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2012年4月18日 (水)

軍事介入より大切な文化交流

 

近年、核兵器を持つことがパワーバランスをもたらし、世界を安定化させるという核抑止論がまかり通っていた。なんという愚かな幻想を長年抱いてきたことだろうか。

 

 

 

それまで、古代の武器と言えば、青銅の剣、槍が主だったろう。それが、内戦が続くと、馬という機動力を持ち、青銅は鉄という材質に変わり、刀と槍を振り回し、敵をばったばったとやっつける英雄が、もてはやされるようになる。ちなみに剣の精巧さでは、日本刀とダマスカスの鋼製の刀は、有名で、よく日本から中国へ輸出された。しかし、実践では、正龍刀のような大きな刀とは対抗できなかったため、別な用途で使われたようだ。しかも、モンゴルのような騎馬民族は、射程距離の長い弓を使っていたため、刀よりも離れた場所から殺傷することができた。さて、日本の戦の仕方は、常に先陣にたち、名のある敵の首をとったものだけが、恩賞にあずかれ、出世街道を歩めるようになった。下剋上とも呼ばれ、それまでまったく無名の兵士が、彗星のように現れ、出世街道を歩め、大名になれる可能性まで秘めていたのである。

 

 

 

ところが、織田信長が出現すると様相が変わって来る。日本史で学んだように、鉄砲は種子島を経て本土にわたり、雑賀衆という鉄砲専門集団を生んだ。信長は、それまで、半農半武士であった兵士を傭兵化し、戦略をたて、当時の最新兵器であった鉄砲軍団を利用して、天下統一への歩みを進めた。このころから、戦場のヒーローは価値を少しずつ減ずるようになり、近代兵器を用いた集団戦に近くなる。

 

 

 

もちろん、大砲や鉄砲という最新兵器が出現しても、刀や槍の優位は依然として存在していたし、ヒーローもいなくなったわけではない。なぜなら、鉄砲の有効射程距離は短く、弾の装填に時間もかかり、しかも雨天では導火線に火がつきにくいなど欠点もあったからだ。武士の間では、刀や槍の一騎打ちに比べて、鉄砲は卑怯の道具にも思えたので、戦略の一部としてしか使われていない。ところが、長篠の戦いでは、馬防柵と鉄砲を利用して、武田勝頼率いる武田騎馬軍団を射程距離まで引き寄せ、その卑怯である鉄砲によって、武田側の多くの有名な将を討ちとっている。

 

 

 

鉄砲の出現が戦の抑止効果となったろうか?いや、そういうことはなかった。やがて、各大名が競って鉄砲の購入に走った。近代戦になって、軍艦、戦車や航空機までが開発されたが、そういったものの出現で戦争が止むことはなかった。もちろん、広島、長崎への原爆投下が戦争を早く終わらせたと信ずることなど、なにをか言わんや、である。

 

 

 

こうして歴史を振り返ってみると、核抑止論は幻影にしか思えなかったことがよくわかる。新兵器の発明が抑止効果を生んだとは考えにくいのだ。むしろ、今後も核に変わる新しい兵器が開発されて、出現したとしても、まったく不思議はないし、ひたすら拡散していくだけだろう。

 

 

 

私達は、原爆の投下は人類史上、最大の間違いだったと認識している。同じ視点で見れば、原爆投下を決断した当時のルーズベルト大統領を悪の権化と見なすこともできる。しかし、そういった善か悪かの二極化で考えることは危険に違いない。それでは、日本が原爆所有していたら、日露戦争で使用しなかっただろうか。硫黄島で使わなかっただろうか?沖縄で使わなかっただろうか?という反論が必ず出てくる。こういったパラドックスに陥ってしまうと何が正しく、何が間違っているのかわからなくなる危険性がある。

 

 

 

ただ、はっきりしていることは、暴力によって、暴力をなくすることはできないという普遍的な教訓である。そのことを私たちは数多くの戦争から学んできた。それではどんな場合も軍事介入するべきではないだろうか? 

 

 

 

そうは言っても、隣国が突然攻めてくるとか、少数民族が自国内で迫害されているような場合、何もせず傍観しているべきなのだろうか。国際的な介入はどうあるべきなのだろうか。

 

 

 

パウエル四原則というのがあると聞いたことがある。ある国が暴力で自国民や他国民をいじめている場合に、軍事介入して暴力をやめさせるべきかどうかを判断するための基準だという。この四原則はクラウゼヴィッツの『戦争論』を源流とするようだが、孫子の兵法と比較的、類似している個所もある。

 

 

 

湾岸戦後、コリン・パウエル前国務長官によって軍事介入の際の指標として提唱されたのが、「パウエル・ドクトリン」と呼ばれた戦争介入のための四つの指標である。

 

(1)死活的利益、(2)明確な目標、(3)戦力の優勢、(4)出口政策

 

 

 

この政策を個々の戦争に、あてはめてゆくと、それぞれの戦争の性質が多少なりとも理解できるような気がする。

 

 

 

<殷と周の戦い>

 

1.死活的利益→重税にあえぎ、重罰を科せられている殷の民衆が、周に助けを求めてきた。殷の民衆を助けろという周の民衆の支持はある。

 

2.明確な目標→殷の紂王の暴政から民衆を解放することが必要だ。

 

3.戦力の優勢→殷は70万という大軍を有しているが、兵の士気は低下している。それに比べて周の兵は数において、はるかに少ないが、士気のある800人が戦に立ちあがり、圧政に苦しんだ人達が参加すると、数を増やし、殷の軍勢に立ち向かえる。数だけで殷が優勢とは言えない。

 

4.出口政策紂王を殺して殷王朝を終わらせ、民衆を解放し新しい周王朝を建てる。

 

 

 

<白村江の戦い>

 

1.死活的利益→百済が倭国に助けを求めてきた。百済を助けようという民衆の支持はあったと思えない。当時、文化の恩恵は新羅から得ていたので、恩義から兵の派遣を決めた可能性もある。

 

2.明確な目標→百済を助け唐・新羅軍を追い払うことが大義。

 

3.戦力の優勢→唐・新羅軍は12,000に対して、百済・倭国は47,000人と数や船で圧倒的に優勢だったが、倭国側は地理や船での戦法に疎く、敗戦。

 

4.出口政策→大宰府に砦をつくって防衛するとともに、唐との外交が始まる。

 

 

 

<ノモンハン事件>

 

1.死活的利益→満州人と蒙古人の草原の奪い合い争いで、満州人が関東軍に助けを求め、蒙古人はロシアに助けを求めた。関東軍は大本営の許可なしに、独断専行で戦闘を開始した。大本営は追認する形となった。

 

2.明確な目標→戦争に勝って関東軍の威力を敵に示し、満州側の国境線を守る。

 

3.戦力の優勢→日本軍は30,00090,000に対してソ連軍は57,000.しかし、装甲車両は日本が約100両なのに、ソ連は約1000両あり、徹底的な物量作戦で、補給の乏しい日本軍は劣勢にまわった。

 

4.出口政策→第二次欧州大戦が始まり、休戦が必要となり停戦協定を結んだが、実質はソ連軍の勝利

 

 

 

<対イラク戦争>

 

1)死活的利益中東の安定と石油の確保→大量破壊兵器の封じ込め

 

2)明確な目標クウェートの解放→サダム・フセインの排除

 

3)戦力の優勢多国籍軍による数の優位→ハイテク機器による軍事的優位

 

4)出口政策イラク軍の無力化→イラク次期政権の樹立

 

*吉崎達彦著「アメリカの論理」から引用。

 

 

 

以上、四つの戦争を軍事介入の例としてとりあげてみた。下記に日露戦争、太平洋戦争も同じように四原則にあてはめてみた。もちろん、下記事例は、軍事介入ではないかもしれないが、原則を応用してみると、戦争自体の杜撰さがよくわかるので、とりあげてみよう。

 

 

 

<日露戦争>

 

1.死活的利益→ソ連の中国東北部、朝鮮半島への南下政策を止めないと、日本は喉元にナイフを突き付けられた形になり、国の防衛面でリスクが大きい。国をなんとしてでも守ろうとすることに対して、国民の支持があった。

 

2.明確な目標→朝鮮半島や中国東北部に軍隊を派遣し、ソ連の中国への侵略の防波堤とならなければならない。

 

3.戦力の優勢→明らかに日本の軍備力がソ連に比較して劣っていた。しかし、各国のメディアに情報公開し、最大限の外交努力をし、戦争の中立性を保たせ、最高の戦略で戦うならば、互角に戦えると、日本の勝率を60%くらいまであげた。

 

4.出口政策→ソ連に勝つことではなく、日本に優位に短期で戦争を終わらせ、条約を結ぶ事を主眼とし、成功した。

 

 

 

<太平洋戦争>

 

1.死活的利益→日露戦争で手にした朝鮮半島と満州国の権益を守るため、日本は国際的に孤立した。民衆は、これ以上他国と戦争することを支持したわけではないが、メディアの攻勢と、国の情報統制に、民衆が引っ張られた。

 

2.明確な目標→戦争を継続するためのエネルギー、資源、財の確保のためアジアへ拡大政策をとるばかりで、祖国防衛のための明確な戦略と目標はなかった。

 

3.戦力の優勢→明らかに日本の軍備力が連合軍に比較して劣っていた。外交的に孤立し、最後は精神論を鼓舞して、兵に玉砕を求めるしか方法がなかった。

 

4.出口政策→広島、長崎への原爆投下により、無条件降伏となり、敗戦処理となった。

 

 

 

こうして事例をあげてみると、「殷と周の戦い」と「太平洋戦争」のみが、明確な出口政策につながっていることに気がつく。戦後、日本の国民が感じた「ついに戦争が終わった」という高揚感は、実は殷の民衆が周の軍隊が来て民衆を解放してくれたことに感謝したことに似ていて、日本を軍部のしがらみから解放してくれた米国への感謝だったかもしれない。大本営がとった秘密主義、中国での殺りく、思想統制は殷の紂王が行った重税、炮烙の刑にも似て、おぞましくも暗黒の時代だった。

 

 

 

ただ、結果から言えばそうなのだが、そのために広島で約14万人が死亡し、長崎で約15万人が死ぬ必要があったのだろうかと思うと暗澹たる思いだ。ここでは、事例としてださなかったが、ベトナム戦争もなぜあれほどの人間が死ななければならなかったのかと思う一例だろう。

 

 

 

イラクへの侵攻が、果たして殷に対する周の戦いと同じだったかは、さておく。こうして事例をみていくと、軍事介入は大国が関わって成功した事例が少なく、成功しても多大な犠牲を強いていることがわかる。現代では、軍事介入よりも、むしろ国連が行っている難民対策、各国のPKO派遣のほうが正しいのだろう。しかし、こういった4原則と過去の事例を未来への教訓としていけるのだろうか、はなはだ疑問だ。

 

 

 

武力を用いないで紛争を解決するには、ひたすら外交努力に依存するしかない。それとともに必要なのは、教育と文化交流だろう。その国の文化や歴史、そういったものを学び、敬意をはらうことから始まらなければ、相手国の理解にはつながりにくい。なんとまだるっこしいことを、と人は言うかもしれない。しかし、私の知る限り、それ以外の普遍的な方法は見当たらないのだ。

 

 

 

まずは、相手国の文化を理解することから始まり、文化・教育交流を推し進め、国と国との外交努力と並行に民間外交も進めなければ、非暴力への道なぞというのはありえそうもない。なぜなら、長崎・広島の原爆投下の背景には、ひたすら軍部と日本の民衆をひとくくりで「敵」と定義づけて大量殺戮を行ったところに間違いがあるように思えるからだ。

 

 

 

軍部による、徹底した思想統制のなかで、敵国と交流することは命におよぶことだったかもしれない。しかし、戦火の中で苦しむ民衆がいることをなんとか発信することができたら、長崎・広島の原爆投下を防ぐ一因にはなりえたのではなかったろうか。なぜなら、原爆投下の下には、庶民が、人間が暮らしていることが、少しは理解できるようになるのだから。原爆や空襲という猛火や高熱にさらされていたのは、軍人ではなく庶民であることを、原爆や爆弾を投下する側は、気がつくべきなのだ。

 

 

 

国という枠組みの中に、そこに住む庶民もひっくるめて敵とみなすような暗愚な間違いは絶対にしてはならない。そう考えると、国の外交もさることながら、さらなる民間による教育・文化交流こそが大切に思えてくる。

 

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