【言葉】目的と語彙の使い方が肝要なんだと思う2つの記事から考えたこと:2014年3月31日
他人の文章を読んで、モヤモヤとした考えが生まれた時に、もう一つ別の文章を読んでスッキリすることがあります。
今回は、そういうお話。
この記事を読んで、編集者の仕事を始めた頃に、難しいことを難しく書くのは簡単で、難しいことをわかりやすく書くほうが難しい、と言われたことを思い出しました。
専門的な文章を読むには訓練が必要という当たり前だがあまり知られていないこと@Colorless Green Ideas
専門用語は、文章を小難しくするために用いられるのではない。無論、専門家が学をひけらかすために難しい用語を使っている例が全くないわけではない。だが、多くの専門家はむしろ文章を分かりやすくするために専門用語を用いている。
実際、専門用語を使わないとすると、かえって分かりにくくなってしまう。
西日本新聞のコラム(「STAP細胞をめぐる一連の大騒動」)を引用して、専門家はなぜ「難しい言葉」を使うのかを書いた記事。
元記事のコラムを書いた新聞記者が勘違いしている点を見事に指摘している記事だけど、この記者に代表される【「難しいこと=専門用語」がわからないことを偉そうに書く】という言説、あるいはテレビのコメンテーターの【科学のことはわからない私が普通】という芸風が、どうして生まれるのだろう、という以前から持っていた疑問は解決されない。
Colorless Green Idea(CGID)という、このブログは、
このブログは、ことばや数についての話を分かりやすく伝えることを目的としています。難しい内容を一般の人でも分かる形で伝えていきたいと考えています。
ということだそうだけど、だとすれば、当然、専門用語をどう噛み砕いて書くかをいつも考えているだろう。
でも、その人が、専門用語を使う言説空間の擁護を、以下の言葉で済ませるのは納得がいかない。
専門的な文章を理解することは、山登りのための訓練にたとえることができる。しろうとがいきなり高い山に登ろうとしても、それは無理だ。しっかりと山登りの訓練をしなくてはならない。そうでなければ、頂上にはたどりつかないし、途中で遭難してしまうかもしれない。山登りの訓練をしっかりと済ませることで、はじめて安心して山に登ることができる
こういう話で済ませると、専門用語を勉強する訓練が必要な世界があることを肯定するだけで終わってしまう。
もちろん、それだけはないことも脚注で補って書いている。
学術論文と新聞記事とは対象読者が大きく異なっている。専門紙を除けば、新聞記事は広く一般の読者が読むものである。このため、新聞記者は、一般人が理解できる言葉で記事を書かなくてはならない。このコラムを書いた記者はこうした新聞記事執筆の常識が、学術論文にも適用できると思ってしまったのかもしれない。
このとおりなので、できれば、この脚注で指摘したことをふくらませて、もう1本記事を書いてほしいなと思う。
そんな時に、別の記事を読んだ。
メール全盛時代に消えゆく「難解な言葉」―愛着持つ人々も@Wall Streeet Jounal
そして今、筆者はこうした難解な言葉――難しく意味深長かつ興味深いもの――が消え始めているのではないかと心配している。
こうした見解から筆者は社会の変化を心配する。
難解な言葉の消滅に大きな責を負うべきはテクノロジーだ。私たちはより速く、より短い言葉でコミュニケーションを図るよう条件付けられつつある。携帯電話のメールやツイッターの投稿、さらには急いで書き上げる電子メールにさえ、難解な言葉を挿入する余地はない。私たちはあまりに多くの異なるチャンネルを通じてやりとりしているため、純粋に必要性から、言葉の短縮化が進んでいる(「R u with me?」といった具合だ)。
たしかに、テクノロジーの進歩で生じる新しいメディアの普及と言葉の変化は対になっている部分がある。
たとえば日本の場合、テレビというメディアの普及で起きたのは、地方の言葉の崩壊だった。
NHKの決めた「標準語」が日本語に起こした変容は大きい。
そして、この数年での大きな変化はSMSの普及と、書き言葉の「ネット言葉」化だろう。
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こうした本に見られるように、言葉の変化は確実に生まれ、多分それは思考を変える。
言葉は思考に直結するのだから。
そして、メディアと言葉もまた相互に依存して変化している。
新聞というメディアに特有の言葉を使っている事を忘れ、専門家のメディアである「論文誌」で使われている言葉に疑義を申し立てるコラム氏には、言葉が「目的を持ったメディアによって変化する」ことを指摘しておきたいが、それよりも、「言葉が簡単であることを良しとする風潮」が背景にあるような気がしてならない。
新聞記者は、やはり社会の変化に敏感だから、難しい言葉で難しいことを言ってて悦に浸ってんじゃねーの?という社会の声なき声に反応して、あのコラムを書いたのだろう。
でも、なんだか、それって私には気持ち悪い。
それが、WSJの記事を読んで感じた、コミュニケーションと言葉の関係で、すっと腑に落ちた。
ニューヨークにあるコミュニケーションスキルのトレーニングを手がけるシンタクシスの共同創業者エレン・ジョビンさんは「新しいことを教えてくれる人たちが世界にいることを喜ぶべきだと私は思う」と話す。「知らない言葉を聞いたときは、それ以前には知らなかったことを学ぶ機会を得て幸せに思う――ただ、その言葉が啓蒙(けいもう)というよりは、むしろわかりにくくさせるような単にばかな業界用語でない限りだけど」と言う。
言葉は、コミュニケーションの道具として進化したはずなのに、コミュニケーションを阻害させる要因にもなりうる。
言葉を選ぶ際は、自分の動機を考えるのが重要だとジョビンさんは言う。「ひけらかすために難しい言葉を使っていて、相手は自分の言葉を理解しないとわかっているなら、それは不親切かつ苛立たしいもので、相手が否定的に反応するのは無理もない」と話す。
専門用語を知ることの快よりも、専門用語を使われた疎外感から生じる不快のほうがが上回る人のほうが多いという事実が、西日本新聞のコラムの背景にあるのではないだろうか、と感じた。
だから、CGIDが指摘した事実は、たしかに真実なのだけど、読者にはどこかで心を打たない人も多いと思う。
要は、目的に応じた言葉の使い方が大事だという基本の話なのだけど、ネット上に誰もがメディアを作りうる現代では、、この基本が実に難しいテーマになってしまったな、ということなのではないだろうか。
私が編集者として気をつけていたのは、文中では理解を促進するためには、専門用語は前後の文脈で理解できると思う範囲では、そのままにして、注をつけるとか別の言葉で補うということだった。
もちろん、そのほうが良いのだけど、文章量に制限がある印刷メディアでは、その補うスペースの確保が実に難しい。
だからこそ、ネットメディアの登場は福音だと思うんだけど、あまりにも多用される「詳しくはウェブで」にも飽きてきたし、ネット言説空間もまた魑魅魍魎が有象無象というような、「書けないけど打てる言葉」であふれていることで、馴染めない。
なんだか、隔靴掻痒な感じが否めないなあ、と、自分でも、そんな言葉を使って締めたりして。
要は、言葉はコミュニケーションの道具で、そのコミュニケーションの相手に応じて言葉は変わらないと伝わらないよね、ということで、それは、専門用語のほうがわかりやすい相手には、それを使った方がいいし、そうじゃない相手には、その相手に固有の専門用語があるはずなのだ。
WSJの記事は続けてこう書いている。
相手のことを考えよう。相手がどういった言葉に慣れているのか完全に確信を持てるようにはならないが、それに近づくことはできる、とジョビンさんは話す。話しながら、聞き手に合わせて微調整するといい。目的はうまくコミュニケーションをとることだ。自分の言っていることが相手に伝わらなければ、うまくコミュニケーションできない。
だから、自分がいろんなヒトと会話したいと思えば、相手に応じて使う言葉を変えられるだけの語彙を自分の中に持つ必要があるということだと思う。
どういう種類の言葉を使うかを決めるために、「難解な言葉を投げてみて、相手の反応を見る。ぽかんとした反応を見せたら、言葉を調整する」とBahrawyさん。「人には居心地の良さを感じてもらいたい」と言う。「私の友達になりたい、私の近くにいたいと思ってもらえるようにしたい」
語彙は、人に誇るためや人を欺くためではなく、相手と分かり合うためにあるのだからね。