「第三のチンパンジー」
ジャレド・ダイアモンド著、レベッカ・ステフォフ編著
「若い読者のための 第三のチンパンジー」(秋山勝訳)
について。
第三のチンパンジーとは、もちろんホモ・サピエンスのことである。遺伝的距離がホモ・サピエンスにもっとも近い現生生物は、いわゆるチンパンジー(コモンチンパンジー)、ボノボ(ピグミーチンパンジー)で、その系譜に連なる三番目のチンパンジーというわけである。
他のチンパンジーは人類のもっとも近い親戚であるわけだけれど、だからといって同列に扱えるものというわけではない。他の二種と人類のあいだには、深い溝がある、つまり、人類はそれほどユニークな動物であるという点は、繰り返し強調される。
サルの本はいろいろ読んでいるから、はじめ、本書の記述は特に目新しいとは思わなかった。いろんな本で知った知識を再整理したようなものだというのが最初の感想。
しかし、読み進んでいくと、そうした記述のなかで、これはこれはと思ったことがある。それは農業に対する評価である。
著者は、まず従来の「農業≒文明」史観を簡潔にまとめる。
そして、この後に狩猟採集生活よりも農業文明生活のほうが優れている、とは言い切れないことが説明されるわけだが、それを健康という面から数値的に裏付ける。
このほかにもいろんな数字で、狩猟採取生活の優れた点が紹介されている。
狩猟採集民が健康である一つの理由として、現在に残っている狩猟採集民の記録によれば、食物の種類は80種類に及び、タンパク質とビタミン、ミネラルに富んだ多彩な食べ物を食べていた。対して農民は主にデンプン質で、小麦・米・トウモロコシの3種で、カロリーの半分以上がまかなわれているという。この単一作物依存農業は、栄養失調だけでなく、飢饉の危険も増すことになる。
また、狩猟採集生活では確実性の低い狩りでヘトヘトになると思われているが、同じ記録によれば、狩猟採集民の「労働時間」は、週12~19時間であるという。
そして、伝染病や寄生虫は、農業に移行するまでは確たる勢いをもっていなかったという。こうした病気がはびこるのは、人口が密集し、栄養不良の定住者の住む社会に限られ、住人は互いのあいだで、あるいはみずからの排泄物を介して絶えず病気をうつしあっていた、とする。
こうした指摘について、日本人なら多くの人が賛同できるかもしれない。日本の縄文時代は、狩猟採集生活の時代だけれど、世界で最も古い時期から土器を製造し、日本列島内はもとより、大陸とも交易を盛んにし、大きな集落をつくり、豊かな生活を営んでいた。その遺物がフランスで展示されるや「縄文日本には、一体、何人のピカソがいたのだ!」と驚嘆されたという。
穀物は保存できるといっても、狩猟採集民は、豊かな食糧が得られ、その必要がない環境で暮らしているから、それは大したメリットとはいえないわけだ。
また、農業にはさまざまな弊害があるということも常識だと思う。
ある意味では環境破壊だし、使い方を誤れば労多くして効少なしとなる。メソポタミア文明が興ったのは灌漑農業によるけれど、それが滅んだのもまた灌漑農業が土地を疲弊させたからだとも言う。サハラが砂漠となったのも人間のせいだし、アメリカの表土が流れてしまうのも農業が原因だ。それに土地をめぐっての殺し合いだとか、貧富の差を生んだとかである。
著者のこうした指摘はいちいち納得させられるのだけれど、それでもこれは一面的ではあると思う。
狩猟採集生活が成り立つ地域ばかりではないし、これら農業のデメリットを認めたとしても、農業から得られるメリットには代えられない、やはり人類は農業によって豊かになったと考えざるを得ないと思う。
それは、一人ひとりの人類の豊かさでは負けるかもしれないが、文明を手にしたことで人類全体が(少なくとも数の上では)繁栄していることである。
エデンの園で生きるのは幸福だけれど、そこで生きていける人数は限られている。
もはや楽園に戻れない我々としては、楽園を成り立たせる諸条件を理解し、現代文明を反省することが、今後も人類が存続していくためには不可欠である、本書の意義はそういうところにあるのかな。
本書のタイトル「第三のチンパンジー」で、また違ったことも考えてしまった。
現生人類はたしかに繁栄しているけれど、生物種としての失敗は、第四、第五のチンパンジーを生んでいないことではないか。
もしそういう種がいたら、この種族は第三のチンパンジーが滅んでも、第四、第五のチンパンジーが我々の後を継いでくれるかもしれない。
最後に、タイトルに「若い読者のための」とあることについてだけれど、内容としては年齢を問うようなものではないと思う。著者の思いは、人類という種がたくさんの生物種を絶滅させ、環境を破壊し、そしてそのしっぺ返しを受けることが予見される、そのこれからの時代を生きる「若い読者」へのメッセージという意味のようだ。
そして、日本語版解説を書かれた長谷川眞理子氏も、そのことへのこだわりをお持ちのようである。
「若い読者のための 第三のチンパンジー」(秋山勝訳)
について。
第三のチンパンジーとは、もちろんホモ・サピエンスのことである。遺伝的距離がホモ・サピエンスにもっとも近い現生生物は、いわゆるチンパンジー(コモンチンパンジー)、ボノボ(ピグミーチンパンジー)で、その系譜に連なる三番目のチンパンジーというわけである。
他のチンパンジーは人類のもっとも近い親戚であるわけだけれど、だからといって同列に扱えるものというわけではない。他の二種と人類のあいだには、深い溝がある、つまり、人類はそれほどユニークな動物であるという点は、繰り返し強調される。
サルの本はいろいろ読んでいるから、はじめ、本書の記述は特に目新しいとは思わなかった。いろんな本で知った知識を再整理したようなものだというのが最初の感想。
しかし、読み進んでいくと、そうした記述のなかで、これはこれはと思ったことがある。それは農業に対する評価である。
著者は、まず従来の「農業≒文明」史観を簡潔にまとめる。
はじめに 人間を人間であらしめるもの | |
この本のなりたち/本書の見取り図を描いてみよう/新たな方法で人間自身を見てみよう | |
第1部 ありふれた大型哺乳類 | |
第1章 三種のチンパンジーの物語 | |
三つの疑問/鳥類の世界を手がかりに/霊長類の系統樹/チンパンジーとヒトの違いは | |
DNAでできた時計/人間は類人猿をどのように扱うべきなのか | |
第2章 大躍進 | |
ヒトになる/アフリカで起きたふるいわけ/氷河期を生きたネアンデルタール人/もうひとつの人類集団/現生人類の台頭/ネアンデルタール人になにが起きたのか/一回目の躍進/小さな変化、大きな躍進 | |
人類は有能なハンターだったのか/フローレンス島の小人 | |
第2部 奇妙なライフサイクル | |
第3章 ヒトの性行動 | |
食性と家族生活/ヒトの要求を満たした社会システム/なぜ男性は女性より体が大きいのか/人間の風変わりな性行動/浮気の科学/目的の選択/どうやって配偶者を見つけるのか | |
一夫一妻の鳥は浮気をしないのか | |
第4章 人種の起源 | |
目に見える違い/肌の色は自然淘汰の結果なのか/性淘汰と体に現れた特徴/特徴と好みと配偶者の選択 | |
白か青か、それともピンクか | |
第5章 人はなぜ歳をとって死んでいくのか | |
ゆるやかになっていく加齢/体の修理と部品の交換/寿命をめぐる問題/進化と加齢/閉経後の人生 | |
巡洋艦の教え/加齢を引き起こす原因は存在するのか | |
第3部 特別な人間らしさ | |
第6章 言葉の不思議 | |
タイムマシンがあれば/ベルベットモンキーの声を聞いてみると/〝言葉を話す〟類人猿/ヒトの側から言葉の橋を渡す/新しい言語はどうやて誕生するのか/言葉の青写真 | |
かみついたのはどっち/ハワイの子どもたちが作った言葉 | |
第7章 芸術の起源 | |
芸術とはなにか/類人猿の芸術家たち/美的評価とアズマヤドリ/芸術が担っている目的 | |
最古の芸術 | |
第8章 農業がもたらした光と影 | |
最近になって始まった農業の歩み/農業をめぐる伝統的な考え方/狩猟採集民の日常/農業と健康/階級格差の出現/先史時代の交差点 | |
農業に励むアリ/古代の病気を研究する新しい科学 | |
第9章 なぜタバコを吸い、酒を飲み、 危険な薬物にふけるのか | |
自己損傷行動のパラドックス/長い尾羽に込められた手がかり/動物たちのコミュニケーションをめぐる理論/危険で対価の大きい人間の行動/誤ったメッセージ/動物と人間に課されたコストと利益 | |
マレクラ島の男たちの危険なジャンプ | |
第10章 一人ぼっちの宇宙 | |
宇宙の向こうに誰がいるのか/キツツキと収斂進化/生物学と無線通信の進化/宇宙の静けさは神のおぼしめし | |
宇宙に存在する文明の数え方 | |
第4部 世界の征服者 | |
第11章 最後のファーストコンタクト | |
ファーストコンタクト以前の世界/隔離状態と多様性/失われた言語/人間社会のもうひとつのモデル | |
焼き捨てられた芸術 | |
第12章 思いがけずに征服者になった人たち | |
地理と文明/家畜化された動物の違い/馬がもたらした革命/植物の力/「南北の軸」対「東西の軸」/地理学が基本原則を制する | |
絶滅が歴史の流れを決める | |
第13章 シロかクロか | |
ジェノサイドは人間の発明か/地球の反対側で起こっていた撲滅/集団殺戮/動物界の仲間殺しと戦争/ジェノサイドの歴史/倫理規定とその破綻/未来を見つめて | |
ジェノサイドはなかった/最後のインディアン | |
第5部 ひと晩でふりだしに戻る進歩 | |
第14章 黄金時代の幻想 | |
モアが絶滅したニュージーランド/マダガスカルの消えた巨鳥/イースター島の謎/島と大陸/アナサジの黙示録/幼年期に起きた文明の生態学的破壊/環境保護主義の過去と未来 | |
太平洋の謎の島/溜め山に残されていた答え | |
第15章 新世界の電撃戦と感謝祭 | |
人類史における最大の拡張/新世界ではじめての事件/マンモス絶滅 | |
メドウクロフト遺跡とモンテベルデ遺跡:残された疑問 | |
第16章 第二の雲 | |
環境の大破壊は進んでいるのか/現代に起きた種の絶滅/過去に起きた絶滅/将来に起こる絶滅/なぜ絶滅が問題なのか | |
マレーシアの幻の淡水魚/ジャガーとアリドリ | |
おわりに なにも学ばれることなく、 すべては忘れさられるのか | |
訳者あとがき | |
解説 長谷川眞理子(総合研究大学院大学学長) |
人類の歴史の大半を通じ、人という人は狩猟採集民として、野生の動物を狩り、野生の食べ物を集めて生きていく生活を強いられた。従来からの歴史観では、狩猟採集民の生活スタイルは野蛮で短命とされている。食べ物を育てることはなく、貯蔵する食物はごく限られ、手間のかかる食料探しに奮闘し、飢えから逃れようと必死だった。日々そうした戦いが続くため、気を抜ける日は一日としてない。こうした悲惨な状況から逃れられたのは、最終氷河期の終わりのことである。世界の各地域で自発的に植物を栽培して、動物の家畜化が始まった。農業革命は徐々に広がっていき、今日ではごく少数の狩猟採集民の部族が生き残っているにすぎない。
農業を進歩と考える従来からのこうした見方のもとでは、「狩猟採集民であった私たちの祖先のほとんどが、どうして農業を採用するようになったのか」という問いを誰も口にしない。祖先が農業を始めたのは、言うまでもなく、少ない労働で多くの食べ物を得るには効率的な方法だったからである。木の実を探し、野生の動物を追いかけてくたくたになった未開の狩猟者が、はじめて豊かに実った果樹園や羊が群れる牧場を耳の当たりにした光景をどうか想像してみてほしい。農業がいかにいいものであるか気づくことに、100万分の1秒とかからないはずだ。
典型的な進歩派の見解はさらに続く。芸術が誕生したのも農業が勃興したおかげだ。穀物は保存でき、ジャングルで探し回ることに比べると、庭で食物を育てたほうが時間もかからず、狩猟採集民には決してもてなかった余暇の時間が農業のおかげで授けられた。この余暇の時間を使い、私たちは芸術を生み出したのだ。これこそ農業が人類に与えた最大の贈り物だった。
農業を進歩と考える従来からのこうした見方のもとでは、「狩猟採集民であった私たちの祖先のほとんどが、どうして農業を採用するようになったのか」という問いを誰も口にしない。祖先が農業を始めたのは、言うまでもなく、少ない労働で多くの食べ物を得るには効率的な方法だったからである。木の実を探し、野生の動物を追いかけてくたくたになった未開の狩猟者が、はじめて豊かに実った果樹園や羊が群れる牧場を耳の当たりにした光景をどうか想像してみてほしい。農業がいかにいいものであるか気づくことに、100万分の1秒とかからないはずだ。
典型的な進歩派の見解はさらに続く。芸術が誕生したのも農業が勃興したおかげだ。穀物は保存でき、ジャングルで探し回ることに比べると、庭で食物を育てたほうが時間もかからず、狩猟採集民には決してもてなかった余暇の時間が農業のおかげで授けられた。この余暇の時間を使い、私たちは芸術を生み出したのだ。これこそ農業が人類に与えた最大の贈り物だった。
(第8章 農業がもたらした光と影)
そして、この後に狩猟採集生活よりも農業文明生活のほうが優れている、とは言い切れないことが説明されるわけだが、それを健康という面から数値的に裏付ける。
農業と健康
数千年前の古代ギリシャとトルコの遺骨を調べた研究である。氷河期のこの地方に住んでいた狩猟採集民の平均身長は、男性が178cm、女性が168cmだった。農業が始まるようになると身長は一気に低くなる。紀元前4000年ごろには、男性で平均160cm、女性は155cmになっていたのだ。それから数千年後、身長はゆっくり伸びはじめていったが、現代のギリシャ人とトルコ人は、健康な狩猟採集民の祖先の平均身長にはいまも達していないのである。
ある古病理学者が、アメリカ先住民の狩猟採集民の祖先の骨は「あんまり健康的なので、調べているとなんだか気おくれしてくる」とこぼしていた。しかし、いったんトウモロコシの栽培が始まると、その骨はがぜん興味をかきたてるものになった。平均的な大人の虫歯の本数が、一本から一気に七本近くまで跳ね上がっていたのだ。歯の欠損は日常になっていた。子どもの歯にエナメル質形成不全が見つかったのは、育児に当たっていた母親が深刻な栄養失調に陥っていたことをうかがわせる。結核や貧血、それ以外の病気も劇的に急増していた。トウモロコシの栽培が始まる前までは、人口の5%が50歳以上まで生きていたのだが、栽培が始まるとその比率はわずか1%になり、しかも全人口の1/5は1歳から4歳のあいだに死亡していた。
数千年前の古代ギリシャとトルコの遺骨を調べた研究である。氷河期のこの地方に住んでいた狩猟採集民の平均身長は、男性が178cm、女性が168cmだった。農業が始まるようになると身長は一気に低くなる。紀元前4000年ごろには、男性で平均160cm、女性は155cmになっていたのだ。それから数千年後、身長はゆっくり伸びはじめていったが、現代のギリシャ人とトルコ人は、健康な狩猟採集民の祖先の平均身長にはいまも達していないのである。
ある古病理学者が、アメリカ先住民の狩猟採集民の祖先の骨は「あんまり健康的なので、調べているとなんだか気おくれしてくる」とこぼしていた。しかし、いったんトウモロコシの栽培が始まると、その骨はがぜん興味をかきたてるものになった。平均的な大人の虫歯の本数が、一本から一気に七本近くまで跳ね上がっていたのだ。歯の欠損は日常になっていた。子どもの歯にエナメル質形成不全が見つかったのは、育児に当たっていた母親が深刻な栄養失調に陥っていたことをうかがわせる。結核や貧血、それ以外の病気も劇的に急増していた。トウモロコシの栽培が始まる前までは、人口の5%が50歳以上まで生きていたのだが、栽培が始まるとその比率はわずか1%になり、しかも全人口の1/5は1歳から4歳のあいだに死亡していた。
このほかにもいろんな数字で、狩猟採取生活の優れた点が紹介されている。
狩猟採集民が健康である一つの理由として、現在に残っている狩猟採集民の記録によれば、食物の種類は80種類に及び、タンパク質とビタミン、ミネラルに富んだ多彩な食べ物を食べていた。対して農民は主にデンプン質で、小麦・米・トウモロコシの3種で、カロリーの半分以上がまかなわれているという。この単一作物依存農業は、栄養失調だけでなく、飢饉の危険も増すことになる。
また、狩猟採集生活では確実性の低い狩りでヘトヘトになると思われているが、同じ記録によれば、狩猟採集民の「労働時間」は、週12~19時間であるという。
ただし、文明社会では、家電製品が普及したなど、炊事・洗濯などの時間は著しく短縮されているから、この点については割り引かなければならないと私は思う。
そして、伝染病や寄生虫は、農業に移行するまでは確たる勢いをもっていなかったという。こうした病気がはびこるのは、人口が密集し、栄養不良の定住者の住む社会に限られ、住人は互いのあいだで、あるいはみずからの排泄物を介して絶えず病気をうつしあっていた、とする。
こうした指摘について、日本人なら多くの人が賛同できるかもしれない。日本の縄文時代は、狩猟採集生活の時代だけれど、世界で最も古い時期から土器を製造し、日本列島内はもとより、大陸とも交易を盛んにし、大きな集落をつくり、豊かな生活を営んでいた。その遺物がフランスで展示されるや「縄文日本には、一体、何人のピカソがいたのだ!」と驚嘆されたという。
西欧でも、農業がはじまるまえに、ラスコーやアルタミラの芸術があった。
穀物は保存できるといっても、狩猟採集民は、豊かな食糧が得られ、その必要がない環境で暮らしているから、それは大したメリットとはいえないわけだ。
また、農業にはさまざまな弊害があるということも常識だと思う。
ある意味では環境破壊だし、使い方を誤れば労多くして効少なしとなる。メソポタミア文明が興ったのは灌漑農業によるけれど、それが滅んだのもまた灌漑農業が土地を疲弊させたからだとも言う。サハラが砂漠となったのも人間のせいだし、アメリカの表土が流れてしまうのも農業が原因だ。それに土地をめぐっての殺し合いだとか、貧富の差を生んだとかである。
著者のこうした指摘はいちいち納得させられるのだけれど、それでもこれは一面的ではあると思う。
狩猟採集生活が成り立つ地域ばかりではないし、これら農業のデメリットを認めたとしても、農業から得られるメリットには代えられない、やはり人類は農業によって豊かになったと考えざるを得ないと思う。
それは、一人ひとりの人類の豊かさでは負けるかもしれないが、文明を手にしたことで人類全体が(少なくとも数の上では)繁栄していることである。
ロバート・ラングドン・シリーズの「インフェルノ」では、世界の人口を半分に減らすことが、人類を救う道であると考える人たちが描かれる。(私は映画を見たけれど、原作とはかなり違うらしい)
エデンの園で生きるのは幸福だけれど、そこで生きていける人数は限られている。
アダムとイブも楽園の中では子供をつくっていない。楽園で生きることは幸福というより、幸運というべきかもしれない。
もはや楽園に戻れない我々としては、楽園を成り立たせる諸条件を理解し、現代文明を反省することが、今後も人類が存続していくためには不可欠である、本書の意義はそういうところにあるのかな。
本書のタイトル「第三のチンパンジー」で、また違ったことも考えてしまった。
現生人類はたしかに繁栄しているけれど、生物種としての失敗は、第四、第五のチンパンジーを生んでいないことではないか。
もしそういう種がいたら、この種族は第三のチンパンジーが滅んでも、第四、第五のチンパンジーが我々の後を継いでくれるかもしれない。
いや、そういう種がいたのに、第三のチンパンジーが彼らを絶滅させたのかもしれないが。
最後に、タイトルに「若い読者のための」とあることについてだけれど、内容としては年齢を問うようなものではないと思う。著者の思いは、人類という種がたくさんの生物種を絶滅させ、環境を破壊し、そしてそのしっぺ返しを受けることが予見される、そのこれからの時代を生きる「若い読者」へのメッセージという意味のようだ。
そして、日本語版解説を書かれた長谷川眞理子氏も、そのことへのこだわりをお持ちのようである。
頭の固い年寄は相手にしないというわけではない。