仏教とイデオロギーの比較からみる中国の行方
毛沢東を評価することは、ナポレオンを評価することにも似て、非常に難しい。
ナポレオンと言えば、数多くの戦争を戦い、勝利し、各地の領土支配、農奴制を打ち破り、憲法と議会の制度を普及させたことが知られている。司馬遼太郎の言葉を借りれば、「彼は使命感を持っていました。フランス革命の貴い成果である、自由と権利をシーザーのごとくに広めるのだと考えていた」。しかし、反面、戦争で200万人の犠牲をだしたことで、「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評されたこともある。しかし、ナポレオンの行った偉業は、現在でも評価が高い。なぜなら、数多くの犠牲者を出しながらも、民衆革命であったフランス革命を支配した国々に影響させ、封建主義から脱皮して、民衆のための近代国家への道標を作ったからであろう。
その点では、抗日戦争、国共戦争を戦ってきた毛沢東も似ている。しかし、毛沢東の行った政策は、文化的な面で何を残したかというと、疑問が残る。それまでの中国の歴史は、単なる王朝による政権交代であった。いわゆる支配層が変わるだけで、庶民にとって民衆革命とは程遠い世界であった。その軍閥同士が覇権を競う国家を孫文が統一するための型枠を作り、それを引き継ぎ、共産党国家に統一した点を偉業と讃えられないこともないが、文化面で、あまり誇れるものはない。
もちろん、毛沢東の理想は高かった。共産主義という形をとりながらも、どうしたら、農奴制を打ち破り、貧富の差を解消し、国民本位の社会を作れるかという理想を追い求めた。
なぜなら、当時の農民の暮らしはどん底であえいでいた。アグネス・メドレーの「中国の歌ごえ」という本に次のよう記述がある。「小作人は、その収穫の50%を小作料としてはらい、そのうえに、地主の妻が赤ん坊を生むたびに、あるいは地主の家に葬式や結婚式があるとか、お正月のときなどには、贈り物をしなければならない。どの百姓もみな、土地や挽馬や農具を担保にして、月三分か、それ以上の利息をはらって、地主から借金をしていた。こういう担保が全然ない場合は、彼らは借金するとこさえもできなかった。」藩に搾取され続けた、江戸時代の小作農民の姿とダブる。
そういった毛沢東の理想を邪魔する敵は、ブルジョアジー(資産階級)であり、資本主義に染まった人々であった。その理想に共鳴したがために、多くの人々が一丸となって苦しい困難な長征を行い、結局、国民党との戦いに勝利することができたのである。
ところが、支配者になってからの毛沢東は、様変わりする。やがて、敵である資産階級や国民党支持者を粛清すると、国民の内部にさらに、敵を探すようになる。それによって、築いた政権を維持するために保守的となり、管理社会とならざるをえなかった。いわゆる大義のためには、いかなる少数派や反対意見もつぶしてしまえという全体主義的な流れを作ってしまったのである。毛沢東が目指した理想は崇高であったにもかかわらず、現実に行った政策は、全体主義というベールに覆われたまま、中国を巨大な実験場に変えて理想を追い求めるという矛盾を暴露してしまったのである。やがて、大躍進政策という実験に失敗して数千万人という餓死者をだし、彼の業績の最大の汚点となった。どの時点でボタンの掛け違いが起こったのか、詰めた議論もないまま、指導者に復権を果たすために、文化大革命へのリセットボタンを押してしまった。
文化大革命という焚書坑儒にも似た運動で、中国が何百年も大事にしてきた文化遺産も、数多くの歴史遺産が壊され、数多くの人民が批判され、犠牲者となった。やがて老年にはいると、ひたすら自分の権力を守るために、批判する者は、長年一緒に戦ってきた同志ですら非情に粛清していった。仮に、毛沢東が文化大革命を成功させ、復権し、第二革命を遂行していたら、どうなったことだろう。おそらく、さらなる悲劇的な結末となったことだろう。なぜなら、毛沢東の望んだ保守的な体制を残したままで、革命を進めても、さらなる混乱を引き起こしただろうから。
毛沢東の後を継いだ、鄧小平は中国を二度と、社会主義の実験場としてはならない、富めるものから先に富むべきだと、経済路線へと政策転換をはかった。現在まで、社会主義国家で、資本主義経済という中庸をめざした実験がいまだに続いている。毛沢東が現代まで生きていたら、烈火のごとく怒ったことだろう。「富国という点では満足な結果を得ているが、俺のめざした平等社会とは、進むべき過程が違ってしまった。」と言うに違いない。
権力者による支配を日本の歴史的で見てゆくと、「~にあらずんば人にあらず」に似たような特権階級を表す表現をしばしば見つけることができる。
たとえば、貴族政治の時代であった、奈良・平安時代は、「貴人にあらずんば支配階級にあらず」という時代だった。ところが、平家という武士が台頭して来て、貴族社会に入り込み、貴族だけが純粋な特権階級ではなくなる。
平家専横の時代には、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われたという。しかし、その政権維持は30年にも満たない。
1185年に壇ノ浦で源氏が平家を滅ぼし、その後、武家政権は徳川幕府の終焉まで、680年もの長期にわたって続く。やがて、厳しい身分制度がしかれ、あえて言うなら、「武士にあらずんば、人にあらず」と言える時代が続いた。その長期に続いた、武家政権も末期には、官僚の腐敗がはびこり、商人が力を持ってきて貨幣経済となり、武士の権利が金で買われるほど、武士階級の人々が落ちぶれていく。
やがて、明治維新後は、「薩長にあらずんば、人にあらず。」という時代がやってくる。ところが、薩長だけでは、人材不足となり、薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前藩)から人材登用を図り、明治政府という近代国家の礎を築いた。
薩長土肥以外にも各藩に人材はいたであろうが、戊辰戦争のなごりか、近代国家の建設に能力主義は用いられずに、薩長の気風がそのまま明治政府に引き継がれ、民主国家には遠くなってしまった。軍国主義の足音が次第に近づき、富国強兵のもと、「軍人にあらずんば、国を守れず」と軍人が特権階級となった。戦うこののみ才能を持った人々が闊歩し始め、満州事変、南部仏印進駐と次から次へとフライングを犯した。有能な政治家や外交官が出現しても、活躍できる場は制限され、軍国主義化への防波堤とはならなかった。やがて、各国に敵対行動をとり、破滅へと進んだのは歴史が示す通り。
戦後は、「自民党にあらずんば、政治家でありえず」とも言える時代となった。自民独占となった政治も、日本の経済成長が低迷するなかでは、自民党だけでは支持を得られなくなり、やがて連合政権時代となる。
さて、現代は何をもって、「~であらずんば、~あらず」と言えるのだろうか。民主主義の時代に特権階級は存在しない。あるのは政治家や官僚といえども、パブリック・サーバントであるはずだ。しかしながら、この国の政治家は、政治家であることが、特権階級であるような発言・言動をすることが多いのは、残念だ。2012年の現代であえて言うなら、「民主党員でなければ政治家として成功するにあらず」と言えないこともないが、あたりまえすぎて面白くないだろう。こうして考えると、歴史的に特権階級を育んできた制度そのものが転換期にさしかかり、やっと民主主義的社会になってきたと考えるべきか。何も法案が決まらない、強いリーダーシップも生まれるべきもない。だが、それが民主主義といえば、それもそうだと思わず同意せざるをえない。反面、国民の間には、議論を尽くしても、政府のリーダーシップが弱く、将来の改革、見通しもでてこないことに辟易している面もあるようだ。このままでは、世界の情勢の変化に対応できないのではないかと、不安になる。確かに、この点が、民主主義の欠点であると言っても過言ではない。
中国でも、「共産党員にあらずんば、支配階級にあらず」という図式が成りたつ。しかし、民間の活力を利用するために、民間の資産家を共産党員としてとりこもうとする動きもあると聞いたことがある。江戸末期に商人の力が大きくなり、武士の権利が売られていって、武士階級の純粋性が保てなくなったことに通じるものがあるのではないだろうか。権利の上にあぐらをかいた長期政権は、やがて腐敗がはびこり、危機的状況まで追いつめられることになるのは、歴史の必然性だ。その時、新撰組のような復古主義がはびこるか、勤王のように革命派の流れとなるかは、その国の民族性や歴史的な経緯によっても異なる。中国も、日本が歩んだのと同じような歴史になるかどうか、現時点では定かではない。
仏教では、大きな流れとして、大乗と小乗という二つの考え方がある。人間の本質は悪であるから、欲望を規制し、制限をかけなければ理想的な人格(社会)を築けない。という性悪説に近い考え方が小乗の基本的な考え方だ。ところが、小乗の考え方を推し進めると、やがては全ての本能を断じ尽くし、さらに自虐的に身も心も無にするという灰身滅智という考えまで行き着く。社会・共産主義も、欲望をブルジョアジーと断じて、人を思想、規範や規則でがんじがらめにし、最後は自分自身を批判し、断じて行く点では同じかもしれない。社会・共産主義をつきつめると、小乗に近い考え方となると言っても過言ではないだろう。当然、民衆にそれを求めると、規制・監視・告発を課し、お互いに監視する窮屈で偏狭な社会となる。純粋に小乗を求める少数精鋭が支配層になり、民衆を教育していく形をとり、型枠からはみだし、自由を求める人間を徹底的に取り締まることになる。やがて、自虐的にシステム自体が破綻していくこととなる。
その小乗に反して、大乗というのはもっと寛容だ。人間の欲望のしがらみから解放し、欲望を高次元に高めていけば、社会という枠組みで最低限必要とする制限以外は、必要はないと、楽観的で、自由な風潮がある。そもそも、衆生は世の中に苦しむために生を受けたわけではなく、自由に楽しむために世に生を受けたのだというのが主旨なのだから、性善説に近い。たったひとつの真理を、万人が日常生活に生かしてゆくことができれば、誰でも自分の良い特質を伸ばし、希望を持って楽天的に物事をとらえて行くことができると説く。底流の一面では、常に自由・平等を唱える資本主義と相通ずるものがあるかもしれない。社会の規制で人々の欲望をコントロールするよりは、人間として一番大事な基本的な幸福を根本においた、個人の尊厳であり、成仏を根底にすえている。
こうして考えてみると、同じ成仏を目指しながら、大乗と小乗とは相いれない反対の性質のように思える。同じように個人の幸福を目指しながらも、資本主義と共産・社会主義も相入れそうにもない。そんなことはない、中国で両方の特質を取り入れながら、これほどうまくやっている国は他にないではないかという方もいらっしゃるかもしれない。そうだろうか。確かに、一般的には、中庸という考え方もあることはある。しかし、本質をもたない中庸は、単なる玉虫色となり、風見鶏にしかならないのではないか。中国のやり方に本当に普遍性があるかどうかは、今後、中国が右肩あがりの成長をしているときは問題ないが、やがて飽和曲線となり、低迷したときにも、維持できるかどうかという歴史的証明が必要だ。
少なくとも現時点では、とても中国の方式は普遍性を持っているようには思えない。国際社会という枠組みの中では、中国のやり方は異質であり、これからも普遍性はもちそうにもないように思える。なぜなら、資本主義と共産・社会主義の境界にロープを渡し、そのロープの上を歩くような危険性をはらんでいるからだろう。
こう考えると、中国がめざしている中庸論的国家の在り方も、本質はそれほど底が深いようには思えない。一部は老荘思想に基づく共産主義をめざしており、評価すべき点もあるかもしれないが、長期にわたって底の浅い中庸を維持することはありえないように思える。
中国の街中を歩いていると、建設現場の壁などに、「愛国、刷新、創造」などという言葉をよく目にする。いかにも、中国という国を意識し、国を高揚することに努力しようと思える宣伝ではあるが、見方を変えると「国」という言葉を、そのまま「共産党」という言葉に置き換えた方が、この国の実態に沿っている気がする。
権力から押し付けられて、愛国主義が育つとは思えない。いずれ庶民が平等に競争できる社会が実現できたときこそ、真の愛国主義が民衆の間に自然に芽生えるのだろう。大乗的社会に住むと、二度と小乗的な社会に戻りたくないはずだが、中国は小乗社会を少しずつ緩和して、大乗社会へと踏み出しているのだろうか。それとも、いまだにマスコミや通信網をコントロールして規制しようとしている、綱渡り的な小乗社会を継続していくのだろうか。できれば、前者を目指していると期待したい。
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