サイエンスカフェじゃないんじゃないかな、そろそろ
最近、このブログもゴルフのスコアばかりで、
政治のことも科学行政のことも書かなくなってしまいました。
実は、なんだか、つまんなくなったんですね。
知ったかぶりして、正論を述べている感じなのが。
まあ「正しい」かどうかは人それぞれですが、
私がその時「正しいと思う」ことを書いてきたつもりです。
それがなんだか、とんでもなく絵空事だなあと思えてきて、
実体験といえば、最近は、ゴルフに熱中してますので、
ゴルフの話ばかりになっていたわけです。
でも、やっぱり「サイエンス」に立脚した「正しい知識」を持つことは、
21世紀を生きる上で必要なことだという気持ちには代わりはないんです。
「科学」という細分化した知識の集積ではなく
サイエンスと言う知的体系を、体系として体験し、知識を俯瞰する軸を持つことが、
情報にあふれた現代社会を生き抜くのに必要なんだと思うです。
今年、命に関わる問題として話題になっている、
放射能の事も、ユッケのことも、
基本的知識を得て自分で考えて行動することでしか解決しないんだと思います。
誰かが勝手に基準を決めてくれて、
それに従っていれば「絶対に」大丈夫なんてことは、もうないんですよ。
自分の体(保有する自然)と相談しながら、自ら判断していくしかない。
それには、「知」は欠かせないものなんだということ
その「知の一部」として原子力技術や原子力科学は必要であることも、
合わせて強く言い続けて行かないと、
「脱原発」の波と科学者批判・科学批判の渦に飲み込まれて、
原子力に関わる「知的財産」そのものが失われてしまいかねない。
それと発電システムとして原発をどうするかとは別の話な筈なんです。
でも、原子力村に囲われてきた脆弱な原子力研究・原子力研究者は、
今後、自分たちの研究を正当に主張できるだろうか、という疑念もあります。
社会の中で、科学を疎んじる傾向とか、知性を軽んじる傾向が見えて、
そういうのはなんだか嫌だなと思うから、
私は、サイエンスカフェ活動の応援とか、
サイエンスフェスティバルの応援とかをしていこうと思ったんですよね。
でも、ここに来て、手垢がついた感があるサイエンスという冠ではなくて、
社会全般を覆うような知的な活動に対して、
もっと社会で意識や情報や知識を共有し、交換していく仕組みが必要なのだと、
さらに思うようにもなっています。
で、最近思うのは、サイエンスフェスティバルが、
函館でも東京でも愛知でも行われるようになっているのって、
サイエンスに人気があるからでも、
理科離れとか、科学不信とかいうことを何とかしようということでもないのではないかということ。
イベントを説明するときに「サイエンス」という冠がわかりやすいということと、
サイエンス関係者(科学者、研究者、卒業者、製造会社、理系機器関係者などなど)が
社会に非常に多く存在する(つまりマーケットがある)事と関係していて、
参加する人よりも、講演したり、話題提供したりする人を集めやすいからじゃないか、
という気がしてきました。
サイエンスは社会の共通財産としてあるのはもちろんなのですが、
必要なのは、そのサイエンスと社会の何かがどう結びついているのか。
そして、その結びつきがどのように重要なのか、また、そこにどういうストーリーがあるか、
それを共有し、交換していくことなのではないかなと思うんです。
だから、サイエンスカフェじゃなくて、サイエンスと○○の交点で知的交換をする試みが
カフェという場で行われれば、哲学カフェでも、法律カフェでもいいんだと思うんです。
そして、むしろ、そうした哲学や法律や経済とサイエンスを語る場こそが、
今、震災後の私たちに必要な知を生むのではないかと思うんです。
アタリマエのことかもしれませんけどね。
アタリマエが難しいというのもまたアタリマエだったりしますね。
政治のことも科学行政のことも書かなくなってしまいました。
実は、なんだか、つまんなくなったんですね。
知ったかぶりして、正論を述べている感じなのが。
まあ「正しい」かどうかは人それぞれですが、
私がその時「正しいと思う」ことを書いてきたつもりです。
それがなんだか、とんでもなく絵空事だなあと思えてきて、
実体験といえば、最近は、ゴルフに熱中してますので、
ゴルフの話ばかりになっていたわけです。
でも、やっぱり「サイエンス」に立脚した「正しい知識」を持つことは、
21世紀を生きる上で必要なことだという気持ちには代わりはないんです。
「科学」という細分化した知識の集積ではなく
サイエンスと言う知的体系を、体系として体験し、知識を俯瞰する軸を持つことが、
情報にあふれた現代社会を生き抜くのに必要なんだと思うです。
今年、命に関わる問題として話題になっている、
放射能の事も、ユッケのことも、
基本的知識を得て自分で考えて行動することでしか解決しないんだと思います。
誰かが勝手に基準を決めてくれて、
それに従っていれば「絶対に」大丈夫なんてことは、もうないんですよ。
自分の体(保有する自然)と相談しながら、自ら判断していくしかない。
それには、「知」は欠かせないものなんだということ
その「知の一部」として原子力技術や原子力科学は必要であることも、
合わせて強く言い続けて行かないと、
「脱原発」の波と科学者批判・科学批判の渦に飲み込まれて、
原子力に関わる「知的財産」そのものが失われてしまいかねない。
それと発電システムとして原発をどうするかとは別の話な筈なんです。
でも、原子力村に囲われてきた脆弱な原子力研究・原子力研究者は、
今後、自分たちの研究を正当に主張できるだろうか、という疑念もあります。
社会の中で、科学を疎んじる傾向とか、知性を軽んじる傾向が見えて、
そういうのはなんだか嫌だなと思うから、
私は、サイエンスカフェ活動の応援とか、
サイエンスフェスティバルの応援とかをしていこうと思ったんですよね。
でも、ここに来て、手垢がついた感があるサイエンスという冠ではなくて、
社会全般を覆うような知的な活動に対して、
もっと社会で意識や情報や知識を共有し、交換していく仕組みが必要なのだと、
さらに思うようにもなっています。
で、最近思うのは、サイエンスフェスティバルが、
函館でも東京でも愛知でも行われるようになっているのって、
サイエンスに人気があるからでも、
理科離れとか、科学不信とかいうことを何とかしようということでもないのではないかということ。
イベントを説明するときに「サイエンス」という冠がわかりやすいということと、
サイエンス関係者(科学者、研究者、卒業者、製造会社、理系機器関係者などなど)が
社会に非常に多く存在する(つまりマーケットがある)事と関係していて、
参加する人よりも、講演したり、話題提供したりする人を集めやすいからじゃないか、
という気がしてきました。
サイエンスは社会の共通財産としてあるのはもちろんなのですが、
必要なのは、そのサイエンスと社会の何かがどう結びついているのか。
そして、その結びつきがどのように重要なのか、また、そこにどういうストーリーがあるか、
それを共有し、交換していくことなのではないかなと思うんです。
だから、サイエンスカフェじゃなくて、サイエンスと○○の交点で知的交換をする試みが
カフェという場で行われれば、哲学カフェでも、法律カフェでもいいんだと思うんです。
そして、むしろ、そうした哲学や法律や経済とサイエンスを語る場こそが、
今、震災後の私たちに必要な知を生むのではないかと思うんです。
アタリマエのことかもしれませんけどね。
アタリマエが難しいというのもまたアタリマエだったりしますね。