逝きし世の面影

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イエス誕生日12月25日説は嘘

2019年12月25日 | 宗教

『靖国神社や神社本庁の主張する「二礼二拍手一礼」の神社の参拝作法の嘘』

元々陸海軍省が管理していた軍事施設『靖国神社』に参拝する大日本帝国兵士に拍手や礼は無く、着剣した小銃の『捧げ銃』(ささげつつ)だが、ただし幾ら本物でも現在行うと各種の法律に違反する。
WWⅡ
以後憲法9条に合わせた神社本庁の『二礼二拍手一礼』の作法は元々の靖国神社の伝統とは全く別物だった。



「イエスの誕生日は12月25日」は嘘。意外といい加減なクリスマス サンタクロース、クリスマスツリーの由来は?2019年12月22日 婦人公論  

「キリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝うなんていい加減だ」と言われ続けていた日本人だが、宗教学者の島田裕巳によると、それは違うという。
新約聖書の「福音書」のどこを見ても、イエスが12月25日に生まれたとは書かれていない。季節さえ不明でイエスの誕生日について何も書かれてはいないのだ
聖書は歴史書ではなく神話なので、そこに記された出来事が何時起こったかが書かれていない。
西暦はキリスト誕生年を元年としているが、「マタイ福音書」ではイエスは紀元前4年に死んだヘロデ王時代に生まれている。ヘロデ王が2歳以下の子どもを殺すことを命じ、イエスの父ヨセフが夢のお告げで逃げたというなら紀元4~6年以前になる。

『生まれ年も季節も不明』
聖書は春秋など季節が記されていない。日本とは異なり中東は乾期と雨期の区別はあっても四季の変化が鮮やかではないからだろう。

ただ一つ起きた日が分かるのが、イエスが処刑される前、弟子たちとの「最後の晩餐」である。
マルコ、マタイ、ルカの福音書で、最後の晩餐はユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭」の食事で、ユダヤ暦では、ニサンと呼ばれる月の15日。現在のグレゴリオ暦では、3月の終わりから4月の中旬に相当する。最後の晩餐の後、イエス処刑、3日目に復活した。イエス復活を祝う「復活祭(イースター)」は、カトリック教会では、3月22日から4月25日までのあいだの日曜日、東方教会は4月4日から5月8日の日曜日で、最後の晩餐(処刑、復活)が春の出来事だということは分かる。
ところが、ほかの出来事については、それが一年のうち、いったい何時行われたかは分からない。イエスの誕生については、季節さえ分からないのである。

『ミトラス(ミトラ)教の冬至祭のパクリ』 
2~3世紀のキリスト教神学者アレクサンドリアのクレメンスは、イエスの誕生を5月20日としたが、キリスト教会に受け入れられなかった。

12月25日が「ユダヤのベツレヘムにおけるキリストの誕生」(クリスマス)に定まったのは、「古代宗教の祭日の批判的受容によるとする説}が有力である。
当時のローマ帝国内で古代インド・イラン系のミトラス教が流行りキリスト教と拮抗。12月25日はミトラス教の太陽崇拝日で、ローマ皇帝のアウレリアヌスは、この日を「不滅の太陽の誕生・顕現の祭」として国家の祭典に定めたことから、キリスト教がミトラス教の祭日をイエス・キリスト降誕日にする。
ここで重要なのは12月25日は冬至で、北半球は一年で日の出から日没までの時間が一番短い。冬至から日が長くなっていく。ミトラス教では至を境に太陽は再生し、新しい年の始まりなのである。
イエス・キリストの誕生は、キリスト教徒にとっても新しい時代の幕開けで、イエス誕生日が、新しい年のはじまりを意味するミトラス教の冬至祭と重ね合わされるのは必然であった。

『異教の祭りとしてクリスマスを排斥するキリスト教徒も』
そもそもキリストの誕生の祝い、クリスマスがローマ宗教における冬至の祭りやゲルマンの風習と重なり合って、ようやく四世紀にキリスト教会でおこなわれるようになったのである。
キリスト教が浸透していくヨーロッパには、ゲルマン民族がいて、彼らは、「ユール」という冬至の祭を営んでいた。北欧では現在でもクリスマスのことをユールと言う。
ローマの古代宗教やゲルマン民族の宗教は、キリスト教からすれば、「異教」である。異教であるということは、間違った教えを信仰しているということになる。
クリスマスが異教の祭であるということは、信仰を純粋な形で守ろうとするキリスト教徒にとっては、それは『排除すべきもの』ということになる。
ヨーロッパから清教徒(ピューリタン)が渡ってきたアメリカでは、初期の時代にはクリスマスは冒涜にほかならないとされた。1660年には、「クリスマスに贈り物交換や、着飾った外出や宴会などの違反を犯した者には五シリングの罰金を科す」というクリスマス禁止令が出された(森本あんり『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』)。
キリスト教原理主義には、現在でも、クリスマスを異教の祭として否定する者たちがいる。このように見ていくと、果たしてクリスマスはキリスト教の行事なのか、そもそもそこからして疑問なのである。

聖書には無いクリスマス『いいかげんなのは、本当に日本人?』
イエス・キリストは12月25日に生まれたわけではなく、その日に定まったのは、キリスト教の側からすれば異教となる宗教の冬至の祭と重なったからである。
日本人が、クリスマスを受け入れたのも、それがキリスト教の信仰だからではなく、冬至の祭に発する異教のしきたりだったからではないだろうか。
クリスマスの1週間後には、正月が訪れる。
冬至の祭が、新しい年の幕開けを告げるものであるように、正月も、同じ意味合いを持つ。冬至からクリスマス、そして正月へと続いていくことで、日本人は、古い年が去り、新しい年が訪れたことを実感してきた。
クリスマスが12月25日ではなく、別の時期に行われるものであったとしたら、それは日本であまり広まらなかったのではないだろうか。アレクサンドリアのクレメンスの推測した5月20日では、季節の変わり目でさえないのである。

日本人がキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うことは、日本人が信仰についていい加減な証拠と見なされることが多い
しかし信仰にいい加減なのは、日本人ではなく、キリスト教徒の方ではないだろうか。それはとくに、ヨーロッパのキリスト教徒についていえる。
彼らは、本来は、ミトラス教やヨーロッパの土着宗教の信仰を取り入れることで、クリスマスを作り上げた。聖書にクリスマスについて一切の記述がない にもかかわらずである。
しかもクリスマスの行事において、イエス・キリストが中心的な役割を果たしているわけではない。中心になっているのは白い髭をはやし赤い服を着て、赤いナイトキャップをかぶったサンタクロースである。サンタクロースは、トナカイの引くソリを操り、空を飛んで、子どもたちにプレゼントを届ける。

『サンタクロースもツリーも無関係』
サンタクロースとは4世紀頃に東ローマ帝国の小アジアにいたキリスト教の聖人聖ニコラウスとされるが、聖ニコラウスとイエスのあいだに直接の関係はまるでない。しかも、聖ニコラウスが現在のサンタクロースの姿をとるようになったのは、19世紀になってから。

クリスマス・ツリーはユールに由来。イエスの物語にクリスマス・ツリーにあたるものは登場しない。クリスマスにとって人々が楽しみなのは、クリスマスの期間にだけ開かれるクリスマス・マーケットに出かけていくことである。これは、日本で言えば、縁日のようなもので、そこに出かけた人々は、食事や買い物に興じる。
(抜粋)
12月22日 婦人公論


江戸時代の伊勢神宮参拝の様子。誰も拍手など打ったない。お寺と同じで腰をかがめ、神に相対。両手を合わせて拝む

「神社で柏手を打ってはいけない」納得の理由  12/16(月) PRESIDENT Online
 
神社参拝は、「二礼二拍手一礼」が正しい作法だと言われている。しかし宗教学者の島田裕巳は「平成になってから浸透した作法だ。祈るプロセスがなく、参拝する方法として好ましいものか疑問を感じる」と指摘する。    

■若い頃、「二礼二拍手一礼」はなかった

正月の初詣で神社に参拝に行く人たちは少なくない。
今、多くの人たちは「二礼二拍手一礼」という作法に則って参拝している。二回礼をしてから、柏手(かしわで)を二度打ち、最後に一礼する。今では、大半の人たちが正式の儀礼だと考えている。
ところが、その一方で、この参拝の仕方はどうも馴染めない。そう感じている人たちもいるはずだ。 
少し年齢が上の世代になれば、自分が若い頃は、そんな参拝の仕方はしていなかったと昔を思い出している人たちもいるのではないだろうか。実際、二礼二拍手一礼という参拝の作法が広まったのは、それほど昔からのことではない。いつから広まったのかについては、はっきりしたことは分からないが、浸透したのは平成の時代になってからで、昭和の時代には、まだそれほど広まってはいなかった。
 

昔の神社の参拝の仕方は仏教寺院と同じように跪いて拝んでいた。(映画『姿三四郎』、黒澤明監督)
 
■昔は「合掌」して参拝していた
では、二礼二拍手一礼ではないとしたら、以前どのような参拝の作法が行われていたのだろうか。
基本的に神社も寺院も同じで、両掌を合わせて拝む「合掌」である。今でも、二礼二拍手一礼ではなく合掌して参拝するという人もいる。

■こころを込めた祈りの姿は美しい
映画『姿三四郎』、黒澤明監督の舞台は明治時代に設定されているが、明治から映画が撮影された昭和の初期まで、神社に参拝するときには、合掌したことがそこからうかがえる。より丁寧に祈ろうとすれば、自然と腰をかがめることになったはずだ。
映画を見ていただければ、たちどころに理解されると思うが、この娘の祈りの姿は美しい。

■かつて、神社と寺は一体不可分、密接な関係を持っていた
合掌が、神社の作法だったはっきりとした理由がある。明治時代以前の日本人の宗教世界において「神仏習合」が基本である。
明治政府の『国家神道』の国学者や神道家は、外来の宗教である仏教を嫌い、神道を仏教の影響下から引き離そうと明治元年に太政官布告で、「神仏判然令」が出され「神仏分離」が推し進められた。神仏分離で侶は還俗。仏教寺院破壊に発展した。
ちなみに中国朝鮮で仏教は幾度も圧迫されたが、
日本で仏教伝来以来大々的に廃仏が行われたことは1度もなかった。ところが明治の神仏分離「廃仏毀釈」が日本の宗教を大きく変える。

■本来は「玉串を捧げる」ときにするもの

二礼二拍手一礼がいつから奨励されるようになったのかは分からない。ただ、私が大人になるまで、そうした作法は広まっていなかった。
現在、多くの神社で、二礼二拍手一礼を奨励され参拝者もそれに従っている。とくに若い人たちは率先して従っている。
二礼二拍手一礼になぜ違和感を持つのかは、『二礼二拍手一礼』は神職の作法であり、しかも、それを行う前に玉串を捧げる行為が実践されるべきものだからである。本来、二礼二拍手一礼は単独で行うものではない。玉串奉奠に伴う作法なのである。

■賽銭を投げても「神と向き合う」気持ちにはなれない
一般の人間でも、神社で「正式参拝」を行うときには、玉串を捧げる。
榊(さかき)を神前に供え、二礼二拍手一礼は、その後に行われる。玉串を捧げることと二礼二拍手一礼はセットになっている。
今は社殿参拝で、いきなり二礼二拍手一礼を行う形になる。その前に賽銭箱に賽銭を投げ入れるという行為があり、それが玉串を捧げることの代わりと言えなくもないが、玉串と賽銭では意味が違う。

■神社本庁が権威を示したいのではないか
二礼二拍手一礼の作法を推奨している神社本庁は、その作法に祈念する行為が欠けていることについて、十分に検討してきたのだろうか。

東京都神社庁のホームページでわざわざ「お参りする際の作法には厳格なきまりはありません」と述べられている。昔から神社にかかわってきたなら、たとえ神職でも祈念が欠けている作法に釈然としないものを感じるはずだ。
合掌も玉串も無い二礼二拍手一礼はどうしてもこころを込めて神と相対することにはならない。神社で拍手を打ってはならないのだ
(抜粋)
12月16日 PRESIDENT

★注、587年丁未の乱で蘇我馬子や厩戸皇子が物部守屋と争うが、物部氏も竜華寺などを造ったので日本の歴史で仏教排斥は破壊的カルト『国家神道』の新政府だけ。

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