「中世史講義【戦乱篇】」(その2)
高橋典幸・編「中世史講義【戦乱篇】」の2回目。
1回目が鎌倉幕府時代だったので、今日は鎌倉幕府終焉から室町幕府時代。
まず本書では、元寇により幕府が弱体化したという通例の解説に疑問を向ける(第4講 文永・弘安の役)。
元寇を機に、それまで幕府が命令できたのは、幕府御家人に対してであったのが、「国難」ということで、御家人以外にも号令できるようになり、幕府権力はむしろ強化されたということを指摘している。
専門家の意見なのだが、しかし私が思うに、たしかに御家人以外にも号令できるようになったというのは、文書記録としてはそのとおりなのかもしれないが、それは仇花のような気がする。
朝廷との力関係で、そういう位置づけができたとしても、それに実態は伴っていたのだろうか。モンゴルに備えるということで幕府に従ったとして、喜び勇んでというはずもなく、むしろ不平たらたらという感じではなかったか。そしてそれは御家人層にも及んだのではなかったか。
歴史にさほど詳しくない私としては、そのあたりの解説がほしい。
むしろ鎌倉末期には、悪党の跳梁ということが良くいわれているが、これなどは幕府の統制が及んでいない人たちのことだろう。
また、後醍醐が朝廷のトップに立つ事情を詳しく説明している。いわゆる持明院統と大覚寺統の争いである。しかしこれも下々からは上層部の派閥争いみたいに思われていたような気がする。どうやって後醍醐がトップにたったのかは面白いドラマだけれど、実力は凋落の一途である朝廷の権力闘争は、周囲からみれば代理戦争のようなものだったのかもと空想してしまう。
なので本書(おそらく最新研究)を読んでも、新しい話はあるものの(第5講 南北朝の内乱)、幕府終焉の流れの理解が変わるというほどではなかった。
次に注目したのは、明応の政変である(第9講 明応の政変)。
恥ずかしながら、この政変を重大事として意識したことは今までなかった。
この事件は、明応2(1493)年4月に日野富子と細川政元による将軍の擁廃立事件だが、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、将軍家が義稙流と義澄流に分かれる。
義稙が「強すぎる」将軍になろうとし、それを阻止したい細川政元が強引に将軍のすげかえを行うというわけだが、将軍の権力基盤は大名たちの支持であり、それがわかっている富子も同調したというわけだ。
本書によると、二人の将軍が並立する状況は彼らの後継者にも引き継がれ、さまざまな紛争を起こす。この状態こそが戦国という時代を画する事件というわけだ。
そうだったのかという気持ちになったのは、信長と石山本願寺の争い(第12講 石山合戦)。周知のとおり信長は本願寺の大坂からの退去は求めるが、ほかの一向一揆は徹底的に弾圧したのに、滅ぼすところまではしなかった。これは本書でも推測の域を出ていないようだが、天下(畿内)の外の勢力はうち滅ぼすが、畿内は争乱が治まれば良いという判断をしたとも考えられるとのこと。
ただ和睦にあたって、天皇の調停を持ち出したのは、当時毛利方にあった足利義昭という権威を相対化するという意図があったという指摘はなるほどという感じである。
この頃は既に信長の天下だと思い込みがちだが、実際には義昭が毛利方に身を寄せて相変わらず諸大名に命令(効果はともかく)している状態なのである。
天皇の調停で和睦するということは、信長は将軍の下ではなく、天皇の下で将軍と並列の立場だということを示したという見方である。
もう一つあげると、秀吉の朝鮮侵攻も、耄碌した秀吉の思いつき、戯れとかではなくて、秀吉はもちろん、その命令に従う大名たちも大真面目であったという(第14講 文禄・慶長の役)。
ドラマなどでは、狂った秀吉の命を大名たちが迷惑に思っているような描き方が多いように思うが、そんなことでは実際に海を渡って攻め込むなどはできないだろう。
以上、「中世史講義【戦乱篇】」から、私の理解(通例の理解?)とはちょっと違うところをピックアップした。
すんなりとなるほどと思うものもあれば、そうは言うけれどどうかな、というものもある。著者たちが、今までとは違うところを書きたかったのかなというのは穿ちすぎかな。
それにしても、まだまだいろんな史料が出てきて、あるいは読み込まれ、新しい解釈が出てくる、歴史というのはめまぐるしいものだ。
1回目が鎌倉幕府時代だったので、今日は鎌倉幕府終焉から室町幕府時代。
まず本書では、元寇により幕府が弱体化したという通例の解説に疑問を向ける(第4講 文永・弘安の役)。
元寇を機に、それまで幕府が命令できたのは、幕府御家人に対してであったのが、「国難」ということで、御家人以外にも号令できるようになり、幕府権力はむしろ強化されたということを指摘している。
専門家の意見なのだが、しかし私が思うに、たしかに御家人以外にも号令できるようになったというのは、文書記録としてはそのとおりなのかもしれないが、それは仇花のような気がする。
朝廷との力関係で、そういう位置づけができたとしても、それに実態は伴っていたのだろうか。モンゴルに備えるということで幕府に従ったとして、喜び勇んでというはずもなく、むしろ不平たらたらという感じではなかったか。そしてそれは御家人層にも及んだのではなかったか。
歴史にさほど詳しくない私としては、そのあたりの解説がほしい。
むしろ鎌倉末期には、悪党の跳梁ということが良くいわれているが、これなどは幕府の統制が及んでいない人たちのことだろう。
はじめに | 高橋典幸 | |
第1講 保元・平治の乱 佐伯智広 | ||
武者の世の幕開け/保元の乱と皇位継承問題/後白河天皇の即位/摂関家と保元の乱/崇徳院方の動員兵力/後白河天皇方の動員兵力/敗者の処遇/論功行賞/平治の乱までの三年間/平治の乱の勃発/三条殿攻撃後の情勢/大内裏・六波羅での合戦/乱首謀者たちの没落/保元・平治の乱の歴史的影響 | ||
第2講 治承・寿永の乱 | 下村周太郎 | |
戦乱の名称/ 「治承・寿永の乱」の誕生/政治史的研究の展開/平氏一門の分裂/源氏の分立/源平合戦観の同時代性/「大乱」の始まり/源平の並立から対立へ/戦乱の展開/治承~文治の戦争から建久の平和へ | ||
第3講 承久の乱 | 田辺 旬 | |
はじめに/後鳥羽院と源実朝/実朝暗殺の衝撃/後鳥羽院の挙兵/北条政子と義時/北条政子の演説/幕府の戦後処理/おわりに | ||
第4講 文永・弘安の役 | 高橋典幸 | |
戦争と外交/東アジアの外交戦/文永の役と「神風」/異国征伐から石築地へ/弘安の役/朝廷と幕府/モンゴル襲来後の「平和」/【コラム1】 モンゴル襲来を物語るもの | ||
第5講 南北朝の内乱 | 西田友広 | |
分裂・錯綜する社会と二つの政権崩壊/室町政権の成立と南北朝の分裂/直義主導の室町政権/観応の擾乱/正平の一統とその崩壊/南北朝の統一へ | ||
第6講 永享の乱 | 杉山一弥 | |
室町幕府と鎌倉府の関係史/鎌倉公方足利持氏期の鎌倉府/東国の地域紛争と室町幕府・鎌倉府/関東管領上杉憲実の役割と動向/永享の乱の推移/将軍足利義教の東国政策/永享の乱の本質 | ||
第7講 享徳の乱 | 阿部能久 | |
戦国時代への扉を開いた戦乱/江の島合戦/享徳の乱の勃発/足利政知の関東下向と五十子陣の形成/長尾景春の乱/都鄙和睦/太田道灌の謀殺と長享の乱 | ||
第8講 応仁の乱 | 大薮 海 | |
いまだに謎が多い大乱/嘉吉の変/上意の不在と義政の朝令暮改/文正の政変/前哨戦/開戦/東幕府と西幕府/終戦 | ||
第9講 明応の政変 | 山田康弘 | |
はじめに―明応の政変とは何か/応仁・文明の乱以降の政治状況/明応の政変はなぜ起きたのか/政変を支持した日野富子/家督相続における家臣の総意と主人の承認/なぜ主人の意思が重要だったのか/富子が政変を支持した意味は何か/おわりに─政変後も将軍は傀儡にあらず | ||
第10講 西国の戦国争乱 ―十六世紀前半の中国地域を中心に | 菊池浩幸 | |
尼子氏と大内氏/芸備石の国衆と毛利氏/尼子氏の安芸侵攻と大内氏/尼子氏と大内氏の攻防/毛利氏の成長/防芸引分と大内氏の滅亡/毛利氏の山陰征服と尼子氏の滅亡 | ||
第11講 東国の戦国合戦 | 久保健一郎 | |
戦国時代の東国と戦争/伊勢宗瑞と明応から永正の動乱/北条氏の関東進出/謙信・信玄の小田原城攻撃/画期としての越相同盟/二つの統一戦争 | ||
第12講 石山合戦 | 金子 拓 | |
信長と石山合戦/上洛後の義昭と信長―石山合戦以前/本願寺の敵対―石山合戦の幕開け/石山合戦と〝信長包囲網〟の成立・瓦解/信長を悩ませる本願寺と義昭―石山合戦の新段階と終熄/石山合戦後の信長 | ||
第13講 豊臣秀吉の統一戦争 | 平井上総 | |
賤ヶ岳の戦いから小牧・長久手の戦いへ/西日本への停戦令と国分け/九州諸国の反乱/東日本と惣無事/奥羽仕置と反乱/統一戦争の終焉 | ||
第14講 文禄・慶長の役 | 津野倫明 | |
文禄・慶長の役とその呼称/十六世紀の東アジア情勢/変遷した文禄・慶長の役の目的/三国国割計画/講和交渉の諸条件/秀吉の「日本国王」冊封と講和交渉の破綻/文禄・慶長の役の遺産/【コラム2】招かれざる客が残した負の遺産―倭城 | ||
第15講 総論 | 高橋典幸 | |
戦乱の時代/戦乱の実態/権利をめぐる戦い/軍事動員/秀吉の軍隊/戦乱のゆくえ |
なので本書(おそらく最新研究)を読んでも、新しい話はあるものの(第5講 南北朝の内乱)、幕府終焉の流れの理解が変わるというほどではなかった。
次に注目したのは、明応の政変である(第9講 明応の政変)。
恥ずかしながら、この政変を重大事として意識したことは今までなかった。
この事件は、明応2(1493)年4月に日野富子と細川政元による将軍の擁廃立事件だが、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、将軍家が義稙流と義澄流に分かれる。
義稙が「強すぎる」将軍になろうとし、それを阻止したい細川政元が強引に将軍のすげかえを行うというわけだが、将軍の権力基盤は大名たちの支持であり、それがわかっている富子も同調したというわけだ。
本書によると、二人の将軍が並立する状況は彼らの後継者にも引き継がれ、さまざまな紛争を起こす。この状態こそが戦国という時代を画する事件というわけだ。
そうだったのかという気持ちになったのは、信長と石山本願寺の争い(第12講 石山合戦)。周知のとおり信長は本願寺の大坂からの退去は求めるが、ほかの一向一揆は徹底的に弾圧したのに、滅ぼすところまではしなかった。これは本書でも推測の域を出ていないようだが、天下(畿内)の外の勢力はうち滅ぼすが、畿内は争乱が治まれば良いという判断をしたとも考えられるとのこと。
ただ和睦にあたって、天皇の調停を持ち出したのは、当時毛利方にあった足利義昭という権威を相対化するという意図があったという指摘はなるほどという感じである。
この頃は既に信長の天下だと思い込みがちだが、実際には義昭が毛利方に身を寄せて相変わらず諸大名に命令(効果はともかく)している状態なのである。
天皇の調停で和睦するということは、信長は将軍の下ではなく、天皇の下で将軍と並列の立場だということを示したという見方である。
もう一つあげると、秀吉の朝鮮侵攻も、耄碌した秀吉の思いつき、戯れとかではなくて、秀吉はもちろん、その命令に従う大名たちも大真面目であったという(第14講 文禄・慶長の役)。
ドラマなどでは、狂った秀吉の命を大名たちが迷惑に思っているような描き方が多いように思うが、そんなことでは実際に海を渡って攻め込むなどはできないだろう。
以上、「中世史講義【戦乱篇】」から、私の理解(通例の理解?)とはちょっと違うところをピックアップした。
すんなりとなるほどと思うものもあれば、そうは言うけれどどうかな、というものもある。著者たちが、今までとは違うところを書きたかったのかなというのは穿ちすぎかな。
それにしても、まだまだいろんな史料が出てきて、あるいは読み込まれ、新しい解釈が出てくる、歴史というのはめまぐるしいものだ。