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2010年5月 7日 (金)

「間」の取り方の難しさ

 

京都に「ギオンコーナー」という、外国人に日本の伝統文化を紹介するプログラムがある。

 

外国人にとっては、一度きりかもしれないが、私たち通訳やガイドは、同じ場所に異なる外国人を連れて何回も訪れなければならない。

 

 

 

茶の湯からはじまり、京舞、雅楽、狂言、そして人形浄瑠璃と続く。

 

何度も通ううちに、演じる人によって客の反応がまったく違う演目があった。

 

それは、狂言だった。 見せる演目は毎回、同じ「棒しばり」という演目。主人がでかけるとき、主人は太郎冠者と次郎冠者に酒蔵にある酒を隠れて飲まれまいと、1人の両腕を棒に縛り上げ、もう1人は後ろ手にしばりあげてしまう。二人は、主人が出かけてしまうと、棒に縛られたままで、器用に酒蔵の戸を開け、酒樽から椀で酒をすくい、飲もうとするが手が縛られているため、飲めない。そこで、後ろ手に縛られた手に椀を持たせ、片方が支え、片方が飲むというふうに協力しあって酒盛りし、酔い、歌い踊る。

 

そこへ、主人が帰ってきて、酒を満たした椀をのぞきこむと、主人の顔が映っていて驚くという設定だ。そのコミカルな演技に、外国人でさえもおもわず笑ってしまったものだ。

 

 

 

何年かぶりに、久しぶりにギオンコーナーを訪れてみた。同じ狂言をみたが、コミカルな演技は、ほとんど以前と同じなのに、誰一人として笑わないのである。

 

 

 

以前に演じたものと何が違うのだろうと注意深く見ていると、それは、「間」の取り方の問題だったようだ。どこの箇所がどれくらいということはできないが、違うとしか言いようがないのである。たとえば、笑いがはいるべき「間」が十分に保てないと、笑いが入るまもなく、次ぎの演技に注意力が働いてしまい、笑うための時間があっというまに犠牲になってしまうのである。

 

 

 

「間」というものは、理論とか、何秒とかという問題ではなく、文化が長い年月を経て、練って発酵し醸し出されたような技術なのかもしれない。それは、相撲の立会いにも似て、リングのゴングもなく、陸上競技のスターターもなく、ただ、相手との呼吸を推し量りながらでしか、つかめないように思える。

 

 

 

狂言を演ずる人も、年を経た方から、経験の浅い若者にとって代わり、いつの間にか、文化の継承が消えてしまい、素人芸になってしまったのだろうかと少々がっかりした。いつかは、演者も「間」をつかんでくれるだろうとの願いは、何度言っても裏切られる。もう一度、外国人の笑い声を聞きたいと思うのは、空しい願いだろうか?

 

 

 

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