日記・コラム・つぶやき

2014年5月 8日 (木)

北京レポート(78)故宮

北京で有名な観光地といえば、第一にあげられるのは故宮だろう。明清時代の政治の中心であり、建てられてから580年以上過ぎたことになる。ラスト・エンペラーの溥儀が去ってからも、建物はその時のまま、残された。

 

この紫禁城には、一説には明代には、主従、正副合わせて九千九百九十九の部屋があるとされていたが、1973年には、八千七百四しかないと言われている。ほとんどの部屋が皇帝に仕える千人もの宦官(最盛期は十万人とも言われる)や女官ために使われた。最後の皇帝と呼ばれた、溥儀のころには宦官の数は約二百まで減っていた。面積72ヘクタール(東京ドーム15個分)で、城壁は10数メートルの高さがあり、城壁の周りを幅50メートルの堀が囲み、城壁の角に角楼がそれぞれ立っている

R_12 (景山から故宮を望む)

景山から故宮を見渡すと、黄金色の屋根、赤い壁が眼前に広がる。屋根の色と赤い壁は、陰陽五行説に基づいて建てられたそうだ。建物や敷石のほとんどはレンガ造りで、レンガは水路によって運ばれた。レンガは一億個以上も使われた。レンガ一枚24キロの重さがある。北京市内に瑠璃廟という場所があるが、屋根の瓦は、そこで焼かれたようだ、地名だけが残っている。現在では瓦は焼いていないが、筆や文房具の有名な場所として、有名。その屋根には、9は皇帝を表す数字なので、屋根には9匹の獣が置かれているのが見える。

 

故宮を外敵から守るために、故宮は内城と外城の二つの大きな地区に分けられている。内城は、故宮と北海、中海、南海を囲んだ地区、もう一つは東直門、朝陽門、安定門、徳勝門、西直門、阜成門の外枠。主に満州人が住んでいた。

 

外城は、山安門、右安門、永定面、左安面が前門の下に位置する。ここには満州族以外の漢族が住んでいた。江戸城も外敵から守るため、外堀が何重にも敷かれていて、その名残が大手町のお堀端や、石垣、城門などに残っている。さらに、江戸の旗本、城詰めの武士が住む場所、各藩の大名屋敷、一般庶民が住む場所など比較的区分けされていた。そう考えると、日本には宦官という特殊な役職がない点を除けば、城を取り巻く環境は日中とも、あまり変わらないのかもしれない。

R_10 R_11 (午門)

R_9 (金水橋)

一般的な観光では、前門の午門から入る。午門をでると、小川に金水橋がかかってあり、天子が通れる中央の橋とランクの分類された臣下が通る橋がそれぞれ決まっていたそうだ。

R_7 R_8 R2 (太和殿)

太和殿:午門を通り抜けると、太和殿が目の前に広がる。太和殿は、故宮の建物の中で、一番大きい建物となり、皇帝の即位、結婚、誕生日、将軍の出陣、元旦、冬至などの数々の式典に利用された。昔は、太和殿の前の広場に、2万人にもの参加者が並んだと言われている。官位によって、着るべき服装の色(赤、青)や帽子が異なっていた。建物の外には、青銅製の亀、鶴の置物がある。太和殿の中に入ると、皇帝の玉座があり、皇帝の冠が保管されていた。玉座のまわりには龍を刻んだ6本の柱が立っていて、さらに天井に龍の彫刻がある。この天井を支えるために合計、72本の柱がある。太和殿の柱にもともとは、クスの木が使われたが、現在では、松の木に置き換わっているそうだ。

 

もし、紫禁城を見学するにあたって、事前に「ラスト・エンペラー」のDVDを見ることができたら、感慨はひとしおだろう。皇帝の即位式に参加するために、大臣達は午門の前で朝午後三時に開門を待つ。太鼓が鳴り、門の扉が開くと、金水橋を渡り、太和殿に整列する。皇帝が現れると、額を三度地につけ、それを三回繰り返す。映画では、太和殿を背景に、ずらり並んだ群臣の拝賀を受ける幼い溥儀の姿を見ることができた。三歳の幼児であった溥儀は、自伝でこう述べている。

 

「太和殿へ連れていかれ、高い大きな座席にすわらせられたわたしは、あまりの寒さに、もう我慢ができなくなった。ひざまずいてうしろからわたしを支えていた父が、もじもじするなと言ったが、私は逆らって、『いやだ、いやだ、帰りたいよう』と泣きだした。父は困惑しきって、汗をたらたら流していた。人々が私の前で順に叩頭するあいだにも、わたしの泣き声はますます大きくなった。父はわたしをなだめようとして言った。『泣くんじゃない。すぐ終わるから』わたしをなだめるためのこの言葉は、廷臣たちを嘆かせた。彼らはそれを不吉な予言と取ったのだ」

物語の始まりの伏線としては、おもしろい挿入話であった。

 

重大な失敗を犯し、責任を問われた宦官や大臣は、棒でぶたれ、皇帝が許さなければ、そのまま死ぬまで打たれたとも言われる。ある宦官は大臣25名に棒打ちを命じた。命令する者のつま先が開いていると、「着実に」という意味で、棒打ちは手加減して打つ。しかし、叩かれ度合いによっては、不具になるまで打ちすえられることもあった。つま先が閉じていると、「細心に」という意味であるため、死ぬまで打ちすえるという意味になったと言う。太和殿の前の石畳には、そういった大臣や宦官の血が沁みこんでいるのかも知れない。

 

中和殿:太和殿の後ろにあるのが、中和殿。皇帝が農具を閲覧し、非公式な会議もひらけた。時代によっては、皇帝が政務を始める時に、休憩し、くつろげる場所でもあった。

 

R_5 R_6 (保和殿)

保和殿:保和殿は、除夜に蒙古やチベットの王族を招いて宴を開く宴会場であり、科挙の最終試験を行う場所でもあり、さらに皇帝が大臣を集めて、公式行事を行う場所となった。

 

注目すべきは、龍を刻んだ巨大な一枚岩のレリーフ。これに似たレリーフは市内のあちこちで見かけるが、最大のものはここだけだろう。重さ250トンの巨大な石をどうやって運んだのだろうか。この巨石は冬場に運搬された。そのために、500mごとに井戸を掘り、井戸から水を汲んでは、道に水をまき、道を凍らせ、1000頭のロバを使い、2万人もの人が労働し、石切り場から28日かけて、北京に運んだと言われている。このレリーフの石段は皇帝だけが歩くことができた。二枚あって、一枚岩の長さは16.57m、幅は3.07mある。

5r乾清宮)

乾清宮:乾清門を通るとそこからは、皇帝個人の生活の場で、内廷と呼ばれていた。内廷でまず、目に着くのは乾清宮、雍正帝以前の皇帝が寝起きしていた。二階建てで、27のベッドと書斎があったと言う。それでは、公務はまったく行わなかったかというと、皇帝によって異なった。というのは、皇帝によっては、生活の場がそのまま大臣と会う政務所となり、さらに上奏文の処理もここで行われた。乾清宮の玉座の背後には、「正大光明」の額がかかっていて、清代には後継者の名を書いた封印した紙札を額の後ろに隠しておいたという。もう一通の勅書は、皇帝が常に身に付けていた。皇帝が亡くなると、二通照らし合わせて、次の皇帝の名を公表したと言う。

 

交泰殿:皇帝の印章である、玉璽を保管した建物、玉璽だけでも25個あったと言われている。水時計や様々な時計が展示されていた。

R_3 R_4 (交泰殿)

坤寧宮:明代には皇后の寝所となっていて、オンドルが備えられた建物だった。皇帝が妻と過ごす赤の部屋がある。清代になってからは、寝所として使われず、満州族の祭祀の場所として使われた。

 

雨花閣:乾隆帝がチベット仏教を信仰したときのチベット式建物。融和政策のために作ったと言われている。

 

養心殿:清五代雍正帝は、乾清宮に住まずに、ここ養心殿に住んでいた。皇帝からの命令は、司令監から、文本房、そして内閣を通じて、各地域に流されたのだが、雍正帝は独裁政治を行うために、軍機処を養心殿の前に配置した。軍機大臣を直接呼び出し、上奏、承認を与え、内閣を通さずに関係部署へと伝わり、独裁政治を行うことができた。この乾清宮は、その後も八人の皇帝の、仕事場であり住居となった。故宮の建物の中で、ガラス窓を初めて使った部屋がある。ガラスは、中国になかったので、海外から輸入したものだった。

 

乾隆花園:乾隆帝が気に入っていた花園、曲水の宴、杯が石の上の溝にはった水の上を流れ、杯が止まった場所の人は歌を読まなければならない。読めなければ、罰として酒を飲むというゲームが行われた。当時の娯楽としては、その他にも、演劇、絵画を描く、ゲーム、花見、詩を吟じるなどがある。

 

養性殿:西太后は、実権はもっていたが、皇帝ではなかったので、ほとんど40年間、故宮にいる間だけは、養性殿で過ごした。

 

その他の建物:西側の宮殿(西東六宮)には、側室が住んでいたし、貞順門内には光緒帝が誰よりも愛した珍妃が西太后の命令で投げ込まれ、殺された井戸がある。詳しくは、私のブログ「西太后と光緒帝の謎」を参照のこと。

 

景山:裏手の神武門から景山公園に抜けられる。景山にのぼって頂上に建っている万春亭にたどりつくと、故宮とその周辺を俯瞰できるので人気がある。景山は人工的に作った92メートルの山だ。もともとは、1420年、明の永楽帝の時代に、元の大都にあった宮殿を壊し、故宮とその堀を造成するに当たって、残土の処理に困り、後ろに積み上げたのが、山になったといわれている。鄭和が六度目の航海に出航した頃の事である。その景山に登ると、中国語で槐樹(カイジュ)、日本ではエンジュと呼ばれる樹木がある。明代の最後の皇帝、崇禎帝が首を吊った樹木だという。約三百年以上前の話なので、おそらくその木ではなく、後に植えられた木だろう。明の終わりに、李自成軍という反乱軍に攻め込まれたが、皇帝に全く人望がなかったため、宮殿内部には抵抗しようとする明の軍隊も宦官もほとんどいなかったという。この李自成軍は、百姓の寄せ集め軍隊だったので、すぐ滅ぼされ、清の時代に移行していく。この景山ルートから、皇帝の私的な建物から入り、公的な場である太和殿を抜け、前門を抜けるという逆のルートもとることができる。

R_2 (景山)

秘宝:故宮内にある収蔵品、秘宝の数は、100万点とも150万点とも言われている。故宮の文化財で、主な品は、書画と玉器工芸(30,000点)。特に、玉は、白玉、青玉、漢玉、緑玉があり、皇室専用として崑崙山脈から運ばれた。大きい玉石は三年かけて北京まで運搬されたと言われる。

しかしながら、歴史の中で、かなりの数の収蔵品が亡くなった。宦官が勝手に持ち出して、売ってしまったり、溥儀は、宦官に恩賞で与えたり、自分でも資金難になると、盗み、売ったとされている。溥儀が満州から逃げ出すときは、書画120及び宝石をもって逃げようとしたがソ連につかまり、書画関係は、現在、遼寧省博物館に保存されている。さらに、蒋介石が目ぼしい貴重な品は、台湾に持ち去ったため、故宮内の秘宝の数が少なくなったと言われている。1989年 日本軍が故宮に入ったときは、すでに国宝は西部に持ち運ばれ避難していたため、ほとんどの秘宝は無事だった。ただ、銅製の甕 66個、大砲 4門、灯篭 91器 を盗み、天津で軍需用に精錬されたという。それ以外の徴用された品は、

終戦後、ほとんど回収された。故宮内にある防火用の甕には、日本兵士が刀で傷つけた跡が、あると言われている。地金が見えているのでわかるのだそうだ。しかし、別の本では、義和団事件のときに連合軍が削り取ろうとしたためと記されている。どちらが本当なのだろう。

R (甕)

故宮ゆかりの品々は、現在でも、台北、南京、遼寧省、天津、上海博物館および外国の博物館に、保管されている。

 

明三代の皇帝である、永楽帝は、皇后が死んで墓が必要になったため、墓を新しく造らせた。現在は、明の十三陵という名前の観光地になっている。1421年に、雷が落ちて、宮殿が炎に包まれた。6度目のモンゴル遠征への途中で、馬から落ちて、永楽帝の命がつきた。

 

明以前は、宰相が力を持っていて、皇帝と反目することもよくあったが、明以降は、決策、議政、行政は皇帝の下にあり、議政は内閣、行政は六部(戸、礼、兵、刑、工)を司り、その下には三司があり、(分割地方、司法、軍事、行政)を行い、三司の下には按察使司、都指揮使司、布政使司が働く構造となっていた。さらに、明、清の時代になると、外朝から内廷へと政治の舞台は移った。

 

ところが、明朝14代の皇帝である万暦帝の時代になると、皇帝は、20年以上も、大臣と接見することはなかったと言われる。当然、宦官が皇帝の代わりに実務を行ったため、宦官が権力を持つようになり、内廷と外朝(内閣)との権力争いが激しくなった。

明の最後の皇帝である、崇禎帝は政治に熱心で、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていた賢人だったが、猜疑心が強く、臣下を信用しなかった。重臣を次々に殺し、特に満州族からの防衛の責任者であった袁崇煥を無実のまま殺したために、民衆の不満が高まった。ちょうどその頃、李自成が農民とともに叛乱を起こし、故宮に入り、略奪・強姦・殺人を行った。さらに放火までしたが、幸いなことに故宮のダメージは少なかった。

 

その後、李自成軍は、清と明遺臣の連合軍と激突し、大敗し、北京を逃げ出した。その後は、ドルゴンから最後の皇帝である溥儀まで、約260年間という清王朝の長い支配が続いた。

2014年3月25日 (火)

北京レポート(77)中国語語学学校<6>新实用汉语课本5テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本5の本文を和訳したものである

{新実用漢語課本5 和訳}

51課 <母母の愛

母は1日,1日老いてゆく、歩くことももうとても遅く見える。彼女の息子と娘は皆もう成人となった、彼らはそれぞれ自分の事で忙しく、帰ってきてもあわただしく、ちょっとだけ彼女に会い、また慌ただしく立ち去っていく。あの頃、息子と娘達がまわりでにぎやかに囲んだ情景を思い出すことは、今では、夢の中のようだ。母の家は寂しくなりました。

その年、私は湖南に、長期間行くことになりました。私が帰って来ると母はとても喜んで、彼女は私に何を持ってきたら良いかが分からず、私のために食事を炒めるので忙しい。酒を飲みますか?母は私に聞いた。私は飲むと言う、母は忙しく私に酒をついだ。

私はやっと三杯飲んで、母は言う:酒を飲むのは良くないよ、少しだけ飲みなさい。私はもう飲まないつもりです。コップを下におろすと、母は笑って、また言う:こんなに長く家を離れたのだから、また飲んで。私はまた飲む。やっと二杯飲んで、母は、また言う:もう飲めないの、飲みすぎたのね、料理を食べないと、香りがなくなるよ。私は杯を止めると、母はまた笑って、言う:五杯飲みましたか?それならもう一杯飲んで、偶数にしなさい。彼女は自分で言い終わると、酒を注いだ。すぐ飲んだ。今度こそ、酒を止めるつもり。母はまた笑って私を見て、言う:まだ飲みたいのではないか、それならまた一杯飲みなさい。私はまた一杯注いで、母は私が飲むのを見ている。

もう飲んだらだめ、飲むのを許しません。母は、今度は、酒瓶を持ち始めました。

私は、その酒を飲むと、涙がすぐ出てきて、私はコップをさかさまにおきました。

それなのに母はコップをきちんと戻し置いて、またゆっくり私に一杯注いだ。

寒くなったので、また一杯飲みたくなったでしょう。母は言って、私が飲むのを見ています。私の涙は急に湧いてきました。

母性愛とは、何でしょう?これこそ母性愛なのです、息子が飲むのを恐れ、また息子に飲むように勧める。私の母!

私は母家の遠くないところにある小さい建物へ引っ越ししました。母はその日に突然来て、四階まで上がり、息が苦しなり、ドアから入った後、ドアによりかかって少し休みました、それから私が眠る六尺の小さいベッドがどこかに置いてあるのかを見た。その時の私の娘はまだ小さく、私の妻は一緒に大きいベッドに寝ていて、私の六尺の小さいベッドは本が置いてある小屋の中にありました。小屋は本当に小さくて、ベッドは窓の下の暖房のそばに置くことしかできなくて、ベッドの東端はクローゼットで、西端はガラスの本箱でした。

あなたの頭はどちらを向いて寝るのですか?母は小さいベッドを見て、私に聞きます。

私は、頭は、東の方に向かっていると答えた。その方向はクローゼットです。「それはよくない」、母は言った、服の上はほこりが多いから、あなたの頭は西方に向って寝なさい。

母はちょっと座って、突然言った:ガラスの本箱に面した方で、寝ちゃだめよ、もしも地震があれば、ガラスが壊れてあなたを傷つけるよ、駄目よ、駄目です。

母はなんと地震を思いついたのです!百年に一度あるかないかの地震。

「はい、頭は東の方に向って寝るようにします。」私は言って、また枕を移した。

少し待つっていると、母はこちらを見て、またあちらを見て、また突然言う:顔は中の方に向っているか、それとも外の方に向かって寝ますか? 顔は中の方に向っています。私は母に対して言った。私は身体を右へ向いて寝るくせがあります。駄目、駄目、顔が暖房に向かうと、とても乾燥していて、のどが受けつけない、あなたの喉は小さいときからよくないでしょう。

母は言った。「はい、それでは私は、顔を外に向けて寝るようにします。」私は言った。

母は掛け布団を見て、すこし敷き布団をさわり、また不安げに、言った:あなたの顔が外に向かって寝るのは、身体の左側がベッドについて、駄目、駄目、これが心臓によくありません。あお向けに寝て、あお向けでよく眠りなさいという母の話を聞いて、私は言った。はい、私はあお向けで寝ます。

私の涙は、急に湧き上がり、とどまりません。

私はこれまで母がそんなことを考えながら、長い夜を寝ていたなんて考えもしませんでした。私の母!

私の母は年老いて、よく中庭の入り口で外の方を見回し、手は壁を支えながら、立っていたものです。毎回、私が行くたび、彼女はいつものように喜んでくれます、あの当時(子供の頃)、私は中庭の入り口で、母が外から帰って来るのを待っていて、見つけては、同じように喜んだものです。

私は毎日母に一度、(母に)会いに行くこと以外では、彼女が料理材料を買うのを手伝い、床をきれいにし、ほかに何をしてあげられるのだろうか?私の母!私の背が低く小さくて、慈悲深くて優しい、白髪と灰色の母。。。。

 

<閲読><背起瘫痪的父亲读大学>

半身不随な父を背負って、大学で勉強

農村からの一人の大学生がやって来ました。(彼)自身の家庭で不幸が発生してからというもの、そんな逆境の中、半身不随になる父を背負って、彼は大学で勉強しています。この事は、蘇州大学三学年の学生である、王中という名の学生の身に起こったことです。蘇州大学の学生寮のビルの近くに、一間10平方余りの小さい家があり、そこが王と彼の父とが住んでいる場所です。二台の小さいベッドが部屋のほとんど全体を占めていて、部屋の中で貴重なものは、同級生が送った12寸の白黒テレビです。半身不随になって、半年になる父が静かにベッドに横たわっていて、客がくると、会ってただうなずくことしかできません。

記者が家に入ると、王中の父はぼろで、古い車椅子上に座って、目は家の外の日光を見ていて、自分で歩いて出て行く能力がありません。彼はまだ61歳なのだが、とても年寄りじみて見えます。彼は言った、息子を除けば、家にはすでに誰も身内はいません、自分が半身不随になった後で、(畑を)耕作することができなくなって、自分で生活さえ世話することはできなくなりました。その後の生活に話がおよぶと、彼はどうするべきなのかわからなかったと言いました。彼は言った、息子はとても親孝行で、彼を嫌わず、学校へ行って、さらに彼の面倒をみてくれる。彼はまた言う、息子が一歳のときに、妻は亡くなってしまい、息子を大人になるまで育て上げるのは確かにとても容易なことではなかった。息子は小さいときから彼の仕事をするのを手伝い、彼とともに、受けた苦しみは多すぎました。でも、息子は負けまいと頑張って、なんと大学に合格し、その上学習成績も良く、彼のこのことは父を満足させる。彼はただ息子の足手まといには、なりたくはありません。

蘇州大学商業学院は、王中が父を蘇州から連れてきたことは知っていた、すぐ学生活動経費から1000元を王中の生活費として出した。記者はさらに、蘇州大学はすでに王中の授業料を減免することを決定したことを知った。王中がいるクラスの同級生がお金を出して、力がある人は力を尽くし、みんなが方法を考え、彼が難関を乗り越えられるように助けている。現在、クラスの同級生は、すでに順番に王の中の父を面倒みることを始めました。

記者は再度、この親孝行で忍耐強い学生を取材しました。彼は記者に教えたことは、父を蘇州に連れてきて、生活をするようになったが、一方では大学で勉強しながら、一方では父の面倒を見ている。彼はそのための充分な準備をしました。本来は自分でこの難関を乗り越えたいと思っている。他の人の迷惑にならないように、さらに彼は自分がしなければならない事をしただけだ、と思っている。現在、社会の各方面で、急に彼を少しでも助ける方向に向かっているが、彼はみんなに感謝しているとともに、またプレッシャーを少し感じています。彼はとても楽観的に思っていて、人は、自分がどんな家庭に生まれるかは選ぶことができないものです、しばらくは、物質面では、他の人ほど豊かではありませんが、自分は長所もあり、それはつまり特に苦しみに耐えることができ、貧しさを変えることができるとかたく信じている。

 

<会話><父母的成了一种担>両親の愛は、負担だった

あなたを取材できてうれしく思います、聞くところによると初めて試合に参加した時、あなたの両親に教えなかったんですか?

はい。小さいときから両親の愛の中で長く育てられ、私が彼らを傷つけるのを見たくないので、大事や小事に関わらず、私(自身)で管理しています。しかし、私はずっと独立を望んでいました。初めてダンスの試合に参加したとき、私が踊るのが下手だと彼らが言うのが怖かったのです、私を参加させないかもと思い、彼らに言わずに、こっそりと行きました。私はこう思いました、もしもうまく踊れたら、もちろん彼らに教えますが、もしもうまくいかなかったら、彼らは知らなかったでしょう。そのように隠すことで、私は初めて独立する楽しみが得られました。お父さんとお母さんの過剰な愛のために、私はずうと一種の負担を感じていたのです。

両親の愛がどうして一種の負担になるのですか?

何人かの同級生から見れば、これは一種の幸せでしょうね。多くの同級生はうらやましがって私に言ったものです:お父さんが毎日運転してあなた迎えに来て、いいわね。実は彼らは知らないのです。毎日、学校が終わると、お父さんがそこにいるのを見ると、私は頭痛がしました。当時、私の最大の夢は、一台の自転車に乗って、自分で学校へ行くことだったのです。

あなたが北京に来て学校へ行くようになってから、両親はもうあなたを管理しなくなったのですか?

当時十五歳で、私は青島の家を離れて、北京に来て学校に進んだのですが、毎日少なからず、やらなければならない事は、家と電話で連絡することだったのです。

現在、あなたはすでに映画スターですが、両親はまだ、あなたを管理しますか?

スターなんて、とんでもありません。少し前に、私は北京で一軒の家を買いました、お父さんとお母さんに引っ越してきてもらって、私と一緒に住んでいます。実は、彼らは私の面倒を良くみてくれます。しかし時には私は本当に、もう一軒の家を買いたくなります、自分の空間を持ち、独りでの家の中で仕事をし、本を読み、学ぶことができるからです。しかし私のお母さんは反対して言います:あなたは現在とてもいい暮らしで、自分の部屋だってあるのに、なぜまた家を買うのですか?

現在、私は毎晩出て行って、普通は十一時に家に帰らねばなりません。これは私のために両親が立てた決まりです。もしも少しでも遅れるようなら、彼らは私にすぐ電話をかけます。すぐ家に帰ってくるよう催促するので、私はとてもうっとうしいと感じています。本当は、両親の考えていることは、私も理解できるので、彼らが私ために、良かれと思ってしているのです。しかし、私はすでに大きく成長して、多くの事が自分でうまく処理することができるので、両親は全く安心できるはずなのです。

 

52課 <祝你情人バレンタインデーおめでとう

私は銀行に預金して帰ってくると、ただ一面の黒煙だけが見えました、私達が住んでいたビルがすでに廃墟になっていたのです。私は、どんな事が発生したのか明らかになるまで待っている間、私と大家の奥さんは、病院に行くタクシーに既に乗っていました。病棟の中で、私は志強を探し当てました。なんとありがたい!彼のやけどはあまりひどくなく、すでに意識が回復していました。私は走っていって、腰を曲げ、彼の手をしっかりと握って、泣き始めました。大家の奥さんの家は大火の中で燃えつきてしまいました。

しかし、彼女は私達を慰めて言った:”大丈夫です、保険会社が弁償してくれます。”私のと志強は、しぶしぶ少し笑いましたが、心の中で思いました:あなたの家は保険がかかっていても、私達の財産は保険がないんです。私の夫である志強は、米国の大学で博士課程を学んでいます。私は彼に付き添って来ました。私はずっと衣服のデザインの修士の学位で奨学金をもらって、学べることを望んでいました、しかしこの専門的な奨学金はアメリカ人でさえ手に入れることの可能性が少ないとのことです。だから、私達は生活を大変節約し、お金を少しずつためて、いつか私も自費で私の勉強を継続することができることを望んでいました。しかし今や、一度の大火が私達の物をみな焼き尽くしてしまいました。手元に残ったのは、以前、貯めた数千ドルだけです。

私は涙を拭いて、志強の手を握って、こう言って彼を慰めました;”大丈夫よ、医者があなたは二週間以降で退院することができると言っています、私達にはまだお金がいくらかあるから、一切最初から再び始めることができますよ!”

大家の奥さんは、私達があらかじめ払っておいた三ヶ月家賃を私達に戻し、また、私達が比較的に安い家を探せるように手伝ってくれました。

家賃はもとの三分の一で、その上、私達は前もって部屋代を払う必要はなかった。

志強の入院に付き添っている時、私は少し安い(柄つきの)布を買い、病院へもって行きカーテン、ベッド・カバーを作り 、さらに残った布で、病棟にいる子供のために二匹の子犬を作りました。志強は大きい病棟に住んでいるため、みんなは私達の話を知っていて、入院中の友人であった、老人は私達に古いテレビをプレゼントし、トミーと呼ばれる黒人の若者は、私達にテーブルと椅子をプレゼントした。要するに、最も必要とするものは、ほとんどすべてそろったのです、二週間後に、私達の新しく借りた家はもう住めることができるようになりました。

志強が退院するその日、私はたくさんのギョーザを包み、病院に持っていった、入院中の友人が私達に対して助けてくれたことに感謝するつもりだったのです。みんなはギョーザを見ると言った:”中国のお菓子はおいしい!” ― ”中国のお菓子”というのは、彼らが、私達が作った餡餅、包子、餃子の呼び方です。トミーは大きな新鮮な花束を取り出し、それからみんな一緒に叫び始めた。”バレンタインデーおめでとう!”私と志強は感動して言葉も出て来なかった。米国から帰って四年経つのに、私達はまだ一回も、バレンタインデーを過ごしたことがありませんでした。

去る時、私達はあの生花と一皿のギョーザを志強の隣にいた、その患者に残しておいた。― 彼は数日前に、自殺で、病院に送りこまれたのです。

私達が(ベッドを)離れようとしている中も、彼はまだ意識が回復していません。そのため、私は、彼にハガキを一枚かきました。”先生、あなたが私達の贈り物を見つけることができることを望みます、がんばって生き続けて!”

日が過ぎるにつれて、志強はずっと彼の論文を書いています。彼の大部分の資料はすべて家の中のコンピュータの中に存在していました、大火で燃え上がった時、彼はもともとすでに走って(家から)出てきたのだが、そのコンピュータを救うため、彼はまた部屋の中に走り戻ったのです。

火傷を負ったが、コンピュータはやはり救うことができませんでした。これによって、志強は初めから彼の論文を書き始めるほかありませんでした。こうなると、彼は、半年も期間を遅らせ、卒業を遅らせるほかありません。しかし、遅らせた期間は奨学金がでないのです、その上、卒業を遅らせたので、志強が学校に残ることは、とても大きい影響があります。私達が残っているお金も多くはありません。

一日一日と苦しい日が過ぎます。

またバレンタインデーがやってきた。私と志強は去年、話しあいました、たとえ過ごす日々がどのように苦しくとも、これ以降毎年、バレンタインデーを祝っていこうと。私は、彼を待つ間、晩ご飯を作りました。志強は学校から帰って来ると、手に一通の手紙を持っていました。私はその手紙を急いで開けると、手紙の上に書いてあったことは:

 

親愛なる李先生、李奥さん:

こんにちは

この手紙を受け取ることは、恐らくあなた達にとって、とても奇異なことと感じるでしょう。私は去年のバレンタインデーに李先生のそばにいた患者です。 あの時、私の会社がもうすぐ破産するところで、私の奥さんも、また病気が悪化の一途をたどって、私から離れて亡くなり、そこで、私は絶望し、ただ彼女と一緒に(あの世に)行きたいだけだったのです。しかし、目が覚めると、あなた達の残したギョーザ、生花とハガキを見ました。私は入院中の友人達から、あなた達の話を知って、それは私にたくさんの事を考えさせてくれました。私の奥さんがもしも生きていたら、私がそのようなことをするのをきっと望まなかったでしょう。体が良くなった後、私を支持したいという銀行をついに見つけて、現在では、会社は日々良くなりました。子供の病棟で李奥さんが作った子犬を見つけて、私は、とてもおもしろく思いました、また聞くところによると、李奥さんは服のデザインを学んだとのことで、私の会社に来ていただけるだけの関心があるかどうか。あなた達が私に返信をすることを望みます!もう一度感謝します、あなた達が私に奮闘する勇気をくれました。あなた達がバレンタインデー楽しくすごせますように!

 

私はその手紙と彼の送ってきた名刺を、一回もう一回と見て、思わず大声で読みました。

志強は歩いてきて、しっかりと私を抱擁し、それから小さな声で言った:”バレンタインデーおめでとう。”

 

<閲読><时间時間と愛.

昔、小島が一つ有って、その上には「快楽」、「悲哀」、「知識」と「愛」、さらにほか各種の感情がまだいました。

ある日、感情達が聞いたところによると、小島はもうすぐ沈下するそうです。そのため、皆は船を準備して、できるだけ早く小島を離れたいと思いました。ただ「愛」だけは留まることに決めて、彼女は最後の一瞬まで(住むことを)堅持したいと思いました。

また何日か過ぎて、小島は本当にゆっくり沈下し始めます。「愛」も離れたいと思い、彼女は海岸に来て待つことにしました。

この時、「冨裕」がちょうど一隻の大きい船に乗って、海岸を通りすぎました。愛はすぐに彼に頼みました。:”冨裕先生、私を連れて行ってください?”「冨裕」は回答した:”いいや、私の船上には、たくさんの金銀財宝があって、あなたの場所がないのです。”

「冨裕」はそう言い終わると、船で走り去りました。

まもなくて、「愛」は、「虚栄」が一艘のきれいな小舟を運転して、海岸に来るのが見えました、「愛」は、彼に向って頼みました。:”虚栄先生、手伝って!“「虚栄」は考えることもなく、すぐ拒絶しました:”愛、ごめんなさい、私はあなたを手伝えません。あなたは全身ずぶぬれになので、私のこのきれいな小舟をよごすでしょ。”話し終わって、彼も去って行きました。

またしばらく過ぎて、「悲哀」と「快楽」も海岸に向かって疾駆してきました。「愛」は先に「悲哀」に向って要請しました。

:”悲哀や、あなたと一緒にここを離れさせて!”「悲哀」は泣いて回答した。:”あ、愛、

私は本当に悲しすぎるのです、一人で静かに、しばらく滞在したいのです!すみません、快楽に助けを求めなさい!”

「快楽」が疾駆してやってきて、彼女はとても嬉しくなったにもかかわらず、「愛」の叫びと頼みが聞こえません!「愛」が助けをまさに得られなくで、絶望を感じた時、彼女は突然、親切な呼びかけを耳にしました:”おいで、愛、私達に、このもうすぐ沈む小島を離れる手助けをさせなさい。”「愛」は、とても奇怪なことだと感じました。

話をしたのはなんと一人の白髪の老人です。彼女は慌ただしく老人の運転する木造船に乗った。木造船は、接岸すると、老人は静かに去りました。

「愛」は、岸に上がって、本を読んでいる一人の老人の目前に行って、「愛」は彼に聞きました:”すみません、あなたは誰ですか?”本を読んでいる老人は親切に答えた:”私は知識の老人です!””私を助けたあの老人は誰だったのですか?”知識の老人は言った:”彼は時間の老人です!””時間の老人?”「愛」は奇怪に思い聞いた、”あの人はどうして私を助けたのですか?”知識の老人は笑って言った:”時間だけはあるので、愛がどれだけ偉大かがやっと理解できたのだよ。”

 

<会話><分工干家家事を分担する.

私たち二人とも結婚して早くも半年です、この半年間、私達と両親は一緒に住んでいたので、家事をするかしないかは、大きな問題ではありませんでした。

明日から、私達は自分の家があるので、私達は家事を分担しなければなりません。現在は男女平等で、仕事が終わった後に、私も家事をするべきです。

とても良いことだわ!今、私は、あなたと、どうやって分担するか話しましょう。まず、汚くて疲れる仕事は男がしましょう。たとえば厨房を整理し、部屋を片付けて、トイレを掃除するなど。

いいよ、これらの家事の仕事は、私はすべてすることができます。

あなたは物理を学んだし、私は芸術を学んだので、電気を帯びているものもあなたが担当しましょう、洗濯機、電気冷蔵庫、電気炊飯器、アイロンなど。

いいよ、私が担当します。

男性の主に外で、女性は主に内。これは私達の中国人の伝統です。他の人とつきあうことも、あなたがしましょう。たとえば、毎週土曜日にスーパーマーケットに、一度はショッピングに行き、毎月、銀行に行ってガス、水道電気代を払い、毎日、朝夕、階下まで新聞を取りに行き、牛乳を取り。。。。。。。。

はい、はい、それであなたは何をしますか?

そんなに焦らない。聞いて、私は舞踊することが仕事なので、厨房の中で料理してご飯を作ると、油煙がとても大きく、洗剤で食器を洗って鍋をこすると、私の皮膚に対して影響があります、だからこれらの事も私に代わってあなたがします。これは私の仕事に対して支持を表したことになります。

あなたはまだ私に何かさせたいのですか?

今思い付くのはこれくらいです。後でもしも私達に子供ができたら、あなたのする家事が更に多く必要になります。

あなたが何をするのか私に教えなさい!

私はもちろん多くの事をします。私はあなたに付き添い、あなたが仕事をする時、音楽を流して、あなたに付き添って世間話をして、あなたの汗をふいて、あなたが楽しく愉快に家事ができるようにします。

このような分業、私が気楽に、愉快にできると思いますか?

 

53課 <五味>五味

山西人は本当に酢を食べます!何人かの山西人は北京のレストランで、腰を下ろして、まだ料理を注文していなのに、先に酢の瓶を持ってこさせ、一人一人茶のみで酢を飲んで、充分に飲むようです。そばの客は、それを目をまるくて見ていました。ある年、私は太原まで行き、春節を過ごしました。ほかの場所で春節を過ごしてみると、店は皆に良い酒を少しふるまい、太原の油塩店は、皆に知らせを貼り出していた:”長く貯蔵した酢は、各戸に一斤の供給とする。”これは山西人にとって大事なことなのです。 

山西人は、また酸菜が好きで、ダイコンを除いて何でも、ハクサイ、さらにやなぎの樹の葉さえも酸っぱくさせます。女の子に仲人をしに来る人がいて、お母さんのが先に聞くことは、その家は何個の酸菜のカメを持っていますか。もし酸菜のカメが多いと、そこの

家の財産が多いことになります。

遼寧人は酸菜白肉火鍋が好きです。

北京人はヒツジの肉酸菜スープのあるミックス(雑)麺が好きです。

 

蘇州料理は甘いと人は言う、実は蘇州料理はただ淡白なのです、本当に甘いのは無錫です。包子のひき肉の中さえ、多くの砂糖を入れて、食べるなんてありえない!

広西の芋頭扣肉はとても甘くて、とてもおいしい、しかし私が最も多く食べたとしても二切れしか食べることができません。広東人は甘い食品が好きです。白薯糖水、これがどんなにおいしいか?(おいしいわけがない)広東の同級生は言う:”うまいでしょう!”

 

以前、北京人は、ニガウリがどんなものが分かりませんでしたが、ここ数年は学んで食べるようになりました。農民も植え始めました。自由市場には、とても良いニガウリを売っているが、季節外れで、品薄の野菜価格に属するので、とても高価です。

北京人の味は広がりました!

北京人は過去にハクサイを食べるのを知っていた、そのようにして、ハクサイを食べる習慣にさえ、変えることができるのです。

私達の劇団に劇を学ぶために、貴州から一人、若い女優がいて、彼女のお母さんは彼女にドクダミと呼ばれるものが入った小包を送ってきた。彼女は私に何本味わわせました。これはなんというものでしょう?苦くて、しかしそれほどひどくはないが、一種の強烈な魚の生臭ささがあって、本当に我慢できないほどです!

 

劇団に一人の従業員がいて、彼は辛いものを食べる専門家だが、彼は毎日、昼食には料理を食べず、ただ唐辛子だけを食べています。四川の北部では、聞くところによると食べることはできない唐辛子の一種があって、1本の束をかまど上に掛けると、良いスープを

作れます。唐辛子をスープの中ですこしゆすぐと、非常に辛くなります。

四川人だけが、辛いものを食べることができるとは言えません。四川料理の特徴は辛くかつしびれることです。 多くの花椒を入れて、花椒を入れないマーボ豆腐は駄目なのです。花椒は川椒そのもので、ついて、砕いて、料理を終えて、最後に入れます。

 

浙江東部の人は、確かに、とてもしょっぱいのを食べます。ある同級生が、包子を食べると、すぐ包子の中に醤油を入れなければなりません。

しょっぱい、淡白な味の好みは、地域と関係があります。北京人はこう言います、南は甘く、北はしょっぱく、東は辛く、西は酸っぱい。ほぼその通りです。河北、東北人はしょっぱいのが好きで、福建料理は淡白です。ただ、このことは個人の性格と習慣にも関係します。

 

私は世界中でどんな国の人が、臭いものを食べたいと思うのかは知りません。

上海、南京、漢口へ行くと、油で揚げた臭豆腐の干したものを売っています。長沙火宮の臭豆腐は、一人の大物(毛沢東)が若い時よりいつも食べていたため有名になりました。それからこの大人物は、また食べに行って、ひと言を言った:火宮殿の臭豆腐はやはりおいしい。

私達の友達の一人は南京へ出張しに行きました、彼の奥さんは南京人でしたので、彼は臭豆腐の干したものを持って帰ります。彼は八方手を尽くして、思いがけなく手に入れました。列車の中で持っていると、すべての車両の人から強烈な抗議を引き起こしました。

私はアメリカで、最も臭い「気死(干酪:チーズ)」を食べたことがあって、外国人の多くが臭うとすぐ鼻を覆いました。しかし、私と言えば、本当に何でもなくて、臭豆腐に比べれば、もっとゆるやかです。

中国人の好みは様々で、敢えて言えば、世界一です。

 

<学做麻婆豆腐>マーボ豆腐を作ることを学ぼう

主原料:柔らかめに作った豆腐 600グラム、赤身のひき肉 60グラム

調味料 

1)唐辛子の粉少し、ショウガ粉の1/2茶さじ。

2)四川の豆ばん醤(味噌)大きいスプーン2、米酒の1/2スプーン、ニンニクのすりつぶしたものスプーン1、しょう油スプーン1

3)白砂糖スプーン1/2、薄味スープ1杯半。

4)花椒粉少し、ネギのみじん切り2本分。

5)カタクリ粉を水に溶かした大きいスプーン1、ゴマ油スプーン1杯半。

調理法

1)豆腐は古い皮を取り除いて、1センチメートル平方の小さいサイノメに切ります。

2)鍋を火で温めた後に少し油を入れて、先にミンチ肉を水分がなくなるまで炒めて、続いて調味料(1)を入れて味がでるまで炒める。

3)また調味料(2)を加えて、かき混ぜて炒め均一になったら、豆腐を入れて調味料(3)を入れ、味がでるまで炒める。

カタクリ粉を入れて、とろみにして、ゴマ油をかける。

 

<閲読><三道茶>三道茶.

三道茶、意味はお茶を三回飲みことです。言い伝えでは、三道茶は古代大理の国王が客にご馳走したと言われているので、すでに1000年余りの歴史があります。大理は有名な古い都市で、そこの景色はとても優美です。白族の女の子はきれいなクジャクを身に着て、白族の最高な礼儀作法を用いて、両手を第一道の茶を頭より高く挙げて、客に捧げます。第一道茶は”苦い茶”で、雲南の沱茶を陶器の鍋の中に入れ、それから火の上であぶって、茶の葉が薄い黄色に変わり、そして、すがすがしい香りがついた時、やっと適量の湯を入れると、ただ1回だけ”ドン”という音が聞こえ、お茶はうまく泡立つ。このお茶はただ半杯だけを入れます、もしも満杯に入れると、白族人は客に対して礼儀正しくないと考えます。

苦い茶を飲み終わって、白族の女の子は第二道の”甘いお茶”を捧げます、第二道のお茶は茶杯を使わず、茶碗を使って、第一道の茶より茶が多い。お茶の中に砂糖、蜂蜜、クルミの実を入れ、さらにまだ、ほかのものをいくらか加えて、栄養が豊富で、香り良く甘い。

第三道のお茶は”香り茶”と呼ばれ、中国シナモンを使い、花椒、ショウガを煮て作り、さらに蜂蜜を少し加え、味は淡白で、少し辛いです。

三道茶は白族の人々の日常生活の中でとても流行っていて、親戚や友達が来ると、主人は必ず三道茶に招待します。この三道茶に、白族人はこういう言い方をします。第一道の茶が苦いのは、人生の道は辛苦の道だ。第二道茶が甘いのは、客人の長寿と健康を祝い万事思い通りになり、事業が甘く;第三のお茶の香りが良いのは、客に対して祝福を表し、また友情がとこしえに変わらないことを望むからです。白族の三道茶の中には”始め苦く、後に甘い”、”苦い後には甘みがくる”という人生の哲理があります。

 

<会話><水果之王的味道>果物の王の味.

みんな、いるよね。見てみて、私は何を持ってきたでしょうか?

そんなに良いものですか、見てみたい。

(ドリアンを一つ取り出す)知っていますか?

オーマイゴッド、これは爆弾ではありませんか?

どうしたら爆弾になるの、これはウリの一種でしょう?本当見たことがありません。

たとえウリだとしても、ずいぶん奇怪に育ったものですね。

あなた達、知らないの?これはドリアンで、果物の一種、人々はそれを果物の王と呼びます。

どんな味ですか?

まったく、どうしてこんな臭いにおいがするの?雨平、あなたは、また臭豆腐を持っているのではありませんか?

ハッハッ、これはドリアンの味です。

え?果物がこんな味がするのですか?

信じないなら、かいでみて。

(ドリアンをかぐ)まったくその味です。このものは食べることができますか?

ナイフをもってきます。(ドリアンを切って割る)見て、これが真っ白な果肉で、食べることができます、その上食べれば食べるほどおいしくなって、 初めは甘い味、それから一種の香りのある淡白な味がいっぱい出てきます。みんな味わってみてください。

それでは私が味わってみましょう。あ、少し甘くて、味はとても特別だ。

本当に?それでは私達も味わってみます。え、まあまあです。

どうです?あなた達をだまさなかったでしょう?

あなたの言う通り、このような果物はとてもおもしろい、形もおかしいし、また臭いもある、しかし食べ始めると味は本当に悪くありません。

 

54課 <我迷恋的北京城>私に夢中にならせる北京の街

現在の北京は、私が数年前よく知っている北京とは、全く違います。都市にある建物から、大通り、車、人々の生活水準、生活のリズムにいたるまで、至る所”変”の一字で表せます。

見てごらんなさい、北京の大通りは広くて美しく変わっていませんか?ほんの数年見なかっただけで、北京には、すぐに多くの新大通り、新しい建築物、新しい立体交差橋が現れています。環状の西直門の橋はなんとなく見えなくなって、それに取って代わったのは、高く大きな、広々とした新しい立体交差橋です。西単、王府井は国内外に有名な古い商業区ですが、豪華な新しい装いに変わり、世間の人の目の前に現れました。いまだに、かつて修理した大通りがまだたくさんあって、甚だしきに至っては北京人さえ道の名をあげられないほどです。

覚えているのは、以前、北京言語学院の学生だった時、毎回街に行くとき、まちがいなく決まって肉体的苦痛受けるのは避けられませんでした。というのは、唯一選べるのは375路線のバスだったのです。私はまずバスのドアの取手を、両手でしっかりと捉えなければなりませんでした、その後、自分の力で上へ押し合いをして、ある時は、皆”肉マン”のように押し合いさせられます。

しかしその前の数日間は、”女性にとって実家“のような北京言語大学を行き来し、先生と友達に会います、学校の入り口に、さまざまなバスがあるのを発見します:726路線、307路線、826路線、 951路線・・・・・どこに行こうと行くことができます、なんて便利でしょう!

北京市場内の商品も以前に比べて、ずっと多くなりました、大きいマーケット、スーパーマーケット、専売店の中の商品はすばらしいものが数多くあって、食べ物、着る物、何でもそろっている。何ゝが必要なら、どこどこ商城で中を一周しさえすれば解決することができます。

これらの大小のマーケットから、道路近辺の色とりどりの広告看板、ネオン灯まで、北京城のにぎやかな光景を見いだすことができます。

北京人の生活水準も、少なからず改善した。今回、私は何人かの友達の家に着くと、ほとんどが新しく買った家に住んでいて、エアコンを設置して、大きいカラーテレビに換えて、ある人は外国へ行く旅行の準備をしている。これらを見て、私は本当に少しうらやましくなりました!

生活水準は改善したが、しかし北京人はそれでも、親切で客好きで、これは多分北方人のさっぱりしていて、開放的な性格を体現しているのでしょう!今回私が北京に着いたときのことを話しましょう。私は大きいスーツケースを引いて、バックを手に持って、首都空港ホールを出てタクシーに座りました。運転手の先生は私が留学生だと知って、すぐ私とおしゃべりした、北京人の話し方では「とりとめなくホラを吹く」になる。彼は私が初めて北京に来たのだと思ったので、だから自発的に私に北京を紹介しはじめた。彼の話の中に、北京人の親切さが見えて、まず、おしゃべりで交通の軸になる路上にある鼓楼、景山の上の古いエンジュのことを話した。それから世界でも有名な故宮博物館、北京の小吃、たとえば豆汁に言及した。彼はまた、とても面白く私に言ったものだ:”地元ではない多くの人は、豆汁が少しもおいしくない、ある種おかしい味と感じているが、しかし、私達の北京人には、おいしいのだ。”

北京人はまた、とてもよくにぎやかです。ある日、私はちょうど地下鉄の駅から出てくると、道ばたに、たくさんの人が集まっているのが見えた。その中には多くの老人がいて、真剣に社交ダンスを踊っています。彼らの顔に笑顔を見て、あなたは彼らどんなに楽しいかを知るでしょう。

さらに、立体交差橋の下では、ひと山の人が集まっていて、ある人はしゃがみ、ある人は坐っています。皆下を向いて、着目しています。近付いて見ると、実は彼らは将棋をしているのです。みんなはお互いにそれぞれ一言いいます。ある人は、大声で争い始めました。彼らは争っていると思わないでください、実は彼らはほとんど毎日会う古くからの友人なのです。夜が深くなってから、彼らはやっと小さい丸椅子を抱えて、家へ帰らざるをえなくなります。行く前に、一言残します。”近いうち会いましょう。”これが私を夢中にならせる北京城です。

 

<閲読><上海外上海外灘.

外灘は、百数年を経て、ずっと上海のシンボルとして、世間の人の目の前に現れてきました。それは上海人の心の中の誇りで、それは世間の人に、十分に上海の文化を展示してきました。ここ数年来、新たに作られたものでは、彫刻の群、観光のためのトンネル、”愛人たちの壁”などの建築が、また世界にも聞こえた有名な外灘に、時代の新しい装いを加えました。

外灘の江南は、長い土手、グリーンベルトと雄大な建築群の構成した街並みが、最も特徴のある上海の景観を具有している。

早朝、外灘は人々のフィットネスの場所です:昼間は、にぎやかな遊覧の景勝地となり;夜、さらに恋人達の恋愛の天地となります。

ここで散歩して、近くで黄浦江の景色を見て、遠くを見ると、対岸の浦東地区の新しい容貌が見られ、大都市の緑の木、花壇、庭園の風味を感じることができ、都市では珍しい、清新な空気とあたたかい日光を楽しめます。

都市の美しさは三つの構成部分で成り立つ:建築、彫刻と緑化。都市の彫刻は、”都市の目”とも呼ばれていて、美化した都市の重要な部分となっているのです。外灘の都市彫刻群は「浦江の光」、「帆」、「風」の三つでステンレスの構成でないものを作っていて、外灘の長い緑色回廊の三粒の宝石になっている。

外灘の観光トンネルは、中国で第一番目に大河を貫通した通行人用トンネルで、全長646.70メートル、2000年末に工事が完成しました。

トンネル内は90年代の国際先進技術を採用します。全部大きな川を通り過ぎる時間はおよそ2.5から5分必要とします。トンネルは、さらに近代的なハイテクの手段を使って、人物、歴史、文化、科学技術、景色などの各種の画像を展示し、あわせてバックグラウンド・ミュージックを流し、人々が大きな川を通りすぎる過程で鑑賞させ、観光客にすばらしい記憶を残します。

”愛人たちの壁”は黄浦江辺に建てられ、全長の約1700メートルある。観光台の地面はカラーで彩られ、32個の半円形の景観台があり、たくさんのライト、花壇、方亭、六角亭とグリーンゾーン、観光客が休めあわせて黄浦江の両岸の美しい景色を観賞できます。人々が常に言うことは、外灘に着かなければ、上海に着いたことにはなりません。今日、新しい外灘に着いて、あなたは上海に巨大な変化が起きたことを感じることができます。

 

<会話><酒太情>酒をすすめるのは、とても親切

中国の酒の文化は、ひどいものです!

あなたはどうして、そのような見方をするのですか?

私はさっき《酒をすすめる》の一編の文章を読み終わりました。

どんな感想をもちましたか?

中国人と酒を飲んだという、自らの体験があります。だから私は中国の酒の文化がひどいと言ったのです。

これが文化だと言えば、そうだろうと言えるね;このような文化は、有る面で、確かに良くないものだというべきでしょう。

たとえば、ある人が酒を親切にすすめると、相手を受けざるを得なくなります。

私はその通りだと感じます。前回、銭社長と一緒に酒を飲んだとき、彼らは一杯、また一杯と私に勧めたら、私が酔わないわけはないでしょう?

そうです!楽しむために酒を飲んだのならば、少しずつ飲むこともできる、しかしたくさん飲むことはできません。

彼はあなたに飲むように勧めても、あなたは飲まなくても、または少なく飲むことができるはずでしょ。

それはここだから言うのでしょう、実際にテーブルでは、飲みたくなくとも飲まなければならず、飲めなくとも飲まなければなりません。

ひどいときは、たとえ毒薬だとしても、あなたもそれを飲みくださなければなりません。あなたはそう言いましたが、(たとえば)私は銭社長の酒を飲んだが、張社長の酒を飲まなくて、良いのでしょうか?みんながあなたの体の健康を祈って、家族皆の幸せを祈って、万事思い通りになるように祈ったとき、あなたは飲まないなんてことができますか?

飲むべきです。しかし一杯そのまま飲む必要はありません、少し飲むだけで良いです。

私もそのように考えました、しかし彼らは承諾しません。このように言いました”友情が深いなら、きっぱりと飲み干し、友情が浅いなら少し飲みなさい”。私は、どうすべきかだと思いますか。私はきっぱりと酒を一杯飲み終えるしかありませんでした。

道理であなたが酔うわけです。

私は酒を飲むのにも、自由があるべきだと思います。自分で飲みたいものを飲むべきです、飲める量を飲むべきです。

まったくその通りです。酒そのものは、飲みすぎるのと毒薬を飲むのとたいして違いません。それは楽しみではなく、命を縮めます。

 

55課 <新素食主来了>新菜食主義がやって来た

人々はよく菜食主義者とは、宗教のために、民族のために、あるいはある種の奇怪な習慣のためニワトリ、アヒル、魚、肉のなど動物性食品を食べない人だと理解します。しかし私達の聞いた"新菜食主義者”は、ある種の宗教を信奉しているのではなくて、"クール"であることを演じているのでもなくて、更に大きい魚や大きい肉に飽きたわけでもありません。彼らは身体の健康のため菜食を選んだのです。;彼らは、豪華な都市の中で、菜食を選ぶことで、にぎやかな都市の中で、一種の自然な気持ちを保とうとした;彼らは菜食を選ぶことにより、彼らの生活環境を守ろうとしているのだ;彼らは菜食を選ぶことにより、人類以外のその他の生命の平等な権利をあたえようとしているのです。彼らは自分の生活様式として菜食を選び、彼らは自分の健康を重視することに基づいて、人間以外のその他の生命に対して、さらにたくさんの愛情と尊重をあげるのです。

 

それでは、"新菜食主義者"は私達から遠い存在でしょうか?私達はオフィスビルでホワイトカラーのお姉さんがランチで菜食しているのを直に見ることができます。大学のレストランで、菜食だけを選んでいる大学生が見られます、菜食レストランを出たり入ったりする顧客を見ることができます。 私達は、新菜食主義は本当に来ていることを感じます。"新菜食主義者"は私達の身辺にあり、また少数とはいえ、結局、もう理解できないという人はもういないのだと感じます。多分、ほどなく、菜食は、もっと多くの人の、個人の選択になるでしょう。

 

新菜食主義者は私達に三つの理由を説明しました

1.環境保全

新菜食主義者は「環境を守る」という理由をもとに、彼らは、人々の飲食習慣が私達の生存環境に大きな影響をおよぼすことを知っている。肉類の食物の産業の発展は大量に資源の使用に関係し、大量の動物の糞便を発生させ、環境に対して深刻な汚染をもたらします。具体的に言うと、環境の影響に対しては

水の汚染:家畜を飼育することで、家禽のいる場所で、排出した汚水が、水源を汚染する。

大気汚染:動物の糞便から排出する気体から、大気を汚染するだけではなくて、その上まだ全世界の気候が暖かくなってしまう。

土壌侵蝕:全世界の約40%の穀類、米国で70%を上回る穀類が、家畜と家禽用飼料に用いられる。一斤の肉と卵を生産するため、土地は5斤の表層土壌を失います。

水の消耗:牛や羊を養うためのすべての穀類と干し草は、穀類と干し草の半分は灌漑が必要な土地で育てたと見積もって、牛肉一斤を生産するために、380リッターの水が消耗する。牛の羊を放し飼いにするため、米国西部では、大体10%の土地が、すでに砂漠になった。

エネルギー消耗:野菜と比較して、家畜の生産と運送には、家禽を使うエネルギーは10倍強も消耗します。

 

2.動物に平等な権利をあたえる。

新菜食主義者の一部の人が言うには、彼らが肉と魚を食べない理由は、彼らが動物を殺害することに賛成しないためで、その上、食物を得るために動物を飼育して殺害するのにも反対しています。これらの動物に権利があり、菜食は人と動物の生存権利の尊重を体現していると保護主義者は思います。全世界で毎年殺害させられている動物の数は、世界の人口の七倍です。人類の生活するすべての場所で、至る所すべてで動物を殺害していることになります。

特に現在の工業化によって飼育する方法は、伝統的な飼育方法に取って代わって、人類の肉類の食物に対する需要を満足させている;このようにして、殺害する動物はもっと多くなりました。

 

3.菜食は健康のために有利

菜食は現代人にとって、最も実際的なのは、健康に積極的に影響することです。調査に基づくと、菜食民族は、普通は一般的には皆健康で長寿だ。これらの民族の中では、ある人は110歳を上回ります。しかし肉の食品の消費量のとても大きい国家にあっては、次第に病気と肉を好んで食べることとは、関連があるようになっています。

菜食主義者は、最も健康的な飲食の方法は菜食であり、肉類の食品を少なく食べます。自分の健康のためには、やはり菜食主義を堅持することは良いようです。

 

<閲読><黑熊救命>ツキノワグマが命を助けた

初春のころ、中国の北方にある小さな山村から、一件の奇妙な二ユースが言い伝えられました―ツキノワグマが老何の命を救った。

その日、老何は外からいつものように家に帰ろうとした、約30里の道を歩いて、冬に凍結した河に到着しました。彼は氷上を横切って近道を取りたくなった、すると突然からだの前と後ろから氷面にひびが入る音が伝わってきた、身をひるがえして戻ろうとしたが、すでに間に合わなくて、あっという間に氷河に落ち込んでしまいました。彼の両方の手は迅速に氷層のふち周辺をつかもうとし、上へ登ろうと努力したが、氷は塊ごとに、ひびが入って、彼も凍って感覚がなくなりました。。。。

この時にあたり、老何の耳辺に「ウー、ウー」という叫び声が聞こえたように思うと、彼の体は水から外の方へ引っ張られたと感じました。しかし、彼はもう一度気が遠くなりました。。。。。

太陽はもうすぐ沈み、老何はだんだん目が覚めてきて、自分の体が対岸の地上の上に横たわっているのに気が付きました。

しかし、どのようにして凍った川の中から、自分で出てきたのか思い出せません。この時、彼は二頭のツキノワグマが前方の遠くないところに坐って、彼を見ているのに気が付きました。頭の上に白い毛のある熊は、「ウー、ウー」という声を口から絶えずだしています。

「あ、白だ!きっと白の母子二頭が私を救ったのだ!」老何はなんとか座ると、手を振りながら、大声で叫んだ:

「白!白!」その頭に白毛のあるツキノワグマは、なんと彼の方に向きをかえました。。。。。

 

三年前のある日、老何は山の上で仕事をしていると、突然山の中腹からひとしきり「ウー、ウー」と言う叫び声が聞こえました。その音を耳にして、彼は斧を取って好奇心で歩いていきました。二尺もの大きな一頭の、額に白い毛の生えた小熊が、後肢の一本が石のすきまにはさまれ、必死でいました。彼はまた大きいツキノワグマがちょっと振り返り、未練げに大きい石の後ろの林の中に潜り込んだのを見ました。小熊は人を見て更に怖わがり、必死に叫びました。外へ腿を抜こうとしました。。。。老何はしゃがんで、ゆっくりとそばに行って、斧を使って、熊の足がはさまれた石を壊して、小熊の足を抜き出しました。熊は数歩歩きましたが、また痛さに倒れました。老何は、すぐに小熊を抱いて彼の小屋の中に戻り、念入りに小熊の足に薬をつけて、そして傷口をしっかりと縛りました。小熊は物事をわきまえているように、ゆっくり登ってオンドルの中に着きました。老何の心がこもった治療と看護の下で、間もなくて、小熊の傷は良くなって、あるけるようになりました。老何はご飯を作って、小熊は彼のからだの前や後ろから離れず、山に登って仕事をしているときも、小熊も後ろにぴったりついてくる。老何は本当にこの小熊に好きになって、彼に「白」と名づけた。ある日の夜、白のお母さんがやってきて、小院の中に座り、苦痛でさけびました。家の中にいた白は、急いでぐるぐる回り始めた。老何は、雌の熊が子供を迎えに来てことを知りました。彼はすぐにドアを押し開けて、白を外に送り出しました。それから、何日も白を見ることはありませんでした。老何は深くそのことを考えていました。

 

5日目の夜、熟睡していた老何は、「ウーウー」という声で驚いて目を覚ました。彼は急いでドアを開けると、月光を利用して、白が戻ってきたのを見ました。老何は急いで携帯食品を取り出してそれにえさとしてやり、白は満腹になって、オンドルに跳び上がり昔寝た場所で眠りました。それからは、白は老何の住んでいる所に客人となって、たびたび来るようになり、毎回来る度に、老何は白を満腹にさせました。もし、長い期間白がやってくる気配がないと、老何はご飯を外に置いて白と母の二人にえさをやって、長い期間を経ても、老何と双方のツキノワグマは非常に友好的につきあいました。

今日、老何は夢にも思いつきませんでしたが、彼の生命が最も危険な時に、白の母子二人が彼を救ったのです。

 

<会話><减肥而锻炼ダイエットのための鍛錬

陸雨平、あなたはダイエットするべきだよ。

そうしたいのだけど、どうやって減らすのですか?

鶏、あひる、魚の身を少なく食べるようにして、脂肪を減らすのです。

私は肉食動物なので、肉を食べないようにできるかどうか?

それなら多く運動して、余分な熱消費量を消耗することです。

それならなんとかできそうです。それでは私は明日から、ダイエットするために鍛えます。

さらに、旅行も良い方法ですよ、私は明日旅行に出発します。

どこに行くのですか?

内モンゴル。

ダイエットのため、そんなに遠い場所ところまで行くのですか?

もちろんダイエットのためには不完全です、一つ目には旅行に行き、二つ目には、草原の環境を少しでも見たいためです。

聞くところによると草原で、ある場所では、草がないそうですね。

ここ数年で、人々の肉類の食物への需要がだんだん多くなり、生産高を増やすため、ある場所では放牧する牛や羊の状況が、過度になりすぎて、草原をひどく破壊したのが見られるようになりました。

これはとても危険なのです。

現在、ある場所では草原を保護するため、飼育方法を変えて、牛や羊を飼育場の中で養っています。

その方法はなかなか良いですね。

はい、草原では、気候の変化はとても大きいので、あなたは少し服を多めに持って行けば、寒くなったら着こむことができます。

そうですか、分かりました。

 

56課 <世界交水稻之父袁隆平>

世界の水稲交配の父、袁隆平.

2000219日、中国工学院院士である袁隆平に、中国政府は最高科学技術賞を授与しました。彼は世界”水稲交配の父”で、一生涯、一人の水稲を植える”農民”であり、科学者でした。彼は背が高く、やせていて黒い。外国の記者がかつて彼に会った時、皆は、彼が普通の一人の農民だと思いました。

袁隆平が上手な英語を使って水稲交配を紹介するのを耳にして、彼らはやっと、彼らが”水稲交配の父”を取材しているのだと認識したほどです。袁隆平はすでに、世界に名が知れている科学者だけれども、しかし彼はずっと自身が農民だと思っていました。彼は言う:”私の仕事は、私が農民と同じように生活するように求められているのです。”

袁隆平は1930年に、北京の知識人の家庭に生まれた。父は東南大学の中国語学部を卒業し、父は東南大学の中国語学部を卒業して、かつて小学校の校長になったことがあります。母もかつて先生になったことがあります。だから、袁隆平は小さいときから両親の影響を受けた。特に母の教育は、彼にとってとても影響が大きかった、母は彼に観察を多くするように求め、頭を多く使って、さらに彼は真剣に外国語を学び、これは彼の一生の事業にとって、とても大きい助けとなった。

袁隆平が小さかった頃、とても行動的で、好奇心がとても強かった。彼の母は花を植えることが好きで、部屋の前の花壇は花や草でいっぱいだった。袁隆平は、いつも母が花を植えて、育てる作業を手伝い、彼はとてもおもしろく感じた。 

ある時、学校は学生達をまとめて植物園を見学に連れて行った、草花は満開で、木の果実もいっぱい、袁隆平を深く引きつけた。このすばらしい印象は、ずっと彼の記憶の中で保たれていて、彼の専門に対する選択にさえ影響した。

それから彼は南西農業学院に合格して、作物遺伝育種を専門的に学びました。1953年に卒業した後に、彼は湖南安江農業学校に配置され先生になった。ふだんの仕事は非常に忙しく、教育以外、彼は余暇時間を利用して、かなりの研究を行った。

その当時、資料はとても少ないので、彼は手に入れることができる英文の雑誌から遺伝学の新しい成果を知った。彼が最初に水稲の遺伝を研究し始めたのが60年代だった。彼の夢は、こうだった。”もしも私達の植えた水稲の穂が箒のように長く、粒子は落花生のように大きかったら、どんなにすばらしいだろう。”当然、彼ははっきり知っていた、水稲をほんの一割だけでも増産させることさえも、それはとても困難なことを。彼は堅く決心をして、困難であろうともこの難関を突破しなければなりません。

袁隆平は、かつて取材者に対して言ったことがあった、60年代の初め、彼は、とても太く丈夫な水稲の一株を発見した。しかし、その頃、彼はこれが野生交配の水稲であることをまったく知らなかった。二年目、彼はこれらの種を植えました。しかし、去年のように太くて丈夫な、一株の水稲苗の成長にはなりません。どうしてこのようなことになるのでしょう?

純血種の水稲は分化をもたらすことができないので、ここから、袁隆平は自分が去年発見したあの水稲の苗がおそらく第一世代の自然交雑の稲であることを意識しました。”これは、水稲は雑交配で優位になることはないという伝統理論を打ち破っていたのです”

彼は言う、”これは私に雑交配種を育てるよう、決心を促しているようだ。”この考え方は、革命的性質のものでした。というのは、彼が見た国内外の資料の中で、まだこの問題を話題にしたのを見たことがありません。たとえ世界で最も有名な専門家であっても、まさか水稲が交配で優位になることなぞ、考えつかなかったでしょう

1973年、43歳の袁隆平は彼の夢の一部を実現して、彼は世界で初めて水稲交配で育成した水稲の生産高を、ムーあたりの300キログラムから500キログラム以上にあげた。それから、彼はいっそう努力して仕事をして、生産高をもっと高く、品質がもっと良く、”全世界をも支える水稲こう配を育て上げたいと希望した。

現在、袁隆平はすでに70数歳になったが、しかし彼には休む時間はない、彼の最新の研究プロジェクトは”超級の稲”です。1997年にすでにムーあたり700キログラム以上の目標を実現しました。1997年から、彼の次の目標は1ムー当たりの収穫量800キログラムで、計画は2005年に実現します。研究時間がもっと多くえるため、彼は渡り鳥のように、毎年の冬に寒い長沙からあたたかい海南島に飛びます。一年のうち、彼は三分の一の時間は稲田の中で働きます。種まきから収穫までに、袁隆平は毎日少なくとも二度は稲田に入ります。

中国で、稲田で植えられる半分の以上の稲は、袁隆平と彼らが研究して出来た交配のイネで、全国の水稲を占める年間生産量は総生産量の60%ぐらいを占めます。袁隆平は、中国人は自分でやり遂げ、自分で育種ができると堅く信じています。

40数年来、袁隆平によって、助けられ、生産高がだんだん高くなり、品質のだんだん良くなる交配の種もみで、国家は彼に最高な科学技術賞を授与しました。

袁隆平の研究成果は、全世界をも承認して、2004年に彼は農業の方面の国際最高な栄誉である―世界の食糧賞を獲得しました。

 

<閲読><袁隆平的演袁隆平の講演.

200341日午後、国家の最高科技賞の獲得者であり、水稲の雑交配の父、海南大学の特別招聘の教授、袁隆平院士は海南大学300数名の学生に講義しました。

当日の講座で、袁隆平院士は自分の人生の経歴を振りかえり、事業を求める人に対して最も重要なのは、彼は、「知識、汗、インスピレーション、チャンス」だと言いました。彼によると、博識なのは、成功のための基礎となるそうだ。彼は冗談で言った、自分は初級中学の時、「マイナスにマイナスを掛けるとプラス」になる原理の原因がはっきり理解しなかったため、数学に対して興味を失いました。数学をうまく学べなかったのは、彼の人生で最大の残念な思いで、それがなければ、自分で、まだもっと大きい業績を得ていたかもしれない。というのは、いかなる学科でも、最高度な段階では、すべて数量化が必要なためです。汗に言及すると、袁隆平は言った、書物の中では、小麦や水稲は出てこないので、成功したいと思うなら、必ず汗を流さなければならない。彼は若い人に、必ず、苦しみに耐え、苦しみの中にも楽しみがあり、楽も苦しみの中にあることを学んでほしい。袁隆平は、科学研究員に対して、言った。インスピレーションを得ることも重要だ。彼が言うに、インスピレーションは広い知識、長年の経験、怠らず追求し苦しみの中で思索した産物で、これも成功のための前奏となるとのことだった。

 

<会話><中国粮食安全问题

専門家が中国の食糧の安全問題について話す

1999年から、耕地面積が減少したため、中国の食糧の総生産量は5.1億トンだったのが去年4.3億トンに下がった。食糧の安全の問題は、だんだん人々が重視し始めた。今日、私達は何人かの専門家にお願いして、彼らの見方を話してもらいましょう。

権威部門の予測によると、2030年まで中国の人口は16億まで達するでしょう、1人当たりの食糧消費は400キログラム―450キログラムの計算で、食糧の総生産量は6.4億トン―7.2億トンまで達しなければなりません。耕地減少、水資源の不足、生態の環境悪化などの困難に対しては、30年もかからない期間で、私達はどんなやり方をとっても、3億トン近くの食糧増産するのを実現するべきでしょう?

 

私はこう思う、21世紀以降は、食糧増産は、面積を拡大することに頼ることができなくなります、多く植え、収穫が少ない栽培方法は環境破壊のやり方となり、必ず単位面積の生産量を大幅に向上させる道をとらなければならない。中国で食糧の栽培面積は約10億ムーあり、その中で生産水準が比較的高い耕地は5億から7億ムーあります。もしも中国農業大学が提出した提案を考慮に入れると、中国で一、二、三と熟した地区は、生産水準のわりに高い耕地を年間の1ムー当たりの収穫量で、それぞれ1000キログラム、1500キログラムと1750キログラム―2000キログラムと食糧の高い生産のできる田となり、食糧が年間総生産6.4億トンー7.2億トンを実現でき、さらに戦略目標である、「10億ムーを植えて、16億人を養う」を実現することもできます。

 

私はかなり以前から思っていました、生産力の要因は科学技術なので、トウモロコシの単位面積あたりの生産量を高めることが、第一位なのです。現在、トウモロコシの生産高を改善させるには、主に技術を実現させるかどうかによるのです、客観的に効果を見るため、多くの化学肥料と農薬などを与えて、生産高を増加させる方式に頼ってきたため、これ以上生産をあげるための潜在力はすでに大きくなくなりました。実践が表明しているように、現代では食糧が増産する過程で、技術の要因は35%占め、つまり100斤の食糧を増産しますと、35斤が技術の改良ために増産したことになるのです。さらに予想する人がいて、2020年まで、技術の要因による貢献は、45%まで達するでしょう。

 

専門家の科学研究の成果は、農民の畑で実現していて、中間を転化させる一環が必要となり、それはつまり企業なのです。私がいる研究所が、去年と企業協力して後で、新しい品種の生産規規模が、以前は50ムーの規範を示す田が激増して、現在では何万ムーをあげることができ、生産高は自然に上がりました。

 

各位の専門家の方に感謝します。食糧の安全問題は非常に大きい問題で、後で私達はまた各方面の人を組織して、この問題を引き続き討論していきたい、皆さん関心を持って下さい。ありがとうございます!

 

57課 <初人妻>初めて人の妻となって

婚姻は愛情と関連しているが、ある人にとっては墓だそうだ、ある人は、高めるもので、さらにある人には、結婚後の二年は、婚姻の危険時期と言う人もいます。。。。。

やっと結婚した時、私は自分の新しい家を見、本箱の中で一列一列並んだ本を見ました。あるものはよく知っている本で、それは大学から仕事まで自分で買い始めたものです;ある本はよく知らないもので、それは夫が彼の本箱の中から運んできたのです。休暇だったあの何日間、私は独りで自分の家にいて、なかなか慣れないと感じました。私が慣れないのは、新しいひとつの役です:娘から妻になったという。

小さい時、私の望みは男の子になることでした!あの頃、もしも私が男の子だったら、きっと孫悟空のように、一人も世の中で怖いものなしの男の中の男になると考えていました。ただ、これまで考えたこともないように、ある日結婚して、一人の妻となった。

”妻”というこの語、中学(高校)と大学では、私には自分からとても遠いと、いつも感じていました。寮で消灯した時に、ルームメイトはそれぞれに枕を並べて話をしました。今思い出しても、それは学生の生活の中で最も楽しい時間でした。開いている窓から、月光の外の光が入ってきます、月光の夜空は、私の未来の日のようです。私達の中国語学部の女子学生の寮は婚姻が女性にどんな影響があるかを討論しあった。また、中国の女性の解放の道を議論して、若い女性の知識人と男子の平等について議論しました。。。。私はよくただ聞いているだけで、とても興奮して、あるとき、とても幼稚なコメントを発表した、私より年上の同級生は言った:”若さというものは、恐れを知らないわね。”

 

夏休みに家に帰り、小さいときからいっしょに成長してきた男の子の家で遊んで、彼の傲慢な一言を聞いた。

”良い夫を見つけるため、女の子は大学に行って、妻になるんだ”、私は直ちにドアを開けて、去った。それ以降、彼と会っても、知らない人と会っていると考えた。私は、多分ただ恋愛だけで、結婚しないだけが最も良い生活への道だと考えていた。さもなければ、どうやって独立して、どのように中国の女性の伝統である良妻賢母の道を行かないようにできるのだろうか?

しかし、”愛情”はついに私にやってきました。あれらの恋愛の日々の中で、朝、私は勤務に行き、頭の上には空がいつも青青とし、道端の木はいつも緑がいっぱい、なんてすばらしい日でしょう!だから、このことは、私が以前にやってきた良いことの、見返りだと私は信じている。すぐ引き続き、”結婚”もやってきました。私は自分の家で、独りで本棚の上の本を一列一列ごと見てみると、やっと目が覚めて、本当に危険な時間が始まったのです。 夫は一日の仕事で帰って来ると、私が料理をしているのを見て、彼は称賛した:”本当に私の良い妻だね!”話し終わってすぐ食事を始めます。彼は結婚する前に、私がこれまで食事を作ったたことがないことを知っています。彼は饅頭が好きで、私はご飯が好きです。彼は食卓の上の饅頭を見て、また“本当に私の良い妻だ!”と言う。ご飯を食べ、私は、これはたぶん彼の男性優位な考え方だと考えます、私は一生ただ彼に従って饅頭を食べるほかありません。ここまで考えて、心の中は少しつらい。ご飯を食べ終わって、夫は言う:”あなたはとても賢くて、仕事に出勤し、終えることに満足し、安らかに日々を暮らす必要はない。あなたは書いてみたらどうですか。”しかし、私は何も聞こえないように、ただ部屋いっぱいに広がった落花生油の味を嗅いで、繰り返し家庭の中の男女平等な問題を考えています。

 

ある日、夫は大学の中の友達が集まると会があると言う。彼が行った後に、私は家でただ待ちます。開いていると、窓の外はだんだんに静かになり、他の人の家のテレビも早めに切られたが、彼はまだ帰って来ません。私はゆっくりやきもきして辛くなり、ついに怒りはじめました。みんな出て行った!私は服を着替えて、表門を閉じて街に出て行った。

街には人がいなくて、公共のバス停にも一人もいません。私は街を一回りして、また家の玄関に帰ってきました、私はこう想像しました、夫はきっとやきもきして私の手を取って聞くでしょう:”どこへ行っていたのですか?こんなに遅く出て行って、悪い人に出くわしたらどうしますか?事故が起きたら私どうしましょう?私はどうやってあなたの両親に説明できますか?”私は突然言う:”みんなは友達と会う自由があるじゃない。”しかし、私が玄関の戸を開けても、夫はまだ家に帰っていません。

 

翌日、一人の編集者が私に向って原稿の寄稿を依頼した、電話は両親の家に来て、お母さんがつないだのだった。お母さんは私に電話をかけ言った:”あなたは自分の一生懸命に作り上げた事業を失くさないで。あなたやっと25歳なのだから。”私の心の中はとても乱れていて、仕事がひけて家に帰ると、お腹が空腹なままものを書き、度々怒って厨房を見て、考えた、男女平等で、今日は、夫がご飯を作るべきだ。夫は重い足どりで上へ上がって、部屋の中に入り、驚いて聞いた:”病気にかかりましたか?まだどうしてご飯を作らないのですか?”

私は言った:”私はご飯を作っていないで、文章を書いているの。”男女平等のために、その時私は本当に夫と少し喧嘩しようと考えていました。夫はちらっと私を見ると、ブリーフケースをおろして、厨房に入って、ご飯を作り始めた。しばらくして、夫は小さな声で私に言った:”食事ができたよ。”

私が作ったのではないご飯を食べ終わると、私は”平等”の感覚が少しもなくて、心の中に、何か詰まっているようでした、特に夫が一日忙しく本を読んでいるのを見て、彼の眉間にひっきりなしにしわがよるのを見て、ランプが彼の大変さを映し出して苦しみが消えることも、情熱が終わることもないという彼の内心をも映し出しているようです。私の心の中に一種の暖かいものが灯火のようにいっぱいになるのでした。私は今の感覚が”平等”なのだということが分かります。妻になって、自分の夫を深く愛し、暖かい感情で自分の夫のめんどうをみる、彼女は精神の上で”平等”なのです。ここにはやさしい愛が満たしていて、これは世界中ですべての平等の中でも、最も良いものです。

 

<閲読><小两口客>若い夫婦のご馳走

春節を早くも過ぎて、私達2人は結婚後初めて家庭で宴席を設けることを決めた。

しかし、私たち二人、どちらもご飯を作ることはできないので、どうしたらよいのでしょう?今、学べばよいのだ!私の先生はもちろんお母さんになった。 彼女は先に私に熱を用いた料理の方法をいくつか教えた、たとえば比如芋扣肉,松鼠,麻婆豆腐,苦瓜炒肉片儿、青菜を炒めるなど。その他の冷菜は、スーパーマーケットで売っているので、買って持ち帰って皿の上に置く。

彼は友達家へ行って、アドバイスを請い、私は彼に幾つの料理法を学んだのかと聞くと、彼は言う:”一つ”。私は聞いて、心の中でひそかに喜んだ。私達は仕入れ始めた、それぞれ各料理を買った、彼はただ一つの料理だけしか学ばなかったが、しかし彼が買った大小の包みの種類は、少なからず、私が買ったのよりもっと多かった。

 

私達は、正月の初五に、ご馳走すると決めて、初四に私はすぐ準備し始めた。私は出たり入ったりと忙しく、彼は普通と同じように、まだ新聞やテレビを見ています。私は思った:もっと早く準備しないで、明日あなたはどうやって招待した客をもてなすのですか?

 

初五のその日、私達が招待した客は、皆来ました。宴会が始まって、テーブルの中間には火鍋があり、鍋の中には白湯がある。鍋の周りには温めた料理が並べてあり、いっぱいになりました:魚の甘酢かけ、サトイモの角煮、マーボ豆腐、ニガウリ肉炒め、青采炒め、さらに、いくつかの冷菜。私からすると、見た目と香りと味は”全部”そろった。私は客の称賛を待っていました。

 

客は食べながら、おしゃべりをし、彼は行動し始めた、まず火鍋のスープを入れ、さらにキクラゲを入れ、またニンニク粉末を入れ、しばらくして、みんなの箸は火鍋に伸び、羊肉のしゃぶしゃぶを始め、食べながら、しきりにほめる。少しを食べて、彼はさらに粉を入れ、また少し食べ、彼はさらにハクサイを入れる。。。本当にその味は尽きることがなく、その楽しみも尽きることがない。みんなはコップを挙げて言う:”火鍋を作ってくれて感謝する、あなた達の生活がだんだんに盛んに良くなるように。”

彼は、ただほほえんで、そばに立って言う:”ありがとうございます、みなさんもっと食べて下さい。しかし、私が作った温かい料理は、誰も少し食べただけで、ひとつの”冷菜”となりました。

 

<会話><物>ショッピング

隣近所から聞いたら、スーパーマーケットで、息子が食べたい魚の頭が売っているって、あなた、2斤買いに行ってくれませんか?

良いですよ、奥さんは私を買いに行かせるとき、私があえて行かないなんてことなかったでしょう?今すぐ行きます。

(先生が急いでスーパーマーケットに行く)

お母さん、お父さんは?

彼にスーパーマーケットまでに魚の頭を買いに行かせました。

彼の耳はあまり良くないのに、どうしてまた、彼を買い物に行かせたのですか?彼に醤油を買わせて、彼は白酢を買ったように;彼に魚を買わせたら、彼は肉を買ってくるのですよ。

お父さんが買い間違いをしても、それでもうれしいのです。私は彼を歩きに行かせかったのですから。

待ってね、お父さんが今日、私達に何を買って帰って来くるかを確かめてきますから。

(少しを過ぎて)

帰って来たよ。今日のスーパーで売っていたサトイモがとても良かったよ、とても大きく、またとても安かった。私はすぐ5斤買ったんだけど、どうですか見てください?

私はあなたに魚の頭を買いに行かせたのに、またサトイモを買ったんですか!前回買ったサトイモはまだ食べ終わっていないのに。

今日、また買い間違ってしまった、それでは私達は何度かサトイモの角煮を食べましょうよ。

おとうさん、あなたのは、”ショッピング”ではなくて、これは”買い間違い”です!

そのようですね、しかし、どうしてまた、いつも私を行かせるのですか?

あなたを行かせなければ、誰を行かせるのですか?私はこんなに忙しくて、お母さんの足はよくありません。

私をショッピングに行かせるが、しかし、毎回あなた達は気に入らないじゃないか。

おとうさん、怒らないでください、私達は気に入らないのではありません。他の人が買い物に行くと、ただショッピングメモに従って(買う)だけなのですが、あなたが、買いに行くのが最も適切です。(というのは、買い物で)あなたは体を鍛えて、さらに家族に、思いがけない喜びを持ってくるのだから。

 

58課 <背影>後ろ姿

私と父は会わないようになって、すでに二年余りです、私が最も忘れることができないのは彼の後ろ姿です。あの冬、祖母が死んだ、父は仕事を(他の人に)引き継ぎした、不幸は重なるもので、私は北京から徐州まで、父に従って肉親の喪に駆けつけ、家に帰るつもりでした。

徐州に着くと父に会い、建物(院子)の中が雑然としているのを見ると、また祖母を思い出して、思わずはらはらと涙を流しました。

父は、「物事はこのように、現在困難であったとしても、いつもまでも困難なわけではない!」と言った。家に帰って金に換えられる物を換金して、父は負債を返しました;また金を借りて葬儀をしました。このころ、家の中の光景はとてもうす暗かった、半分は葬儀ゆえに、半分は父が失業したためです。葬儀をすべて終わって、父は南京に仕事を探しに行き、私も北京に帰って学業します。私達は一緒に同行しました。

南京に着くと、友達がいて、歩きまわりました。一日とどまりました;二日目、午前中に河を渡って浦口に着き、午後には乗車して北に行く。父はやる事が忙しく、私を見送れないことが確かなので、私に付きそわせようと、よく知っているウェイターを旅館まで呼んだ。彼は再三ウェイターに言い聞かせ、とても注意深い。それでも不安そうだ、ウェイターを心配するのは適切ではなかったが;少し躊躇した。

実は私はすでに20歳で、北京とはすでに二三度往復したことがあるので、緊張することは何もないのだが、彼はためらった。ついに自分でも私を見送ることを決めた。私は二三回彼に行く必要はないと勧めました;彼は、心配ない、彼らではうまくいかないと言うだけ。

私達は川を横切り、駅に入った。私は切符を買って、彼は荷物を見張るのに忙しい。荷物は多すぎ、ポーターにチップを払わなければならない。やっと行ける。彼は彼らと値段を言うので忙しい。あの時私は本当に賢明過ぎて、いつも彼が話をするのがあまりかっこよくないと感じ、自分から口をはさみませんでしたが、彼はついに値段を決めて、私を乗車させた;彼は私に車のドア近くの椅子を選んで決めた;私は彼に私の作った紫色のウール製のオーバーを席に敷かせた。彼は私に路上では注意し、夜は警戒心を高めて、冷えないようにしなさいと言った。また信頼できるウェイターに、私の世話を頼んだ。心の中では、父の時代遅れに苦笑した;彼らはただお金だけのためで、頼めるのはディケアだけです!その上、私はこんなに年齢がいっているのに、まさか自分の面倒がみれないわけがない?ああ、私は今思うと、本当に賢すぎました!

 

私は言った、「お父さん、もう行っていいよ」。彼は車外をちょっと見て、言った、「いくつかミカンを買ってくるよ。あなたはここにいて、歩き回る必要はないから。」プラットホームの柵外で顧客を待っている物売りを見かけます。プラットホームまで歩いてゆき、鉄道を横切らなければならない、跳び降りて、また登って行かなければならない。父は肥っていて、歩くと自然と手間がかかる。私が本来行くべきなのだが、彼は承知しなかったので、彼に行かせるほかはない。彼が黒布の小帽をかぶって、黒い布のジャケットを着て、深青色の綿コートを着ているのを見た;よろめき鉄道の辺まで歩きつき、ゆっくりと身体を伸ばして行くが、まだ大きな難儀ではない。しかし鉄道を横切って、プラットホームに登ると、容易ではありません。彼は両手で上によじ登って、両足は再び上へ縮める;彼の太っている体が左へ小さくて傾いて、努力している様子がわかります。

このとき、私は彼の後ろ姿を見ました。私の涙はすぐに流れました。私は急いで涙を拭いて乾かし、心配しながら見ると、他の人も心配し見ています。私が再び外を見ると、彼はすでに朱色のミカンを抱いて戻ってきます。鉄道をまたぐ時、彼は先ずいくつかミカンを地面に落としました、自分でゆっくりとおりて、(落ちたミカンを)再び抱いて歩いてきます。こちらに着くと、私は急いで彼を腕で支えた。彼と私は車の上にたどりつき、ミカンを一気に私の皮のコートの上に置いた。そこで衣服の上に土がすこし飛び、心理はほっとして、少し経ってから彼は言った。

「私は行かなければ、;あちらについたころ手紙が着くよ!」私は彼が歩いて出てゆくのを眺めた。彼は数歩歩いて、振り返って私を見、言った、「中へ入っていなさい、中に人が少ないうちに。」彼の後ろ姿が行き来する人の中にまぎれこむことを待ったら、再び探し出せなくなった、私はすぐ座り込み、また涙がでてきました。

ここ数年来、父と私は二人とも東西奔走しているので、家の中の光景は日々乱雑になった。父の少年時代は外へ出て生計の道をはかり、単独で支え、たくさんの大事(仕事)をしました。以前のそういった環境の中で、やる気をなくしました!彼は目に触れるものが悲しくなり、自然な感情で自分を抑えることができなくなった。感情が落ち込む中で、自然に外に発散させなければなりません;家庭の些細な事は、しばしば彼を怒らせた。彼はだんだんに以前とは異なってきました。

しかし、ここ二年間会わないので、彼はついに私の良くなかったことを忘れてしまい、ただ私を気にかけて、私の息子を気にかけるようになりました。 

私が北へ来た後で、彼は私に手紙を書きました、手紙で言うには、彼の体は無事で、ただ上腕の痛みがひどく、箸を挙げて筆を取り、不便があるので、だいたい、死ぬ時期は遠くないだろう。私はここまで読んで、きらきらと透明な涙が光る中で、またあの肥満の体と、青布の綿入れコート、黒い布の短いジャケットの後ろ姿。ああ!私はいつ再び彼と出会うことができるのか分かりません。

 

<閲読><儿女常回家看看>息子と娘はいつも会うために家に帰る

ここ数年来、「いつも会うため家に帰る」と呼ばれる名前の一曲が、中国にあまねく伝わっている、人々の最も好きな流行歌の中の一つになった。この歌は人々に一つのとても重要な問題を気づかせる:息子や娘として、あなたは家に居る老人に関心がありますか?彼らの生活、彼らの気持ち、彼らの大変さに関心がありますか。。。。?

夏おじさんの連れあいは十数年前にすでに亡くなって、彼の唯一の娘は、まだ遠い上海で仕事をしています。この80歳の老人は、独りで西安の小区にある二階建ての上の階に住んでいます。ある日の朝、彼は突然気絶して倒れました。目が覚めた後に、彼は立ち上がるが、力がはいらず、電話もかけられず、さらに叫び声をだすことができません。。。。

彼の心中では理解できたが、もし誰もドアをたたいて彼を探しに来なければ、彼はただ死ぬことを待っていたでしょう。彼はドアの外を人が歩く足音を耳にすることができ、それはなんどもあの足音が(彼のドアで)停まることを望みました!しかし足音は、いつも近くから遠くへと、一度、また一度と。。。。夜になって、奇跡はついに現れました:娘がドアを開けて歩いて入ってきます。彼は夢を見ているようで、思いもしませんでした、

半年も会えなかった娘が、今日偶然にも出張して西安に着いたのです。

夏のおじさんのこのような「空巣家庭」は、現在中国でだんだんに多くなっています、すでに人々がたいへん関心を持つ社会問題になりました。少し以前に、またこのような事件が一件発生したことがあります、70数歳の王先生は自分の三人の息子と娘を法廷に訴えて、息子と娘達から扶養費が必要なのではなくて、彼らに家に帰ってくることを要求しました。

王教師には、二人の息子と一人の娘がいて、皆すでに結婚して家庭を持って、老人と離れて住んでいます。老人は毎月1000数元の年金を受け取ることができ、三部屋のある家に住んでいて、体もまだ良く、さらに自分で自分の生活をめんどうがみることができる。そのため、他人からみると、彼女の生活は充分幸せだった。しかし、しばらく前に、王先生は三人の子女を法廷に訴え、三人の子女に扶養義務を履行するように求めた。当の三人の子女はこの件を知った時、彼らはたいへんびっくりした。息子と娘達は思った。:母は食べて着るのを心配する必要はないのに、どうして私達を法廷に訴えるのですか?

法廷では、王先生は自分の本音を言い出しました。彼女は言った、私が三人の子供に訴えたのは、彼らから金が必要なためではない、私の唯一の要求は彼らに家にもどって私に会ってほしく、私に付き添って世間話をしてほしいのです。連れ合いがちょうど亡くなった時、彼らはまだ、よく帰って来てくれました。それから、来る回数はだんだん少なくなって、二三ヶ月に一度来るだけです。よく少し話をしないで行ってしまいます。

心中は、特に嫌な感じがするのです、私は孤独なことが嫌で、そのため、彼らが私に付き添うことができることを望むのです。三人の息子と娘が老人の話を聞き終わった後に、皆涙を流しました。彼らは司法官に対して言った、私達の仕事はとても忙しくて、しかも子供の勉強の指導も必要であるため、行く時間がとても少なくなりました、その上、いつも母は何も不足しいないと思って、ふだん電話をかけて、少し挨拶できたので、老人との交流を見落としました。三人の子女は司法官に向かって母の方に向かって謝罪し、そして相談して毎月一定時間、老人といっしょにいることを決めました。老人が幸せな晩年を過ごさせるのを保証します。老人は聞いて、笑って言った:司法官、「私は訴えません」、彼ら一家は楽しく家に帰りました。

司法官も満足に笑いました。彼は仕事に忙しくとも、両親と分かれて住む息子や娘達が常に必ず家に帰って見なければならない事が大切だと言う事にきがついたことでしょう。

 

<会話><核心家庭的问题核家族の問題.

現在、若い人は結婚の後でも、両親と一緒に住むのですか?

これに対して言うのが難しい、というのは現在の情況が以前とは異なるためなのです。

以前はどんなでしたか?

以前は、一般にはどこも大家族で、息子が結婚した後では、両親と一緒に住みました。両親が老いると、身辺を息子が面倒見ます。

;もし息子に子供があったら、両親も少しは(子供の)面倒をみる事を手伝うことができます。人々は常に”四世同堂”は幸福の家だと称賛しました。

現在はどうですか?

現在の情況は異なっています、多くの若い人は、結婚後、自分の小さい家庭を望んでいます、核家族なのです。

彼らは両親と一緒に住むことがあまり好きでありません。

この事は、西洋とたいして違いがありません。

こうなると、新しい問題があります。

どんな問題ですか?

老人によっては、とても孤独だと感じても、息子や娘が常に彼らに会いに来ることはできないのです。

どうしてですか?

息子や娘達は仕事忙しいし、家事を切り盛りして、また子供のめんどうをみなければならないので、時には老人との交流を粗末にしてしまうのです。

だから、ある母親は、子女を法廷に訴えたのです。

本当ですか?

これは私の書いた報道の一編で、見てみなさい。

 

59課 <十八年的秘密>18年の秘密

19985月、私は緊張して大学入試に受ける準備をしていましたが、お母さんが突然病気になり、その上、母の病気には大変重いものでした。

彼女は病院に入院しました。父は青年報の編集長で、仕事は非常に忙しい。しかしどんなに忙しいにも関わらず、彼は自分の手でチキンスープを作り、お母さんが最も食べたい料理を炒めて病院に送りました。私は父のお母さんへの愛に感動させられました。たぶん、他の人の眼には、お母さんは教養も何もなく、普通の女性労働者で、彼女とお父さんはつりあっていないと思ったでしょう。

しかし、私は知っています、彼らの間のギャップはどれぐらいあるのにも関わらず、彼ら二人とも深く愛し合っています。私は私達の家が世界一最も幸せなことを知っています。

しかし、このような幸福は、太陽が光り輝いているのに、午後突然なくなりました。その日に私と同級生の陳麗は本を買いに本屋へ行きました。私は偶然道にも道端にあるバーを見て、しかも、その情景を見て、私はぽかんと驚きました、もし自分の眼で見なかったら、どんな事を言われたとしても、信じなかったことでしょう:父はバーの中で座って、彼の向かい側には一人の40数歳の流行の服を着た女性が座っていました。その女性はハンカチを使って目を拭いていました、もう一方の手は、父の手の中にありました!陳麗も見て、彼女は静かに言った:”芸芸、あなたのお父さん、一人の女性といっしょにいるね。”

それ以降というもの、私は父を無視するようになりました。彼は依然として毎日病院に来て、依然として毎回行き来するのに慌ただしくしています。彼がお母さんと私にどのように関心を持とうと、私は自分の原則をしっかりと守って―彼を無視します。私が父に対して、冷淡なのを母さんさえ気が付きました。ある夜、父がいない時、母は私達を見て昔のことをやっと話した;”芸芸、もしもある日お母さんが本当にあなたから離れて(亡くなる)しまったら、あなたはお母さんに何が発生しようと、永遠にあなたのお父さんを愛するって一件約束して。”

私が七月の大学入試を受けた後、お母さんは亡くなり、永遠に私から離れてしまいました。お母さんは(あの世に)行ってしまい、父もやせました、彼は口数が少なくなりました。

誰が彼の心中がどんなに悲痛なのかわかるでしょうか。しかし私は依然として彼を無視し、自分で部屋の中で、閉じこもりました。

お母さんが亡くなって、二週間後のこと、ある午後、父は早く帰って来て、私を見つけ言いました:”芸芸、私はあなたと話しあいたい。あなたはずっと父さんのことを怒っているのではありませんか?”私は頭を低くして坐っている。この時、テーブルの上の電話が鳴った。私は当然のように受話器を取った。”ちょっとお聞きしますが、先生ですか?”私の父宛の電話です。私は分かっていました、間違いなくその女性です。私は受話器をテーブルの上に置いて、立ち上がって大きい目で父をにらみんでいました。父はすぐ電話を受け終わって、何か思いついたように、私に対して言った:”芸芸、これはお父さんの数年前の良い友達の一人で、半年前にちょうど米国から帰って来たのです、彼女はあなたと知り合いになる機会がほしいと言っている。”私はものを言わずに、また自分で部屋にはいり、閉じこもった。

間もなくて、私は北京大学の入学通知書を受け取りました。その時、私はすぐにでもこの家を離れたくて、また父にも会いたくありません。私は簡単な荷物に持って、北京行きの列車に着席しました。北京に着いた後に、父はしばしば私に手紙を書きましたが、しかし私は一通も返事を出したことがありません。

時間が経つのは本当に早く、あっというまに、第一学期が終わりました。ある日の午前、守衛が私のドアをノックして、言うには男が一人、手紙を彼に私宛に預けていったそうです。

私が手紙を開けると、なんとまた父が書いた手紙でした:

”芸芸、私はあなたがずっとお父さんに会いたくないこと、またお父さんに返事を出したくないことも知っています。しかしお父さんは一日も、あなたを思わない日はありません。あなたは私に対する誤解があまりに深く、このように冷淡になったのでしょう。芸芸、あなたのお母さんが亡くなる前に書いた手紙をあなたに見せるべきかどうかずっと考えていました。この手紙は、私とあなたのお母さんと苦心して18年に隠した秘密を明かすための手紙です。私はその秘密があなたを苦しませると恐れていました、だからぐずぐずしてあなたに知らさなかったのです。芸芸、お父さんは本当にあなたを思って、ついに北京までやって来ました。お父さんはあなたに対して言います:あなたは永遠にお父さんの唯一の娘です。”

封筒の中には、確かに整然と折られた一通の手紙が入っていました、お母さんが書いたのです。彼女はこう書いています:

19年前に、一人の若い軍人が新婚の妻に別れを告げて辺境の防衛前線に行きました。その時、父は一人の記者でした。

ある日、父は普段のように国境の警備の陣地に取材に行きました。わからないものだが、彼が写真を取っていた時、大きな石の塊が山の上から転がって落ちてきました。この危機一髪の瞬間、その若い軍人は父の体の上に倒れこみます。父はただ軽傷を受けただけでしたが、自分の安全を顧みないで、あなたの父を救助した若い軍人は、身を犠牲にしました。二ヶ月後に、父は辺境の防衛前線から戻ってきました。彼は若い軍人の遺物を持って、重慶でその軍人の妻に会いました。その時、彼女はもうすぐ子供を生むところでしたが、(生まれても)小さい頃から孤児となり、身の回りには身内が一人もいません

彼女のそのような物寂しい情景を見て、父は彼女の面倒をみるために重慶に残ることを決め、もう西安に帰りません。子供はすぐに生まれて、女の子でした。二ヶ月後で、父は恩人の妻と結婚しました。ここまで読んで、私は理解できました、と同時に驚いてぽかんとしました。恩人の妻はお母さんで、娘は私で、それに自分を捨てて人を救った若い軍人が私の父なのです。現在のお父さんは、私の養父!

お母さんは引き続き書いている:

”芸芸、あなたにもう一件教えなければならない、このことは、私があなたのお父さんと結婚して二年後にやっと知りました。あなたのお父さんは私と結婚する前に、すでにガールフレンドがあって、彼の大学の学友だった。彼らはとても深く愛しあって、もともと西安に帰って結婚するつもりでした、しかしあなたのお父さんが放棄したため、彼女は苦痛のあまり米国に行きました。それから彼女はやっとあなたのお父さんが離れた原因を知ったのです。18年来、彼女はずっとあなたのお父さんを忘れず、彼らの友情は純潔です。実は、あなたのお父さんに対する誤解を、私達は陳麗から知りました。しかしあなたのお父さんは、私に言わせませんでした。あなたの大学入試に受けるのに影響することを、恐れたのです。私はもうすぐあなた達と離れます、やっとこの手紙を書くことを決めました。。。。。”まだ手紙を見終わっていなかったが、私は泣き叫びました:”お父さん、私は間違っていました、私は永遠にあなたを愛します。”

 

<閲読><不知送的>誰が送ったかが分かりません

秋月という人が働いている仕事上での単位はとても大きく、数千人が働いています。秋月が単位の中でよく耳にするのは、誰が誰の恋人で、あるいはだれそれも恋人のうわさがあるということです。話が始まると、秋月はとても新鮮なことだと感じますが、聞くのが多くなると、彼女はつまらないと思いました。

ある日、一人の同僚と秋月は冗談を言います:”あなたの旦那さんはあんなにイケメンなのだから、恋人がいるのではないですか?”秋月の顔は赤くなり、言った。:”まさか、私の旦那さんはそのような人ではありません。”秋月は口ではでそのように言ったが、心理はその事を気にして、思わず暗く考えこみました、夫の手には権力が少しあり、ポケットの中にも金が少しある、イケメンの男に属して、彼は恋人がいないなんてことがあるだろうか?

週末の晩、食事をしながら、秋月は旦那に聞いた:”家英、あなたには恋人がありますか?”

”いないよ。”

”あなたのような男が、恋人がいないなんて、誰が信じますか?”

”他の人が信じるとか、信じないは関係ないよ。あなたさえ信じてくれればそれで良い。”秋月はそれを聞いて、心の中が蜜を飲んだように甘かった。しかし、彼女は旦那さんが言ったのが本当の話かどうか分かりません。バレンタインデーのその日、新鮮花屋の人は家英にバラの一束を送り届けました。花の中に一片のメモがあって、こう書いています:”楽しいバレンタインデーを!”しかし署名がなく、ただ書いてあるのは:”一人黙々とあなたを好きです。”家英の同僚達は笑って聞きます:

”どこの恋人が送って来たのですか?”家英はそこに立って、どう言ったら良いか分かりません。彼もとても奇怪なことだ思い、この花は誰が送ったのでしょうか?この事を、もし嫁さんが知ったら、彼女はどう考えるだろうか?

家英は仕事がひけて家に帰った、彼はドアから入ると、秋月は聞いた:”今日はバレンタインデーでしょ、誰か他の人が送った生花を受け取りましたか?”

家英は小さな声で答えた:”ありません。”

秋月はまた大声で尋ねた:”本当にありませんか?”

家英はただ正直に言った:”赤いバラ一束を受け取ったが、誰が送ったか知りません。本当のところ、私は元来あなたに教えたくない、いらぬ疑いをいだくのではないかと恐れるからです。あなたは私に尋ねたので、すぐ言うほかはなかったので。”

秋月はほほえんで言った:”これは正直に言いますね。私のイケメン、あなたに教えましょう、赤いバラは私があなたにあげたのです。私はあなたにまさかと思うような喜びをあげたかったのです。”家英は喜んで言いった:”天よ、丸一日私は’まさかと思うような喜び’にひたっています。”

 

<会話><《梁山伯与祝英台》(段)>《梁山伯と祝英台》

(伝統的な演劇の抜粋個所)

とても暑いね、ぼっちゃん、ここから杭州城までどれだけ遠いですか?

まだ18里もあるよ、休みましょう!

見て、人が三三五五群れをなしているね、なんとにぎやかなのだろう!俺達、二人とも、あいつらについていったらどんなに良いだろう。おーい、あなた達はどこまで行きますか?俺達は杭州城まで勉強しに行くのです。

あ!あなたは勉強に行くのですか。

おれは、ちがう、おれは、ぼっちゃんだ。

なんてうれしいんだろう、私達も杭州城に行って勉強するんだよ、お姉さん―――

姉さんは、家に居ます、あなたは彼女のことを言うの!

私は、お姉さんがもしも私達といっしょに勉強しに出て行くのなら、なんとすてきなのだろうと思っています!

そうですか!

こちらの兄いからどうぞ。

どうぞ。

どうでしょう、兄いも杭州城に行って勉強してもらえますか?

はい、兄い、あなたもですか?

そうです、ちょっとお聞きしますが、ご尊名は。

弟分の姓は祝といい、祝英台と言います。

よ!祝兄い。

恐れ入ります。まだ教えてもらっていませんが。。。。。

私は梁山伯と言います、私達が路上でめぐり会うなんて、本当に縁がありますね。

兄い、いろいろ指導してください。

いやいや、こちらの兄さんの話を聞くと、あなた家には、勉強したいお姉さんもいるとか。 

兄い、あなたは知らないかもしれませんが、家にいる妹は本を読み文章を書くことが好きなのです、しかし父親は彼女が一緒に杭州城に行って学ぶことを賛成しません。

男女は平等であるべきで、女子を学校へ行かせないのは、人情がないね。

私は天下の男子も皆同じだと思っている、兄い、が女子のために義憤を抱くのはめったにないことだ。

弟分である私が口を開くと、話をするにはふさわしくない。

率直に言ってください。

それで私は率直に言いましょう。もしあなたが嫌でなければ、私はあなたと義兄弟の契りを結びたいです。 

私達は縁があってここで契りを結びます、そのため私達は実の兄弟のようにいっしょに学ぶことができる。しかし線香とろうそくがない、

どうしようか?

大丈夫、私達は線香に代えて柳を挿し込みましょう。ちょっとお聞きしますが、兄い、あなたは今年、年は、いくつですか?

私は十六、あなたは?

十七。

私はあなたを兄貴と呼びます。

私を弟として扱いください。

 

60課 <珍珠真珠鳥

なんてすばらしい!友達が私に一対の真珠鳥を送ってくれました。簡易の竹かごの中に置いた、かごの内に干し草があり、それは小鳥にとって心地良く、またあたたかい巣になります。

ある人によると、人を少し怖がる鳥だと言う。私はそのカゴを窓の前に掛けた。そこにオリズル蘭がフランス式の鉢で育っていて、蘭の緑葉がカゴにかぶさり、二匹がジャングルに隠れ安全のようです。中から、細く高い声が聞こえます。特別に気持ちよくリラックスしているようです。

太陽が窓の外から射し込み、ここまで光が透り、蘭の葉っぱが、半分は黒影となり、半分は光が透き通っていて、まるでヒスイのようです;繁茂した緑です。小鳥の影はこの中間できらめいて、見てもはっきりしなく、時にはカゴさえ見てとれないが、彼らのかわいく、あざやかな赤い嘴が緑の葉から伸びてきます。

私は彼らを見るために、少し葉をよせました。彼らは私を見るために、だんだん大胆に小さい頭を伸ばしてきた。私達はこのように少しずつ知り合いになりました。

三ヶ月以降に、あの更に繁茂した緑の葉の固まり中から、か弱い叫び声を出しています。私は、それらは雛がいるのではと思いました。私はどうしたか?決して葉をめくって中を見ません、食を与え、水を加える時さえ驚かさないようにしました。それほどたたないうちに、突然、葉の間から小さい頭が伸びてきました。更に小さい、ひな!正にこのチビです!それは小さくて、簡単に竹のかごの中を行ったり来たりすることができます。見てごらん、なんと母親に似ています:赤い口赤い足、ブルーグレーの毛、ただ背中はまだ真珠のような丸く白い点が生えていません:それは良く肥えていて、全体の身体が絨毛のボールのようです。

最初に、このチビはカゴのそばで活動はじめ、それから家の中を飛びたち、飛び来る。しばらくサイドボードの上に降りたち、本棚の上に留まり、本の背にある字をつっつき;しばらくしてランプコードをぶつかって何度も揺れ動き、引き続いてまた絵の額縁までジャンプしました。大きい鳥がかごの中で怒って一声叫ぶと、それは直ちにカゴの中に飛び去ります。

私は気にかけないようにしました。このように時間が経つと、窓を開けても、それは最多でも、窓枠の上でしばらくただ立つだけで、決して飛びたちません。だんだんそれは大胆になると、私の机の上に降りてきます。それは私から比較的遠く離れ、私が彼を傷つけないとわかると、ほんの少し近寄って、その後、私のコップの上まで跳んできて、うつむいて下にある茶を飲み、斜めに顔を見て、私の反応を見ています。私はただ微笑して、依然としてものを書いています、さらに大胆になり、テーブルの上を走り、私のペン先の周りを動き回り、跳び近寄り、跳びさります。私は顔色ひとつ変えずに書いていて、黙々としてこのチビの友好的な愛情を楽しんでいます。このように、それは全く安心して、小さくて赤い口で私のペン先をつっついています。私は手でその絨毛をなで、それも恐がらず、かえって友好的に二本の私の指をつつきます。

ある時、それはなんと私の空いているコップの中に跳び込んで、ガラスを通して私を見ています。それは私が突然コップの口にフタをかぶせても怖がらないでしょう、はい、私にはできません。昼間、それは、そのようにいたずらっ子のように私の傍にいます。日がもうすぐ暮れて、それは両親の再三叫び声で、かごに向かって飛んでいき、まるい体を揺らしながら、それらの緑の葉を開いて潜り込みます。

ある日、私は書いている時、それはなんと私の肩の上に降りてきました。私の手にもったペンは思わず止まって、それを驚かして逃がさないように。少しを待つと、頭をまわして見て、このチビはなんと私の肩先で寄りかかるように眠ってしまいました、銀灰色のまぶたで瞳をしっかり覆い、小さくて赤い足はちょうどとても長い絨毛で覆われています。私はそっと肩をもちあげても、それは目が覚めません、よく眠っています!

私はペン先を動かすと、一時的な経験を書いています。:信頼は、すばらしい境界を作りだします。

 

<閲読><美猴王>覧猿王.

東勝神州、という海外に一つの場所があり、名前を傲来国と言います。それは海に接していて、海の中に名山が一つあって、花果山と呼びます。

山頂の上に、ひとつの仙人の石があって、仙人の胎児を抱いています。ある日、仙人の石は裂けて、1つの石の卵を産みました、円球は、大きなものでした。風に出会うとそれは、石猿に変化しました。 その石猿は山中にあって、歩き跳ね、野草の果実を食べて、泉の水を飲んで、一群のサルと一緒に遊びました。

ある日、このサルは少し遊ぶと、熱いので、小川の中で泳ぎます。サル達は言った:"この河の水は多いが、どこから流れ来ているのですか?私達は今日なにもすることがないので、河の水に沿って上へ歩き、川の源流を探しに行きましょうよ。"老サルは、大きな声で叫んだ:"行こう!"サル達は子供を連れていて一緒に上へ行きます。彼らは何度も山を越えて、以前は大きい滝だった、小さな川の源流を見つけだした。サル達はうれしさのあまりほえ、叫んだ:"良い水!水だ!ここは高山が連なってまた海に通じている。”老サルは言う:"あの(滝の)中に入ってみることができて、その上、体を傷つけなかったら、私達は彼を王にしよう。" 彼は三遍言うと、突然石サルがサルの群の中から跳びでると、大声で言った:"俺が入る、俺が入る!"

石サルは目を閉じると、身体をしゃがめ、力いっぱい中へ跳びこんだ。滝の泉の中に跳び込んで、眼を開けて、頭を上げると、そこのまわりには水がなく、1本の大きい鉄の橋でした。橋の下の水は、石が縫う中から逆流してきて、滝になっています。橋の門は覆い隠されている。石サルは橋のたもとに上がって、あたりを歩き、あたりを見回す。ここは人が住んでいるような、本当に良い場所だ!

石サルは橋の中間から跳んで、真ん中にひとつの石碑をみつけた、表面に一行の字を刻んでいる:"花果山は恵まれた所、小さな滝には水帘洞という洞窟がある。"石のサルはとても嬉しくなった。急いで身をかえして戻っていく、また目をつむって、身体をしゃがみこみ、

水から飛び出した。ハッハッと笑って言った:"ラッキー、ラッキー!"サル達は彼を囲んだまま、尋ねた:"中はどうでしたか?"石サルは言った:"とても良かったよ!ここは本当に暮らすには良い場所だ。中はとても広い、千百もの家族が住むことができます。私達は中へ入って、神様からのいじめを免れようよ。"

サル達はそれを聞いて、みなうれしく思った。みんな言った:"やはりあなたが先に行って、私達を連れて入って。"石のサルは、また目をつむって、体をしゃがめるとひとっとび、叫んだ:"皆私について入ってきなさい!入って!"度胸が大きくなって、皆跳び込みました;臆病なものは、大声で少し叫んで、同じように皆跳び込みました。

石サルは上面に座って言った:"各位、あなた達はこう言ったよ、誰でも能力があるなら入って来て、出て行って、その上、体に傷つけなければ、彼を王にすると。私は現在、中に入って来てまた出て行った、また出て行き、また中に入った、こんなに良い場所を探しだした、私を王にすべきでじゃあないか。"サル達は言った:"そうすべきだ!そうすべきだ"みんな年齢によって大小の列をうまくつくり、上に向かってお辞儀をした:"大王千歳!"それから、石サルは美猿王と呼ばれた。

 

愁>郷愁

小さい頃

郷愁は一枚の小ちゃな切手に

私はここに(居る)

母はあちらの方に(居る)

大人になってから

郷愁は一枚の細い乗船切符に

私はここに(居る)

私の新婦(奥さん)はあちらの方に(居る)

それ以降は

郷愁は、四角い小さな墓に

私は(墓の)外にいる

母は(墓の)中にいる

さらに現在

郷愁は港の浅い海峡に(居る)

私はここに居る

(しかし、)大陸はあちらの方に

 

北京レポート(76)中国語語学学校<5>新实用汉语课本4テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本4の本文を和訳したものである

{新実用漢語課本4 和訳}

第39課 <别总说亲爱的,好不好>

いつも「親愛な」と言わないこと、良いですか

、ご飯ですよ。今日は私の作った料理を食べてもらいますからね。

親愛な人、午前中かかって、やっと食事を作って疲れたでしょう。ありがとう。こんなにおいしいものを作るなんて、本当に才能があります!

先に褒めないでください。まだどんな味かどうかわかりません。あなたは、御飯をどれだけ食べられますか?

こんな良い料理を見ると、特に空腹を感じます。ご飯は山盛り一杯の碗が必要ですが、たぶんまだ足りません。

食べたかったらどんどん食べて、ご飯はたくさんあります。

料理は本当においしよ、あなたの料理の技術は一日一日うまくなっています。特にこの鶏肉を炒めたものは、おいしいだけではなく、その上、様子もとてもきれいです. この料理はレストランで作るものと比べてずっと良いよ、ありがとう、親愛な人!

そう、感謝しなくてよいのよ。おいしいと思ったら、もう少し多く食べて。

それに、炒めたこのエビはとてもおいしいです。思うんだが、結婚の後で、米国でレストランを開いて、あなたはコックで、私が社長で、二人できっと多くのお金を稼ぐことができるよ。

あなたが社長で、社長が私にアルバイトさせるなら、私はやらないことにします。

これは誰が誰にアルバイトさせのではありません。私達二人が分担を決めて協力し合うのです。あなたは技術があり、私はマネジメントがわかり、私達一緒にやれば、どんな不都合がありますか?見て、一碗を食べ終わりました。もう一碗持ってきて、親愛なる人!

あなたは、口を開けば、すぐ”親愛な人”と言うわ?本当に一日一日話をするのが多くなりますね。

私がどうかしましたか?どうして嬉しくないのですか?レストランを開くのがいやですか?本当のところ、これは、とても良いアイデアでしょう。

知っていますか、多くの華橋の人は米国でレストラン開き、金を稼いでいます。さらに、中国料理は世界的に有名で、もっと西洋人にあなたの料理を食べさせ、もっと中国の文化を理解させる、 これはとっても良いでしょう?

金を稼ぐ方法はとてもたくさんあります。レストランを開く必要はありません。私は食事を作ることが好きですが、コックのレベルまではまだまだ遠いです!コックは必ず専門学校を卒業しなければなりません。それに、いつも「親愛だ」と言わないように、いいですか?聞いていて、私いつもおちつきません。

いいでしょう、親愛なる人よーねえ、どうやら、くせは直らないようです。しかし本当にわかりません。あなたは一体どうして三文字(親愛的を聞くのが嫌なのですか?

 

<没有出的「愛」を言い出せなかった

王小雲は林娜に一つの物語をかたりました。

12歳の男の子一人と13歳の女の子一人が同じ年に初級中学にあがりました。男の子と女の子はどちらもあまりおしゃべりが好きではありません。

彼らはいつも何人かの仲の良い友達と一緒に勉強し、一緒に遊びます。

女の子はいつもお姉さんのように男の子にふるまい、男の子も彼女にそうふるまわせることが大変好きです。

三年経って、男の子と女の子はどちらも高校に合格しました。男の子は女の子の誕生日を覚えていて、彼女に手紙を送り、彼女の誕生日を祝いました。彼は女の子が怒るのではと思い、あえて自分の名前を書きませんでした。女の子は彼に返事を出しましたが、彼女も名前を書きません。高校は初級中学に比べてとても忙しく、彼女と彼は勉強以外の事は、他に考えません。

中高学校を卒業したころ、彼らはすでに若者と年ごろの娘でした。若者は北京大学に合格して、女の子は上海の大学に合格して外国語を学びます。女の子が上海に行く、前日の夜に、若者は彼女の家の入り口にやってきました。しかし、彼はあえて門のドアをたたきません。彼、一人の若者が、一人の女の子に会ったら、彼女の家人はどのように思うでしょうか?

女の子はその日の夜は、寝るのがとても遅くなりました、彼女は彼が彼女に”再見”というのを待っていたのです。

1ヶ月が過ぎて、さらに2ヶ月がすぎました。女の子はあれこれ方法を考えて、やっと若者がいる学校の住所を聞き出しました。

ある日、若者は突然一通の手紙を受け取りました。女の子が書いたものです!手紙にはひと言のみあります:大学生活が始まったことをお祝いします。

若者は喜んで、気が狂ったようです。彼は毎朝、昼、夜と寮で一回は手紙を読みました。

二年目になって、女の子は病気になりました。一年間は休みが必要です。彼女は一人で家に帰り、誰にも教えませんでした。

若者は一通、一通と手紙を彼女の学校宛てに出しました。しかしまったく返事が来ません。彼女はどうして返事を出さないのだろう。女の子は本当にどうしたのだろう?

若者は一日一日とやせていきました。1年後、女の子は病気から回復し、また学校に戻り、若者はやっと女の子から返事をもらいました。

彼らは手紙で生活のことや、勉強のこと、世界の大事なこと、を話しましたが、彼らは”愛”の一字も言ったことがありません。

若者は心の中で、女の子は彼の理想で、彼の夢でした。;女の子の日常の手紙の文面から、彼も彼女の心の中が読めました。

彼は女の子より一年早く卒業し、大学院を受験します。女の子は(教育)実習のため、家に帰る時間がありません。

若者は上海にある大学の一大学院生になりました。その年の夏休み、彼らはついに顔を合わせました。

若者はこの背が高くて美しい女の子を見て、心の中は言うべきことがたくさんありましたが、一言も口に出てきません。彼は女の子と握手することさえ忘れました。

その夏休み、彼らは毎日いっしょにおしゃべりして、散歩して、公園に行きます. ある日、若者はやっと彼女に伝えました。

心の中に一つの字があり、最も貴重な一字を伝えたのです、この日まで、彼はこの字をとっておいたのです。。。。

王小雲は、これは30数年前の話だと言いました。ストーリーの中の女の子は彼女のお母さんで、若者は彼女のお父さんです。

 

<閲読><宁静咖啡屋>静かな喫茶店

私は会社の仕事を辞めて、自分で小さい喫茶店を始めました。昔の人はこういいました。「静かは深遠をもたらす(落ち着いてゆったりした気持ちでないと、遠大な境地に達することができない)」

私の名前も宁静(静かさ)です。だから私は喫茶店を「静かな喫茶店」と名付けました。

喫茶店のテーブル、椅子、コップと壁はすべてコーヒー色にし、家の中はあたたかくて、また静かです。

今年、西洋のエイプリルフールであったその日、夜九時すぎに、多くの客が来店していたころ、彼は入って来ました。

私は今まだ覚えています。彼はダークブルーのコートを着て、窓のそばの席の一つを選んで座り、1杯のコーヒーを求めました。

そんなに多い客の中で、彼は特に私の注意を引いきました。彼はとても格好がよく、とても知的な特色があったためです。

その日、彼はコーヒーを楽しんでいるようではなく、壁に掛けてある書画を観賞していました。その書画には「寧静致遠」と書いてあります。 

おそらく彼は私達のコーヒー店の"静かさ"の風格が好きになったのでしょう、エイプリルフール以降も、彼は毎晩九時にはやってきました。

彼はいつもダークブルーのコートを着ていて、窓の傍の席を選び座って、私に向って少し手を振り、一杯のコーヒーを注文します。

そして、席に座ったまま静かに深く考えこみます。毎回、去るときには、かならず私に対して"謝謝"と一声かけます。

夏が来て、天気は一日一日暖かくなります。彼はダークブルーのコートに替えて、ダークブルーのシャツを着て入ってきます。

今回は、彼またコーヒー一杯を注文し、それから私に聞きました:"あなたは寧静さんではないですか?" 私は言います:"はい、そうですが、あなたのお名前は?"

彼はちょっと笑って、私に名刺をくれました。もうそれ以上何も言わずに、静かにコーヒーを飲んでいます。

この後で、彼は二カ月以上、"静かな喫茶店"にやってきませんでしたが、毎日夜九時に、私は彼を待っていました。

私は彼の事をあまりよくわかっていませんでしたが、心の中では彼を自分の良い友達になっていました。コーヒー店の従業員の二人私に対して言います。

"社長、あなたは彼を好きになったのではありませんか?"私はただちょっと笑って、彼女たちに言います:"誰が彼を好きになったというの、冗談でしょう。”

私自身、本当に彼を好きなのかどうか、はっきり言えません。ある日、私は突然包を一つ受け取りました。それはひとつのコーヒーケトルでした。

さらにショートメッセージが一通ありました。

寧静へ:

私があなたをこのように呼ぶことを許して下さい。この何ヶ月間のコーヒーをありがとう、あなたのコーヒーとコーヒー店は私に落ち着きを与えてくれました。

私の以前の彼女も寧静といいます。しかし、今では彼女は私の彼女ではなくて社長の奥さんになりました。

寧静、あなたのコーヒーが私の苦痛という感情から救ってくれました。あなたにコーヒーケトルをプレゼントします。

これは私がヨーロッパに行った時、買ったものです。気に行ってくれることを望みます。

手紙を読み終わった後で、私は驚き、心配になりました。驚きは彼がついに私に手紙をくれたことです。心配は彼が恐らく再び来ないかもしれません。彼は、過去の愛の苦しみを再びあじあわないように、これ以降、コーヒー店に来ないかもしれません。

その日の夜、私は彼の送ってくれたコーヒーケトルでコーヒーを煮ました。9時に、彼は突然来ました。今度は、彼は微笑みながら、私の目の前に近づきました。

私にこう言いました:"こんにちは、このコーヒーケトルは、悪くないでしょう?それでコーヒーを煮ると、味はきっととても良いですよ。”

私も冗談で言いました:”味はとてもおいしいです。あなたに一杯をあげますか?"

彼も笑って答えます。;"当然です、こんなに香ばしいコーヒーで、こんなに親切なサービス、このような静けさを探していたのです、どうして要らないなんてことがあるでしょうか(あるわけがない)………"

 

第40課 <半天和全太太>天の半分と専業主婦

女性の中には、結婚届けを出した後や、特に子供ができた後で、専業主婦として、家庭に入ってしまう人がいます。子供の面倒をみるために、家事に専念する必要があるのですが、この問題、あなた達はどんな見方をしていますか?この考えは、たぶん男が考え出したのではないでしょうか?女性は何世紀の間に努力をして、ついに家から出てきました。

仕事をする権利を得て、さらに「天の半分」のおかげで、さらに発揮できるようになりました。これは社会の進歩であるのに、どうして女性を台所に戻したりできるでしょうか?これは男の考え方だけなのではなくて、女性自身でさえこのような考え方をする人達もいます。

みんなが知っているように、都市では、ほとんどが共働き夫婦の家庭で、夫も妻も毎日外で働かなければなりません。夫婦は子供をめんどうみる時間がありません。自分の子供に関心を持たない母は一人もいません。もし女性が家に戻るなら、子供の教育問題は、すぐにうまく解決できるでしょう。これは女性を見くだしているのではなく、もっと女性が発揮できるようになるからだと思います。

私は、家事や子供の世話をすることが、女性の仕事だけではなく、男性の仕事でもあると思っています。男女はすべて同じようにするべきです。もし、家に戻って子供の世話をしたいなら、すぐ家に帰って子供の世話をします;もしも働きに出たいなら、すぐ働きに出ます。

もし、みんなが働きに出たくなく、家に戻って子供の世話をしたいなら、どうしますか?

それはあり得ないでしょう。働きに出たくない人などいるわけがないのです。ある人は、中国の人口は多すぎて、就業の問題はとても大きい問題だと考えます;もし、女性が家庭に戻るなら、この問題は比較的簡単に解決されるでしょう。

就業の問題を解決するため、女性は必ず家庭に戻らなければなりませんか?これは不公平です。まずは、就業中の男女平等問題を解決します。例えば、ある仕事は、男女両方することができます。しかし、ある部門は男性のみで、女性は必要ではありません。私は、これは正しくないと思っています。

ある仕事は、男性により合っているとは思わないのですか?

もちろんそういう場合もあります。しかし、ある仕事は女性の方が男性よりあっている場合もあります。

重要な事は、男女とも、公平な競争の機会があるべきです。

最後に、私達はこの問題に言及しないわけにはいきません:陳先生、あなたが一体どのように男女平等を実現することができると考えますか?

各方面の男女ですべて同様な権利を享受することができれば、男女とも、やっと平等になれます。あなたがた、私の(インタヴィユー)のための訪問を受けてくださり、ありがとうございます。

 

谈谈中国女的地位>中国における女性の地位についての話

先生方、同級生方

皆さんに、中国の女性地位の問題を話す機会がもてて、大変嬉しく思います。これはとても大きい問題の一つで、私は四つの方面から簡単に話そうと思っています。

まず、私は中国の女性の社会地位を話しましょう。

中国人はいつも、女性が天の半分だと言います。天の半分とはどんな意味でしょうか?女性がほとんどの社会的な仕事の半分を背負っているという意味です。彼女らは男と同じように、社会の進歩と国家の発展に対して重要な役割を発揮しています。全中国の従業員の中で、女性の従業員は40パーセント占めます。

現在、中国には既に女性の副首相、女性の部長、女性の外交官、女性社長、また女性の科学者、女性の教授、女性の画家、女性の詩人がいます。

一般的に言えば、男性ができる仕事で女性ができない仕事などありません。たとえば紡織職人、看護婦のように仕事によっては、ほとんどが女性です;中小学校の教師、大学の外国語の先生は、女性が男性に比べて、より多いです。

みんながご存じのように、中国の二千年余りの封建社会の中で、女性は社会的地位がありませんでした。彼女らは一生涯、自分の両親、夫と息子に従います。彼女らは教育の権利を受けていず、家を出て行って外で仕事をすることもできません。ただ、家で家事をして、夫と子供の世話をすることしかできないのです。

現在の情況はちがっています。「天の半分」の効果が発揮されて、女性は社会でと男性と平等な地位になりました。

これは中国社会の進歩です。

第二、家庭での中国の女性の地位。

一般的に言えば、女性は社会の地位が改善されて、家庭での地位もやっと改善されました。彼女たちは外では、自分の仕事と経済的な収入があり、家では地位は平等です。過去には、家の大事な事は、いつも夫によって決定されましたが、今では夫は妻と相談します。過去には、家事はいつも妻だけが一人でやってきたが、今では夫は家では、天の半分の効果を発揮しています。

多くの家庭の家事には、すべて分業があります:夫がいつも野菜を買い、妻はご飯を作る:夫は部屋を掃除し、妻は衣服を洗う;夫は子供の勉強を管理し、妻は子供の衣食を管理する。ある外国の友達は中国の男性が料理をするのを見て、とても奇妙だと感じます。あなたが中国人の家庭で生活すれば、夫が毎日台所にいることを発見する、彼らの料理技術はこのような(日常の)練習からきているのです。当然なことだが、総じて言えば家事は女性の方が男性に比べてすることが多くて、さらに、家事をしない夫は、今ではほとんどおりません。

第三、職業婦人の困難

職業婦人は外では、決まった仕事の重責を担い、家でも、家事の重い重責を負います。彼女らは一人の良い従業員であり、また一人の良い妻で、良い母親なので、生活はとても容易ではありません。

男性の苦労より多いです。ある女性の従業員が言うには、一日24時間、食べることと眠る以外、一分間も、ほとんど自分の時間がありません!彼女たちは学ぶための時間がなく、ゆっくり休める時間がありません。

家庭と事業の対立は職業の女性の解決しにくい問題です。

最後に、私が話す問題は、今の男女は、すでに平等なのでしょうか?

多くの中国の女性は、今いくつかの方面で、まだ男女平等は完全に実現していないと思っています。たとえば、このような例です。ある場所では女性に対していまだにとても不公平です、女性は同じ仕事をしているのに、得る報酬は男性ほど高くはありません。いくつか農村では、女の子は、教育の機会を受けるのは男の子よりずっと少ないです;科学者、教授、社長の数は、女性はまだまだ少ない。これらの情況は中国だけではなくて、世界の多くの場所でもみられます。総じて言えば、完全に男女平等を実現するためには、私達はまだまだ、遠い道のりを歩く必要があります。みなさん、ありがとうございました。

 

<閲読> <女民企家>女性農民企業家

河南省新郷市から西へ30キロメートル歩くと、南小村に着きます。人々は世界建物博覧会に入ったかのようです。それぞれ風格の異なる建物を見ると、欧州式、アメリカ式、イスラム式がある…しかし、ここは都市ではなく農村です。この”農村の都市”を建てたのは、南小村の農民です。彼らの作った企業は、”京華実業公司”と呼びます。全村に73戸の農民がいて、ほとんどどの住んでいる家は、二階建ての小さい建物です。

彼らの社長は1人の女性で、彼女は林志華と言います。

1972年、この村には四頭の牛がいて、三軒の破れた藁葺きの家、1台の古い馬車、さらに銀行に8000元の借金がありました。その頃、村の中の仕事を管理するのは生産隊長でした。年取ったリーダーは、確かな手段もないので、彼は再び隊長をやろうとは思いませんでした。この古いリーダー以前には、村の中の男は、ほとんど全部リーダーになったことがあります。

誰も再び、この困難な仕事を負うことを願っていません。このようなで状況で、林志華という一人の普通な農村の女性が、勇敢に立ちあがりました。 彼女はとても自信を持って言った:”男性のしないこと、私達、女性がしよう!この貧しい村を変えるため、私はリーダーになりたい! ”この年、彼女はみんなをひき連れ、努力して、ついに村の中の人達に腹いっぱいのご飯を食べさせました。

彼らは三年を使って、食糧1ムー(6アール)あたりの収穫量を800数キロまで改善しました。ただ作物をつくるだけでは、農民は富みません。副業さえやれば、農民はやっと多くの金を稼ぐことができる、と彼女は思いました。しかし、農民の中には銀行ローンまでして、副業をやりたくない人もいました、林志華はみんなに対して言った:”儲うけた金は、はみんなのものです、損した金は、私一人のものとして計算しなさい。”500元のローンにたよって、彼らは一つの小さい工場をやり始めました。林志華はただ5%の労働力だけを耕作にまわして、95%の労働力で副業をやらせました。雪だるまを作るように、数年後には、彼らは相前後して12社の郷鎮企業を始めました。

全国郷鎮企業同士の競争はとても激烈で、林志華は金を儲けのない小工場を停止して、第三次産業を始めました。

村の中で観光業を発展させました。今では、村の中の旅館、遊園地、ホテルは毎日かなりのお金を儲けることができます。

第一次産業を初めてから、第三次産業に発展するまで、林志華は確かに一人の女性企業家としての才能を発揮しました。

林志華はいつもみんなに対して言った:私の理想はとても明確です、農民を裕福にさせることです。私達は農民のポケットを富ませるだけではなく、さらに頭のポケットも富ませなければなりません。林志華は特に村民の教育水準を高めることを重視しました。

10数年来、会社と大学は協力して従業員養成訓練グループを作りました。全公司の従業員の中で、初級、中級、高級な職人と呼ばれる人は50%以上を占めます。次世代にもっと良い教育を受けさせるため、京華実業公司は2500万人民元を持ちだして、子供の教育方面に使い、幼稚園、小学校と中高校を始めました。林志華は言いました:”農業を発展させるには、科学と教育にたよらなければなりません。”

 

第41課 <我想自己开个律所>

私は自分で弁護士事務所を開きたいと思っています

宋華、卒業の後で、あなたは何をするつもりですか?

私はまず、一つの弁護士事務所で数年働き、この方面の情況を少しは熟知するようになって、それから自分の弁護士事務所を開きます。

それは良い考えだ。私達の国では、弁護士はかなり新しい職業です。まだ、多くの人は訴訟に持ち込むことを怖がっています。

彼らは、自分の訴訟でどのように弁護士に助けを求めたらよいのか良くわかっていません。しかし、皆は法律を使って自分の権利を守ることに既に注目し始めました。私は人々がだんだんに弁護士が必要になってきていると思っています。

でも、私のお父さんは見方が異なります。彼は私が国家公務員、裁判官、先生などの試験を受けるべきだと思っています。お母さんも私に国営会社に仕事を探させて、二人とも私が弁護士になることに賛成しません。彼らは、弁護士は他の人の訴訟を助けて、金を稼ぐもので、公務員のように安定した収入ではないと言っています。

そうです、思い出しました。前回君の家に行った時、彼らはそんな意味の事を言ったことがありましたね。そのような見方に賛成しますか?

もちろん賛成しません。私のお父さんは私が安定的な仕事を探すことを望んでいます、つまり、国家の給料を持って、平穏に暮らすのです。

彼らのあの世代の人たちは、大学の卒業後は、すべて国が配分した仕事についたのです。国はあなたにどこに行けと言い、すぐそこに行く。たとえ自分の考え方があったとしても、国の配分に服従しなければなりません。

確かにそのようです。就職の問題に関しては、私達と一世代前の人の考えは異なっています。私達はまずどのように自分の好きな仕事をすると、自分の理想を実現することができるかどうかを考えます。私達は生活の中に挑戦があり、仕事の中に競争があることを望みます。

さらに、比較的に満足する収入を得ることができます。

そう、私のお父さんとお母さんは私がいつか、事務所を開こうとしているのを聞いて、更に焦ったようです。

老人がどう思おうとも、あなたは自分の理想を実現するよう努力するべきです。

当然です。現在、企業や会社も自分の弁護士が必要です。だから弁護士のような職業は日に日に人気があがっています。

私は努力して仕事さえすれば、きっと良い前途があります。小雲、あなたはどうするつもりですか?

大学院の試験を受けようと考えています。しかし、今は、まだ決定していません。もしも適当な仕事があるなら、私は先にそうします(働きます)。

 

<招聘男主角>男の主役を募集

張山は大学を卒業した後で、広告会社を開きました。彼は友達の何人かと共に数年の間、苦しみながら(事業を)やりました。

現在では、商売はだんだん良くなって、会社は発展するのが速くなり、すでに4050人が(会社で)働いています。

ある日、張山は副社長を呼んで来させました。彼は言いました:”ここ数年間、私はほとんど休暇を取っていない。今、二ヶ月休みを取ろうと思っています。この二ヶ月間、会社の事はあなたにまかせます。とても特別に急な事がなければ、私を探すために電話をする必要はありません。

副社長は言った:”そうですか、安心して休暇に行ってください。”

張山は家に帰ったが、休んでなんかいません。彼は多くの趣味を持っていて、特に演ずることが好きです。この方面の能力を、自分で試したいと思っていました。張山は毎日のように新聞紙の募集広告を見ました。ある日、彼は”男の主役募集”の広告を見つけました。

彼は、一回でも映画俳優になれるなら、どんなにすばらしいだろうと思いました。もし彼が有名になったなら、広告会社の発展に対して、とても良いはずです。仮に、たとえ成功しなくとも、大丈夫で、彼はまた彼の社長になるだけです。

張山は役者を募集した場所を探しだしました。募集の試験はとても複雑で、まず副監督による面接試験をして、張山は合格しました;その後、また監督による面接試験、張山はそれも合格しました。映画監督は満足して言った:”私達は百数人を試験して、ただあなたの才能だけが私が想像した男の主役と同じです。おめでとう。男の主役は、まさにあなたです。”

”本当ですか?”張山は喜んで映画監督を聞きました。

”もちろん本当です。あなたが賛成さえしてくれれば、私達はそのように決定します。でも、あなたはどんなことがあっても考えを変えませんか?もしも、あなたが考えを変えるなら、私の損失は大きくなります。だから、あなたは先にここに一千元の金を払わなければなりません。二週間後に、私達は仕事を始めます。あなたは時間どおりに出勤してくれれば、私はお金をあなたに返します。

張山は言った:”できます。”

”いいでしょう、あなたの電話番号を下さい、二週間以内、あなたにどこへ出勤すべきかを知らせます。”

張山は一千元を払って、楽しく家に帰って電話の知らせを待ちました。二週間すぎて、誰も彼に電話をくれません。

三週間目の月曜日の朝早く六時に、電話は来ました。しかしあの映画監督がかけてきたのではなくて、彼の自分の会社の副社長がかけてきたのです。副社長は急用ができたので、すぐ戻るように彼にいいました。

張山は言った:”駄目だ。私も重要な事がある。会社の事はあなた達で、討論して決定するように言ったでしょう。”

”この問題はとても重要で、あなたは討論に参加しないわけにはいきません。”

張山は、監督が彼を男の主役に選んだことを副社長につたえました。

副社長は言った:”あ!私は分かりましたよ。派出所もあなたを探し電話をかけてきました。あなたが言った監督は既に逮捕されました。彼は大詐欺師だと聞いています。”

張山は言った:”え!大詐欺師ですか?新聞はどうしてあのような人に広告を載せて、みんなを騙させたのですか?”

 

<閲読> <四部歌王>西部の歌王

王洛賓、人々は彼を西部の歌王と呼んでいます。彼の歌は、中国大陸だけではなく、香港、台湾でとても有名です。

海外にいる華橋の地区でも、とても人気があります。多くの人が彼の歌を歌って成長しました。

王洛賓は北京人で、漢族です。彼が若い時、新疆にたどりつき、新疆で少数民族が居住する場所で50年余も生活しました。彼はそこの民族と音楽を深く好きになって、新疆に関する愛の歌を数百曲創り、編曲しました。

ウイグルの一族の人は彼を”我らウイグル族の音楽家”と呼びます。

王洛賓も言います:”新疆少数民族の優美な音楽がなかったら、今日の王洛賓がありません。”彼は少数民族で、深い心情を築きあげたのです。《あの遥か遠い地方で》はカザフ族の民謡の一つです。王洛賓が編曲した後、ほとんどの人が愛の曲として歌うようになりました。

 

遥か遠い地方に、

一人の良い娘がいた

人々は、彼女の帳場を通り過ぎては、

振り返って、恋に望みをかけた。

 

彼女のあのピンクの笑顔、

まるで赤い太陽のようです。

彼女の活発に動く瞳は

夜の美しい月のようです。。。。。。。。

 

《達坂城の娘(ダーバン市の娘)》は王洛賓の有名な歌の一つです。ダーバン市の生活環境はとても苦しく、60年代に、王洛賓はここにたどりつきました。彼は農民の家に住んで、農民と一緒に生活しました。いっしょに羊を放牧し、ウイグルの老人と一緒に歌を歌い、若い人と一緒にダンスをします。彼はそこの老若男女を自分の身内に思い、そこの人達も彼を自分の兄弟と思いました。老人達は彼が音楽家なことを知っていました。

自分の民族の歌曲を一曲、一曲歌って彼に聞かせました。王洛賓は多くの民謡を聞いた後に、《ダ-バンの娘》を編曲しました。

ダーバンの石は円く、大きいよ

スイカは大きくて、甘いよ

ダーバンの娘はお下げが長いよ、

二つの瞳はとっても美しい。

もしもあなたが嫁ぐなら、他の人に嫁がないで

きっと私に嫁いできて。。。。。。。。

 

この歌はダーバンの人民に対する愛情からでました。ダーバン市という、この小さな町の名も、歌のために有名になりました。

1993年秋、この西部の歌王が再度、ダーバン市に帰ってきた時、彼はすでに70数歳の老人になっていました。ダーバン市の各民族の人々は、熱烈に、彼を歓迎しました。

 

第42課 <洋姑

外国人の婿は農村で春節を過ごす

ジャックと玉蘭が家に帰って春節を過ごすことを歓迎します。私達の家族全員、一緒に年夜飯を食べられ、私とあなたのお母さんはとてもうれしいです。さあ、私達は先に乾杯しましょう!

お父さんを祈って、お母さんの身体の健康に!

恭喜発財!

好、好。恭喜恭喜!あなた達が新年万事順調なことを祈ります。ジャック、もしも少し変に感じるなら、私のことを先生と呼び、奥さんを太太と呼んでいいです。どのように呼んでも、良いです、気にしません。あなたには、あなた達の習慣があります。

あなたは怒らないのですか?

あなた何の事を言っているんですか?私は怒るどころか、かえってとても嬉しいです。私も”太太”になりました!

食事を食べて、食事を食べて、食べないと、食事が冷たくなります。

この紅焼魚(魚の醤油煮込み)を味わってみて。

もう少し食べたら。ジャック、私達が年夜飯を食べる時、鶏と肉以外、かならず魚が一匹います、これがどうしてそうなのか知っていますか?

鶏、アヒル、魚、肉はすべておいしい料理で、まさか別の意味があるのではないでしょう?

あります。「魚」(ユ)の発音と余分の「余」(ユ)が同じ発音なため、「有魚(魚がある)」は「有余(余分がある)」となる。意味は新しい一年で、皆の生活がよりよく、皆の家庭で余裕があることを願うためなのです。

あ、わかりました。ある人は携帯電話の番号が好きで、自動車の番号も”8”を含んでいて、”188”ではなく”518”です。これらも,おなじ考え方からきていると思ってよいのでしょうか?

そうです。南方の人達が”8”を読むのと”発財の発”の読み方がほぼ、同じ。「5」を読むのと、「我」もほぼ同じです。だから、

188”と”518”も同じで、”要発発”や”我要発”となります。彼らは”発”を希望するので、だから”8”が好きです。

それからというもの、別の場所の人達もこのような(やり方)にしました。

私達の外国人の婿は、ずいぶん中国の事を多く知っていますね。年夜飯を食べ終わってから、テレビを見たり、ギョーザを作ったりするのですよ。

みんな晩ご飯を食べ終わって、どうしてまたギョーザを作るのですか?まさか、まだ来る客がいるのではないでしょうね?

これは私達の北方の風習です。今日除夜で、古い一年がもう過ぎ去り、新しい一年が始まります。だから各家庭では寝るのが皆、とても遅いのです。これは”守年(夜を徹して新年を迎える)”と呼びます。北方人は、いつも多くのギョーザを包んで、新年にゆっくり食べます。

ジャックはギョーザを作ることができません。ジャック、夜を徹し新年を迎える時、あなたは何をしますか?

私はなんでも大丈夫です。私は何をしてもみんなおもしろいと感じています、郷に入れば郷に従います。

ギョーザを作れないことは、大丈夫です。彼に子供達と一緒に外へ行って花火を鳴らさせましょう。

それは、彼はとても喜んでするでしょうよ。北京市内は花火を鳴らすことを禁止し、都会の人が春節を過ごすのがますます簡単になり、どこに農村のようなにぎやかさがあるでしょうか?

今では春節に長い休暇の間に、道理で多くの都会人が地方に旅行にでかけて行って、農村まで行って祝日を祝いに来るわけだ。

私達はここ(農村)で花火を鳴らすことを禁止するどころか、かえって花火を鳴らすのが以前より多くなりました。今年は、私達の家ではかなりの大花火、小花火を買いました。12時になったら、あなた達は花火を鳴らしましょう。

今では、私達、農村が春節を過ごすのは都会よりずっとにぎやかなのです。年夜飯を食べる以外にも、私達はまた春聯を書き、切り紙細工を貼って、ヤンコ踊りを踊り、さらに各種の演じる催しや試合がまだあります。あなた達はここで何日か住んで、私達の村が観光事業、特に文化旅行で発展することができるかどうかをみてください。

 

远亲不如近遠い親戚より近くの他人>

今春、私達は郊外の農村で四合院を建てました。土曜のある日、私達はトラック一台に木材とセメントを満載に積みました。

私達の新しい家を新装にするための準備です。私達が村落に着いた時、各家庭は皆晩ご飯を作り始めた頃でした。

隣近所の人達は自動車の音を聞くと、走り出てきて、離れたところに立って、好奇心で私達を見ています。

私と夫は車から飛び降りて、忙しく木材を運びました。早く物を降ろし終われば、運転手を都会に戻らせることができるからです。

都会生活は長かったので、骨の折れる仕事にあまり慣れていません。ちょうど二回運んで、二人とも疲れて、歩けなくなりました。

隣近所の人達は、私達を笑いものにするどころか、むしろ助けたいと、私達を取り囲みました。しかし私達がどう思っているのかわからず、彼らは多少ためらっているようでした。若者の一人が冗談で言った:”どうしましたか?まさか二人で明日まで続けるつもりですか?あなた達このようにして、たとえ明日の朝までしたとしても、恐らく終わりませんよ!”みんなは聞いて笑いました。

私は車の上に、よりかかっています。彼らと一緒に笑いました。

 

その若者は、私たち二人も一緒に笑うのを見て、引き続いて言った:”ちょっと調べて、なにか重要なものがありますか?もしもあるなら、先にそれを全部(家に)おさめましょう。”それからまたみんなに対して言った:立っていて見るだけではだめだ、みんなは手伝おうよ!隣近所の人達は自分の運搬車をすぐ出して、私達をすぐに手伝います。彼らはとても早く、一時間もかからず、車のものを降ろし終わって、整然と中庭に並べます。

運転手は自動車を運転し、走り去り、隣近所の人達も少し服をたたいて、帰ろうとします。一人一人にどれだけ報酬をあげるべきか、急いで夫と相談します。隣近所の人達は、お金をあげる話を聞くと、皆急いで車を押して帰りました。私達が何と言おうと、彼らは、聞く耳を持ちません。特にその若者は、彼は歩きながら、こう言いました:”あなた達の都会の人は、なんでもすべてお金がものを言いますね!家のご飯が、みな冷たくなってしまうため、私達は家に帰って食事をするべきです。これ以降は、私達は、皆隣近所づきあいです。もし何かあったなら、すぐに声かけて、遠慮しないで。。。。。。。“

彼らは皆歩き去りました。私たち二人で、中庭で休みます。私は夫に対して言った:”都会のビルの中では、隣近所の人達が、誰が誰であるかを知りません;しかし今日、村の中で、私はこう思いました。”遠い親戚より近くの他人”。

 

<閲読><舅舅城拜年>叔父は町に行って新年の挨拶をする

春節がもうすぐやってきます。

私が小学校に入った頃のことで覚えているのは、毎年、春節前には叔父が二人の子供を連れて一度、北京にやって来たことです。

彼らは、落花生やスイカの種、あるいは、ナシやアンズなどなどを持って来て、私達に一足早い新年の挨拶をするのです。

帰る時は、お母さんは、彼らが持って帰れるように、早くから準備した贈り物を渡します。:大人と子供には、それぞれ、着替えるための新しい服、いくらかのお菓子、飴と新年を祝うためのものを持たせます、さらに、子供が学校の本代に払うために、それぞれの子供に数十元のお年玉をあげるのです。

”いつものように年末になったのに、彼らが来ないなんてことがあるのだろうか?”お父さんはお母さんに聞きました。お母さんも少し変だと感じて言った:”彼らはすでに三年も来ていません。まさか私達に対して(何か)言いたいことがあるんじゃないでしょうね?”

私は言った:”現在の農村は、変化がとても大きく、学校組織で、私達が郊外の農村へ見学したことがあるが、そこの農民は都会の人よりずっと富んでいました。かなりの農民の家には車があります。叔父たちは、恐らく金を稼いで金持ちになることに忙しいのです。”

お父さんは言う:”そんなに簡単ではない、あなたが行ったのは北京郊外の農村だからです。私は思う、全国では、やっと快適な生活を過ごしやすくなったものの、かれらのいる遠い山間部では、あまりに大きい変化があるとは思えない。。。“

私達がちょうど話していると、叔父は一台の新しいトラックを運転していました。

”叔父さん、どうしてあなたは一人で来たの、私の従兄や、従姉は?”私は聞きます。

”彼らは家にいて、あなたの叔母と温室で忙しく、仕事をしているよ。私は今度北京に来たのは、ひとつには、あなた達に新年の挨拶をするためで、二番目には、北京で一台の大きいカラーテレビを買おうと思っている。二人の子供は、テレビから多くの農業技術を習うことができると言っている。去年、村の中に電気が通じて、彼らは私に買って来るよう頼みました。この二年、私は確かに暇がなくて、だからあなた達に新年の挨拶ができなかった。今年どんなに忙しくとも、あなた達に会いに来なければならないのです。”

叔父は、大きいカラーテレビを買うため、トラックを運転してきたというが、私のお父さんとお母さん二人には、とても突然なことだと感じた。

叔父は二人と会ったのに、話をしていなので、あわてて、笑って言った:”あなた達が知っているように、都会の人は良い暮らしをしています。今は、私達、貧しい山間の農民でさえも金持ちになりつつある。政府が農業の技術員を派遣して、私達の果樹の植え付けを助けてくれるし、また私達に養蜂の仕方や、羊の飼い方を教えてくれる。果樹の収入は、もちろん言うまでもなく、蜂蜜を売るだけでも、一年で数千元の収入がある。

今回、叔父は北京に住んだのは、一日だけだった。買わなければならないものは、彼はすべて買いました。大きいカラーテレビ以外にも、さらに多くの農業技術の方面の本を買いました。彼は言いった:“これらの本は、あなたの従兄が私に買うように言ったものです。私達のとこでは、こういったものが欠けているのです。”彼が去る時に、彼は私に二百元のお年玉をくれました。私に対して言った:今年、家を建てるのを待てば、あなた達を迎えるために、私は再び来て、家に着くと春節を過ごすことができます。”

 

第43課<《孔乙己》>《孔乙己》を読む

力波、あなたは何を読んでいますか?

《孔乙己》

今、《孔乙己》のような小説を読んでいて、難しいと感じませんか?

死ぬほど難しいです。文中に新しい単語はありませんが、しかしそれでもいまだその意味が読んでも分かりません。

どんな文ですか?

例えば、”孔乙己は立ちながら酒を飲んでいる、長衫を着ている唯一の人です”。このセンテンスの中で、魯迅先生は孔乙己をこのように書いていますが、どんな特別な意味があるのですか?

(意味が)あるのです。当時は、”長衫”を着ているのは、学者か金持ちのどちらかでした。彼らは咸亨ホテルに行って、座っては、酒を飲み、料理を食べます。ホテルの中では、立ちながら酒を飲む人は、貧乏な労働者で、皆短い服を着ています。孔乙己が他の人と同じでないのは、彼は自分を学者だと思って、いつも長衫を着ているのです。しかし、彼は大変に貧しかったので、 金持ち一緒に座って飲んだり、食べたりすることができません。短い服を着ている貧乏人と一緒に”立ちながら酒を飲むだけだったのです。”この文の話の意味は、彼はとても貧しいが、それでも学者として虚勢を張ることが必要でした。その時の社会の情況がわからなければ、これらの文の意味を理解することは難しいのです。

それだとすると、この文の意味は、孔乙己を風刺しているのでしょうか?

孔乙己を風刺しているのです。魯迅先生は、この小説の中で、封建社会を暴き出しました。

その通りです。小雲、ありがとう。あなたの説明がなかったら、この文の意味がはっきり分かりませんでした。

そんなに遠慮しないで。聞くところによると、昨日の午後、貴方の学部が、中国語演目大会を開催しましたか?

はい、私達のクラスが演じたのは漫才で、みんな全員笑い転げました。あなたは知っていましたか?プログラムの中には、まさに孔乙己を演じて咸亨ホテルで酒を飲む場面があります。

誰が孔乙己を演じたのですか?

高学年の留学生の一人が孔乙己を演じました。彼の背丈は高く、髪の毛は長く、汚く破れている長衫を着て、カウンターの前に立ち、店の中にいるウェイターに尋ねます。:あなたは本を読んだことがありますか?「回」の字はいくつか書き方があることを知っていますか?彼が役を演じたのは、すごくおもしろかったです。

道理であなたは、今日ここで《孔乙己》を呼んでいたのですね。残念ながら私は昨日の午後、出かけてしまいました。あなた達のプログラムを見ていません。もう少し早く知っていたら、うまく間に合ったのに。

大丈夫です、来年の頃に、私達の学部はまだ、中国語のプログラムがあり、来年には《阿Q正伝》を演じたいとおもっています。

 

<跟巴金先生握手>巴金先生と握手

私は中国の現代文学に大変興味を持っています。特に魯迅、巴金、老舎のこれらの有名な作家が好きです。北京に来る前は、私は巴金の小説《家》を読んだことがあります、それは英文に訳したのもので、《家》の映画をも見たことがあります。

私が北京に来た後に、新劇《茶屋》とドラマ《阿Q正伝》を見たことがあります。私はこれらの作家の状況をもっと理解したいと思いました。先週、力波は私に対して言いました:”あなたはやはり中国現代文学館を少し見学しましょう。

中国の現代有名作家の資料はそこにすべてあります。私はその日に午前中に見学して、見終わることができませんでした。私は、死ぬほどくたくたに疲れました。でも私はまた再び何度か来たいと思っています。私達は、北京にいる間に、少しでも見学に行かないと、後できっととても後悔するでしょう。”力波はとてもまじめに私に対して言った:”あなたが文学館を見学する時、巴金先生と握手することを忘れてはいけません。”私はとても奇怪だと感じました、巴金先生は、こんなに年齢がすすんでいるのに、まさか彼は毎日、そこで見学する人と握手するのでしょうか?これはもちろんあり得ません、それでは、力波はどんな意味で言ったのでしょう?

今日の午前中に、学院は現代文学館を見学することをアレンしました。それは一個のとても普通な新しいビルで、外から見ると、普通でいつものように、シンプルでした。しかし、ビルに入った後に、私達は文学の宝庫に来たと感じました。

説明係は私達にたくさんの有名な作家の情況と彼らの作品を紹介しました。彼女は解説するのがとてもまじめで、とても明らかです。私は一方で見て、一方で聞いて、一方で覚え、時にはまた彼女にいくらかの問題をしました。

私は、このような見学がとてもおもしろいと感じました、作家の情況が分かるだけではなく、その上、更に彼らの生活の時代を理解できます。これは作家の作品を理解するうえで、とても助かります。私達は階下から上の階まで見学し、文学館を一遍見終わりました、すでに早くも11時です。あの説明係は親切にみんなに言った:”あなた達が帰る時に、巴金先生と握手することを忘れてはいけません。”

同級生の一人はあわてて彼女に聞きました:”巴金先生はどこにいますか?”あの説明係は笑って、私達を文学館の入り口に連れて行き、彼女は門にあるドアノブを指していて言います:”あなた達、見て、これは何ですか?”この時に私達はやっとドアノブが、とても特別な事に気がつきました、本当に一本の手のようです。説明係は続いて言った:”これが巴金先生95歳の時のものです、彼の右手を押しつけて、模型にしました。この銅のノブがあるので、巴金先生は毎日すべてここで見学する全部の人と握手することになるのです!”

私は巴金先生の手を握っていて、心で思います:尊敬する巴金先生、こんにちは!私はとてもあなたの作品好きで、あなたは中国青年の友達で、私達の友達でもあります。

 

<閲読><我的伯父迅先生>私の伯父、魯迅先生

伯父である魯迅先生が生きていた時、私はまだ小さくて、魯迅が誰なのか知らず、伯父は伯父で他の伯父さんと同じだと思っていました。あの頃、週末となると、私達の三姉妹はいつも父母と共に、おじさんの家に集まりました。

ある時、おじさんの家で、みんなはテーブルを囲んで晩ご飯を食べました。私は父の鼻を見て、またおじさんの鼻を見て、彼に言いました:”伯父さん、あなたと父は、どこか良く似ているところと、少し似ていないところがあります。” 

”どこが似ていませんか?”おじさんはふり向いて、ほほえんで私に聞きます。彼がものを食べる時、唇の上のひげも続いて動きます。

”お父さんの鼻は高くてまっすぐで、あなたの(鼻)は?偏平で平らです。”

”あなたは知らないかもしれないが、”おじさんは、笑って言いました、”私が小さい頃、鼻はあなたのお父さんのと同じで、高くてまっすぐでした。”

”なら、どうしてー”

”しかし、それからというもの、何度か壁(困難)にぶつかって、鼻が平たくなりました。”

”壁にぶつかった?”私は、言った”あなたはどうやって壁にぶつかったのですか?歩いていてうっかりしたのですか?”

”考えてごらん、周囲が真っ暗では、壁にぶつかりやすくないですか?”

”え!分かった、壁はもちろん鼻よりずっと硬いものね、道理で、あなたの鼻はぶつかって平たくなったのですね。”

同席する人は皆大いに笑いました。

その事を現在まで、いまにいたるまで、はっきりと覚えています。

ある日の夕方、北西の風が吹いて、街頭の人は皆忙しそうに急いで家に帰ります。父と母は私の手を引いておじさんの家まで連れて行った。おじさんの家の入り口から遠くない場所まで歩いて行くと、人力車を引く人が座って地面の上でうめいているのに出会いました。私達が通りかかると、彼は頭を上げて、とても苦痛な様子のようです。

”どうしましたか?”お父さんは彼に聞きました。

”先生、”彼は、小声で言いました。”ガラスの破片を土踏まずに刺してしまいました。死ぬほど痛くて、家に帰れないのです、どうしたらいいのかわかりません?”

父はおじさんの家に走って行って、しばらくして、おじさんと一緒に、薬とガーゼを持って出てきました。人力車引きを人力車の上に座らせて、その二人は、彼からガラス片を取り出し、薬をつけて、ガーゼで包みました。その人力車を引きは感謝をこめて言いました:

”私は本当に、どうやってあなた達に感謝すべきかわかりません!私の家はここから遠くないので、これでゆっくり歩いて戻ることができます。”

おじさんは、さらにいくらかのお金を取り出して、彼に与え、彼に家で何日か休むように、残った薬とガーゼをも彼にあげました。

 

第44課 <的没有的精>

売り手ほど賢い買い手はいない(売り手のほうが買い手より賢い)

すぐ来て見てごらん! パジャマが安いよ。刺繍があるパジャマ、一枚買えば、一枚無料です!ここにある数だけだよ。

そこの外国の友達、あなた一枚買いたくありませんか?あなた達、見て、二匹のパンダの刺繍が上手でしょう、目はとても丸くて、とても黒く、あなたが着るとぴったりです。それを着てみてごらん、きっともっときれいになるよ。

そんなわけないけど、本当のように思えるわ。でも、このパジャマの上の花の刺繍は本当に美しい。

デザインは悪くありません。もしも値段が釣り合っているなら、私は一枚買いましょう。社長、このようなパジャマは一枚いくら?

98元、一枚買うと、一枚無料です。

一枚買うと、一枚無料?そんな良い事があっていいの?信じられない、一個買えば、一個無料という店はあったけれど、小さい櫛(くし)か、手鏡が無料になるくらいでしたよ。

信じられませんか?無料になるものは、櫛(くし)ではなくて、これと同じパジャマですよ。自分で自由に選んでください。

社長、少し安くすることができますか?別の店でさえも、こんなに高くありません!

あなたは知らないでしょうが、商品が異なります。これはブランド品で、普通のブランド(品)に比べて、品質はずっと良いです。私達は直接工場から商品を仕入れました。直接仕入れなかったら、値段はこんなに安いことはできません。だましたりしません。たとえあなたが北京市内をすべて歩いたとしても、ここより更に安いものを探し出すことはできません。安心して買ってください。

もし、値段を少し安くするなら、買いましょう。

価格を示してください?

70元はどうですか?

70元でさらに一枚無料ですか?お姉さん、あなたの値切り方はあんまりです。このように売ったら、金を儲けられないだけでなく、かえって元手を割ります。今売っている価格は、ほとんど商品の仕入れ価格で、あなたから一枚売るごとに数元を儲けるだけです。

こうしましょう、あなたが本当に買いたいなら、95元で二枚持って行くことができます。

いいでしょう、私はこの青いのと、あのパンダの刺繍がしてある(品)にします。お金を払いますので、それを包んで下さい。

これは百元、お釣りが5元になります。つつんでさしあげます。

社長、この服の、一枚49元と書いてあるではありませんか?どうして98元と言って、一枚買えばもう一枚プレゼントなんて言えるのか?(値段そのままだよ、一枚買うと一枚無料でも、ちっともやすくなっていないよ)

一枚が49元、二枚だと98元ではありませんか?なんと言おうと、私はあなたの一分のお金も要求していません。それに二枚買うと交換して着ることができますよ。それに買って、友達に贈り物することもできます。これって良くありませんか?

え!もし、率直に言わせてもらうなら、私達は一度に二枚買わされるのですか?道理で、人々がいつも言うが、南京から北京まで、売り手ほど賢い買い手はいないと言います。社長、あなたの本当に良いビジネスをしています。

 

<”胖阿姨”文具店>”太っちょおばさん”文具店

1992年、太っちょおばさんは、上海にある一軒の紡績工場で職を失いました。彼女は、19歳に工場に入り、この工場で16年も働きました。現在、職を失ってしまい、彼女は本当に自分がどうするべきかわかりません。夫は労働者で、給料は高くありません、子供は学校に通っており、一家三人の生活は急に困難が多くなりました。太っちょおばさんは、新しい仕事につきたいと、何度か求職の窓口(単位)に行ったことがあります。しかし、これらの職場は彼女の年齢が高いか、彼女の知識(文化)が低い点を言って、彼女はいつも仕を見つけられません。太っちょおばさんは自信をなくしてしまい、自分で自分を雇いたいと思うようになり、まず小さい屋台で、いくらかの子供のおもちゃを売りました。

ある日、老先生がおもちゃを買う時に、太っちょおばさんに対して言いました:”もしもあなたが、さらに文房具をいくらか売るなら、小学生にとって、大変便利なんだが。”その先生は気軽に言ったのだが、しかし、太っちょおばさんは、これは良い考えだと思い、彼女は、試してみたくなりました。彼女は6平方メートルに満たない一軒の家を借りて、” 太っちょおばさん”の文具屋をオープンしました。

太っちょおばさんは毎日早くから店を開けて、遅く閉めました、小学生に対しては、特に親切です。彼女は、文房具を売るとき、子供達から一分銭の金を多く受け取ったことはありません。もしも子供がつり銭をもらうのを忘れたなら、彼女は追いかけて、お金を子供に渡します。さらに彼らに告げていわく、どんな事情があっても、いい加減にすることはできない。小学生は時々、かばんを店の中に忘れます。彼女は店にちゃんと保管して、彼らが取りに来ることを待ちます。小学生の中には、夕刊に手紙を書く人もいて、太っちょおばさんのサービス態度をほめたたえます。近くの中・小学生は皆ここへきて買い物をすることが好きです。” 太っちょおばさん”の文具屋の商売は一日一日良くなりました。

今では、”太っちょおばさん”の文具店は、すでに発展して、彼女は第一チェーン店を開き、六人の職を無くした女性労働者を雇いました。太っちょおばさんの家も以前より金持ちになった、しかし彼女は依然として勤勉で質素な生活をしています。

人によっては、彼女に家を買うように提案する人もいます。彼女は言った:”今まだ家を買うことができませんが、私は「太っちょおばさん」の文房具のスーパーマーケットを開くつもりですし、それでビジネスはもっと更に大きくなります。私は信じています、事業が本当に発展し始めたら、家を持とうとすれば有るようになるし、車ももとうとすれば有るようになる。生活がさらによりよくなるものです。それにあなたは、賛成ですか、反対ですか?”

 

<閲読> <老百姓手里的多了>

民衆に多くの金が手に入るようになりました

最近、20数年来というもの、中国市場ではとても大きい変化がありました。大きな商店が多くなり、商品も多くなって、民衆の手にお金が多く入るようになりました。改革開放の前は、北京で最大の商店といえば王府井デパートでした。あの頃、どんなものを買うにせよ、皆とても長い列に並ばなければなりませんでした。かなりの商品が、まだ券によらなければならず、衣服を買うのに布券、レストランへ行き食事をするのに食糧券が必要でした。その頃、人々の三種の神器といえば、腕時計、自転車、ラジオでした。

特別な(物)は、国外から輸入しました、普通な民衆は買うことができなくて、見ることすらできません。国外から帰って来る人だけが、やっとこれらの商品を買えました。その時、誰の家であっても、小さい白黒テレビが一台あれば、近所の人達は死ぬほどうらやましく思いました。自動車を買い、家を買い、国を出て旅行し、子供を外国へ自費留学させるなど、そうしたいと思っても、夢のような事でした。

改革開放の後で、国家の経済は大きな発展を遂げます。20年余りの努力を経て、日用商品から工業製品まで必要な物はなんでもあるようになり、現在では何を買うのにも券が要らなくなりました。国産品があるだけではなく、その上、輸入品まであります。中国がWTOに参加した後に、世界の有名な大商店も皆、中国までやってきて商売をしています。各種の商品がどこの場所でも皆買うことができます。今の都会の人には、一般には家電製品はすべてあります。

人々は、今では、家を買い、車を買い、子供を外国へ留学させるつもりです。長い休暇があるときは、地方に旅行するか、国外に旅行するのです。

現在、最も心配しているのは、顧客自身ではなくて、それらの商店のマネージャーや社長達なのです。彼らの心配は、商品が売れないことです。大きく広告をする以外に、彼らはさらに別の方法を考え出さなくてはならない。割引をする、一個買えばもう無料、買い物をして抽選で賞を与える、買い物をすると記念品をあげる。。。。。各種の方法は顧客に、彼らの物を多く買わせることができます。

北京に旅行に来ると、あなたはきっと王府井大街に行くでしょう、そこは、有名な歩行者天国の商店街です。そこには、あなたが買いたいと思うような多くの老舗のブランド商品があり、さらにあなたが見たいと思うような多くの外国の大商店があります。

もしも北京秀水街に行って買い物をするなら、必ず値切ることを学ばなければなりません。売り手ほど賢い買い手はいないからです。

 

第45課 <馬大為の求職

ちょっとお聞きしますが、あなたは銭総経理ですか?

はい。あなたは馬大為先生でしょうか?

私は馬大為です。銭総経理、こんにちは。先月私は貴社にきて、張マネージャーと一度、話したことがあります。その後、あなたの秘書から、私に今日この会社に来てあなたと話すように、電話がありました。

そのようですね。あなたに来てもらって、もう一度、求職の問題を話そうと思っていました。お掛け下さい、何を飲みたいですか?

結構です、ありがとうございます。

あなたは当会社の市場開発部が、マネージャーを募集しているのを知っていますね。市場開発の仕事はとても重要で、この部のマネージャーは常に中国各地へ出張し、各種の商務活動に参加する必要があります。この職務は商工業管理の専門の知識があることを求めるだけではなく、その上中国の社会と文化がわかることが必要で、そのため中国語、共通語は流暢に話すことが必要です。私はあなたのこの職務に対する考えを聞きたいのです。

私はこの職務に対してとても興味を持っています、その上、私自身も比較的に条件に合っていると思っています。私は米国で商工業管理を学び、カナダでは貿易会社の商務代表になったことがありました。この方面の仕事の経験があり、中国とカナダの両国の貿易の情況も比較的に熟知します。中国語は私の第1外国語で、私はすでに中国語能力検定試験の 8級に合格しました。私は中国の文化が好きで、もっと中国を理解するため、私はさらに北京言語学院で中国文学を専修しました。私は私の知識や経験が貴社の仕事で役に立つことを望みます。私は、自分がきっと貴社のとても良い従業員になることができるとも、信じています。

とても良いですね。私達は多くの人の略歴を見てきて、あなたの条件が悪くないと思っています。あなたは商工業管理を学び、また中国語ができて、この方面の仕事の経験があります。私はあなたが直ぐにここの仕事の環境に適応できると思っています。

ありがとうございます、あなた達は私に対してこのような見方をしていただいて、私はとてもうれしいです。給料の問題は、私は前回すでに張経理と取り上げましたが、貴社で新しい考えがあるかどうかは、私はわかりません。

あなたの給料の問題に関して、私達は前回の意見のままです。私達の会社で、経理の給料は、普通は比較的に高いです。仕事の要求と給料以外、あなたはなにか問題がまだありますか?

現在のところ別に問題がありません。

そうですか。もし私達がすでに話してきたすべての条件に賛成するならば、それで、すぐに仕事の契約をサインすることができます。

ありがとうございます。私はもう一度、考えてみたいのですが、良いでしょうか?

可能です。あなたが賛成しても賛成しなくても、今週の内にあなたの決定を私達に教えることを望みます。

わかりました。

さようなら。

さようなら。

 

<一封求信>一通の求職の手紙

尊敬する総経理先生:

こんにちは!ネット上で貴社の市場開発部が経理を募集しているのを知りました。貴社は中加合資企業で、現在すでに中国大陸で、高い技術を持つ有名な企業までに成長して、中国でかなり多くの都市に、業務があります。

私本人は、貴社の業務と市場開発部の経理の職務に対してとても興味を持っています、現在、この手紙を貴社に書いているのは、正式に求職の申請を出すためです。

私は馬大為と言って、アメリカ人で、ABC商業学院を卒業しています。卒業後に、私はカナダの貿易会社の一つで仕事をし、アジア関係、主に中国の業務が担当でした。仕事で、どんなに困難があっても、私はすべて解決するための方法を考え出し、努力して市場を開発してきました。とても短い時間でしたが、私達の会社は中国の貿易に対して、大きな発展を遂げました。責任感があり、親切な態度も、何度も中国側の称賛を受けてきました。

会社は私の仕事に対してとても満足し、私が業務に習熟しており、創造精神があるとみなしてくれました。一年後に私は会社の商務代表になりました。さらに中国の社会や文化を理解するため、私は会社の仕事を辞めて、去年2月に北京言語学院で中国文学を進修し、現在すでに終了しています。

貴社の募集要求によると、私本人は、この仕事に合っていると思っています。私は貴社の中国の西北市場の開発の仕事に、心から参加したいし、私は貴社がきっと成功することを確信し、私自身もさらに大きく発展する前途があると思っています。

もし、貴社が私にこのような機会を与えていただけるならば、そのように、私はきっと貴社の業務を努力してやってゆきたいと思います。

私本人の略歴を添付します。理解するうえで、何か問題がありましたら、電子メールあるいは、電話をかけて私と連絡をとっていただければ幸いです。ありがとうございます!

順致(この良き機会に)

敬意をこめて

 

<閲読><怎才能找到理想的工作>

どのようにして理想的な仕事を探し当てることができるか

現在、求職するのが難しく、理想的な仕事を探したいならば、更に困難です。しかし、隣に住む(老)王さんは、二人の子供に理想的な仕事を探すため、手伝っています。王さんは自分の生活経験から、子供達に良かれと思われる提案をだしました。

王さんの息子は20世紀に80年代専門学校を卒業後、ふさわしい仕事を見つけていません。王さんは、人材募集部(単位)が従業員を募集(招聘)しているのを見つけては、専門のレベルと職歴に、少しずつ注意するようになりました。

当時、上海から南京までの高速道路を建造していました。王さんは高速道路管理事務室が補修人員を募集すると聞いて、彼は良い機会だと思い、すぐに息子に申し込みをさせました。彼の息子は、あまり行きたくありませんでした。

彼が学んだのは、コンピュータで、道路を補修しに行くのは、専門にふさわしくありません。王さんは聞いてとても怒りました。彼は言いました:”あなたが何をわかっているというんだ! まずよく道路を補修しなさい、あなたはまだ若いのだから、多くの技術、良くないものが何なのか学びなさい!考えてみなさい、高速道路がコンピュータの管理を使わないはずはないでしょう?専門が合わないのではなく、専門の知識が足りないのです。”息子はお父さんの言っていることは正しいとと感じました。高速道路を補修することに同意します。彼は数年ほどやると、顔は陽に当たりとても黒くなったが、確かに多くのものを習いました。仕事の中で、若者は苦しみを恐れず、疲れることを恐れず、骨の折れる仕事、汚い仕事は奪い取ってもやります:仕事が終わったら、彼は本を読むだけではなく、コンピュータの専門科目の研修に進みました。大変早く、彼は技師になり、間もなく、また高速道路管理事務室の仕事に異動されました。ある時局長が仕事を検査した時、若者が業務に対してとてもよく知っていることを発見しました。さらに仕事の経験があって、人材でした。すぐ彼を局の中に移動させ、現在では、彼はすでに局長の秘書になりました。

王さんの最も得意な事は、姪にも仕事探しを手伝うことでした。彼の姪は大学に合格しなかったが、ふさわしい仕事を探したいのです。

王さんは、毎日すべての募集広告に注意していたが、ある日、彼は人民銀行と工商銀行が同時に従業員を募集していることを発見しました。

工商銀行は40名募集して、人民銀行はただ10名だけ募集しています。

王さんは、心のなかで、これこそ誰もが望んだ仕事じゃないか!彼は姪に工商銀行を申し込みさせるつもりでしたが、募集人員を見て、王さんは考えを変えました:人民銀行に申し込むことに決定しました。

彼の姪は彼に聞きました:”工商銀行が、募集が多いので、合格の機会も多いはずなのに、私達はどうして人民銀行に申し込むのですか?”

王さんはちょっと笑って言った:”人民銀行は国家銀行です、要求も高く、募集人数は少なく、申し込む人はそんなに多くはいないと思っている。”

申し込み情況は、王さんが思ったとおり、たいして違いません。大部分の人が皆、工商銀行に申し込み、競争はとてもひどくなりました; それに反して、人民銀行に申し込む人は少なかった。試験を経て、王さんの姪は最後に採用されました。合格通知を受け取った後に、王さんは笑って姪に対して言います:”私達がどうして人民銀行を申し込んだのか、今あなたは分かったでしょう?あなたの今回の試験の成績では、もし工商銀行に申し込んだら、結果がどのようになったか誰が知るでしょうか?”

 

第46課 <最累>今、最も疲れているのは誰

陳先生、こんにちは、土曜日、子供を連れてどこへ遊びに行くのですか?

私がどこに遊びに行くかって?私は子供を連れてコンピュータ塾(補習)クラスに行くのです。あなたのような大記者は、小学校の中の情況に関心を持つべきでしょう。

そうです、いつか、私も父兄になります!あなたの子供の勉強はいかがですか?

子供の学習はまあまあ良いです、しかし負担があまりに重く、家族全員、すべて彼女のために焦っています。

最近、私は調査をしたところによると、朝始発のバスに乗ると、ほとんどの人が小学生と彼らを学校へ送る父兄の人達でした。

父兄(家長)達は本当に大変です、出勤するだけでなく、毎日朝夜に、子供に送り、子供を迎えに行かなければいけません。

子供達はもっと疲れています。彼らは、毎日67時間に授業を受け、夜には、さらに多くの宿題をしなければなりません。宿題は、もともと授業を受けている間に多少とも完成させ、先生は学生に家に持ち帰らせてやらせます。父兄は、その上、子供が努力しないことが嫌なので、子供に多くの補習と練習を増加させました。子供はいつも10時半以降になって、やっと眠ります。彼らはテレビを見るための時間さえありません!

どうしてこのようなことになるのでしょう?彼らはまだ小学生ですよ、遊ぶのは彼らの権利のはずです。

しかし、父兄は自分の子供を優秀な学生に育て上げることを望んで、彼らの前に良い前途があることを望んでいます;先生も自分の学生が皆、試験を受けて良い学校に進むように望んでいます。有名な大学に進学するため、子供はまず、有名小学や有名中学に合格しなければならない。このような気風の影響のもとで、子供達は小学校から競争が始まるのです。

こんなことはあってはならないことです。彼らは月曜日から金曜日までずうと学習に忙しいのですが、週末には、彼らは、少しはリラックスできるのですか?

週末には、成績が悪かろうが良かろうが、リラックスすることなどありえません。成績の悪い学生は補習クラスに行き、勉強の良い学生は特技を訓練しなければならない。私の子供で言えば、彼は学習が良かったので、補習する必要はありませんでした。土曜日の午前中は、私は彼に付き添ってコンピュータの補習クラスに行くか、あるいはパパが彼を連れて書道クラスに行きます。

君、週末に書道を学んでいるなら、書道家になりたいのですか?

わかりません。私のパパは書道が好きなので、彼が私に行かせるのです。

土曜日のこの日は(書道やコンピュータ以外の活動は)なくなったし、明日は日曜日で、あなたはちょっと遊んだらどうなの?

私はとても遊びたいのですが、先生は私を遊ばせません.

日曜日の午前中に、彼はまた英語の宿題をしなければなりません。午後だけは、やっと遊ばせることができます。本当のところ、私は子供をこのように疲れさせたくありません。

聞くところによると、多くの学校の指導者や先生達は、すでにこの問題に注意を払っています。ある学校は”楽しい教育”を提唱し、先生は学生に、家で宿題をするように求めないのです。

先生が私達に宿題をするように求めないのは、これは大変良いです。私は百%賛成します。

しかし、あなたは知っていますか?父兄達は、学校がこのようにすることに賛成していないのです。

 

<女儿今年才八娘は今年8

娘は今年やっと8歳、小学校二年生になった。彼女の勉強はさほど悪くなく、彼女が宿題をまじめにやることを先生は誉めている。

おじいさん、おばあさんは彼女の賢さが好きです。私とパパ二人とも彼女に対して満足しているが、彼女が遊びすぎると思っている。

子供が英語に関心を持って学べるように、今年の夏休み、私は彼女に英語の夏キャンプに参加させるつもりです、時間はそれほど長くなく、ただ10日間行くだけです。私が自分の考えを言い出すと、娘はとても喜びましたが、家の人々は皆反対しました。

おじいさんとおばあさんは子供があまりに小さいく、これまで家を離れたこともないのに、彼女を一人で出て行かせるのは、彼らはとても不安です。子供のパパはもともと彼女に行かせることに賛成しましたが、しかしおじいさんとおばあさんの話を聞いて、10日間があまりに長いことが嫌で、しかも子供が単独で生活する能力が無いと感じて、考えを変えました。彼らの意見を聞いて、私でさえ彼女に行かせたくありませんでした。娘はみんなが賛成しないのを見て、すぐに泣きだしました。

彼女の態度はとても断固としたものでした、英語夏キャンプは海岸だし、彼女は大きな海を見に行きたいし、クラスの学友は皆参加したがっているので、必ず行く必要があります。英語夏キャンプに参加できるように、彼女は、自分の服を洗えるようになることを私達に保証しました。彼女が絶えず要求したので、私は彼女が夏キャンプに参加することに賛成しました。彼女は跳びあがって、喜びました。

私は彼女に対して言いました:”喜ぶのは、まだ早いわよ、私はいくつか条件があります。ここの何カ条をやりとげること保証しますか、そうでなければ、あなたは行ってはいけません。”

娘は急いで私に聞いた:”お母さん、どんな条件ですか?すぐに言ってみて。”

私は彼女に告げます。

1、先生の話を聞きます。

2、学友と仲が良く、団結します。

3、毎日日記を書きます。

4、むやみに金を使わない。

娘は言う:”安心して、私がこの四カ条をやりとげることを保証します。”彼女はこの四カ条を一枚の紙の上に書いて、契約を締結でもするように、私と彼女二人とも上に署名しました。

娘は嬉しそうに夏キャンプに行きました。彼女が行ってしまった後に、家族全員は不安です。彼女にどんな問題が出てきているのか、いつも心配です。5日目になると、おばあさんは我慢できなくなった最初の人で、言った:”なぜなにか知らせがないのですか?あなた達が、彼女が行くことに賛成したことを責めます。”

私は急いで先生の家に電話をかけて、すべてが順調なことを知りました。

おじいさんとおばあさんはやっと安心します。

ついに10日目がすぎました。娘は帰って来ました。彼女はドアから入ってくると、手に持った一袋の果物を私に手渡して言うには、これは家族全員への贈り物ですと言うのです。この時に、私は子供の背が高くなり、大きく成長したように思いました。

晩ご飯を食べる時、娘はまず、家族全員に夏キャンプの生活を紹介し、それから彼女は日記と自分が撮った写真を取り出し私達に見せます。彼女は、とてもまじめに言います。クラスの仲間とよく団結しただけではなくて、何人かのイギリスの子供と知り合いになりました。イギリス人の先生は、彼女の英語の歌がよく歌えていると誉めてくれました。彼女はむやみに金を使いませんでした。

果物を買いに行った時、値切ることさえできました。おじいさんとおばあさんは聞いて、満足して言った:”そう、さらに衣服も洗え、英語の歌を歌うこともでき、これからは、このような活動にもっと多く参加することができるわね。”

 

<閲読> <糊涂官>困ってしまった県長官

昔、ある労働者がいて、レストランの中で一羽の焼いたニワトリを食べました。食べ終わって、彼は店の社長に対して言った。

「私が商品を届けるまで(支払いを)待っていただけませんか?ここに戻って来て金を払いますから、どうでしょうか?」

店の社長は言った「いいですよ、もしも、あなたが手元にないならば、今回はツケ(帳簿につけること)にしましょう。」

労働者は、店の社長に感謝し、立ち去った。

10何日か過ぎて、労働者は焼いたニワトリの代金を払いにきました。店の社長は帳簿をちょっと見て、また少し計算し、頭を上げて、彼に対して言った

「あなたは私に十両の銀を支払うべきです。」

労働者は自分でよく聞こえなかったと思い、すぐ聞いた。

「何だって?十両の銀と言いましたか。あなたは間違って記録したのではありませんか?ここのニワトリはどうしてこんなに高いのですか?」

店の社長は説明した。

「間違って記録していません。あなたが食べたのは一羽のメンドリです、考えてみてごらんなさい、もしも、あなたがそれを食べなかったら、この10何日間どれだけの卵を生んだことでしょう?それらの卵はどれだけ雛になることができたでしょう?雛は成長してまた卵を産むことができたはずです。このようにニワトリは卵を産み、卵はニワトリに変わって、あなたが十両の銀だけを収めても、これは最も安い値段でしょう…」

労働者は聞いて、とても怒って、大声で彼に言った。

「このようなわけのわからない帳簿、お金を払うなんてできません。」

店の社長は言った。

「金を払わないなら、すぐあなたに訴訟を起こしますよ。」

翌日、彼らは県長官に会った。県長官は彼らの二人の言う情況を聞いて、思考して、労働者に対して言った。

「店の社長が言ったことはもっともだ。メンドリは卵を産み、卵は雛に変わって、雛は成長してまた卵を産む、これらの事、まさか知らない訳ないでしょう?あなたは店の社長に十両の銀を支払うべきです。この事件はこのように解決しました。」

労働者はそれを聞き、もちろん承服しないで、再審を求めます。県の長官は面倒なことが嫌で、再審したくないのですが、ただ、労働者を心から納得させるため、彼の要求に賛成しました。労働者に対して言った。

「再審を求めるなら、それもできます。しかし、私は話をする前に言っとくべきだったが、もし再度、訴訟に勝てない場合は、倍の金を払わなければならないよ。」

再審するその日、多くの人がやって来ました。県長官、店の社長の二人とも来ましたが、労働者はまだ来ていません。県長官は大変不機嫌に、待っていました。しばらくたって、労働者がやっとやって来ました。県の長官は彼に聞きます

「あなたはどうしてこんなに遅くやって来たのですか?」

労働者は言った。

「しなければならないとても重要な事があったために、遅刻しました。申し訳ありません。」

県長官はまた聞いた。

「訴訟よりどんな事情が重要だったのですか?」

労働者は言った。

「県長官の大人、明日小麦を植えなければなりません、もし種を植えるのが遅くなるならば、来年の収穫に影響します。しかし、私はまだ麦の種を炒めていません。さっき私は家で麦の穂を充分炒めました、だから私は遅刻しました。」

彼の話を聞き終わって、みんなは笑い始めました。ある人が大声で言いました。

「十分炒めた麦の穂で、それでも種を植えることができるのですか?」

県長官はテーブルをたたいて、労働者に聞いた。

「あなたは家にいて小麦を炒めたと言ったが、炒めた麦の穂は成長できるのですか?」

労働者はとてもまじめに言った。

「みんなの言ったのは正しいです。熟している麦を炒めものは、種をまけませんし、育ちません。こんなことは子供さえ知っている事です、しかし県長官様は知りません。」

県長官はたいへん怒った。

「なんというでたらめを言う、私がどうして知らない事などあるだろうか?炒めた麦を植えても、もちろん成長することはありえない。」

労働者は言った。

「県長官様、あなたは炒めた麦を植えても成長しないことを知っていて、どうして焼いたニワトリがさらに卵を産むと思いますか?」

県長官は頭を低くして、赤い顔で、半日、しゃべることはありませんでした。

 

第47課 <打工的大学生多起来了>

アルバイトの大学生が多くなり始めました

中国の大学生は、アルバイトをしますか?

アルバイトをします。でも、過去の大学生は、基本的に、アルバイトをしませんでした、最近1020年の間、アルバイトする学生は多くなりました。

これは、不思議ですね。改革開放を実行する以前、中国人の生活水準は現在よりずいぶん低かったので、多くの大学生の経済条件もあまり良くなかったと聞いています。経済に困難であったなら、彼らはアルバイトするべきだったのでしょう。

その時の大学生がアルバイトをしない原因はたくさんありました。:

第一に、過去に大学に進むと、学生は授業料を払う必要はなかった。家庭が経済的に困難な学生は更に国から援助を得ることができ、彼らは食べ、居住には、ほぼ問題がなかった。

第二に、中国の両親は、普通は自分の子供が大学生に成ることを望み、その上彼らは子供が正式な仕事につく以前は、年齢の進み具合に関わらず、生活の上では、両親がすべて負担するべきだと考えています。だから大学生は、経済上は両親からの支援に頼ることが必要で、中国の両親も子供が進学することを支持する考え方を望みました。

第三に、人々は、大学生にとって、主要な時間はすべて学ぶことに用いるべきで、この時期に、彼らは自分で金を稼ぐべきでないと思っています。

ああ、彼らはアルバイトが学習に影響すると思ったのですね。

私が上記で述べたようなそれらの原因以外にも、もうひとつ重要な原因がある:たとえあなたがアルバイトしたいと思っても、あなたを雇う職場がないのです。

中国の労働力が多すぎたためですか?

それだけではありません。あの頃、どんな国営企業であろうと、まだ集体企業で、仕事の持ち場と給料はすべて国の計画によって決まっていた。このようなで状況では、あなたがアルバイトしても、職場はあなたに給料を支給する方法がなかったのです。

しかし、本で読んだことがあるが、以前は、大学生でさえ、工場と農村に行って働いたのではありませんでしたか?

ありました。でも、その時彼らは工場で仕事をし、農村に行って仕事をしたにもかかわらず、すべて労働奉仕で、報酬がなかったです。

それで、現在の大学生は皆アルバイトするのですか?

これは言うのが難しいです。恐らく大部分はアルバイトします。私を例にとっても、私もアルバイトをしています。

あなたがアルバイトしているなら、中国の大学生のアルバイト情況を私に紹介してください。どんな仕事をしていますか?

どんな仕事もしていますよ:新聞を届けるとか、家で勉強を教えるとか、店あるいは会社で仕事をするのもあります。私は何人かの同級生と一緒に家庭教師をやっていて、私達は家庭教師小チームを組織して、彼らは私をリーダーに選びました。

みんなは冗談でその人を”アルバイトのボス”と呼んでいます。

あなた達は経済の問題を解決することだけのために、アルバイトをしているわけではないのですね?

そうです。多くの学生は少しでも早く社会にでるために、自分を鍛えてようと、いくつか仕事の経験を得るのです。ある学生はどんな仕事が自分に合っているか知りたいのです。でも、都市に住む低収入の家庭と多くの農民の家庭にとっては、毎年一人の大学生を養うために、そんなに多くのお金を出費するのは、確かにとても重い負担です、だから、それらの家庭の子供の大部分は、銀行のローンに頼るか、アルバイトして金を稼いで自分の勉強を完成させるのです。

アルバイトした経験のある学生は、仕事を探しやすいのではありませんか?

おそらくそのようです。生活経験上で、アルバイトしたことがある学生は、仕事の能力の上で、普通はすべてアルバイトしたことがなかった学生より強いです。仕事を募集する単位は、もちろんこの点を考慮します。しかし、もし、学生がアルバイトする時間が多すぎたという理由で学習成績が下がったら、仕事募集単位も歓迎することはできません。

 

<我懂得了挣钱不容易>

私は金を稼ぐのが容易ではないことがわかりました

1999年、私はニュージーランドへ勉強に行きました。両親の負担を軽減するため、私は3ヶ月経った後で、レストランでアルバイすることを始めました。

このレストランは大きくなく、二階建てで、装飾がとてもきれいです。私は毎週ここで二度アルバイトをします:金曜日と土曜日は午後4時からただ夜12時まで、あるいは更に遅いこともあります。

私は家で自分の飯茶碗さえほとんど洗ったこともなく、もともとそんなことはできなかったので、初めた頃、社長はいつも私の動作が遅いことが不満でした。アルバイトしている友達の助けのもとで、私は急速に仕事をマスターしました。私が初めてアルバイトで報酬をもらった時、私は頭を下げて、泡で白くなった両手を見て、疲れて痛い腰をさすりながら、金を稼ぐのがどんなに大変かを感じました。

祝日を祝う時になると、私は一週間に三、四日アルバイトしなければならず、主な仕事は皿を洗う事でした。夜10時以降に、皿は最も多くなり、皿の高さは小山のようになります。私は一生懸命に洗うのですが、この皿の山はいつも変わらず、当時私は、もしも人にもっと手があれば、良いのにと思いました。私いつも夜の1時頃までにやり終え、仕事をやっと完成させるのです。

クリスマスがやってくると、レストランの商売はますます繁盛し、私の仕事も日一日と重くなりました。毎日私は十何時間働かなければならず、手の皮は洗って破れ、腰を真っすぐにすることもできませんでした。私は本当に少し耐えられなくなりました。時には、私はこう思いさえしました:私は国を出て、どうしてこんなに大きい苦しみにあわなければならないのか?両親が絶えまなく私に送金している以上は、私はアルバイトしなくてもよいし、おそらく少しは気楽な生活ができたはずだ。

しかし、とっても明らかなことだが、私の両親は二人とも給料に頼って生活しているので、私は、金持ちの家の子供と比べることができません。両親は一生貯めた貯金を使って、私を外国留学へ行くことを支えてくれたのに、私は彼らに頼ってばかりでいることができるだろうか?現在では、私は少し早めに独立して生活し、自分で自分を養っている。卒業後は仕事があります。私は彼らの生活をもっと良いものにして、幸せな老年生活を過ごさせたい。お父さんとお母さんは私に対して言ったことがあります:”国を出た後で、仕事がどんなに苦しくて疲れそうでも、あなたはどんな仕事からでも始めなさい。そのような経験があれば、それ以降、どんな苦しみがあったとしても恐れるに足りません。”だから、最も苦しい時こそ、私は、お母さんが傍にいて、私に頑張れと言っているのが聞こえるようです:”がんばり通して!がんばることが勝利なのよ。”

2003年に、私はついに大学を卒業して、その上、大学院生に合格しました。両親は私が春節に帰国してほしいと要望しました。彼らは私の背が高くなり、成長したのを見てとても嬉しそうです。お母さんは私が履いている古くなったスニーカーを指して、申し訳なさそうに私に聞いた:”おまえ、お金がなくなったのではありませんか?”

私は言った:”お母さん、私は金があります。私はあなた達が私に送金してくれたお金とアルバイトして稼いだお金を、すべて銀行にあるので、これ以後は、あなた達は私に送金する必要はありません。私はアルバイトしながら自分の勉強を完成させることができます。” 

お父さんとお母さんは私を見て、満足して笑いました。

 

<閲読> <我懂得了挣钱不容易>忘れ難い経歴

コリン(克林)はアメリカ人です。1995年、彼は言語学院で1年間中国語を研修しました。帰国して後、彼はなんとか北京にきて仕事をする機会を得ました。現在では、彼は北京で生活してすでに六年余りとなります、上手な中国語を話すことができて、その上、また北京のアクセントがあります。

2001年、北京はオリンピック招致に成功しました。北京の市民は英語を学ぶことに対してますます興味を持つようになり、若い人は勉強を続けるだけではなくて、老人でさえも真剣に学んでいます。団結湖小区のおじさんとおばさんは英語勉強会をアレンジしました。彼らはまた一人の外国の先生に来てもらいました、それが克林だったのです。

克林は余った時間を利用して、おばさんやおじさんに英語で授業するためにやって来るのです。毎回授業を終わって、これらの白色の髪をした学生は皆、彼にかなりの質問をしなければないのですが、彼はいつも根気よく答えます。彼はこれらのまじめで親切な学生が好きです。

授業を受ける前に、班長であるSummerおじさんは、かならずみんなに英文の歌、《雪織花(エーデルワイス)》を歌わせます。これは克林が彼らに教えたもので、彼らの歌う歌はなかなかうまいです。班長の姓は夏で、”夏”は夏の意味があるので、だから皆は彼をSummerおじさんと呼びます。

教室では、克林も彼をSummerおじさんと呼びます。克林は、学生の姓あるいは名前の意味によって、彼ら全員に英文の名前をあげました。授業をする時、克林はいつも英語でおじさんのおばさん達と一緒に簡単な会話をします。彼はこのクラスの学生の大部分が退職した職員であることを知っています、ある人は公務員、ある人は教師、ある人は医者、ある人は単位のリーダーです。彼らの知識(文化)水準は高い人もあり、低いもいる。しかし学習態度は皆とてもまじめです。これらの白い髪の毛の学生は、この若い先生をとても尊重して、これまで遅刻せず、早退もしません、用事があって授業を受けられない時でさえ克林に休暇を求めました。克林もとても自分の学生を尊敬していて、彼らの英文の名前を言う時、北京人の習慣によって、かならず「大爺」あるいは「大媽」を付け足します。

克林の両親は、息子に会うため北京に来ました。彼らも息子の教える学生にとても会いたがりました。おじさんのおばさん達がこのニュースを知って後に、彼らのために歓迎会を用意しました。克林の両親がこのクラスに来た時、Summerおじさんは、英語で歓迎の意を表わして、学友達も英語に中国語を加えながら、克林の両親と言葉を交わしました。聞いて分からないところがあると、克林が通訳します。みんなはしゃべったり,笑ったりして、歓迎会とてもにぎやかです。

克林の両親は、息子がとても大事にされているのを見て、彼らは大喜びでした。克林は、いつも、北京のおじさんやおばさん達の英語の先生になったことが、これが彼にとって中国で最も忘れ難い経歴となりました。

 

第48課 <我是独生子女>私は一人っ娘です

、あなたの手紙よ。

あ、私のお姉さんが送ってきたものです。宋華、あなたは一人っ子なのではありませんか?

はい、私は一人っ子です。

私はあなた達一人一人、一人っ娘のようだと思っていました。

間違いなくそうです。私達の国家は、家族計画を実行していて、一組の夫妻から子供一人生む事を奨励しています。だから、私のようにこんなに大きくなっても、基本的には皆一人っ娘です。

中国が家族計画を実行したのは、今世紀の70年代から始めたと聞いています。

そうです!あなたは、中国がどうして家族計画を実行したのか知っていますか? 50年代、60年代、中国の人口は早いスピードで増加しました。1949年の全中国の人口は5.4億です。1969年までには8億という数まで達しました。中国の人口は確かに多すぎました。経済は絶えまなく発展しましたが、やはり国民の生活水準を急速に上げることはできません。70年代から、家族計画は中国の基本的な政策になりました。ここ30年、中国はみごとに人口の増加をコントロールすることに成功しました。現在の中国人口の成長率は、世界の人口の平均増加率を考えても、すでに低い(レベル)です。

しかし、これは、とても大きい成果です。もし中国が人口増加をコントロールしなかったら、毎年経済は78パーセントの成長速度を維持しなければならず、それはやり遂げることなど不可能なのです。人口増加の速度があまりにも速すぎたことは、実は家庭生活水準を高めることにも(良い)影響を与えたのでは、ないですか?

言うまでもないことです。衣服を着て、食事をして、住宅、交通、診察、教育などなど、それらの事と家庭の経済情況と関係しないわけがないではありませんか?中国は発展途上国で、大部分の家庭はまだあまり豊かでなくて、家庭の人口はもっと多くなり、経済の負担はだんだん重くなっています。だから、家族計画もそれぞれの家庭生活水準を高める問題に関係するのです。

中国はこんなに広く、農村人口は特別に多く、この政策を堅実に実行し続けるのが本当に容易ではありませんね。

なるほど簡単ではないね。人口増加をコントロールするのは、とても複雑な問題です。家族計画の仕事は都市では比較的に良いのですが、農村はかなり多くの問題がまだあります。「男性を重んじ女性を軽んじる」という伝統的な家族概念の影響はとても深いです。特に比較的貧しいいくつかの地方では、ある夫妻はすでに2人の女の子があるけれども、彼らはやはり男の子の出産を望みます。もし三番目の子供が、また女の子ならば、彼らは多分、四番目の子供の出産が必要でしょう。このように生み続ければ、もちろん農村経済発展と農民の生活水準を高めることに影響します。

外国人は、少なからず、あなた達の国家の家族計画政策に対して別の見方があったので、この政策をあまり理解していません。

実は客観的に少し分析しさえすれば、理解しにくいことはありません。あなた達の国家の場合は、面積は中国に比べほんのちょっとしかなく、しかし人口は中国の五分の一しかありません。仮に、あなた達の国家の人口と中国の人口が同じくらい多かったなら、恐らくあなた達も家族計画を実行しなければなりません。中国は世界でも人口が最も多い国家で、全世界の22パーセントが中国です。もし中国が人口増加をコントロールしなかったならば、現在の全世界で、いったいどれくらいの人口だという計算になりますか?

中国の家族計画政策は中国の発展に関係するだけではなくて、世界の発展にも関係します。人々はよくこの問題を検討するべきです。

 

<”多子多福”与”丁克家庭”>

”子供が多ければ幸福も多い”と”ディンクスの家庭”

中国の農村では、”男性を重んじ女性を軽んずる”と”子を養うことが老化を防ぐ”という子育て概念の影響は、とても深刻です。たとえば、一組の夫妻に女の子が生まれて、たとえすでに二人、三人(女の子が)あったとしても、一人の男の子が生まれるのを待ち望み、引き続き出産が必要となります。

長い間にわたり、中国にある農業社会では、労働力は家庭にとって、とても重要だったからです。

両親が年老いて、仕事をすることができないと、自分の子女に頼って面倒をみてもらいます。娘はまた他の家に嫁がせるので、だから息子にしか頼ることができません。人々は常常言いました。”子供が多ければ幸福も多い”。もし息子がいないならば、自分が年老いた後で、どのようになるか心配です。今日、社会は発展し、情況も異なりました。各種の社会保険制度はすでに打ちたてられ、老人は年金もあるので、完全に子女に頼って生活する必要がなくなりました。社会の上では、すでにこれらの変化があるが、「子供が多ければ幸福も多い」というような伝統的な観念は、農村ではいまでも大きな影響があります。

しかし、都市にいる若い人は子育ての問題に対して新しい考えがあります。最新の調査によると、北京、上海、広州の3つの都市に住む住民の中で、21%の住民は、結婚しても子供が要らないことに”賛成”あるいは”どちらかといえば賛成”しています。一部の若い夫妻は”ディンクス家庭”を選びました。”ディンクス”はどんな意味でしょう?それは夫妻の2人とも働き、子供がいない家庭です。このような家庭は今世紀前半の60年代に米国に現れ、最近20年そこそこでだんだん多くなりました。現在、”ディンクス家庭”は中国でも現れていて、政府の調査によると、”ディンクス夫婦”は中国都市の中で、ぜんぶで、60数万組までにすでに達していて、それ以降もおよそ増加する傾向にある。”ディンクス家庭”は、実際は、都市における一種の新しい家庭の形式になってきて、今や大都市から中小の都市に発展してきています。

中国のディンクスの家庭は二つの大きい特徴があります:一つ目は、夫妻は比較的に良い教育を受け、知識(文化)水準は二人とも比較的に高い;二つ目は彼らの収入も比較的に高い。このように「子供のいらない結婚」という子育て概念には、新聞紙上では、同意していない。かなり多くの人は結婚して子供を生まないのは、自然の法則に背くものだと批判して、国家に対しても不利益だと批判している。

しかし、大学を卒業した夫妻は、子供が不要というのがとても実際的で、国家、個人に対しても両方利益だとおもっている。子供を産むか産まないかは、若い夫婦の自由な選択にゆだねるべきであると述べる専門家もおります。”ディンクス家庭”の出現は、社会が個人の選択に対してより尊重するようになったことを意味します。”ディンクス家庭”に対して,あなたはどう考えますか?

 

<閲読> <我家太爷爷我が家の曾祖父

我が家の人数は多くはないが、四世代の人がいる  曾祖父、祖母、父、母と私。曾祖父は今年90数歳になり、清朝、民国、それから新中国の生活を過ごしてきた。だから彼の考えと私達とは考え方が異なる面があります。たとえば、彼は、現在、食糧を貯めることが好きです。私たちは彼にこういったものです。現在、私達の国は食糧に不足していません、だから食料を大きく包み、小さく包んで、寝室に置く必要はありません。彼が言いうには:子供を養えば老化を防ぎ、飢饉に備え穀物を蓄える、わかりますか?

父と母が、どういっても、彼は話を聞ききません。仕方がないので、彼に蓄えさせます。でも、母は常に、彼の蓄えた食糧を出しては、太陽に干さなければなりません。とてもおもしろいのは曾祖父の人に対する見方です。彼は言う:「私は生涯二人の人を称賛している、一人は鄧小平で、もう一人は小葉子です。鄧小平は中国を裕福にさせ、民衆は良い日を過ごせるようになり、すごい人です。」曾祖父が感心する小葉子は誰でしょう?あなた達は恐らく知らないでしょう。彼女は私達、ここテレビ局の「毎週一歌」の司会者で、20数歳の若い一人の女の子です。曾祖父は常に私に対して言う:小さい人なのに、才能がある。歌を歌い、さらにダンスまでする。テレビに向かい話をしていても、話のレベルが高く、さらに美しくなった。

私は言う:「これのどこがすごいの。美しいのは彼女の両親が与えたものだし、歌い跳ぶのは先生が教えたのです。でも、小葉子は確かにとても賢くて、私も感心します。」

私が宿題をやり終えた後に、いつも曾祖父と一緒に「毎週一歌」を見て、また彼と歌合戦をします。ある時、私の母は私と曾祖父が大声で歌うことを耳にした:「(歌詞は)妹よ、あなたは船首に座り、兄は岸を歩きなさい」。母は笑いすぎて、腰をあげられなかった。曾祖父は歌いながら、演じて、その上歌えば歌うほどうれしくなった。歌うのがスター歌手に比べても、ひけをとらないと称賛した。すると、曾祖父は、もっと嬉しそうでした。

ある日、曾祖父は突然、とてもくらくら眩暈がし、全家族皆は急いで、彼を診察のために病院に連れて行きました。病院は彼に脳CTを検査させ、検査し終わった後に、医者は検査が終わったと言いましたが、曾祖父は横たわったまま検査台の上から下りたくありません。彼はとても怒って父と母に言いました:あんなに多くお金を払ったのに、私を良く診察しない。CTに入れたり、出したりし、それで診察が終わったとみなすなんて、いったいどんな診察をしたのか、誰もわからないだろう?

一家はあやし、説得して、やっと曾祖父を下に下ろしました。お医者さんもこっそり笑いました。

 

第49課 <”痛医脚”>”頭が痛いと足を診察する”

私は恐らく胃の病気かもしれない、ここ何日か、私の胃の調子が少し悪いと感じています。

中医に診てもらったら。一方では診察してもらい、もう一方では、中医がどのように診察することか理解できますよ。

私は映画で見たことがありますよ。そうだ、中医が診察する時、指を患者の手首の上に置きますが、あなたはあれが何をしているのか知っていますか?

患者の脈をはかっているのです。中医の場合、脈を探るのはとても重要です。これは西洋医が聴診器を検査に使うのと同じです。

脈をとる方法と、聴診器の検査とどう同じなのですか?

結論的に、中医が脈から得る情報は、西洋医が聴診器の中から得るよりもっと多いです。中医はあなた脈を感じ取り、顔色を見て、あなたの声を聞き、さらにあなたにいくつか問題をして、全身の情況がどのような状態にあるか、彼は基本的にはそれでよくわかるのです。

見たところ、中医を学ぶのはとても難しそうですね。

漢方はとても深い理論があって、中医を育成するには、経験を重視します。ただ脈をとる場合でも、中医の専門の学生は、先生と一緒に診察します、少なくとも数千人の患者の脈をとる必要があります。自分の感覚と先生の感覚が引き続き同じになるようになれば、脈をとる技術をマスターしたと言えます。

本当に簡単ではないわ!しかし、現代医学が発展するのがこんなに速いなら、中医ですら、最新の技術が、まさか必要ではありませんよね?

もちろん必要とします。中国の医者は中国医学と西洋医学を結び付ける問題を引き続いて研究し、現在では、中医は診察する際は、検査や化学検査をします。しかし、どんなに現代医学の新技術を使っても、中医はいまだに中医です。

どうしてですか?

人体の健康を理解するうえでは、中医と西医は異なるためです。西医は、普通は、人を機器の一部と見て、器官をこの機械の部品とみなします。例えば、あなたが胃の病気になった時、胃のその部品が壊れたのです。あなたのどの部品が壊れて、西医はその部品を修理しようとします。簡単に言うと、西医は”頭痛のときは頭を治療し、足が痛いなら足を治療します”。

医者というものは、そのようにするのではないのですか?まさか”頭が痛いのに足を治療する”なんてことはないでしょうね?

中医の理論は異なります。中医は、人は身体全体だと思っています。ある器官が病気になると、その器官の問題だけではありません、複雑な原因があり、恐らくその他の部分にも関係しています。例えば、目に病気があったとしたら、目の病気であるようで、実はおそらく肝臓の問題かもしれません。だから、中医は、一方では目の治療し、一方では、肝臓を治療します。中医では、”頭が痛いなら足を治療する”は全くありえることです。あなたは信じられないかもしれませんが?足の指をマッサージすると、確かにある種類の頭痛の病を治療できるのです。

本当におもしろいです。明日私は中医に診察してもらいます。

 

<林娜看中医>林娜が中医に診てもらう

林娜は、体が調子が悪いと、いつも病院に行くことを承知しません。今回は王小雲の提案を受けて、北京同仁堂で一人の専門家に申し込み、たまたま年輩の中医が彼女を診察することになりました。その中医は、林娜の脈をとり、彼女の舌を見て、彼女にいくつかの質問をして、頭を下げて処方せんを書き始めました。林娜は急いで聞きます:”先生、私はどんな病気で、どんな漢方薬を飲まなければなりませんか?”

”重い病気ではありません。大丈夫です。最近、比較的、勉強で緊張したのではないですか?”中医は彼女に対して言った。:”自分で市場へ行って、サンザシを二斤買いなさい。時間があれば、いくつか食べなさい。一方ではサンザシを食べ、一方では運動を良くしなければなりません。毎日40分ほど鍛えるのが良いです。数日過ぎれば、良くなりますよ。”

彼の話は、林娜はよくわかったのですが、中医がどうして彼女にサンザシを食べさせたいのかは、明らかではありません。少し不思議だと感じましたが、市場まで行って何斤かの赤くて大きいサンザシを買い、毎日、いくつか食べました。

診察を受けた翌日から始めました、彼女は毎日早く起き、外に行ってランニングをし、体操をし、それから太極剣を練習します。一週間後には、林娜は胃の病が良くなっていると感じて、なにかを食べたくなりました。薬を飲むことなしに、病が良くなりました。彼女は簡単には信じません。ある日、林娜は宋華に会い、中医にみてもらった事を言った、彼女が彼に言うには:”私はとても不思議だと感じた、あの中医は私に漢方薬を飲ませずに、サンザシを食べさせ、さらに運動が必要だと言ったのです。”

宋華は聞き、笑って林娜に対して言った:”サンザシ自体が薬なのです。あなたの病気は消化がよくないため、サンザシはちょうど、その病気の治療薬となるのです。サンザシがあなたの胃の病をうまく治したのです。”

林娜はまた彼に聞いた:”サンザシはどうして薬なのですか?”

宋華は、それに対してこう言った。中医が使う薬を“中薬”と言うのです。多くの中薬は植物、動物と鉱物から取ります、中医はこれらの大自然の薬を利用して病気を治すのです。人々のふだん食べるもの、多少は漢方薬です。

林娜は聞いて、さらに不思議だと感じました。中医の薬が病気を治すのは、そんなに簡単なのでしょうか?宋華は彼女にこう伝えた、中医の中薬はすでに数千年の歴史があります。人々は長い間に働き、生活する中で、多くの植物、動物と鉱物から病気を治すことを発見しました。いくつか薬の処方は民間から伝わり、代々有名な医者が絶えず研究して、良い病気を治す方法になったのです。中医は独特な理論があって、その方面の古い書物はたくさんあります、現在でも、そのまま保たれ残ったのは13000種もあります;中医には中薬、鍼灸、マッサージ、気功のような独特な病気を治す方法もあります。西医が良く治せないような、いくつかの病気は、これらの中医の方法を用いるだけで、よく治せます。中医の薬は、中国の文化の一つの宝庫です、現在でも多くの西洋人は中医の薬に対して興味を持っています。

 

<閲読> <疾忌医>治療を受けたくないので病をかくす

扁鵲(Bian Que)は戦国時代の有名な医者の一人です。彼は各地にあまねく歩き、行っては、人の病気を治しました。

ある時、扁鵲はある国に来ました。国王は彼に王宮にきて、客となってくれるように頼みました。会見の時、国王は扁鵲に病を治すための質問をいくつか聞きました。扁鵲はすべて真剣に答えました。彼は国王の顔色があまり良くないと思い、言いました。:”大王さま、見たところ、あなたは病気です。でも、病気は今のところ皮膚の中だけで、問題は深刻でありません、すぐに少し治療しさえすれば、すぐに簡単に治ります。”

国王はそれを聞いて、あまりうれしくありません。彼の心の中では、:私達は初めて顔を合わせ、ほとんど話をしていないのに、すぐに私が病気だと言う。あなたの医術はとても優れているだろう。だから、彼は扁鵲に対して冷たく言った:”関心をよせてくれてありがたいが,私の体はとても良好で、病気になっていない。”扁鵲は国王があまりうれしくないことに気が付き、立ち去りました。

扁鵲が去った後に、国王は大臣達に対して言った:”医者になると、病気になっていない人を病人にさせたいものだ。あのように才のある人は、医術が優れているとみせびらかしたいものだ。みんなは扁鵲が有名な医者だと言うが、私の見る所、扁鵲もこのような人だ。彼は他の人にだますことができても、私をだますことはできないよ。”

10数日を過ぎて、扁鵲は再度、国王に会い、彼はとても心配して言った:”大王さま、あなたの病気はさらに重く、すでに筋肉の中まで達しています。すぐに、治療しなければなりません!もっと早くに治療しないならば、さらに病が重くなりますよ。”

国王は彼にもう会いたくなくなりました。とても怒って言った。:“私のどこにどんな病気があるというのか?出ていけ!”

扁鵲は頭を下げ、去って行きました。また10数日過ぎて、扁鵲は三回目に国王に会った。彼はとても焦り言った:”王さま、あなたの顔色はとてもよくない、病は胃腸の中でまで行きました。再び病気を治さないなら、手遅れになるのかも。”

国王はテーブルをたたいて言った:”あなたはどうしていつも私が病気だと言うのか?まったく気が狂っているにちがいない!”

さらに10数日過ぎて、国王は王宮から出てきて、ちょうど扁鵲も王宮に向かって歩いていました。彼が国王に会うと、一言も話さず歩き去りました。国王はとても奇怪だと感じて、すぐに一人の大臣に扁鵲に問いただすよう派遣しました。

その大臣は扁鵲に対して言った:”先生、あなたは今日王に会って、どうして一言も言わないで、立ち去りましたか?”

扁鵲は答えた:”私が言うべきことは全部言いました。病気でも恐れないのではなく、病気なのに、病気ではないと言い、医者に治療させないことを恐れるべきです。実は、もっと前に少し治療しさえすれば、普通は、病気はゆっくりと始まります。病は皮膚の中にあると、温湿布を使うことができる。病が筋肉の中にあるときは、鍼灸を使える。病が胃腸にあるときは、薬を飲むことができる。しかし現在では、王の病気はすでに骨髄まで達し、王自身が病気であることを認めないので、病気を治すことも認めません。私も方法がありませんでした。”

五日後に、国王の病気は突然現れました。彼は人頼んで、早く扁鵲を呼びましたが、しかし扁鵲は五日以前に、別の国家へ行ってしまいました。何日も過ぎないうちに、国王は病死しました。

自分が病気であることを知ることを怖がる人は、治療することを認めず、このことを”諱疾忌医”と言います。

 

第50課 <我有可能坐中国船到太空旅行了>

私は中国の宇宙船に乗って、宇宙旅行に行ける

あ、宋華、あなたはネット上で何を見ていますか?

今日のニュースを見ています。

どんな重要なニュースがありますか?

聞くところによると神舟5号の有人宇宙船は発射に成功しました。私はさっき早く授業が終わったらネットで調べたいとがまんしていました。

そうですか?私達はすぐ見てみましょう。え、ここにあります:今度は発射に成功して、中国の有人宇宙飛行事業に重要な一歩を踏みだしたと説明しています。これからは、中国の宇宙飛行事業の歴史は新しい一ページを始めました。まったくすごい。中国は現在、すでに世界第三の有人宇宙飛行を実現した国家になりました。

実は、中国人は世界で最初に宇宙に行くことを思いついた民族の一つです。数千年前には、中国には嫦娥奔月の伝説がありました。明代になって、ある人は自分で作ったロケットで天に飛んでいきたいと思っていました。21世紀の今日にいたるまで、中国は自分の力量によって中国人のこの千年の願望を完全に実現しました。

見たところ、現在では、私でも、たぶん中国の宇宙船に乗って宇宙へ旅行できるのでは?

理論の上では、誰人でもこのような可能性がありますが、しかしすべての人がこの願望を実現できるのではありません。

神舟5号は有人宇宙飛行には成功しましたが、私の見るところ、あなたが宇宙旅行につくまで、はるかに長い道のりです。

どうしてですか?

あなたは宇宙飛行には、どんな条件があることを知っていますか?

まず体が丈夫なことです。

それは言うまでもないこと。根拠を紹介しましょう、宇宙飛行士の標準的な身長は、通常は1.7メートル、体重はだいたい65キログラム。

宇宙飛行士を選ぶ時には、彼らは病院の中に1ヶ月間居住させられて、彼らの全身の各器官に対して、すべての検査や化学検査を行います。

いうまでもないが、私の身長と体重は標準に充分ではありません。私の身長は1.8メートル、体重の75キログラム。

でも私は宇宙飛行士になりたいのではありません、旅行に行きたいのです!

旅行に行くのでも、あなたの体の条件によるし、その上また厳格な訓練を受けなければなりません.

そして、このように、私がこんなにも宇宙旅行に行きたいのに、まったく望みがないのですか?

そのように絶対できないなんて言えません。もし、将来、宇宙旅行に行くのが、あなたが現在飛行機に乗ってカナダに帰るのと同じように便利になったら、あなたは望みがないですか(希望があるよね)?

私は本当に中国の宇宙飛行事業がもっと早く発展してほしいと望んでいます、この日が少しでも早く、来てほしいものです。

 

<公蟹,母蟹和爪>雄カニ、雌カニとニワトリの爪

私達は雌カニが雄カニよりおいしいことを知っています。米国では、雄カニと雌カニが別れて売っているのを見つけました。更に私に不思議だと感じさせたのは、ここでは雄カニは雌カニより人気があって、雄カニの値段は雌のカニより二倍高いのです。アメリカ人は雌カニが雄カニよりおいしいことをまさか知らないのではないでしょうか?彼らがどのように思おうと、私達は雄カニの半分の値段で雌カニを買うことができて、当然とてもうれしいです。毎回カニを食べ終わった後に、私と中国人の友達は一緒に言ったものです。:"アメリカ人は本当に何がおいしいか知らないよね!"

ある日、一人の米国の友達は、私達を彼の家に連れてゆき、客としてもてなしました。主人は中国人がよくカニを食べることを知っていて、大きな袋で買いました。私は冗談を言って彼に聞いた:"雄のカニですか、または雌のカニですか?" 彼は笑って言った:"あなた達、中国人の一番のお気に入りは雌カニを食べることですね、私達アメリカ人はしかし、雄カニを食べるのが好きです。今日私達はよく比べてみましょう、どちらが実際においしいか見てみましょう。" 彼は中国に行ったことがあるため、中国人の好きなものを知っています。食事の時、私達は一方で食べて、一方で話した。主人は雄カニを食べて言った:"良い香!"さらに解説していうには、彼は雄カニの肉のほうが多くて柔らかいから好きで、雌のカニは肉が少ないだけではなく、その上も香りがないと言った。雌のカニは"子供"を生むため、栄養はすべて子供のへ行く。私達は聞いて、皆笑い始めました。

主人は私達をちょっと見て、また引き続いて言った:"あなた達は、私達アメリカ人が食べることを知らないと感じ、私はまたあなた達中国人が、食べるのを奇怪だと感じています!実はこれは習慣が異なるためなのです。 "

主人が話すカニを食べる事の見解を聞いて、私は彼が言うとおりだ、なるほどだと思いました。中国人は東半球で生活して、アメリカ人は西半球で生活して、食べる習慣は異なります。"ダイコンと青菜、それぞれ愛するところがある(一つの料理が万人にはあうことはない)“これはとても自然です。地球上には、このように多国家と民族があって、こんなに多くて異なる文化があります。世界はもともと多様化しているのです。

もし、私達はこのように異なることに敬意を払うならば、みんなは平和になることができて、友好に付き合えます;私達はもし、このように異なることを利用することができるならば、経済協力を強化して、みんなの生活はもっと良くなります。例えば、アメリカ人はニワトリの爪を食べませんが、中国ではで、ニワトリの爪の値段は鶏肉より更に高いです。

中国は毎年、米国から多くのニワトリの爪を輸入しなければなりませんから、アメリカ人は金を儲けられるのでとてもうれしいです;中国人は安いニワトリの爪を食べて、同じくとてもうれしいです。みんながうれしくなるのに、どうして十分やっていないなんてことがあるでしょうか?(お互いに協力すべきなのです。)

 

<閲読> <有趣的手机短信>

面白い携帯電話のショートメッセージ

調査によると、中国に携帯電話を使っている人は25千万いて、世界一です。携帯電話から送るショートメッセージも世界で最も多く、特に15歳から25歳の間の若い人は、携帯電話を使ってショートメッセージを送ることが最も好きです。

許さんは一人の若くてきれいな女の子です。外国の会社で働いています。彼女はショートメッセージのファンです。ほとんど毎日のように、何通かのショートメッセージをくれ、私をリラックスさせ、また私を楽しませます。彼女は言う:ショートメッセージを送ることは便利で、経済的です。同僚、友達、親族にメッセージを送れば、私が彼らを想っていることを彼らがわかります。

さらに、私の挨拶や、面白い笑い話を彼らにあげることで、喜ばせることができたらと望んでいます。彼女は毎月1000数本のメッセージを送り、毎日平均30通ほど送ります。今年、春節に彼女が私にくれたメッセージは:”新年になったね,あなたに何もあげるものがないけど、かといってそれほど多くのものをあげるつもりもないけど、ただあなたにあげる五千万はあります。:千万楽しんで!千万健康が大事です!千万平安が大事です!千万も愛が必要です!千万も私を忘れないでください!”私は、これは一枚の年賀状をうけとるよりは、もっとおもしろいと感じています。

毎日通勤して、許さんは会社のシャトルバスに乗るといつも、道中、約一時間かかります。メッセージを送ることは、車に乗っているとき一番の暇つぶしのやり方です。彼女は友達とチャットして、身内に挨拶して、ゲームを遊んで、自分でリラックスして楽しみます。

許さんは、時には、私と彼女と一緒に、楽しみを分かち合うことができます。あなたは見て、私の携帯電話が鳴っています。また許さんが送った二本の情報です。

第一信は:冷蔵庫の中に卵を五個置いたようです。第一個の卵は小さな声で第二の卵に対して言った:”あなたは見て、第五の卵はカビが生えて、とても恐ろしいです!”第二を受けて、第三に教え、第三は第四に話しました。第五はそれを聞きつけて、とても怒って言いました:”ほっとけ!俺様はキウイ・フルーツで、卵ではありません!”

第二信は:”聞いて、私はあなたを追って、私はあなたを確認し、私の探しているのはまさにあなたです!あなたは私に追いかける一つの機会をくれて、私はあなたに思いがけない喜びを返し、私はあなたを追ってとうとう最後まで追います!嫌なハエね、たたいて殺すわよ!”

許さん送るメッセージは面白いですか?誤解しないで,私は許さんの彼氏ではありません!信じないなら、許さんが送った次のようなメッセージをみてください。彼女はこのように私を励ましたのです:”小太りの女の子、あなたは天気を変えることができないけれど、あなたは気持ちを変えることができる;あなたは明日を借りてくることができないが、あなたは今日をうまく使うことができまて、そうすれば、美しさはあなたのもの、成功もあなたのもの、幸福もあなたのものです。”

 

北京レポート(75)中国語語学学校<4>新实用汉语课本3テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本3の本文を和訳したものである

 

{新実用漢語課本3 和訳}

第27課 入随俗<郷に入ったら郷にしたがえ>

何を注文しますか?

お茶を一壷と、後はお菓子をいくつか持ってきて。

わかりました。少しお待ちください。

これがいつも言っていた古い茶館です。今日私はあなた達を茶館に来てもらいました。

あなた達は、ここで私達の風俗というものを少しは理解できると思います。

茶屋の中は、人が多くて、本当ににぎやかです。

彼らが話をするときの声は大きすぎます。

茶が来ました!あなたたち、ゆっくりお楽しみください。

私達は大きな声で話していますが、ここの従業員の声はもっと大きいですね。

茶屋は最もにぎやかな場所です。ある人は(演ずる)舞台を茶屋に移して、茶屋の中で劇を歌い、ここは、もっとにぎやかになるのです。

私は、公共の場所での話はなるべく小さい声で話すべきだと思います。

中国に来てから、店あるいは駅でもそうですが、ほとんどのレストランでは、人々の話をする声は、とても大きいです。本当のところ、私は実は、なかなか慣れません.

茶館に来る人は誰でも、にぎやかなのが好きです。みんなはお茶を飲みながら、おしゃべりします。

おしゃべりが楽しくなると、話をする声がだんだんに大きくなります。静かさを好む人が茶館にくることはありません。

そんな人はいつも別の場所、たとえばコーヒー店に行きます。

林娜の言うとおりです。公共の場所で、話をする人のなかには、声が大きすぎる人がいます。 

私はここで、ひとまずおしゃべりをしたかったのですが、あなた達二人ともここがあまりにやかましいなら、それでは、出ましょう。前に公園がひとつあって、そこでは、人は多くありません。

私達はその公園まで行って、すこし散歩しましょう。

いいですよ。私達は散歩しながら、おしゃべりしましょう。

 

私達がそれぞれ自分の意見(見方)を言い出すと、あなた達は嬉しくないでしょうね?

もちろんそんなことありません。私達はいつも外国の友達といっしょにいて、違う国は違う習慣があることを知っています。

しかし私達にとって、これはとても正常なことです。

外国の文化を理解しない人はどのように思うでしょうね?

彼らが慣れないと思うことはいくつかあります。例えば、中国人は食事のとき箸を使い、西洋人は食事をするときナイフとフォークを使います。西洋人は食事を自分の大きな皿の上に置いて、大きな塊を小さな塊に切って、さらにそれを口の中に送ります。もし指に、少しでも料理がつけば、すぐ指をなめます。

中国人の中にはそれは、とても慣れないことだと思ってみています。

ナイフとフォークで食事をして、指についた食事をきれいになめるのは、それは私達の良い習慣です。

力波、あなたは何か言いたいことがありますか?

はい。私達は幼い時から成長するまで、一貫して、そのようにしています。

しかし、私達は、ここで、食事をする時、指をなめるのは良い習慣ではありません。

私の意見では、”郷に入れば郷に従う”べきでしょう。 私達が国外での公共の場所の話をするときは、声は少し低くするべきです;あなた達は中国人の家で食事をしたら、きっと指をなめないでしょう。 

そうです。私は”郷に入れば郷”に従います: 中国料理を食べる時、私は箸を使います;西洋料理を食べる時、私はナイフやフォークを使います。 私はどちらも良いと思います。私のお父さんとお母さん二人とも、そのようにしています。

力波、”郷に入れば郷に従え”とは、英語で訳すると、どのように言うべきですか?

 

<閲読><香茶>香る茶を差し上げよ

宋の時代の大文学者、蘇東坡。いつも一人で旅行に出かけます.彼は特に寺院を見学することが好きです。ある日、彼は寺院の一つに入ります。廟の中にいた和尚は、この人が入って来るのを見ました。蘇東坡は子供を教えている先生に似ています。また、とても普通な人にも思えます。和尚は着席して動かず、ひとつの字だけを言いました、”座れ”。 彼はまた小さいテーブルの上の急須を指して、言います:”お茶。”蘇東坡はちょっと笑って、小さい机の横に着席します。彼は小さな声で和尚にいくつか質問をします。和尚はこの先生がたくさんの事を知っていることを発見します。すぐに立ち上がって丁寧に言いました。”お座りください”。

そして、また小和尚(小僧)に対して言いました:”お茶をさしあげなさい!

和尚は蘇東坡に、”ちょっとお聞きしますが、あなたのお名字は何ですか?”と聞きました。 蘇東坡は自分の名前を言い出しました。和尚はこの先生は大文学者の蘇東坡だと思いつかず、 彼はすぐ蘇東坡を 大テーブルの前に行かせました。

とても仰々しく”上座にお座りください!”と言っただけでなく、その上また大声で小和尚(小僧)に対して言いました:”速く!速く! 茶をさしあげなさい!”蘇東坡は笑って言います:”どういたしまして! 和尚はもう気が付きました。蘇東坡は大文学者の一人であるとともに、さらに大書道家の一人です。

もし蘇東坡が寺院に書を書いてもらえるならば、彼らの寺院はあっというまに有名になり、 これは良い一つの事件となると和尚は思いました。 こう考えると、彼はすぐに家の中にかけこみ、一枚の大きな紙を取り出して来て、それをテーブルの上で置きました。さらに両手を胸の前に置いて、口の中で言うには:”阿弥陀仏! 阿弥陀仏! 私はあなたに私達に一副の字(書)を書いていただきたい。”

蘇東坡は立ち上がって、少し考えて、言います:”いいですよ”。”彼は和尚がさっき口に出した言葉を紙の上に書きました: ”座れ、どうぞお座り下さい、ぜひ上座に座って下さい。お茶、お茶を差し上げよ、良い香りのお茶を差し上げよ。”和尚はそばに立ちながら読み、声に出しました。この十二の字を声にだし終わって、和尚の顔は赤くなりました。

 

第28課 <礼情意重>

贈り物はささいな物でも気持ちはくみ取るべきです

今日は中秋節です、中国人は全家族がいっしょにこの祝日を過ごすことが好きです。

今日は、私達もいっしょに(この祝日を)過ごしましょう。

ありがとうございます、雨平。今日、私達は中国人どのように中秋節を過ごすのか少しは理解できるでしょう。

中秋節は春節のように、にぎやかなになりますか?

中秋節に春節ほどにぎやかではありませんが、しかしこの日は、重要な祝日の一日です。

私達は中秋のための月餅、果物、お茶、ビールを用意しました。私達は月餅を食べながら、月見をしましょうか、どうですか?

良いですね!そう言えば、私達はあなた達にあげるいくつかの小さい贈り物があります。

私達もまた、あなた達にいくつかの小さい贈り物をプレゼントします。

私が先にしましょう。力波、これは私があなたにあげる小さい記念品で、あなたが気に入るとよいのですが。

あ、筆ですね、文房具の四つの宝(筆・墨・紙・硯)の中の一つ、しかもブランドものです!

これのどこが小さい記念品ですか?これは一件の大きな贈り物です。私はそれを私のテーブルの上で置いて、毎日いつも、それを見ることができます。

あなたは中国書道が好きなのではありませんでしたか?ブランドの筆を使って、あなたはきっと、もっと良い字がかけますよ。

林娜、私はあなたに一件の小さい贈り物を持ってきました。あなたが好きか嫌いか見てください。

スカーフ、これはシルクでできているわ、とてもきれい。

きれいな林娜が、このきれいなスカーフを身に付けて、更にきれいになりました。

本当に?私のどこがあなたの言うようにそんなにきれいだというの(きれいなはずがないじゃない)。小雲、本当にありがとう!

私にとって、これは最も良い贈り物です。

私は大にプレゼントするような良い贈り物がなかったけど、私は彼が中国の音楽が好きなことを知っていたので、彼に音楽CDを一セット送ります。

みんな見て、私の受け取った贈り物はとっても良いものでした。音楽CD一セットで、中国の音楽です!ありがとう。

どういたしまして、少しのほんの気持ち。

私達の番ですね?私達も、あなた達にプレゼントするいくつかの贈り物があります、これは宋華にあげるものです。

ありがとう!

雨平、これはあなたへのものです。

どうもありがとう!

小雲、あなたにあげた贈り物を見てみて。

ありがとう。

みんな、贈り物を全部、あげ終わったなら、さあ、私達は月餅を食べましょう!

みんなが中秋を楽しめますように祈ります!乾杯!

乾杯!

見て見て、月は上がってきました。今日の月はなんて美しいのでしょう!

 

私達は、初めて中国の中秋節を過ごせました、しかもそのように良い贈り物を受け取れて、

みんなはとてもうれしいです。でも、私はあなたにすこし聞きたい質問があります。

どんな質問ですか?

私達は贈り物を受け取って、すぐそれを開けて、何なのか見てみました。あなた達は贈り物をもらった後に、ただ外側を見て、開けませんでした。私達が、中身が知りたい、と思っているほどは、中国人は思っていないようですね。これはどうしてですか?

私は先にあなたに聞きます。贈り物を受ける時、あなた達はどうしてすぐ開けて見てみるのですか?

私達は贈り物を開けて見て、贈り物を称賛して、感謝の意を表わします。これは贈り物を送る人(の気持ち)を尊重しているからです。当然、自分である種の思いがけない喜びを得ることができることも期待します。

私は、あなた達の習慣は、私には理解できません。他の人があなた達に、贈り物をあげることを好きでありませんか?

もちろんそんなことはありません。友達が贈り物をくれるのを嫌いなわけはないでしょう。

私達は友達から贈り物を受け取るとき、普通はすぐ開けません、これも贈り物を送る人への尊重を表しているのです。

私達はどんな贈り物を送るのかはさして重要だと思いません。

人々が常に言う事ですが、贈り物はつまらないものでも気持ちはくみ取るべきで、重要なのは友情です。

そんなことだったんですね!本当言って、その日にあなた達は開けなかったので、私達はちょっと心配していました。

何を心配していたのですか?

あなた達が私達の贈り物を好きでないのではないかと心配していました。

何を言っているんですか、あなた達の送った贈り物はすべてとても良いです。例えば、丁力波はカナダの飴をくれました。

とっても特色があるじゃありませんか? 私達はすべてとても好きです。 

あなた達はどれもとても好きだと言ってくれて、私は大変うれしいです。

 

<閲読><嫦娥奔月>嫦娥奔月

中秋節に月見をするのは唐の時代からです。

中国の古代の神話の中で、月の上に月の御殿があって、そこに一人の美しい仙女がいました。彼女の名前は嫦娥と言います。

嫦娥は、元は人間世界の女の人でした。彼女の夫はある種の特別な薬を手に入れ、彼女に手渡しました。ある日、嫦娥はこの薬をちょっとかいで、彼女は自分の体が軽くなるのを感じました。飛びたちました。彼女は飛んで、がだんだんに高くなって、ますます速くなって、最後は、月に飛んで辿り着きました。嫦娥は月の宮殿の仙女になったのです。

伝説によると、ある八月十五日の夜、唐明皇は夢を見て、(夢の中で)彼は月にたどり着きました。彼は自分の皇宮が月の宮殿ほど静かではなく、高く大きくはないと思いました。彼は月の宮殿で嫦娥を見つけました。きれいな嫦娥は白色の服を着ていて、とても親切に唐明皇に酒を飲ませ、また彼のために歌を歌い、踊りました。

唐明皇は、夢から覚めた後に、この夢から有名な曲を書き上げました。

これ以後から、毎年八月十五日、唐明皇は皇宮の中で月を愛でるコンサートを催し、彼の書いたこの曲を演奏することになりました。それから、中秋節は中国の祝日の一つになりました。この日、一家は一緒に集まって、月餅を食べながら、月を鑑賞します。その日に人々が月を見ている時、嫦娥が住んでいる宮殿も少しはみえるかも知れません!

 

第29課 <多提意たくさんの意見を述べてください

あなた達よくいらっしゃいました!歓迎、歓迎します!すぐにお入りください。

張教授、これはあなたにあげる花です。

ありがとう。あなた達、遠慮しすぎですよ。お座り下さい、何を飲みますか?

お茶を飲みます。あなたの書斎はとても特色があります。壁の上には中国の書画がかかり、本棚には、こんなに多く古書があります。

机の上には四つの宝(筆・墨・紙・硯)があり、外には、さらに整然とこんなに多く花を並べて、盆栽まであります.

これらの花は本当にきれいです、すべてあなたが植えたのですか?

いいえ、みんな買いました。でもそれらはここでますます成長して、今も花が咲いています。

これは君子蘭と言うでしょう?少し長い緑の葉、赤っぽい花で、本当に美しいです。

君子蘭と言います。この種の花は栽培しやすく、花が咲く時期も比較的長いです。

花の栽培は本当におもしろいです。私は明日授業が終わったら盆栽を買って、寮の中におきます。私も花を栽培することにします。

花の栽培はおもしろいものです。しかしあなたはよく育てることができますか?

もちろんよく育てられます!私の考えでは、花を育てることは、中国語を学ぶほど難しくないでしょう。

花を育てるのはあまり難しくない。でも、花をよく育てようとすると、すぐそれほど簡単でならなくなりますよ。

人はよく言うのは、”女の子はよく花を愛します”,林娜が花を育てるのが好きなら、彼女はきっとよく育てられると思います。 

ありがとうございます、張教授、私もそのように思いました。

これらの盆栽はすべてあなた自分で作った作品でしょうか?

はい。仕事に疲れた時、私はすぐ外に出て、花に水をやり、これらの盆栽の枝切りします。これはとても良い休息になります。

盆栽は一種の芸術です、盆栽を植えるのはとても容易でないと聞いて言います。

張教授、あなたは、いまや園芸師の一人です!

私のどこが園芸師ですか?これただちょっとした趣味です。

 

張教授、私はとても中国の書道が好きで、(書道の)先生に学んだことがあります、しかし進歩は早くなく、私はどうしたらいいのかよくわかりません?

書道を学ぶには、たくさん見、練習することです。人がいつも言うには、もしあなたが毎日まじめに練習すれば、百日も要りません。すぐにも漢字をきれいに書くことができるようになります。当然ながら、漢字の書で芸術作品になるように書くには、たくさんの練習がさらに必要になります。

張教授、私に書を一枚書いてもらえませんか、それがもし可能でしたら?

私の書はとても普通ですので、あなたは、多くの書道家の字を見るべきです。

あなたの書はとても有名なのを知っています。この字の書は私にもらえませんか?

この字は私が書き間違えたものです。私は今日さっき、ちょうど一枚書いたばかりです。あなたは上の方をみて、何と書いてあるか見なさい。

”弟子が師匠より劣っているとは限らないし、師匠が弟子よりすぐれているとは限らない”。張教授、ちょっとお聞きしますが、この文章はどんな意味ですか?

これは唐代の文学者の一人が言ったことがある話で、意味は,学生は先生を辱めず、先生は学生より優れているとは限りません。先生と学生は互いの学び合うべきです。

ありがとうございます、張教授。この字はとてもおもしろい、私はそれを私の寮の壁の上で掛けておきます。

そうですか、これは私がさっき書いた本の一冊で、あなた達にプレゼントします。1人に1冊です。

私はすでにあなた達の名前を本に書きました、たくさん意見を述べてください。

「漢字書法芸術」ですね?,ありがとうございます。張教授、あなたは大変謙虚です。

あなたは先生で、私達はこのように中国語の勉強で、少し遅れているくらいなのに、どうして(先生に)意見など出すことができましょうか?

あの唐代の文学者はどのように言ったのでしたか?

”弟子は師匠より劣る必要はないし、師匠は弟子よりすぐれている必要はない”。

 

<閲読><舍养花>老舎、花を育てる

私は花が好きで、よく花を育てます.しかし、私はまだ園芸師ではありません。というのは、園芸の技術を高める時間がないためです.

私は花を育てることを、ただ生活の中の一種の楽しみと見なしています。私の育てた花は多いが、あまりに貴重な花はありません。

私が育てた花が、花を咲かせると、私はうれしいです。貴重な花は育てにくく、もし一鉢の貴重な花が病気になったらば、心の中はとても苦しくなります。だから私は小さい中庭に、整然とこのように多く並べると、皆よく育ってくれるのです。

当然、私は、また毎日それらの面倒をみなければならず、良い友達と同じようにそれらに関心を払い、それらの生活情況を理解しています。

そのようにしなければ、それらの花は、やはり死にます。それらの助けがあるので、私は花をどのように育てるべきかわかるのです。

今、私の小さい中庭で、花はだんだん多くなって、本当に人を喜ばせます。

私の体はあまり良くありません。花は私がめんどうをみていますが、花が私に感謝しているかどうかはわかりません。

でも、私はそれらに感謝しなければなりません。私が仕事で疲れた時などには、すぐ中庭までいって、花を見ます。

 花に少し水をあげ、それらの盆栽の枝切りをし、それから再び働きます。私は毎日このようにしているのです。これはとても良い気休めです。体に対しても、とても良いです。私はこれが薬を飲むより良いと思っています。

花が咲いて、友達が私に会いに来ると、私達は中庭に行って、花を愛でます。それらの緑豊かな葉、赤い花を見ていると、彼らは私の育てた花がよく成長していることを称賛してくれます!私は心からとてもうれしいのです。

私はいつも自分の育てた花を贈り物にして友達にあげています。彼らみんな喜び、育てた花は、生活を美しくするだけでなく、心さえ美しくすると言います。友達の話を聞いて、私はますます花を養うのが楽しみの一つだと感じます。

 

第30課 <他太极的>彼らは太極剣を練習しました

現在、8時半だが、街頭はまだこんなににぎやかです!

ここの人達は、晩ご飯を食べ終わると、活動するためにでてきます。ほら、人々は歌ったり,踊ったり、遊ぶのが本当に楽しそうです。

そこに、多くの人が来ます、ダンスをして、一方では銅鑼を叩き、太鼓を叩きます。彼らはどんなダンスを踊っていますか? 

彼らはヤンゴ踊りを踊っています。

ヤンゴ踊りですか?私は聞いたことがあります。

これは中国北方の民間舞踊の一種で、ヤンゴ踊りと呼ばれ、ヤンゴ踊りの動作は簡単で美しいです。子供、年ごろの娘、若者、老人でもみんな踊ることができます. 老人の言うことには、今ヤンゴ踊りはすでに、一種の身体活動になってきている。彼らは身体をよじることが好きで、いつもよじると全身汗が出ます。

見て、この種のダンスはとても良くて踊れますよ、私もすぐにでも学べそうです。私は彼らと一緒に身体をよじっていいですか?

もちろんできます。

駄目だよ、先に動作をちょっと練習しなければならない。さもなければ、みんなは私が一人がよじっているのを注目してしまうよ。

前を歩いてきたのは、多くの老人ですね、彼らは手すべて何を持っていますか?

彼らは太極剣を練習した人たちです、手に持ったのは剣です。太極剣も中国武術の一種です。

太極剣はよく体を鍛えることができますよ。私のお母さんは、以前は、いつも病気にかかって、働くことができませんでした。それ以来、彼女はすぐ太極剣を練習しました。二年間練習して、彼女の体は良くなり、今では出勤しています。

力波、あなたは毎朝、太極拳を学んでいるのではありませんか?あなたが学んだのは、どこまで深く学びましたか?

今は、私はもう太極拳を演ずることができるようになりました。最近、また太極剣を学ぶことも始めました。

私は太極拳を演じ、太極剣を練習することは体にとても良いと思います。

太極剣の動作はとても優美です、太極剣の練習と比べて、ヤンゴ踊りはそんなにたやすくはないでしょう。

見て、街路の中央の花園には、多くの人が囲んでいます。そこはとても静かでどんな音さえも聞こえません。彼らは何をしているのでしょう?私達はちょっと行ってみてみましょうよ。

 

彼らは中国将棋をしています。宋華、あなたは中国将棋を打つのが好きですか?

好きです。私は他の人が中国将棋を打つのを見るのも好きです。自分と彼らの打つのを比較しながらみるのは、より興味深いです。

時々私は夕飯を食べながら見ます。

だからあそこではまわりに人が集まって、中国将棋を打つのを見ているのですか?

そうです。いつも二人で将棋をしていると、多くの人が囲んで見ます。 見ている人と打っている人とは、たぶんお互いに知らない人でしょう。

それはおもしろいです。

京劇の劇団は、どうしてここにきてまで歌うのですか?

京劇の劇団の人ではなくて、彼らはこの住宅地区の京劇愛好者の人達で、しかも皆老人です。

以前、彼らが働いていた時、忙しくて歌う時間がありませんでした。現在は退職しています。

暇を持て余す時間がとてもあるので、晩になるとすぐここへきて楽しく歌うのです。好きな事なので、顔見知りでない人でさえも皆友だちになります。 一般論で言えば、ここに歌を歌いに来る人達のレベルは悪くはありません。

京劇を聞くのが好きな人はまわりに来て聴きます。彼らは聞いて楽しくなると、「好」と叫ぶことさえします。

これは彼らにとってレジャーの過ごし方の一つなのです。

本当におもしろいです。 これらの老人のレジャー活動は数多くの特徴があることに気が付きました。簡単に言うなら、第一は、彼らは非常に身体を鍛錬している。第二は、最も重要なことですが、彼らは多くの人達と一緒に活動するのが好きだ。

第三に、ある人は活動し、ある人は見て、たぶんお互いに知らなくとも、しかしみんなで楽しく遊べる。

あなたの言う通りです。 当然、老人たちのレジャーのしかたは、まだまだたくさんあります。 朝に体操する人がいて、駆け足する人がいて、山に登る人がいて、泳ぐ人がいて、自分の飼っている仔犬を散歩に連れ出す人もいます。

さらに家にいて、書道を練習する人や園芸にこっている人もいます。

若者は?

若者のレジャー活動はさらに多いです。 見てみて、道の対面にはインターネットカフェの入り口があり、店に出入りしている人たちは、みな若者です。ダンスホールの中の横から出てきたのは2人の若者です。

 

<閲読><走路和寿>歩くことと長寿

人は、”食後に100歩、歩けば、99歳まで生きられます。”とよく言われます。 歩くことは最も便利な活動の方法です。それと共に、お年寄りに最も良い鍛錬です。 どうして歩くことなのでしょうか? 医者はお年寄りに毎日30分間3キロメートルを歩くこと、週に少なくとも五回は行う事を勧めます。 当然、どれくらいの時間、どれほどの道を歩くか、さらに自分の身体の情況を見る必要があります。 身体の調子が良いなら、多く歩くことができる、身体の調子が悪ければ、歩く距離を少なくすることができる。毎日とにかく歩けば、身体に必ず有益なことがあります。

1人の医者が2組の老人を調査しました。 1組は毎日、1時間歩きます。もう1組は、毎日ほんの少しだけ歩きます。その(調査の)後で、毎日歩いた人の方が長寿で、心臓病も少ないことを、彼は発見しました。

一人の記者は95歳の一人の老人を訪問しました。 老人に質問した、健康で長寿の秘訣は何でしょうか?

老人は笑って”私に、どんな秘訣があるかですって? 人は常に言うことは、生命は運動に関わっている。 若者に運動が必要ですが、老人にはさらに常々の運動が必要です。”と言いました。 記者はさらに質問して、”あなたはどんな運動が好きですか?” 老人は答えて言うには、”私が最も好きなのは歩くことで、毎日1時間の道を少なくとも歩きます。朝、起床して、すぐに公園内に着いて、少し歩きます。全身が暑くなるほど歩かなければなりません。しかし、暑くなって汗がでるほどは必要ありません。1時間、道を歩き終わって、やっと帰宅して食事して、本を見て、新聞を見て、テレビを見ます。”。

老人は、毎日歩くことは、簡単で、しかも便利だと思う。 もし、再び山に登ることが可能であれば、さらにすばらしい。

記者は、”歩くことがたぶんこの老人の長寿の秘訣だろう”と考えます。

オリンピック運動の故郷にはこんな文句が広まっている。;”あなたは健康であるために変わりたいと考えますか?すぐに走りなさい。

あなたは頭が良くなるように変わりたいですか?すぐに走りなさい。 あなたは奇麗になりたいですか?すぐに走りなさい”。

お年寄りに対して、私たちはこうも話すことができるでしょう。”あなたは健康になりたいですか、すぐ走りましょう。

あなたは長生きしたいですか、すぐ歩きましょう。

第31課 <中国人叫她”母河”>

中国人はそれを母なる河と呼ぶ

宋華さん、学校は、私と力波に”中国通知識大会”に参加するようにしました。 私たちは中国に来て一年以上になりますが、中国の地理に関するして理解している知識はそれほど多くありません。 現在、たった一か月あまりしか準備時間ありませんよ。

私たちは心配のあまり、食事も、睡眠も十分にとっていません。

今回の大会にどれくらいの人数が参加しますか?

20何人かになると聞いています。

急ぐ必要はありません。 あなたたちはただ真面目に準備すれば、必ずよい成績をとることは可能です。

あなたは私たちのために準備を少し手伝っていただけないでしょうか?

いいですよ。 私はまずあなたたちに問題をひとつ質問しましょう;中国はとても大きいですが、どれくらい大きいですか?

中国の面積には960万平方キロあります、東から西までは、五千数百キロがあります。

南から北までには、五千500キロあって、世界でもビッグスリーに入ります。

そうです。 ロシアが最大です。 中国はアメリカと比べて少し大きいです。 カナダよりは少し小さい。

中国の人口はどれくらいですか?

中国の人口は、大陸、台湾、香港とマカオを全部合わせて、12億九千万人ほどいます。

中国は世界上、人口が最も多い国です。

正確な回答です。 次の問題です;世界でもっとも高い場所はどこですか?

中国のチベットにあります。

世界で一番高い山頂は何と呼びますか? それはどれだけの高さがありますか?

世界で一番高い山頂はチョモランマ峰と呼んでいます。その高さは8800メートルほどあります。

中国が一番長い川は黄河ですか?

いいえ。 中国で一番目の河は長江(揚子江)で、長さは6300キロあります。 それは世界でビッグスリーの河です。

黄河は中国で二番目の大河です、長さは5400キロほどあります。

中国人はなぜ黄河を母なる河と呼びますか?

黄河は中華民族(文明)のゆりかごです、だから中国人は河を”母なる河”と呼びます。

 

ダーウェイ、さっき誰かがあなたへ電話しましたよ。

それはたぶん私の友達の一人がかけてきたのでしょう。 長い休暇なので、友達の何人かは観光旅行に行きたいと言っています。しかしまだどこかへ行こうか決めていません。

中国の名所旧跡はたくさんあります。有名なところは少なくとも5、6百はあると言われています。

もし観光旅行が好きだったら、休暇ごとに行くべき場所がありますよ。

まずは、どこへ行きましょうか? 私はすでに2、3か所へは行ったことがあります。例えば海南島、西安。 そう言えば、さらに泰山もありました。

あなたは名所旧跡へ行くことが好きですか、それとも自然の風景を見ることが好きですか?

どっちも好きです。 私は特に山登りが好きで、高い山で、かつ美しい山に登ることが好きです。

そうですか。 チョモランマに登るなら、あれは全世界で最も高い山です。

あの山は少し高すぎます。私の身体がついていきませんし、時間も不足しています。

黄山は、あなたはまだ行ったことがなかったですよね?

まだ行ったことがありません。 黄山はどんな感じですか?

そこの風景は世界的に有名です。 1200年ぐらい以前の早くから、黄山はすでに中国の名所でした。

あなたはそこから、朝から夕景色の色までは間断がなく変化していくのが見ることができます。 そのうえ見る人によって、感覚も異なります。 そこでの最も美しい風景は白雲と、松の木と山の峰です。 あなたが山の上から下をのぞくと、白雲がまさに海のように見えます。人々はそれを”雲海”を呼びます。 黄山の松の木と山の峰はみな特色があります。多くの山々の峰の様子はとても奇妙で、だから”奇峰”と呼ばれています。松の木は、これらの奇峰の上で成長しました。雲海、松の木と奇峰を会わせて、本当に美しいです。 そればかりでなく中国人は黄山旅行が大好きです。そのうえ外国の友でさえまた、そこへしばしば行きます。

黄山には”迎客松”と呼ばれる一つの樹があるのですか?

はい! あの古松は千歳以上です、毎日親切にも、黄山へ旅行する友達を皆、歓迎しています。

いいですね。来週、私はすぐ黄山へ観光に行きます。

 

<閲読><南水北南から北へ流れを変える

京北杭大運河は世界で最長の運河です。 それは北京から杭州にいたるまで、長さは1749キロメートルあります。

北京杭大運河と長城は同じで、中国古代の作られた有名な大工事です。

早くとも1500年以上も前に、中国人はこの運河を掘ることを始めました。 あのときの皇帝は、随煬帝で3度も江南へ旅行に行きました。どのときも運河を舟で行きました。 彼はさらに人々に運河両岸に多くの柳を植えさせました。その理由は、随煬帝の姓が”楊”だったからです。人々はこの植えた木を”楊柳”と呼びました。

中国の大河は、例えば長江(揚子江)、黄河のように、みな西から東へ向かっています。ただ大運河は南北で、これらの主な大河はつながっています。 中国古代には、運河の中では、南から来て、北へ向かう船が多い。

揚州は長江(揚子江)と運河が合流する場所で、そのころの揚州はとても騒がしい都市でした。

その後、北方は雨量が少なくなったため、運河の北部分は通航ができなくなった。ただ南の部分はまだ通航できました。中国北方には大河はなく、水は大変少ない。それでも、南方の大河の数は比較的に多く、水も多い。長年の調査研究を経て、政府は揚州から長江(揚子江)の水を運河まで引こうと計画しています。再び運河が北の方へ水を再び送ることができるかもしれません。 これを”南水北調”と呼びます。 

これは単に”南水北調”の工事の一部ですが、それでも、北方人民の生活条件を改善するにはとても重要です。現在京杭大運河の北京地区の一部分はすでに通航できます。人々は古代運河の景色を見ることができます。大運河のすべてが通航できるようになってからは、人々は北京から船に乗って杭州へ観光に行くことができます。

運河の両岸の風景をちょっと見てみなさい、ちょっと古めかしく、また若い運河の文化を理解できます。それは何と美しい事だろうか!

 

第32課 <这样问题现在也不能了>

このような質問は、現在では、尋ねられません

すみません、この路から山頂に登ることができますか?

私はできると思います。 私も上ります。いっしょに登りましょう。

いいですね!

貴方は初めて黄山を観光するのですか? 貴方をなんと呼んだらよいでしょうか?

私はマータウェイと言います。

なんて偶然。私の姓は馬ですから、私を小馬と呼んでください。 私とあなたの年齢は、だいたい同じようですが、たぶんあなたの方が年上かもしれません。あなたは、今年、二十五か六ですか?

あなたを老馬と呼びましょう。

あなたはどこで働いていますか?

私は今だ、学校へ行っています。

あ、あなたは留学生ですね。 あなたの話す中国語は本当に上手です!

普通ですよ。

私は何人か外国人に会ったことがあります。彼らの話す中国語はあなたほどうまくなく、あなたが一番うまい。

あなたたちが中国に留学に来ているということは、父母はたくさんのお金をあなたにあげたのですか?

決まっていません。

あなたは勉強する一方で、さらに一方で、お金も稼いでいるのですか? 結婚していますか?

あなたは疲れていますか? 私は熱く、また疲れました。私たちは少し水を飲みましょう。小馬さん、あなたはどこで働いていますか?

私はインターネットの会社の一つで仕事をしています。

あ、あなたはインターネットの仕事ですか、給料はきっと高いですよね。

思ったほど高くはありません。

私は、ハイテク企業で仕事ができれば受け取る収入は低くはないと思うのですが。

それは会社によりますし、個人の状況にもよります。

あなたたちの会社はどうですか?

悪くはありません。

あなたの収入はきっと低くないですね?

私去年から仕事を始めました。収入はまあまあやっていけるくらいです。

”まあまあやっていける”ってどんな意味ですか?

そのとおりの意味で、”そこそこ”の意味です。

ああ! 見て、向こうでたくさんの人が囲んでいます。あれは、迎客松ではないでしょうか?

そうです。あの木が迎客松です。 みんなはそこで写真をとっています、私たちも写真をとりにいきましょう。

いいですね!

 

今回の旅行はいかがでしたか?

とてもよかったです。黄山の名所旧跡のほとんどを楽しみました。 美しい黄山は本当に名に恥じないところです。

”名に恥じない”は本当にそこを代表する言葉として用います。

これはいっしょに旅行した中国の友から学びました。 しかし、おしゃべりしたとき、何人かの中国の友人が私を真中に囲んで、たくさんの質問をしました。質問のなかには私が回答できない質問もありました。

彼らはあなたにどんな問題を質問しましたか?

何人かの人たちが私のプライベートなことを聞きました、たとえば、私が何歳か、何人家族か、毎月どれくらい稼ぐか、結婚しているか、住居はどうかなどなど、そう言えば、私の背バックはいくらで買ったとさえ聞きました。

これはあなたに関心があったからでしょう!

そうはいっても、これらはプライベートなことです。 他の人が、話したいなら、あなたは聴くことができますが;その人が話したくないと思えば、それらの問題は尋ねることはできません。

これらの問題については、私たちの見方は同じではありません。私たちは、これらを訪ねることが、友好や関心を示すことだと考えています。

私がいくらの賃金をもらっているということは、私自身の事なのに、彼はなぜ知らなければいけないのですか?私が彼らに質問されて、どう答えてよいのかわからない、これのどこが関心を示したことになりますか?

いくつか質問した若者はたぶん、外国人に合う事がとてもまれで、少し好奇心があったので、いくつか質問したのでしょう。

知っていますか? 以前には、中国人の収入はあまり高くなく、収入は当然、最も重要な関心事だったのです。

だからお互いに賃金がいくらか聞いて、関心を表したのです。

あー、そうだったのですね。 しかし、私はあの若者に毎月どれくらい稼ぐか質問しました。

彼は賃金を私にはっきりと教えたくなさそうな感じでした。

こう言えます、以前は、これはプライベートなことではありませんでした。しかし、現在は、こんな質問はとても現在では聞けません。しかし、これは西洋の文化から学んだことです。

あなたたちは本当に早く、学んだのですね。 宋華、今日はあなたにちょっと関心があります。

あなたの父や母親は、毎月いくらの賃金かをもらっているか、あなたは私に教えることができますか?

いいですよ。”上には劣るが,下には優る”使うのに十分な賃金です。(=まずまず人並みである)

 

<閲読><理上学>マネージャーが学び始める

王興は今年35歳で、外資企業の一社で働いていて、一部門のマネージャーです。妻と彼は同じ企業で働いて、彼らには可愛い子供一人います。 去年、王興は銀行から金を借りて、家を一軒買いました。

今年、さらに小型乗用車を買って、生活は悪くありません。王興はさらにどうやったらもっとお金を稼げるか考えています。

しかし、最近、王興はとても忙しくて、休息の時間さえありません。 毎土曜日になると友人と一緒にご飯を食べ、おしゃべりし、歌を歌い、ダンスするような過ごし方は、彼は、もうしたくありません。彼は学校へ行き、商工業管理クラスで学びます。彼自分で、10万元の授業料を払って、毎週土曜日と日曜日の休息時間にあてました。王興はすでにマネージャーなのに、なぜまだ勉強しに行かなければならないのでしょう? これは彼が、競争が年々激しくなってきていると感じているからです。

彼はいつも妻と話して:” 私は大学で、ただ英語を学び、商工業管理の専門はまなびませんでした。しかし外国語はただ一種の工具のようなもので、現在は英語を話す人はだんだん多くなってきています。大学卒業後に、私は5、6社の会社を変えて、少なからず仕事の経験を積みましたが、しかし、管理の専門知識のことになると、私が知らないことがたくさんあります。 特に、中国がWTOに加入してからは、自分の知っていることは、さらに不足していると感じています。 現在、私たちの会社に就職活動でくる若者は、学歴はだんだんと高くなり、知識はだんだん新しくなる。 彼らと比べて、私の現在もっている知識や経験的は、すでに不十分だとわかりました。もし再び勉強しなければ、とても速く淘汰される可能があります。 だから、新しいものを学ぶことが必要なのです。

王興の考え方は妻の支持を得ました、今後は、競争の中でより良い前途があることを彼女は願っています。

 

第33課 <保护环境就是保自己>

環境保護は私たち自身を保護することです。

やっと、霊山に到達しました。

車はもっと山の上まで行けますか?

行けません。車を降りましょう! あなたたち先に山へ向かって歩いて。 私は車を停車してから、すぐ行きます。

ここの空気は本当にきれい。

林娜、小雲、山はとても高いけど、登れますか?

大丈夫よ。私たち一歩一歩山に向かって登っていくから。

あなたたち、たぶん知らないだろうけど、霊山は北京で一番高い場所なのです。ある女性科学者の発見によると、こちらの自然の環境とチベット高原はたいして違いません。

そうですか。今日私たちは霊山の蔵趣園を訪ねるために来ました。チベット高原の景色を少しは楽しめるでしょう。

蔵趣園は国立公園ですか?

いいえ。 蔵趣園はあの女科学者が建てた植物園です、毎年のように、たくさんの中小学生がきて、ここでサマーキャンプを過ごします。 学生たちはこのような環境にめぐまれ、自然の風景を楽しみ、さらに環境保全教育も受けられます。

このアイデアはどうしてでてきたのですか?

あの女性科学者はチベットで18年仕事をしました。1996年、彼女は退職して、北京で科学研究を継続する場所を探したいと考えました。 霊山の自然条件はチベット高原に似ていたので、チベットの植物をこちらに移植しました。 さらに彼女がチベットにいて過ごしたような小屋を一軒建てました。

あなたは見えましたか? 小屋はすぐ前にありますよ!

どこですか? 私はどうして見つけられないのだろう? あー、あの大きな木の横にある家ですか?

そう。 インターネットで「木小屋」という一編の文章を読んだことがありますか? あれはこの女性科学者について書いたものです。

読んだことがありません。 私は現在まだ中国語の長い文章が理解できないのです。

 

今日の新聞が来ました。私が書いた植樹節のニュースが載っています。

見せて。 その日の多くの人が郊区植樹へ行きました、何人かの外国人も参加しました。

現在、人々は環境保全が非常に重要な事だと思っているので、北京の緑化に関心があります。

私が最も心配なのは大気汚染です。 それから、砂漠は一年一年北京の方に近づいています。

最近の砂漠の場所は北京から100キロメートルと離れていません。 これは本当に大問題です。

北京市は大気汚染の問題を解決するために努力しています。 私たちでさえ、気がつくようになったのですが、現在ここの空気は、私たちの今までの頃の空気と比べると、かなり良くなりました。

見てわかります、あなた達も北京の環境保護の問題にとても関心があるのは。今、木を植えるのは環境を保護する重要な方法の中の一つです。北京には少なからず記念植樹活動があって、例えば、結婚記念植樹、誕生日記念樹、一家記念樹などなど。 みんなは木を植樹するだけではなく、それぞれの木には(その木にまつわる)話があります。

私のこの文章には一人のアフリカ外交官が種樹に参加したことを書いてあります。

この外交官は北京がとても好きで、植樹節のその日には、一家全員を連れて一本の”友好樹”を植えました。北京に住む外交官たちはみなそれぞれでこのような植樹活動に喜んで参加しています。

あなたたちは見に来て、この写真はダーウェイが撮ったものです。

この写真には、一人の老人と孫が植樹しています。 一本一本の若木が整然と並んでいますね!

天上の白雲でさえ光れば、真実を照らす。

この写真はとてもよく映せているわ。気がつかなかったけど、ダーウェイの写真の技術は本当に素晴らしいのね。

知っていますか、ダーウェイの作品は展覧会にさえ参加したことがあるのですよ。

これらの写真は本当に良いです。新聞に掲載すれば、もっと多くの人を植樹がいかに重要か知らしめることができます。

北京はすでに中国の首都で、また世界的に有名な大都市です。

北京の環境を保全することは、北京に住んでいる人それぞれの人と共に、みな関係あります。

あなたのおっしゃるとおり。 環境保全が私たち自身の保全につながります。

 

<閲読><熊猫是中国的国宝>パンダは中国の国宝

熊猫とか大熊猫と呼ばれるパンダは、中国特有の貴重な動物です。 それらは中国西部地域のある場所にしか生息できません、そこは2000メートルから4000メートルの高山と樹林です。 環境の変化によって、パンダはだんだんと少なくなりました。

中国人はパンダを”国宝”と呼び、今、様々な方法で救おうとしています。 全世界の人はそれを喜び、関心をもっています。

中国はすでにたくさん国にパンダを送ってきました。

以前は、自分の国では、私たちはパンダを見ることができませんでした。 中国野生動物協会が、美美と田田を自国にある一都市の動物園に送ることに決めました。昨日、私と中国の友人は北京動物園がこの2匹のパンダを見に行きました。

私たちがパンダ館にやってくると、彼らは笹の葉を食べて、その格好は可愛らしく、笑えました;肥えた身体、短い脚。頭はあんなに大きく、耳はあんなに小さく、目はサングラスをかけているようです。 それらは停まらずに、来たり、行ったりします。

小朋友が大声で話しかけました;美美! 田田! あなたたちはまもなく外国へ行っちゃうね、私にあなたたちの写真を撮らせて!

”美美! 田田は小朋友の話を理解したようで、彼らは竹の下に立って、小朋友を見ました。問いかけている様です;私たちはこのように立っています、どうですか?写真をうまくとれますか?

私は横にいる小姑娘に質問しました:” 美美と田田はまもなく飛行機に乗って出国します。今後は彼らを見ることができないけど、あなたは彼らがここに留まってほしいですか?”。

”当然、彼らにはここに留まってほしいわ。 しかし、外国の友人もパンダが大好きです、彼らも早く美美と田田に会いたいでしょう。”小姑娘は大変まじめに答えました。私は美美と田田を見て、これらの可愛い小姑娘を見て、心からこう思いました。”この2匹の可愛いパンダは本当に中国人民の友好的な’使者’なのだ。”

 

第33課 <神女峰传说神女峰の伝説

ダーウェイ、食事をしましたね。

私は立ち上がるとくらくら眩暈がして、食べたくありません。それに、船上の料理はみんな辛くて、私はもう食べて飲み込むことができません。

何日か前まで、あなたは、四川料理を食べられて、とてもうれしいそうだった!その上、あなたは小話まで言ったことがあるよね:三人が辛いものを食べる競争していて、一人は四川人で、彼は辛いことが恐くないと言い、一人は湖北人で、彼は辛いことを心配していないと言い、一人は湖南人で、彼は辛くないのではと心配して言います。あなたは料理が十分辛くないかもと心配していたのに、今日はどうしてまた四川料理があまりに辛いと言えますか?船酔いしたのではありませんか?

わかりません。

コーラを飲むようにしましょう。

このコーラの味さえも違う。辣味もあるようで、私が米国で飲むものと違います。

コーラのどこに辛い味がありますか?

私は飲みたくありません。ここに空気さえ辛味があって、私は全身すべて気分が悪いと感じています。

船酔い止めの薬を服用しましたか?

船酔い止め薬は、私は持ってきてはいますが、まだ探していません。私はどこに薬を置いたか覚えていないのです。

大丈夫です、私は医務室まで行って、少しあなたに(薬を)あげましょう。

ありがとうございます。

もうすぐ酔い止め薬は来ます。あなたはそれを服用すると、しばらくしたらよくなります。

さっき私は寝ました。船はどこにつきましたか?停船したようですね。外は静かで、少しの音も聞こえない。私は見に行ってみます。

あなたは決して出て行ってはいけません。強い風が吹いています。外は少し涼しいです。何か食べたほうが良いです。

私のめまいが少し良くなりました。でも、まだ食欲がなくて、眠りたいです。

それなら、あなたは再度少し寝ましょう。三峡に着いたらすぐ、きっと伝えにきますから。

 

早く立ち上がって、私達、日の出を見ましょう。

あなたは先に行って。私はコーヒーを飲んでからすぐ行きます。

あなたは、今日は少し良くなりましたか?昨日まだ神女峰に着かないうちに、女神に迷わせられて、めまいがひどく、コーラさえ飲みたくなくなりましたよね。

言わないでください、昨日はめまいがしました。美しい女神がいるだけでなく、さらに私のために朝から晩まで忙しい小燕子がいたので、あなた達が私を迷わせました。

そら来た。(あなたはまたお世辞を言う)。

三峡は実際に美しすぎる!李白の詩を一首、二連句をしっかり覚えました:”両岸の猿声啼いてやまざるに、軽舟已(すで)に過ぐ万重(ばんちょう)の山”。

私ならこう言うね。「ダーウェイはめまい止まらず、遊覧船は万重山をすでに過ぎる。」

小燕子、あなたは、また冗談を言いましたね。私達はいっしょに三峡の景色を鑑賞しましょう。 

三峡に多くの伝説があって、最も人を感動させたのは神女峰の伝説です。

言ってみて。

神女峰は三峡が最も有名で、最も美しい山の峰です。とてもとても昔、西王母は彼女の美しい娘を三峡に来させて、往来の大きい船や小舟の往来ためにガイドをさせました。彼女は毎日毎晩そこに立ったため、それから神女峰になりました。

三峡の景色は中国の山水画の一幅みたいです。船に乗って三峡を遊覧すると、”本当に船は水の中を走り、人は絵の中で遊覧しています”。

何年か過ぎて、再度あなたが三峡を遊覧しにきると、また新しい景色を見られます。それが、つまり世界一のダム、三峡ダムなのです。

 

<閲読> <学良的鼻烟張学良先生の嗅ぎタバコ入れ

嗅ぎタバコ入れは中国の伝統の工芸品で、すでに200年余りの歴史があります。それは特別な絵筆の一種を使うので、透明な嗅ぎタバコ入れの中に絵があります。有名な工芸美術家の描いた嗅ぎ煙草入れは、とても貴重な芸術品です。

張学良先生の一番好きだった趣味は嗅ぎタバコ入れを収集することです。1992年、彼は驚き、珍しい贈り物を受け取りました。

それは一つの嗅ぎタバコ入れです。嗅ぎタバコ入れの中には張学良が若い時、軍服を着ていた肖像画が描いてあります。

張先生はこのような貴重な贈り物を受け取り、とてもうれしくて、それをベッドのそばの小さい机の上で常に鑑賞できるように置きました。彼はこの作品は、きっととても経験がある古い画家の一人の作品だと思っていました。というのは、現在では嗅ぎタバコ入れに絵を書ける人は、ますます少なくなっていたからです。

1998年、中国は米国領ハワイで工芸美術展を催しました。毎日展覧会を見学するための人が多くなりました。その時、張将軍はすでに百歳になっていました。聞くところによると展示物の中に嗅ぎタバコ入れがあって、車椅子に座って見学できるそうです。

張先生が思いもしなかったのは、彼の肖像画を描いた工芸美術家も来たそうです。張先生はまさか、こうなるとは思っていませんでした。

彼は一人若い芸術家に会いました。張先生は親切に若い人の手をしっかりと握って、とてもうれしくて言いました。私が今日ここであなたに会うことができるなんて、本当に縁です!縁! 

この若い芸術家は張先生に言いました。彼がこの作品を完成させました。北京図書館まで行って、多くの本を調べて、張将軍に関するイラストを見ました。張先生と張夫人は非常にうれしく思って、彼らはこの若い芸術家と一緒に写真を撮りました。

写真では、この百歳の老人は私達に向ってほほえんでいます!

 

第35課 <汽我先开着>自動車を私は先に運転します

お母さん、働き始めたら、私はすぐ自動車を買うよ。

何ですって?今まだ仕事を始めてないのに、自動車を買いたい?本当にあなたは、毎日何を考えているのやらわかりません。

これと仕事は関係ありません。

なにが関係ないですか?若い人は自転車に乗って出勤するのが、とても良いことでしょう?体を鍛え、さらにまたお金を節約できますよ。あなたのお父さんの一生、こんな調子だったのよ。どうしてあなたはあなたのお父さんに学ぶことができないのですか?

21世紀になって、まだ自転車に乗って出勤するのですか!自分で運転するのが便利で、私はどこでも行きたいところに行けるに!

それに、(車を)運転すると、少なくとも自転車に乗るのに比べて倍早いし、二分の一の時間を節約することができますよ。知っている?時間は生命で、時は金なのよ。

21世紀でも、生活は辛抱して質素でなければなりませんし、せっせとつつましく暮らさなければなりません。

みんなが辛抱強く、質素だったら、国の自動車生産はどうなりますか? 車を全部そこらへんに並べておくだけですか?経済はどう発展しますか?

自動車を買うのは金持ちが関心を持つ事です。私とあなたのお父さんはどちらもお金がないのに、あなたはいつ(車を買うのに)十分なお金を稼げるの、いつ自動車を買えるの。

ほっといて。私自身で方法を考えます。

もう、どんな方法を考えているのかしら?言っておくけど、私達のあのお金は考えないでね。あれは私とあなたのお父さんの一生のための貯金です。

安心してよ。あなたのお金は一分だって要らないよ。私が考えたのは、私が仕事を見つけた後に、私は銀行にローンを申し込もうと思います。

ローンで車を買うって?あなたは気が狂ったんじゃないの!

お母さん、今はローンで車を買う人がだんだん多くなっているんだよ。

 

ローンは借金ではありませんか?あなたは車を買って借金をするのですか?これがあなたの思った良い方法ですか?

そうよ!

言っとくけど、駄目です!絶対に駄目です!

どうして駄目ですか?

私の人生で、借金したことなど一回だってありません。昔、困難な時、米を買うお金がなくても、借金しませんでした。私の顔に泥を塗らないで。

私は銀行にローンを頼んで、期限内にお金を返して、どうしてこれが恥ずかしいことですか?

あなたはお金を借りて暮らして、それでも恥ずかしくないですか?それに、銀行はどのようにしたら、あなたにお金を貸すのですか?

これは、あなたは理解できないわ。あなたは誰が銀行のお金を利用して誰が借りることができると思っていますか?銀行のお金は、たったの二種類の人に貸します・・・・・・・

どの二種類の人ですか?

一種類は、金持ちです・・・・・・・

何を言いっているの?金持ちでさえ借金するのですか?

そう。もう一種類の人は信用がある人です。

あなたは第一種類の人のつもりではないでしょう?

そう、私は第一種の人ではありません、しかし私は第二種の人です。

あなたは”信用”があるの?あなたの”信用”はどこにありますか?

聞いたでしょう、私は働いてから、安定的な収入があって、これで信用ができます。

私は先に車のローンの十分の一か五分の一を払い、その余りを銀行ローンにします。

自動車を先に運転し、ローンはゆっくり返しています。毎年1020パーセント返して、数年後には、私はお金を返却し、車は私のものです。私は先に金を借りて、また期間内にお金を返して、私の信用はますます高くなります。その頃は、私はまた新車に交換するべきでしょう。私は再び銀行にもっと多くのお金を借りて、もっと良い車を買います。私は金を借りて車を買うだけではなくて、その上、金を借りて家を買い、金を借りて旅行し、金を借りて・・・・・・・

これが信用を高めることですか?私にとっては、あなたの寝言に聞こえます。

あなたは知らないんです。商品経済の時代で、信用はこのように創立します。あなたの言う通りだと、一生金を借りない人は・・・・・・・

私はそんな人が、最も信用がある人だと思っています!

いいえ。そんな人は少しの信用もありません!お母さん、あなたの古い観念は、時代についていっていないわ、少しは変わらなければなりません。あなたは、明日の金を使うことを学び、今日の夢の観念を買う、これが国に対しても、個人に対しても、両方役に立ちます。

あなたがどのようにし、どうしようとも、私は構いません。私を借金してまで生活を楽しむことなんてできません。

 

<閲読> <高薪人族>高給貧乏人族.

生活の中では、いつもこういうことがあるものです。高給をもらえば、もらうほどお金が十分でないと感じ、よく使う金を借りる人がいます。

彼らは毎月多くの金を稼ぐが、使う金額はもっと多いのです。金がある時は、彼らはすぐ乱れ、 どこそこへ行きたい、遊びたい、どこそこへ遊びに行きたい。お金を使い尽くまで、どんな高いものでも買う。

彼らは、おそらくご飯さえ食べられませんでした。日々を過ごすことがとても困難です。高給を稼ぎながら、時には一分銭すらない生活なのです。これは若者たちが”高給貧乏人族”と呼ばれる消費の方式です。

この人たち大部分の人は皆、結婚していません。彼らは個人の楽しみを求めて、自分で金を稼ぎ、自分で使い、他のわずらわしい人は要らないのです。

彼らにとって、金を使うのは一種の快楽です。彼らは自分で一種の消費文化を享受していると思い、新しい一種の消費観念だと思っています。高給貧乏人族の大部分は銀行に預金がなくて、また自分の住宅がなく、20数歳まで、両親と一緒に住んでいて、 毎月両親に、ちょっとした食費だけを支払って、大部分の収入はすべて個人消費に使ってしまう。たとえば服を買い、 レストランへ行き、交際して、酒を飲みにバーに行き、公演を見て、旅行に行きます。これらは”高給貧乏人族”です。 自分ですら、問題意識を感じていません。彼らの考えはこうです;そんなことにわずらさされないで、まずは生活を享受しよう。

彼らの両親は、日々、目先の快楽におぼれて暮らすことができなく、21世紀の生活は苦しみに耐えて質素でなければなりませんでした。日々をつつましく暮らすためにせっせと働かなければなりませんでした。苦しい時、奮闘するのは中華民族の美徳で、いつも忘れることができません。

しかし彼らは、老人の消費の観念が時代についていってない、少しは変わらなければならないと思っています。彼らは明日のお金を使うことは、今日の夢を買うことで、これは国に対して、個人に対して両方益があります。彼らのこのような生活方式は一種の新しい消費の観念でしょうか?

 

第36課 <北京起来了>北京は暖かくなり始めました

小燕子、私は友達の一人が中国に旅行に来ますが、どんな季節に来るのが比較的に良いか私に聞いてきています。中国はこんなにも広い国だから、気候はきっと、とても複雑だよね?

まったくだよね。熱帯から寒帯まで、中国はいろいろなタイプの気候がほとんどある国です。

北京の気候はどんな特徴がありますか?

1年に春、夏、秋、冬の四つの季節があります。季節がはっきりしています。

しかし私には、ここは冬だけあるように思えて、春がないようにも思えます。

北京には春がありますよ。まあ、ここの春はとても短くて、冬はとても長いというべきでしょうね。

三月では家の中の暖房はまだ止まっていません。今はもう四月になって、気温はやっと11度、私はまたダウンジャケットを着ています。

そうですか!11月から2年目の4月まで、北京の天気はとても寒くて、時折大風が吹き、ある時は雪まで降ります。

三月、四月には南方ではいろいろな花が咲きますが、北京はまた比較的に寒くて、時には、人々は冬の服を、まだ身につけていなければなりません。

まったくです。見て、私がどんなに多く着こんでいるか、歩くことすらできません。

しかし、北京が一旦、五月になると、暖かい天気になり始めます。女性はスカートをはき始め、夏日になります。

私はとても北京の夏が好きです。当然、北京の旅行に最も適しているのは秋です。

はい、秋は北京で最も良い季節で、とても涼しい天気で、風も吹かず、雨も降りません。

寒くもなく、熱くもなく、とても心地良いです。あなたの友達は秋に来ることがくできますか?

私は彼に来てほしいと思っていますが、でも彼に聞いてみなければなりません。

秋以外だと、別の季節にも中国に来て、旅行ができます。それぞれの地方の特徴が異なるため、1年中、四季をとおして、旅行するのに良いルートがあります。

たとえば、春には江南山水を鑑賞することができますし、秋には、内モンゴル草原を旅行できますし、夏には東北に行って、冬には海南島に着くことができます。ここに、いくつか旅行紹介があります、彼に郵送してはどうです。

とってもいい考えだね!私は一度帰って彼に電話をかけて、秋に来るようにさせます。たとえ秋に来ることができなくとも、大丈夫です、もっと多くの別の選択がありますから。

そうね、いつ来ても、いつ来ることができたとしても、どこかに行けるし、どこか行けるところがあります。

 

小雲、あなたはどんな本を読んでいますか?

《唐詩選》、以前は、私は近代的な詩を見るのが比較的に多かったですが、今は、私は古詩も好きになり、特に唐詩が好きです。

唐の詩は中国の文学史の上で、とても重要ですよね?

はい、李白と、杜甫のような詩人は、中国の最も偉大な詩人の二人です。

彼らはシェークスピアと同じくらい有名ですよね?

間違いなくそうです。彼らは皆、世界の有名な詩人です。しかし、彼らはシェークスピアの年齢に比べるともっと年をとっています。

シェークスピアは4百年余り前の人です。

もし李白は生きているならば、13百数歳のはずでした。

シェークスピアに比べて、そんなに年上なのですね!中国の文学の歴史は本当に古いです。これらの古詩は、私達は現在では、恐らくもう読めません。

私は小さい時のことを覚えていて、私のお母さんは私に李白の詩の一首を教えた事があります。

どの一首の詩?あなたは暗誦することができますか?

やってみましょう。(床前 月光を看る、疑うらくは是れ地上の霜かと、頭を挙げて明月を望み、頭を低れて故郷を思う。<静夜思>)

あなた、唐の詩をよく覚えていて、とても習熟していますね!

ありがとう。この詩以外の別の詩は、私は暗誦できません。

あなたはお母さんを恋しく思っているのではありませんか?

はい、昨日私はお母さんの手紙を受け取りました。手紙はとても長くて、全部で3ページありました。

杜甫は”家からの手紙は万金に値する”と言ったことがあります”。”本”は”信”の意味です。家から来る手紙はとても貴重です。

”家からの手紙は万金に値します”,なんて良いことを言うのだろう! 私は帰って、お母さんに一通の長い手紙を書かなければ、言いたい話がいっぱいあるのよ。

恐らく5ページ書いても十分じゃないよ?(もっと書いたほうが良いよ)

 

<閲読> <僧敲月下月下に僧が門をたたく

賈島は唐代有名な詩人です。伝説では、彼はいつもロバに乗って詩を作ります。ある日、彼はロバの上に乗って月夜の景色を描写した詩を一首書きたいと思いました。彼はすでに2つ句を考え出しました:鳥の宿は池のそばの木、僧は月の下で門を敲(たた)きます。

これは、二篇は良い詩で、よく月夜の景色を良く描き出しています:水辺には大きい木が一本あって、月光は木の上で照らし、木の上では、小鳥がすでに静かに眠りました;1人の和尚が寺の門前に来て、手で軽く寺院の表門をたたきます。

賈島はこの二編の詩を口ずさみながら、前に向かって歩いていきます。心中はとてもうれしい。しかし彼は、夜がそんなにも静かなら、この和尚は門を”たたく”べきではなく、手で門を”押す”ほうが比較的に良いと思いました。彼はまた何度か口ずさみ、”押す”に比べて”敲く”ほうが良いと思いました。彼はロバの上に乗り、道を見ずに、ただ手で門を”押す”のか”敲く”のかだけを考えていました。

彼のロバはすでに山のふもとから小道をのぼり大きな道にたどりつきました。この時、韓愈の坐っている輿がちょうどここにさしかかりました。賈島のロバと韓愈の輿はぶつかりました。韓愈は、しかし高位の官僚です、彼の人馬を守るための人が、急ぎ歩いてきて、賈島をロバの上から引きずり降ろして、彼に何をしていたのか質問しました。賈島はまだ何が起きたのかを知らなくて、輿の前に連れてこられました。

彼は輿の中に坐っている高位の官僚を見て、すぐに言いました。:”本当に申し訳ない、さっき私は、自分の詩の中にでてくる1つの字を考えていて、あなたが見えずに、あなたとぶつかってしまいました。” 韓愈も詩人の一人で、詩を作ることに大変興味があります。詩を書いていると聞いて、彼はすぐに輿から降りると、笑って賈島に聞きました。”どんな詩ですか?読んでみてください、私は聞きましょう。”賈島は自分の詩を読み、韓愈に聞かせます。彼はさらに韓愈に、”僧が月下で門扉を敲く”のが良いか、”僧が月下で門扉を押す”のが良いか聞きました。

韓愈でさえ、思いつかず、言うには、”敲く”は”押す”より良い。ただ、誰も人がいなく、月夜に音さえしない状態で、扉を何度か敲く音がするのは、人をもっと安心させると思いませんか?

それ以来、”推敲”は新しい言葉の一つになって、”研究、思考”の意味を表します。賈島と韓愈もとても良い友達になりました。

 

第37課 <来埋誰が支払う

小雲、力波、宋華、あなた達みんなは今晩、時間がありますか?私達、外へ夕飯を食べに行きましょう。

良いね、私達皆行こうよ、人は多ければ多いほどにぎやかになります。どの飲食店に行きますか?

どのレストランでもO.Kです。

そう、学校の食堂の料理でなければ、私は何でも食べたいです。行きましょう。

ダーウェイ、あなた、また来たいでしょう。

今日の料理の味はとてもおいしかった。私は食べすぎました。実際、もう食べられません。

みんなはよく食べましたね、服務員、勘定をお願いします。

はい、これが計算書です。

私が払います。

ありがとうございます、これは2百元ですね、少し待って下さい。

どうしたの?私が誘ってあなた達に晩ご飯をごちそうしたのに、あなた達はどうして勘定を争って支払おうとするのですか?

あなた達は私の動きよりも速かったわ!

誰が支払ったって同じでしょう。

今日は私がみんなを招いたので、私が支払うべきです。

あなたは次回に払うようにしましょう。

私にはどうしてそうなるのかわかりません。どうしてあなた達は誰でも支払う必要があるのですか?それなら、割り勘にしましょうよ。

駄目です。今回は私が払います。次回は割り勘にしましょう。

小雲、どうして?私が誘って、あなたが支払う、ジョークにならないわよ?

私のジョークを聞いて、私はあなた達にジョークをひとつ言いましょう。

ある人が言うには、多くの人が球場の上でラグビーボールを奪い取ろうとしているのを見たなら、それはたぶんアメリカ人です。多くの人がレストランで一枚の紙を取ろうとしているなら、それは中国人です。

どうして中国人はこのようなことが好きなのですか?

私達は、友達が一緒にいる時、普通は他の人に面倒をかけたくないことを望みます。できるだけ自分が多めに出したいと望みます。

もちろん、ある人は自分がたぶん気前が良いと思っています。だから、もし何人かの中国人が一緒にレストランで食事をするならば、誰のおごりか、事前にはっきりしていません。最後は、みんなで勘定を支払おうと奪いあうことになります。

あなた達は見てごらん、反対側にいる人たちは、誰が支払うべきか、私達よりさらににぎやかです。

 

あなた達はヒツジの肉を食べることが好きですか?

好きです。先週の土曜、私達クラスの同級生は陳先生と一緒に内モンゴル草原へ旅行に行き、あぶった羊をまるまる食べました。

あぶった羊をまるまるですか?あなた達、何人の人で食べることができたのですか?

食べることができました。クラスの同級生は、林娜以外みんな行きました。陳先生を含んで、全部で16人でした。

私達はモンゴル族の習慣に従って食べました。みんなが座ると、まず、モンゴル族の二人の女の子があぶった羊を担いできます。

さらに、二人の娘のうち、一人は杯を挙げて、ひとつは酒壷を持って、ゆっくり私達に向って歩いてきます。

彼らは私達のテーブルの前に立って、モンゴル族の民謡を歌い始めます。

おもしろいね、続けて。

この時、ホテルのマネージャーはみんなに向って歓迎の意を表わします。

彼はこう言います:”各国の友達が、私達の内モンゴル草原に旅行に来たことを歓迎します。今晩、皆さんはモンゴル族の習慣によって炙った羊をまるまる食べてもらいます。まず、私達の四人の娘が、あなた達にて酒をさしあげます。

あなた達の中で年齢が一番上の人が、もっとも尊敬する人として最初の酒を飲んでもらい、炙ったヒツジの肉を一塊食べていただきます。”

誰が最初の一杯の酒を飲みますか?

もちろん陳先生で、彼女は私達より年齢が年上です。

4人の娘はモンゴル族の民謡を歌い、陳先生に向って酒をすすめます。それから、陳先生に最初のヒツジ肉を食べてもらいます。

陳先生がヒツジの肉を食べた後に、4人の娘はまた引き続き歌い続けます。私達、皆に酒をすすめて、炙った羊肉をさしあげます。

私達も一緒に歌い始めます。みんなは歌えば歌うほどうれしくなって、今晩は大変楽しく過ごします。

あなた達は内モンゴルの炙った羊を食べたことがあるのなら、来週の土曜日、みんなに新疆の代表的な炙った羊肉をごちそうします。

 

<閲読> <竹子的孩子>竹の子供

巧雲は上海でアルバイトしています。彼女は外国人の家で阿姨として働いています。彼女はある程度英語が話せます。

彼女の主人は中国語が一言も話せません。ある日、巧雲は細切りの肉とタケノコを炒めて、おいしく(料理を)つくりました。

主人は竹の子を指さして、英語で何と言うか巧雲に聞きます:"これはとてもおいしいけど、何ですか?" 巧雲は英語で"竹の子"を指す言葉をどのように言うか、うまく言えません?彼女は、心中、早く焦って言おうと思い言いました。 "すみません、先生、私もそれが何と言うのか知りません。"

”これはあなたが作った料理で、店に行って買ったものでしょう。どうしてそれなのに知らないの?" 主人は少し不機嫌に言いました。

巧雲は、"私は英語で何と言うのか知らないのです”と笑って言いました。ちょっとまってください。私、辞書でちょっと調べます。

彼女は辞書で調べ終わり、"竹笋"が竹の子供であると伝えました。主人は、竹の子を食べるなんてあまり良いことではないと言いました。「私たちは環境を保護して、環境を緑化すべきなのに、どうして竹の子を食べることができますか?」と言います。

巧雲は主人に、竹の子がたくさん生えるので、あまり伸びそうもない筍がでてくるのだと教えたいと思いました。きっと、あまり伸びそうもない竹の子を掘り出しているのだと。しかし、巧雲は英語でまだこの問題をはっきりと説明することができません.

中国語で話しても、主人はまだ理解できません。彼女は本当にどうすればよいのかわかりません。突然、彼女は家族計画の一言を思いだしました。

嬉しくて、主人に英語で言いました。「竹の子も育児計画が必要で、特に健康な出産、十分な手当てで、才能ある竹の子に成長できます。」

主人は聞いて、すぐに分かり、大いに笑いました。また巧雲を称賛して言うには、彼女の説明は先生よりもっと明白で、とてもおもしろいと言いました。

 

第38課 <你听,他叫我”太太”>

聞いて、彼は私を”奥さん”と呼びました

ダーウェイ、小燕、あなた達に良いニュースがあるよ、私、結婚しました!玉蘭は、私に嫁いでくれました!

ちょっとまって、あなたは結婚したの?いったいあなた達いつ結婚したの?私達二人、知りようがなかったじゃないの?

私は、結婚は、自分でやれると思っていました。それに、私達の結婚は、旅行結婚式と呼ばれるものです。

あなた達に知らせるためちょっと帰って来たのです、遅かったでしょうか?

君たちの新婚が楽しく、生活が幸福であることをお祝いします。

ありがとうございます!

あなたは、私達にうまく行ったかどうか知らせるだけのために、さらに・・・・・

そうです。私達はとっくに政府へ登録し終わり、結婚証明書をももらいました。

私の言ったのはそんな意味ではありません。

どんな意味ですか?

私の言っているのは、あなたはお客をもてなさなければなりません。

当然です。これは私達の婚礼の飴です、どうぞ、飴を食べて下さい。

婚礼の飴を、私達は受け取りますが、これはまだもてなしたとは言えない。

ジャック、中国人の習慣に従い、結婚は婚礼を行うことが必要です。壁に、門の上に、二つの赤い喜の字を貼り、新婦は飾りつけた輿に座り、さらに宴席を用意し、多くの客を招待する。婚礼はとてもにぎやかになります。

婚礼を行う必要があることは、わかります。私達、西洋人は、普通は教会で、婚礼をします。宴会のことですが、私達は親戚や友達だけを招待して、一緒に酒を飲み、歌を歌い、ダンスをして、楽しみます。特別な金持ちを除いて、普通は宴会をもうけません。

私の従姉の家は農村にあって、結婚の宴会はただ酒を飲むことです。

さらに何かまだありますか?

義理のお父さんと、義理のお母さんがあなたに(そのことを)教えるまで、待ってなさい。

 

ジャック、私の家に着いたら、私の両親に会って、お父さん、お母さんと呼ぶのよ。覚えましたか?

覚えました。あなた、言うのは簡単だけど、私はどうやって話し始めるたら良いのですか?

どのように話し始めるかって?あなたは私のように言えばいいのよ。

はい、しっかり覚えました。

パパ、ママ、私達は帰って来ました。最近私達はとても忙しかったけど、今やっと時間あなた達に会える時間ができました。

ええ、帰って来て良かったです。私とお母さんはあなた達に結婚披露宴の席をもうけようと相談しています。

パパ、ママ、私達は結婚してもう数ヶ月たちました。結婚のための宴会は、やらなくていいわ。さらに・・・・・

何があっても、私達はやらなければなりません。これはあなた達がいる北京市内のことではなくて、農村のことなのです。

先生、あなたは私達の話をゆっくり聞いて・・・・・

何だって?”先生”?あなたは私を”先生”と呼びますか”!

ジャック、私はあれほどあなたに私のように言えと言って、あなたはしっかり覚えると言ったのに、どうしてまた忘れましたか?”お父さん”、”お父さん”と呼ぶはずだったでしょう!お父さん、ジャックはまだ慣れません。私たち二人の結婚の事で話すなら、今は、新しいやり方に従うべきです。どうしてそんなにまだ古い頭をしていますか?

何が古い頭ですか?これは私達の決まりです。

奥さん、あなたは怒ってはいけません・・・・・

玉蘭のお父さん、聞いた、彼は私を”奥さん”と言いましたよ!

あなたは”お母さん”と呼ばなければなりません”。お母さん、彼はまだ私達の決まりを知りません。

それをいうなら、彼は私達の決まりを知りません。あなたは一人で中国にやってきて、どうしたいのか、どうするのか、あなた達の村の中の人は誰も分かりませんよ。

お母さん、あなたの言っていることは分かりません。彼は農村に住んでいません、彼の家はシドニーにあります。

あ、”市内”ね。あなた達は知っている?結婚は一生の大事です!どうして結婚が重要でないと言えるの!親戚や友達や隣近所の人に食事をふるまわないと、あなたの胡同の人たちはあなたを批判しませんか?

私達の住んでいるそこを”胡同”と言わないでください。私が住んでいるあの一つのビルの中だって、私を批判する人はいません。あなたにはこのように話しましょう。私達は(近所の人が)誰が誰かも知らないのです(お互いに知らない)。

しかし、私は村の中の人に私や、私の娘を悪く言わせたくない。

私はこう決めましょう:私達はレストランへ行ってコックの二人に、10何卓かの宴会を催してもらいます。親戚や友達を除いて、村の人に来てもらって、みんなに楽しくお酒を飲んでもらいましょう。

そうですね。このこと(宴席)は私達だけでやりましょう。きっとにぎやかにできます。

みんなに、私達の家に外国からの婿がいることを知らしめることができます。

 

<閲読> <奇特的双喜字>赤い喜の字を二つ並べた珍しい字

中国人が婚礼を行う時、常に赤い紙に大きく”喜喜”と書いた字を用いる。門の上に貼って、祝賀を表します。

言い伝えによると、この二つの喜の赤い字は、最も早い時で、宋の文学者、王安石が書いたものにでてくる。王安石は京城の試験を受けに行く途中の道で、門に一つのとても大きな走馬灯を掛けてあるのに出会います。上は一組の対聯の上の句を書いています:”走馬灯、灯が馬を走らせ、灯は馬が停まると消える。”対聯の下の句を出せる人を望む。王安石は読み終わってすぐ言った:”この上の句はすばらしい!”

走馬灯のそばに立って忙しい老人が彼に対して言った:”先生、中にお入りください!”王安石は答える: ”申しわけありません、私は京城に行き試験をうけるにため、今時間がありません。戻って来るまで待っていただければ、私はきっとあなたに対聯の下の句を出しましょう。”

試験を受け終わって、王安石は自分の試験が、悪くはなかったと思い、とてもうれしい心理になりました。帰って来ている途中の道で、彼は一枚の旗が見えました。旗には一頭のトラが書かれていて、風に翻っています。飛虎の旗で走馬灯に対すれば、うまくいくのではないかと考えました。

彼は歩きながら、声に出してみました:走馬灯、灯が馬を走らせ、灯は馬が停まると消える。飛虎の旗、旗は飛虎、旗が巻かれると虎は身を隠す。

やがて、王安石は、またあの家の門前に来ました。あちらの老人は彼が来るのを見ると、とても喜んで歩み言いました: ”先生、来ていただけたのですね、お入りください、お入りください!”

王安石は老人に対して言いました:”中へ入る必要はありません、私はすでに対句が出来ました。私の下の句です。“飛虎の旗、旗は飛虎、旗が巻かれると虎は身を隠す”

とても良い、とても良い!対句を出せる人がたよ!”その老人は、大声でしゃべりながら、家の中に駆け込み、若い娘に告げました。若い娘はそれを聞いて、少し笑いました。

老人はまた家から出てきて、王安石に尋ねました。:”先生、あなたは結婚していますか?”

”まだです。”王安石は言います。

この時、老人は王安石に対してようやく、言いました:”上の句は私達の家の娘がだした句です。もし、その人が結婚していない若者ならば、私どもの娘をその人にあげます。あなたの下の句はとても良くできています。

娘はとても楽しそうでした。今、あなたが願いさえすれば、あなたはすぐに私どもの義理の息子となります。”

この娘さんは、きっと多くの本を読んだことがあるにちがいない、そう思った王安石はすぐに彼女と結婚することに決めました。

王安石が婚礼を催すその日に、彼は、合格者のリストを受け取りました。二件の祝い事が一緒に到来して、 彼はとても喜びました。すぐ、一枚の赤い紙、珍しい”喜喜”の二字を書いた文字を、門の上に貼りました。

それからというもの、人々は結婚の時、門の上に一枚の深紅の二つの喜の字を並べた字を貼ることが習慣になりました。

 

北京レポート(74)中国語語学学校<3>新实用汉语课本2テキスト和訳

このブログは、新実用漢語課本2の本文を和訳したものである

 

<まえがき>

現在、私が通っていた中国北京にある語学学校では、この新実用漢語課本を2~5まで使っていた。ただ、教師によっては、異なる教材を使っている方もいたので、教師によっては使わない方もいるかもしれない。この本は、北京語言大学出版社から出版されたものだが、よくまとまっており、内容や文法がよくまとめてあり、中国語を学ぶ者にとっては、比較的、使いやすい良質の教材だと思う。

 

どうして新実用漢語課本1からではなく、2から始まるのだと不思議に思う方もいるかもしれない。中国語を学ぶ初心者向けのテキストはたくさんあり、新実用漢語課本1でなければならない必要はないからだろう。語学学校では新実用漢語課本1は使用していない、他の入門テキストを使用している。おそらく他のテキストの方がイラストをふんだんに使ってあり、入門者に好評だからだろう。内容は、ほとんどが声調やピーインに関する者なので、どの本も大して違いはない。

 

ただ、あえてこのテキストである新実用漢語課本の欠点を言わせてもらえれば、会話文で女性を小姐と呼ぶ箇所は、多少なりとも古さを感ずる点もあった。現在では、女性を小姐と呼ぶ習慣は消えている。テキストの内容が2003年前後のものなので、それ以外でも、かなりの話題の古さがあるのは、しかたがない。それと、第一版では、印刷ミスや怪しげな英訳もあったが、二版以降では一部修正されているテキストもあった。一番、困ったことは、付属のCDを買ったのだが、4~5枚セットのうち、必ずそのうちの一枚の一課の部分がコンピュータにダウンロードできないことがあった。機械的なものなのか、CDの不具合なのかどうかは、よくわからなかった。

 

さて、今回、私がブログを通じて、和訳を試みたのは、テキストが外国人向けとして出版されたものではあるが、単語や重要文の英訳をそのまま読んでも意味がとれない箇所が多かったためである。中国語をそのまま読んでも、100パーセント意味がつかめる箇所と、先生から説明を聞くまで、テキストの意味がまったくわからなかった箇所もかなりの数にのぼった。それは、おそらく中国語の漢字を英訳しても、そのニュアンスが伝わりにくいという点からきているのだろう。

新実用漢語課本を使って中国語を学んでいる方に、何らかの手助けができればと思い、拙訳をのせてみた。もっと自然な和訳も可能だとは思うのだが、あまりに意訳してしまうと、本文とかけ離れてしまい、おそらく勉強にはならないかもしれないと思い、できるだけ、中国文に沿った訳分を心がけた。そのため、和訳が多少なりとも不自然な訳になっているのは、ご容赦。それと、対話文なのだから、話者の名前を左に述べるべきだが、コピー&ぺーストの関係上、省略せざるをえなかった。本当ならテキストに載っている中国語文ものせるべきなのだろうが、それでは出版社に迷惑がかかる恐れがあるので、和訳だけをのせることにした。この訳が、中国語を学んでいる方になんらかの手助けができれば、これほど嬉しいことはない。

 

{新実用漢語課本2 和訳}

第15課 <她去上海了>彼女は上海に行きました

力波、あなた本当に早くから来ていたのね。

さっきまで、銀行に人は少なく、並ぶ必要はなかったんだよ。林娜、今日とてもきれいなのを着ていますね。

そう?私は銀行で換金し、午後は王府井に行って買い物をしなければなりません。

今日は1英ポンドでどれだけの人民元になりますか?

1英ポンドは115毛7分の人民元と交換できます。

明日、私は上海に旅行して、人民元を使わなければなりません。

えっ?明日あなたは上海に行くの?あなたはちょうど西安から北京に帰ったばかりでしょう、本当に旅行好きですね!西安にいたとき、楽しく遊ぶことができましたか?

とても楽しくすごしたよ。

食べるものはどうでしたか?

食べるのは、まあまあです。今回住んだところはあまり良くありませんでした。

兵馬俑を見学しましたか?

兵馬俑を見学しました。さらにたくさんのはがきを買いました。私のところによって、見にきてください。

ええ。私も西安に旅行したい。私に少し紹介してください。見て、あなたの番よ。

小姐、私は英ポンドで人民元に交換したいのです。ここに5百英ポンドあります。

そうですか、あなたに5785元の人民元をあげます。数えてみて下さい。

2

林娜、おはよう!お久しぶり,あなたはイギリスに帰ったのですか?

私はイギリスには帰っていません。私は上海に行きました。昨日ちょうど北京に戻りました。

さっき宋華が来て、林娜はどこに行ったのかと私に聞きましたよ?

私は宋華に手紙を書いたはずだけど、彼は今どこにいるか、あなた知っていますか?

彼は寮に帰りました。上海はどうでしたか?聞いたところによると、ここ二年で上海はとても早く発展しているそうですが、どうですか?

はい、上海はとても大きくて、とてもきれいです。そこには、銀行はたくさんあり、商業施設も多くて、私ははとても上海が好きです。

上海の物価は高いですか?

物価はあまり高くありません。上海人は服を作るのがとてもうまくて、私は多くの服を買いました。

上海人は上海語を言うのが好きだそうですが、彼らの標準語(北京語)はどうですか?

彼らは標準語も大変うまく話し、若い人は英語を流暢に話します。

あなたは上海語を学びませんでしたか?

学びました。私は"アラーがわかるはずがない"と言えます。

あなたは何と言いましたか?私はわかりませんでした。

私が言ったのは、上海語で"私はわかりません"です。

 

<閲読><张教授去上海張教授、上海に行く

張教授は北京言語学院で仕事をしています。彼はとても旅行が好きです。彼がちょうどイギリスから北京に帰ったとき、上海にある学院の一つが彼に授業を持つように提案しました。今週金曜日に彼は上海に行きました。張教授はそこの学生にイギリス文学の授業を行いました。彼の授業はとても良かったので、学生は皆とても彼の授業が好きになりました。

上海は大都市の一つで、ここ二年間はとても速く発展しています。上海のマーケットはたくさんあります、マーケットの品物は、とても良いものです。上海人は衣服を作ることでとても有名です。張教授はたくさん有名な場所を見学しました。

彼は多くの服を買い、また多くのはがきを買いました。彼の息子は上海で働いています。中国銀行の従業員です。土曜日に息子は彼を食事に誘い、そのレストランは、上海料理はとてもおいしい物でした。あまり高くありません。張教授は上海で楽しく遊びました。食べものはとても良くて、住むのもまあまあ良く、一週間過ぎるのが本当で早いです。

張教授は西安語が話せて、上海語も少し話せます。しかし彼の上海語はあまり良くありません。彼は言います:”現在では上海人は普通語が話せ、若い人は普通語も英語も両方流暢に話します。上海で私が上海語を話す必要はありません。”

 

第16課 <我把事儿忘了>私はこの事を忘れました。

これは北京図書館です。私達は、中へ入ってみましょう。

この図書館は本当に大きいなあ。

事務室は三階にあります。私達は上へ上がって、先に図書貸出証を作りましょう。

今日、本を借りることができますか?

できますよ。すぐに下りてきて本を借りられます。。。。。

三階に着きました。見て、ここが事務室です。

先生、私は図書貸出証を作りたいのですが。

あなたは写真を持って来ましたか?

持ってきました。

先に用紙の一枚に書き込んで下さい。

力波、あなたはそこから一枚用紙を持ってきて。どのように記入するのかを教えましょう。

私は漢字を書く速度がとても遅いので、あなたはが記入しては?

駄目です。現在、あなたは中国で生活していますから、自分で記入するべきです。

いいでしょう、自分で書きます。”姓名”?

”丁力波” 

”性別”は何を書きますか?

自分でわかるでしょう。

自~分~でわかるっと?ああ、性別は”男性”と書くべきなんだ。”職業”は?

”学生”と書きます。終わったら、この紙と写真を渡して、少し経つと、あの人があなたに図書貸出証をくれるでしょう。

2

私達は図書貸出証を作るのにどれくらいの時間がかかりましたか?

作るのに15分でした、作るのは本当に早いです。

今日は証を作ろうとする人は多くありません。力波、聞くところによるとあなた達は先週試験しましたよね、あなたの試験はどうでしたか?

口語の試験は悪くはなかったです。しかし訳の試験はあまり良くありませんでした。文法も問題が多かった。私は新しい中国語のテキストを借りたいと思っています。

今、私達はすぐ行って本を借りましょう。私は先に前回の本を返さなければなりません。

ここの本はどれくらいの時間借りることができますか?

1ヶ月間借りることができます。

先生、私は本を返します。

はい。。。。。あなたの本は期限が過ぎています。罰金を払わなければなりません。

本当に申し訳ない。今月はあまりに忙しくて、私はこの事を忘れていました。罰金はいくらですか?

一冊の本の期限が切れると一日2角の罰金です。あなたは4冊の本を借りて、10日を過ぎていますので、8元支払わなければなりません。

8元払います。ちょっとお聞きしますが、中国語の教科書はありますどこか?

そこにコンピュータがあるでしょう。まず先に調べてください。

外国人が学ぶための中国語の新しい教科書がありますか? 

あります。《新実用的中国語テキスト》を探しなさい。

 

<閲読><广的茶楼>広東の茶屋.

広東の老人の一日の多くは、茶屋から始まります。彼ら皆、起きるのがとても早い。5時半には散歩のために出てきます。体を鍛えて、6時には茶屋に着きます。そこには老人がたくさんいて、彼らは知り合い同士挨拶して、友達と昨日の事をしゃべります。王先生は毎日新聞を持ちより、彼は自分で新聞を見ることが好きです。お茶をすこし飲んで、娘と小さい孫娘が来るのを待ちます。彼がしばらく待つと、二人の娘はそろって来ました。この時、家族である、父、母、祖母、おばあさん、さらに子供達とたくさんいて、彼ら皆やってきました。一家はいっしょに食事をして、お茶を飲んで、休みます。子供達は食べたくないし、飲みたくもない、彼らはいっしょに遊ぶほうが好きです。

本当ににぎやかです!多くの若い人も皆ここで新聞を読みます。彼らは今日の新しいことや新しい問題を知ろうとします。広東人が常に言うことは:彼らはお茶を飲みにきて、飲むとの茶屋の中のにぎやかになり、飲むと一家で一緒に食事をするのが楽しみとなる。お茶を飲み、ものを食べて、新聞を見て、若い人は働きに出かける。老人達の新しい一日が同じように始まります。

 

17課 <件旗袍比那件漂亮>

このチャイナ・ドレスはあれよりきれいです

小雲、どこで中国式服を売っていますか?

あなた知らないのですか?あなた北京に来てどれくらいの時間がたちましたか?

私は北京に来て半年です。しかしあなたは北京に住んで、すでに20年にもなります。あなたは北京人ですし、もちろん私に比べてあなたが良く知っていることが多いのが当然です。

あなたの言うとおりです。現在の北京の商店とマーケットの数は多すぎます。大きいマーケットのものは小さな店のものより値段が高い。しかし、小さな店のものが大きいマーケットに比べて差があるとは限りません。あなたはどうして今中国式の服を買いたいですか?

来週から、私は太極拳を学んで、私は中国式の服を一着着なければなりません。

それは素晴らしい!あなたが中国式の服を着るときっととても格好良いです。あなたはどんな色が好きですか、黒い色ですか、それとも赤い色ですか?

私は白い色が好きです。

私も白い色が好きで、白は美しいです。あなたは良いのを買いたいですか、それとも安いのが買いたいですか?

私はそんなに高いものは要りませんし、あまりに安いのも要りません。あなたは(私に)どこに行って買うべきだと教えてください?

王府井に行ったらどうでしょう。そこでは種類も多く、たぶん少し高いです。

少し高くても、大丈夫です。私達は午後にすぐに行きましょう。私はまた公園で歩きたいと思います。

2

二時間も経ったのに、あなたは、欲しい服をまだ買っていないの。

私がまだ買っていないと言っているのは誰ですって?私はすでにワイシャツを買いました。

チャイナ・ドレスも必要ですか?

さっき見たチャイナ・ドレスはどれも悪くないわ、本当に両方買おうと思っています。

私達は時間がまだあるし、もう一度多くの服を見ることができます。この緑のはどう?

これはすごくきれいですね。色、デザインともさっき見たチャイナ・ドレスより良いです。

あなた、試着してみましょう。

良いですね。私はこれが少し大きいと思いますが、どうですか?

あなたに、より小さいのと交換しましょう。これは38号です。あれに比べて2号小さいです。あなたはこれを持ってもう一度試着してみましょう。

このほうがさっきよりぴったりあうわ、宋華、あなたにはどうみえますか?

私にはこれはとても短すぎると感じます。

そうですね。あなたは私より背が高いです。もう少し長いのを着なければならないので、もう一度探してみます。ありました。この赤いのはさっきの緑に比べて長さが2センチメートル長いです。また、これを試してみましょう。

小姐、あまりに面倒をかけて、本当に申し訳ないです。これはとてもぴったりです。

この赤いチャイナ・ドレスはあの緑に比べてきれいです。

しかしずいぶん値段が高くなりました。

さっきの服と比べてどれくらい高いですか?

90元高いです。

絹でできているので、当然少し高くなります。

いいでしょう、私はこれを買います。宋華、今度は、あなたは自分の物を買うべきですね。.あなたは何号のサイズを着ますか?あのスーツを試着してみませんか?

 

<閲読><高一点儿(相声)>ちょっと高い(漫才).

王先生、聞いたところによると、あなたも漫才を書くことを始めたのですか?

私はちょっとしか書いていません。今年は五つのとても短い漫才を書いただけです。あなたは?

私は仕事がとても忙しくてね、同じように少ししか書いていません。今年は十五のあまり短くない漫才を書きました。

私より10個多いです!これは本当にすごい。

どういたしまして。あなた漫才を書いて、問題があったら、私に聞きに来なさい。あなたは、また1冊の本を訳しましたね、そうですか?

そのとおりです。本はとても薄くて、2百ページです。

私もとても薄い本を一冊訳しました。

何ページですか?

5百ページです。

私に比べて3百ページにも多いね!あなたは本当にすごい。

どういたしまして。あなたが翻訳に問題があったら、私に聞きにきてください。あなたのワイシャツはどんな生地ですか?

布のです。

私の着ているワイシャツはシルクです。

あなたの(服)は私の(服)に比べて、ずっと良いですね。

どういたしまして。あなたは、今年はいくつになりますか?

私は今年30になります、あなたは?

私は今年の31になります。

あなたは私に比べて、一歳年上になります。

どういたしまして。あなたは背がどれだけ高いですか?

172センチメートル、あなたは?

私は今173センチメートルあります、あなたより私のほうが少し高いです。

はい、あなたはいつも私より少し高いです。

どういたしまして。あなたの時計では何時になりますか?

9時です。

私の(時計)は、今10時になります。

あなたの時計は私達の時計に比べて、一時間も早いです。

どういたしまして。-え?

 

18課 <我听懂了,可是记错了>

私は聞いてわかりました、しかし間違って覚えました

小姐、私はこの小包を郵送したいのです。

いいですよ。私に見せてください。

これらはみんな新しい本です。この4冊は中国語の本で、あの2冊は英文の本です。この大きい辞書は古いです。。。。

はい、包んで下さい。

すみません。これはちょうど学んだばかりの文だったので、練習してみたかったのです。

あなたは中国語を流暢に話しますよ。どこに郵送しますか?

米国です。

航空便ですか、それとも船便ですか?

航空便は船便より高いですが、しかし船便よりはとても早いです。航空便で郵送してください。

郵便料金は106元です。ここにあなたの名前を書いて下さい。

小姐、私はもう一つ小包を受け取らなければなりません。

通知書を私に下さい。申し訳ありませんが、あなたの小包は私達の郵便局にはありません。

受け取るには、あなたは税関に行って受け取らなければなりません。

ちょっとお聞きしますが、税関はどこにありますか?

建国門にあります。あなたは旅券を持って行くことを忘れてはいけません。

ありがとうございます。

どういたしまして。

2

、あなたがする事は、今、税関に行くべきです。ここからどうやって税関に行きますか?

税関の場所は。。。。。なんだっけ、何門っていいました?

見て、ここに803路線のバスがあって、前門を通るよ。

そうだね、前門のようだね。車(バス)が来たので、私達はまず乗りましょう。

みんなさん、奥の方へ歩いてもらえませんか。次の駅は前門です。下車する乗客は自分の持ち物を持ってください。さっき乗車した方は、切符を買ってください。

小姐、ちょっとお聞きしますが税関は前門にありますか?

税関は建国門にあります。前門にはありません。

私達は間違った車に乗ってしまいました。

大丈夫ですよ。あなたは前門で下車して、そこから地下鉄に乗り換えて建国門に着くことができます。

乗り間違ってなかったんだ。大変すばらしい。前門まで二枚買います。

一枚が一元。これは五元なので、おつりは三元です。切符を取ってください。

、あなたは昨日、郵便局の従業員があなたに言ったのに、あなたはわからなかったのですか?

私はわかっていましたよ。しか覚え間違いをしました。

私はちょっと調べなければなりません:あなたは旅券を持ってきましたか?

もちろん持ってきました。安心してください!

小包の通知書は?

困った。私は通知書を忘れました。

 

<閲読> <明的爸爸和儿子>賢いお父さんと息子.

1。手紙を出す.

お父さんは二通の手紙を書きました。一通の手紙の封筒は大きくて、もう一通の手紙の封筒は小さい。彼は息子に郵便局に行って郵送させました。しばらくして、息子は家に帰りました。お父さんは聞きました:”あなたは手紙を出しましたか?”息子は言いました:”出しましたよ。お父さん、あなたは切手を間違って貼っていました.西安へ郵送する手紙は小さいサイズで、あなたは5元の切手を貼りましたね;カナダへ郵送する手紙へ大きいサイズで、あなたは8角の切手を貼りましたね。”お父さんは息子に聞きました。:”あなたは切手を貼り替えましたか?”息子は言いました。:”切手は既に貼ってあるので、私は切手を貼り替えできませんでした。私は中の手紙を交換しました。

2。私を郵送して

お父さんは音楽のCDを一枚買ってきて、言いました。:”このCDをおばあさんにあげて、彼女は音楽を聞くことが好きだから。”彼は切手を貼り付けて、CDを包みます。息子と一緒に郵便局まで行き、CDを郵送しました。2週間を過ぎて、おばあさんから手紙がついて、彼女の言うことには:”来月私の孫を上海まで遊びにくさせなさい、私は彼にとても会いたいと思っています.”お父さんはしばらくして、こう言いました:”来月は私とお母さんは二人共とても忙しいんだが、誰にあなたを送らせようか?”息子は言いました:”大丈夫ですよ、お父さん、あなたは私の身体に切手を貼り付けて、私を送ればいいんです!”

3。お父さんは私を手伝わなかった

息子は毎日の練習問題をしますがみんな間違いでした。しかし昨日の練習問題はすべて正解でした。先生はとてもうれしくて、彼に聞きました:”毎日やっている練習問題は良くないのに、どうして昨日は良くできたのかね?昨日、あなたのお父さんがきっと助けたからですね。”息子は言いました。:”いいえ、先生、私のお父さんは昨夜家に戻りませんでした。だから、私は自分でするべきだと思ったのです。”

 

第19課 <中国画跟油画不一中国画と油絵は異なります

私達来るが早すぎたわ、美術館はまだドアを開けていません。

早く来ることは、遅く来るより良いことだよ。今日私はかならず午前中かけて見学します。

あなたは本当に中国画が好きですね!

はい、私は徐悲鴻の描く馬が大変好きです。

あなたと同じように、私もとても中国画が好きです。私が10歳の頃から、お母さんは私に中国画を教えました。あててみて、私は中国画を何年くらい描いてきたと思いますか?

えーと、すでに11年描いています!あなたが既に経験を積んだ画家だったなんて知りませんでした。

とんでもない。 私の父と母は同じく中国画が好きですが、父は自分で絵は描けません。

私の父は多くの趣味があって、中国京劇を歌うことが好きです。

今は家にいて、いまでもいつも京劇を歌っています。

彼の歌はどんなですか?

彼が京劇を歌うのは、私が中国画を描くのと同じで、まあまあです。

私は中国画を一枚買いたいです。大画家の描いた絵はきっととても高いですよね?

徐悲鴻の描いた馬はもちろん極端に高いです。ひとりうまい画家を知っています。彼が描く馬は高くありません。

その画家は誰ですか?

丁力波です!私は馬をうまく描いてあなたに送りましょう。

2

私達はもう一時間半も絵を見ましたが、二階はまだ見ていません。

それでは、今、エレベーターに乗って上へ行きませんか。

そうですね。 力波、あなたは中国画と油絵では同じだと思いますか違うと思いますか?

もちろん同じです、みんな絵ですから.

冗談はやめてください。

冗談は言っていませんよ。私は中国の絵も油絵も同じように美しいと言いたいのです。

どこが異なるか言ってみてくださいませんか?

あなたは聞くべき正しい人に聞いているよ。教えましょう。中国画と油絵は使う材料が違

います。

どのように違いますか?

中国画は紙の用紙を使い、油絵はいつも布を使います;中国画は主に墨と水を使って絵を描き、油絵は必ず、油彩色を使います。

そうですね、ほかに何かまだありますか?

油絵は空白がなくて、中国画はいつも空白があります。この徐悲鴻の絵を見てください

画家はただ一頭の馬だけを描いて、他を描いていません。

しかし私達は別のものが他にあるように感じます。ちょっと想像させてください。あの馬が私達に向かって走ってきました。その馬は走るのがとても速く、風を感じるほどです。

その通りです。これはまさに齊白石の絵のエビと同じです。それらの海老は前後に泳いでいます。本当にかわいいです!

見てみなさい、画家は水を描いていますか?

描いていませんが、私は水があると感じます。

中国画は油絵と大変異なると思いませんか?

説明(紹介)をありがとう。しかし私は、”画家(力波のこと)”の描いた馬がどんな絵かぜひ見てみたいわ。

 

<閲読><管孩子是不管孩子>

子供はかまうべき、それともかまわないべき

私の娘は今年14歳です、私達が話をしても、聞く耳をもたないようになって、いつも私とお母さんを怒らせます。私達は彼女に絵を習わせています。日曜日にはいつも私は休めません、彼女と一緒にバスに乗り先生の家まで行きます。しかしちょうど二ヶ月学んだころ、彼女は絵をかくのが簡単ではないと言って、彼女は学びたくなくなりました。

私たちは彼女にピアノを学ばせて、ピアノをも買ってきました。ちょうど一ヶ月学んだ現在、彼女はピアノを習うのも絵を学ぶのと同じで面白くないと言います。私達はどのようにしたらよいのかわかりません?他の子供も私の娘と同じなのでしょうか?

昨日私は本屋まで行きました。どのように子供を教育するかという本を一冊探したかったのです。店員は私に三冊の本を探し出しました:”一冊は「子供はかまうな」、もう一冊は、「子供を管理することなんてできない」最後の一冊は「子供はかまうべきか、かまわないべきか」。私は三冊とも本を買ってきて、三冊とも読み終わりました。しかし、三冊は、一冊一冊の観点が異なります。

私は、いつも思っています。どのように子供を教育すべきかについては、大人の観点と子供は異なるし、外国人の観点と中国人は異なりますし、子供どうしでも異なります。大人は子供にピアノを学ばせますが、しかしこの子供にとっては、たぶん、ピアノを聞くと頭が痛いことでしょう;大人は子供に絵を学ばせたいと思いますが、しかし子供は京劇を歌うことのほうが好きです。

聞くところによると外国の子供は授業が終わってから自分の好きな事をするそうです。中国の子供は夜11時ですら、まだ練習問題をします。私の友達の子供は、お父さんとお母さんの管理はいらないそうです。しかし、私の娘は…

子供をかまうべきか、それともかまわないべきか、本当にこれは大問題です!

 

第20課 <新年>新年をすごす

昼ごろに私達はみんなで火鍋をたべるため宋華の家に行きます。彼のお父さん、お母さんは私達に彼らと一緒に新年を過ごしてもらいたいのです。

北京で新年を過ごすのはきっととても興味ぶかいことでしょう。小雲、どうして北京では飲食店の多くが火鍋をだすのですか?現在の天気は寒いので、だから、北京人は常に火鍋を食べるのですか?

そうではありません。北京人は実に火鍋を食べるのが好きなのです。主に羊肉のしゃぶしゃぶです。天気が熱い時ですら食べます。北京の羊肉のしゃぶしゃぶは北京ダックと同じように有名です。

新年を過ごす時、北京人はみんな羊肉のしゃぶしゃぶを食べるのですか?

そうとは限りません。

北京人がどのように新年を過ごすか言ってみてください。

西洋人と同じです。多くの人は旅行に行きます。たぶん郊外へ運転して遊びに行き、ある人は体を鍛えに行きます。

夜は、いつも何をしますか?

夜に京劇を見て、コンサートを聞きに行き、あるいは友達とパーティをします。ところで、林娜、急いで。あなたは化粧に三十分もかかりました。私達は急がねばなりません。

すぐ化粧が終わるわよ。今晩私達はまだコンサートを聞かなければなりません、だからちょっとよそ行きにしなければなりません。

知っていますか?今晩中国の民族音楽を聞きますが、それは西洋音楽とは、とても異なります。

私は知っています。中国の民族音楽は民族楽器の演奏を使うのが主な中国音楽です。中国に来るちょっと前は、私は民族音楽を聞くことにあまり慣れませんでした、しかし私は今とてもよく聞きます。

あなたは、春江花月夜は好きですか?

春江花月夜は実に美しい(曲)です。

私はすでにこの曲のCDを買いました。今日またいくつか買って、私の友達に送ります.私達はどうやって宋華の家に行きますか?タクシーに乗りますかそれともバスに乗りますか?

今日、道路は車できっとたくさんです。タクシーはバスにくらべてより速いので、タクシーで行きましょう。

私達はまだ贈り物を買っていません。花を送るのは西洋人の習慣で、私達はパーティに参加するため、食べたり、飲んだりするものを持って行くこともできます。中国人が友達の家に行く時、何を送りますか?

いつもは食べたり飲んだりするものか使うものを持っていったことがあるが、今の若い人は西洋人と同じで、花を送るときも、普通にあります。

私達は花をいくらか買って、食べるものもまた持っていきましょう。

そうですね。カメラを持って行くことを忘れてはいけません。

私のカメラはどこかしら?

電話の側にあります。

と力波は、どうして私達に電話をくれないのかしら?

私は大が行くことができるかどうか知りません。というのは、彼が女友達と一緒に旅行に行くためです。

力波はきっと行きます。彼はここから出発すると言いました。

彼をちょっと待ちましょう。

はい。私達は陸雨平も呼びましょう。彼に一篇のエッセイを書かせて、中国では、どのように新年を過ごすのか留学生に紹介しましょう。

小雲、林娜、新年おめでとう!おめでとうございます!

おめでとうございます!力波はどこ?

力波は昨夜に列車に乗って南方に行きました。

あなたは、また遅く来ましたね。

もうしわけない。(あなたがた)女性二人は急いでいるようですね。タクシーはすでに来ていますよ。

あなたはタクシーを呼んでくれたのね。とてもうれしいわ。すぐ行きましょう。

あなたは宋華にどんな贈り物をもってきたの?

今年は「うま」年なので、私はまた一頭の馬を描きました。見て、描いたのはどう?

 

<閲読> <画蛇添足>蛇足

ある日、友達が何人か集まって一緒に酒を飲みことにしました。人は多く、しかし酒は少ない、一瓶だけです。この酒を誰にあげるべきでしょうか?一人の若者が言います:”私達は一人一人、皆が一匹の蛇を描いて、最も速く描けた人が、この瓶の酒を飲んで良いことにしませんか?”みんなは言いました:”それは良い考えだ。”

彼らは蛇を描き始めました。その若い人は他の人に比べて描くのが速くて、彼は大喜びでこう言いました:”あなた達は描くのが遅すぎます!私はあなた達に比べて描くのがとても速かった!ごらん、私は、今まだ時間がるので、再度、蛇に足をつけることさえ、できるんだ。”彼はすぐ、蛇の足を描くことを始めました。

しばらくして、彼のそばの一人が言いました:”私は描き終えたぞ。この酒は俺にくれるべきものだ。”若い人がそれを聞いて、焦ってこう言いました。:”いいえ!あなたは私より描くのが遅かったでしょ、私はとっくに描き終わりました。見てみなさい、私は蛇に足すら増やしたほどですよ。この酒瓶は私のです。”そばにいたその人は言いました:”皆さんは蛇に足がないことを知っています。あなたは足を描いたのだから、貴方の描いたのは蛇ではありません。最も早く蛇を描き終えたのが私で、あなたではありません。みんなは言いました:”彼は言うのが正しい。私達はこの酒を彼にあげるべきです。一人、余分な事をしてしまったことを、”蛇足を加える”と言うようになりました。

 

第21課 <我队员是从不同国家来的>

私達のメンバーは異なる国から来ました

聞くところによると、先週、あなた達留学生チームはサッカーの試合で勝ったそうですね。私は一編の文章を書きたいので、留学生サッカーチームの事をちょっと紹介してください。

それは良いですね。あなたはどのようにして知りましたか?

私はあなたの同級生から聞きました。私が記者であることを忘れないで、私は今日来たのは、あなたたちに質問を聞きにきたのです。あなた達の留学生チームは誰と試合したのですか?

私達のチームは中国大学生チームと試合したのです。

あなた達はどこで試合したのですか?

私達の学校で試合したのです。

中国大学生チームのレベルはあなた達のレベルに比べてより高いですか?

彼らのレベルは私達のよりかなり高かったです。

宋華の言うには、大学生チームのコーチはナショナル・チームから来ました。

彼はいつナショナル・チームから下りてきたのですか?

彼は去年ナショナル・チームから下りてきました。このコーチが来た後に、大学生チームのレベルはとても早く改善されました。

大学生チームの10番選手はキックがとても良いです。左側の5番、右側の12番の二人とも走るのがとても速いです。

あなた達の留学生チームはどうですか?

私達のメンバーは異なる国家から来ているので、私達はいつも練習しているわけではありません。

あなた達はどのようにして勝ちましたか?

前半00で終わりました。彼らは後半、私達がゴールを決めるのに助けてくれ、10で終わって勝ちました。

2

あなた達にまだお聞きします。あなた達は大に会うために、彼の借りている家に行きましたか?家はどこにありますか?

行きました。家は学校の東にあって、学校まであまり遠くありません。そこは花園小区と言って、大8号棟に住んでいます。

あなた達はどうやって行きましたか?

私達はバスに乗って行きました。バス停は小区のすぐ前にあります。下車して後は、先で

右に曲がり、前に向かって3分歩き、すぐ8号棟につきます。

そこはどのようですか?

いいところです。8号棟の下の方は小さな花園が一つあり、左側に店が一つあって、店のそばは本屋です.右側は銀行と郵便局です.の家は8号棟の9階にあって、その上はさらに6階がまだあります。

家は大きくないんでしょう?

あの家は全部で56平方メートルあります。

門を入った後に、左側は洗面所で、右側は客間です。

キッチンはどこにありますか?

キッチンは客間の北で、寝室は客間の東にあります。寝室の外には大きいベランダがひとつあります。

記者さん、あなたはたくさんの質問をしました。あなたは大の借りている部屋までも文章に書くのですか?

質問をするのは記者の職業上の習慣です。

 

<閲読> <南方的花园>南方の花園

中国人はいつもこう言います:”上に天国があれば、下に蘇杭あり。”意味は:蘇州と杭州、この二つの都市は天国と同じくらい美しい。それらの二都市はどちらも中国の南方にあります。中国の南方の”花園”です。それらの美しさはどこにあるのでしょう?---杭州の山水と蘇州庭園です。蘇州庭園はとても有名です。それらの庭園のいくつかは、昔、何人かの金持ちが人に建造してもらった庭園です。庭園の中には山があり、水があり,花があります,本当にとても一枚の美しい山水画のようです。中国庭園と西洋の庭園とは、とても異なります。中国庭園はあたかも一枚の中国画のようですし、水墨画のようでもあります;西洋の庭園は油絵のようで、彩色を用いた絵画のようです。中国のための庭園はいつも画家や詩人が設計したようであり、西洋の庭園はいつも建築士が設計したようです。だからそれらの美しさはとても異なります。

 

第22課 <你看没有>

あなたは越劇を見たことがありますか?

林娜、あなたは越劇を見たことがありましたか?

ありません。中国に来てから、コンサートを二度聞きに行き、京劇を一度見ただけです。

私は南方に行ったことがありますが、しかし越劇を見たことがありません。昨日の新聞では、南方の越劇の一団は北京へ来ると書いてありました。

はい、越劇は中国の有名な地方劇です。この劇団は上海から来ました。

今長安大劇場で《紅楼夢》を上映しています。

《紅楼夢》を上映していますか?とてもすばらしい!私は《紅楼夢》が中国の有名な古典の小説であることを知っています。私は一度読んだことがあります。英文の翻訳でしたが。

あなたはこの小説をどう感じましたか?

私は小説の中の愛の話が人を大変感動させると思います。

あなたは越劇の《紅楼夢》をもう一度見たいですか?私は切符を二枚もっています。

もちろん見たいです。いつの切符ですか?

明日の夜715分のです。座席は良い場所です、階下の5列の8番と10番。

私は長安大劇場に行ったことがありません。この劇場はどこにありますか?

私は行ったことがあります。長安大劇場は建国門から遠くなくて、建国門のすぐ西側です。

私達はいっしょにタクシーに乗っていきましょう。

ええ、明日会いましょう。

2

あなたは、越劇《紅楼夢》はどう感じましたか?

私はこれまでこんなに人を感動させる劇を見たことがありません。二人の主役はとても上手に演じていました。

越劇の音楽がとても優美だと感じました、越劇のスタイルは京劇ととても異なります。

あなたの言うとおりだね。あなたはたぶんまだ知らないだろうけど、かなり以前は、京劇では、女優がいなくて、すべて男優が女性を演じました。越劇と京劇は異なって、以前は男優がいなくて、女優が男性の役を演じさせました。だから越劇のスタイルと京劇はとても異なります。

中国の地方劇の種類がたくさんあると聞いています、地方にはそれぞれあるのでしょうか?

はい、地方劇ごとにそれぞれのスタイルがあって、それぞれの地方の人は自分の地方劇を見る習慣があります。しかし京劇は全中国のもので、京劇が好きな人はとても多いです。

中国京劇団は二年前にイギリスまで訪問したことがあります。私はお父さんとお母さんと一緒に一度見たことがあります。彼ら二人とも京劇がとても美しいと思いました。

多くの外国の友達も皆、中国京劇が好きで、外国人留学生の何人かは京劇を学びに北京まで来るのですよ。今ではある人は京劇を歌うことさえできます。ある人は京劇を演ずることすらできます。

私は友達が一人いて、イギリスの留学生ですが、彼は京劇をすぐに演ずることができます。

私はこれまで外国人留学生が越劇を歌ったのを聞いたことがありません。あなたは越劇の音楽がこんなに好きなら、越劇をちょっと学ぶべきです。

私は越劇の音楽が好きですが、しかし越劇を歌うのは難しすぎます。

あなたは喉がとても良いです。あなたはまずたくさん聞けば、歌うことが学べるでしょう。

 

<閲読> <《楼梦》里的情故事>《紅楼夢》の中の愛情物語

中国の古典小説《紅楼夢》の中でひとつの優美だと思うことは、悲しい愛情の物語です。物語の中に出てくる主役の男性は賈宝玉と言って、金持ちの家に生まれました。彼はとてもハンサムで、またとても賢い人でした。物語の中の女主人公はとても美しい一人の女の子で、林黛玉と言います、彼女は南方から来て、賈の家で生活するようになりました。彼女は賈宝玉より一歳若く、多くの本を見たり、詩を書くことも得意で、さらに絵を描いたものでした。彼らは毎日一緒に食事をし、本を読み、一緒に詩を書き、絵を描きました。賈宝玉は林黛玉をとても愛しています、林黛玉も賈宝玉が大好きです。しかし賈宝玉のおばあさん、お父さん、お母さんの皆は彼らが愛し合うことを望んでいません。彼らは決心して彼と別の女の子を結婚させます。賈宝玉は望んでいません。彼が病気にかかった時、おばあさんは彼女をだまして、彼と別の女と結婚させました。賈宝玉が結婚した時、林黛玉は自分の寝室で、彼女が賈宝玉に書いてあげた詩をすべて燃やして、彼が彼女にプレゼントした贈り物も燃やしました。彼女は一日中泣いて、死にました。林黛玉が死んだ後に、賈宝玉は彼女の家へ何度も行きました。毎回とても悲しみました。彼は、彼女と共に毎回出会ったことを思い出し、彼女と楽しく過ごしたことを思い出します。彼は結婚した女と一緒に生活することを願いませんでした。彼は家を離れました。

 

第23課 <我爬上城了>私達は長城に登りました

休暇に入りますが、あなたの同級生はどんな計画をしていますか?

ある同級生は旅行に行き、ある同級生は家に帰ります.

小雲、あなたはどう?

私はまず泰山に行って、それから、家に戻ってお父さんとお母さんに会うつもりです。林娜、あなたは泰山に行ったことがありましたか?

泰山に私は一度行ったことがあります。今回は海南島に旅行したいです。

あなたと宋華は一諸に行くのですか?

はい、海南島旅行に行くのは、彼が提案したのです。

あなた達は飛行機に乗って行きますか、それとも列車に乗って行きますか?

飛行機に乗っていきます。航空券はもう買いました。力波はどう?泰山に行くのですか?

行きます。彼は下から山の上に登って行って、再び山頂から歩いて下に下ると言っています。彼は、先に泰山を登って、また孔子が教えを説いた場所を見学すると、言いました。

それでは、大はどこに行きたいですか?

小燕子は大も海南島に行くことをすすめています。彼女が言うには、現在そこの天気は良く、気温も適しています。泳ぐこともできて、更に優美な景色を見ることができます。今北京は冬ですが、海南島では夏の生活を過ごすことすらできます。なんて楽しいのでしょう!

小燕子はガイドのお姉さんと呼べるほど、旅行の事を彼女はよく知っているので、彼女に聞いたほうがいいです。大も私達と一緒に行くことができます。

は休暇前には、私達は一緒に長城に行ったらと提案していました。陳先生、あなたは私達と一緒に行くことができますか?

行けますよ。私はあなた達と一緒に一度長城を登りたいと願っています。

2

陳先生、林娜、頑張って!早く、早く来て!

力波、大は?

彼らはすでに登って行きました。私達ももうすぐ山頂に着きます。

焦ってはいけません。私は少し疲れました。林娜も疲れて、私達は座って少し休みましょう。まず、水を飲んで再び上へ登りましょう。

ここの景色はこんなにも美しいです!長城は一匹の龍のようです。見て、下はすべて山々で、列車は山のふもとから出てきました。私は写真をたくさん撮影して家へ送ろうと思います。

あなたはここに来たことがありましたか?

来たことがあります。秋に来たのです。その時の長城の景色は今と、とても違います。

そうですか。今は冬で、今日はさらに曇り空で、雪も降りそうです。

長城の上で雪が見られる、なんて美しいの。

今日ここの気温は零下10度です。しかしあなた達は知っていますか?広州は今日、ゼロより上の20度です.

中国は本当に大きい。北の方まだこんなに寒い冬ですが、春は南の方にはすでに来ています。あなた達、見て、力波は何故歩いて下りてきたのかしら。

やあ、あなた達は何故まだ上がってこないのですか?なにか助けが必要ですか?

(助けは)要りません。あなた、走ってこなくも、私たち自分自身で登れます。陳先生、あなたは十分に休みましたか?

十分に休みました。小雲、私が立ち上がるのに手をかして。。。。

ああ!私達は長城に登ったのね!

 

<閲読><大黑熊跟你什么了>

大きなツキノワグマはあなたに何を言いましたか

かなり昔のことです。二人の若者がいました。一人は王貴と言う名で、もう一人は張才でした。王貴は張才より年上でした。

彼らは、いつも一緒に遊んでいたため、とても仲の良い友達でした。人は王貴と張才の二人は本当に兄と弟のようだといいました。

ある日、彼らは山に遊びに行きました。山に登った後で、彼らは二人とも、少し疲れたので、座って休みました。この時に彼らは一頭の大きいツキノワグマが歩いてきて出会ってしまいました。彼らは二人ともとても恐くなりました。

そばに大きい木が一本あったので、王貴は急いで登りました。張才は木登りすることはできないので、大変あせりました。

しかし、彼はおばあさんが言った、熊は死人を食べないということを聞いたことがあります。彼はすぐ死んだふりをしました。大きなツキノワグマは張才のそばでうろつき歩きました。彼が動かないことを見ると、熊は、これはきっと死人にちがいないと思って、歩き去りました。王貴は大きいツキノワグマが遠くに去ったのを見ると、木の上から下りてきました。張才も立ちあがりました。

王貴はとてもきまりが悪そうに、張才に聞きました:”さっきの大きいツキノワグマはあなたに何を言いましたか?”

張才はあまり楽しくなさそうに、言いました。:”大きいツキノワグマはさっき私にこう言いました:”若者よ、あなたに教えてあげよう、危険の時こそ、誰があなたの本当の友達であるかを知ることができるのだよ!”

 

第24課 <你舅也开始用电脑了>

あなたの叔母もコンピュータを使い始めました

小雲、列車はもう到着しますか?

上海から北京行きのT23番(列車)は840分到着、今8時半、もうすぐ着きます。

あなたの叔父は農民ですか?

はい。彼はずうと上海郊外の農民で、現在は野菜会社の社長になりました。

彼は北京に来たことがありますか?

彼は二度来たことがありますが、いつも私がいない時でした。前回、彼が来た時、私は南方に旅行していました。

見て、あの人が方向を聞いているよ。私達は行って見ましょう、あれはあなたの叔父ではありませんか。

そのようです。私は10年前に彼に会ったことがあります。ここ10年の変化はとても大きいです。彼は私がわからないだけではなくて、その上、私もたぶん彼がわかりません。

そのとおりです。その時あなたはまだ小さな子供で、現在は年ごろの娘になった。

はい、私の叔父も年をとりました。あの人は地図を見ていませんか?

彼は地図を見ていません、写真を見ているようです。彼は私達に向って歩いてきますよ。

彼はとても私の叔父に似ています。間違いない、私の叔父です。叔父さん、こんにちは!

小雲!10年ぶりで会うね。あなたはもう大学生か。あなたは今年で何学年生かな?

大学3学年だよ。

男友達がいますか?

叔父さん、これは私の同級生の丁力波です。彼はカナダの留学生です。

こんにちは、旅行大変だったでしょう。もうすぐ雨が降ります、車に乗って下さい!

2

叔母さんはどうですか?どうして来なかったのですか?彼女はあなたと一緒に北京に来ると言ったことがあります。

あなたの叔母は温室の野菜を育てています。彼女は今とても忙しくて、今度は来られませんでした。

今、あなた達は、野菜を育てると収入はどのような感じですか?

私達は温室の野菜を育てて、収入は以前よりはずっと多くなりました。

家の中の生活はどのようですか?

生活は悪くないよ。二年前に私達は二階建ての小さい建物を建てて、去年また1台自動車を買いました。今私達は他の都市に行くにはとても便利になりました。

あなたの生活水準は都会の人に比べてより高いです。

私達の村は食べたり、着たり、住む面で、都会とは差はありません。問題は農民の文化(知識・教養)水準が都会の人に比べてかなり低いことです。

現在、農民に文化が無いなんてことは本当にありえません。(農民の文化は改善しています。)

あなたのいうとおりです。農民でさえ皆新技術を学びます。温室の野菜はコンピュータの管理を使っています。あなたの叔母でさえもコンピュータを使い始めました。

今年私はきっとあなた達に会いに行かなくてはね。

 

<閲読> <士兵和将兵士と将軍

ある冬の夜、とても寒い天気で、風はとても強いだけではなくて、その上、大雪でした。道の上には、もう人っこ一人いません。しかし一人の兵士が、外で見張りに立っています。午後から今まで彼はまだ何ひとつ食べていません。彼は着ているものも薄着で、腕と足の両方とも震え凍りそうです。

ちょうどこの頃、あまり離れていない客間の中で、将軍は酒を飲んでいました。テーブルにはたくさんの食べるものがあり、飲むものがあります。兵士はさらに彼のために火をおこしたので、客間の中はとても暖かでした。将軍は酒をたくさん飲みました。

とても熱かったので、少し気分が悪くなりました。おもしろくない彼はこう言いました。:”「もう12月にもなって、寒くなるはずなのに、まだこんなにも暑いなんて、天気は本当にどうかしている!」

外の見張りに立っていた兵士はこの話を耳にして、大声で言いました:「将軍、あなたのそこの天気は正常ではありませんが、私がいるここの天気はとても正常です。あなたは正常な天気が好きなら、私達は場所を変えませんか、あなたは外へ出て立ってみてください。」

 

第25課 <司机开着送我到医院>

運転手は車を運転して私達を病院まで贈った

宋華、あなたは私達をちょっと助けに来られるかしら?

あなた達どうかしましたか?今あなたはどこにいますか?

林娜はぶつけられて怪我をして、第三病院で検査をします。

彼女はどこを怪我しましたか?怪我は重傷ですか?

まだ検査は終わっていません。あなたいくらかお金をもってきて。

わかった。待っていて、私はすぐ(病院に)来ます。

(第三病院で)

林娜、どうしました?怪我は重いですかどうですか?

怪我はそれほど重くありません。私の腕はぶつけられ怪我をして、右足も少し痛いです。

あなたはどのようにしてぶつけられて怪我をしたのですか?

どう説明したら良いのか?午後私と小雲は映画を見終わって、自転車に乗って大学に帰りました。私達は話をし、笑って、右に曲がった時、不注意で、衝突して車の上に乗りあげました。その車は道のそばに駐車していて、運転手は車から物を取り出そうとしていた。

あなた達はどのようにして病院に着くことが出来たのですか?

その運転手は、私がぶつかって怪我したのを見て、すぐに車を運転して私達を病院に送りました。

その運転手は本当に悪くないね。(親切だね)

私達の持っていたお金は多くありません。医薬費はすべて彼が私達のために支払いました。彼は私に名刺を一枚くれました。

本当にその運転手にお礼を言うべきです。明日私はお金を持って返しに行きます。さっきまで、私はあなたが自動車にひかれたと思ってしまいました。

幸運にも、自動車にぶつかったのは私だったのよ。もし私が自動車にぶつけられたならば、大変まずいことになっていたでしょう。

2

、林娜の寮のドアは開いています、彼女は横たわってテレビを見ています。

陸雨平、大、どうぞ入って来て。

林娜、あなたはどうですか?少し良くなりましたか?

ずっと良くなりました。こんなに忙しいのに、さらに花を持って私を見舞にきて、あなた達ありがとう。

この花は本当にきれいですね、机の上に置きますね。

検査の結果はどうでしたか?

医者は大きい問題はないと言っています、私をベッドで横たわり休むように勧めました。大あなたテレビを切ってくれる。私達はちょっとの間話をしましょう。

現在、腕はまだ痛いですか?

痛くありません。しかし腕をこのように曲げると、字を書くのに大変不便です。先週私は漢字のテストが良くなかった。さらに、今腕をぶつけて怪我をして、本当に運が悪いです!ここ2日間はすべて悪いニュースばかりです。

焦ってはいけません、私は良いニュースがあります。

どんな良いニュースですか?

先週の土曜日の夜、私の自転車は泥棒に盗まれました。

自転車は盗まれたの、これはどんな良いニュースですか?

聞いて、あなたがここに来る前に、派出所は私に電話をかけてきて、私にちょっと(派出所に)行くようにとのことでした。

あなたは派出所へ何をしに行くの?

泥棒が捕まって、私のなくした自転車も探し当てることができました。今派出所にあります。あなた、これが良いニュースでないわけがないでしょう。

良いニュースですね。

本当にあなた、祝うべきです!

 

<閲読> 大力的故事>張大力の物語

昨日は張大力の娘の誕生日でした。彼が娘にあげた贈り物はとてもきれいな一個のネックレスでした。彼は娘が越劇を見ることが好きなのを知っていましたので、夜に演ずる越劇の切符も二枚買いました。

彼らはレストランで食事をした後で、劇を見に行きました。家に帰ろうとした時、もうかなり遅くなりました。天気も悪く雪も降り始めて、道を行く人の数は少なくなりました。彼らが自転車に乗って右に曲がる時、一人の人が横から出てきて、彼らに聞きました。:”“ちょっとお聞きしますが、ここらへんに派出所がありますか?”

大力は彼に教えました:”ありません。派出所はここからとても遠いです”その人はまた聞きます:”今どこかでパトロール・カーを一台呼ぶことができますか?”大力は答えます:”110番に電話をかけることができます。””あなたは携帯電話がありますか?”その人はまた聞きます。 強力に言いました:”持っていません。”

張大力は、あの人はどうして彼にこれらの質問をしたのか今考えています。その人は、突然、刀を取り出して、大力に対して言いました:”申し訳ないが、あなた達のネックレスとお金をすべて俺にくれ!”

張大力は笑って言いました:”あなたは質問を一つ聞くことを忘れたでしょう。教えてあげましょう。ここは派出所がないけれども、1人の古い警官がいるよ。彼は九十八人のあなたに似たような人を捕まえたことがあって、すぐに九十九人目を捕まえようとしているよ。”

”古い警官はどこにいる?”その人は聞きました。

”ここにいるよ!私がそうだよ!”

その人はとても驚かされて、手に握っていた刀を地上に落としました。彼は張大力に連れられて派出所に行きました。

 

第26課 <你快要成”中国通”了>

あなたはもう”中国通”になりました

林娜、あなたは中国ですでに一年経ったのですね?あなたは中国語をただ学ぶだけではなく、さらに多くの中国の友達を知りました。中国の情況も少なからず知っているし、あなたはもうすぐ”中国通”ですね。

とんでもありません。”中国通”は私にはふさわしくありません。まだまだです。正直に言うと、私はますます中国の文化が好きになりました。中国の南から北まで、東から西まで、どこの都市も独自の特徴があります。

歴史博物館は”2002-中国”の展覧会を催しています、そこに多くの写真があって、あるものは私達が見たことがあるし、ある物は私達が見たことのないものです。あなたがこんなにも中国の文化に興味を持っているのであれば、私はあなたにぜひ見るように提案します。

すてき!私はきっと行きます。今日私達はひとつのコースが終わったのを祝うパーティがあります。力波と彼らはもうすぐ来るので、あなた、このニュースを彼らに伝えて、私は彼らもきっととても興味を持つと思います。

はい。林娜、あなたはまた覚えていますか?ずぅと前にあなたはこう言ったことがあります。もしあなたが毎日中国料理を食べさせられるならば、あなたは餓死してしまいます。しかし、今やあなたは中国料理を食べることが好きなだけではなく、その上また中国料理を作ることすら学びました.

なるほどね、いまでは、もし一日でも中国料理を食べなかったら、私は少し気分が良くないと感じるかもしれません。

(丁力波、馬大が寮に入って来る)

あなた達は何を雑談していますか?どこで中国料理を食べるのですか?私も行きます。

私達は、あなたたち外国人がこのように”中国通”になったという事実について話をしています。力波はもちろん言うまでもなくそのひとりです。

私のお母さんが中国人なため、私はすぐに中国化しました。林娜はチャイナ・ドレスを着るのが好きで、よく中国料理を食べて、また越劇を見ることも好きです。中国の民族音楽を聞きかなり中国化したようです。

私が北京に来てから後にやっと中国化し始めたのでしょう。

私はこれが簡単だなあと思うことは、ある留学生のように、中国の女の子を探して妻にすることです。

あなたはハンサムな中国の若者を探して夫にして、毎日一緒に生活すれば、中国化することができます。

冗談をやめてください(無責任すぎます)。本当言うと、私は今中国語の文法があまり難しいと感じません、しかし漢字は難しいです。

声調も容易ではありませんし、私はいつも間違って言ってしまいます。

あなた達は中国でやっと一年学びました、中国語のレベルがこんなに改善するのがとても速いです。主にあなた達はとても努力して学んでいるからでしょう。

ここの先生は教えるのがとてもまじめで、友達は私達に対してとてもあたたかく親切で、いつも私達が中国語を学ぶのに助けてくれて、だから私達の進歩がとても速いのです。

一年という学習時間は短すぎます。私はもう中国人の言うことは有る程度わかるようになりましたが、しかし自分で中国語を話すには、まだあまり上手に話せません。来年も私は中国に学びに来なければならない。

林娜、先生と同級生皆は私達を今、待っているよ。私達は行かなくては。

そうです、来年はふたたび”中国化”をめざしましょう!

宋華、明日あなたは私を”2002-中国”の展覧会を見に連れて行って、良いですか?

良いですよ、明日会いましょう!

会うまで行ってしまっちゃだめよ。(必ずそこで待っていてね)

 

<閲読> <说话艺术話をすることも芸術.

話をすることも一種の芸術です。私は一人の友達がいるが、彼は話をすることができない。

ある日、彼はレストランで客を招待しました。彼は全部で四人の客を招いて、三人が来ました。もう一人はまだ来ていません。彼はいらいらして少し待っていましたが、こう言いました。:”ああ、来るべき人が来ませんでした。”

客の一人はそれを聞いて、嬉しくありません。彼はこう思っています:”来るべき人が来なかったって。私は来るべき人ではなかったのか?”

彼はレストランを出て行き、従業員に対してこう言いました:”もし彼らが私を探すならば、あなたは彼らに私を待つ必要はないと伝えて。”しばらくして、従業員は歩いて中に入って聞きます:”先生、あなたの頼んだ料理はすべて準備できました。今持ってきますか?”

”忙がないで、私達は人を待っています。”私の友達は尋ねました。:”さっき出て行ったあの先生はどうしてまだ帰って来ないのですか?”従業員は言いました:”彼はすでに歩き去りました。”私の友達はとても焦って、言いました:”歩き去るべきでない人が歩き去った!”この時に、そこで待っている二人の客がいました。一人は大変不機嫌になりこう言いました。:”歩き去るべきでない人が歩き去ったということは、歩き去るべき人がまだ歩き去っていない。いいでしょう、私は歩き去るべきだ。今歩き去ろう。

彼は立ちあがると、ひと言も話さずにすぐにレストランから離れて行きました。

一人の客だけがそこにいました。私の友達はまた自分に問いています:”彼らはどうして皆歩き去ったのだろうか?”この客人は言いました。:”あなたはさっき来るべき人が来なかった、歩き去るべきでない人が去っていったと言いました。彼らは自分こそが、ここにいるべきではないと思って、だから彼らは皆歩き去ったのです。以後、あなたは話すときは注意したほうが良い。”

”これ以後、私はきっと注意します。”私の友達は言いました。”しかし私の言ったのは彼らを言ったのではありません!””何か?それでは、あなたが言ったのは私のことですか?!”この客も歩き去りました。

 

2013年12月20日 (金)

北京レポート(73)鐘楼伝説

北京レポート(72)北京鼓楼・鍾楼で鼓楼・鍾楼の事を説明したが、鍾楼の鐘の横に、民間で伝わった説話が記してあった。ガイドブックにも同じようなあらすじが書いてあるが、あまりにも大雑把なので、自分なりに翻訳し、少し脚色をくわえてみることにした。インターネットでこの伝説を探すと、もう少し詳しく出てくるが、それでも、物語としては、多少不満が残った。インターネットで伝わっている民間伝承では、娘の父親が「鄧」という名前になっているが、ここでは、鐘の側に表示してある伝説に基づき、父親を華厳とし、華厳の娘を華仙に設定した。

 201312160952561 (鐘の側に表示してある鋳鐘娘娘的伝説)

<鐘楼伝説>

昔は、毎晩七時になると、鐘の音が遠くから聞こえてきたもんだ。

ゴーン、ゴーン、ゴーン」という音がね、ときどきね、冬の寒い北風が吹く時は、鐘の音が「シェー、シェー、シェー」という音に聞こえたよ。漢字で書くと、「邪!邪!邪!」とも「靴!靴!靴!」とも聞こえたものさ。「靴(シェー)」って何のことかいって、もちろん中国語で布靴のことさ。いまでも街で売っているが、昔は革靴なんてなかったからね、女性は、刺繍をほどこした布でできた靴を履いていたのだよ。

 

その鐘の音が聞こえてくると、お母さんは子供と一緒に枕元で寝そべりながら、子供に語ったものさ。

「ほーら、鐘が鳴っているから、もう眠る時間だよ。あの鐘の音は、鋳物職人の娘が、靴がほしいと泣いているような音だね」

「誰なの?靴がほしいと泣いている鋳物職人の娘って」

子供にそうせがまれると、お母さんは、鐘にまつわる悲しいお話を始めるのでした。

 

201312150827161

むかしむかし、時計なんてなかった時代のこと。それぞれの大きな街には、かならず鼓楼がありました。鼓楼というのは、大きな太鼓を置いてある建物で、そこで大きな太鼓を叩くと、人々は今何時かということがわかったのです。北京は大きな都市でしたので、鼓楼がいくつかありましたが、太鼓だけでは、遠くまで音が届きません。そこで、皇帝は、工務大臣に高い鐘楼を造り、そこに吊り下げる二万斤の重さの大鐘を鋳造するように命令しました。

 

工務大臣は、皇帝の命令により、各地方から、名のある鋳物職人を呼び集め、北京に住まわせました。さらに鼓楼の西側に、鐘を作るための工場を建て、その工場で鐘を鋳造することになりました。その頃、鋳物で最も有名な職人の中に、華厳という人鋳物名人がいました。そこで、華厳を棟梁にして、工場内で鐘を作るよう命令が下りました。

 

鋳物工場の棟梁になった華厳には、妻と、華仙という年頃の娘がいました。工場近くの胡同に、一緒に住んでいました。華仙は、字が読め、頭の良い美しい娘でした。華厳は、仕事がどんなに辛くとも、家に帰って娘、華仙の明るい顔を見ると、疲れがとれるのでした。華厳は、毎朝、夜明け前には家を出て、鋳造工場に出かけ、夜に家に戻ってきます。家に帰ると、夕ご飯を食べながら、妻、娘と一緒に談笑し、家族三人で仲良く暮らしていました。華厳が家に帰ってくるたびに、華仙は、「お父さん、鐘はできたの?」と尋ねたものです。鐘を造り終えたら、家族で故郷に帰ることができるのです。華仙は、そろそろ故郷に帰りたくてしかたありません。三人で故郷に帰れる日を指折り数えていました。華仙の問いに、華厳は笑って、こう答えたものです。「もうすぐだよ。もうすぐだよ」

 

お父さんの華厳は、工場に数日泊まり込んで、家に帰ってこないことが多くなりました。完成が近づくにつれて、20日以上も家に帰ってきません。やがて、職人たちの努力のかいもあって、やっと鐘が完成しました。工務大臣は喜びいさんで、皇帝に報告し、皇帝に出来あがった鐘の音を聞いてもらうことになりました。職人達は、皇帝がやってきて、必ずや報奨金をくれるに違いないと期待していました。

 

ところが、出来あがった鐘の外見を見ただけで、皇帝の顔が険しくなりました。

「この黒い残渣は、どうしたことだ。もっと立派な銅の鐘を造れなかったのか?」

銅を溶かした間に、不純物が入り込んだのか、鐘の表面には黒い筋が残っていました。

さらに悪い事に、鐘を撞いてみると、鐘の音はくぐもった音色をだしました。鐘の音を聞いたとたん、皇帝はさらに怒りだしました。

「これはひどい。まるでラッパのような音だ。この街の住人にも、私の宮殿までも、聞こえそうにもないではないか」

皇帝はすぐさま工務大臣を叱責し、処罰すると、華厳を含む職人全員に命令した。

「あなたたちに三カ月の期間を与えましょう。必ず、2万斤の銅鐘を造りなさい。鐘を撞いた時、都市近郊まで鐘の音が聞こえること。風が吹いた時は、十里先まで聞こえることが必要です。もし、鐘がうまく造れないときは、全員死刑にします!」

そう話し終えると、激怒して皇帝は、皇宮に帰って行きました。それを聞いた、職人たちの顔は青ざめました。その頃、皇帝の命令は絶対だったのです。もし、鐘をうまくつくれなければ、間違いなく職人全員が殺されることになるでしょう。

 

華厳は、家に帰ってきました。華仙はお父さんが家に帰ってくると、尋ねました。

「おとうさん、どうしてそんなに怒っているの、鐘は完成したのでしょう?」

「あんな鐘じゃどうしようもない」

お父さんは、娘に皇帝が言った通りの事を伝えました。

「おとうさん、怒っても仕方ないでしょう。今日はゆっくり頭を休めて、もう一度鐘を造りましょうよ」

そう言って慰めるしかありません。

次の日から、華厳は、またいつものように、朝早く、鋳造工場へ行き、夜に家に帰ってきます。一旦完成した鐘は壊され、炉に入れられ、再度溶かされました。始まって一ヶ月以上経ちました。鐘の型は作り上げましたが、いまだにどうしたら音の良い鐘が造れるのか、不純物の少ない銅鐘が造れるのか、華厳は何度も思案しますが、なかなか良いアイデアがうかびません。

 

一ヶ月半経ちました。お父さんは家に帰ってきましたが、疲れ果て、悲しげにため息ばかりつくようになりました。工場で小さい鐘を造って、湯口から溶かした銅を型に流し込んでみるのですが、銅の流れぐあいや固まりぐあいで、場所により厚さが異なり、さらに鐘の形をうまく保つことができないのです。職人達は型を変え、別の材料を混ぜて、何度かやってみるのですが、どうしてもうまく鋳造できません。

 

華仙は、華厳が家で苦しんでいる顔を見ると、悲しくなりました。留守の間は、華厳がどんなに苦しんでいるのかを思い、華仙は、お母さんと一緒に涙を流しました。華厳が家にいる間は、二人で、なんとか慰めて元気づけようとしました。しだいに約束の三カ月はせまってきます。娘は、華厳のために何かしてあげることはないかと、あせるようになりました。

 

この日、約束の日まで、とうとう三日を残すところとなりました。銅が固まって、型枠をとるまで二日かかります。なんとしても、今日中に型枠に銅を流し込まなければなりません。華厳は、家に帰ってきません。工場で、徹夜で働いていました。

 

華仙はお母さんに、お父さんに会いに行きたいと言いました。お母さんは、最初、反対しました。

「女の子一人で、工場に行ってはいけません」

「だって、お父さんの仕事がうまく行くか心配なんだもの」

お母さんは、華仙の心配な気持ちがよくわかりました。

「わかったわ。私も心配だから、お父さんに会ったら、すぐ家に帰ってきて様子を伝えてね」

お母さんは、しかたなく華仙を工場に行かせることにしました。華仙は、服を着替えると、刺繍を終えたばかりの靴をはいて、お父さんに会うため工場に向かいました。

 

華仙が工場に着くと、ちょうど太陽が雲間から顔をだしました。工場のドアを開けて入ると、お父さんと仲間たちが、地表から銅の溶けた鍋をかき回しているのが見えました。その頃、鐘を造るための型枠は、穴の底にありました。その穴のなかに、角材や板材で作った型枠が設置されているのです。そして、その横では、土坑より少し高い位置に、溶鉱炉がありました。石炭を燃やし大きな鍋で銅を溶かし、かきまわしているのです。

 

工場の中は熱気と汗でいっぱいです。作業している人達の顔からは汗がふきだし、体の露出した部分には、石炭灰がくっつき、汗と石炭灰で顔が黒くなり、射し込んだ太陽の光がその顔に反射して、まるで全員お面をかぶっているようです。

「おとうさん!」

華厳が、声のする方を見ると、工場の入り口に華仙が立っていました。

「どうして、来たんだ!」

「お父さんが家に帰ってこないので、お母さんが心配しているの。鐘がどうなったか見てこいって」

「どうなったかって、銅の精製がうまくいかないんだ。残っているのは、今日一日だけだ。今日、太陽が沈むと、俺たちは二日後には殺されてしまう。だから、家に帰ってお母さんと一緒に待っていなさい」

その答えを聞くと、華仙はお父さんの華厳と仲間達に、過酷な運命が待っていることを知りました。

― このままでは、お父さんが、鐘のために死んでしまう。なんとかしてあげたいけど、私には何の力もない。なにができるかしら。

その時、娘は、母親から聞いた話を思い出しました。

 

― それは中秋節の伝説でした。天帝が、修行している狐、兎、猿に試練を与えて、誰が最も親切なのか修行の成果を知ろうとしました。天帝は二日間も何も食べていない一人の空腹な老人に変装して、狐、兎、猿に何か食べる物をくれるように言いました。狐は魚を一匹持ってきました。猿は果物を持ってきました。兎は、老人にこう言いました。

「おじいさん、私の背は小さく、木にも登れません。他の動物をつかまえることも、果物も探せません。その代わり、私を食べて!」そういって、兎は火の中に飛び込みました。天帝は兎の真心に感動し、兎を火の中から引っ張り出して、月の宮殿に住まわせました。

 

華仙は心の中でつぶやきました。

― 兎は、猿や狐のような力も持たず、無力だったけど、火の中に飛び込むことはできたわ。その話のように、私が兎のように溶鉱炉に飛び込めば、天帝が憐れんで、良い鐘がつくれるようにしてくれるかもしれない。溶鉱炉に飛び込むなんてことは、とても怖くてできそうもない。とても怖くて、怖くて飛び込む勇気がわいてこない。それでも、なんとしても、お父さんを助けるんだ。

華仙は、堅く決心しました。兎のように勇気をだせば、お父さんの命を助けることができるかもしれない。そう信じると、心を鬼にして、炉に向けて走り出しました。

 

華仙が溶鉱炉に向かって、走ったとき、作業員の一人が叫びました。

「危ない!」

そこにいた人達は、一斉に華仙が溶鉱炉に向かうのを見ると、叫びました。

「あぶない、捕まえろ」

お父さんの華厳は、何が起こっているのか、よくわかりませんでしたが、華仙の走る姿が視界に入ってきました。足を数歩踏み出し、飛びこもうとしている華仙を捕まえようと手を伸ばしました。やっと足をつかんだと思った、その瞬間、華仙の体は溶鉱炉へまっさかさまに落ちて行きました。お父さんの手には、華仙が履いていた、刺繍を施した一足の靴だけが残りました。

 

鍋の中の銅は、周囲に飛び散り、華仙の体は、銅の鍋に溶け込んで行きます。華厳は、華仙の刺繍をした靴をつかんだまま、泣き崩れました。そばにいた仲間たちも、手に残された靴を見て、涙が止まりませんでした。その時、華仙の体が溶け込んだ銅の様子を、見つめていた仲間の一人が鍋を指さしました。天帝が可哀そうに思って、奇跡を起こしたのでしょうか。鍋の中にある溶けた銅が、金色に輝きだし、型枠に注入できるのに、ちょうど良い流質になったのです。

仲間の一人が、叫びました。

「今だ、今こそ、湯口に銅を注ぎ込まなければ、鐘をつくるための絶好の機会を失ってしまうぞ。棟梁の娘が鍋に身を投げたことが、無駄になってしまうんだ。みんな型枠に銅を流し込むぞ」

ぐずぐずしていると、不純物が、銅の溶けた鍋に入りこみ、流失が変わってしまうかもしれません。鍋を取り囲むと、仲間達は、涙を流しながら、鍋の中の銅を土製の入れ物に移しかえると、型枠の湯口に近付け、注ぎ込みました。

 

その日のうちに、鍋に溶かした銅をすべて注ぎ込み、二日過ぎました。皇帝との約束の日に、型枠をはずすと、立派な不純物のない、二万斤の銅の鐘が現れました。その日、鐘楼に吊り下げられ、撞木で鐘を撞くと、その鐘の音は、遠く、十里先までも聞こえたということです。

 

鐘の音を聞いた皇帝は、音になんともいえぬ哀愁があるのを感じました。その理由を尋ねると、臣下の人達は、鐘造り職人の棟梁の娘が溶鉱炉に飛び込んだ話を話すのでした。その話を聞くと、皇帝は、感動し、はらはらと涙を流し、そこまで職人を追いこみ、娘の命まで奪ってしまった事に、深く、深く反省しました。鐘を造った職人全員に充分な報酬を与え、故郷にそれぞれ帰すように指示し、失脚した工務大臣も元の仕事に復帰するように命令をだしました。

 

こうして、工場は取り壊され、職人は皆故郷に帰りましたが、鋳物工場の地名は、長い間、残っていたそうです。また、その工場付近には、華厳の娘を祭った廟があったそうですが、今では、胡同のどこにあるのか、わかっていません。

 

鐘楼の鐘が城内を響き渡る度に、人々は、この娘の物語を思い出すのでした。ある人には、「靴(シエ)一靴一靴一」と聞こえ、また、ある人には「邪(シエ)!邪!邪!」と聞こえるそうです。さあ、あなたの耳にはなんと聞こえるでしょうか。夜、この鐘楼の鐘の音が聞こえたなら、月を見上げてごらんなさい。月の宮殿で兎とたわむれている娘の姿が見えるかもしれません。

 

これが民間に伝わっている鐘楼にまつわる伝説です。鋳物師が鐘を造っている間に、娘が病気になり、死んでしまったという話が変化したことも考えられます。娘の死を看取ることができなかった職人の話が、悲しい話として伝わり、鐘に飛び込んだという話にすりかわったのかもしれません。日本にも、日本武尊(やまとたけるのみこと)の神話で、同行していた弟橘媛(おとたちばなひめ)が入水して、海神の怒りを鎮めたという伝説が、横須賀市の走り水神社に残っています。また、橋など大規模な工事の際には、人柱といって、建造物の基礎に生贄として埋められる人がいたそうです。この伝説も、人柱伝説の一種なのかどうか、伝説なので、真偽はわかりませんが、鐘楼に行ったら、ぜひ鐘の音を聞いてみて、どんな音が聞こえるのか確かめてください。

北京レポート(72)北京鼓楼・鍾楼

北京にある鼓楼・鍾楼は、観光ガイドブックに乗っていたし、観光名所の一つであることは知っていた。ただ、それほど興味がなかったので、最近になるまで、行こうかどうかためらって、ぐずぐずしていた。時計が存在しなかった時に、鐘や太鼓で、時を教えたぐらいのイメージしかなかったので、関心が薄かったのである。しかし、中国滞在日数も残り少なく、もうすぐ日本へ帰るため、思いきって尋ねてみることにした。

 

鍾楼の古い町並みを映画で見たことがある。1997年に製作された「北京のふたり」という映画である。北京で殺人事件の犯人にでっちあげられたリチャードギアが、現場検証中に車の中で殺されそうになり、車から這い出し、鐘楼の付近の胡同(フートン)の屋根を走り回り、逃げ回るシーンがある。最後は、アメリカ大使館に逃げ込むという設定だ。実際には、アメリカ大使館は約7kmも離れた朝陽区の亮馬橋にあるので、現実には、屋根を伝わって行くことは不可能だったろう。残念ながらあのシーンは、実際の北京の風景ではない。カリフォルニアに撮影用の巨大セットを造って撮影したと言われている。理由は、リチャードギアが中国に入国を拒否されたためだったという。しかしながら、北京の鐘楼付近の古い胡同が良く再現されたセットであり、背景に鐘楼もちゃんと見えていた。ただ、中国政府にとっては、中国の司法制度がおちょくられているようで、見て楽しい映画ではなかっただろう。真実を明らかにする司法制度というよりは、すでに裁判のシナリオが決められていたという前提のもと、ストーリーが展開してゆく。

 

日本でも、城で招集をかけるときは、太鼓を使っていたし、市や町では、寺院に鐘があり、時を知らせていた。それと同じように、中国の各市や町には、必ず鐘楼や鼓楼があった。現存するもので、有名なのでは、西安鐘楼、南京鼓楼、開封鼓楼、天津鼓楼、杭州鼓楼、寧波鼓楼、大同鼓楼など21もの鐘楼や鼓楼がある。

                             201312162116061 (北京鐘楼)201312162322431 (北京鼓楼)

北京鼓楼・鍾楼に見学に行くには、地下鉄2号線で、鼓楼大街という駅で下車する。駅を降りたところから、前海近くまで、旧鼓楼大街が一直線に伸びている。そこを南へ15分歩くと、鐘楼と鼓楼にたどりつく。狭い胡同の中に入ると、たくさんの人力車が客待ちしていた。

 201312162057551 鐘楼の階段)201312171303411  (鼓楼の階段)

上の写真は、左が鐘楼の階段で、右が楼の階段である。どちらの階段も狭く、きゅうな階段だ。入場券は、どちらも入場料15元かかり、両方の共通券を買う事もできる。まずは、入り口で、荷物の安全検査を受け、まず、鐘楼に入る。観光に来ている年配者の大半は、私も含めきゅうな階段をふうふういいながら、登った。階段を上り終えると、周辺の景色が一望できる。近くに高いビルを建てないという規制があるのだろうか、まわりは低層住宅だけのせいか、とにかく見晴らしが良い。

 201312151435511 (鐘楼から見る風景)201312200902561  楼から見る風景)

昔の胡同の様子が、いまだに周辺地域に保存されていて、古き良き北京を眺めているようだ。

 

北京鼓楼・鍾楼の内部には、当然のことながら、鼓楼には、太鼓があり、鍾楼には鐘が吊り下げられている。

 201312150715161 (鐘楼の内部)201312201132561  (鐘楼の内部)

実際に鐘を撞き、太鼓を叩く、デモンストレーションはあるのだが、1日に数度しかないため、その時間に間に合わせるようにして行かなければ、見ることができない。11月末だったため、寒風が吹きすさび、とても鐘楼で30分も待っていられないので、デモンストレーションを見ずに、すぐ塔から降りた。

 

鐘楼が最初に建てられたのは元の時代。フビライ・ハンの時代。その後、二度火災で焼失し、鐘楼は、明代に再建された。日本では室町時代の頃。高さ7.2mの永楽大鐘と呼ばれている鐘は明代の皇帝、永楽帝が造らせたもの。その後、建物は幾度か修理を経て、鐘楼が現存の形になったのは清の時代だと言われている。この鐘にまつわる伝説については、北京レポート(73)鐘楼伝説で述べたので、参照していただきたい。鼓楼も、創建は元代。鼓楼も何度か焼失し、落雷で壊され、明の永楽帝の時代に再建され現代までに到っている。楼の高さは約46メートル。

 

まず、鼓楼・鍾楼の位置関係がおもしろい。故宮から北に直線を引いた、その直線上の約3.5km付近にあるのが、鼓楼・鍾楼になるのである。元の大都の時代と、明清の間に使われた故宮は、位置関係が多少異なるのだが、鼓楼・鍾楼の位置はそのままだったようだ。

 

鐘を撞くにも、撞き方があった。108回撞くことになっていた。早く撞くのが18回、遅く撞くのが18回、速からず遅からず18回で、これを交互に2回おこなったので、合計108回になる。108回撞く意味は、旧暦で1年が12カ月、24気、72候(5日で1候)で全部足すと108となるからだという。城内に住んでいた人々は、鐘の音を聞くと、戌、亥、子、寅、申(ひとつがおよそ二時間単位)のいずれの時刻か、知ることができた。日本では、108というと、除夜の鐘を思い出すが、日本では108の煩悩という意味になっている。中国から伝わった本来の意味が、長い歴史のなかのどこかでゆがめられたか、仏教的な意味にすり替えられたのだろうか。

 201312191327271 (水時計)201312201139521  (右に立っている棒が線香)

時はどうやって計ったのだろうか。水時計が用いられた時代もあったらしいが、現物は既に残っておらず、鐘楼内にレプリカが展示されてあった。他にも、元朝には、線香の燃え尽きる長さから、時間を計測する方法も使われた。

 

1924年まで、寅時(朝5時)と戌正時(夕方19時~21時)の一日2回、鼓楼の太鼓が夜、鐘楼の鐘が朝鳴らされていた。また一時間おきに時報の鐘も鳴らしていた。朝5時に鐘が鳴らされると、城門は開き、交通が始まった。19時~21時の間に鐘が鳴らされると、門は閉じられ、交通は遮断したと言われる。真夜中には、さすが近所の人の睡眠を妨げるため、太鼓は叩かなかったようだ。おそらく時報の鐘だけだったのだろう。鐘の音は北京城内外の十数里に響いた。

 

さて、鐘楼と鼓楼は、何故、二つも異なる建物を建てる必要があったのだろうか。その問いに対する答えは、はっきりいってよくわからない。ただ、わかっていることは、太鼓と鐘は、夜と朝のように対で鳴らさなければいけなかった。太鼓は低音、鐘は高音域なので、確かに音色の届く範囲は異なっていたはずだ。夜に太鼓を叩くと眠りを妨げるために、鐘の高音域でカバーしたのかもしれない。それとも、陰陽思想によるのだろうか。天と地、男と女、陽と陰のように、鐘と太鼓なのだろうか。その辺は、よくわからない。

 

1924年清の最後の皇帝、溥儀が紫禁城を離れた以降は、鐘鼓楼は、使われなくなったという。おそらく、鐘を撞く人への給与が支払われなくなったからだろう。

 

北京レポート(71)積水潭

以前、東京の池袋で下宿生活をしていたころ、住んでいたアパートは「千川」という場所にあった。「千川」という地名は、その字の通り、江戸の市中を千にもおよぶ小川が流れていたことに由来すると何かの本で読んだことがある。

 

おそらく何本もの小さな川が江戸中を無数に流れていたのだろう。多く川は、江戸庶民の飲料水として利用され、洗濯、し尿処理として利用されたが、江戸後期には、人口も増えて、水質もかなり悪くなったと言われている。もちろん、現在の東京にそれらの川を見ることはできないというか、ほとんど見当たらない。当時あった川のほとんどは、排水管や地下のどぶ川に代わってしまい、神田川、日本橋川のような比較的大きな川を除けば、地表面から見える川の数は極端に少なくなった。

 

北京の現在の地図を広げてみると、これに似たように、沼、池や水路らしい個所があちこちに見える。しかも、ほとんど水路や沼は、孤立したままで、つながっているように思えない。大都の時代には、これらの水路はつながっていたと説明を受けても、にわかには信じがたい。しかも、元の時代には、北京から天津まで水路があり、さらに、隋の時代につくられた最長運河、総延長2500キロメートル、杭州まで到達する京杭運河とつながっていたというから、驚きだ。2500キロメートルというと札幌から沖縄の那覇市までの距離と、ほぼ同じくらいの長大な長さの運河になる。杭州から北京まで、大量の物資の輸送が水路を通じて運ばれたのである。もっとも、北京の冬は雨が少なく、水量も減り、水深が浅くなり、船の運送も季節によっては、滞ったと言われているから、一年中通じて使えるルートではなかったようだ。

                             201312181353301 (西海)

地下鉄2号線に水潭(積水潭)と呼ばれる駅がある。駅の裏手に、今でも積水潭という小さな池があるのを、地図で見つけた。この駅の名は、この池の名前である積水潭から来ている。この積水潭を、一目見て見ようと、駅周辺で探してみたが、狭い路地が入り組んでいて簡単にはみつからない。

 

積水潭病院の裏手のほうだと思い、裏へまわろうとしたが、どうも見つからない。ひょっとしたら、病院の中ではないかと思い、中に入り込んだら、偶然にも、ひょうたん形の積水潭池を見つけることができた。入院患者や家族が散歩できるようになっているだけではなく、一般の人も公園に入れるようにはなっていたが、たどりつくための路地がわかりにくい。しかも、積水潭病院という総合病院が、積水潭のまわりを、ぐるりと取り囲んでいる。病院の中庭に、思い切って入ってみて正解だったようだ。さもなければ、積水潭を見ることはできなかったろう。おそらく、元の時代には、后海か西海とこの池まで、運河でつながっていたはずである。残念ながら、現代では、地下の暗渠でつながっているようで、池そのものは、孤立しているように見える。左端の写真を見ていただきたい。背後にある大きな建物が、積水潭病院。写真左手に見える橋の下から、おそらく西海の水が暗渠を通して汲み入れられているのだろう、水が噴出していた。右の写真にある右下の方へと、池に貯まった水が、やはり暗渠を通して水が排出されていた。そのためか、水は淀んでいることはなく、比較的水質は良好に保たれているようだ。

 201312172032241 (取水口辺)201312181350501  (排水口近辺)

この積水潭という名前の由来は、元の時代に人の手によって造られた溜め池から来ている。元の時代には、この溜め池を含み、前海、后海、西海の三つの湖を総称して積水潭と呼んでいた。当時、8000隻もの船を建造し、運河を利用して、物資が南から北へ、ひっきりなしに運ばれていた。したがって、元の時代は、ここが京杭運河の最終地点だったろう。

 

南から運ばれた食料品が、ここの積水潭の埠頭に積まれたというから、かなり大きな貨物の積み上げ港だったことが想像できる。しかも、その貨物港のまわりには、にぎやかな商業地や貨物流通ターミナルがあったはずだ。

 

タイやミャンマー国から皇帝に送られた象が、夏場は、ここで水浴びしたとも言われている。日本でも、江戸時代にベトナムから二頭の象が吉宗に献上された記録があるが、暖房のなかった時代、おそらく冬場に江戸で象を飼育することはさぞ大変だったろう。それに似て、ここ北京も、冬はとてつもなく寒い。ここ北京で象を養うことは、とてつもない困難が伴ったはずだ。英語で「ホワイトエレファント(white elephant)」と言うと、やっかいなもの、もてあましものという意味がある。北京で象を飼ったことは、「もてあましもの」のような意味が、なかっただろうか。

 

さて、元朝の末期時代になると、北京近辺の様相がことなってくる。積水潭付近の人口が増え、開墾地が増えるようになると、河底が土砂で詰まるようになり、積水潭に流れ込んでくる水量は減ってきた。さらに明の時代になると、追い打ちをかけるように、皇宮が建てられ、皇室が水路の水を専用で使い始めたため、水路が背後の地に流れなくなり、積水潭に流れる量は極端に少なくなった。そのため、北京まで来ていた水系は、水量も減り、やがてところどころの運河が干上がるようになった。したがって、大運河の最終地点は、積水潭ではなく、通州になってしまった。通州というのは、北京から約20数キロ東にある区域のこと。通州に届いた荷物は、馬車を利用して、北京まで運ぶより仕方がなかった。

 

現在でも、通州は京杭運河の起点・終点の名残があると言われる。通州と言えば、1937年あの有名な通州事件があった場所だ。日本人居留民223名が、中国保安隊によって強姦・虐殺された事件。それ以降、国民の間で反中感情が高まり、日中戦争へと続くきっかけの一部となった不幸な事件だった。

 

現在では当時の運河を忍ばせるものとして、通州区に通州運河公園が建てられ、幅600800mで長さ4600mの運河公園ができている。通州まで運河は現在も通じているが、通州区から天津までの運河の川幅は、狭いところで2030mしかない。運河建設当時は、もう少し広かったと仮定しても、おそらく物資を運搬する船の大きさは、かなり小さなものだったろうし、一艘で運べる物資の量はかなり限られていただろう。大急ぎの荷物だと、杭州から北京まで、船頭や漕ぎ手を交代させながら、16日前後で着くことができたのではないか。そう考えると、急がない一般貨物だと、途中の港に寄りながら、北京に着くことを考えれば、一ヶ月前後。それでも、陸上輸送よりは、はるかに大量に、速く荷物を輸送することができたはずだ。つまり、陶器など一般貨物を除いた食品の輸送を考えれば、生鮮食料品よりは、乾燥食品などの物資の運搬が主流だったのではなかろうか。日本の北前船も、日数がかかるため、物資は海苔、昆布などの海産物、米が多かった。ただ、輸出入という観点から、考えると、南から北へ運ぶ荷物は、唐辛子や香辛料を含め、おそらく山ほど需要があっただろう。しかし、逆に北から南へは何を運んだのだろうか。牧畜が主流であることを考えると、乾燥肉や毛皮以外には思いつかない。物資が一方通行だけでは、輸送コストが高くなってしまうのは、常識だ。その辺の運航をどう管理したかは、今ではわからない。

 

元の時代から、すでに七百数年も経つ。現在の北京に、七百年前に元が造った大都の面影は、まったく見当たらない。大都時代には、壮大な都市計画がなされ、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれ、碁盤の目のように建物や宿坊が配置されていた。ところが、明代で鄭和をアフリカまで派遣した三代目の永楽帝になると、その豪奢な建物も、ほとんど破壊しつくして一つとして残っていない。おそらく、漢族の人にとっては、元に支配された時代は、屈辱的で、許せない思い出だったのだろう。家康が、秀吉の墓をあばき、さらに聚楽第を徹底的に破壊したのに似ているのかもしれない。

 

こうして、北京をとりまく、水系は、通州区を覗けば、運河としての機能をすべて失ったので、現在では見ることができない。今でも残っているのは、ところどころに池や公園があるだけだ。北京の周辺に残された水域をみながら、是非、かってあった大都の時代の長大な運河を思い描いてほしい。

 

2013年12月17日 (火)

北京レポート(70)中華民族園

外国から中国を見ていると、漢族の姿しか見えてこない。それは、ニュースで画面にでてくる人達のほとんどが漢族だからだろう。政府の高官しかり、通りで取材を受ける人々も多くは漢族だ。中国の約92%が漢族だから、当然と言えば当然かもしれない。

もっとも漢族とはいえ、北方、客家、台湾系などに細かく分かれるそうだ。それでは、漢族以外では、中国には、いくつの少数民族がいるか知っているだろうか?

 

55もの少数民族があるそうだ。しかし、漢族の人口に比べると、8%しかない。だから、少数民族と言われるゆえんでもある。彼ら55民族の生活、習慣、建築様式は、一般的な漢民族とは全く異なっている。そういった民族の違いを学ぶ意味では、中華民族園は非常に有意義な見学場所だ。日本にある民家園の民族版だと想像していただければ、わかりやすいかもしれない。ただ、難点もあった。各民族がどういう暮らしをしていたのかを知るには博物館を見学すれば良いのだが、博物館内部に展示物がころがっているだけで、生活道具や器材がどう使われたのか、衣食住がどんなだったのか理解がおよばず、彼らの生活が想像しにくいのは残念。もう少し展示内容を変えたら、もっと少数民族の生活が見えてくると思うのだが。

 

少数民族の方と直接、いろんな事を話したことはないが、彼らの心理には複雑な感情も存在するのではないだろうか。たとえば、沖縄の人が日本人と呼ばれると、「そうではあるが」と思う反面、「俺たちウチナーンチュだ」と言うかもしれない。それと同じように、彼らの心の内はわからないが、中国人という範疇でのみ、少数民族を見られることは心外であるかもしれない。なぜなら、同じ民族が、ミャンマー、タイ、モンゴルなどに暮らしているからだ。最近では、漢族との同化で、独自性が薄れて来て、彼らの独自の文化が消えていく運命の民族もあると聞く。

 

まず、中華民族園のある場所だが、地下鉄10号線の北土城駅で降りるのが、良いだろう。案内を見ると、一番近い駅は、奥体中心と書いているガイドブックもあるが、北土城駅から歩いても、オリンピック公園に向かって歩けば、10分もかからないで、正門に、たどりつくことができる。また、季節によっては、北土城駅の近くに南ゲートがあり、開いていれば、駅を出た左端の入り口から入場券を購入して入れるかもしれない。

201312141812581 (中華民族園入り口)

私が中華民族園に、行ったときは、11月だったせいか、閑散としていて、南門は閉ざされ、正門だけが開いていた。入場料は大人で90元くらい。

201312171159321 (民族大橋、南園と北園をむすぶ橋)

公園は民族大橋(民族園唐人街)を中心に南園と北園に分かれているのだが、南園は閉じて見ることができずに、見学できたのは、北園だけだった。当然、入場券は半額となった。したがって、掲載した写真は一部の民族のみとなった。全民族の建物を紹介できずに申し訳ない。

 

中華民族園を訪れて見ようと思った理由は、二つある。一つは、風雨橋と呼ばれている屋根付き橋をもう一度見てみたいと思ったことと、二つ目は、満族と呼ばれた人々がどんな生活をしていたのか、この目で見てみたかったのである。見学してみて、思ったことは、56の民族の中には、いままで全く聞いたこともない民族名に出会ったことだ。

201312171155421 (各民族紹介)201312171157341 (方向を示す標識)

中華民族園の中を歩くと、代表的な建物の前に、各民族についての概略を紹介した立て札が建っている。立て札は、説明が簡潔すぎるので、ぜひこのブログに記してある各民族に伝わる伝説も、見学した折には、一緒に思い出してほしいものだ。実は、この少数民族、特に伝説に関しては、フリーペーパーである北京ジャピオンで、「民族訪ねて三千里」という特集から、引用させてもらった。このブログを借りて、各民族を紹介するという企画をくんでくれたジャピオンの編集部の方々に、ぜひ感謝申し上げたい。各民族を知るには、彼らの民族の起源と、住んでいる地域、伝わっている伝説の一部が理解できれば、おおまかな民族の特質の一部がつかめるのではなかろうか。それでは、各民族を紹介してみよう。

 

1.チワン族 (壮) 1,617万人 広西チワン自治区・雲南・広東・貴州・湖南

中国の少数民族の中で、最大の人口を有する民族。春秋時代には百越(バイユエ)と呼ばれた。漢族との交流が長く、黄、陸、莫、僮などの漢字姓を名のる。歌垣という歌の掛け合いをする。男女が声をはりあげ、交際を申し込む恋愛の歌が多い。生活は、牛耕や灌漑などの農業技術、紡績、木工、鍛冶などの手工業によって支えられている。チワン族の始祖伝説は次のとおり。

「昔、伏羲(ふくぎ)と女(じょか)という兄妹の父親が雷神を捕えたが、兄妹は雷神を不憫に思い水を与えた。元気を取り戻し逃げ出した雷神がくれた種を植えると、大きな瓢箪が実った。その後、大洪水が訪れ、二人だけが瓢箪によって救われたという。二人は結婚し、妹は肉の塊を生んだが、その時風が吹き、肉は粉々に割れ、その一つひとつが人間になったのだった。」

 

2.満族1068万人超 、居住地域: 全国各地。その中、遼寧省が最も多い。

少数民族の中で二番目に人口が多い民族。ちなみに一番多いのは壮族(チワン族)。

歴史の中では、女真族という形で遼を滅ぼし、12世紀に金王朝をつくった。しかし、モンゴル帝国に敗れ、明王朝衰退後に、清王朝を建てたことが良く知られている。

生活は稲作が中心で、他に小麦やとうもろこし等の畑作も行っていたという。以前のブログでは、稲作技術をもたなかったために、朝鮮に攻め込み、農民を連れて来て耕作させた騎馬民族だったと述べたが、騎馬民族であり、農耕民族の両面を持ち合わせていたのかもしれない。展示してあった絵には騎馬に乗った人と住居になるパオがみられる。

201312091818481 (騎馬姿とゲルの絵)201312101637361 (住居)

上記の写真を見ていただきたい。住居の様子がよくわかる。レンガやカマドを見ると、日本の東北の農家にも似た部分が感じられる。

201312091901471 (鼻烟壺)201312101033161 (煙管)

伝統工芸品も展示してあった。染物、鼻烟壺。鼻烟壺は、嗅煙草と芳香性植物を混ぜた粉末を入れる入れ物だった。煙草の粉をつかんで、鼻孔から吸い込む煙草らしいが、現代では、そういった習慣がないので、どんなものなのか、想像してもよくわからない。ガラス瓶に書かれた絵は、瓶の内がわから絵を描く高等技術が必要だった。 右端は時代劇でよくみる煙管(キセル)によく似ている。

201312101634411 (食)201312101635201 (農具)

上記の写真で、干してあるのは、トウモロコシと唐辛子。手前に石臼があるから、トウモロコシを臼で挽いて粉にするのだろう。右端は農機具だが、見ればすぐわかるのもあるが、どう使ったのか実演でもしてもらわないと、わからないものも数点あった。

201312101635241  ()

満族の礼儀の仕方は、上が座礼、下が立礼。日本と似ている部分もあるが、真ん中の写真は、先輩にあたる人に対して、腰に手をまわして、抱きかかえているようだ。こういった礼は、映像でも見たことがない。

 

満族のイメージは、前頭部を剃り上げた辮髪で、中国を統一した清王朝の支配民族というイメージがある。満族と満州族は多少異なる。満州族の祖先は、満族ではあるのだが、漢族、モンゴル族も含んだ清朝時代の支配階級となった。文化的に言えば、漢族の影響を受けた満族が満州族で、東北地方に住んでいて、古来の伝統を保った人々が満族と言えるかもしれない。なにしろ、中国全土で約1000万人もの満族が住んでいた。満族と言う呼び名にいたるまでの系統が記してあったので、紹介しようと思うが、あまり聞いた事のない名前がほとんどかもしれない。( )カッコ内は、時代を指す。

粛慎su shen(商、周)→挹娄yi lou(漢)→勿吉wu ji(南北朝)→ 靺鞨Mohe(隋)

隋の時代から二系統に分かれる。

1)黒水靺鞨heishui Mohe(唐)、女真nǚzhēn(金)女真(元)

2)粟末靺鞨sumo Mohe (唐・渤海時代の頃だが、契丹でこの民族の系列は消えている)

黒水靺鞨からの系列は次のとおり。

1)海西女真(明)→入旗満洲(清)

2)建洲女真(明)→満洲(清)

3)野人女真(明)→入旗満洲(清)

4)呼尓哈女真(明)→寧古塔満族(清)

5)三姓建女真(明)→寧古塔満族(清)

6)兀狄哈女真(明)→寧古塔満族(清)

以上でみると、日本史で習った金の女真族が現代の満族まで続いている系統が良くわかる。

満族には、つぎのような始祖伝説が伝わっている。

「その昔、吉林の長白山で天女の三姉妹が水浴びをしていると、神の使いのカササギが赤い実を運んで来た。末娘・仏庫倫が実を口に入れると、たちまち身ごもり、布庫里雍順という男子を産んだ。彼は容姿端麗にして聡明であり、成長すると川を下り、争っていた3つの部族を治めて満族の始祖となった」

この伝説で生まれた布庫里雍順が、清朝皇帝家の姓である愛新覚羅と名乗った。ラスト・エンペラーの溥儀の姓は、正式には愛新覚羅(アイシンギヨロ)であるのは、このことによる。

 

3. 回族 900万人 寧夏回族自治区をはじめほぼ中国全土

少数民族のなかでも、住んでいる分布地域が最も広い民族だと言われる。多くの回族の人達は、シルクロードを利用し、1000年以上も昔に商人としてやってきた中東系の人が多かったのだろう。回族という名も、昔イスラム教を「回回」と呼んでいたことに由来する。

映画を見ていると、ヨーロッパの城攻めでよく投石機が使われているのを見かけるが、中国でも、元朝の時代に同じように使われた。その頃は回回砲と呼ばれ、技術はイスラム文化圏から製造技術が伝わってきた。そういった技術者も、シルクロードを渡って中国までやってきたので、回族の祖先だったのかもしれない。イスラムの教えを堅く信仰している。

 

4.ミャオ族(苗)740万、貴州省他

ミャオ族は中国の貴州、湖南、雲南、四川、広東、湖北の一部のほか、タイやラオス、ベトナムにも分布する。その中でも、ミャオ百族と呼ばれるほど、さらに細かい区別があり、

部族ごとに異なる刺繍模様を持っている。女性は5~6歳から刺繍を学び始め、ミャオ族同士はお互いに、この刺繍でどこの者で未婚・既婚、年齢も識別していという。主に農業と林業に従事。写真などで銀の飾りを多用した民族衣装を着ている女性を見かけたら、ほぼミャオ族であることが多い。彼らは中医学とは違う独自の医学を持ち、病気の治療には大麻やケシを用いて、時にはマラリアまで治すことができたという。ミャオ族の「蘆笙舞」と呼ばれる踊りには、〝天の星が空を支え、竜が地を支える〟などの言い伝えが込められており、祝い事や作物の実り、生活の平安を祈願して踊る。

201312130951171 (ミャオ族住居)

5.ウイグル族 (維吾爾) 8百万 新疆ウイグル自治区

ウイグル族が多く住む都市、荒涼とした砂漠であるタクラマカン砂漠にあるが、河川も多く、オアシス都市となっている。乾燥した土地は果物の栽培に適しており、「ハミ瓜」「葡萄」「蟠桃(ばんとう)」などが有名。ウイグル族は豊富な楽器を持ち、その情熱的な歌と踊りは広く知られる。「スナイ(笛)」、「ナグラ(太鼓)」、「ギジャク(弦楽器)」などなど実に豊富な楽器で演奏される音楽に合わせ、エキゾチックな舞を踊る。

 

6.トゥチャ族 (土家) 8百万人 湖北・湖南・四川省

湖南を中心に標高1000mの田園に暮らす民族。貴州省の一部に古代中国にあった古い仮面劇を伝承する地域もある。春秋時代には、戦乱から逃れて山奥に独自の文化を築いたとあるので、日本で隠れ里や落人部落のような感がある。

民芸品として、西蘭卡普(花模様を施した布団)がある。少女は幼い頃から機織りを学び、自分の婚礼道具とするのだそうだ。その絹織物に関する悲しい少女伝説が伝わっている。

「昔、西蘭という娘がいた。西蘭は機織りの技術では右に出る者がなく、花を愛していた。日々山を歩いては花を摘み取り、家に戻って機織機のそばに挿すと、その花の模様を次々と織り込んだ。その花は実に色鮮やかで、蝶や蜜蜂が止まるほどだった。ある日西蘭は、村の老婆にこう尋ねた。『おばあさん、村中の花を織り終えてしまったの。この世にほかに花はないのかしら』。『百果花という、夜にしか咲かない花がある。夜、山へ行って、花が咲くのを待ってごらん』。西蘭は言われた通り、夜ごと外へ出ては百果花の樹の下に座り、開花を待った。ある夜、とうとう咲いた百果花を手にし、うっとりする西蘭だったが、そこに男と逢引きしていたと誤解した父が現れ西蘭を棒で殴りつけた。それがもとで西蘭は、百果花の樹の下で、息を引き取るのだった。」

 

7.イ族 (彝) 776万人 四川・雲南・貴州省

「彝」という漢字は、もともとは、酒を入れる器であったという。言われれば、鼎という字に似て、漢字に器のイメージがある。その器に功績のあった人の事績を刻んだと言われている。おそらく祭祀に用いられたのだろう。農耕と牧畜を営み、彝族摔跤という日本の相撲に似た競技を行い、武勇を尊ぶ事で知られている。独自の文字を有し、祭祀や治療を行うシャーマンが存在する。6月には「火把節」が行われ、松明が盛大に焚かれる。

イ族には、次のような伝説が残っている。

「その昔、イ族の住む地上に阿体拉巴、天界に斯惹阿比という二人の男がいた。天地の両者がある日『摔跤』で対決することになったが、阿体拉巴は急用ででかけることになり、母親に鉄で作った料理で斯惹阿比をもてなすよう伝えた。斯惹阿比は出された鉄の料理を見て、こんなに硬い物を食べている阿体拉巴は、さぞ怪力に違いないと恐れて逃走。戻ってきた阿体拉巴は逃げた斯惹阿比を追い、決闘を挑んだ。斯惹阿比が敗れて死ぬと、天界で頼りにしていた男が死んだことで天の神が怒り、大量のイナゴを野に放った。イナゴに食い荒された野原を見て、阿体拉巴は大勢の人を連れて松明を焚き、イナゴを追い払った」

 

8.モンゴル族 (蒙古)581万人 内蒙古自治区・遼寧・新疆・黒竜江・吉林等

16世紀に導入されたチベット仏教とシャーマニズムが併存する。遊牧は減少して、北のモンゴル国との国境地にわずかに残るのみ。始祖伝説は「上天より命ありて生まれし蒼き狼ありき。その妻なる惨白き牝鹿ありき」で始まる。灰色狼と白鹿の間に生まれた始祖から、10代目の死後に、アランが生んだのがチンギス・ハン。作家、井上靖が書いた「蒼き狼」というタイトルはこの伝説から引用したのだろう。歌と舞踊を愛好する民族であり、馬頭琴、ホーミーが有名。

 

9.チベット族(蔵)、542万、チベット自治区ラサ市

チベット仏教を信仰する自給自足の4000年以上の歴史を持つ民族。チャンタン高原を中心に今なお遊牧生活を続ける人々と、ヤルツァンポ河流域に定住して農業を営む人々に分けられる。「大昔、観音菩薩の弟子であった神猿は、チベット高原で修行していた時、一人の魔女に出会った。魔女が自分と結婚しないと世に必ず不幸をもたらす、と脅かしたため、神猿は仕方なく結婚することに。しばらくして、子供たちが生まれたが、食べ物も衣服もないという生活を送っていた。そんな猿の子供たちを憐れみ、観音菩薩は、彼らに六種の穀物(蕎麦、米、大麦、小麦、ケシ、ゴマ、豆)を与え、農作物の栽培を教えた。やがて猿たちは進化し、尻尾が消え、言葉を話すようになった。そして、徐々に人間の形を成し、チベット族の祖先になった」という伝説が伝わっている。園内では、五体投地しながら登る巡礼の道が模してある。

201312131755441 (蔵族)201312151340381 (巡礼の道)

 

10.プイ族(布依)254万、貴州省

プイ族は貴州省黔南県を中心に暮らし、複雑に入り組む山の斜面に集落を形成し、集落の間には水田が広がる。主に水稲耕作、刺繍、染物が有名だ。高床式の杭上家屋か平屋に住み、高床式の家は瓦葺きに床下を豚小屋にする。写真下に見られるように、平屋の建物の屋根は平べったい石材が拭いてあった。客を迎える時や冠婚葬祭、新築祝いには、「ウンラオ(酒歌)」を歌う。酒を酌み交わし、豆や漬物の「塩酸」を並べたテーブルを囲んで、故事や祝い、哀悼など様々な内容が歌われる。プイ族の男女は、竹筒で糸電話を作り、4050㍍も離れて気持ちを伝え合う。一種の歌垣だが、プイ族独特の恋愛形式として情緒深い。プイ族に伝わっている昔話に、次のようなものがある。

「天涯孤独の青年・昆侖は、麦畑を耕して生活していた。ある日、昆侖が畑で麦を食べていた白馬を捕らえたところ、白馬は昆侖を連れ海の中へ入って行った。海の底の大きな屋敷に白馬の飼い主がいて、麦の代金として財宝を渡そうとしたが昆侖は断り、代わりに1匹の犬をもらった。昆侖は犬を可愛がり、以前のように畑を耕して生活した。ある日昆侖が畑から帰ると、家はきちんと整い、食事の用意がされていた。翌日も、また翌日も食事は用意され、不思議に思った昆侖がある日出かけたふりをして家に戻ると、犬は皮を脱いで美しく聡明な娘に姿を変え、食事の支度をしていた。昆侖が犬の皮を焼いてしまうと、娘は元に戻ることができず、昆侖の妻として幸せに暮らすのだった」。

この伝説は、夕鶴、天女、浦島伝説が一緒になったようで非常に興味深い。

201312121548341 (プイ族の平屋)201312151206271 (屋根が石材)

 

11.トン族(侗)、296万人、居住地域:広西チワン族自治区、貴州省、湖南。

農業が主で、うるち米、もち米の栽培を行い、副業として林業がある。上質の杉を使って釘を使わず、独自の建築方法をもっている。木造建築は、代表的な建築である、鼓楼、屋根のついた木造橋、水車群など。工芸品では、結婚式用の籠(花橋)が有名だ。村の様式は、村の中心には鼓楼が位置し、村の入り口には橋が位置するという。客が来ると、村人全員が、歓迎の歌を歌ったと言われている。

201312051356191 201312051920291 201312052044551 (三江にある程陽風雨橋、内部、鼓楼)

以前、北京レポート(23)で広西チワン族自治区の三江にある「程陽風雨橋」について、述べたが、似たようなレプリカの橋が、北園の中にあるわけだから、1800kmかけて北京から三江までわざわざ行く必要はないのかもしれない。公園内の橋は、どうも貴州省黎平県にある地坪風雨橋を真似たものらしい。だから、上の橋と下の橋では、構造が多少異なる。

201312121450261 201312121405561 201312130952591 (公園内の橋、内部、鼓楼)

トン族の人達は、収穫祭や祭りでよく歌を歌うという。鬼神を崇拝し、牛神祭が重要な祭日であるというが、鬼神が日本と同じような山の神をさすのかどうかは不明。「その昔、天界の支配者・玉帝が、トン族が歌も楽器も持たないことを不憫に思い、河に歌を流すのだった。トン族の青年たちがその河で、水浴びをしていると、一匹の大きな鯉が泳いできた。鯉を持ち帰った晩、青年の一人は、鯉の腹に歌の卵が詰まっている夢を見る。翌朝卵を取り出すと、玉帝は様々な曲と琵琶も授け、青年は琵琶を次々と作り、音楽が彼らの生活に溢れるようになった」という伝説が残っている。

 

古代の文献では、侗族を“洞人”、“畆人”、“洞蛮”など呼んでいたという。「洞」は山の洞穴を意味し、侗族の「侗」は、漢語では初学者の無知という意味だし、未だに器を成さないという意味でもある。明朝以降は「畆僚」、「畆蛮」、「畆苗」だから、「畆」が“うね”を表すと考えれば、米作民族に近い意味だから、まだましだろう、しかし、「畆蛮」はひどい。どちらにしても、あまり良い漢字をあてていない。日本の東北の人のように素朴で純粋な心を持った民族だったのだろうか。しかしながら、商売上手な漢族にとっては、搾取しやすく、ウブな民族に思えたのか、あるいは、儒教的な文化を持っていないということで、蛮人とみなしたのかもしれない。

201312030943051 201312121352301 (二階建て木造住宅と水車群)

 

12.ヤオ族 (瑶) 260万人 広西・湖南・雲南・広東・貴州省

ヤオ族は、焼畑を行いながら移動してきた民族。海南島から桂林、ベトナム、そして現在の居住地に落ち着いたと言われている。

槃瓠を先祖とする神話を伝承している。ヤオ族は、古代中国の王女と「盤瓠」と呼ばれる犬の間に生まれた、12姓の人々を始祖とするという民族の伝承を有する。この伝承が史記に収録され、後に日本に伝わって『南総里見八犬伝』に取り入れられたと言われている。愛犬のおかげで敵を討ちとり、愛犬は恩賞として伏姫を望んだ。伏姫は、気を感じて身ごもる。身の純潔を証するため、自害すると、数珠から8つの玉が飛び散り、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」となった話は有名。日本では儒教と混じって12ではなく、8つになった。さて、盤瓠を崇める祭りには、こんな由来がある。

「昔ヤオ族が海南島に住んでいた頃、3年続いた干ばつのため、島民は海を渡り島を出ることを決めた。しかし1年かかっても渡ることが出来ず、海の上で盤瓠に助けを求めたところ、3日と経たず岸へ辿り着いた。そこで人々は盤瓠に感謝するため、祭りを催すのだとか。」

また、この地域ではその昔、女性が文字を学習することを良しとしなかったため、

「女書」という文字が生み出された。女書は主に、姉妹や兄弟の妻など、女性親族間で用いられ、男性が女書を学習することを禁じたという。最後の伝承者が亡くなった後も研究は続けられているものの、絶滅の危機に瀕している。

 

13.朝鮮族200万、吉林省

古くから東北部の三省に暮らし、稲作をしていた。民族衣装はチマ・チョゴリ。民族芸能はパンソリ、タルチュムなどがある。「天から遣わされたファヌンは白頭山に降り立ち、人間界を治めていた。ある時、人間にしてほしいと願い出た熊と虎にファヌンは試練を与え、この試練を乗り越えた熊だけが、“ウンニョ(熊女)”になったという。ウンニョとファヌンの間に生まれた子供がタングン(檀君)で、その後王国を建設した」という伝説がある。家屋は、オンドルという暖房設備とチシルという土間、プオクという厨房で構成されている。

201312091741371 (朝鮮族の家)

 

14.ぺー族 (白)180万人 雲南省

漢字の「白」は「白い人」を意味する。 未婚の女性が、頭に巻きつける白い羽飾りが民族名の由来。ぺー族は、チベット文化、タイ文化、漢文化の三つの文化を取り入れた民族。住んでいる大理の山々は、キノコの産地で有名。建築技術に優れ、宗教は、仏教徒であると同時に、道教の影響も強い。村落の守護神「本主」の信仰にまつわる芸能が盛んである。

「その昔、石宝山には金の鐘があった。これを鳴らすと、山麓の盆地は豊作となったが、ある日、9つの頭を持った龍がやって来ると、口から火を吐いて鐘を石にし、害虫を降ろして豊作物に被害を与えた。山麓に住む素晴らしい歌い手であった阿石波という若者と恋人の阿桂姐は、観音様の指示の下、仲間を集め歌声で龍を退治したが、二人は命を落としてしまった」

 

15.ハニ族(哈尼) 150万人、雲南省

雨量が多い亜熱帯地域に住む。トウモロコシ、豆、蕎麦、小麦、段々畑での稲作、有名なプーアル茶、綿花を産する。歌や踊りを好む民族。「その昔、巨大な魚が男と女を一人ずつ作り上げ、女は21人のこどもを産んだ。そのうち3番目の子供が竜王となり、育ててくれた母親に感謝して、稲の種を送った」という神話がある。女性は魚の形をした首飾りを身につけていることが多い。「スニャン」と呼ばれる祈祷師(シャーマン)がいて、交霊、医療、災いを取り除く。ベトナムの影響が強い。

 

16.カザフ族 (哈薩克)、130万人 新疆ウイグル自治区

ハザク族とも呼ばれる。アルタイ山中などで羊を中心とした遊牧を行うが、定住して農業を営む集団もある。遊牧の移動距離は、年間を通して数百キロに達することもある。老若男女とも馬術に長ける。カザフ族の「カザフ」には、白鳥、自由人の意味があるが、次のような伝説も伝わっている。

「その昔、ある若い漁師が戦争で負傷し、城壁を彷徨していたところ、1羽の白鳥が舞いおりて彼を救った。そして白鳥は美しい少女に姿を変え、二人は結婚し、生まれた息子に「カザフ(白鳥)」と名付けた。人々は今でも、白鳥を聖なる鳥とし、少女達は白鳥を恋のシンボルと信じているという。」

カザフ族の代表的な弦楽器「ドンブラ」で弾き語りをする吟遊詩人「アクン」は、伝統的な系譜をうたい継いでいる。

 

17.リー族(黎)、120万、主に海南島

“中国のハワイ”と呼ばれるリゾート地に住む民族。主に、農業に従事。ゴムの生産が副業。衣装は大陸のワ族とほぼ同じである一方、フィリピンと共通する踊りもある。顔に独特の入れ墨をしている女性もいる。「若い漁師が、一頭の鹿を山の断崖に追い詰めた。鹿はくるりと振り向くと、美しい女性に姿を変え、その後二人は幸せに暮らし、村を作った」という伝説が三亜湾にある鹿回頭という場所に残っている。

201312091522401 (黎族の住居)

 

18.タイ族(傣)、115万人、雲南省、西双版納傣族自治州、

昔から水稲耕作、バナナ、ゴムなどの栽培を行い、自給自足の生活を行っていた。竹を骨組みにした「竹楼」と呼ばれる高床式住居に暮らす。祭礼には、叙事詩や語り物を語る職業歌手「ザッハン」が活躍する。小乗仏教を信仰し、村落には多くの寺院がある。独自のタイ文字による文献が豊富で、タイ暦もある。民族舞踊には、「魚舞」や「大鵬鳥舞」などがある。4月中旬には、溌水節(水かけ祭り)があり、孔雀舞いをはじめとする民族舞踊が披露される。孔雀舞に関する伝説は次の通り。

「その昔、タイ族の狩人たちが狩猟に出ていた時のこと。彼らが湖に着くと、果実が水面に落ちる音と、魚がそれを食べる音に合わせて、一羽の孔雀が翼を広げ、優雅に踊っていた。狩人たちは孔雀の舞いに魅了され、帰宅後、孔雀が舞っていた動作や音を模倣し、一つの舞踊を完成させた。孔雀の歩く、水浴びをする、羽ばたくといったあらゆる動作を表現した踊りは、いつしかタイ族の伝統芸能を代表するようになった」

201312131529161 (タイの寺院)

 

19.ショオ族 (畲)、70万人、 福建・浙江省

シェ族とも呼ばれる。漢字の「畲」という字は、焼畑を表す。元々焼畑農業で生活していた。湖南から移り住んだヤオ族の支族とされる。近年は、お茶の栽培が盛ん。「高皇歌」という歌はショオ族の発祥と移動を語った著名な史詩。二人の女性が、茶葉を摘みながら歌うのは、「寧徳調」と呼ばれ、二つのメロディを重ねる。客家語を話すものが多く、土、石、藁を使用し太陽で固めた土楼という住宅と、武夷山が有名。

 

20.リス族 (傈僳)63万人 雲南省

ミャンマーやタイにも住んでおり、中国では、多くは漢族、ペー族、イ族、ナシ族などと雑居している。村の多くは、山の斜面にあり、山肌に畑を作って暮らしている。山の斜面を利用して、ワイヤーをかけ、橋の代わりに使っている。ワイヤーを滑車ですべるやり方を「溜索(リウスオ)」と呼ぶ。結婚、狩猟、家屋の新築などの際には、弦楽器である琵琶、口琴、月琴、芦笙などを用いた歌と踊りを欠かさない。旧暦の28日に「刀竿節」があり、刀の梯子を登る「上刀山」、真っ赤に焼けた炭の上を歩く「下火海」などの演目がある。祭りには、次のような伝説がある。

「その昔、この一帯が外敵に侵略された時、朝廷の命を受け兵隊を率いた王驥が険しい山を越えてやってきた。彼はリス族と共に戦って侵略軍を破り、土地を守った。王驥の死後、人々は彼を記念し、祭りを行うようになった。」

 

21.コーラオ族 仡佬) 57万人 貴州省

コーラオ族は高地に住み、ミャオ族や漢民族などと混住して暮らしている。トウモロコシを中心に稲、小麦、芋などを栽培。一部では「かじ屋のコーラオ」と呼ばれるほど鉄細工も盛ん。彼らの新年に当たる「仡佬年」が有名。木に捧げ物をするこの祭りには、次のような伝説がある

「かつて、貴州西部のある地域に大きな森林があった。 全く人が住まないこの場所に、 1組のコーラオ族の将軍の息子と同族の女がやって来た。 森には住む場所や食糧はなかったが、 2人は大きな木の下で暮らすことにした。 彼らは木の実を食べて生活し、やがて子どもが生まれた。 2人はこの木を神の木として彼らの生活を支えてくれたことを感謝したが、その話が森の外に暮らす人々にも広がっていった。 以後、コーラオ族の民は木を崇めるようになった」

 

22.トンシャン族 (東郷)51万人 甘粛省

モンゴル系でありながら、イスラムを信仰している。識字率が低く、歌、伝説、故事、叙事詩など口承で伝わってきた。イスラムの祭りでは、双管の竹笛「ミミ」による演奏、「ホアル」と呼ばれる歌、まだ踊りで盛大に祝う。

この一帯は砂漠で、オアシスの一つ「五眼泉」には次のような伝説がある。

「その昔、泉の水が干上がって干ばつが続いた。苦しんだ人々は泉の周囲に集まり、一人の僧侶に雨乞いの読経をするよう頼んだ。僧侶が昼夜を問わず泉のそばに座って読経を続けると、三日目の夜、泉から一頭の白い山羊が飛び出してきた。僧侶は頭巾を解いて山羊の角に巻き付け、もう一方の手に持ったベルトで山羊を打った。山羊が苦痛で叫び、跳びあがると、頭上に黒雲が現れ、雨が降り出した。以来、人々は干ばつが続くとこの泉に山羊を連れて、雨乞いをするようになったという」

 

23.ラフ族 (拉祜) 45万人 雲南省

ラフ族は雲南省南西部の山岳地帯に住み、対歌やひょうたんから作った楽器、芦笙(ノム)と、若い男女が踊る「祝福の踊り」「歓喜の踊り」が有名。芦笙はひょうたんの中に芦をさしこみ、筒の中の銅製リードがついていて、振動して重音がでる。

つぎのような伝説が伝わっている。

「人類はひょうたんから生まれたとされる。そのひょうたんから作った楽器『芦笙(ノム)』の音は天に響き、人々の祈りや願いを伝えるものと考えられているという。」

 

24.スイ族 (水)40万人 貴州省

「水書」と呼ばれる独特の文字が巫師により伝承されているので、水族の水は水書からきたのだろう。水稲耕作を営む。周辺のトン族などに共通する「銅鼓」と呼ばれる独特の楽器を有する。水書には、神や霊魂、風水などの内容が書かれているという。スイ族の葬式儀礼は複雑で、死者がでた場合は特別な祭壇を設け、歌舞が捧げられる。

「その昔、スイ族の暮らす一帯は深い密林で、毒蛇が出ることで有名だった。ある日、“秀”という少女が外へ出た際、毒蛇を見かけたが、毒蛇は色鮮やかに咲く花を一見すると、コソコソ逃げていった。秀は家に戻り、赤や緑の糸で服の袖口や襟、ズボン、靴などに花柄の刺繍をした。再び外へ出ると蛇はみんな逃げて行き、彼女はこれを姉妹たちに教え、外へ出るときは刺繍を施した服を身につけることを忘れなかったそうだ。」

この伝説から、スイ族の女性は、刺繍を施した衣服や靴を身につけることが多い。

 

25.ワ族(瓦)40万、雲南省

言語はインドネシア語系、ミャンマーやラオスにも同胞がいる。周囲には、チベット・ビルマ系の民族も多く、昔、首狩りの風習があったと言われる。現在では、主に陸稲を作って、畑作を行っている。東南アジアと共通する「木鼓」と呼ばれる木製の太鼓を使った踊りと歌が伝承されており、村に災難が起き神様を呼ぶ時に使われた。木製の杵で叩く低い音と、竹片で叩く細い音を交互に出して変化をつけ、男女が手をつなぎ、輪をつくって踊る。「スカンリ」という神話が伝わっている。

「小鳥がアワ山をつついて穴を空け、祖先はこの小鳥と共に穴から出て陸地での生活を始めた。家を建て、心を一つに故郷を作ったこと、スカンリという洞穴から来たことを忘れず、子孫に伝えていく」

201312131005401 (ワ族住居)

 

26.ナシ族 (納西) 30万人 雲南省

トンパ教を信仰し、生きた象形文字と呼ばれるトンパ文字を使用し、多くの詩歌、宗教経典などを記録してきた。また、納西古楽を伝承しており、多種多様な楽器を有する。「ある年の旧暦28日、ナシ族の女狩人が麗江の玉龍雪山に猟に出た。そして彼女は、雪のように白い岩を見つける。武将のような姿形をした奇異な岩で、片手で持ちあげられる程軽かった。不思議に思った彼女は、岩を背負って持ち帰ることに。ところが、山麓で岩を下ろした時のこと。再び背負うとすると、岩はまるで地面に根を張ったかのように、ずっしり動かなくなった。彼女はそんな岩を神の化身として、祠に奉ることにした。以降、山麓では白の矛を持ち、白馬に跨った武将の姿が目撃され、村で戦が起これば、武将が多くの兵士を連れて応援し、火事には雪を降らせて鎮火した。民はそんな将軍を、守護神“三朶”として崇めるようになった」という伝説がある。この伝説により、旧暦28日には「三朶節」があり、男子は馬術、女子は舞踊を披露する。

 

27.チャン族 (羌) 30万人 四川省

チャン族は石造建築や井戸を掘る技術に長けている。平たい石を組み上げて作られた石楼は特に有名。唐の時代に、チャン族の一部はチベット族に同化され、また一部の人たちは漢族に同化された。また、四川料理に欠かせない「花椒」という香辛料がそこら中に赤く実り、この地の景色を美しく彩っている。

次のような白石伝説が伝わっている。

「チャン族が強敵を神の啓示によって倒した際、戦勝を記念し神を祀ろうとしたが、神に形がなかった。そのため、夢で見た白石を象徴として崇めるようになった。白石(石英)を神に見立てて祀る。」

この近辺の観光地は、「九寨溝」と「黄龍風景区」。

 

28.トゥ族(土)、24万、青海省

モンゴル系の民族で、家畜放牧を主としている。民族の伝承では、チンギス・ハーンの武将が率いたモンゴル軍が現地の人々と通婚し、トゥー族の祖先となったと伝えられている。そのためモンゴル族とは関係が深く、彼らのことは「ハラ・モンゴル(黒いモンゴル)」、自分たちのことを「チャガン・モンゴル(白いモンゴル)」と呼ぶそうだ。もともとは、遊牧や牧畜に従事していたが、明代あたりから農業に転じた。

旧暦の7月12日から9月15日にかけては「ナードン」という祭りが行われ、出演者は全員仮面をつける。「ナードン」とはモンゴル語で「喜び」を意味し、祭り期間中には二郎神の神輿をかつぎ、豊作を祝うと共に、来年の豊作を祈る。また、客をもてなすことが好きなトゥー族は、客人が来ると歓迎のための「敬酒歌」や「アンショ踊り」を披露し、貴重な羊の肉や、白酒などの酒を振る舞う。なんとなく、日本の東北を思わせる民族性だ。

201312131330411 (写真は観光客参加の踊り、アンショ踊りと思われる)

 

29.ムーラオ族 (吴熙)20万人 広西省

歌で恋愛を歌う「歌垣」が有名。男性が意中の女性に歌を送り、女性が歌を返す。そういった歌謡文化を今日に伝承している。彼らが住む地域は炭鉱が多く、現在、炭鉱労働に従事する者が増えてきた。近隣のマオナン族やスイ族と共通する文化を有する。

「白馬姑娘」という祭りがあり、その祭りの由来は次のような伝説にもとづく。

「古代、ムーラオ族の村を獣王率いる獣たちが襲った。その危機を、圧倒的な力を持って助けたのが、白馬姑娘だ。彼女はその後、人々に穀物の種や、牛などを与え、村は栄えていった。これを記念し、定期的に開いていた集会が、今の依飯節になった」

 

30.シボ族(錫伯)17万、遼寧、吉林省

シベ族とも言う。清朝時代に新疆地区の平定の為、東北地方から多くの兵士と家族が徴用され辺境守備にあたった。それ以来、新疆ウイグル自治区に定住している人々と、昔から遼寧省に住む人々がいる。シボ文字は満州文字を改造して考案され、自分たちの言葉を守り続けている。元は狩猟民族だったが、現在は、農耕・遊牧生活に従事。

シボ族の祖先が、南下し、北魏を建国した際に下記のような伝説が生まれ、「西遷説」と呼ばれ、民族最大の祭りとなった。この日、叙事歌「西遷之歌」を歌い、口琴、弦楽器「ドンブラ」を弾き、踊る。

「南を目指した人々は、鮮卑と呼ばれていた。彼らが大興安嶺山脈の中で道に迷い、途方に暮れていると、虎のような爪を持ち、馬に似た身体に角を生やした、一頭の聖獣が現れ、道案内をしてくれた。彼らはこれをトーテム獣として祀ることにし、住居の西または北の壁にこの獣の図を飾るようになった」

201312062038431 (シボ族の住居)

 

31. キルギス族 (克孜)16万人 新疆ウイグル自治区

クルグズ族とも言う。民族の多くは国境をはさんだキルギスタン共和国に住む。カザフ族もキルギス族も遊牧を営むが、カザフ族は草原に住み、キルギス族は山岳地方に住む。男は放牧し、女は乳搾りやバターなどの乳製品を作る。住居は天幕式住居(ユルト)、あるいは定住用の家もある。季節に応じて山中の放牧地を移動する遊牧生活を営む。伝承されている長編叙事詩「マナス」は数十万行からなり、世界的に有名である。勇士マナスを始め、三代にわたる周辺民族との戦いを歌ったもの。弦楽器「コムズ」や口琴「オオズ・コムズ」の伴奏がつく。

 

32.ダフール族 (达斡 13万人 内蒙古自治区・黒竜江

ダウール族とも呼ばれる。居住地によって、遊牧、半農半牧、農耕など生業が異なる。狩猟は副業。狩猟の際は、「鹿寄せ笛」を吹く。旧暦の1月には、「ホウオドゥール(黒い灰の日)」という祭りがあり、黒い灰を子供の額に塗って、魔よけとする。伝説では、顔を黒くぬって、鬼の目をごまかすという伝説があったらしい。かなり昔から定住生活を行う。モンゴル系民族に共通の習俗や文化を有し、シャーマニズムが盛ん。「ルリグレ」という女性集団舞踊は遠き日の狩猟生活を表している。

 

33.チンポー族 (景頗)13万人 雲南省

地続きのミャンマーにも多く住み、カチン族としても知られる。水稲が盛んで農業が生活を支える。武勇を貴ぶ民族で、男は、常に長い山刀を離さない。祖先を崇拝し、精霊を信仰する。

「目瑙縦歌祭」では太陽神の柱の周りを、男性が刀を持って踊る。その勝利の踊りの由来は、次のような伝説に基づく。

「かつて、チンポー族が平和に暮らしていた頃、突如、人の子を喰う魔王が現れた。ある日、村人たちが子供を生贄として差し出すことを拒んだため、魔王は怒り、洪水を起こし、水で田を埋もれさせた。その時、雷盼というチンポー族の若者が現れ、魔王に立ち向かっていった。一人で勇敢に戦うその姿に感動した太陽神は、彼に聖なる刀を与え、雷盼はその刀でついに魔王を滅ぼした」

 

34.マオナン族 (毛南)10万人 広西チワン族自治区

畑作を中心とする農耕民で、漢族とチワン族の文化的影響が強く、多神崇拝を行ってきた。非常に勤勉で、手先の器用な民族。米、サツマイモ、マオナン菜牛という牛肉も有名。祭礼は「師公」と呼ばれるシャーマンが執り行う。彼らは同じ姓を持つ者同士で村落を形成する。

「かつて、マオナン族の村に一人の法師とその娘がいた。娘は菖蒲の葉で鳥を作ることに長けており、周りから“小鳥娘”と呼ばれた。ある日、娘は若い男と恋に落ち、新年に結婚することに。法師は男を試すため、全ての水田に稲の種を撒くよう男に命じたが、男はうっかり稲とアワの種を間違えてしまった。法師に誤って撒いた種を全て回収するよう命じられた男が困り果てている様子を見た娘は、菖蒲の葉で作った全ての鳥に息を吹きかけ、男にこれらを野に放つように言った。男が言うとりにすると、鳥は男の手から羽ばたいて飛び出し、種を拾い集めて戻ってきた。法師は種が回収されたことを喜び、娘との結婚を認めた。」この伝説から、「放鳥飛」という行事が行われるようになった。菖蒲の葉で鳥の形をした包みを作り、もち米や小豆を詰めて蒸し、屋内の台所に吊るす。

 

35.サラール族 (撒拉)、10万人、青海、甘粛省

祖先は、中央アジアのウズベキスタン・サマルカンドから移住してきたオグズ族が、チベット族や満族、回族と混じって生まれた民族。敬虔なイスラム教徒が多い。大きな祭りは、断食明ける日の「開斎節」。農業を営み、小麦、ソバ、粟、ジャガイモ、大豆、唐辛子などを栽培し、また、果樹園の経営にも優れている。写真右はコラーンの内容を読みあげるための尖塔、ミナレット。青海省の「駱駝泉」と呼ばれる場所には次のような伝説が伝わっている。

「その昔、サマルカンドの小さな部落に、酋長を務める兄弟がいた。二人は部落民の信望が厚く、現地の支配者に恨まれ、迫害された。そこで二人は18人の一族郎党を連れ、一頭の白いラクダに水と土を積み、新たな楽園を求めて旅立った。天山や嘉峪関、黄河を超え、循化に辿り着いた後、彼らは山に上ったが、周りが暗くなったためラクダとはぐれてしまった。翌朝彼らが探し回ると、ラクダは街の外れの泉の中に横たわり、すでに白い石になっていたという。持参した水土が現地のものと類似していたため、彼らはこの地に定住することを決めた。困難な旅を共にし、泉の中で石となったラクダはいつも一族を見守り、泉はいつしか、”駱駝泉”と呼ばれるようになった」

201312062149461  (サラール族の住居とミナレット)

 

36.プーラン族(布朗)、9万、雲南省

プーラン族は農業とプーアール茶で生計を立てている。住居は高床式。長い間、タイ族と混居してきたため、小乗仏教の信徒が多く、共通する楽器を用いる。ミャンマー東部にも数万人のプーラン族がいる。最大の祭りは「厚南節(桑刊節)」。この日、人々は井戸に出向いて水神に餅や米を供え、汲み上げた水で作った料理を祖先神に供える。

「グミヤー」という神が天地創造の神で、次の神話が伝わっている。

「グミヤーは、”リ”という、サイによく似た巨大な獣を殺し、皮で天を、肉で地と万物を、最後に脳を使って人間を作った。そして”リ”の脚を東西南北に立てて天を支える柱にし、亀を一匹捕まえて大地を支えさせた。その後グミヤーと仲の悪い太陽9姉妹と月10兄弟が、この世界を滅ぼそうと一斉に現れたため、大地は乾いてひび割れ、植物は枯れた。グミヤーは最も高い山へ登り、太陽や月を弓矢で次々と射落としていった。太陽と月は残り一人ずつになり、グミヤーを恐れて洞窟へ隠れたので、地上は闇に閉ざされた。そこで雄鶏が太陽に優しく話しかけ、雄鶏が鳴いたら出てくるよう説得し、月と交互に出るよう約束させた」

201312131058221 (プーラン族住居)

 

37.タジク族 (塔吉克)4万1千人 新疆ウイグル自治区

海抜3000メートルを越えるパミール高原で、半遊牧半定住の生活を営む。

タジク族は、中国少数民族の中で唯一のペルシャ系民族で、「タジク」とは現地の言葉で「王冠」を意味する。パミール高原の西南部に住んでいた人々が移住してきたと考えられており、伝統的に大家族で生活していることが多い。

鷹が英雄のシンボルであり、タジク族は、天空を舞う勇壮な鷹を、聖なる生き物として敬う。祭りに鷹の舞と、鷹の翼の骨で作られた笛「ノイ」を欠くことができないのは、こんな伝説に由来する。

「その昔奴隷として暮らしていたタジク族は、鷹を伴う狩猟の腕で知られていた。タジク族の少年ワーファの祖父は、ある日カモシカを捕えたが、領主に奪われ、気を落として死んだ。その後ワーファの父親が熊を捕え、奪われることを恐れて逃げたが、領主は見つけ出して焼き殺してしまった。ワーファは悲しみに暮れ、祖父の残した100歳になる鷹に想いを嘆いた。しかし領主は、ワーファにその鷹までもを差し出すよう命じた。すると鷹は〝私を殺し、翼の骨で笛を作りなさい。その笛を吹けば、どんな望みも叶いましょう〟と言うのだった。ワーファが涙をのんで鷹を殺し、作った笛を吹くと、鷹の大群が領主の頭上へ押し寄せ、領主に、牛や羊、ラクダをタジク族の人々に与えることを約束させた」。

 

38.アチャン族 (阿昌) 34千人 雲南省

 タイ族と深い交流関係を持ち、小乗仏教を信仰する。大部分が農業に従事し、稲作や焼き畑に従事しているが、明代のころは、「戸撤刀」という刀の質が優れていた。祝祭日には、未婚の若者が求愛の歌を掛け会う「歌垣」がある。創世記の伝説は次の通り。

「天地が誕生する前、一筋の光が差し込み、混沌とした世界は光明と暗黒に分かれた。その際に生まれたジェパンマは天、地母ジェミマは地をそれぞれ創った。二人は天と地が重なる山の頂上で出会い、ジェミマは一粒の卵を産み落とした。9年後、9人の女の子が生まれ、ジェパンマとジェミマは災難や病気を取り除く占いや、狩猟、料理など生活についての知識を授けた。これが最初の人類である。」

 

39.プミ族 (普米) 33千人 雲南省

13世紀頃、チベット高原から南下し現在地に定住した。生活している地域は、平均海抜が2600メートル以上の高原山岳地帯であり、農耕を主体とした生活を送っている。もともとは、騎馬民族で遊牧生活をしていた。その後南下し、農耕生活に入ったとされている。以前、ナシ族に支配されていた時期があった。有名な祭りは、山の神を祭る「転山節」、小麦の酒を作って豊作を祝う「蘇里瑪節」、13歳で成人式の「大年節」。「大年節」はフビライ・ハンがプミ族の13歳の若者が二人勇敢に戦ったので、賞賛したことに由来する。

 

40.エヴェンキ族(鄂倫春)、7千万人、内モンゴル、黒竜江省

エヴェンキ族は北東アジア地域に住むツングース系民族の1つから源を発している。名の「エヴェンキ」とは、〝森林に住む人々〟を意味し、黒龍江省や内モンゴル自治区の山林地域に暮らす。農耕、牧畜業を生業とし、居住地の1つである黒龍江省の大興安嶺に、約2万平方㍍の天然牧場を有する。毎年旧暦5月に行われる収穫祭「米調魯節」では、白樺の皮の衣装を身に付けた舞踊が披露されるほか、現地の作物を使った料理が盛大に振舞われる。そんな彼らの生活の中で欠かせないのが白樺の木の皮。〝樺皮文化〟とまで称されるエヴェンキ族の暮らしには、狩猟や農耕具から、食器、住宅建材、衣服に至るまで、生活のあらゆる場面で白樺の皮が登場する。次の古い言い伝えの中にも白樺についての記述が。移動手段として馬ぞり、狩猟時はスキー板も使う

伝わっている伝説は、次のようなもの

「その昔、あるエヴェンキ族の狩人が白樺の森林に入り込んだ時、美しい娘に出会った。

2人は惹かれ合い、共に過ごすうちに結婚することになった。双方の両親も相手を気に入り、狩人が娘を娶る準備をしていたが、ある時、娘が森に住む悪魔にさらわれてしまった。

悪魔は川の中に逃げたが、狩人は悪魔を追って川に飛び込んだ。水の中では攻撃が不利だったが、苦戦する狩人を見た娘は、1隻の白樺の舟に変身。狩人は舟の上で悪魔を倒し、2人は無事結婚、幸福に暮らすこととなった。それからというもの、エヴェンキ族の民や漁師たちは水地に出る時は必ず、白樺の舟に乗るようになった」

下の写真は、展示してあった住居だが、まるでアメリカ・インディアンのテントに良く似ている。もちろん、材質は白樺だと思われる。

201312121319581 (エヴェンキ族の住居)

 

41.ヌー族 (怒)28千人 雲南省

高い山岳地帯に住む民族。怒族と漢字では書くが、別に怒りっぽい民族ではない。非常に礼儀を重んじていて、お互いに仲が良い。途中で知人あるいは見知らぬ人に出会っても、道を譲って挨拶をわすれない。客があると、家族全員起立して出迎えると言う。トウモロコシや麦が主食。「その昔、ヌー族の住む山村に阿茸という聡明で美しい女性がいた。勤勉で苦労を惜しまない彼女は、以前から干ばつで農作物が育たない村の現状をどうにかしようと、山を切り開き、泉から水を引き出した。おかげで村には水が行き渡り、草木一本生えない荒野に作物が育つ豊かな緑野になった。こうして阿茸は人々から仙女と呼ばれ、崇拝されていたが、ある日、村の男に強引に言い寄られた。彼女が拒否すると、男は無残にも彼女を洞窟で殺害してしまった。その日こそが、旧暦の315日だった。」という伝説があり、その日になると、山の洞窟に花を捧げ、ご馳走を準備し、歌と踊りで、仙女、阿茸の魂を鎮める。自然崇拝が多いが、キリスト教の信者も多い。長くリス族と雑居してきたため、ヌー族のほとんどがリス語を話す。トウモロコシとソバを使った“咕酒”、“酒”が有名。

 

42.キン族(京族)、2万、広西チワン族自治区

ジン族とも呼ばれる。トンキン湾の沿岸や島で、漁業、養殖業に従事。引き網漁、いかだ漁、潮の満ち引きを利用した独自の漁で、エビ、鮫を獲る生活を営む。養殖は、真珠、タツノオトシゴ。

文化的には現在のベトナムの主要民族キンと共通する。豊富な口承文芸があり、「独弦琴」はキン族独特の楽器である。毎年旧暦の6月や8月には、「唱哈節」があり、祭りの前日には、今年の大漁を感謝し、三日三晩、皆で歌い踊って、来年の豊漁を願う。伝わっている伝説は次のとおり。

「その昔、今のベトナムのバック・ロン・ヴィー島近くの海には、大ムカデがよく現れた。近くを通る船は大ムカデに遭遇すると、生贄として人を捧げなければならず、捧げないと船ごと飲みこまれてしまうため、ジン族の人間はとても恐れていた。ある日、一艘の船がバック・ロン・ヴィー島を通りかかった時、大ムカデが現れた。怖れた船長は年老いたジン族の男を捧げようとしたが、この男は、ムカデを怖れるどころか、火で焙った金属製の武器を持って大ムカデの口に飛び込むと、殺してしまった。後に、この男が当時伝説の海の神として語られていた”鎮海大王”なる英雄であることが分かり、人々は彼を大いに崇めた。」

201312061703361 (京族の住居)

 

43.ジノー族 (基 2万人 雲南省

ジーヌオ族とも呼ぶ。ジーヌオとは山の名前。その山の麓に居住したことから、ジノー族と呼ばれた。1979年に55番目の少数民族として認知された。古来太陽を信仰する民族で、「打鉄節」と呼ばれる祭りでは、「太陽をかたどった太鼓、太陽鼓」の演奏が披露される。男は積極的に狩猟を行い、外出の際は弓矢か猟銃を携帯する。太陽鼓にまつわる洪水神話が伝承されている。

「かつて、世界が大洪水に襲われ、絶滅の危機に瀕した時、ある女神が大きな太鼓を作り

その中に一組の男女を乗り込ませた。川に放たれた太鼓は、流れに乗ってジーヌオ山に漂着。二人は太鼓から出ると、この地で共に農耕に励み、結婚して子供を育てた。その子供が子孫を残し、人口が増え、やがてジーヌオ族と名乗るようになった。それ以来、太鼓は、滅亡から救った神聖な物として信仰されるようになった」

 

44.ドーアン族 (德昂)18千人 雲南省

ドアン族とも書く。稲、トウモロコシ、イモ、綿花を作る農耕民族であり、茶の栽培が特に有名。“古老的茶農”と呼ばれた民族であり、日常生活で、非常に濃くいれた茶を飲む習慣がある。民族的には、ワ族に近いが、文化的には同地域のタイ族の影響を強く受け、楽器なども共通する。毎年4月になると、溌水節という行事があり、周りの人や物に水をかけあう。「その昔、ドアン族の村に、母親と阿仏という息子が二人で暮らしていた。心優しい母親は日夜懸命に働いたが、過労がたたって片眼を失うと、阿仏はこれまでのように働くことができなくなった母親をしばしば罵るようになった。そして、ある日、阿仏が山に芝刈りに行った時のこと。一羽の鳥が飛んできたので、阿仏は小石を投げて追い払おうとしたが、見て見ると、鳥が再び飛んで来て、年老いた痩せた鳥に餌を与え始めた。この光景を見て阿仏は、自分は鳥にも劣る、と母親への態度を恥じた。やがて母親が死ぬと、阿仏は母親の姿の木像を彫り、遺体と共に木の下に埋め、毎日墓前で詫びた。そのうち年月が過ぎ、色あせた木造を取り出すと、花びらをつけた水で丁寧に洗った。そして、阿仏が芝刈りに行った日が清明節の7日目だった。」この伝説が溌水節の起源。

 

45.ボウナン族 (保安) 16千人 甘粛省

バオアン族とも呼ばれる。元朝の時代には、青海省で暮らしていたが、清朝の時代に、甘粛省に移住してきた。イスラム教派のモンゴル族が彼らのルーツだと言われている。民謡が豊富で「ホアル」などの他、「宴席歌」という結婚式に歌われる民歌が有名である。「保安腰刀」と呼ばれるナイフの生産技術に優れている事でも知られる。「保安腰刀」にまつわる伝説は次の通り。

「その昔、バオアン族が平穏に暮らしていた頃、突然悪魔が現れた。女性達を次々に襲う悪魔にバオアン族の人々は怯えていた。そんな中、哈木克という血気盛んな刀鍛冶が、悪魔に立ち向かった。哈木克は刀で悪魔を刺したが、悪魔はびくともしなかった。哈木克が悩んでいると、翌日夢で一人の老人に会った。老人は哈木克に”波日季”という木を探し、その木の葉の形を模した刀を作ればよい、と告げた。翌日、老人の言うとおりに、”波日季”の木の葉の形に刀を作り、再度悪魔に立ち向かうと、悪魔はその刀を見ただけで、首と身体が離れて、哈木克の足元に倒れたという」

 

46.ロシア族 (俄羅斯)15千人 新疆・イリ・カザフ

オロス族とも呼ばれる伝統と礼儀を重んずる民族。 帝政ロシア時代、ソビエト革命後に、シベリア地方などから移住して住み着いたスラブ系のロシア人。「列巴(フリェーブ)」と呼ばれるパンを主食としている。都市に居住するロシア族は運輸、手工業に従事し、農村地帯のロシア族は養蜂、牧畜、小麦などや園芸に携わっている。マトリョーシカ人形の工芸品と逸話で有名。「ある兄妹が羊を放牧していた時、妹がはぐれてしまった。みつからない妹を想って、兄は木に妹の姿を刻んだ。何年経っても妹は見つからず、成長して妹を想う兄は、その度一回り大きな姿を刻んだ。」こうして、数が増えてゆき、今日のマトリョーシカ人形が誕生したと言われている。非常に踊りが好きな民族で、マンドリンやバラライカに合わせて、男女が一緒にダンスをする。

 

47.ユーグ族 (裕固)13千人 甘粛省

ユグル族とも呼ばれる。中央アジアのウイグル族と近親関係にあるとされるが、チベット仏教を信仰する。ほとんどが遊牧生活で、羊毛や肉、牛乳、皮革などが収入源。近年は、大麦、アブラナ、小麦やじゃがいもも育てている。住宅はゲル(パオ)に住むが、一部の人々は定住化している。明代初期までは遊牧生活を維持していた。今は、漢語を日常的に使うが、ユーグ族のアイデンティティは強い。「白鳥と琵琶」という伝説が伝わっている。

「その昔、ユグル族が楽器を持たなかった頃、一日中こき使われては腹一杯食べることもできない若者がいた。しかし、彼は素晴らしい歌声の持ち主で、彼が歌うと人々は憂いも苦しみも忘れることができ、一羽の白鳥が舞いおりて来て、歌に合わせて羽ばたいたのだった。ある日彼がいつもの湖畔に行くと、白鳥は鷹に襲われ死んでいた。彼は非常に悲しみ、白鳥の骨を持ち帰ったが、翌朝、骨は美しい琵琶となっていた。琵琶を弾いてみると、天女が舞い降り、彼と共に馬に乗って草原を駆けて行くのだった。」

 

48.ウズベク族 (烏孜別克)14千人 新疆ウイグル自治区

民族の大半は、旧ソ連ウズベキスタン共和国に住み、アフガニスタンにも130万人が住む。14世紀のキプチャク汗国に起源を持ち、シルクロードを通って中国内にたどりつき、商業を営むようになった。中国では都市部で貿易や教職などにつく裕福な家庭が多い。イスラムの祭日「クルバーン」、断食明け祭り「小バイラム」には、客を招いて盛大に祝う。音楽や踊りを愛する民族。叙事詩「ウルグ・ベグ」は有名。

 

49.メンパ族  門巴族 9千人、チベット自治区(西蔵)

チベット自治区の門隅地区に居住、農耕生活が主で、小麦、米などの穀物を栽培。木製食器が工芸品。言い伝えとして、木こりが山で、食事をしていたとき、不注意にも土の椀を壊してしまった。とっさに切った木を削り、木の椀を作ったところ、その椀が村中に広がったと言われる。錯那県は中印国境紛争地域に当たる、チベット仏教およびボン教が宗教。毎年6月になると収穫を祝う「曲科節」という新年祭が催される。

 

51.トールン族 (独龍) 74千人 雲南省

生活は農耕・牧畜。女性の顔面(眉間にバツ印、両頬から口にかけて刺青装飾が見られる。世界の万物に聖霊が宿ると信じ、自然を崇拝する。村によっては、電気もなく、水も不便だが、自然の過酷な中で暮らしている。伝説は次のとおり。

「昔、この一帯を覆い尽くす洪水が起こった時、山へ入って難を流れた少年・彭根朋は、天神の二人の娘のうち、彭根朋は、木美姫という隻眼の娘を選び、天神の許可を得て地上へ連れ帰ることにした。天神は、二人に穀物の種や幾種類もの動物、虫などを与えたが、帰る際後ろを振り向いてはならぬと二人に告げた。しかし、凄まじい動物の鳴き声を聞いた木美姫がうっかり振り向いてしまうと、動物たちは一目散に逃げた。二人は慌てて動物を追ったが、豚、馬、牛、鳥などしか捕まえることができなかった。トールン族がこれらの家畜しか持たないのは、このためである。また天から遣わされた書物を二人の子供達が食べてしまったため、トルーン族は文字を持たず、歌や故事など全てを口承によって残すことになった。」

 

52.タタール族 (塔塔 4千八百人新疆ウイグル自治区

タタール族は、中国国内で5000人にも満たない。司馬遼太郎の小説で、「韃靼疾風録」という小説があるが、あの小説で出てくる韃靼の王女は、この種属にあたるだろう。外見は青い瞳の白人系、モンゴル系など様々いるようだが、小説の主人公は白人系だと想像した方が異国情緒があるかもしれない。ヨーロッパではタタール人と呼ぶ事が多い。

「タタール」の語源はテュルク系言語の「ほかの人々」を意味するもので、日本では中国から伝わった「韃靼」を使用し、元朝滅亡後のモンゴル系諸民族をこう呼んだという。

タタール族は、毎年夏に行われる「サバントゥイ」という祭りが有名だ。「サバントゥイ」とはテュルク系諸語で「犂(すき)の祭」を意味し、彼らの伝説によれば、雪解けが始まる春、種蒔き時期の前に豊作を願って行うものである。世界中に分散するタタール民族が、イスラム化する以前より行われており、競馬や木の棒登り、卵を載せたスプーンを口にくわえて走るレースなど、ユニークな競技で構成される。中国領内のタタール族は商業と手工業に従事している。

中でも「キョレシ」と呼ばれるタタール式レスリング競技は、祭りの最後に決勝を行い、勝者は「バートゥル(勇者)」と呼ばれ、優勝賞品を手にすることができる。その昔、東ヨーロッパの人々は、タタール族のことを「タルタル人」と呼んだ。「タルタルステーキ」はその頃のタタール族の食文化が起源とされ、世界中に広がっている。

遊牧民族であったタタール族は、乗用だけでなく食用のためにも、馬を何頭も連れて移動した。しかし馬は筋張って固く、鞍の下に肉を入れた袋を置いて潰し、匂いを消すためにスパイスを混ぜたのだそうだ。ほかにも、レーズンや干しアンズを使ったケーキや、じゃがいもを織り込んだパイなど、タタール族の料理はどれも世界中で愛されている。

 

53.ホジェン族 (赫哲)、0.4万、黒竜江省

黒澤明が監督した映画「出るス・ウザーラ」は、ホジェン族の生き方を描いたもの。もともとは河付近にて漁業で生計立てている部族で、川魚を獲り、犬を連れて狩猟、採集を行っていた。生活風俗は、アイヌ民族と通ずるものがあるそうだ。ロシア領内にナーナイ族として約1万人の同胞がいる。松花江、ウスリー江、黒龍江(アムール川)などでサケ類、マス類、チョウザメを捕り、優れた漁業技術を持つ。伝説は次のとおり。

「まだ世界に海と泥しかなかった頃、神は泥と海水を手にし、握って大魚を作った。またいくつかの泥人形を作り、陽の下で乾かして人にした。人間の汗がしょっぱいのは海水で作ったから、入浴するのは泥を流すためと言われている」

201312061220351 (ホジェン族住居)

 

54.カオシャン族(高山)40万、台湾・福建省

日本ではかつて高砂族と呼ばれた。台湾、福建省、浙江省に暮らす。ベトナムに血筋をもち、山岳地帯に住んだことから、高山族と呼ばれた。主に農耕、牧畜、狩猟で生活を支えた。伝統的な競技に「刺球」がという試合があり、空中にあげられた球を竹竿で下から刺す競技。この競技には次のような伝説がある。

「かつて、高山族の若者が火の番をしていた時、一頭の虎が突然現れ、火を消そうとした。若者は竹竿で虎を突き刺し、火を守りぬいた。後に、彼の勇敢さを称え、この競技が行われるようになった。」

201312070948331 (高山族の住居と見張り台)

 

55.ロッパ族 (珞巴)3千人 チベット自治区(西蔵)

最も人口が少ない少数民族。狩猟民族で、鳥、鹿、野牛などを捕える。矢の先に毒を塗って弓を射る。弓術の上手さで男としての真価が問われた時代もあった。現在は、農業に従事している。インド領内にも同胞がいる。「ある日、ローバ族の男が白湖と黒湖という二つの湖の畔で薪割りをしていた時のこと。白湖から白い牛、黒湖から黒い牛が急に現れ、2頭が争い始めた。黒い牛は白い牛を圧倒し、殺す勢いであった。これを憐れに思った男が黒い牛に矢を放つと、黒い牛は倒れ、湖は赤く染まっていった。その後、白湖から一人の娘が現れ、男に礼をするため、湖底にある城に招いた。男は言われた通り城に行き、主に会った。実は、主は先の白い牛で、娘の父親であった。男はしばらく手厚い歓待を受けたが、地上に帰ることを伝えると、主は、手土産に欲しい物を与えると言った。そこで、主に仕えていた老婆が、男に白い犬をもらうように勧め、男は言われた通り白い犬をもらって地上に戻った。すると突然、犬が白い皮を脱ぎ捨て、先ほどの主の娘に変身した。娘は男の生活を助け、やがて二人は結婚し、幸せにくらした。」この伝説は、どっか、漁師である浦島太郎を、猟師に置き変えたような、よく似た話かもしれない。ハッピーエンドの部分が随分と異なる。

 

 

今回、北園で見逃した場所や、行くことができなかった南園には、まだまだ見学場所があるようなので、もし次回に機会があったら、残りの部族も紹介したい。写真は次回に用意するとして、一応、残った少数民族の紹介のみを記しておく。

 

南園が開いていれば、ほとんどの民族館をまわることができたとおもうのだが、残念だ。民族園の入り口を入って、すぐ右端に大きな建物があり、そこでは時間帯によっては、いくつかの民族による下記の写真に見られるような民族舞踊のパフォーマンスをやっている。時間があったら、のぞいてみたらどうだろう。

201312141755261 201312141734371 201312131922011(各種民族舞踊)

2013年12月 2日 (月)

北京レポート(69)北土城遺祉公園

北京には公園と名のつくものは、あまりにもありすぎて、いったいいくつあるのかは、わからないが、どこの名所に行っても、大なり小なり公園がついてくる。公園そのものに、興味がある人は、楽しいかもしれないが、あまり興味がない人にとっては、食傷気味となる。

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しかし、この北土城遺祉公園は、一度、散歩してみる価値はあるのではなかろうか。ただ、歴史の重みを感ずることができるかどうかは、あなたの想像力しだい。この公園に行くには、地下鉄10号線の次にあげた八駅、どこで降りても徒歩数分以内で公園に歩いてゆける。芍薬居,恵新西街南口,安貞門,北土城,建徳門,牡丹園,西土城。旅行ガイドの本によっては、東の端である芍薬居駅を薦めているが、どうだろうか。北京服装学院をめざして歩けば良いのだが、立体交差になっているために、この公園に降りていく道順がわかりにくい。結局、北京服装学院を一周して公園にたどりつくという迂回路をとってしまった。芍薬居駅以外の七駅のほうが、駅のすぐそばなので、わかりやすくたどりつきやすい。

 

公園に着くと、眼に着くのは小高い丘が朝陽区から一部海淀区まで、地下鉄でいうなら芍薬居駅から、西土城までえんえんと続いている。途中で、通りに切断されている場所が9か所、さらに丘がまったく消えてしまっている場所もあるが、それでも長さは、朝陽区だけで約4km、朝陽区と海淀区両方を含めると7km。

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公園にある土堤の外見は、一見したところ、多摩川の堤防より、幅が狭いせいか小さい気がする。多摩川の土堤も高さが6m前後だろう。遺祉公園の土堤も低いところでは2.7mで、高いところでは7mほどの高さ、幅は以外とせまく20m前後。この土堤に沿って、小月河という名前の小川が流れている。整備されたのは1985年だから比較的新しい河だ。それ以前に、土堤と小川が防壁として一体化されていたかはわからない。日本の城には、常に堀があることを考えると、后海まで続く細い運河があったと考える方が自然かもしれない。小川の周辺および土堤にはアカシア、マツ、クルミ、カシワなどの樹木が茂っている。

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この土堤は、大都の北から押し寄せてくる敵に対する防壁となった。したがって、大都の都市の北側、上部分を形成していることになる。しかし、なぜ、北側だけを防壁で固めなければならなかったのだろうか。これは、あくまで想像だが、騎馬民族に対する防御だったのだろう。チンギス・ハンも騎馬民族であっただけに、防壁が騎馬民族にどれだけの脅威であったかを知っていたのではなかろうか。騎馬民族といえば、遼が栄え、金の時代になり、その金を元が滅ぼした。しかしながら、東北に住む騎馬民族が全て消えてしまったわけではない。やがて、力を持って大都を攻めてくるかもしれない。

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それなら、大都の周囲をすべて防壁でおおってしまうべきではないかというかもしれない。

その点は、南船北馬という考え方から言って、騎馬民族は北方系なのだから、北の守りのためには防壁が必要だが、南から攻めて来ても、騎馬民族ではないので、脅威にはならず、防壁はさほど必要でないことになる。そもそも、南から敵がやって来ても、蹴散らせる自信があり、脅威とはみなされなかったのだろう。

 

日本でも、徳川幕府が成立してから、幕府を脅かす敵は、常に西であった。薩摩であり長州藩が、いつかは攻めてくると考え、戦略的に大井川に橋をかけることを許さず、常に渡し人足を使わなければならないようにした。モンゴル帝国が南に防備を敷かなかったように、江戸幕府にも、東北脅威論なるものは、まったくなかった。ところが、攘夷論は水戸藩から持ちあがり、西に広がってゆき、討幕運動となったように、中国でも、木下藤吉郎のように乞食から皇帝に成りあがる朱元璋が南から出て来て、北からではなく、南から元朝を倒し、明朝を建てたのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

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しかし、7mの高さの丘では、騎馬民族を防げただろうか。馬に乗って駆け登れるから、防御にならないのではと言う人もいるかもしれない。平原では、馬に乗って疾走する兵を弓で射るのは、非常に困難だ。なぜなら、標的はかなり早い速度で動いているからである。しかし、小川や防壁の斜面に達すると、いままで動的な標的であったものが、突然、動きがスローになり、静的な標的となり、弓で狙いをつけて射ることができるようになる。しかも、地表面から馬上を狙うよりは、土堤の上から馬上を狙うほうが、簡単だったろう。

 

土堤が建てられたのは1267年から1276年の間、約13年間かかった建造された。この土堤が、実際の戦争で使われたという記録は、いまのところない。1267年というと、チンギス・ハンの宰相だった耶律楚材が亡くなって、20数年経ち、チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハン (クビライ・カアン)の治世の時代になる。1271年に大都(現在の北京)に遷都しているので、その四年前から、壮大な大都を造りあげるための土木工事を始めたことになる。しかも、この土堤を作った、一年後には日本の鎌倉幕府に使者を送り、降伏を呼びかけているのである。しかしながら、鎌倉幕府の執権北条時宗はこれを拒否し、使節を殺害。それから、四年後には、日本では元寇と呼ばれている遠征が行われ、日本史で学んだ文永の役(1274)と、弘安の役(1281)という二度による攻撃が行われるが、結局、成功することはなかった。

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おもしろいのは、土堤を散歩している途中でチンギス・カアンや耶律楚材と思われる彫像を見ることができることだ。彫像が立っている場所は、安定門と恵新西街南口付近の公園だ。一般の中国人はモンゴル帝国にどんな印象を持っているのだろうか。チンギス・ハンは恐怖の代名詞であり、殺戮者のイメージが強いが、反面、英雄視されている可能性もありうる。

 

チンギス・ハンが行う戦争のやり方は、徹底した略奪と殺りくが主であった。たとえば、サマルカンドは、包囲の五日目で陥落。降伏を申し入れた。降伏したトルコ系将兵、三万の兵士を、ことごとく処刑している。同じようにキエフなどの都市でも皆殺しは行われた。北京はどうだったかというと、金の支配下にあった北京を取り囲み、兵糧攻めを行っている。北京市内にはある程度の備畜があったが、飢餓状態は三月、四月と二カ月も続き。五月には、とうとう落城している。「糧尽き、人相食む」という言葉が残っているので、食料がなくなると、人の肉まで食べていたのだろう。燕京(北京)を守っていた金国の宰相、完顔承日喗は、落城の際に、毒を仰いで死んだ。

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幸いな事に、落城の際にモンゴル帝国の将軍石抹明安は、「屠城」つまり皆殺しを禁じた。耶律楚材と同じ契丹族(遼の国)の出身だったからかもしれない。北京城内にいた人達は、殺されなかったものの、餓死者は多量にでた。さらに兵士達の略奪が始まり、抵抗する者は容赦なく殺されたと言われる。そうであっても、石抹明安は北京の市民の命を救った英雄だった。ところが、その石抹明安の息子の時代になると、やり放題の独裁が始まり、市民から財産を奪う悪行がはびこり、暗黒の時代になった。モンゴルの宰相である耶律楚材が北京に派遣され、悪行を行った者を罰し、善政を行ったことで、北京は再度復活した。耶律楚材の墓は、和園にあるそうなので、探してみるのも一興だろう。

 

大都時代の面影は残っていなくとも、その当時を偲ばせる場所が北京市内にある。チンギス・ハンの時代の宰相は、契丹族であった耶律楚材だったが、第二代モンゴル帝国皇帝オゴディの時代になると、アブドゥル・ラフマーンという西域人が採用され、さらにマフムード・ヤラワチがこの北京の長官として中央アジアから派遣され、サイイド・アジャッルなどがこの補佐として赴任している。こうして西域人が北京に住むようになり、ムスリム住民は3000戸も住んでいたと言われる。牛街礼拝寺は、元の時代以前に建てられているので、その頃のイスラム教徒の多くは、牛街礼拝寺に集っていたことだろう。現在でも、牛街礼拝寺付近は牛街と呼ばれ、イスラム教徒が買い物や祈りに訪れる場所となっている。

 

さて、朱元璋は貧農の家庭に生まれ、秀吉のように放浪乞食から、身を起こし、白蓮教が率いる紅巾軍に参加した。秀吉が信長から「猿」と呼ばれていたほど、猿に似た顔をしていたようだが、この朱元璋も負けず劣らず、アバタのある顔であったらしい。順調に出世して、紅巾軍の最高リーダーとなる。南京を本拠地として、天皇に即位し、洪武帝と名乗る。明の大軍をひきいて、南から北京に攻め、元の順帝は、ほとんど闘わず北方へ逃げた。フビライ・ハンが北の守りのために造った土堤は、役に立たなかったようだ。こうして、元を倒し、中国統一を成し遂げた明の初代皇帝であるにもかかわらず、洪武帝の評判はすこぶる悪い。功臣を、謀反や連座制により、五万人も粛清したとも言われる。

 

結局、殺戮と略奪、そして力による軍政をしいたモンゴル帝国は90年しかもたなく、日本の傀儡国家と言われた満州国は、14年ほどしか保っていない。明朝は270数年もの長きにわたり、統治した。この違いを考えると、やはり武力や軍事力で支配した国家は短命であり、官僚国家の方が延命のようだ。軍事的に統一国家を目指すということは、ミクロ的な視点には強いが、過去の歴史から学ぶというマクロ的な視点が抜けているのだろう。もちろん、周辺国家の状況にもよるので、一概には言えないだろうが。

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