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日本を離れた日

毎年フランス生活の長さに驚き、誕生日同様に記念日を祝っていますが、同時に心の奥でピクッと痛みを感じさせるのが、羽田を経った日です。

1973年10月9日のことですが、思い出す度に胸が痛みます。最愛の父と生き別れになった日だったからです。

また近々再会すると気楽に考えて渡航する今日と違い、当時は本当に全て不便でした。航空料金も高かったので、それほど気安く行ったり来たり出来る時代ではありませんでした。

フランス政府給費留学生試験に受かったおかげで出来る留学だったので、親としても誇りに思うしかなかったのでしょうが、内心は本当に悲しくて堪らなかったと思います。

トイレに駆け込んで涙を拭いながらお別れを言い合いました。元気な振りをして、赤い絨毯を踏みしめて機内の人となりましたが、これほど辛い経験は無かったような気がします。

それから51年が経過していますが、この時に出来た傷は未だに完治していません。

父が急死したのは、それから2年半が経過した1976年4月29日でした。晴天の霹靂を超える個人的悲劇でした。

同時に、艫綱が切れて彷徨う船、手から離れた風船のような軽さもありました。人生、塞翁が馬。良かったのか悪かったのか?

道徳的には悪かったかも知れませんが、その後の人生を満たした解放感を思うと、やはり自分の行き先はここしか無かったのだと思います。

父との文通や家族との後日談を通じて、父もそれをよく理解してくれていたと察して、余計に有り難味が増します。孫悟空を見守っていたお釈迦さまは父でした。

モンペリエっ子になって早49年!

何故ここまで来たのか?自分自身納得していない感じでパリに到着したのが10月10日の話でした。大好きな父を最後に見て、羽田の赤い絨毯を踏みしめて機内の人となり、呆然としてパリでの受け容れ先であった友人宅に逗留しました。

数日間別送のトランクを待ちながら、不消化な出発の後味を中和させる努力をしていましたが、到着して直ぐに食べたパリ風のハムサンドの味(Simple is good !)を除くと、本当に味気ない日々を過ごしたような気がします。

だから、パリ到着は記念日になれないのだと思います。冷たい街だなーと。途方に暮れた若者の頭を過ぎる気持ちを想像すれば、凡そ見当が付くと思います。

新しい人生はこれからだと自分に力付けながら乗った夜行列車の中で、とても親切な人に出会いました。50キロ以上の荷物を抱えて大変だろうから、これから車を取りに行くと言ってくれたのを半信半疑で待っていたら、本当に来てくれて、それも全く下心無しの奉仕でした。

国鉄駅から大学寮まで送ってくれて、無事新しい巣を発見したモンペリエっ子でしたが、この恩人は2度と姿を見せませんでした。本当に親切な人に出会えたと神様に感謝したモンペリエっ子でした。

良い町に来れたみたいだなと思ったのが長い定住の始まりでしたが、10月の清々しい青空と爽やかな風がその思いを更に深くしました。だからモンペリエ到着は記念日になれるのですね。ここには何時までも住みたいと思いました。

両親同様になった友人夫妻との出会いもその月末に起きていました。勉強のために本を探しながら迷い込んだ古本屋で第二の家族に出会っていました。

現在は社会的に治安は悪化するし、問題は増えるばかりのフランスですが、自分が選んだ隅っこは未だ安泰です。勿論、十分注意しながらの話ですが、他に行きたいと思う場所もありません!笑

東京の2倍の時間を過ごした我が故郷モンペリエです。

フランス到着記念日!

本日をもって、モンペリエっ子のフランス生活期間は、日本で過ごした時間の倍になりました。自分でも信じられないほどの長寿だと思います。

どちらが住み易いかなんて問題は二の次にして、只驚くのみです。正直言って、どちらの国にも長所と欠点がありますが、未だに癌に罹らず、やる気を保って生きて行く気になれるのは、やはりこちらに漂う自由な雰囲気が影響しているような気がします。

そして全てにおいてディレッタントであること。曖昧の同義語かなと思います。真剣になり過ぎないで、食べるに困らない程度のお金を稼ぎ、残りはインシャラー!

大好きな音楽ですが、アマチュアでやるから楽しいことであり、万が一間違ってプロの間に紛れ込んでいたら大変なことになっていたと思います。今頃はモグラと昼寝中(フランス式揶揄...)だったかも知れません。

教師になる筈でしたが、「...先生」と呼ばれる身分になるとストレスが溜まります。いろいろな職業を試して見ましたが、精神衛生面から見て、一番体に良いのは、手先の器用さと体力を適度に使う職だと気付きました。

帰農するバカ元気はありませんが、原点に戻る必要を常に意識して生きて来ました。万が一の場合に全て自分でやれること。

これほど単純で実行可能な物差しは無いと思いますが、この理想ほど到達し難いものもありません。コロナ危機中にそれを思い知らされたので、まだ四半世紀生きることが許されるなら、今後はそれに留意して進みたいと思います。

フランス到着記念日の抱負ですが、モンペリエ到着記念日が5日後に迫っているので、それまでまたよく考えて見ます!笑

栗拾いの思い出

生家の庭に栗の大木が3本聳え立っていたので、毎年秋になると庭中に栗が落ちていました。かがんで拾うだけで良い果実として頭にインプットされたせいか、長いこと栗を買う気になれませんでした。

おまけに実が大きくて、とても甘味がありました。引越してから、時々父がお土産に買って来てくれた小粒の天津甘栗を除くと、栗を買った覚えがありません。

その態度はフランスに来てからも同じことでした。店頭で栗を見ても買う気になれないのは、心の奥で拗ねていたからでしょう。生家を奪われ、同時に栗もとられてしまったことが、今でも納得できないままです。

自然の中で果実を採集する時、そのような心の痛みが癒されます。フランスの田舎には誰の持ち物でもない果樹が生えています。公園とか公道沿いに植えられた木に成る果実にぶつかると、一生懸命拾い集めます。

それがイチジクだったり胡桃だったり、その時々ですが、自然の恵みが残っていると感じるだけで満足します。特別食べたい訳でもないのが不思議と言えば不思議ですが、思い当たる理由があります。

生家は父が建てたものでしたが、借地でした。家主と折り合いが悪く、ある日体よく追い出されることになりましたが、その時子供心に「所有」の意味が刻印されました。

所詮資本主義の社会だから...なんて大げさなことを言うつもりではありません。ただ単に悲しかったのですね。それで食傷になってしまったのだと思います。

栗を見ると傷が疼きます。それでも拾いに行くと気持ちが良くなるので、去年は山に登って栗拾いしました。

今年はパリ行きもあり、時間的に余裕が無かったので、今日思い切って栗を買いました。そしたら、やっぱり昔の栗ほど美味しくないのですね。思い出は美化するから???

古狸の顔

今日は頼まれて若い日本人女性と面会しました。以前世話した留学生と知り合いと言うことで、紹介しても良いかと尋ねられたので、日本的に「いいですよ」と言わざるを得ませんでしたが、本心はと言えば、全く乗り気ではありませんでした。

それもなんとなく、人生の先輩を拝むなんて謙遜な態度ではなくて、奇妙な進化をした異国の動物を見たい好奇心に駆られているような気がしないでもありませんでした。40年もモンペリエに住んでいる古狸はどんな顔して、何を考えているのか知りたいだけみたいです。

良く言えば率直、実感的には礼儀知らずの女性は、某有名女子大の学生さんです。良家の子女しかいない筈の大学ですが、彼女の進化にはちょっとガラパゴス的な面がありますねぇ。自由を謳歌することだけ学んだけれど、その応用に答えが見つかっていないのでしょう。

このように近付いて来る人の内心には大きな迷いがあるのかも知れません。はっきりそうと意識している風には見えませんでしたが、心の何処かで、海外に身を落ち着けたくて行き場所を探しているみたいです。

海外で生きることにリスクはあるのか?自分にも可能か?出来ればもっと聞き出したかったのでしょうが、あまりゆっくりする暇の無いモンペリエっ子としては、空気を読む時間だけで勘弁してもらいました。