昨日、突然思いついて、こんなエントリを書いたわけです。
【仮説】OK基準とNG基準:2013年12月10日OK基準というのは、OKされたことを基準としている人で、「それは大丈夫」「ここまでは大丈夫」と示されると動けるけど、OKの基準がないと判断も出来ない人のこと。
NG基準は、NGとされたことを基準として生きている人で、「それはダメ」「ダメに決まっているじゃない」と言われて育ってしまい、NGが先に立ってなかなか踏み出せない人のこと。
これは裏腹で、「大丈夫と言われてないからNG」というのがOK基準ということもできるし、「ダメと言われてないからOK」だと思うのがKG基準とも言える。
Facebookの方でコメントいただいたり、珍しく反応があったので、もう少し考えてみようと思う。
日本社会がNG基準というのは、なんとなく理解されてしまったようなので、その辺から考えたいと思います。
NG基準の社会ということは、NGがハッキリと提示されていて、それ以外はOKという社会のように思います。
ところが、これは小さい社会では良いのですが、多人数が参加し、背景が異なる人たちの社会では、ものすごくコストがかかる社会になります。
すべてのNGが提示され、それ以外はOKというのは大変難しい。人間の想定力に限界があるからです。
そして、あることを判断するときにNGとの差異が少しでもあればOKというのでは、NGにキリがないからです。
つまり、NGを基準にできるのは、暗黙の了解が成り立ち、背景が似ている人たちの所属する社会。
つまり、家族や、単一民族の小集落などの狭い社会ということになります。
NG基準は、コドモの喧嘩を引き起こしやすいとも言えます。
厳密な規定をせずに、NGで縛ろうとすると、子どもの正義感で反発されます。
「いつ決めた、何時何分何曜日」とか、「バカっていうのは、言ったほうがバカだもんねえ」などと、厳密な定義の厳密性を揶揄されるだけです。
NG基準の基準を幅広く定義し、その定義を疑わない社会が、NG基準社会ということができるでしょう。
そこでは、NGが基準であることを逆手にとって、あえてOKを決めずにいたほうがうまくいくというグレーゾーン社会が生まれやすいとも言えます。
NG基準社会は、NGの傘の下でOKではないけどNGでもないものが幅を利かせる社会になりやすいということです。
NGの列挙で縛ろうとすると、結局、NGの力が弱まるという矛盾をはらんでいるのがNG基準社会のようです。
OK基準社会はどうでしょう。
こちらは、OKを決めて、それを基準とするのですから、それ以外はNGです。
OKのようでOKではないこと、というのが存在しにくい、はっきりした社会になりそうです。
OKの基準に幅がある場合はどうなるでしょう。
その幅の中で本来はNGであるはずのものがのさばる危険はあります。
でもそれは、OKのグレーゾーンであって、OKではないもののグレーゾーンではありません。
OKの再定義で、NGは明確になります。
修正がしやすい社会だということが言えます。
OKを決める際に共通理解があれば、OKのみを意識すればよいわけで、NGを排除するのは簡単です。
なので、多くのステークホルダーが参加する社会、多用な背景を持つ人達が参加する社会では、OK基準の社会のほうがうまくいきそうです。
OKが多くなれば、その重なりあいの下でNGがはびこらないでしょうか?
そこでも、最もOKであることを基準に、OKを再定義していけば、OKでもなくNGでもないものの存在は排除できそうです。
法律で言えば、最もOK基準が描かれているのが憲法ではないでしょうか。
こう振る舞うとする。こういう国であるとする。
国としての是。つまりOKが示されているのが憲法です。
そして、成文法として刑法ではNGが示されています。
罪と罰則規定が定義されているのが刑法だからです。
だから、枚挙に暇がありません。追加し続けられます。
でも、憲法が、太陽のように国を照らすOK基準であれば、NGが明確になりやすいでしょうし、NGを列挙しなくても、ダメなものはダメといえるのではないでしょうか。
法治国家というのは、NG基準のようでいて、OK基準の社会ではないかと思います。
法で取り締まるNGだけを決めているのではなく、大きなOKを示して、そのうえで、NGの罰をきめているのではないかと。
イデオロギー国家(社会主義とか共産主義とか独裁とか)は、NG主義の国家です。
まず、社会悪を定義し、そこからの離脱を図りますが、結局イデオロギーを守るためにNGを連発します。
OKがひとつしかないというのは、それ以外はすべてNGであって、でもどうNGかを定義しなければならない。
宗教だけが基準となるのもNG基準の国家かもしれません。
許されないこと(NG基準)を掲げて、それ以外をOKにするのかと思うと、どうも、それ以外の中にOKとNGを混在させてしまうからです。
近代国家は、OK基準の社会です。
自由と博愛など、いくつかのOKを掲げて、そこで共通理解を図ろうとしているからです。
ただ、その設立の経緯から見て、本当のOK基準社会である近代国家は少ないといえます。
アメリカ合衆国という特殊な国くらいではないでしょうか。
そのアメリカでも、州レベル、地域レベルと落ちていく中で、OKとNGの基準の間でもめているように思います。
小さな政府を標榜し、少数だが強いOKで社会を構築しようとしているのがオバマ大統領なのかなと思います。
ケネディ元大統領もそういう思考があったように思います。
ただ、そのOKの基準がNGで社会を縛ろうとする人たちから反発を受けた結果が、ケネディ暗殺だったのではないでしょうか。
オバマさんは、その轍を踏まないように慎重なのだと思います。
翻って我が国は、NGで社会を縛ろうとすることが、この間の特定秘密保護法の制定、憲法改定問題での議論の中で、浮かび上がってきます。
NGを並べ立てる社会は、やはりコドモの喧嘩が起きやすいのではないでしょうか。
少数の大きなOK で社会を照らすOK基準社会への転換が望まれるように思います。