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2011年7月27日 (水)

辛口の友人

 

高校生の頃だったろうか。私には口うるさい友人がいた。

 

その友人も「こいつは俺が面倒をみてやらなければ、なにもできない奴だ」と思ったかどうか、とにかく細かいところまで、ここではどうする、ここではこれをしてはいけないなどと口うるさく注意された。

 

 

 

私は父親を早くから亡くしたためか、農業の手伝い以外で、父親から学んだもの少なかった。上の兄たちも東京に仕事にでてしまい、誰も細かいところを注意してくれる人はいなかった。とにかく、見ていられなかったのだろう。日常生活で気が付いたものは、とにかくなんでも私に注意した。

 

 

 

その友人は成績も良く、スポーツも万能だった。うまくできないスポーツがあると、できるようになるまでつきあってくれた。初めのうちはなんて親切な奴だと、感謝していたが、そのうちにわずらわしく思うようになった。彼の言っていることはすべて正論なのだが、しだいに正論が小うるさくなり、耳に逆らうようになってしまった。やがて、彼とは距離をおくようになり、もっと気楽につきあえる友人を見つけて、遊ぶようになった。その後、クラスも変わり、その後、彼とは会ったことが無い。

 

 

 

あとで思い返してみると、本当に私のことを思っていろいろ注意してくれたのは、彼以外にないことがよくわかった。彼を大事にしていたら、自分はもっと変われたのではと思い、彼を大事にしなかったことが非常に悔やまれた。

 

 

 

こういったことは、権力を持った人間にもよく見かけられる。毛沢東にも、彭徳懐という歯に衣をかぶせない辛口の戦友がいた。実は、彭徳懐と林彪だけが、共産党軍として抗日戦線で戦った経歴がある。林彪は山西省で輸送部隊の後尾に待ち伏せ攻撃して200人ほど日本兵を殺した。彭徳懐は、「百団作戦」を企画し、日本軍が利用している鉄道、炭鉱を破壊し、輸送ルートに打撃を与えた。もっとも毛沢東は日本軍への攻撃は国民軍を利することになると喜ばなかったが。とにかく、彼を国防相に抜擢されるほど毛から信頼のあつい戦友だった。

 

 

 

この彭徳懐が野戦紅軍司令の頃、どういう人物だったかは、アグネス・メドレー著の「中国の歌ごえ」で語られている。「たくさんのひとから、私は彼の部隊が彼をこわがっているという話をきかされた。どうしてかというと、彼は誰にたいしても、前産業的な、原始的な文明につきものの『媽媽虎虎(いいかげんにやっとけ、あるいは、あしたの仕事にしよう)』の習慣を絶対に許さないからである。しかし、兵士たちは、彭徳懐が自分自身にたいしてもおなじ規律を課している鉄の正義のひとであることを知って、彼を尊敬もし愛しもしていた。<中略>彼は中背で、身体のつくりはずんぐりした百姓のようで、三十代のなかばぐらいの年輩だった。ぶおとこだが、歓迎の意をあらわして微笑をうかべた顔は感じよかった。両眼は一直線で、するどく、その声はどら声だった」

 

 

 

革命で常に毛沢東の側にいて、司令官として行動していた信頼できるはずの彭徳懐だったが、戦争が終わってからは、毛沢東から距離を置かれるようになる。第一革命は終わったと思っていた毛沢東と、いや革命はいまだに終わっていないと考えていた『革命と結婚した男』と称される彭徳懐の間には、どうやら温度差があったようだ。まして、真面目一点張りの彼にとっては、毛沢東の失政は自己批判すべきものとして映ったにちがいない。

 

 

 

その彼が、毛沢東が行った大躍進政策について、自分で調査し、大躍進政策の間違いについて、率直な意見を述べるようになると、やがて毛沢東からうとんじられるようになり、ついには廬山会議で失脚する。林彪が彼の後をついで国防相に任じられると、彭徳懐は引退し、北京西郊外で暮らす。三年後、彭徳懐は毛沢東に手紙を書き、それが功を奏して要塞の総指揮部副主任に復帰する。だが、林彪が画策して彭徳懐を北京に送り返し、文化大革命中に七十数回もの拷問を受け、半身不随となる。拷問する紅衛兵に「お前らの時代はまもなく終わるんだ」と言い放ち、彼は1974年に76歳で死亡する。この彭徳懐への拷問は、毛沢東の命令だったようだ。毛沢東のおそろしさは、謀略を用いることだろう。戦友で引退した男を再度、仕事を回復させ、ほっとした人間を、さらなる地獄へと送り込む。自分を裏切った男は最後まで許すことはない。

 

 

 

中国のWebページで検索しても、当然のことながら彭徳懐に対して行われた拷問という言葉は見当たらない。260回もの人民裁判にかけられ、あばら骨が10本折られ、額から血を流し、最後は癌で死亡したことぐらいしか記述が見当たらなかった。彼は、偽名で火葬され、その死は毛沢東が生存中は、公表されなかったという。

 

 

 

その生きざまは、まるで屈原を思い起こさせる。秦の謀略を見抜き、楚の王を諌めるが、王のそばから遠ざけられる。屈原の言葉を用いなかった楚の王は秦の捕虜となり、屈原は政治闘争に敗れ楚を去る。絶望した屈原は入水し、自殺する。

 

 

 

拷問を加えられて死んだのと、自ら入水して自殺した点が異なるにせよ、正論が権力者に受け入れられず、遠ざけられた点では同じだ。古くは殷の紂王が自分を諌めた大臣を残酷な方法で処刑した記録があるから、こういった例、つまり正しい助言が用いられず、権力者から疎んじられたような例は中国の歴史で枚挙にいとまがない。

 

 

 

そういえば、豊臣秀吉から切腹を命ぜられた千利休も、この系列にならぶかもしれない。権力という座にたどりつくまでは、利休から様々なことに関しアドバイスを受けていた秀吉が、権力を手中にしてからは、正論を吐く利休を疎んじるようになる。権力を握った人々の末路はどうして、こうも似てくるのだろう。

 

 

 

いまごろ、毛沢東は死後、辛口の批評家であった彭徳懐を死に追いやったことを後悔しているだろうか。それとも当然の報いだと思っていただろうか。権力が上になるにつれて、権力者というものは信じられる者がどんどん少なくなっていき、横暴になればなるほど、辛口の友人は遠ざかっていき、孤独になっていくものだ。できれば、私が辛口の友人を遠ざけたのを後悔したように、毛沢東も前者の後悔しているものと信じたいものだ。

 

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