【意見】怒りが相手に向くから暴力が生まれる。体罰は指導ではない。
スポーツ指導の現場での体罰と暴力が問題になっている。
高校の部活の顧問も、柔道の全日本監督でも、指導の現場を司る人であることには変わりない。
指導する側が全権を持っていて、一方的に「教える」「矯正する」のが日本のスポーツ指導の現場にありがちな光景であることは、私も中高とバスケ部だったので身を持ってわかる。
恵まれていたのか、能力がなかったからか、私自身は殴られたり罵声を浴びるような指導を受けなかったが、やはりキャプテンだったりレギュラーだったりするものへの指導には、身体的接触を伴う際に、教えたとおりにできないと叩かれるくらいのことは有った。
「ばかたれ」「今言っただろうが」といった言葉とともに、「たしなめる」とか「反省を促す」ために叩くくらいだから、我々も誰も「体罰」とも「暴力」とも思っていなかった。
「体罰」とはなんだろうか。
身体的痛みを伴う罰則、というくらいのことだろう。
しかし、その罰則が、器具を使ったり(棒とか竹刀とか)、日常化したり(練習のたび)、反射的なものではなく相手が倒れるくらいまで、というような与えられ方をしているとすれば、それは「怒りに任せた暴力」でしかない。
体罰というのは、罰則だから、何か決め事を破ったり、ルール違反に対するものであるべきで、「能力に関すること」に対して行われるのは「体罰」ではなく「いたぶり」だろう。
「教えたことができない」ことに対して「繰り返しやらせる」以外の身体的接触を伴う罰則は、暴力だと考えるべきだと思う。
なぜ指導者が「暴力」を振るうのか。
自分たちが、そういう指導を受けてきたから、などの理由がスポーツ経験者を中心にあげられる。
また、スポニチのコラムで金子達仁氏は「理不尽に対する耐性」を重要視する環境があるから、と説いている。つまり、指導者だけではなく、親や周囲の私たちのなかにある「スポーツは精神修養である」という感覚が体罰の目を内包しているのだと指摘している。
一方で、ヤフーのコラムでは、もう少しライトに提案している。
選手を説得、納得させる術を罰に見いだすしかない指導者には、徹底した侮蔑を。一番効くのは、たぶん、そういうことだと思います。社会で、学校で、家庭で、そういう空気が醸成されていけば、体罰、なくなるはずです。
スポーツ指導の現場で「暴力を体罰と称して」無くならないのは、2つの原因があると私は考える。
一つは、暴力がエライという風潮があるから。それは、金子氏が指摘するような「スポーツは精神修養」だから「理不尽な指導で涵養されるものがある」という周囲の目があるということ。
「暴力教師」でしかない指導者が、往々にして「体ごとぶつかっていく先生」などという父兄の称賛があったりするのは、そうした背景がある。
だから、そういう賞賛をなくすのが一番いい、という金子氏の提言は的を射ていると思う。
もう一つは、スポーツ指導者の多くが科学的な指導方法を学んでいないから。
体の理論として運動生理学などを生かした科学的手法が増えており、トップレベルの指導者では研究者との交流もあるが、多くの指導者は、そういうものとは無縁の「叩き上げ」である。
運動に必要な生物学・物理学を「経験で」身に着けている指導者は多い。
でも、ただの経験を「理論的指導」と称する指導者もいる。
さらに、指導される側の心理を掴んで教えることの有用性も説かれ始めている。
スポーツ心理学などの研究分野を講座として持つ教育系、運動系の学部もある。
しかし、最も重要で多くの場合欠けているのは、実は指導者となった人間の心理的構造ではないだろうか。
なぜ、指導者が「暴力」に走るのか。
それは、怒りが「接近行動」と「不快感」という2つの心理次元から成る感情であることに根ざしている。
(参考文献:「謝罪」の効果を複数の指標で分析し、その有効性を解明―「怒り」の衝動は消せるが、不快感は抑えられない―@JST)
卓越した自己を満たされない「不快」が「怒り」に返還され、「接近行動=暴力」に結びつくのである。
自分の言うとおりにできない他者への卑下がその背景にある。
「不快」が元になっている行動が「指導」であるはずがない。
自分中心の行動原理をもって、不快の解消に走らせるのが「体罰」だとしたら、「体罰」を容認する点からして、指導者としての資格はない。
こうした指導者に必要な心理のあり方を指導者は学んでいるだろうか。
指導の科学的アプローチというと教えられる側の心理についてのものが多いが、実は必要なのは、スポーツで成績を残したものが持つ我欲を制し、自らを見つめなおすために必要な科学的アプローチなのではないだろうか。
「怒り」が相手に向くから「暴力」が生まれる。
では、この指導が実現されないという怒りが、自分に向けばどうなるか。
指導を実現するために自分が成していることへの内省が生まれるのではないだろうか。
そして、さらにどういう手を打つべきか、次の指導が生まれるだろう。
どうすれば実現できるのか、わかってもらえるのか、弟子(部下)が上手になるのか。
それを考えるには、「怒り」を出来の悪い弟子に向けるのではなく、指導が下手な自分に向けることだ。
「怒り」を相手に向けている指導は「暴力」であって「体罰」ではない。
「体罰」が許されるとすれば、決め事(それもできるだけ指導される側の中から出てきたルール)を破ったことへの罰則であるときだけだと思う。
でも、それは指導じゃなくて「しつけ」のレベルだけだと思うけどね。