毛沢東の亡霊とPTSD
民主化の動きと共に、第二次天安門事件(以後、天安門事件と呼ぶ)が起こったのは1989年6月のことだった。もう二十二年近く経ったことになる。中国は本当に天安門事件のPTSDから回復したのだろうか?これに関しては、まだ、疑問がある。 そもそも、天安門事件とはなんだったのだろう。胡耀邦の死をきっかけに学生や市民が民主化を求めてデモを行った自然発生的な集まりだったのではなかろうか?なぜ、人民解放軍がそれに対して、無差別発砲しなければならなかったのか、今でも十分な説明がなされていないように思う。これは、私の仮説だし、この仮説が正しいという確信も確証もない。しかしながら、一応仮説を述べてみたい。 まず、中国に専制体制はあっても、民主化体制は根付いたことは歴史上ない。長年にわたり、皇帝が君臨し、宦官が議会の役割を果たし、皇帝の行き過ぎや、間違いを正すという歴史だったと言ってよい。それではチェックアンドバランスの役目を果たす宦官に皇帝のストッパーとなりえたかというと、それはありえなかった。行政上の失敗があっても、その責任は決して皇帝まで行くことはなく、報告を怠たり、虚偽の報告をした者の責任だとして、大臣や取り巻きの首のすげかえで責任をすり替えただけである。 1949年に天安門で毛沢東が中華人民共和国成立を宣言して以来、中国共産党の首脳部はどういう体制だったのだろう。毛沢東が皇帝で、首脳部は宦官的な構図はなかっただろうか。いや、やはり歴代の皇帝の構図を継承していたと見る方が正しいだろう。それでなければ、大躍進政策があそこまで悲劇的にはならなかったはず。そういった失敗にもかかわらず、毛沢東の頭にはなんとしても中国を西欧に追いつくまでに発展させたかった。それには、賢人政治で独裁政治以外にはありえないと考えていたふしがある。いわゆる、強いリーダーシップを持たなければ、この国の舵取りは出来ないのだ。そのための、一度奪われた権力の回復を願ったのが、文化大革命だった。自分が権力を掌中にできないなら、第二革命を起こして、首脳陣の刷新を図り、再度自分がトップに返り咲けばよい。それは望んだように成功した。唯一の誤りは、毛沢東自身が自分を賢人と思い、周りおよび国民はそうは思っていなかったことである。 その頃の鄧小平はどうだったのか。まず、毛沢東の最も信頼できる側近であり、1955年には政治局員に任命され、党のナンバー4まで上り詰める。毛沢東の行った大躍進政策の失敗により、実質な実権は劉少奇、鄧小平、と周恩来に移る。いわゆる、毛沢東をお飾り天皇にまつりあげたわけである。そのお飾り天皇が権力を返せとクーデターを起こした。それが文化大革命だった。 1966年文化大革命が始まる。それ以降の混乱はみなさんがご存じのとおりだ。この時期に鄧小平には悲劇的な事件が起こる。鄧樸方という鄧小平の最初の息子が、文化大革命で紅衛兵に投獄され、取り調べ中に、窓から転落し脊髄を損傷し身体障害者となる。おそらくは突き落とされたか、追いつめられたのだろう。1972年、鄧小平は、下半身麻痺の息子の看病をしながら、江西省のトラクター修理工場で働いた。 1973年に鄧小平は、毛沢東から呼び出され、副総理に復活する。しかしながら、周恩来の死とともに、自然発生した第一次天安門事件で三度目の失脚となり、身を潜める。やがて、四人組の逮捕。華国鋒が指導者となる。しかし華国鋒はスタープレーヤーにはなれず、時代は鄧小平をスターとして要望し、1977年に鄧小平は副主席として復活し、78年には74歳の最高指導者となる。 鄧小平は、毛沢東の死去がもう少し遅かったら、また、四人組が逮捕されず、権力を握っていたら、まっさきに拷問され殺されていた人物だった。その彼が、1989年の天安門事件の報を受けたのである。5月19日の時点で、鄧小平のもと、李鵬首相は戒厳令を敷くことを決断。しかし、実際の民衆へ御発砲指令は首脳内部で、どういう経路だったのだろう。鄧小平の最初の指示は「天安門広場では血を流してはならない」だった。ところが、市民と戒厳部隊の衝突から、やがて武力で鎮圧する以外にはないと考えを変えていく。「天安門文書」という本から、鄧小平の言葉を拾ってみよう。天安門事件が起きたのは6月4日だが、6月2日には、李鵬の天安門広場の学生を排除することを受けて、長老会議でこう述べている。「戒厳部隊は今夜、排除計画を実行に移し、二日以内に完了することを提案する。排除を進めるさい、広く市民、学生にそのことを明確に説明し、退去を求め、全力をあげて説得に努めなければならない。かれらが退去を拒むなら、その結果に責任を負わなければならない」こうして、血の天安門事件にいたるまで、ブレーキがかかることはなかった。 もし、鄧小平がPTSDを患っていたとしたら、今回のデモを自然発生的とはとらえなかったのではなかろうか。PTSD(Posttraumatic
stress disorder)とは、心的外傷後ストレス障害と呼ばれる。いわゆる命に関わるような大事件の後に起こるストレス障害のことを指す。その原因は、生命に危機が及ぶような体験を自分がし、または身近な人にそういった危機が降りかかり、目撃した場合に、そういった障害が起こる可能性があるという。 この当時、鄧小平が最高権力者であったことは間違いない。しかし、中国での最高権力者とは疑心暗鬼の世界である。トップのポストに座っていても四脚の椅子に座っている安定感はない。まるで、四脚椅子なのに、足が一本折れて、三脚の椅子にお尻を半分体重かけて座っている不安定さなのだ。そのことを数度の失脚で、嫌というほど経験したのが鄧小平だった。まず考えたのが、西側による画策ではないかと考えた。CIAかもしれないし、台湾かもしれない。いずれにしても、このままではこれに乗じて林彪、毛沢東、紅青派が復権をねらってこないとも限らない。今回のデモは誰かが裏で糸を引いていることは、間違いない。鄧小平曰く、「われわれが追及する対象は、悪い下心を持つとか、率先して法を犯した者たちにかぎるべきだ」。ここまで考えが及ぶと、いま断固たる処置をとらないと、かならず第二の紅衛兵が現れ、積み上げてきた経済政策が逆戻りするに違いない。そう考えて、鄧小平が発砲命令をだしたと考えるのが自然だろう。毛沢東の亡霊が、させた仕業ともいえるし、毛沢東の下で、PTSDを患ってきた結果であるかもしれない。少なくとも、自分の息子を文化大革命で下半身不随にされたPTSDは持っていたに違いない。 鄧小平は精神力がけたはずれに強い人間であった。しかし、それは自分自身だけなら、不死鳥のように強靭だった。フランス留学中もクロワッサン一個と牛乳一杯の食事で過ごし、生活費を稼いだ話は有名だ。それだけに、自分ではなく、息子に試練が向いたことに対しては憤りがあった。息子に対する愛情も深く、下半身不随になるまで追いつめた紅衛兵とその裏にあった陰謀に対しては、許し難い敵愾心、復讐心を持っていたと思われる。それが、天安門事件でフラッシュバックとして、思いだしたくない記憶を呼び戻すトリガーになり、よくPTSD患者がみせる過剰反応、過度の反応と、その恐怖感から厳罰の対処をとったとしたらどうだろう。そうはいっても鄧小平は85歳、時がそういったPTSDを癒したのではという人もいるだろう。それに対しては、こう答えたい。フラッシュバックによる記憶は、時間が経過してもなくならない。むしろ原記憶よりも鮮明さが増すと言われている。それは幼児が外傷体験を大人になっても忘れず、トラウマとなっていることでもわかる。 天安門事件から二カ月後の中央政治局常務委員会で、鄧小平はこう述べた。「暴乱の鎮圧は徹底的に行うべきだ。暴乱はわれわれに全国すべての違法組織を根絶するためにチャンスを与えてくれた。これはよいことだ。もしわれわれが適切に処置すれば、大勝利を勝ち取るだろう。」とのべた。鄧小平のPTSDにより、殺りくで幕を閉じた天安門事件は、やがて中国の国民にもPTSDを負の遺産として受け継がれていったようだ。政府は天安門事件が起こる前から、路上監視カメラをイギリスから導入し、反政府デモ参加者の顔を識別する道具として使ってきた。事が起こると、その情報に応じて、次々とデモに参加した学生や市民を逮捕できた。そして、その構図は延々と現代まで継続されてきた。電話網の盗聴、現代のインターネットの規制へとつながっていく。すべて監視されている社会を国民の間に負の遺産として継承してきたのである。 私がフィリピンにいた頃は、まだマルコス政権だった。仕事上の仲間と、コーヒーを飲みながら、政府のやり方や政治批判を始めたら、突然その友人からその話題はやめようと提案があった。マルコスの秘密警察が側にいるかもしれないし、ホテルでも隠しマイクがあるかもしれない。何しろ突然連行されて消えることだってありうるのだとほのめかした。その話の真偽は別にして、ああここはなんでも言える日本じゃないんだと納得した覚えがある。 中国の若者はどうとらえているのだろうか?なんどか、インターネットを通じて知り合い、メールを数度交換した。ところが、政治や歴史などに言及したとたんに、二度とメールは届かなくなった。理由はわからない。向こうが日本人のふりをして政府の役人が思想調査を行っているのではないかと疑っているのかもしれないし、インターネットのように政府の監視が入る場所では単に話したくないのかもしれない。 PTSDはどうやって治療するのだろうか。一般的には薬物治療と心理療法がある。薬物はさておいて、心理治療となると、カウンセリング、認知療法、集団療法、家族療法、行動療法などがある。もし、何らかの有効な対策をとらずに、捨て置けば、やがては同じような事件がまた起きかねない。国民は、こういった思い出は抑圧し、思いださないように心理的に努力するだろうが、なくなったわけではない。なんらかの機会があれば、こういったフラッシュバックはかならずよみがえるはずだ。国民の間に抑圧された感情は、治療なしには、いつか爆発するのではなかろうか。
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