秀吉の朝鮮出兵と満州大陸
歴史の符合というのだろうか、それとも、陳腐な言葉になってしまったが、「歴史は繰り返す」と言うべきだろうか。ときどき、日本の歴史で似通ったパターンを見出すことがあるものだ。
文禄・慶長の役について書いた、遠藤周作の「鉄の首輪」という本をご存じだろうか。豊臣秀吉の命で、朝鮮半島に兵をすすめていく加藤清正とキリシタンである小西行長の二人の確執を描いている。二人の確執もさることながら、異国での戦闘は、さぞ勝手がちがっていただろう。国内とは違って、言葉も異なり、文化も異なる地で戦に勝っても、勝っても敗者側は奥地に逃げ込み、それを追って行く日本側は、広い陸地を進んでいくしかない。やがては補給も困難となり、ゲリラ戦で戦うはめになる。それは、「大陸の広さ」に負けたというのが、史実かもしれない。第七郡団長毛利輝元が太閤に送った報告書によると、
「さてさて、この国の手広きこと、日本より広く候ずると申すことに候。少々の大なることにはなく候、お察し給われ候」
この報告書から読みとれるのは、広い大陸で戦うことの空しさであったかもしれない。局地戦争で勝つことができても、戦争そのものに勝てたわけではなく、やがて泥沼の長期戦を覚悟しなければならなかった大変さが伝わってくる。
日本から朝鮮に攻め込んでみると、朝鮮側は弓と槍と投石機で戦い、それに対して、日本軍は火縄銃で戦ったため、なんとか連戦、連勝するが、逃げた朝鮮王は、ひたすら大陸を後退していく。それを追いかけて、さらに奥へと進み、文禄の役では、とうとう平壌まで侵攻する。しかし、中国大陸から明軍が支援にまわり、三つ巴の戦いとなり、戦いは困難な状況に陥る。伸びきった補給線だけでなく、制海権を失ったため、あらゆる資材が供給されずに、食料や弾薬などが極端に不足する。やがて、冬が来て、冬の準備をしないまま籠城となり、食料が不足する。そのため、当然、現地で食糧を調達しようと思えば、住民から食料を略奪せざるをえない。やがて、略奪行為は、住民の反感を買い、住民たちは義兵となって、ゲリラ戦で日本側をなやますようになる。勇猛果敢な加藤清正軍ですら、しだいに孤立し、戦うことが困難になっていく。そんなとき、秀吉の死が知らされ、戦争を始めてから6年を経て、日本軍は朝鮮からやっと引き上げていく。
同じ「鉄の首輪」に下記のような日本人観の記述があるので、引用してみよう。
「出陣の前から行長は他の武将たちよりもこの作戦の成功を疑っていた。彼の師事する宣教師たちが同じ感情を持っていたことはフロイスの次のような意見をみても明らかである。
『日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。中国へ順路も、航海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼等にはまったく知られていない。
この企ては、海路、軍団を(派遣すること)になるが、内陸の(海から)隔たった地に住む領主や武将たちは、船舶も水夫も、航海に際して必要とする他の手段も持ち合わせていなかった。たとえ財力によって船舶その他、装備に必要な武器、食料、弾薬を購入することを望んだとしても、彼等にたいして定められた期日はあまりに短く限られていた。』
『しかし、あらゆる領主や武将たちの関白にたいする不思議なほどの遠慮と畏怖の念は、まったく信じられぬほどで、一人として、いかなる場合にも、関白の意見や決定にたいし反対する勇気や自由を示す者はいなかった。それどころか、彼の面前では多くの言葉を弄し、かくも崇高で道理に叶い、時宜を得た企画を決行することは・・・・永久に記念さるべき偉業であると述べ、その決定を賞讃してやまなかった。』」
このフロイスの言葉を満州事変以降の日本に置き換えて見ると、どうなるだろう。やはり、まったくおなじパターンであることがわかる。「日本人はもともと中国人と戦争することでは訓練されていない。征服しようとする敵方の言語や地理も、彼等にはまったく知られていない。」「しかし、あらゆる兵士や将校たちの権威にたいする不思議なほどの遠慮と畏怖の念は、まったく信じられぬほどで、一人として、いかなる場合にも、権威からの意見や決定にたいし反対する勇気や自由を示す者はいなかった。それどころか、権威への報告では多くの言葉を弄し、かくも崇高で道理に叶い、時宜を得た企画を決行することは・・・・永久に記念さるべき偉業であると述べ、その決定を賞讃してやまなかった。」
上記で述べられていた他国民を中国人に、関白を、権威である関東軍や大本営に置き換えてみれば、一目瞭然、まったく満州事変や、その後の日中戦争も、同じパターンであることを理解していただけるのではないだろうか。
遠藤周作著の「鉄の首輪」で、加藤清正とキリシタンである小西行長の二人の確執が、テーマであることを既に述べたが、小西行長は、ひたすらどう朝鮮と和平を結ぼうかと苦心し、ひたすら戦に勝つことに主眼を持つ加藤清正と対立する。だから、関白や加藤清正を裏切ってまで、朝鮮通信使を日本に送るために、太閤への謝罪文を偽作して、裏で画策する。そこには、小西のなんとしてでも、この泥沼のような戦争に終止符を打たねばならないという執念が見えてくる。
その小西と加藤の確執は、満州では五族協和を訴えた石原莞爾(小西)と東條英機(加藤)の確執であったかもしれぬ。それに大本営(秀吉)が絡むと、まったく文禄・慶長の役と変わるところがない。石原莞爾はあの時代のヒーローであるかのように書いてある本を読んだこともあるが、思想は別として、彼をとりまくグループが、満州事変以前に、戦争へ踏み出すことに拍車をかけた負の面は、あまり知られていないし、後世の人が見ても、決して評価できることではなかった。
その石原莞爾も、やはり小西行長に似たところがあった。盧溝橋事件のあとに、こう言っている。「支那がもし徹底抗戦をつづければ、戦線は中国全土に拡大して全面戦争になるのは必至である。事件の拡大を防止するため、これ以上の兵力行使を避け、極力現地解決に努力せよ」。
ところが不幸なことに、廊坊事件、広安門事件、さらに通州事件の三事件が起き、中国に対して軍部政府は激怒し、断固たる措置をとることに決定してしまった。石原莞爾が言った戦争の不拡大の方針は破たん、石原が恐れていた、日本と中国の泥沼戦争へと突き進む結果となった。
満州では、石原莞爾が関東軍参本部作戦部長であったとき、東條英機が関東軍参謀長として働いていた。この二人の満州を今後どうするかという考えは、水と油のように、まったく異なっていた。二人の確執は、ちょうど、小西行長と加藤清正の確執に相当するだろう。民族協和をはかり、満州国を独立国にしようとした石原莞爾と、ひたすら植民地、帝国政策を進めようとした東條英機では、お互いに妥協できる事柄なぞありえなかったはずだ。
こういった歴史の推移をみると、ほぼ、盧溝橋事件以降の中国との戦い方は、文禄・慶長の役と同じであったのではないか。私たちの前の世代は、実は豊臣時代の戦歴を検証しないまま、中国で朝鮮半島の時と、同じ歴史をあゆんでしまったことになる。
豊臣秀吉の時代の文禄・慶長の役、満州事変のどちらにしても、何故戦争をしなければならなかったのだろう。その理由を、司馬遼太郎はイリュージョンという言葉を使って説明している。なぜ、幻想や幻影ではなく、イリュージョンという言葉を使ったのかは、よくわからない。おそらく、イリュージョンのほうが、単なる幻想ではなく、疑似現実を含んだ意味を表していると思えたのかもしれない。長い引用となるが、司馬遼太郎と小田実「天下大乱を生きる」という本から引用してみよう。
「日本のやったことは、朝鮮をとられたらロシアの南下をどうするかというような、算術にもならない、変なイリュージョンがあって、それで朝鮮を乗っ取る。西郷の征韓論も対露論だし、日清戦争も、中国が朝鮮を押さえているのはけしからん、おれたちが押さえるからというわけでしょう。もう満州まで南下してきて、ハルビンにはロシア町ができつつある、そこまで南下しているロシアを鴨緑江で防ごうというので、やがては日露戦争になるわけでしょう。そこまでは、いろいろな日本的事情、あるいは普遍的なものに照らしても、納得できる意味づけをやるかもしれないけれど、韓国を合併したことは何にもならない。四千年来の独立国で、一つの民族が一つの国をつくっているのに、それを取りに行って合併してしまった。<中略>韓国は五百年来の律令体制やから、所有権がはっきりしない。この土地はおれの十代前のおじいさんの代から耕しているからおれのものだと思っている程度の所有権で、民法上の所有権ではない。それが民法を施行したために、登記せんと自分の土地でなくなる。うろうろしているヤツは全部没収されて、東拓という会社が全部吸い上げる。そんなエスタブリッシュメントではない連中は、大阪や北九州あたりから旗上げに出かけていって、朝鮮人がぼやぼやしている間に、『これはおれの土地や、もう登記したから』と言って追いたてる。そうした連中は流民になって日本に来ざるをえない。それを昭和初年には、満州でもやるわけでしょう。ぼくら子供のときに、満州は生命線と教わっていた。しかし、いま満州―中国東北地方―が日本のものではないけれども、何も不自由してない。全部イリュージョンなんだ。あれはもうかるヤツがもうけているだけであって、われわれにも韓国にも何の関係もないわけ。韓国人は非常に緊張した、非日常的な中にあると言うけど、それは韓国人自身の問題であって、われわれの問題じゃない。北と南とが戦っているというのは朝鮮人が解決すべき問題で、われわれの問題じゃないのに、乗り出していっているヤツがある。それの旗印は純粋防衛論であって、征韓論いらいのものでしょう。歴史的にみても、全部日本人とアジアの大衆を不幸にしてきたものですね。」
「『昭和前期国家』の防衛論というのは、多分にウソの上になりたっていたということでしょ。すでに戦車も軍艦も石油でうごかさなければならない時代になってしまっている。しかも、石油がない。できればそこで日本は軍備をやめます、と宣言してしまえば、それで済んだわけです。しかし、陸海軍が存在するかぎり、かれらは自分で自分を解散するようなことは言わない。むしろ、逆に居丈高になって、ウソの大戦略を考える。基礎に石油がないから、その上に構築される戦略論は、みなウソになります。ウソを擬似現実に見せるには、精神主義を哲学化しなければならない。」
このイリュージョンという言葉を借りるなら、戦争もイリュージョンであると同時に、会社も一種のイリュージョンではないだろうか。景気もイリュージョンであり、ひょっとしたら国家でさえ、イリュージョンであるのかもしれない。そういったイリュージョンの上に構築した、学歴社会、会社人間というパターンは、なんと空しいものなのだろう。
やはり、自分の思想、哲学、宗教を持って、その上にイリュージョンを積み重ねていくべきではないだろうか。そのイリュージョンが消えても、少なくとも自分の思想、哲学、宗教というコアは残るはずだ。イリュージョンが自分の人生そのものであると誤解するところに最大の間違いがあるのだろう。
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