近頃流行る『肉屋を支持する豚』どころか、『自分は肉屋だと勘違いした豚たちの悲劇』
ブラジルの日系移民と同じ『勝ち組』の2017年8月15日の産経新聞朝刊の書籍の広告欄が凄まじい。平和ボケの産経新聞読者(戦争を知らない幸せな子供たち)にとっては72年前に日本がボロ負けした第二次世界大戦で大日本帝国が勝っていた歴史が正しいらしい・・・『肉屋を支持する豚』どころか『自分は肉屋だと勘違いした豚』である。
『日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか』8/16(水) 現代ビジネス(加谷 珪一)
国家予算の280倍、今で換算すると…
戦争と経済は切っても切れない関係にあり、経済力は戦争遂行能力そのものであるというのが現実だ。経済という切り口で太平洋戦争を振り返った時、何が見えてくるだろうか。
国家予算の280倍をどう用意したのか
実は、太平洋戦争の戦費はよく分かっていない。
軍部が暴走、占領地域において軍票や独自通貨を乱発し現地調達したため、その分の金額がはっきりしないことと、日本経済の基礎体力を完全にオーバーした戦争で激しい財政インフレが発生。貨幣価値がかなり毀損してしまったからである。
旧大蔵省資料によると、太平洋戦争(日中戦争を含む)における名目上の戦費総額(一般会計と特別会計)は約7600億円。日中戦争開戦時のGDPが228億円なので、戦費総額のGDP比率を計算すると何と33倍。国家予算に対する比率では280倍という天文学的数字である。
この数字には少々カラクリが、
太平洋戦争の戦費はあまりにも膨大で、税金では不可能だったので日銀による国債の直接引き受け(日銀が無制限に輪転機を回す現在のアベノミクス)によって賄われた。(★注、このような『財政ファイナンス』は当たり前ですが法律で厳重に禁止されていた違法行為)
当然のことながらインフレが発生するが戦争中は価格統制が敷かれ顕在化しなかった(これも現在に通じる)が、それでも戦争が始まると物価水準はどんどん上がっていった。この財政インフレは終戦後、ハイパーインフレとして爆発することになった。
戦費は、このインフレ率を考慮なければならないが、日本軍は占領地域に現地通貨や軍票の乱発によって各地域の経済は破壊され、日本国内をはるかに超えるインフレが発生したが実態は、よく分かっていない。
無理にもほどがある
当時のインフレ率から実質的な戦費の総額はおよそ2000億円。仮にこの数字が正しいと仮定すると、GDPとの比率は8.8倍に、国家予算との比率は74倍に小さくなったが、それでも途方もない金額で、現在の価値に置き換えれば、4400兆円もの費用を投入したことになる。
これらの戦費負担については、最終的には、預金封鎖によって国民から財産を強制徴収する形で埋め合わせが行われ、国民は財産のほとんどを失うことになった。
一方アメリカは
一方の当事者である米国にとっても大きな戦争だったが日本と比べると相対的な負担は軽い。
太平洋と欧州と二つの戦争を戦った第2次世界大戦の戦費総額は約3000億ドル。米国のGDPは920億ドルなので、GDP比は3.2倍。米国経済の基礎体力の大きさが分かる。
ちなみに第1次大戦当時の英国の戦費総額もGDPの3.8倍程度であった。
国家存亡の全面戦争であってもGDPの3倍から4倍程度が限界値で、その点からすると太平洋戦争は最初から無理だった。
日露戦争との激しすぎる落差
これほど無謀な戦争に反対する意見も、統計データから国力を算定した一連のデータから対米戦争の遂行は不可能という分析は行われていたにもかかわらず、開戦が決断され、全土が焼け野原になるまでそれを止めることはできなかった。
太平洋戦争の特殊性は、明治期に行われた日清戦争・日露戦争と比較するとさらに際立つ。
日清戦争開戦当時のGDPは13億4000万円で、戦費総額のGDPは0.17倍。現在の日本なら約85兆円。日露戦争のGDPは約30億円、戦費総額のGDP比は0.6倍。
グローバル経済(シティ)が用意した戦争
日露戦争の戦費は、覇権国家であった英国ロンドンのシティ(現在なら米国ウォール街)において英米の投資銀行が積極的に関与して、ほぼ全額の調達に成功している。
シティで調達した日露戦争の戦費(英ポンド)は英国シティの銀行に預金され、戦艦三笠など当時の主力艦船のほとんどは英国製で、日本が大量に購入した近代兵器の決済はシティ内だけで完遂する。(★注、経済から見れば日露戦争とは『英国の英国による英国のための戦争』だった)
歴史は繰り返す
「戦争は他の手段を持ってする政治の継続である」というのは、戦争論(クラウゼヴィッツ:1780年~1831年)の有名な一説だが、政治や外交も最終的には経済問題に行き着く。
つまり、戦争は日常的な経済活動の延長線上に存在することになる。
実際、各国の戦争遂行能力は、GDP(国内総生産)に比例しており、経済体力を超えて戦争を遂行することはできない。現実を直視せず、結果として日本経済を完全に破綻させてしまった太平洋戦争は、まさに教訓とすべき歴史的事実だ。
(抜粋)
『玉音放送を無視、WWⅡ終結から途切れることなく密かに始って現在も継続中らしい対ソ戦争(東西冷戦)』
原則ゴールデンアワーの日曜日21:00 - 21:50の時間枠に放送するがNHKのドキュメンタリー番組『NHKスペシャル』ですが、日本の終戦から72年目の今年は8月13日に満州の731部隊が、翌日の14日には終戦後に行われた樺太の地上戦を放送していた。
『太平洋戦争(日米戦争)は1945年8月10日の御前会議でポツダム宣言受諾、8月15日の「玉音放送」で正式に終わった筈だった』
札幌に司令部があった南樺太、千島、北海道を管轄する第5方面軍の樋口司令官(北部軍管区司令官)は玉音放送の翌日の8月16日午後に武装解除の準備を進めていた樺太師団本部に、ポツダム宣言を無視して終戦後にもかかわらず『樺太を死守せよ』と第五方面軍司令官として命令していた。
徹底抗戦の命令を受けた樺太師団の鈴木康参謀長(大佐)は戸惑いながらも、NHKの番組内で
『泣いて終戦命令を下し各隊が涙と共に実行中の16日午後 軍命令が届いた。今頃何事ぞと怪しみ考えてみたが合点がいかない。電話で作戦就任に尋ねる。はっきりした回答は得られない。』と語っていた。
結果は樋口 季一郎司令官の第5方面軍の『樺太死守』命令を知らずに進駐したソ連軍は日本軍の不意打ちの先制攻撃で多数の死傷者を出すが、その後のソ連軍の反撃で大勢の日本人が犠牲になる。
樋口 季一郎の明らかなポツダム宣言違反では、極東軍事裁判で戦犯として逮捕を求めたがGHQ(マッカーサー)はソ連の要求を突っぱね逆に保護する。アメリカですが対日戦争の終了(8月15日)の直後から間髪を入れず8月16日から対ソ戦争(東西冷戦)を開始していたのである。
樋口 季一郎陸軍中将
『NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』 2017年8月14日(月) 20:00~20:43 NHK総合の番組案内が、なにか変である。
天下のNHKが前後の言葉が不自然、降伏が幸福になっているなど致命的な変換ミスや誤字脱字など前後の文章が微妙に辻褄が合わない、個人が書いているブログ記事のようにNHKの文章なのに正しく推敲が行われた形跡がない何とも摩訶不思議な代物だった。何かの危険で重大なタブーに抵触していたので推敲する時間的余裕が無かったのであろうと思われる。
日本を占領したマッカーサー(GHQ)は1949年には下山事件や松川事件、三鷹事件などの謀略事件で共産党や労働組合を大弾圧、レッドパージを行った挙句、1950年からは今も続いている永久に終わらない朝鮮戦争を引き起こしている。
(昭和史研究家の保阪正康によると38度線を越えて首都ピョンヤンを陥落させた勢いに乗って中朝国境の鴨緑江に迫って中国の義勇軍の介入を招いたマッカーサーの判断ミスですが、その原因として米軍が『中国軍は弱くて直ぐに降伏する』との日本軍参謀の助言をあげているが、731部隊など旧日本軍とアメリカ軍は8月15日の『玉音放送』以後には、対ソ『冷戦』を最優先して友軍関係にあったらしい)
米バージニア州アレクサンドリアに設置された南部連合兵士の像アポマトックス(Appomattox)
『米各地で南部連合のモニュメント撤去の動き』 2017年08月16日 AFP
米首都ワシントン(Washington D.C.)に背を向けるように、通りの中央に設置されたブロンズ像の視線の先には、戦友たちが倒れた南北戦争(American Civil War)の戦場がある。
ワシントンからポトマック川(Potomac River)を渡ったバージニア(Virginia)州アレクサンドリア(Alexandria)の交通量の多い交差点に立つこの南部連合(Confederate)兵士の像は、1865年に南軍が最後の戦闘に敗北し、4年にわたる南北戦争の降伏へと至った場所で、今から130年前に建てられた。米国南部の各地には、このような南軍戦没者の栄誉をたたえる数百の記念碑があるが、8月12日バージニア州シャーロッツビルでも南軍のロバート・E・リー(Robert E. Lee)将軍像の撤去計画を引き金にして、両者の大規模な衝突が起きていた。
8月16日 AFP(抜粋)
『アメリカではプロパガンダが真実を征服した』2017年8月15日Paul Craig Roberts
南部連合国兵士と奴隷制度を結びつけるのは歴史に矛盾する。奴隷制度は労働力の不足から独立宣言以前に導入されたのだ。
最初の奴隷は白人だったがマラリアでバタバタと死に、インディアンは奴隷として不向きで、マラリアに免疫があるアフリカ人を労働力として、奴隷戦争をしていたアフリカ黒人諸部族から購入され、奴隷貿易が始まる。
南部連合国兵士は奴隷制度のために戦っていたわけではない。彼らは自分の国が侵略されたから戦っていたのだ。
アメリカ合州国と同様、南部連合国は彼らの国ではなかった。彼らが忠誠心を持っていた国とは『州』だった。
ロバート・E・リーが北軍を指揮するよう要請されたが、自分の国(バージニア州)と戦争出来ないという理由で断った。
リンカーン大統領が再三言っていた通り、戦争は奴隷制度とは無関係だ。
もし南部の分離を認めれば、北部は安価なイギリス製品によって、南部の市場を失うことになる。
しかし南部は、北部からの高価格の商品と、南部の綿輸出に対するイギリスによる報復関税の二重の打撃を受ける。
(★注、当時の連邦政府は北部の新興工業の保護で40%もの超高関税を課していた)
“内戦”という呼び方そのものがウソなのだ。
内戦というのは、政府支配を巡って二者が戦うものだ。南部はアメリカ政府を支配するために戦っていたわけではない。北部が侵略したから戦っていたのだ。
奴隷解放宣言はプロパガンダだった。
狙いは二つあった。一つは奴隷制度廃止論者を黙らせること。
もう一つは南部諸州での奴隷反乱で南軍の兵力を削ぐことだ。(北部は反乱を呼びかけたが)しかし奴隷は反乱しなかった。
リンカーンの奴隷解放宣言では、ウィリアム・H・スワード国務長官が『管轄権がない南部の奴隷を解放し、我々が管轄している奴隷を置いたまま』と述べた。
リーの南軍に対してリンカーンの北軍は、常時、二ないし三対一、それ以上に南軍を上回っていたにもかかわらず、南軍(北部バージニア州軍)は最初の二年間、戦闘で敗れなかったゆえに、奴隷反乱を狙ってリンカーンは奴隷解放宣言をした、
もし南部の人口がもっと多ければ、南軍勝利で戦争が終わっていたが南部には、軍事勝利を得続けるだけ兵力が無かった。対照的に、北部(アメリカ帝国)にはアイルランド移民など無限の供給があった。
奴隷制度は、南部への移民労働人口が過剰になれば、次第に消滅していたはずだ。奴隷制度は、新たな移民が、現地の労働力になるのではなく、インディアンの土地占拠で西へと向かったがゆえに、あれだけ長く続いたのだ。
(抜粋)
Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者
『日本の嘘「植民地解放」が終戦後に実現、アメリカの戦争プロパガンダ「奴隷解放」が南北戦争後に実現する歴史の皮肉』
南北戦争開戦は1861年4月12日で、歴史教科書で開戦の理由だとされているアメリカ合衆国大統領の奴隷解放宣言は南北戦争が始って1年半後の1862年9月なので時系列的に辻褄が合わない。
しかも、エイブラハム・リンカーンの奴隷解放の中身とはその条文を読めば誰にでも分かるが、連邦軍の戦っていた南部連合が支配する地域に限定した黒人奴隷の解放を命じた宣言であり、これは苦戦している北軍側が南部での奴隷の一斉蜂起(後方攪乱)を期待したものであることは明らかだった。
リンカーンの『奴隷解放』宣言とは、『欧米列強の植民地の解放』との日米開戦当時の日本軍のインチキ臭い戦争プロパガンダと、その動機や中身がそっくりなのですから驚くやら呆れるやら。日本の『植民地解放』が本気なら、仏領インドシナや英国のマレー半島ではなく先ず日本の植民地の台湾や朝鮮が先である。
1日前に投稿された写真、Woman confronts white supremacist Allen Armantrout in Charlottesville yesterday.米南部バージニア州シャーロッツビル
軍服姿で南軍旗を掲げるデモ参加者の若者は迷惑そうに顔をそむけているが、顔面近くで指を突き上げて侮辱するジェスチャーで、カウンター側の中年白人女性が露骨な挑発行為を行って、『何とかして暴力を誘発しようとしている』(上手くレイシストの暴力をマスコミに宣伝する証拠写真を写す)、ように見えるが、日本の有識者のコメントでは逆に右翼白人至上主義者の挑発になっていた。
『150年前に成功したアメリカと72年前に大失敗した日本の違いは、勝ったか負けたかの違いだけ』
南北戦争時、工業の発達した北部の人口は約2200万人、農業国の南部の人口は約400万もいた奴隷の人口を含めても約900万人と圧倒的に南部が劣勢だったが、南北戦争の開戦からしばらくは南部側の優勢で戦局が展開する。
兵力的にも装備的にも大きく劣る南部が逆に北軍(連邦軍)に対して勝利した原因とは、自分の国(ステーツ、州)を守るために参加した兵士のモチベーション(戦争の大義)の差であった思われる。
4年の総力戦(全面戦争)では総合的な国力で劣った南部が最後に負けるが、これも日米戦争の結末とよく似ている。
『戦争は他の手段を持ってする政治の継続である』クラウゼヴィッツの戦争論
アメリカの南北戦争ですが、イギリスによるインドの完全植民地化の過程と時期的にピッタリと一致していた。これは偶然ではなくて、たぶん必然である。
イギリスの先進資本主義の完成には工業原料の安価な供給地であり工業製品の大量消費地でもあるインドが必要だったように、アメリカ北部の工業化のために南部の犠牲を必要としていた。
日本のインチキくさい『植民地解放』戦争を経なくても長い歴史や独自の文化伝統があるアジア諸国の独立が時間の問題だったように、南部の黒人の奴隷労働に依存していた綿花栽培は、もっと安い完全植民地化されたインドとの価格競争に負けて、悲惨極まる南北戦争を経なくても遅かれ早かれ同じ結果になっていたと思われる。
『奴隷解放』のための南北戦争とは、植民地解放が目的だった太平洋戦争と同じ意味で嘘八百の戦争プロパガンダなのである。戦争は何時の時代でも同じで、主義主張は単なる名目であり、本当は経済が原因で起きていた。
(資料として全文掲載)
『NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』 8月14日 NHK
北海道の北に広がる大地サハリンは、かつて樺太と呼ばれる日本の領土だった。炭鉱や製糸業が栄え全国から人々が移り住んだ。昭和20年の夏、人口は40万に達していた。終戦後の8月20日にソビエト軍から艦砲射撃を受けた。3万5000人のソビエト兵が進行し住民を巻き込む地上戦が終戦後7日間も続いていた。樺太戦の犠牲者は5000人とも6000人とも言われている。その多くが民間人だった。日本軍の側も武器を捨てず樺太死守を掲げ戦った。十分な兵力が無い中、住民たちを戦闘員とし最前線に立たせた。若い女性の服毒自殺や家族の集団自決なども相次いだ。
北海道北部の占領を求めていたスターリンに対し、トルーマンはこれを拒否した。樺太師団は樺太死守の命令を守り戦闘を続けていく。8月20日、ソビエト軍は樺太で最大の上陸作戦を敢行。そのときの映像がロシアの資料館で発見された。家族6人で引揚船を待っていた藤谷さんは当時の体験を話した。樺太師団の鈴木参謀長はソビエト軍との交渉に臨んだが決裂。停戦の機会を生かせなかった。
太平洋戦争末期、アメリカを中心とする連合国と絶望的な戦いを続けていた日本。8月9日にソビエトが日本に宣戦布告し満州に進行を開始。南樺太でも戦闘が発生した。現在、北海道・札幌に住む山崎忠明さんは、樺太南部に住んでいた頃の思い出を語った。ソビエト軍の空襲で父を亡くし「下半身がなかったということだけは鮮明に覚えています」と話す。なぜ終戦後に多くの命が失われることになったのか。日本とロシア各地の公文書館で資料を発掘し、かつて樺太に住んでいた人を探し出し悲劇の真相に迫った。
真岡にはソビエト兵がなだれ込み、住民の集団自決が相次いだ。藤谷さんは付き合いのあった一家の自決を目撃した様子を語った。真岡の背後の熊笹峠には200人以上の日本兵がいたが、軍は豊原への進行を食い止めることを優先。住民を守ることはなかった。元軍曹の熊谷さんが当時の軍の方針を語った。置き去りにされた住民はソビエト兵の蹂躙を受けた。
8月16日。西海岸の町「恵須取」では幸福を受け入れた日本側が先制攻撃を仕掛けていた。上陸してきたソビエト兵にはまったく戦う姿勢は見られなかった。大槻順治元2等兵は「砂浜に上がって安心して鼻歌交じりで来るでしょ。それを撃つんだからもう余裕簡単なもんだよね」と当時を語った。この日本軍の攻撃が引き金となった。実は大槻さんはこの時、終戦の事実を知らされていなかった。恵須取では大規模な停電が発生し人々は玉音放送を聞くことができなかった。大槻さんは「一番大事な終戦のね その一言が入ってこないということはどういうことなんだって、ちょっと考えつかないんだね」と憤りを露わにした。
当時真岡に住んでいた松下さんの姉は、ソビエト兵の上陸直後に自決した。真岡郵便局に勤めていた姉を含む9人の女性が、職場で用意されていた自決用の青酸カリを飲んだという。その日、真岡では1000人が死亡。その後、師団本部のある豊原も空襲を受けた。樺太戦の犠牲者は5000人以上にのぼる。
樺太師団の本部に、終戦後にもかかわらず樺太を死守せよとの命令が届いた。武装解除の準備を進めていた鈴木康大佐は命令を受けた時の戸惑いを「泣いて終戦命令を下し各隊が涙と共に実行中の16日午後 軍命令が届いた。今頃何事ぞと怪しみ考えてみたが合点がいかない。電話で作戦就任に尋ねる。はっきりした回答は得られない」と綴っている。終戦直後に樺太死守がを突きつけた住民は戦火へと追い込まれていく。
8月22日、ようやく停戦が成立。樺太死守を命じていた札幌方面軍が、大本営の指示を受けて、ただちに停戦せよと命令を翻した。武装解除した樺太師団の鈴木参謀長は、後悔の言葉を残している。鈴木は12年間シベリアで抑留生活を送った。住民の多くは2年間、ソビエト占領下のサハリンに留め置かれた。
ロシア国立アーカイブには樺太師団に関する資料が残っており、女性や子どもまで借り出し国民義勇戦闘隊を組織し軍と共に戦わせる計画があった。住民をどう戦わせるのか、軍が念頭においていたのが沖縄戦で、樺太はその計画が実行された唯一の戦場となった。金沢正信さんは16歳の時に国民義勇戦闘隊に招集された。恵須取の最前線に送り込まれ、普段着ままなんの訓練も無しにゲリラ戦に投じられる。武器は家にあった熊撃ち用の古い銃だった。ある地域では国民義勇戦闘隊100人が命を落としたと記録されている。
ノンフィクション作家の保阪正康は、樺太戦の責任の所在は曖昧なままだと指摘。責任はどこにあるか、史実として何を語り継ぐべきか考えなくてはいけないと主張した。
樺太・真岡、現在のサハリン・ホルムスクを、姉を亡くした松下さんが訪れた。72年前に姉と別れた港で姉の思い出を話した。戦争が終わったはずの日本で戦火にさらされていた人々。この悲劇にどう向き合うべきか。
金沢さんが目撃したのは戦火を逃れる途中で命を落とした人の姿だった。南北450キロある南樺太。この道則を住民たちは引き上げ船が出る港を目指し南下した。その人々の群れがソビエト軍の戦闘機の標的となっていた。ソビエト軍に見つからないよう夜間に歩き続けた住民たち。石田桂一さんは「連れてあるけなくなっちゃって崖から落とすんですよね」「半狂乱になっている 女の人がいるわけですよ 髪乱して。地獄を見ているようなもんでした」と当時を語る。住民の逃避行に加わった金沢さんは「3歳 4歳の子どもが歩けるはずないんだよ。最後は自分たちでね手榴弾もらってきて集まって自殺したんだよ」と話す。
8月14日 NHK
ブラジルの日系移民と同じ『勝ち組』の2017年8月15日の産経新聞朝刊の書籍の広告欄が凄まじい。平和ボケの産経新聞読者(戦争を知らない幸せな子供たち)にとっては72年前に日本がボロ負けした第二次世界大戦で大日本帝国が勝っていた歴史が正しいらしい・・・『肉屋を支持する豚』どころか『自分は肉屋だと勘違いした豚』である。
『日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか』8/16(水) 現代ビジネス(加谷 珪一)
国家予算の280倍、今で換算すると…
戦争と経済は切っても切れない関係にあり、経済力は戦争遂行能力そのものであるというのが現実だ。経済という切り口で太平洋戦争を振り返った時、何が見えてくるだろうか。
国家予算の280倍をどう用意したのか
実は、太平洋戦争の戦費はよく分かっていない。
軍部が暴走、占領地域において軍票や独自通貨を乱発し現地調達したため、その分の金額がはっきりしないことと、日本経済の基礎体力を完全にオーバーした戦争で激しい財政インフレが発生。貨幣価値がかなり毀損してしまったからである。
旧大蔵省資料によると、太平洋戦争(日中戦争を含む)における名目上の戦費総額(一般会計と特別会計)は約7600億円。日中戦争開戦時のGDPが228億円なので、戦費総額のGDP比率を計算すると何と33倍。国家予算に対する比率では280倍という天文学的数字である。
この数字には少々カラクリが、
太平洋戦争の戦費はあまりにも膨大で、税金では不可能だったので日銀による国債の直接引き受け(日銀が無制限に輪転機を回す現在のアベノミクス)によって賄われた。(★注、このような『財政ファイナンス』は当たり前ですが法律で厳重に禁止されていた違法行為)
当然のことながらインフレが発生するが戦争中は価格統制が敷かれ顕在化しなかった(これも現在に通じる)が、それでも戦争が始まると物価水準はどんどん上がっていった。この財政インフレは終戦後、ハイパーインフレとして爆発することになった。
戦費は、このインフレ率を考慮なければならないが、日本軍は占領地域に現地通貨や軍票の乱発によって各地域の経済は破壊され、日本国内をはるかに超えるインフレが発生したが実態は、よく分かっていない。
無理にもほどがある
当時のインフレ率から実質的な戦費の総額はおよそ2000億円。仮にこの数字が正しいと仮定すると、GDPとの比率は8.8倍に、国家予算との比率は74倍に小さくなったが、それでも途方もない金額で、現在の価値に置き換えれば、4400兆円もの費用を投入したことになる。
これらの戦費負担については、最終的には、預金封鎖によって国民から財産を強制徴収する形で埋め合わせが行われ、国民は財産のほとんどを失うことになった。
一方アメリカは
一方の当事者である米国にとっても大きな戦争だったが日本と比べると相対的な負担は軽い。
太平洋と欧州と二つの戦争を戦った第2次世界大戦の戦費総額は約3000億ドル。米国のGDPは920億ドルなので、GDP比は3.2倍。米国経済の基礎体力の大きさが分かる。
ちなみに第1次大戦当時の英国の戦費総額もGDPの3.8倍程度であった。
国家存亡の全面戦争であってもGDPの3倍から4倍程度が限界値で、その点からすると太平洋戦争は最初から無理だった。
日露戦争との激しすぎる落差
これほど無謀な戦争に反対する意見も、統計データから国力を算定した一連のデータから対米戦争の遂行は不可能という分析は行われていたにもかかわらず、開戦が決断され、全土が焼け野原になるまでそれを止めることはできなかった。
太平洋戦争の特殊性は、明治期に行われた日清戦争・日露戦争と比較するとさらに際立つ。
日清戦争開戦当時のGDPは13億4000万円で、戦費総額のGDPは0.17倍。現在の日本なら約85兆円。日露戦争のGDPは約30億円、戦費総額のGDP比は0.6倍。
グローバル経済(シティ)が用意した戦争
日露戦争の戦費は、覇権国家であった英国ロンドンのシティ(現在なら米国ウォール街)において英米の投資銀行が積極的に関与して、ほぼ全額の調達に成功している。
シティで調達した日露戦争の戦費(英ポンド)は英国シティの銀行に預金され、戦艦三笠など当時の主力艦船のほとんどは英国製で、日本が大量に購入した近代兵器の決済はシティ内だけで完遂する。(★注、経済から見れば日露戦争とは『英国の英国による英国のための戦争』だった)
歴史は繰り返す
「戦争は他の手段を持ってする政治の継続である」というのは、戦争論(クラウゼヴィッツ:1780年~1831年)の有名な一説だが、政治や外交も最終的には経済問題に行き着く。
つまり、戦争は日常的な経済活動の延長線上に存在することになる。
実際、各国の戦争遂行能力は、GDP(国内総生産)に比例しており、経済体力を超えて戦争を遂行することはできない。現実を直視せず、結果として日本経済を完全に破綻させてしまった太平洋戦争は、まさに教訓とすべき歴史的事実だ。
(抜粋)
『玉音放送を無視、WWⅡ終結から途切れることなく密かに始って現在も継続中らしい対ソ戦争(東西冷戦)』
原則ゴールデンアワーの日曜日21:00 - 21:50の時間枠に放送するがNHKのドキュメンタリー番組『NHKスペシャル』ですが、日本の終戦から72年目の今年は8月13日に満州の731部隊が、翌日の14日には終戦後に行われた樺太の地上戦を放送していた。
『太平洋戦争(日米戦争)は1945年8月10日の御前会議でポツダム宣言受諾、8月15日の「玉音放送」で正式に終わった筈だった』
札幌に司令部があった南樺太、千島、北海道を管轄する第5方面軍の樋口司令官(北部軍管区司令官)は玉音放送の翌日の8月16日午後に武装解除の準備を進めていた樺太師団本部に、ポツダム宣言を無視して終戦後にもかかわらず『樺太を死守せよ』と第五方面軍司令官として命令していた。
徹底抗戦の命令を受けた樺太師団の鈴木康参謀長(大佐)は戸惑いながらも、NHKの番組内で
『泣いて終戦命令を下し各隊が涙と共に実行中の16日午後 軍命令が届いた。今頃何事ぞと怪しみ考えてみたが合点がいかない。電話で作戦就任に尋ねる。はっきりした回答は得られない。』と語っていた。
結果は樋口 季一郎司令官の第5方面軍の『樺太死守』命令を知らずに進駐したソ連軍は日本軍の不意打ちの先制攻撃で多数の死傷者を出すが、その後のソ連軍の反撃で大勢の日本人が犠牲になる。
樋口 季一郎の明らかなポツダム宣言違反では、極東軍事裁判で戦犯として逮捕を求めたがGHQ(マッカーサー)はソ連の要求を突っぱね逆に保護する。アメリカですが対日戦争の終了(8月15日)の直後から間髪を入れず8月16日から対ソ戦争(東西冷戦)を開始していたのである。
樋口 季一郎陸軍中将
『NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』 2017年8月14日(月) 20:00~20:43 NHK総合の番組案内が、なにか変である。
天下のNHKが前後の言葉が不自然、降伏が幸福になっているなど致命的な変換ミスや誤字脱字など前後の文章が微妙に辻褄が合わない、個人が書いているブログ記事のようにNHKの文章なのに正しく推敲が行われた形跡がない何とも摩訶不思議な代物だった。何かの危険で重大なタブーに抵触していたので推敲する時間的余裕が無かったのであろうと思われる。
日本を占領したマッカーサー(GHQ)は1949年には下山事件や松川事件、三鷹事件などの謀略事件で共産党や労働組合を大弾圧、レッドパージを行った挙句、1950年からは今も続いている永久に終わらない朝鮮戦争を引き起こしている。
(昭和史研究家の保阪正康によると38度線を越えて首都ピョンヤンを陥落させた勢いに乗って中朝国境の鴨緑江に迫って中国の義勇軍の介入を招いたマッカーサーの判断ミスですが、その原因として米軍が『中国軍は弱くて直ぐに降伏する』との日本軍参謀の助言をあげているが、731部隊など旧日本軍とアメリカ軍は8月15日の『玉音放送』以後には、対ソ『冷戦』を最優先して友軍関係にあったらしい)
米バージニア州アレクサンドリアに設置された南部連合兵士の像アポマトックス(Appomattox)
『米各地で南部連合のモニュメント撤去の動き』 2017年08月16日 AFP
米首都ワシントン(Washington D.C.)に背を向けるように、通りの中央に設置されたブロンズ像の視線の先には、戦友たちが倒れた南北戦争(American Civil War)の戦場がある。
ワシントンからポトマック川(Potomac River)を渡ったバージニア(Virginia)州アレクサンドリア(Alexandria)の交通量の多い交差点に立つこの南部連合(Confederate)兵士の像は、1865年に南軍が最後の戦闘に敗北し、4年にわたる南北戦争の降伏へと至った場所で、今から130年前に建てられた。米国南部の各地には、このような南軍戦没者の栄誉をたたえる数百の記念碑があるが、8月12日バージニア州シャーロッツビルでも南軍のロバート・E・リー(Robert E. Lee)将軍像の撤去計画を引き金にして、両者の大規模な衝突が起きていた。
8月16日 AFP(抜粋)
『アメリカではプロパガンダが真実を征服した』2017年8月15日Paul Craig Roberts
南部連合国兵士と奴隷制度を結びつけるのは歴史に矛盾する。奴隷制度は労働力の不足から独立宣言以前に導入されたのだ。
最初の奴隷は白人だったがマラリアでバタバタと死に、インディアンは奴隷として不向きで、マラリアに免疫があるアフリカ人を労働力として、奴隷戦争をしていたアフリカ黒人諸部族から購入され、奴隷貿易が始まる。
南部連合国兵士は奴隷制度のために戦っていたわけではない。彼らは自分の国が侵略されたから戦っていたのだ。
アメリカ合州国と同様、南部連合国は彼らの国ではなかった。彼らが忠誠心を持っていた国とは『州』だった。
ロバート・E・リーが北軍を指揮するよう要請されたが、自分の国(バージニア州)と戦争出来ないという理由で断った。
リンカーン大統領が再三言っていた通り、戦争は奴隷制度とは無関係だ。
もし南部の分離を認めれば、北部は安価なイギリス製品によって、南部の市場を失うことになる。
しかし南部は、北部からの高価格の商品と、南部の綿輸出に対するイギリスによる報復関税の二重の打撃を受ける。
(★注、当時の連邦政府は北部の新興工業の保護で40%もの超高関税を課していた)
“内戦”という呼び方そのものがウソなのだ。
内戦というのは、政府支配を巡って二者が戦うものだ。南部はアメリカ政府を支配するために戦っていたわけではない。北部が侵略したから戦っていたのだ。
奴隷解放宣言はプロパガンダだった。
狙いは二つあった。一つは奴隷制度廃止論者を黙らせること。
もう一つは南部諸州での奴隷反乱で南軍の兵力を削ぐことだ。(北部は反乱を呼びかけたが)しかし奴隷は反乱しなかった。
リンカーンの奴隷解放宣言では、ウィリアム・H・スワード国務長官が『管轄権がない南部の奴隷を解放し、我々が管轄している奴隷を置いたまま』と述べた。
リーの南軍に対してリンカーンの北軍は、常時、二ないし三対一、それ以上に南軍を上回っていたにもかかわらず、南軍(北部バージニア州軍)は最初の二年間、戦闘で敗れなかったゆえに、奴隷反乱を狙ってリンカーンは奴隷解放宣言をした、
もし南部の人口がもっと多ければ、南軍勝利で戦争が終わっていたが南部には、軍事勝利を得続けるだけ兵力が無かった。対照的に、北部(アメリカ帝国)にはアイルランド移民など無限の供給があった。
奴隷制度は、南部への移民労働人口が過剰になれば、次第に消滅していたはずだ。奴隷制度は、新たな移民が、現地の労働力になるのではなく、インディアンの土地占拠で西へと向かったがゆえに、あれだけ長く続いたのだ。
(抜粋)
Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者
『日本の嘘「植民地解放」が終戦後に実現、アメリカの戦争プロパガンダ「奴隷解放」が南北戦争後に実現する歴史の皮肉』
南北戦争開戦は1861年4月12日で、歴史教科書で開戦の理由だとされているアメリカ合衆国大統領の奴隷解放宣言は南北戦争が始って1年半後の1862年9月なので時系列的に辻褄が合わない。
しかも、エイブラハム・リンカーンの奴隷解放の中身とはその条文を読めば誰にでも分かるが、連邦軍の戦っていた南部連合が支配する地域に限定した黒人奴隷の解放を命じた宣言であり、これは苦戦している北軍側が南部での奴隷の一斉蜂起(後方攪乱)を期待したものであることは明らかだった。
リンカーンの『奴隷解放』宣言とは、『欧米列強の植民地の解放』との日米開戦当時の日本軍のインチキ臭い戦争プロパガンダと、その動機や中身がそっくりなのですから驚くやら呆れるやら。日本の『植民地解放』が本気なら、仏領インドシナや英国のマレー半島ではなく先ず日本の植民地の台湾や朝鮮が先である。
1日前に投稿された写真、Woman confronts white supremacist Allen Armantrout in Charlottesville yesterday.米南部バージニア州シャーロッツビル
軍服姿で南軍旗を掲げるデモ参加者の若者は迷惑そうに顔をそむけているが、顔面近くで指を突き上げて侮辱するジェスチャーで、カウンター側の中年白人女性が露骨な挑発行為を行って、『何とかして暴力を誘発しようとしている』(上手くレイシストの暴力をマスコミに宣伝する証拠写真を写す)、ように見えるが、日本の有識者のコメントでは逆に右翼白人至上主義者の挑発になっていた。
『150年前に成功したアメリカと72年前に大失敗した日本の違いは、勝ったか負けたかの違いだけ』
南北戦争時、工業の発達した北部の人口は約2200万人、農業国の南部の人口は約400万もいた奴隷の人口を含めても約900万人と圧倒的に南部が劣勢だったが、南北戦争の開戦からしばらくは南部側の優勢で戦局が展開する。
兵力的にも装備的にも大きく劣る南部が逆に北軍(連邦軍)に対して勝利した原因とは、自分の国(ステーツ、州)を守るために参加した兵士のモチベーション(戦争の大義)の差であった思われる。
4年の総力戦(全面戦争)では総合的な国力で劣った南部が最後に負けるが、これも日米戦争の結末とよく似ている。
『戦争は他の手段を持ってする政治の継続である』クラウゼヴィッツの戦争論
アメリカの南北戦争ですが、イギリスによるインドの完全植民地化の過程と時期的にピッタリと一致していた。これは偶然ではなくて、たぶん必然である。
イギリスの先進資本主義の完成には工業原料の安価な供給地であり工業製品の大量消費地でもあるインドが必要だったように、アメリカ北部の工業化のために南部の犠牲を必要としていた。
日本のインチキくさい『植民地解放』戦争を経なくても長い歴史や独自の文化伝統があるアジア諸国の独立が時間の問題だったように、南部の黒人の奴隷労働に依存していた綿花栽培は、もっと安い完全植民地化されたインドとの価格競争に負けて、悲惨極まる南北戦争を経なくても遅かれ早かれ同じ結果になっていたと思われる。
『奴隷解放』のための南北戦争とは、植民地解放が目的だった太平洋戦争と同じ意味で嘘八百の戦争プロパガンダなのである。戦争は何時の時代でも同じで、主義主張は単なる名目であり、本当は経済が原因で起きていた。
(資料として全文掲載)
『NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』 8月14日 NHK
北海道の北に広がる大地サハリンは、かつて樺太と呼ばれる日本の領土だった。炭鉱や製糸業が栄え全国から人々が移り住んだ。昭和20年の夏、人口は40万に達していた。終戦後の8月20日にソビエト軍から艦砲射撃を受けた。3万5000人のソビエト兵が進行し住民を巻き込む地上戦が終戦後7日間も続いていた。樺太戦の犠牲者は5000人とも6000人とも言われている。その多くが民間人だった。日本軍の側も武器を捨てず樺太死守を掲げ戦った。十分な兵力が無い中、住民たちを戦闘員とし最前線に立たせた。若い女性の服毒自殺や家族の集団自決なども相次いだ。
北海道北部の占領を求めていたスターリンに対し、トルーマンはこれを拒否した。樺太師団は樺太死守の命令を守り戦闘を続けていく。8月20日、ソビエト軍は樺太で最大の上陸作戦を敢行。そのときの映像がロシアの資料館で発見された。家族6人で引揚船を待っていた藤谷さんは当時の体験を話した。樺太師団の鈴木参謀長はソビエト軍との交渉に臨んだが決裂。停戦の機会を生かせなかった。
太平洋戦争末期、アメリカを中心とする連合国と絶望的な戦いを続けていた日本。8月9日にソビエトが日本に宣戦布告し満州に進行を開始。南樺太でも戦闘が発生した。現在、北海道・札幌に住む山崎忠明さんは、樺太南部に住んでいた頃の思い出を語った。ソビエト軍の空襲で父を亡くし「下半身がなかったということだけは鮮明に覚えています」と話す。なぜ終戦後に多くの命が失われることになったのか。日本とロシア各地の公文書館で資料を発掘し、かつて樺太に住んでいた人を探し出し悲劇の真相に迫った。
真岡にはソビエト兵がなだれ込み、住民の集団自決が相次いだ。藤谷さんは付き合いのあった一家の自決を目撃した様子を語った。真岡の背後の熊笹峠には200人以上の日本兵がいたが、軍は豊原への進行を食い止めることを優先。住民を守ることはなかった。元軍曹の熊谷さんが当時の軍の方針を語った。置き去りにされた住民はソビエト兵の蹂躙を受けた。
8月16日。西海岸の町「恵須取」では幸福を受け入れた日本側が先制攻撃を仕掛けていた。上陸してきたソビエト兵にはまったく戦う姿勢は見られなかった。大槻順治元2等兵は「砂浜に上がって安心して鼻歌交じりで来るでしょ。それを撃つんだからもう余裕簡単なもんだよね」と当時を語った。この日本軍の攻撃が引き金となった。実は大槻さんはこの時、終戦の事実を知らされていなかった。恵須取では大規模な停電が発生し人々は玉音放送を聞くことができなかった。大槻さんは「一番大事な終戦のね その一言が入ってこないということはどういうことなんだって、ちょっと考えつかないんだね」と憤りを露わにした。
当時真岡に住んでいた松下さんの姉は、ソビエト兵の上陸直後に自決した。真岡郵便局に勤めていた姉を含む9人の女性が、職場で用意されていた自決用の青酸カリを飲んだという。その日、真岡では1000人が死亡。その後、師団本部のある豊原も空襲を受けた。樺太戦の犠牲者は5000人以上にのぼる。
樺太師団の本部に、終戦後にもかかわらず樺太を死守せよとの命令が届いた。武装解除の準備を進めていた鈴木康大佐は命令を受けた時の戸惑いを「泣いて終戦命令を下し各隊が涙と共に実行中の16日午後 軍命令が届いた。今頃何事ぞと怪しみ考えてみたが合点がいかない。電話で作戦就任に尋ねる。はっきりした回答は得られない」と綴っている。終戦直後に樺太死守がを突きつけた住民は戦火へと追い込まれていく。
8月22日、ようやく停戦が成立。樺太死守を命じていた札幌方面軍が、大本営の指示を受けて、ただちに停戦せよと命令を翻した。武装解除した樺太師団の鈴木参謀長は、後悔の言葉を残している。鈴木は12年間シベリアで抑留生活を送った。住民の多くは2年間、ソビエト占領下のサハリンに留め置かれた。
ロシア国立アーカイブには樺太師団に関する資料が残っており、女性や子どもまで借り出し国民義勇戦闘隊を組織し軍と共に戦わせる計画があった。住民をどう戦わせるのか、軍が念頭においていたのが沖縄戦で、樺太はその計画が実行された唯一の戦場となった。金沢正信さんは16歳の時に国民義勇戦闘隊に招集された。恵須取の最前線に送り込まれ、普段着ままなんの訓練も無しにゲリラ戦に投じられる。武器は家にあった熊撃ち用の古い銃だった。ある地域では国民義勇戦闘隊100人が命を落としたと記録されている。
ノンフィクション作家の保阪正康は、樺太戦の責任の所在は曖昧なままだと指摘。責任はどこにあるか、史実として何を語り継ぐべきか考えなくてはいけないと主張した。
樺太・真岡、現在のサハリン・ホルムスクを、姉を亡くした松下さんが訪れた。72年前に姉と別れた港で姉の思い出を話した。戦争が終わったはずの日本で戦火にさらされていた人々。この悲劇にどう向き合うべきか。
金沢さんが目撃したのは戦火を逃れる途中で命を落とした人の姿だった。南北450キロある南樺太。この道則を住民たちは引き上げ船が出る港を目指し南下した。その人々の群れがソビエト軍の戦闘機の標的となっていた。ソビエト軍に見つからないよう夜間に歩き続けた住民たち。石田桂一さんは「連れてあるけなくなっちゃって崖から落とすんですよね」「半狂乱になっている 女の人がいるわけですよ 髪乱して。地獄を見ているようなもんでした」と当時を語る。住民の逃避行に加わった金沢さんは「3歳 4歳の子どもが歩けるはずないんだよ。最後は自分たちでね手榴弾もらってきて集まって自殺したんだよ」と話す。
8月14日 NHK
以下に続く
「なぜ『優秀』な人が集まって愚かな暴走をするのか?」安冨歩
しかし、第一次大戦で敗北したドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦は始まりました。
ナチスは国家社会主義ドイツ労働者党と言い、正常な選挙で第一党になり、権力の掌握に成功したのです。いわば、国民の信任を受けた形で戦争への道を突き進んだのだと思います。
認めたくない事ですが、「人民は彼に相応しい政府を選ぶ」のも一つの真実のような気がします。
日本のネトウヨもそうだ。中国、韓国に対するヘイトは、自国の経済的優位に対する自信喪失からきているのではないかと想像する。自分の人生への不安が、生活の中で益々身近になってきた東アジア出自の人達への攻撃として表出しているのではないかと思う。人種差別というのは、かくも安易な怒りの表現方法なのだ。放置すれば、大変危険だ。
オバマにマンデラのメッセージを引用する資格なんかない。そんなに良い人面したいんだったら、自伝の印税を均等に分けて、黒人の貧困家庭に一律配布しろ。
豊臣秀吉が大陸たいして持った野心が日清戦争で再び燃上がり,豊臣秀吉が朝鮮で敗退し大陸制覇の夢は破れた。
同じような歴史が明治時代に繰返された。甲午農民戦争への介入から太平洋戦争の敗北までは必然の流れだと思います。
単なる私一人の思い込みですが