世界的なスパイ・ゾルゲ事件は特高警察に歴史的な日米開戦(山本五十六の日本海軍連合艦隊ハワイ真珠湾攻撃)直前の1941年10月18日に逮捕され、100年前の1944年11月7日ロシア革命記念日に処刑される。享年49歳。伝説のスパイゾルゲが恋人石井花子と眠る多磨霊園の墓には現在でも献花が絶えることは無いという。
祝バッタチャリア氏NIH長官指名
2024-11-28 08:37:47 | 医療 rakitarouのきままな日常
ドナルド・トランプ次期大統領は、パンデミック対策のロックダウンやワクチン接種義務化に批判的なジェイ・バッタチャリア(スタンフォード大医学部教授56歳)を国立衛生研究所(NIH)所長に選んだ。
トランプは、バッタチャリヤが厚生省長官に指名したロバート・F・ケネディ・ジュニアと「国の医学研究を指揮し、健康を改善し、人命を救う重要な発見をする」。「ジェイとRFKジュニアは協力して、慢性疾患や疾病の危機を含むアメリカ最大の健康問題の根本的な原因と解決策を調査し、NIHを医学研究のゴールドスタンダードに回復させるだろう」。
2020年10月ロックダウンが取り返しのつかない損害を引き起こしているとの公開書簡「グレート・バリントン宣言」の3人の執筆者のうちの1人バッタチャリアをNIH所長に選ぶという決定は、COVIDパンデミックが政治と公衆衛生に及ぼす継続的な影響を改めて思い起こさせるものだ。
バッタチャリヤの公開書簡は、新型コロナウイルスワクチンが利用可能になる前、トランプ政権時代に作成されたもので、感染リスクの低い人々は感染を通じて新型コロナウイルスに対する免疫を構築しながら通常通りの生活を送るべきであるという考えで「集団免疫」を推進している。文書では、保護はむしろリスクの高い人々に重点を置くべきだとしている
「ロックダウンは公衆衛生上の最大の過ちだったと思う」とバッタチャリヤは2021年3月、フロリダ州のロン・デサンティス知事が主催したパネルディスカッションで語った。
米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長が、トランプ政権末期に中国軍に対して攻撃の意図はないと電話で伝えていたと報じられた問題をめぐり、ミリー氏は28日の上院軍事委員会の公聴会で電話をした事実を認めた。エスパー国防長官(当時)ら政権幹部の了承済みだったという。
80年前のリヒャルト・ゾルゲ(世界を変えたスパイ事件)
ミリー議会証言のアメリカ軍は「攻撃の意思なし」との中国への電話連絡は太平洋戦争開戦(1941年12月8日)直前の、独ソの二重スパイだったリヒャルト・ゾルゲの「日本軍は対ソ戦の意思なし」(石油資源を求めて南の英シンガポールやオランダ領ジャワ島に侵攻する)との暗号通信と同じ意味の最重要事項である。
ちなみにスパイゾルゲは特高警察に1941年10月18日に逮捕され、1944年11月7日のロシア革命記念日に処刑される。享年49歳だった。そもそもゾルゲを逮捕した(日本軍の動向の最高機密が外国にダダ洩れしている)なら12月8日の奇襲攻撃は中止するべきだったし、最後の日本本土防衛ラインのサイパン島陥落など日本敗戦確定後にソ連を介しての講和条約を模索しているならロシア革命記念日のゾルゲ処刑はもっと中止すべきだった。(日本は崩壊に向かって挙国一致でまっしぐらに暴走していた)
80年前のスパイゾルゲと同じことをしたと認めた今回の米議会ミリー証言ですが、アメリカが国家として正常に機能していれば間違いなくミリーは即座に逮捕され「国家反逆罪」で死刑か懲役300年である。
世界最大最強のアメリカ軍が事実上のクーデター実行との今回のミリー証言の重要性は筆舌に尽くしがたいが、メディアの扱いは180度逆に極小さなベタ記事なので、有識者では中国人実業家の宋文洲以外は沈黙したまま全員が無視している(★注、知らないとすれば愚かすぎる。知っていて黙っているとしたら悪すぎる。何れが真実にしろ知識なき知識人とのブラックジョーク)2021年09月30日 | 政治 アメリカ文民統制(シビリアンコントロール)崩壊
ゾルゲが恋人と眠る多磨霊園:伝説のスパイの足跡を訪ねて(5)
歴史花子がゾルゲの死を知ったのは、終戦間もない1945年10月。戦前に検挙されていた思想犯が釈放され、ゾルゲ事件は各新聞で報道された。処刑後のことには触れていなかったため、彼の遺体はゆかりの国、ドイツかソ連に運ばれたと思ったという。最愛の人ゾルゲを失い、孤独に耐えて生きていこうと覚悟した。それから3年、花子は書店でゾルゲ事件を伝える小冊子を手に取った。そこには「ゾルゲの死体は引き取り手がなく、雑司ヶ谷の共同墓地に土葬された」と記されていた。早速、雑司ヶ谷に行ってみたが、墓地は荒れ果て、どこに埋葬されているかさえ分からなかった。
巣鴨から小菅に移った東京拘置所にも何度も足を運び、亡き骸の行方を尋ね続けた。だが、係官からは煙たがられ、「今は国際情勢が微妙だから、ゾルゲの墓標も立ててはいけない」と言われたという。当時の日本はまだ占領下にあり、連合国軍総司令部(GHQ)はソ連のスパイの存在に神経をとがらせていたのだろう。
処刑から20年、突然の名誉回復
ゾルゲが亡くなって5年がたった49年11月、懸命に愛する人の遺体を探す姿に同情した共同墓地の管理人が手を差し伸べてくれた。「先日、共同墓地に埋葬された人たちを合葬した際に、骨格が大きい外人らしいものが見つかった。あなたが引き取りに来ると思って、合葬せずに別にしておきました」。間一髪で間に合った。合葬されてしまえば、ゾルゲの遺体を特定する手段がなくなってしまう。掘り起こされた白骨が第1次世界大戦中に負傷した足の傷と一致し、処刑された時にかけていたロイドメガネも出てきたことで、ゾルゲ本人の遺骸と確認された。花子は著書の原稿料で、当時の住まいに近かった多磨霊園に墓を買い、翌50年11月、ゾルゲを納めたのだった。(花子の著書「人間ゾルゲ」から)
東京オリンピックがあと1カ月に迫った64年9月、各紙がモスクワ電として「ゾルゲ再評価」を伝え始めた。ゾルゲの功績をかたくなに認めようとしなかったスターリンが死去し、スターリン批判に踏み切ったフルシチョフ書記長は、その政権末期になってようやく、ゾルゲの名誉回復に向けて動き出した。突然のことで戸惑う花子のもとに、ソ連の報道機関が続々と取材に訪れた。五輪取材で来日した東独の特派員らもゾルゲの話を聞きにやってきた。同11月、ソ連最高会議幹部会がゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号を贈った。これによって諜報団の存在を黙殺してきたソ連のゾルゲ評価が180度転換した。
ゾルゲの墓は、中央の黒光りする墓碑にロシア語で「ソ連邦英雄 リヒャルト・ゾルゲ」、その下に「妻 石井花子」と彫られている。この墓を1人で守り通した花子の強い思いを感じさせた。その両側に石碑があり、一方には「戦争に反対し世界平和の為に生命を捧げた勇士ここに眠る」と記されている。もう一方には「ゾルゲとその同志たち」の名や命日が刻まれている。ソ連の崩壊後もロシアの駐日大使がここに墓参する慣例になっている。
歩いて数分の所に尾崎秀実の墓がある。遺書で、「墓所を買うこと無用」としているが、「将来平和な時期が来て、(ひとり娘が)一本立ちできて、お母さんと一緒にお父さんのお墓を作るのなら、喜んで入る」と添えてあったので、戦後に墓が建てられた。花子はこのことを全く知らずに、偶然にも同じ霊園にゾルゲの墓を作った。(抜粋)
『東条英機(陸軍大臣)内閣の興亡とゾルゲの逮捕と処刑との密接な関連性』
ゾルゲは日本軍の第二次世界大戦の参戦直前の1941年10月18日(東条英機内閣の成立と同じ日)に逮捕され、敗戦が迫る1944年11月7日(1944年(昭和19年)7月22日の東条内閣退陣から1月半後)に処刑されている。
敗戦の1年前に最後の防衛ラインのサイパン島が陥落し東条英機も失脚して、日本はソ連を仲介役に連合国側と降伏交渉を行っていたと言われている。ところが、それなら日本側の唯一の『切り札』であるゾルゲの処刑は不可解。みすみすソ連との交渉カードを自分から潰していた。
敗戦後の極東軍事裁判において日独伊三国同盟締結時の外務大臣松岡 洋右が訴追されたのに、東条英機以後の対米戦争を指揮した(日本が無条件降伏以前の)二人の首相が訴追されなかったのも不可解である。
もし1年早く日本が降伏していたら国力のほとんどは健在だったのである。日本の降伏が半年早くドイツ降伏以前だったらソ連軍参戦も原爆投下も無く都市の大部分も健在で戦後復興は驚くほど速かったので、今のような『アメリカの一人勝ち』にはならなかった。
『ゾルゲ、刀の切っ先を走り抜けた男 』2015/02/24 Voice of Russia
今からから70年前の1944年11月7日、伝説的なソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの心臓の鼓動は止まった。ゾルゲはラムザイの通称で歴史にその名を残した。そして今度は今から50年前の1964年の11月、ソ連では初めて、ゾルゲの諜報活動に関するきちんとした形の評価がなされた。ロシアの声はこの日にあわせて特別番組を組み、リヒャルト・ゾルゲの生涯からいくつかのエピソードをぬきだし、著名な日本研究家のアンドレイ・フェシュン氏、アレクサンドル・クラノフ氏の見解をご紹介したい。
1944年11月7日の朝、東京の巣鴨拘置所。人間の歩みで図れば縦が5歩、横は3歩という狭い独房。天井にぎりぎり近い位置に格子の入った小窓。小さな電球が1人の受刑者をぼんやりと照らし出している。閂がかちゃかちゃと音をたてた。扉の敷居には看守と2人の警備員、そして主任牧師の姿。秩序を遵守しながら、看守が口を開く。
「あなたの名前は?」
「リヒャルド・ゾルゲ」
「年齢はいくつですか?」
「49歳」
「東京地方裁判所は絞首刑による死刑を言い渡し、最高裁判所は控訴を取り下げました。これはご存知ですか?」
「はい、知っております」
「執行は44年11月7日、つまり今日行われることになっております。覚悟はよろしいですか?」
「覚悟は出来ております」
看守は受刑者の視線を床に促した。床の真ん中にはハッチのふたがあった。ゾルゲはそのふたの上に立った。ゾルゲの首に縄がかけられる。そしてハッチのふたが開けられた。こうしてリヒャルト・ゾルゲの命は露と消えた。ゾルゲの死体は拘置所の墓地にある無縁墓地に埋葬された。
ゾルゲの訃報は彼に非常に近しかった女友達の、石井花子に伝えられた。石井はこれに絶望したが、それでもこの日から彼女の人生は再び新たな意味を帯びた。石井はゾルゲの遺体を捜し出し、墓を建て、人々にこの人物のことを伝えることを自分の使命と肝に銘じた。そして1949年、彼女の念願が叶う。石井花子はゾルゲの遺体を捜し出し、荼毘に付し、東京の多磨霊園に埋葬しなおした。石井花子のおかげで日本語とドイツ語でリヒャルド・ゾルゲと銘を入れた墓石が立てられた。
ソ連邦がゾルゲの貢献を認めるまでの間の1960年代の初頭まで、石井花子は1人でゾルゲの墓守をしていた。
1964年11月5日、ソ連最高会議幹部会が次のような勅令を出した。
「祖国に対する貢献と勇敢かつ英雄的行動を讃えて同士リハルド ・ゾルゲにソ連邦英雄勲章を授与する」
このすぐ後、ソ連政府はゾルゲの墓所に、ロシア語で彼の名を刻んだ墓石を加えた。そこには「ソ連邦の英雄、リハルド ・ゾルゲ」と記されている。
今のロシア人にとっては、リヒャルド・ゾルゲは記念碑や文学作品に描かれ、諸都市のあちこちの通り、広場に名を冠する存在であり、第2次世界大戦時代に英雄的に活躍した輝かしいスパイとして刻まれている。ゾルゲについてはほとんど全てが明らかにされていると思われているが、実は全くそうではない。1941年秋、東京でゾルゲとその一味が逮捕された後、彼の名はソ連では忘れるがままにされていた。そしてそれからほぼ20年にわたって同じ状態が続いていた。だがこれは何の不思議もなく、非難されるようなものでもない。世界で暗躍するスパイのほとんどはその名も知られないまま消え去っていくからだ。
ゾルゲのスパイとしての主な功績は一体なんだったのだろうか。高等経済学校の助教授で日本専門家のアンドレイ・フェシュン氏は次のように語る。
「1940年12月から始まってゾルゲはソ連の諜報参謀本部指導部に対し、わが国への攻撃準備に関する機密情報を送りつけ、文字通りこれを『爆撃し続けた』。そして攻撃の期間について知らせるだけでなく、ヒトラー軍がどこに一番の打撃を加えようとしているのか、正確な方向までも報告したのだ。
ところがゾルゲの報告をモスクワは信憑性を欠くとして受け止め、この点において除外的に注意深く受け止められていた。ゾルゲの悲劇はまさに、最も重要度の高い戦略的情報でさえも諜報部の疑いを招いていたという点にある。だがいったん戦争が始まると、ゾルゲの忠誠心は明確になり、軍事的性格の要請が次から次に寄せられるようになった。」
ゾルゲの功績は彼がソ連に対するヒトラーの攻撃を伝えていただけに留まらない。ゾルゲはドイツのソ連攻撃の日をはっきりと6月22日と明言していたのだ(これについては他のエージェンシーも情報を伝えていた)。1941年秋、ゾルゲは日本は対ソ参戦は行なわず、太平洋上で米国を相手に戦うだろうと報告した。これを受けてスターリンは師団の一部を西部戦線およびモスクワ郊外に投入することができ、まさにこれによってモスクワへと進軍するヒトラー軍を阻止することが叶った。確かに軍部隊の配置換えはゾルゲの報告だけによるものではなかった。これには満州にいたソ連のエージェンシーなどの情報源も加味されていた。
ソ連側の疑心はゾルゲを非常に気落ちさせた。ゾルゲは回想録のなかでこう記している。
「私が集めた情報をすべてモスクワに送ったと考えるのは間違いになるだろう。いや、私は情報を自分の目の細かい篩にかけ、絶対的な確信をもって、これは非の打ち所がない、信憑性があると思われるものだけを送ってきた。政治状況、軍事状況を分析する際も同じ姿勢で行なってきたのだ。」
ゾルゲのもつ分析能力と広い博識が功を奏して、彼は日本で様々なコンタクトを取得することに成功する。そのつながりのおかげでゾルゲはほぼ第1人者に近い筋からの非常に価値の高い機密情報を得ることが出来た。ゾルゲが日本に渡ったのは1933年9月。ドイツの主要な新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員としてだった。新聞にはゾルゲが定期的に執筆する記事が掲載され始める。そんな記事の見出しを読むと、「日本の軍事力」、「日本の財政配慮」、「近衛公、日本の力を結集」、「日英の不透明な関係」、「軍事立法における日本の経済」などが挙げられる。
認識的な資料、日本の将来についての考察がちりばめられたこうした記事は明確な政治的帰結を含んでいたため、すぐさま注目を集めた。ゾルゲはオイゲン・オットー駐日ドイツ大使の信用を勝ち得るようになった。オットー大使はしばらくすると日本がベルリンに宛てた大使館機密情報の編集まで頼むようになる。後にゾルゲはドイツ大使館の広報担当大使館員兼大使顧問となった。ゾルゲは最重要証拠の60%をまさに自分の執務室で、または大使の妻から入手していたのだった。これにある種の役割を演じたのがゾルゲのもつコミュニケーション能力の高さと魅力的な人格だった。だが最たるものは高い知性と多くの問題についての豊富な知識、先を見通し、全体を見渡して帰結を出すことのできる力だろう。ゾルゲは日本に渡る前に、日本の歴史、経済、文化について大量の資料を読み込んでいたが、それはちゃんとした理由があってのことだった。
かなり短い期間でゾルゲは日本で見事に非合法活動を行なう諜報団「ラムゼイ」を作り上げた。そこには合計30人以上のメンバーが入っており、中核にはゾルゲ本人、無線技師のマックス・クラウゼン、洋画家宮城与徳、ジャーナリストのブランコ・ヴケリッチ、日本人ジャーナリストの尾崎秀実がいたが、尾崎はゾルゲにとっては最も重要な情報源となった。ゾルゲ諜報団は万人にアクセスが開かれた情報源のみならず、日本の閣僚、将官団、大産業家などをつかって最大限、諜報情報を引き出すことに成功していた。
この一団にはたった一人の共産党員もいなかった。そしてこれはゾルゲのとった第1の安全対策だった。というのも、日本の警察や特高は共産党員を捕まえようと「赤」狩りをして、彼らの痕跡を見つけ、諜報団自体の存在を突き止める危険性があったからだ。数年にわたりこの「ラムゼイ」は日本警察の鼻面の前でたくみに振舞い続けた。ゾルゲ自身には目に見える、そして見えない様々な監視がついていたにもかかわらず。
いくつかの諜報情報が日本の特務機関に傍受された際も、特高はそれを解読したり、送信地点をすぐに突き止めることは出来なかった。ところが送信ステーションはすぐ鼻先の東京郊外にあった。諜報団がこれだけ見事に成し遂げた理由について、ロシア日本学者協会の幹部、アレクサンドル・クラノフ氏は次のように語っている。
「まず、これはゾルゲの教育レベルの高さとプロとしての豊かな経験のゆえんだろう。ゾルゲは忍耐強く非合法活動に接していた。とはいえ、時にこれを軽蔑していたことを物語る証拠もたくさんある。もちろん、ゾルゲは非常についていた。彼は危険を犯していた。あたかも運命を相手に競うかのように。ゾルゲは日本の警察のよけいな疑念を払拭することに成功していた。なぜならドイツ大使館という格好の隠れ蓑があったからだ。もうひとつ、ゾルゲの成功を促した要因がある。1930年代半ば当時、日本の治安維持機関はこれだけの規模の諜報活動を相手にするには準備が足りなかったのだ。」
だがなぜ、ゾルゲの諜報団は逮捕されてしまったのだろうか? これについてフェシュン氏は次のように語っている。
「この一団はずいぶん前から追跡されていたのだが、どうやら証拠不十分だったようだ。ゾルゲに通信機で、ソ連大使館の代表らが直接彼とコンタクトを取るといわれたとき、ゾルゲはこの契約は暴露されるだろう、つまり破綻したことが分からないはずはなかった。
このとき、ゾルゲの心中で何が起こっていたのか、我々は知る由もない。だが、ゾルゲ本人がミスを犯すはずはなかった。ゾルゲを近寄せたのはソ連側の担当者らだった。諜報員が在東京ソ連大使館職員と直接的にコンタクトを取る場に引き出されたとき、日本の防諜機関には直ちに出動命令書が出された。
もちろん、有名な外国人ジャーナリストの彼には多くが許されてきたし、これといって大きな疑惑の念がもたれたことはなかった。だがソ連大使館の公式的な代表者に呼び出されたということは判決を言い渡されたも同様だった。これが内務人民委員部機関の知識不足なのか、または故意の煽動だったのかは明らかにされていない。」
いくつかの証拠によると、1943年9月29日、ゾルゲに死刑判決が言い渡された後、日本はソ連に対して、ゾルゲと、ノモンハン事件で捕虜となった日本人軍人の交換を申し出ていたことがわかっている。人質交換を許可できた人物はただ1人、スターリンだけだった。なぜスターリンはこれに応じなかったのだろうか? ひょっとすると、スターリンにはゾルゲが「二重スパイ」であるかのような話が伝わっていたのかもしれない。本当にゾルゲは二重スパイだったのだろうか? これについてクラノフ氏は次のように語っている。
「ゾルゲを『二重スパイ』と呼ぶには条件がある。ソ連側はゾルゲが送ってくる内容はベルリンにも送られていることは把握していた。ベルリン側が知っていたのはゾルゲがベルリンに情報を送っているということだけだった。これはあまりにも大きな違いだ。」
「もし平和な社会に生まれ、政治的に平和な環境にいたら、私は間違いなく学者になっていたはずだ。少なくとも、諜報員としての仕事を選ばなかったことは確かだ。」
ゾルゲの独房での手記はこう語っている。彼は一体どんな人物だったのだろうか? 敵の穴のなかで働き、長い間、こんなにもうまくカモフラージュできたとは、どんな資質を兼ね備えていたのだろう。この問いをまずはフェシュン氏にぶつけてみた。
「ゾルゲはロマンチストだった。スパイの仕事を始めながら、ゾルゲはプロとしてのロマンチシズムの時代を体験している。スパイとしての自らの課題を彼は日本のソ連侵攻を防御することと捉えていた。そしてこれは彼にとっては平和を求める闘争のロマンチシズムだったのだ。これは彼の上海時代に、運命のいたずらで彼がソ連諜報機関のレジデントになり、甚だ功績を挙げてしまったときにすでに発揮されていた。ゾルゲのあらゆる方面に均一の取れた性格、やりくりのうまさ、人付き合いのよさも発揮された。
だが常に緊張の中で生きるというのは誰にでも出来ることではない。ロマンチストであるからこそ、ゾルゲは神経質にもなった。それでも彼は人目を惹く人間であり、絶好の話し相手でありつづけることができた。彼は美しい人物で非常に勇敢だった。女性たちは彼に夢中になった。おそらくそれだけのものがあったに違いない。ゾルゲが本当に一貫した、一様な性格の持ち主ではなかったことは確かだ。」
クラノフ氏の意見はこうだ。
「残念ながらゾルゲの恋人だった石井花子の著作、『人間ゾルゲ』はロシア語には訳されていない。訳されていれば多くの面白い事実を知る事が出来ただろうと思う。この人はまちがいなく完全な、そしてあまりにも高度な知性をもったとても強い人物だ。当時の描写のそこここから、ゾルゲがいかに敏感で注意深く、強い意志力をもった人間かがわかる。
もちろん、彼は強いエネルギーと芸術家としての資質を兼ね備えていた。必要と在らばゾルゲは人を魅了し、自分にひきつける事が出来たのだ。
彼は惚れっぽく、数々の女性を相手に名声を上げた。花子のゾルゲへの愛の物語はロシアでも日本でも十分に評価されていないと思う。8年ものスパイ活動をゾルゲは常に高度の緊張状態で行なっていた。このため時に激しい感情の起伏に襲われることがあったが、これは十分に説明がつく。まあ、まったく普通とは違う人間だった。」
ゾルゲの働きの意味をまとめると、これは日本とソ連の間の戦争勃発を防御することにあったが、実際ゾルゲによってこれは見事に果たされた。たしかにゾルゲは「日本の国益を損傷した」として裁かれたが、事実上はゾルゲは日本を敵にしたわけではなく、なんとか日本とソ連に戦争が起きぬように働いていただけなのだ。今の日本人の解釈はまさにこうであり、だからこそ、未だにゾルゲの墓には花が絶えない。リヒャルト・ゾルゲについてはロシア人もそして外国人も多くの調査を行い、執筆を行なっている。残されていた古文書もほとんど全てが公になった。ゾルゲの名は伝説となり、その歴史はどこまでが真実でどこからが嘘なのか、見分けがつきにくいほどに数々の伝説がまとわりついている。何か新たなことを探し出すことは難しい。この番組ではゾルゲの人生の最後を少し取り上げてみた。リヒャルト・ゾルゲ没後70周年の前日に再びこの人物を思い起こし、その功績を讃えたい。
2015/02/24 Voice of Russia 2018年08月21日 | 社会・歴史 ココ・シャネルとナチス情報部
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます