、上記と全く反対のことも言える。これでは、松陰の本質はまったくわからないことになる。 同じ人間でありながら、まったく別の顔を持っているため、人によっては、松陰は二重人格者ではないかとか、思想と行動が矛盾しているとか、松陰には一貫した思想がなかったとか、後世の人々は様々に自分勝手な批判や評価をくだしてきた。 しかし、これは松陰を見る視点が異なるために起こっている現象にすぎない。たとえば、これを一次元で見ていこう。物事の本質であるコアの部分をとらえようとする見方である。吉田松陰の思想に流れているのは、差別はあってはならないという平等思想であり、人間思想だろう。この時代は、他の藩校がすべて武士のための学校であったにもかかわらず、松下村塾は塾生を受け入れる際は、身分による差別はしなかった。また、門人に対しても「あなた」と呼び、自身のことを「ぼく」と読んでいる。ともに学び、思索しようとした優れた教育方法である。これらのことを考えると、作家の童門冬二氏の言葉を借りれば、松陰は、常に相手の才能を見抜き、伸ばしていく実証主義者で、さらに意見交換の中から物事の本質を探るために、なにが必要かということを本人に気付かせる教育行ってきたと言えるだろう。決して「教えてやる」といった態度はとらなかった。そういった点では、ソクラテスに似ていたかもしれない。 ソクラテスは「無知の知」を唱え「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、智恵の上で少しばかり優っている」と確信していた。だから、「産婆術」と呼ばれた対話法によって、相手の矛盾や行き詰まりを自覚させ、相手自身で真理を発見させた。 松陰の死までも、ソクラテスの死に似ていた。ソクラテスは「単に生きるのではなく、善く生きる」という意思を貫き、弟子にすすめられても脱獄せずに、毒杯をあおり死んでいく。松陰も安政六年に死罪が宣告され、斬首される。その死ぬ以前に、童門冬二著書の「吉田松陰」でこう述べている。「(抜粋)死んで不朽になる見通しがあるのならば、いつでも死ぬべきだろうが、反対に生きて大事業をなす見込みがあるのなら、いつまでも生きるべきである。だから生死というのは度外視すべき問題である。」 それでは、こういったコアの部分を行動に移そうとするとどんな問題がでてくるだろうか。当時、松陰を取り巻いていた社会環境は、幕末とはいえまだ封建的であり、武士社会であった。いわゆる一次元の思想を二次元に展開し、行動しようとすると常に制限があったとかんがえるべきだ。知行が一致しないのである。たとえば、人間は誰しも平等であるべきで、それは真実だと考える。しかし、現実的に平等かというと武士と町人、農民の間に身分差がある。これは真実と現実が一致していない。これは、どこかが間違っているにちがいない。間違っているなら変えればよい。変えるには、何かのもとで平等という根本思想が必要だ。民衆自体が平等主義に目覚めるのが理想だが、三百年も封建主義のなかで暮らしてきた庶民にそれを求めても時期尚早だろう。それなら、幕府が持っている政権を天皇に返せばよい。そうすれば、少なくとも天皇のもとでの平等を第一段階として達成できるのではなかろうか。そのためにはなんとしても、幕府自体が変わってもらわなければならない。しかし、幕政改革がなかなか進まないのは公人であるべき幕府要人が私人として利益や権益を求めて、振る舞い活動しているためではないか。それが障害となって、改革が進まないのではなかろうか。その私人として振る舞う要人が障害となっているのであれば、その要人を暗殺してしまえば改革が進み、幕府自体が自浄作用を持つ可能性がある。もし幕政改革がすすまなければ、倒幕運動はやむをえまい。松陰がこの通りに考えたかどうかはわからない。しかし、おそらくは、これに近い考え方であったろう。 松陰という人間は、とてつもない大きなコアの思想家だった。そのコアが大きかった分、自分でも二元的な広がりで活躍したいと考えた。しかし、一次元に住んでいる人間が、二次元で動こうとすると、既に二次元で住んでいる人の常識的な眼で見ると、とても奇妙な行動に思えることがある。それが、黒船が来た時、アメリカに渡ろうと行動し、評定所で問われもしないのに、間部詮勝暗殺を企画したことなどを自分から言いだすなど、はたから見ている人にとっては、常軌を逸しているように思える。松陰の中では、常に知行一致の行動なのだが、凡人には理解が難しいだけだろう。 その点、松陰の弟子であった絵描きの松浦松洞や吉田栄太郎なども常識人として二次元的な見方しかできない人だった。弟子として師匠にどうあるべきか、ということを問いながらの悩み苦しんだ人生だったようだ。だから、松陰から暗殺指令や情報収集の命令がでても、常識人で二次元的な眼で判断せざるをえなかったし、松陰の期待したとおりの暗殺行動には踏みきれなかった。悩んだすえ、だした結論が、松陰と距離を置くことだった。 その点、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、赤根武人、山県有朋、伊藤博文、山田顕義などの松下村塾出身者は違った。松陰から教わったものはコアの部分だけで十分で、あとは自分でその学んだコアの部分を自分なりに消化していけばよいと自負していた。だから、自分の人生でコアを自由に展開していったのである。松陰が残したのが点だとすると、自分の人生を使って、面の動きとしていったのである。 何を言いたいのかと言うと、教育者や思想家というものは生徒や弟子に教えるべきものは点であり、線でしかないのだろう。教育者が生徒に教えられるものは、点でしかない。生徒の心に植えつけられた点は、生徒自身が点から点へと線を引く作業が必要なのだ。教わった私たちは、その点を自分と言う人生のなかで、どう展開し、平面をつくり、さらに三次元まで展開できるよう努力しなければならないのだ。 人を評価するのはとても難しい。さきほどの一次元、二次元の話は孫文ほどの人物でもやはり同じだった。孫文と言う人は、コアの部分は清朝を倒すことであり、三民主義を二次元の分野で実行にうつすことだった。ところが、革命を進めていく中で、孫文は満州を売り歩く売名家とも呼ばれ、どんなにコアの部分を説明しても、二次元に住む人々は彼の理想が理解できず、あまつさえ孫文から離反していく。しかも、理想を二次元展開していくにも軍閥との闘争で袁世凱との妥協が必要になり、国共合作まで行う必要性にかられる。 結局、孫文に対しても、評価が分かれるのは、コアの部分と面の部分で評価が異なるからだろう。 もう一人、例をあげるなら、周恩来という偉大な人物がいる。ところが最近、周恩来に対する評価が、落ちて来ているようだ。結局、毛沢東に迎合した人間だったとか、毛沢東のイエスマンだったのではという意見も聞かれる。一面的に見れば、そう見えるかもしれない。私自身の考えでは、周恩来は当時の耶律楚材ではなかったろうか。 陳舜臣の「耶律楚材」には、楚材がチンギス・ハンに仕える契丹人の家臣、耶律阿海に、チンギス・ハンによって人民の苦は軽減されず、死屍累々の情景を見てきたと問いかける。それに対して、阿海は、これからチンギス・ハンに仕えようとする楚材に対してこう言う。「わしがいなかったら、そなたの見た死屍は、もっともっと多かったであろう。わしはワン・ハンのところに使いして、そこでチンギス・ハンを見たとき、からだの震えがしばらくとまらなかった。これは地獄から出て来て、この世に死骸の山を築く男であるまいか。この男に手綱をかけて、それをひきしぼらねば、この世が地獄になってしまう。」阿海のこの言葉に対して、楚材は「志を同じくする者です」と答える。その後、楚材は、チンギス・ハンの宰相となり、まさに菩薩のようにチンギス・ハンの殺りくを抑制して行くのである。周恩来もまさに、毛沢東を抑制し、人民を守ろうとした人物だった。 張良の場合も似ている。項羽を破り天下を治めた劉邦であるが、劉邦とともに戦場を駆け巡った将軍達のほとんどが、劉邦によって滅ぼされ、病死したと言われる。さらに劉邦の奥方であった呂太后(戚夫人の両手両足を切って人豚にしたことで有名)によって、呂氏一族の独裁が始まると、多くは地位を追われている。将軍達に力を残しておくと、いつか造反するかもしれないという単純な理由だった。この点は、毛沢東もまったく同じ構図で、共産党時代の盟友のほとんどが失脚させた。その時、張良という天下一の智者は、劉邦が天下を取ったとみるや志は遂げたので、さっさと引退している。そのおかげで殺されずにすんだ。こう考えると、抑制ができないと見るや、殺されないように逃げ出す道も一つの方法と考えるべきだろう。 これは家庭を例にとってみれば、よくわかることだ。父親が暴力を振るう家庭は地獄だろう。これに母親が父親の言いなりで、暴力的だと、子供にとっては二重に地獄になってしまう。しかし、母親は子供全員を守りたい。しかし、全員を守ろうとすれば、母親が追い出されるか殺され、子供全員が死んでしまうことが予想できる。母親が父親を抑制することによって、5人の子供のうち、一人だけの子供の死で終わったら、母親は、残り四人の子供を守った菩薩の行いになるまいか。人は、そんな家庭なら、逃げてしまえばいいじゃないかという。戦国時代の「楚」の詩人、屈原は王に意見を受け入れてもらえず、さらに同僚の陰謀で地位を追われ、入水自殺する。しかし、それでは子供はどうなるだろう。もちろん、子供を連れて逃げることもできない。それは、父親を毛沢東、母親を周恩来、子供を人民にたとえてみれば、よくわかることだ。当時、周恩来が逃げていたら、毛沢東の暴走を止める人は誰もおらず、さらなる人民が犠牲になったことは疑いないだろう。 社会的評価だけでみると、その人の本質までも失ってしまいかねない。人間は社会的動物であるかぎり、時代や社会環境からは逃れられない。だから、後世の人の目でみると、限定され制限された時代に、どうしてあのような行動をとり、あのような事を言ったのかと不可解に思うかもしれない。それでは、誰が偉大な教育者であるかを見極めることはできない。私たちは、社会的評価に惑わされず、人間の評価をコアの部分に置いて、その人の偉大かどうかを判断していくべきではなかろうか。
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