原子力発電所の問題というのは、いろいろな分野の問題が絡まり合っていて
一筋縄では行かないし、利益代表も多くて、誰のための利益なのかを考えるのも難しい。
原子力発電は、核爆発力で発電しているわけではないで書いたように、科学的な原理から技術的な側面だけを考えても問題は多いし、
「脱原発」で行けるのか、行けないのか。で触れたように論理的な思考を繰り広げる人も問題の混在を紐解けないでいるように見える。
菅政権の側面、エネルギー政策の側面、節電と企業の側面、地域経済の側面、
純粋な科学技術の側面、偏在化する原子力発電技術の側面、今すぐとこれからの側面。
どうしても、こうしたいろいろな側面が絡みあい、利益相反したりしながら問題が存在する。
その辺を「反原発」とか「脱原発」という言葉がうまく汲み取っていないような気もする。
「反原発」というよりも「気分は嫌原発」ではないかと思うし、
「脱原発」というとなくなっちゃいそうだけど「方向性は縮原発」ではないかと思う。
私は、現代社会というのは「自然を踏み出した」から成立していると思っている。
生き物としてのヒトというのは、自然から取り出す利益が他の動物よりも効率的で大きい。
その結果、自然適応できて地球上に生息しただけではなく、自然を超えて爆発的に増殖した。
食べ物の栄養を取り出すレベルでは採食よりも農耕という方法を選び、
そのエネルギーをより多く取り出すために「品種改良」を行って来た。
化石燃料からエネルギーを取り出すにも、ただ燃やすのではなく効率的な方法を探り、
技術革新でより大きなエネルギー、より使いやすいエネルギーとして「電気」に行き着いた。
そして、エネルギー政策は「エネルギーをそのまま使うのではなく電気に変換する」ことが前提になっている。
熱だろうと光だろうと原子力だろうと、電気エネルギーに変換する。
でも本当にこの先「電気」しか無いんだろうか?
電気というか電磁波の持つ「周波数さえ変えれば、いろんなコトに使える便利さ」には、代替物がないんだろうな。
なんでこんなことから始めたかというと、人間は時代をもどることは出来ないということを再確認したいから。
電気エネルギーではないエネルギーで社会運営を行う時代(江戸時代とか)に戻れないでしょう?
だとすると「エネルギー」と呼んでいるけど「電気」ということなのではないか。
「エネルギー政策」ではなくて「電気政策」なのではないか。
ガス会社とかも色々あるけど、「電気」を誰がつくり、誰が届け、誰が使うか。
それが「エネルギー政策」なんじゃないの、ということの再確認なのです。
自然エネルギーだの再生可能エネルギーだのというけれど、
太陽熱でお湯を沸かすとかいう話を考えているわけじゃないでしょう。
地域冷暖房はガスのほうがとか、そういうことじゃなくて、結局「電気」でしょう?
では「電気を原子力で作るのは、アリなのか無しなのか」。
これだけ大規模な災害を引き起こした「原子力発電」という仕組みに継続の余地はあるのか。
私も、あまり大規模に継続することはできないだろうと思います。
それは、心情的にもだし、経済的にも無理でしょう。
企業が事業ドメインとして継続を打ち出すには株主の賛成も得にくいし、
立地を手当てするのも難しいでしょうし、自治体の協力も得にくい。
すべて、かなりの「金」が必要となるので、経済的な利点が低い技術になってしまいます。
経済原理で考えれば、原発は先を買いにくい技術になってしまったと言えます。
反とか脱とか言わなくても先細りの縮小傾向にある「縮原発」に向かわざるをえない。
でも、既に稼動している原発は止めれば全て終わりというわけではない。
使用した燃料棒はどうするのか、ゆっくりとした燃焼は続けなければいけません。
もともと不安定な物質だから放射線が出て変化しようとするわけで、
それを止めることは出来ないわけです。今の技術では。
廃炉にするにしろ、脱原発するにしろ、原子核や原子力研究に投資して
放射性物質をより早く安定させる技術とか、放射性遮蔽のより効果的な方法とか
色々研究成果を出していかないと、それこそ放っておくわけには行かないのです。
だとすれば、暴走しないレベルで稼動させ、安全を確保できるような運転システムを開発し
小さく原発を使っていく方法を考えるのもありなのではないでしょうか?
原発を嫌って閉じ込めて見えなくする「嫌原発」ではなく、
嫌でも仲良くしていく、オープンにして見える形で見張っていくことはできないでしょうか。
原発を闇に葬るのではなく、金遣いの荒い、街の嫌われ者に荒ませるのではなく、
問題児だけど、なんか出しているけど、みんなで見守って寿命をつきさせてやろうじゃないの。
そうしないと町の人達が被る被害が何時までも計算できないと思います。
原発から目をそむけるのではなく、見守るしかないのだろうと思います。
そして、
大きな古原発(40年以上)は、先にお休みいただく。
若い元気な原発は、安全対策も新しいし、発電方式も事故が起きにくいものになっているので
ぐれないように見守りつつ役に立っていただく。
そういう付き合い方を考えていくことが肝要で、
全部止めろという急進的な意見も、電力が足りなくなるから動かせというようなこれまでの延長線上の議論も、すでに原発を取り巻く状況に馴染まないと思います。
そしてエネルギーという曖昧な言い方ではなく「電気」をどうするかを考える「電気大綱」に着手すべきなんだろうと思います。
そうすれば、発電、送電、蓄電というレベルでの議論もしやすいのではないでしょうか。
言葉の問題だと言われるかもしれませんが、結構、言葉の問題で行き詰っていたり
言葉の使われ方でいいようにされたりしているのが現状なんじゃないですかね。
そこん所をきちんと見つめることも大事かもしれません。